詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木悦男「路地と街路に 舞う秋に」ほか

2017-01-31 09:46:24 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木悦男「路地と街路に 舞う秋に」ほか(「銀曜日」、発行日不明)

 鈴木悦男「路地と街路に 舞う秋に」は上海を旅行したときのことを書いてある。魯迅記念館を訪問し、「広場で踊る人達 太極拳 寒暖の人々が池辺の茶店の軒下と通路をへ移る」。

「医師としての私より 文芸家 詩人としての自分が求められている」
と 斬首される同胞をただ眺めている同胞の映像を見て
魯迅は医学校を退学し 帰国する(1909年 夏)

とか

「落ち着けるひととき ぬくもり 安らぎが あればいい」
妻と子が待つ 路地の奥の二階家が
魯迅の(上海 1936年 秋)最後の暮らしの場になった

 という具合に魯迅を思いながら路地を歩く。しかし、そこから始まる描写を読むと、鈴木が歩いているのか魯迅が歩いているのかわからない。

レンガを敷きつめた路 どこにつづいているのか?
「あるいてみればわかる」 聞き慣れた声であるが おそらく
声の主も知らない場所だ 路地の先に路地があり 見知らぬ路地が続く

 「どこにつづいているのか?」と問うたのは鈴木。「あるいてみればわかる」と答えたのは魯迅か。自然に対話ができるほど鈴木は魯迅に親しんでいる。ここまでくると、「どこにつづいているのか?」と問うているのが魯迅で、「あるいてみればわかる」と励ましているのが鈴木のようにも見えてくる。こういうことは「現実」にはありえないのだが、意識のなかではありうる。鈴木は魯迅の生涯を知っている。だから「だいじょうぶだよ」とはげましている。魯迅になって、魯迅の生きた「路地」をあるく。人に寄り添い、人に自分をまかせてみるというのは「だいじょうぶだろうか」「だいじょうぶだよ」と自問自答を繰り返しながら、自分自身を乗り越えていくことだ。

迷路が私の好みなのか (星空に 猫の求愛の声が響く)
雑誌のグラビアから跳ねでた女が 碧色に染まった路地に倒れている
彼女を起こし そのまま私は路地を 一緒に歩きだす
ただそれだけのことだ 路地の角を曲がる

 「一緒に」が「寄り添う」ことである。「ただそれだけのことだ」が重い。
 人間は「ただそれだけのこと」ができない。
 でも、「ただそれだけのこと」とは何だろう。何を思って、いま私は、人間は「ただそれだけのこと」ができない、と書いたのだろう。

上海には坂がない 川はあるが 坂がない都市
どの路地を歩いても坂がない 私は袋小路の路地を抜けるが
視界の限り 山も大地もない 路地が広がる
彼女に指示された から では無いが
ふたたび路地に入るために 私たちは 路地を抜ける

 「路地」とは何か。これは「路地はどこに続いているのか」と「問い」を変えてみると、「答え」が出てくるかもしれない。「人」につながっている。魯迅なら「同胞」につながっているというだろうか。
 「人」との「つながり方」にはいろいろある。

「医師としての私より 文芸家 詩人としての自分が求められている」

 これは「こころを育てることば」を同胞といっしょにつくりだしたいという魯迅の思いを語ったものだろう。「こころの路地」をつくる。その「こころの路地」には「落ち着けるひととき ぬくもり やすらぎ」がある。人が生きている。一緒に生きている。この「一緒に生きている」が「ただそれだけ」かもしれない。
 
 私の印象では、魯迅はとても正直な人間である。魯迅をそんなに多く読んでいるわけではないが、ほんとうに正直な人だと思う。(大岡昇平、鶴見俊輔にも同じ正直を感じる。)一緒に生きている人に「寄り添う」を通り越して、一緒に生きている人に「なって」、「生きる」。自分という「枠」をぱっとたたき壊す瞬間がある。正直がはじけ、人と人をつなぐ。
 「路地」がその瞬間、「大通り」になる。

ふたたび路地に入るために 私たちは 路地を抜ける

 鈴木は「路地」を繰り返しているが、そこに生きる人とつながった瞬間「路地」は消える。この喜びのために、路地に入るのだと思った。
 こういう体験をしたあと、最終連で日本に帰って来てからの描写がある。(2016年 秋 日本?)ということばがあって、その「?」がおもしろい。鈴木がみた「2016年 秋 日本」なら「現実」なので「?」はいらない。もし、この風景を魯迅が見たら、という「仮定」が「?」になっているのだと思う。
 魯迅になって、鈴木は日本を見ている。上海の「路地」を歩くことで、鈴木は魯迅になったのだと思った。
 そこにタイトルに出てくる「舞う秋に」の中心となるエピソードが書かれている。これが、とても美しい。「銀曜日」で直接読んでもらいたいので、ここでは引用しない。
 人と人がつながり、それが「大通り」とも「路地」とも、どちらにも受け取ることができる。



 藤富保男「収容所に入って」は国境を越え、再び自分の国へと国境を越えて帰ってくる「ぼく」のことを描いている。国境の塀を越えた瞬間、

 ちょうどその時、頭の前面と後頭部がいれ変った。
 うしろ頭に、火が走った、と思った。まだ頭があるの
か、と思って両手で頭の鉢を左と右の両手で押さえてみ
た。首が胴からはずれている。両手が自分の首を抱えて
いる。こんなことが人生で一回ぐらいあるのか、と思っ
た瞬間、これが死だ、と直覚した。
 けれど、むこうの国になぜ聖フランシスがいて、こち
らはなぜ銃弾と爆弾、爆発が起っているのかしら、と考
えたとき、ぼくの意識は完全に停止した。
 ぼくはそこでぼくを終了したのだ。

 スローモーションの映画を見るような描写だ。「こんなことが人生で一回ぐらいあるのか」に、なぜか、納得してしまう。

藤富保男詩集全景
藤富 保男
沖積舎
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サラ・ガブロン監督「未来を花束にして」(★★★)

2017-01-30 11:12:42 | 映画
サラ・ガブロン監督「未来を花束にして」(★★★)

監督 サラ・ガブロン 出演 キャリー・マリガン、ヘレナ・ボナム・カーター、ブレンダン・グリーソン 

  100年という単位は不思議だ。 100年前は女性に参政権がなかった。そして、私が生まれる前はまだ江戸時代だった。当然のことが、当然ではない時代があった。時代の変化はとてつもなく速い。
 そうだとすると。
 2017年01月30日読売新聞朝刊(西部版・14版)に「米、難民ら 109人入国拒否/大統領令 世界で空港混乱」という見出しのニュースが載っている。たったひとりの権力者(トランプ)の思いつきが時代を逆行させている。人間の権利を制限し始めている。この動きは、あっと言う間に世界を変えてしまう恐れがある。入国拒否だけではなく、外国の航空会社では「登場拒否」という形でアメリカへの渡航に制限をくわえている。そういう動きが始まっている。どこまで、どんなスピードで拡大するだろうか。
 トランプの「米国第一主義経済政策」で株価が暴騰している。しかし、これがほんとうに「景気拡大」なのかどうかは、あやしい。他人(他国)を犠牲にしての成長というのはありえない。景気も激変するだろう。「難民の入国拒否」と同じように加速度的に世界の隅々にまで広がるだろう。暴力の広がるスピードは果てしない。

 逆のことも言える。 100年の「期間」でみると、社会の変化は速い。しかし、「個人」の時間に限ってみてみると、 100年は長い。 100年とはいわず、「一日」も、とてつもなく長い 100年の激変を「一日」の側に立って見つめなおしてみる必要がある。。
 「未来を花束にして」に描かれる「時間」のは、はっきりとはわからないが1年間くらいのものだろうか。そのなかで、女性が疑問を持ち、自覚し、行動していく。それが少しずつ社会に広がっていく。トランプのように「権力」を持っているわけではないので、だれもそのことばに耳を傾けない。けれど、闘い続ける。彼女たちに「一日」の「長さ」を耐えさせているのは何か。
 キャリー・マリガンが聴聞会で証言をする。傍聴にいったのだが、証言するはずの女性が顔に怪我をしている。たぶん、夫に殴られたのだろう。かわりに証言することになる。書かれた原稿を読む予定だったのだが、議長(委員長?)から質問されて自分の体験を語り始める。このシーンが美しい。
 洗濯工場で生まれ、洗濯工場で育ち、いまも洗濯をしている。アイロンかけをしている。母のことを語り、自分のことも語る。そのなかで、突然「女の一生」に気がつく。洗濯工場で生まれた女は洗濯工場のなかで一生を終わる。洗濯工場で働く女の一生は短い。環境がよくない。男は配達に出て外の空気を吸えるが、女は工場の中にいる。薬品の匂い。蒸気。男と女の置かれている状況の違いにも気づく。
 もちろん、そういうことは「知っていた」のだが、ことばにすることではっきりする。自分の「ことば」の発見。そして、その「ことば」を聞く人がいる。そういうことを知る。ここからキャリー・マリガンが変わり始める。
 この「対話」はすぐには実らない。しかし、「対話」がはじまるところが、とてもおもしろい。さすが、イギリス。シェークスピアの国。どんなことも「ことば」にしないかぎり存在しない。そのひとが「自分のことば」でいわないかぎり、その人の「思っていること」(思想)は存在しない。しかし、ことばにすれば、それはどんな小さなことばでも「思想」そのものになる。そしてそのとき、人は自立した「人間」になる。女でも男でもない。「区別」を越えた「いのち」になる。
 対話は夫との間で、工場長とのあいだで、そしてキャリー・マリガンを取り調べる刑事とのあいだでも繰り広げられが、刑事との対話がハイライトである。刑事は「どうせおまえは組織の末端にすぎない。利用されているだけだ。情報を密告しろ。助けてやる」というようなことをささやく。これに対してキャリー・マリガンは「あなただって組織の末端で働いているだけだ」と手紙に書いて送る。このシーンも、とてもいい。面と向かってことばで主張してもいいのだが、手紙(書く)ことによって、ことばが残る。紙のうえに残るだけではなく、繰り返し読むのでこころに残るのである。それが刑事を少しずつ変えていく。ことばが人を変える。この「じわり」とした変化がいい。
 ひとりひとりは、少しずつ変わる。
 声高には語られていないが、「女性参政権」は女性の問題ではなく、男の問題でもある。それを刑事は体現している。

 「変化」には二種類ある。「変化の速さ」にも二種類ある。
 あらゆる問題には二面性がある。アメリカの経済不振は「自由貿易」だけが原因ではない。「難民」だけが原因ではない。アメリカの「ことば」が問われている。アメリカの政策に対して何が言えるか、私たちの「ことば」が問われている。
                       (KBCシネマ2、2017年01月29日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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西岡寿美子「一つの言葉から」

2017-01-29 19:54:52 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「一つの言葉から」(「二人」317 、2017年02月05日発行)

 「二人」は、粒来哲蔵の作品がない。西岡寿美子の作品だけなのが、少し寂しい。粒来との二人の作品があると、そこにある緊張感が生まれる。その楽しみがないのが残念だが。
 「一つの言葉から」は、こう始まる。

この土地では
命尽きることを「満(み)てる」という
生の極みの意であろう

わたしがこの言葉に接した最初は
病んでおられた師について
仲間のお一人である長老からお知らせ頂いた時だ
--先生がただ今お満てになりました


 「死ぬ」とは言わずに「満てる」。同じ土地(高知)のことば「満つる/満ちる」という言い方があるかどうか知らない。「満つる/満ちる」ということを「満てる」というのか、「死ぬ」という意味のときだけ「満てる」というのか。もし、後者だとしたら「満てる」の「て」には「つ/ち」とは違ったニュアンスがあるのかもしれない。二連目の「お満てになりました」には、なんとなく違ったニュアンスを感じる。「お」がついているせいかもしれないが、一種の「敬意」というものが「満てる」という言い回しにはあるかもしれない。「命の極み」と西岡は書いているが、「極」に到達した人への「敬意」があるかもしれない。
 「この言葉に接した」の「接した」にも、何か「日常」とは少し違った感じがする。そのあとの「病んでおられた」「お一人」「お知らせ頂いた」という表現は、「満てる」ということばが引き寄せた「敬意」も含まれていると思う。単に「師」への「敬意」というものではないような感じがする。
 三連目。

若かったわたしは
泣きに泣いて場の貰い泣きを誘ったものだが
それでも初めて現れとしてわたしに来たこの事態から
類い稀に広々と豊かに実り
まさに満ちた師の全体像は過たず受容した気がする

 三行目「それでも初めて……」からの「文体」に、私は思わず背筋をのばす。
 書いてあることは「なんとなく」わかる。しかし、私は、こういう「文体」になれていない。私はこういうふうには語らない。私のまわりにはこういう言い方をする人がいない。そのことが、私の背筋をのばさせる。身を整えて聞かないと「わからない」ことが書かれている。身を整えないと、私の「肉体」のなかには入ってこない「文体」である。
 「初めて現れとしてわたしに来たこの事態」が強烈である。「死」というものに出会ったのが、まさか「初めて」ということではないだろう。それまでにも、直接ではないにしろ、誰かが「死ぬ」ということは間接的に知っているだろう。死は特別なものだが、日常的にありふれてもいる。それなのに、西岡は「初めての現れ」と書いている。そして「わたしに来た」とも書いている。死ではなく「満てる」という「動詞」そのものが「現れ」、そして「来た」。「死んだ」とは言わずに「満てる」が「現れ」「わたしに来た」と書く、その「文体」のなかで動いているものが、複雑で、複雑であることによって強くなっている。その強いものと向き合うために、西岡自身の「文体」が変わってきているということだろう。
 「満てる」を「類い稀に広々と豊かに実り」と「実る」という「動詞」で言いなおすことで「全体像」をつかみ見直し、つかみ直すことで「過たずに受容した」と言うことができる。ここにも「厳しい文体」がある。西岡は、自己に厳しい人間なのだと思う。
 自己に厳しいからこそ、別なときに別な感想が動く。

いまひとつ
四十年来の友がふと洩らした
--わたしこの頃熟れ満ちた気がするの

失礼ながら粗忽人で軽躁と見えた
その人にしては過ぎた言葉に
密かに顔を窺わずにはいられなかったものの
期するところのある人の決然とした口ぶりは
わたしの疑義を制する威があった

 「熟れ満ちる」。自分自身に言うときは「満ちる」ということばをつかっている。ここからも「満てる」というときは「敬意」がよりあらわれている、ということができるかもしれない。「……られる」というニュアンスがあるのかもしれないと私は想像するが。
 自分について語るときも、つまり「満ちる」というときも、そのことばはもっと厳密につかうべきである、と西岡は考えている。「粗忽人」「軽躁な人」はつかってはいけないのではないか、と思っている。「満てる」を特別視していることがわかる。そのために「過ぎた言葉」が口をついて出たのだろう。
 ただし、「決然とした口ぶり」に「敬意」を払って、西岡は、そのことばをつかったことを批判はしていない。
 このあと、詩は、こう展開する。

あの時
ふふ と含み笑いした友よ
嬉しげにも
幾分哀しげにも見えたその笑みは
彼女の中に満ちてきた
有無を言わせぬものの力でもあったのか

 ここでも「満てる」ではなく「満ちる」ということば。「彼女の中に満ててきた」とは言わずに「満ちてきた」というのは、彼女に対する「敬意」というものが師に対するものとは幾分違うということをあらわしている。西岡が「彼女」自身になって、そのことばを「追認」しているのかもしれない。そして、「満ちる」を今度は「有無を言わせぬものの力」と言っている。「類い稀に広々と豊かに実り」のかわりに「力」という抽象のまま語って、つかみ直している。
 ここで一瞬身を整え直して、次の連に向かう。

日ならず友は急逝し
喘ぎ喘ぎ歩いてきたわたしの長旅も
間もなく果てが見えて来ように
経てきたいずれの道程もことごとく瑕疵と恥まみれだ

時はやがてわたしをも満てさせてくれようが
未だに何の啓示も受けぬこの不覚者のことなら
人並みに満ちることは難しかろう
まして従容と出で立つことなど望外の夢であろう

 この自省のなかに「満てさせてくれる」「満ちる」の二つのつかいわけがある。「満てさせてくれる」というときは「時」そのものへの「敬意」があらわれている。「満てる」と「満つる/満ちる」はやはり違うのだ。
 そう思うと「満てる」のことばの美しさがよりいっそうわかる。西岡がはじめてそのことばに接したときの、西岡の感動もわかってくる。二連目、三連目の「文体」の「厳密」な美しさが、いっそう強く響いてくる。

熟す心地は
急か
徐々にか
自ずから湧いて満ちるのか
何者かの啓示を得てか
思えば友にあの時押しても聞くべきであった

詩集 紫蘇のうた (1987年) (二人発行所) [古書]
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覚和歌子『はじまりはひとつのことば』

2017-01-28 10:50:16 | 詩集
覚和歌子『はじまりはひとつのことば』(港の人、2016年07月22日発行)

 覚和歌子『はじまりはひとつのことば』のことばから音楽が聞こえる。
 タイトルになっている作品の一連目。

それは「ぼく」だったかもしれない
それは「そら」だったかもしれない
「あした」だったかもしれない
ひかりがはじけ あたりにとびちって

 繰り返しがある。一行目と二行目。「それは……だったかもしれない」。繰り返しはひとつの音楽。耳になじみ、肉体のなかにひろがる。そのひろがりのなかで「ぼく」と「そら」が交代する。その変化も音楽。いや、この変化の方が音楽の「主体」になっているかな。
 三行目は「それは」がなくなる。もうリズムができているから、繰り返さなくても読む人は自然に「それは」を補う。そういうことのほかに、もうひとつ。「ぼく」「そら」と二音節ことばが「あした」と三音節になる。音が増えた。増えた分を「それは」を省略することで軽くしている。「それは」があってもなくても「意味」はかわらないが、音が肉体に入ってくるときの感じ、肉体のなかでひろがるときの感じが違う。
 この音のマイナスとプラスは、つきつめると「0」にならない。同じではない。変化といってもいいし、乱れといってもいい。この乱調を利用して、覚はことばを飛躍させる。四行目は「それは……だったかもしれない」とは違ったことばになっている。とても自然だ。そこに音楽がある。
 二連目は、一連目の変奏。「イメージ」というか、まだ「意味」になっていないものを整えるように「意味」が動いていく。

ひとつのことばのたねのなかには
きがもりがまちがひそんでいた
ひとつのことばのたねのなかで
ものがたりがはじまりをまっていた

 これは「ひとつのことば=ぼく」のなかに「そら」がひそんでいた。「あした」がひそんでいた、ということ。「ぼく」ということばから、「そら」と「あした」があふれだし「ものがたり」になっていこうとしている、という「意味」である。
 三連目は「ものがたり」がさらにひろがる。

どろだらけのしゃつ
ぬりえのかいじゅう
おとうさんのおさけくさいくしゃみ
おかあさんのおろおろ
あさやけゆうやけをくりかえし
やがてぼくはおおきなふねをつくるだろう
さがしあてたいせきのかべをよじのぼるだろう

 最初の二行は「ぼく」の現実。ここでは「動詞」が省略されている。三行目、四行目も体言止めでイメージが飛躍していく。「おさけくさい」とか「おろおろ」とか、こどもが「肉体」で反応してしまうものが、最初の二行のはつらつとした「ぼく(こども)」とは対照的だが、それが「陰影」になって「やがて……」の二行を支える。大きな「ものがたり」をつくりはじめる。
 このあたり、谷川俊太郎がまねしそう。(覚が谷川の影響を受けているというよりも、谷川がここから影響を受けて次の詩を書きそう。そういうことを感じさせる。)
 ここは「起承転結」の「転」だね。イメージを拡大して、次の四連目「結」でもう一度「意味」を語る。そのときの「意味」は一連目、二連目で語った「意味」を突き破っている。突き破ることで「結晶」になっている。

どんなげんじつもつくりおこせる
いつもはじまりはひとつのことばだから
しずかなゆきのはらをひびきわたる
おおかみのとおぼえのような

 一、二行目で「意味」を強烈に語り、そのあと三、四行目で「意味」を壊して、解放する。「雪の原」「狼の遠吠え」。美しい。「おおかみ」のなかに「ぼく」がいて、「ゆきのはら」に「そら」がいる。それをつなぐ「とおぼえ/ひびきわたる」。「とおぼえ」は「名詞」だが「とおぼえをする」と「動詞」にしてとらえると「ぼく」の「あした」が強烈になる。「ぼく」が「ものがたり」をつくっていくことが実感できる。
 この「ぼく」から「おおかみ」の変身。それが「からだをもらう」という詩のなかで、突然よみがえってくる。「からだをもらう」という詩を読んだとき、私は「はじまりはひとつのうた」を思い出した。

ひとつ前がだれだったのか、もう忘れた
からだを持っていたとき
わからないことだらけだったそのことが
苦もなく全部わかってしまい
それをまた全部忘れて
もういちど からだをもらう
何度目かの 創作
は 反復ではないはずだ

 「輪廻転生」を書いていると考えてもいいかなあ。「ぼく」は「おおかみ」になった。それは「おおかみ」から言わせれば、「ひとつ前」は「ぼく」だった、ということだろう。その「ぼく」のからだが持っていたものは、全部忘れた。いまは「おおかみ」のからだを生きている。その変化(変身/転生)の瞬間に、あらゆることを「わかった」。それが「輪廻転生」の「思想」の核なのかもしれない。
 でも、こういうことを考えるのは、ちょっとうるさくて、めんどうくさい。
 私が「はっ」としたのは、

もういちど からだをもらう
何度目かの 創作
は 反復ではないはずだ

 この三行。「反復」とは、先に私が「繰り返し」ということばで言い表したもの。それを覚は「反復ではない」と言っている。
 「創作」だと言っている。
 繰り返すのは、何かを生み出すため。あるいは何かに生まれ変わるため。「何か」とあいまいに言ってしまうのは、それは「音楽」のように「抽象」と「具象」がからみあったものだから。音楽は「楽譜」のなかにもあるだろうけれど、それは具体的に「音」として表現されてひろがっていく。
 「楽譜」と「演奏された音」をむすびつけるのが「音楽」、ひとつになったのが「音楽」だね。

 「かりんとかたつむり」はタイトルそのもののなかに「か」の繰り返しの音楽があって誘い込まれる。この繰り返し(反復)も、実は「創作」。覚によってつくりだされたもの、生み出されたものということになるだろう。
 その一連目。

愛のことは知らない
なのに
かりんの実が路地に匂って立ちどまるとき
歩道橋から潮を待つとき
お客を送り出して窓ぎわに座るとき
そこにいないあなたで
私はいっぱいになった

 繰り返される「……のとき」。「放心するとき/放心したとき」といいなおすことができるかもしれない。その「放心」というからっぽが「あなた」でいっぱいになる。
 それが、「愛」。
 「愛」というのは、それが何であるか、どういうものであるか問題にし、語ろうとすると「何も知らない」ものに思えてくる。語ると、さらに「わからなくなる」。でも、その「わからない/知らない」と言っているひと(覚)を見ると、あ、このひとは愛を知っている、わかっている、と感じる。
 愛を「生きている」と感動する。
 この詩は、そういう感動を与えてくれる。
はじまりはひとつのことば
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港の人
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内田麟太郎「ターザン」

2017-01-27 11:14:56 | 詩(雑誌・同人誌)
内田麟太郎「ターザン」(「zero」6、2016年12月28日発行)

 内田麟太郎「ターザン」は、感想をまとめるのがむずかしい。こういうときは「まとめる」のではなく、散らかして書く。

綾子さんは遊廓生まれで
母さんが五人も変わったから
よく鬱病になりもう三年も同窓会には出て来ない

 ここから「古里」の話が始まる。

遊廓のすぐ裏は大牟田川で
いつも赤い脱脂綿が無造作に投げ込まれていたが
満潮がぷかぷかと川面に浮かべ
浮かべて運び
運んで沈めて
有明海の海にまぜてくれていた

その有明海のムツゴロウが
一斉に宙にはねたのは
(たぶん)
海の下で炭塵爆発があったからだ
四五八名が死に
八三九名がアホ・バカ・インポにされ
お雇いの九大教授は
「脳溢血だ」といいはったけど
男たちの脳は左右同時に壊れていた

 「遊廓」がある炭鉱の街。炭鉱労働者が「遊廓」を必要とした。その炭鉱で事故があった。三池炭鉱の事故を指しているのだと思う。「四五八名」「八三九名」の具体的な数字が強烈である。忘れることができない。その直後に「アホ・バカ・インポ」という「口語」が出てくる。誰でも一度聞いたら覚えてしまうことば。それと同じ強さで「四五八名」「八三九名」は内田の「肉体」に刻み込まれている。私は「四五八名」「八三九名」の数を間違えるが、内田は「アホ・バカ・インポ」と同じ感じで、いつでも「肉体」のなかから、その数字が出てくる。
 それは大牟田川に浮いていた「赤い脱脂綿」と同じように、いつもくっきりと見える。「ぷかぷか」「浮かべて運び/浮かべて沈めて」。しかし、沈んでも「見える」。言い換えると、ことばにならずにはいられない。ことばにせずにはいられない。
 「怒り」だから、「沈んで」消えるということはない。「アホ・バカ・インポにされ」の「され」に「怒り」がこもっている。自分でなったのではない。「された」。それは忘れることができない。
 最終連は、こうである。

あれから半世紀
アホ・バカ・インポにされた男たちは
右脳も左脳も一切平等ナミアミダブツ
満ち潮引き潮の大牟田川を
ぷかぷか
ぷかぷか
行ったり来たり
ときどきにも
女の名前を思い出せないで
「アー アー アー」
ワイズミューラーだったよね

 「怒り」は忘れないけれど、同時に「生きている」ことも忘れない。生きるとは「平等」ということ。死の前で人間は平等。
 「右脳も左脳も一切平等ナミアミダブツ」は「脳溢血といいはった」お雇いの九大教授を笑い飛ばす。つまらない「欲」にしばられて生きている「知性」をたたき壊す。。
 「アホ・バカ・インポ」と言い合う人間は、互いを罵り合いながらも、互いを尊敬している。それが「平等」ということばになっている。「ナミアミダブツ」ということばでつながっている。「ナムアミダブツ」の「意味」はわからなくていい。そう唱えれば、みんな平等、みんな死ねる。極楽へゆける。「欲」という「区別」を取っ払って生きる。
 「ナムアミダブツ」だから死んでいるのに、なぜか、「生きている」という強い感じがある。「アホ・バカ・インポ」も、いわば死(知性の死、性器の死)なのに、なぜか「生きている」ものを感じさせる。死を超えて生きている「強さ」を感じさせる。生と死の区別を取っ払い、なお生きようとする力といえばいいのか。
 この不思議な力は、組織化されていない。組織化できない。「ぷかぷか/ぷかぷか/行ったり来たり」。怒ったり、悲しんだり、まだ生きているぞと、「底力」となって動いている。
 「アホ・バカ・インポ」になっても、男は女の名前を呼んだりする。ことばにならない。声にならない。

「アー アー アー」
ワイズミューラーだったよね

 思い出せない女の名前を呼ぶときに、「アホ・バカ・インポ」の男は、自分もターザンだったと思い出している。ターザンだったことを肉体が覚えている。
 「肉体」が覚えている「底力」の美しさを感じる。

さかさまライオン (絵本・ちいさななかまたち)
内田 麟太郎
童心社
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マーチン・ピータ・サンフリト監督「ヒトラーの忘れもの」(★★★★★)

2017-01-26 09:38:05 | 映画
監督 マーチン・ピータ・サンフリト 出演 ローラン・モラー、ミケル・ボー・フォルスガード、ルイス・ホフマン

 デンマークの海岸で、ドイツの少年兵(捕虜?)がナチスの埋めた地雷を撤去する。それだけの話なのだが、それだけだからこそぐいぐい飲み込まれていく。余分なものが何もない。
 地雷を掘りあて、信管を抜き取る練習から始まる。実際に海岸へゆく。腹這いになって、鉄の棒を砂のなかに突き刺す。金属に触れたら、それが地雷。手で砂をかき分ける。本体が姿をあらわす。信管につながるキャップ(?)を回す。つながっている信管を外す。本体を掘り出し、集める。繰り返し繰り返し、その作業をみつめる。「作業」というよりも手の動きだな。見続けていると、少年たちの手が少年の手に見えなくなる。自分の手だと感じ始める。視線も、なんといえばいいのか、スクリーンのなかに自分の視線があって、その目が手の動きをみつめている。砂をみつめている、という気持ちになる。
 感情がわかる、というのではない。「肉体」そのものになってしまう感じ。
 ストーリーは、あるといえば、ある。うまく処理できずに、少年の両腕が飛ぶ。2個重なっていることを知らずに、上の1個を取り除いた瞬間に、下の地雷が爆発する。安全なはずの(信管を取り除いたはずの)地雷に信管が残っていて、大爆発が起きる。そういう「お決まり」の事故。
 さらに知らずに地雷のある砂浜に入り込んだ少女を救い出す、というエピソード。
 少年たちに次第にこころを許していく軍曹。少年たちとのサッカーの交流。そういうエピソードもある。
 でも、やっぱり地雷を処理する少年たちの手、目だなあ。何度も見ているのに、「何度も」にならない。毎回、それっきりの一回一回。初めてとか最後とか、そういう感じではなく、それしかないという一回。
 ほかにも感想を書こうと思えば書くことはたくさんある。でも、書きたくない。少年たちの思いとか、軍曹の思いとか。それは、書きたくない。
 海があって、砂浜があって、枯れた草が繁っている。自然のままの海岸。太陽の光があって、風が吹いて、「人間の気持ち」などを気にしない絶対的な自然がある。そのなかに地雷がある。見えない地雷。間違って触れると死んでしまう危険が、ぴったりと密着している。それをひとつひとつ探し当て、ひとつひとつ処理する。
 まとめて、ということができない。
 これだね、テーマは。
 「生きる」ということは「まとめて」ということができないのだ。「ひとつひとつ」自分の肉体をかかわらせていくことでしか、何もできないのだ。「ひとつひとつ」を「ひとりひとり」と言い換えると、ここから、世界がかわる。
 少年たちは「ひとりひとり」。だれもかわることができない。一つの地雷に、ひとりの少年。ひとりの少年の「いきる」は、そのひとりの少年の「肉体」すべてにかかっている。
 だから、とここで私の感想は飛躍する。
 新しい海岸へつれていかれる4人の少年。生き残った少年。彼らを呼び戻し、国境の近くまでトラックで運び「500メートル先が国境だ、走れ」というデンマークの軍曹。彼も「ひとり」なのである。たったひとり。少年たちの脱走を手助けするとどうなるか。わかっているけれど、「ひとり」として、そうするのである。
 「ひとり」というとき、彼はデンマーク人ではない。軍曹でもない。なんでもない、ほんとうの「ひとり」。にんげん。丸裸の人間。いのち。地雷の埋まっている海岸が、ただ海岸というのときの感じに似ている。絶対的な「ひとり」。完結している。かわりはない。だれもかわることができない。
 映画は、この「ひとり」の発見というか、「ひとり」を最後にくっきりと浮かび上がらせる。この「ひとり」に非常に勇気づけられる。
                      (KBCシネマ1、2017年01月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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西村勝『シチリアの少女』

2017-01-26 09:32:34 | 詩集
西村勝『シチリアの少女』(ふらんす堂、2016年12月12日発行)

 西村勝『シチリアの少女』は世界一周クルーズの旅日記詩集。神戸を4月13日に出て、横浜へ7月25日に帰って来ている。うーん、豪華だ。
 「日の出」はスエズ運河を通過するときの詩。

おお シナイ半島の日の出だ
稜線は真っ赤になり
やがて大きな火の玉が
ゆっくり顔を現わし
甲板は息をのんで静まる
泣き出す者もいる
手を合わせる者もいる
僕はどんなことばも出て来ずに
ほんとうに困ってしまった

 詩集の中では、ここがいちばん印象に残った。「どんなことばも出て来ずに」がいい。他の部分では、ことばが出すぎている。
 詩は、「ことばを出す」ということとは相いれないのだろう。自分が持っていることば、自分のなかにあることばを「出す」かぎりは、それは詩ではない。
 詩は、ことばを「生む」、ことばを新しく「つくる」こと。
 「ほんとうに困ってしまった」と西村は素直に書いているが、「困る」瞬間が詩。作者が「困る」とき、読者は一緒に「困る」。それが楽しい。

 表題作の「シチリアの少女」はシチリアであったアコーディオンを弾いている少女のことを書いている。

彼女は学校帰りにひとりであの路地で
アコーディオンを弾いていることだろう
シラクーサに行くことがあったら
オルティジア島の旧市街を歩いてみたまえ
アポロ寺院からマティオッテ通りへ入り ちょっと脇道へ入るんだ
脇道の名前だって?
しょうがないなあ 特別に教えてあげよう
CAVOUR通りという路地だ
じっと耳をすませていれば
どこからかすてきなアコーディオンが聞こえてくるだろう

 ことばの動きが「きざっぽい」。きざでもいいのだが、そのきざが「流通言語」になっている。西村が「生んだ」ことばではないし、「つくった」ことばでもない。西村のなかに無意識に溜まっていたことばが「出て来ている」。
シチリアの少女
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ふらんす堂
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阿蘇豊『とほくとほい知らない場所で』

2017-01-25 11:07:53 | 詩集
阿蘇豊『とほくとほい知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016年11月15日発行)

 阿蘇豊『とほくとほい知らない場所で』の、巻頭の「ラッキーガーデンの肉まん、うまい」の「1」の部分。

僕の指はきっと
なでたり つまんだり はじいたり
ときには つきさしたり
日によってちがっているだろうね

まるで きみにむかう
ことばみたいに

 一行目の「きっと」が生きている。
 「黙読」の場合、ことばはなんとなく「周囲」にあることばも読んでしまう。「きっと」の近くに「なでたり つまんだり はじいたり」「つきさしたり」という「動詞+たり」ということばがぼんやりと動いているのが感じられる。
 でも、「きっと」はそれをさっと束ね、それとは違うものになるんだろうなということを確信させる。「きっと」は「……だろう」ということばを予測させ、初めと終わりの「枠」になるので、あいだに様々な動詞が散らばっていても、なんとなく安心する。安心して、いくつもの動詞を行き来できる。
 「違う」ということばを起点に、一行空いて、主語が「指」から「ことば」に転換する。このとき「指」が「ことば」の比喩なのか、「ことば」が「指」の比喩なのか、よくわからなくなる。
 どちらでもいいんだろうなあ。
 たぶん、こういう「どちらでもいい」という「枠」のないことろが詩なのかもしれない。
 片一方に「きっと……だろう」という「枠」がある。けれど、書かれていることは「意味」を限定しない。「意味の枠」を無効にする。
 これがおもしろいのだけれど、それにつづく断章は「意味」が強すぎて、あまりおもしろくない。

 「枠」を無効にするというか、「枠」を超える感じを期待しながら読んでいくと「きょう」という詩に出会う。

起き抜けに
窓を開けたら空気がつながった

 これは、いいなあ。「つながる」という動詞が強い。
 窓を開けたら「室内の空気」と「室外の空気」がつながった、という「意味」なのかもしれない。「室内の空気」「室外の空気」は「つながった」と言わなくても、どこかでつながっているものだろう。しかし、それが「つながった」と言うと、まるで「つながり」そのものが「生まれてくる」みたいでおもしろい。
 「意味」を超える、「意味」を破壊するというのは、「意味」を発見すること。「ことば」を発見すること。「発見」されるものは、最初から存在している。ひとが見落としていたもの。見落としていたものを「見える」ようにすることを「発見」というのだが、この詩の「つながった」は、それに似ている。
 「室内という枠」「室外という枠」がぱっと破壊され、「枠」を遠くへ、広いところまで拡大する。
 こんな具合に。

きのうときょうと
くらやみとあかつきと
生まれたもの死んでゆくもの
木のにおいと肉のにおい

 「生まれたもの」「死んでゆくもの」の対比が強烈だが、矛盾するものが「枠」のなかで「つながる」になる。「意味」が否定され、「ある」ということの強さが、「ある」というまま「生まれてくる」。「ひとつ」になる。
 この「ひとつ」はとても複雑だ。「ひとつ」を「ことば」が「つつく」と、そこから「くらやみ」も「あかつき」も生まれる。「生まれたもの」も「死んでゆくもの」も生まれる。矛盾したものを生み出す「場」が「ひとつ」。そこでは全てが「つながっている」。
 これを起きて、窓を開けた瞬間につかみ取る。
 これは、すごい。

立ち上がり
台所に行ったら
きのうの夜
洗濯機の振動でだろうか
転がしておいたドリアンがバリッ
はぜていた

それを今日の空気のふちどりに仕立て
手は冷蔵庫を開けた

 抽象的になり書けたことばを「台所」「洗濯機」「ドリアン」で引き戻し、「はぜていたドリアン」を「発見」する。
 ものを「発見」すると、「精神」も動く。「精神」というとおおげさかもしれないけれど、ドリアンがはぜた原因を「洗濯機の振動でだろうか」と推測したりする。見えないものを、思考で浮かび上がらせたりする。
 こういう「精神」の動きがあるので、最終連の「空気のふちどり」がくっきりつたわってくる。「仕立てる」という動詞もいいなあ。
 「仕立てる」はなにかをつないで「ひとつ」にするということかもしれないなあ。
とほく とほい 知らない場所で
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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「論点整理」という罠

2017-01-24 12:48:28 | 自民党憲法改正草案を読む
「論点整理」という罠
               自民党憲法改正草案を読む/番外70(情報の読み方)

 2017年01月23日読売新聞(西部版・14版)1面に「天皇の生前退位」を巡る「論点整理」に関する記事がある。

退位「一代限り」の方向/有識者会議 論点整理、首相に提出

 有識者会議でいろいろな「論点」が議論された。その結果、「一代限り」という方向性を打ち出した、ということなのだが。
 「論点整理の全文」というのが11面に載っている。一番スペースをとって紹介されているのが「退位」を「将来のすべての天皇を対象とすべきか、今上天皇に限ったものにすべき課について」という項目である。
 (イ)将来の全ての天皇を対象とする場合(ロ)今上天皇に限ったものとする場合の二つに分けて、「意見」と「課題」が書かれている。(ロ)の方が「意見」も「課題」も書かれている項目が少ない。特に課題が三項目と限定されている。ここから

退位「一代限り」の方向

 ということが打ち出されている。
 「課題」が少ないから、こっちがいい。
 これって、何か変じゃないだろうか。「消去法」で決めるようなことがらだろうか。「課題」は多くても、課題をひとつひとつ克服し、こうしなければならないということもある。大事な問題なら大事であるほど、「消去法」ではなく完全に納得できるものを選ぶべきである。
 「消去法」では「理念」が見えない。天皇制はどうあるべきなのか、ということがほんとうに議論されたのか、そのことがまず「疑問」として浮かび上がる。
 天皇は8月8日のメッセージを「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」というタイトルで語った。それはタイトルが示すように、「象徴としての務め」についての「実践」と「理想」、つまり「思想」を語ったものである。「生前退位」について積極的に語ったものではない。
 天皇が「思想(理想)」を語っているのに、それを無視してというか、「理念」を明示せずに議論をはじめてもしようがないだろう。

 それに。(ここからがポイント)
 有識者会議のメンバーは6人。6人の「意見」が違っていたとしても、「意見」の数は6を超えない、と私は単純に考える。ところが、(イ)将来の全ての天皇を対象とする場合に対する「意見」は10項目ある。「課題」は23項目もある。1人で複数の「意見/課題」を語った人がいるということである。一人の人間のなかで「意見/課題」が「整理されていない」。もちろん、そういうことはあるだろうが、問題は、それではどの「意見」とどの「意見」が完全にリンクしているか(一人の人の意見なのか)、それに対するどの「課題」がだれによって提起されたのかが、まったくわからない。
 「意見A」に対して、「意見B」の人が「課題A」と問題提起したのか。その「課題A」は「意見B」とはほんとうに無関係なものなのか。「意見B」の場合は「課題A」は完全に解消されるのか。そういう「有機的なつながり」(全体の思想)が、まったく見えない。
 どんな「意見」でも、それを言うとき、その人間の「全体」があるはず。その「全体」が見えないから「個別の意見/課題」も「人間」の形として見えてこない。
 これは、とても不気味である。
 「論理」を「論理」として議論するのだから、誰が言ったかは問題ではないということかもしれないが、あるひとがひとりで「意見A」と「意見B」を言っていると仮定してみる。そしてAとBは矛盾する意見だと仮定してみる。そのとき、ひとはAの意見は矛盾していると批判するはずである。「矛盾している」というのは「無効である」という意味でもある。
 議論をわざと複雑怪奇にするために、そういう「操作」が行われているかもしれない。議論をある方向に向けるために、わざと思ってもいないことを口にする、ということがあるかもしれない。
 誰が、どの意見、どの課題を発言したのか、その意見、課題が、どんなふうにつながり、かんれんしているのか、それを明確にしないことには、議論が純粋な議論なのか、作為に基づく操作なのか、わからない。
 「意見」「課題」の書き方についても言える。
 安倍は「一代限りの特例法」をめざしているが、そのときの課題として「有識者会議」、こう整理している。(番号は私がつけたもの。)

(1)長寿社会を迎えた我が国において、高齢の天皇の課題は今後も生じる。このような課題は皇室典範制定時には想定されていなかったものであるから、時代の変化にあわせ、皇位継承事由を「崩御」のみに限定するという原則を見直し、退位制度も原則の一つとして位置づける必要があるのではないか。その方が安定的な皇位継承に資するのではないか。
(2)今上陛下に限ったものとする場合、後代に通じる退位の基準や要件を明示しないこととなるので、後代様々な理由で容易に退位することが可能になるのではないか。その場合、時の政権による恣意的な運用も可能になるのではないか。


 (1)はすでに報道されている「皇室典範」に補則を付け加えるという方法である。皇室典範に補則を加えるというのは、皇室典範の改正とどう違うのか。 
 (2)は政権の都合で「天皇を退位させる」ということが起きるのではないか、という不安を間接的に書いたものである。私なら、政権が政権の都合で天皇を退位させるという「余地」を残しておくために、恒久的な法律にしないのではないか。皇室典範そのものを改正すれば、政権はその法律に従わなくてはならない。だから「一代限り」の特例法にしようとしている。次の天皇には、次の天皇の「一代限り」の特例法で対応するという「余地」を残すための方便にすぎないように見える、と言うだろう。
 で、この二つの「課題」だが、どれを先に表記するかという問題も起きる。「論理」が違ってくる。
 (2)を先に書くと、(1)は(1)のままでは書けなくなる。(2)の課題が先にあると、(1)では政権に恣意的な運用をさせないためにはどうするべきか、ということを言わないといけなくなる。それをかいているとごちゃごちゃと長くなる。政権を弁護しているようにも受け取られてしまう。それではまずい、ということだろう。
 今回の「論点整理」はとても巧妙である。
 (1)に対して(2)の反論(?)をさせ、それを(3)止揚する。弁証法というのかどうかわからないが、こうである。

(3)退位の具体的な要件を定めなくても、皇室会議の議決を要件とするなど退位手続きを整備することにより、恣意的な退位を避けることができるのではないか。

 「恣意的な退位」の「恣意的」の「主語」は誰なのか。天皇なのか。政権なのか。どちらともとれる。(2)が「政権による恣意的な運用」を問題にしていたので、「政権による恣意的な退位」ととらえておこう。(2)の不安は、「皇室会議の議決を要件とするなど退位手続きを整備することにより」防げる。だから(1)でいいのではないか、と「要点整理」は「結論」を出しているのである。
 この部分は、「課題」の並列ではない。だれかが、意図的に整理している。
 「整理」をしたひとが誰なのか。それは「意見」「課題」のそれぞれを誰が発言したのかわかれば、おのずと見えてくるだろう。そして、その人物が特定できれば、もっと違うもの、今回の議論の背景にあるものも見えてくるかもしれない。なぜ「有識者会議」のメンバーが6人なのか、なぜ「有識者会議」に民進党や共産党、その他の党の「推薦者」が含まれないのか、というような問題点の背後にあるものも見えてくるはずである。

 ほかにもいろいろ書きたいことだらけなのだが、私は目が悪くて長くパソコンに向かっていられない。最後に少しだけ付け加えておく。
 「退位について」という項目の「積極的に進めるべきとの意見」の最初に紹介されていることば。

今上陛下については、御意思に反していないことが推察されるので、退位に伴う弊害を心配する必要はないのではないか。

 誰の意見かわからないが、その人は「推察」ということばをつかっている。「生前退位」が「御意思に反していない」かどうか、天皇に確認したわけではない。籾井NHKが「天皇、生前退位の意向」とスクープしてから、誰ものが天皇は「生前退位の意向」を持っていると思っているが、思っているだけで、確認した人はいないだろう。籾井NHKの「ことば」にリードされているだけである。
 繰り返しになるが、8月8日の天皇のことばは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」であって、「退位についてのおことば」ではない。「退位」ということばはメッセージのなかには出てこない。

 3面に

「退位」「退位後の活動」 課題

 という見出しがあり、記事に次の部分がある。

 平成の即位では、昭和天皇の「大喪儀」が1年続き、国の儀式「即位の礼」や皇室の儀式「大嘗祭」は崩御の翌年、喪が明けてから行われた。退位ならば服喪もなく日程も変わる。

 これに関することは8月8日のメッセージにも関連することばがあったが。
 この記事、さっと読める? 書かれていることに納得できる?
 私は「退位ならば服喪もなく日程も変わる。」にぎょっとしてしまう。天皇が死んだ場合と、天皇ではなくなった人間が死んだ場合では「服喪」が違ってくるというのは「法律」(あるいは、制度)としてはそうなのだろうが、「人間」の気持ちとしてはどうだろうか。
 私は親孝行とはいえる人間ではないが、非常に違和感をおぼえる。
 いまの皇太子が天皇になり、天皇ではなくなった今の天皇が死ぬ。そのとき「天皇」は死んだのは天皇ではないのだから「服喪」は簡単でいい、と思うのだろうか。「日程」(行事?)は簡便にしないといけないのかもしれないが、気持ちは「制度」のようにはわりきれないだろう。気持ちはひとそれぞれで、父親のことをすぐに忘れる人もいれば、何年も悲しみに沈む人もいる。身分が「天皇」であるか、ないか、だれが「天皇」なのかということとは別に、父の気持ち、子の気持ちというものがある。それは「日程」ではないだろう。「日程」が「気持ち」を決めるのではなく、「気持ち」が「日程」を決める。これは「皇族」だろうが、「庶民」だろうが、同じだと思う。

退位ならば服喪もなく日程も変わる。

 というのは、おそろしく機械的な考え方であり、そこに安倍の姿勢の反映を感じる。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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高埜圭『ここはいつも冬』

2017-01-24 09:58:10 | 詩集
高埜圭『ここはいつも冬』( 100人の詩人・ 100冊の詩集)(土曜美術社出版販売、2016年11月26日発行)

 高埜圭『ここはいつも冬』は、目の悪い私にはとても読みづらい。灰色の紙に朱色(金赤かな? 灰色のせいで朱色に近く見えるのかな?)で印刷されている。「挫折模様」の最終行「視線の先にはキリストが微笑んでいる」まで読んで、あとは読むのをあきらめた。巻頭の「青幻」には刺戟を受けたので、もっと読みたいと思ったのだが目がついていかない。
 その「青幻」。

定義されることばは非情にすぎない
という反問の中で我々の関係は風化する

 「定義されることばは非情にすぎない」が「反問」であるかどうか、わからない。何に対する「反問」なのか、わからない。ある断定(定義)と、「反問」。「問い」という「反論」があるのだろうが、先行する「こと」がわからない。わからないまま「我々の関係は風化する」と断定される。「関係」が「事実」として突然あらわれる。しかもその「関係」は「風化する」という形で否定されていく。「風化する」という動詞が、そこで起きている「こと(事実)」になる。
 「存在」が否定されるとき、残されるのは、ことばのリズム。強い。リズムが「論理」であると主張しているように感じられる。
 言い直しなのか、補足(付け加え)なのか、これもわからないまま、ことばはリズムを守ってつづいていく。

機能の逆転かもしれない
我々の関係に浸透するしか
視つめることのできない偏光に在る
ひとつから派生した幻想に語られる可能性は
無為の証明と訣別の破裂音でしかない

 「漢字熟語」は「意味」を強引に呼び込む。「表意文字」が重なり「意味」が増幅する。ただし、わかるのは「意味」が過剰に増えているということだけであり、「意味」そのものは、私にはわからない。
 「意味」の増え方のリズムが「一定」している。「安定」している、と感じる。このリズムに酔ってしまう。
 リズムが高じて、「視つめる(視力/視覚)」でとらえられていたものが、「破裂音」と聴覚へ直結する。この飛躍に詩の強さがある。ここが、自然体の中でいちばん美しい。
 私は「音読」はしないから、漢字熟語「視覚」のリズムに酔うと言い換えることができる。それが「視覚」のリズムだからこそ、私は、この本を読みづらいとも感じる。
 このリズムがこのままつづくとおもしろい。「視覚」から「聴覚」へ飛躍した「肉体」が、さらに暴走し、輝くとすばらしいと思う。

 けれど、違ってきてしまう。

カオスから取り出す点(ピリオド)はカオスに還るだろうか

 一行の中で「カオス」ということばが繰り返される。それまでの、先行することばを内側から突き破っていくリズムが崩れ、循環してしまう。カタカナの登場も漢語のリズムを「視覚」で破壊する。つまずかせる。
 繰り返しそのものについてならば、これまでにもあった。「関係」ということば、「我々の関係」はすでに繰り返されている。しかし、これは「テーマ」なので繰り返されるのはしかたがない面がある。
 このリズムの破綻は、その後、突然「意味」に変わってしまう。音楽を拒み、「意味」の重力へと傾いていく。

いつまでも平面であり
いつまでも線(ウェーブ)であり
立体構成のない我々の関係の風化は冷却する

 「点→線→平面→立体」というのが算数(数学)の「経済学」だが、それは「ウェーブ」というルビが持ち込む「意味」と一緒にずらされる。「ずれ」というのか「差異」というのか、私は知らないけれど、そういうものをとおして「関係の風化」が語られなおす。そして、「予定調和」のように、ことばが変転し、運動がおさまっていく。
 「意味の重力」はとても強い。

訣別がもたらした風化は冷却により除去(のぞ)かれ
我々の関係の成立条件は
影と砂の国の彼方
息吹くほほえみのうちに
極めて遠く
窮めて近い
白星雲を超えて在る

 これは「カオス」の繰り返しと、その直後の2行「いつまでも平面であり/いつまでも線(ウェーブ)であり」(……である)が引き起こしたものである。
 ことばの表記の変化と一緒に「動詞」の「形」が違ってきてしまった。「動詞」が「動き」から「状態」へと固定化され始めたのである。平面に「なる」、線に「なる」という「動き」を含んだものではなくなった。
 弛緩したリズムを書朝敵に具体化するのが「除去(する)」を「のぞく」と読ませるところにあらわれている。
 終わりの方の「極めて」「窮めて」の書き分け、「差異(ずれ)」をさらに細分化するものであり、「白星雲」というような「宇宙」が出てきても、コップの中の水のみだれのようにしか感じられない。
 書き出しの七行の、動詞が動詞がぶつかり合い、先行する動詞を次の動詞が突き破っていく烈しさが、そのままつづけば楽しいと思う。灰色と金赤の色の衝突も一瞬の内に過ぎ去る感じになるかもしれない。固定化が始まり動きがゆるくなると、目の悪い私には「金赤」と「灰色」の衝突しか見えなくなる。どうにもつらいものがある。
ここはいつも冬
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草野早苗『夜の聖堂』

2017-01-23 09:10:15 | 詩集
草野早苗『夜の聖堂』(思潮社、2016年05月31日発行)

 草野早苗『夜の聖堂』には日本の風景と外国の風景が入り交じっている。翻訳調のリズムを感じる。漢字(熟語)のつかい方が翻訳っぽい。
 で、「翻訳」そのもの、ある言語を日本語に変えることではじまる世界というか、「現実」よりも「ことば」から「遠くにある現実」へ向かって動く作品の方が、私には読みやすく感じられる。
 「羊と私と驢馬と」という作品。

人の書いた文章から
スペインの詩人J・R・ヒメネスは驢馬を飼っていて
いつも語りかけていたことを知った
驢馬のプラテーロは詩人にとって親友で
死後は丘にある松の木の根元に埋めた
『プラテーロとわたし』という本も書いたそうだ

 ここには「伝聞」のことばだけがある。「伝聞のことば」を「事実」として受け入れて、草野は「現実」を想像する。「現実」には「もの」以外に、「感想」も入り込む。「感想」が「現実」になっていくといえばいいか。
 これが「幸福」な感じでひろがる。

ああ、この詩人の幸は計り知れない
共通言語を持たない驢馬を友に選んだからには
心で言葉を交わしたにちがいない

 ここに「心」が出てくるところがおもしろい。草野は「心」で「感想」を書いていることになる。「心の言葉」で書いている。
 私は犬を飼っているが、犬と人間は「共通言語」を持たないが「心の言葉」で会話していると感じたことは一度もない。私は「日本語」を話し、犬は犬で「犬のことば」を話す。そういう交流をしている。「心の言葉」と思ったことがない。
 フランスのアンティーブへ行ったとき、犬を散歩させているひとに出会った。犬を2匹つれている。1匹がうんちをする。すると他の1匹に向かって「アトンデ・ドゥ・ミニツ」と言う。犬が止まる。あ、フランスでは犬さえフランス語がわかるんだ。急にフランス語を勉強してみようと思った。犬にわかるなら、人間の私はフランス語を話せるようになるだろう。
 というのは、余談、雑談、脇道のようなものかもしれないが。
 私は、そういうつもりで書いているわけではない。本気である。
 草野は「心の言葉」という表現をつかう。私はつかわない。多くの人がつかうかどうか、わからないが、私はつかわないので、あ、「心の言葉」に草野がいる、と感じた。それで草野は「心で書く」「心の言葉で書く」と言うのである。「心の言葉で書く」から、それ以後のことは「心の世界」である。

それは私の最初で最後の願い
左に羊 右に驢馬
柔らかな体の匂い
どこを見ているのか分からない羊
壁に沿って坂道を下りてくる驢馬

 さて。
 ここで「問題」が起きる。
 「心の言葉」で書いた「心の世界」。そのとき、「心の世界」は草野のものなのか。J・R・ヒメネスのものなのか。草野が書いているから草野のもの、ということになるが、「心の言葉」そのものがJ・R・ヒメネスに触れることによって動き始めたもの、最初の「心の言葉」はJ・R・ヒメネスのものであっただけに、区別がつきかねる。
 「私」というのは草野? J・R・ヒメネス?
 J・R・ヒメネスのように、草野が驢馬を飼うとしたら、ということなのかもしれないが、断定しかねる。草野がJ・R・ヒメネスになって、想像しているという具合にも読める。

私が羊と驢馬より先に死んだら
庭の隅に灰を撒いてほしい 少しだけ
青い草々が庭から野へとひろがり
シロツメクサがひろがり
家の窓に若葉の掛かる木の下で
嬉しそうに立っている驢馬が見える
どこを見ているのか分からない羊
斜めに注ぐ金色の日射し
羊と私と驢馬の永遠

 草野がどこに、どんな家に住んでいるのか、私は知らない。けれど、ここに書かれている「光景」は現実の日本というよりもスペインの田舎(J・R・ヒメネスの故郷?)の「光景」のように感じられる。草野の「心の言葉」はスペインを描いてしまう。そのとき、「心の言葉」は「J・R・ヒメネスの心の言葉」のように感じられる。草野とJ・R・ヒメネスが「ひとつ(一体)」になっている。
 「翻訳」というのは、ある言語から別の言語へ置き換えることではなく、「ひとつ」の世界を両側から支えるようなものなのかもしれない。

夜の聖堂
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思潮社
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マーティン・スコセッシ監督「沈黙 サイレンス」(★★★)

2017-01-22 20:33:57 | 映画
監督 マーティン・スコセッシ 出演 アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形

 感想を書くのが難しいなあ。
 一番の難点は風景が日本に見えないこと。私は五島とか平戸とか雲仙の風景に詳しいわけではないが、緑の感じ、湿気の感じが日本とは違う。台湾で撮影したと聞くが、スコセッシには日本も台湾も同じアジアモンスーンという感じなのだろう。頻繁に繰り返される湿気のなかから人間のシルエットが浮かび上がるシーンは、どう見ても「ジャングル」。これでは日本が舞台とは言えないだろうなあ。ローランド・ジョフィ監督、ロバート・デニーロ主演の「ミッション」を思い出してしまって、どうも落ち着かない。
 神はなぜ沈黙するかというテーマと風景は関係がないように見えるが、どうだろうか。日本の、人間に危害を与えない(人間に立ち向かってこない)自然ゆえに、人間が人間に対して過酷になる、そこから神はなぜ沈黙するのかというテーマが浮かび上がるように思えてならない。
 自然が「過酷」でなじめないうえに、長崎の町(セット)や、寺院さえも、日本には見えない。そのせいか、一生懸命に熱演する日本人のキャストも、なんといえばいいのか、日本人に見えない。まあ、スコセッシの見た「日本」と「日本人」、あるいはポルトガルの神父からみた「日本」と「日本人」と思えばいいのかもしれないけれど。
 しかしなあ。日本人とポルトガルの神父の話なのに、日本語と英語が飛び交うのにはしらけてしまう。アメリカ映画なのだから仕方ないのかもしれないが、せめて導入部分くらいはポルトガル語でやってもらわないと……。

 ということに、くわえて。
 私は「宗教」というものが、わからない。「神」というものがわからないし、「こころ」というものも、存在しているとは思わないので、だれに「感情移入」していいのかわからない。
 遠藤周作の「沈黙」を読んだときも、私は「神はなぜ沈黙するのか」ということを「宗教」ではなく「哲学」の問題として読んでしまったのかもしれない。
 「真理」はなぜ無効か。つまり他人を説得するときの力になり得ないか。「論理」はなぜ有効範囲に限界があるのか。この問題は、私にとってはソクラテスの問題。なぜ、論理的に正しいはずのソクラテスが死刑になったのか。人間が「死ぬ/殺される」というのはいちばんの不幸。つまり、あってはならないこと。それを防ぐことができないとしたら、「ソクラテスの弁明(論理)」はどこに「間違い」がある。ほんとうに正しいなら死刑にはならないはず。
 で、私は、ここから「論理は絶対的に間違える」ととらえなおしている。「論理的な結論」は否定されるためにある。
 宗教を信じる人間ではないのだが、私は同じように「宗教は否定される」ためにあると考える。神の存在を私は信じないが、神が存在するとしたら、それは姿をあらわすから存在するのではなく、姿をあらわさないから存在すると思う。沈黙するからこそ神なのであって、困ったときに人間を助けに来てくれるようでは神ではない。
 
 で、飛躍してしまうのだが、この考えから映画にもどっていうと。
 何度も何度も信仰を捨てるキチジロウ。彼こそが、いちばん神に近い存在、神に直接接している人間のように思える。いつも間違い続ける。間違い続けて、そのたびに神に許しを求める。それは間違えるたびに、神が現れる、ということかもしれない。
 ラスト近く、キチジロウが江戸にいる神父を訪ね、告解したいと言う。神父は、この男はいったい何なのだと思いながら、告解したいという人間に告解させる、許しを与えるのが神だと悟り(?)、告解を受け入れる。アンドリュー・ガーフィールドと窪塚洋介が、自分の弱さを意識しながら、相手を求めあうように(互いに支えあうように)、額をつきあわせるシーン。このシーンは美しいなあ、と思う。アンドリュー・ガーフィールドはすでに神父ではないのだが、求められて神父になる。窪塚洋介は信者の資格はないのだが、神父の前で信者にもどり、その瞬間に、二人の間にというか、二人の姿として神が現れる。この神は、二人には見えない。しかし、映画を見ている観客には見える。
 神というのは、そういうものだと思う。ソクラテスの対話篇のなかに、あるテーマをめぐって語り合ったあと、みんながそのテーマについては「何もわからない」(何も知らない)という結論に達するが、それを傍からみている人(プラトンの本を読んでいる人)には、登場人物はみんなテーマについて「わかっている(知っている)」と感じるのと同じである。
 アンドリュー・ガーフィールドと窪塚洋介に対して、神は依然として「沈黙」している。どこにいるのか、わからない。けれど二人の姿を見ている人には、二人の結びつきのなかに神が生きていると感じられる。
 こういうシーンがあるからこそ思うのだが、アンドリュー・ガーフィールドが「踏み絵」を迫られるシーン。一瞬、スクリーンから音が消える。「沈黙」が生まれる。そのあと、アンドリュー・ガーフィールドと神との「対話」がある。そこが非常につまらない。遠藤周作の原作がどうだったか、私は忘れてしまったが、あのシーンは神が沈黙し続けなければならない。スクリーンから「音」は消えたままでなければならないと思う。アンドリュー・ガーフィールドの苦悩、叫びさえも、神の沈黙にのみこまれ、世界全体が「沈黙」してしまう。そうであったなら、この映画はもっと強くなったと思う。
 アンドリュー・ガーフィールドは結局、「ころぶ」のだが、それはアンドリュー・ガーフィールドが信仰を捨てたからなのか、神が許したからなのか、「結論(判断)」は見ている人にまかせてしまう、という方が映画として強くなる。「わからない」から、そこに「真実」があるということになる。「真実」というのは、永遠に「わからない」ものなのだと思う。「わかる」のは「論理」であり、「論理」はかならず間違える。
 だから、この感想も間違っているのだけどね。

 宗教的な人間ではないので(神というものを信じていないので)、「神」を「真理」と置き換えながら、こんなふうに考えたのだった。
                   (天神東宝スクリーン3、2017年01月22日)

 *

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沈黙
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今野珠世『潮騒』

2017-01-22 10:18:49 | 詩集
今野珠世『潮騒』(芳文社、2016年11月20日発行)

 今野珠世『潮騒』には、ことばが軋む感じがある。まだ存在しないものを、ことばでつかみ取ろうとする欲望のようなものがある。

一番美しい場所は歯軋りしあう
細胞の集結地ではないだろうかと
思うけれど
(なぜならそれこそが生を削る
人間の本質を体現している)                     (「指」)

 「歯軋り」が「集結地」と言いなおされる。「軋る」が「集結する」と言いなおされる。「集結する」は集まるだけではなく、ぶつかり合うになる。だから「削る」とも言いなおされる。
 「美しい」は「醜い/汚い」と言い換えることもできる。見方によっては「醜い」という人もいるはずである。
 けれど今野は美しい」と呼ぶ。「人間の本質」だからである。
 まず「肯定」がある。「肯定」の欲望があり、それがことばを動かし、何かを存在させようとする。生み出そうとする。

なにか凭れるものをそばにくれませんか
そこが終着点などとは申しません
まして
やさしさだとも申しません
ただ わたしは
寄りかかれる硬質の鋭さがほしいのです
そこに骨ばった左肩を擦りつけたい
何度も 何度も
どんな色であろうとかまわない                  (「不感症」)

 「柔らかいもの」ではなく「硬質の鋭さ」に「凭れかかりたい」。こういうとき、今野は自分のなかにある「硬質の鋭さ」を肯定している。「骨ばった左肩」のようなものを肯定し、それを育てようとしている。
 それが「やさしさ」に通じるとは「申しません」。この「申しません」は、相手に対して「へりくだって」、ことばを整えているだけであって、自分自身に対してはそうではないだろう。自分に対しては厳しい姿勢がうかがえる。これは、他者から「やさしい」という評価を期待しないという「宣言」でもあるかもしれない。
 こういうことばの直後に「色」が出てくるのが、非常に興味深い。

どんな色であろうとかまわない

 「凭れるもの」「硬質の鋭さ」。ここで動いているのは「触覚」である。そこに突然「触覚/色」が闖入してくる。
 これは「歯軋り」を「醜い」ではなく「美しい」と呼ぶ感覚と通じているかもしれない。
 私はこれまでに今野の詩を読んだことがあるか。今野の詩について感想を書いたことがあるか。思い出せない。たぶん、いまはじめて今野の詩を読んでいるのだと思う。そのせいもあって、今野のことばがどう動いているか、手さぐりで書いているのだが、手さぐりするときの「わからなさ」(たとえば突然「色」が出てくる不思議さ)に、「あ、ここに今野がいる」と感じ、どきりとする。

ゆっくりと
夜が紐とかれてゆきます
それはわたしの神経をもひもとき
だんだんと
鋭い光だけをとらえてゆきます
輪郭はあります
形状記憶のような輪郭が
あります                           (「不感症」)

 「凭れる」(触覚)という「肉体の外形(塊)」からはじまり、「左肩/骨」と「肉体の内部」へ侵入し、解剖するようにして「神経」にまで迫る。解剖とは言わずに「ひもとく」と今野は言うのだけれど。
 ここまでは、「流通言語」として追いかけることができる。人間を解剖すると、骨があらわれ、神経もあらわれる。神経が先で、骨があとかもしれないが、目につくのは骨が先で神経があとだろうなあ。
 この「神経」を「鋭い光」と言いなおすのも、「流通言語」の範囲内でつかみとれる。「神経」は「脳の信号」。「信号」は「光」。「神経のなかを光が走っている」というのは「解剖学」の一種の常識(流通意識)と言えると思う。
 しかし。

記憶形状

 うーん。
 ここで、私はうなる。
 記憶形状は「記憶形状ワイシャツ」のように、「復元する力」をあらわすときにつかう。
 そういうものを、今野は「神経」の「内部=鋭い光」に見ている。
 そして、「肯定」している。
 いや、もしかすると「否定」しているのかもしれないが、私は「肯定」と感じる。
 「指」の「美しい」も、もしかしたら「否定」かもしれないが、私は「肯定」と受け止めた。同じように「記憶形状」を「もとにもどる、復元する」という「肯定」と受け止め、その「肯定」があらわれてくる「場」、「肯定」を生み出している「場」が、それまでの「肉体の場」とは違うところに、衝撃を受けたのである。
 「色」が唐突に出てきたように、「記憶形状」が唐突に出てきている。
 「唐突」だけれど、それが「わかる」。
 「わかる」というのは正確ではないと思うが。
 「わかる」、言い換えると、そのことばから私は何かを「思い出す」ことができる。「色」。おぼえている。「記憶形状」。おぼえている。知っている。それが、私の「肉体」を揺さぶる。
 今野が「色」と呼んだもの、「記憶形状」と呼んだものと、私が「色」「記憶形状」として「おぼえている」ものは違うかもしれない。けれど、その「違い」を無視して、私は「わかった」と感じる。つまり「誤読する」。
 この瞬間、私は、興奮する。あ、いいなあ。声が漏れる。
 これを私は「ことばの肉体のセックス」と呼ぶ。「セックス」ということばをつかうため、清純・貞淑な女性からうさんくさい目で見られ、嫌われるのだが、補足というか、自己弁護をしておこう。
 「記憶形状」ということば、そのつかい方がいい、これがいい、これがおもしろい、と興奮するとき、今野のことばに興奮しているのだけれど、興奮の瞬間、私はそれが「今野のことば」であることを忘れている。「私のことば」と勘違いしている。セックスのときの忘我(エクスタシー)というのは、それに似ていないか。相手の肉体に興奮しているとき、それが相手の肉体か、自分の肉体か、よくわからない。「接点」のなかでとけあってしまう。「ことば」は、そういうエクスタシーへの「入り口/接点」として存在するときがある。
 私は、そういうことばに夢中になる。

 わからないことばもたくさんあるのだけれど、あ、ここをもっと読みたいと夢中になることばが随所にある。おもしろい詩人だと思う。
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冬の帰り路

2017-01-21 10:06:38 | 
冬の帰り路

街灯の白い光へ冷たい空気が降ってきて、ガラスのように散らばる。路地。靴音が歩道から跳ね上がり、ウインドーにぶつかるのを耳の奥に聞いたのは、その路地に入る前のことだったが。

街灯の下を通りすぎると、影が方向を変える。男は影が長くなる方へと足を運ぶのだが、頭の中で「この影はさっきまで自分の後ろにあった」とことばにしてみると、私を追い越したいものが背後にいるのだとわかった。
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長嶋南子「四丁目のかどで」

2017-01-21 09:43:12 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「四丁目のかどで」(「きょうは詩人」35、2017年01月12日発行)

 きょうも、長嶋南子。「四丁目のかどで」の全行。

人ごみを歩いている
ねえさんビール飲もうよ
弟がそばに寄ってくる
ビールは嫌いコーヒーにしよう
と答える
弟はふくれっ面をする
ふくれたほほを
人差し指でつついてやる
はじけてしぼんで
おじいさんの顔になった弟
年をとると甘いものだね
ねえさんぜんざい食べよう
ぜんざいは嫌い 汁粉は粒あんがいのち
と答えておく
弟はまたふくれっ面をする
顔がふくらんで若者になった
しわだらけのわたしと歩くのはいやなのか
人ごみのなかに消えていく
ちょっと待ってよそばにいて
わたしは大声で叫ぶ
弟なんていないんだってば

 「弟なんていないんだってば」というのはほんとうのことなのかどうか、知らない。知らないし、わからなくてもいい。街で近寄ってきた男が、弟か、年下の男か、それもどっちでもいい。それがたとえ「他人」であっても、ふくれっ面の頬をつついて、はじけて、しぼんで、おじいさんの顔になった、という「時間」の急展開がとてもいい。
 長嶋が何歳か知らないが、まあ、長い時間を生きているのだと思う。その「長い時間」のなかで、かけ離れた二つの瞬間がぱっとくっつく。
 あ、昔、こんなことがあったなあ。瞬間的に思い出す。
 詩は手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い。つまり、異質なものが瞬間的に出会うこと。この「定義」を長嶋は「手術台(場)」ではなく「時間」のなかでやっている。そして「もの」のかわりに「肉体の記憶」をつかっている。これが、とっても、いい。
 親しい人のふくれっ面(肉親かもしれないし、好きな人かもしれない)はかわいいし、それをつっつくのは楽しい。「肉体」と「肉体」の触れ合いは、ことばを超えてしまう。ことばにならない。「おぼえている」何かが、「肉体」の奥からよみがえる。
 あ、このひとにも、若くてほっぺたがふくらんでいた時代があったんだねえ。それはもちろん自分にとってもそうなのだけれど。

年をとると甘いものだね

 この一行。これは、だれの「せりふ」だろう。
 姉(長嶋)が、変わり果てた弟の姿を見て、そう思ったのか。ビールがだめならぜんざいと要求を下げる。そうすれば聞いてもらえると思っている。「年をとると甘いものだね」は「もうろくしたねえ、だらしないねえ」という蔑み。たぶんね。
 でも、弟がそう言ったとも言える。
 「年をとるとビールなんかよりも、甘いものの方がいいよなあ。ねえさん、ぜんざい食べよう」
 そうすると、これは「ねえさん、食わせてよ」という「甘え」かもしれない。「ビール飲もうよ」も「甘え」だったんだね。「ねえさん、飲ませてよ」。だから、冗談じゃない、「コーヒーを割り勘で」。「ちぇっ、しけてやんの」。こんなことは書いていないのだけれど、書いていないからこそ、想像してしまう。「肉体」が思い出してしまう。
 で、そういう「現実」と「思い出」には、「弟」だけではなく、他の男も入ってくるだろうなあ。女から見れば、男なんてみんな同じ。年下の甘えん坊、ということなのだろう。年下の甘えん坊の男というのは、自分のことしか考えない。「ちぇっ、しけてやんの」は捨てぜりふ。単に「せりふ」を捨てるのではない。いっしょに女を置き去りにして、ぱっと消えてしまう。甘えさせてくれる女の方へ行ってしまうものなのだ。
 顔がふくらんで(つやつやの頬になった)弟は「しわだらけのわたしと歩くのはいやなのか」。もちろん、そうなんだけれど。(あ、申し訳ない。)こんなふうに、突き放して自分のことを書けるのが長嶋のいいところだね。「笑い」を引き受ける。人間に余裕があるね。

ちょっと待ってよそばにいて

 このことばのスピードもいいなあ。「待って」と「そばにいて」がくっついている。「待って」が先に書かれているが、その「待って」を「そばにいて」が追い越していく。「そばにいて」という「声」を方こそ聞いてほしい。
 それなのに。ちぇっ。年下の男は駄目だなあ。こらえしょうがない。女はいつでも、ほっぺたつっついたり、「嫌い」を連発して、存分にじゃれ合うのを楽しみたいのに。
 あ、これも、もちろん書いていない。私が「誤読」したこと。いや、「妄想」したこと。
 私は、だれかを「理解したい」と思ったことは一度もない。「妄想する」のが好き。「理解する」は「正しさ」が求められる。窮屈。「妄想する」はどんなに違っていても「妄想ですから」と言えばすむ。
 「妄想ですむか」と怒る人もいるかもしれないけれど、あれっ、何を怒っているのかな? 怒った顔っていきいきしていて好きだなあ、と私は笑う。
 長嶋の詩に出てくる「弟」のように、私は根っからの「末っ子」なのかもしれない。

猫笑う
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