詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

50年後の発見(3)

2018-11-22 19:39:52 | 50年後の発見
 岩倉雅美の作品。(追加)(実物を見ていないのだが、何枚か写真を送ってもらったので、その感想を書いておく)



 この作品は、完全な「抽象」ではない。鋭角的な幹から一枚の葉が出ている。若い葉と見るか、老いた最後の一枚の葉と見るか。まっすぐ天を指す幹の勢いを信じ、若い葉と見るのが一般的かもしれない。岩倉の狙いかもしれない。
 しかし、私は、最後の一枚と見たい。ただし、幹にしがみついている一枚ではなく、老いた幹を突き破って出てきた最後の一枚、と。
 この作品のタイトルは「記念樹」なのだが、私はこの木が木である理由は、この一枚の葉にあると思うからである。
 それは「いのち」の象徴である。

 抽象的な作品は、あるとき抽象でおわらず、「象徴」になるときがある。「象徴」とは「意味」のことでもある。「意味」が生まれる。一枚の葉が生まれるように、「意味」も生まれ、育っていく。

 

 「変香合」というタイトルがついている。香を楽しむための器なのか。私は「香合」というものの実際を知らないので、よくわからない。
 一枚の葉には、穴があいている。そして蝶も止まっている。とても小さな蝶だ。
 「香合」の前に、木と葉と蝶が出会っている。そこに、やはり「象徴/意味」を感じ取らせようというのだろう。
 四人の中では「意味指向」が強い作家と言える。
 こういう感じは、たとえば大丸などから見ると、かなり「うるさい」感じがするかもしれない。
 「意味」よりも前に、もっと「木」そのものに語らせるということを、大丸の作品は狙っていると思う。
 大丸の作品について書いたとき書き漏らしたが、大丸の作品は、どれをみても「木」そのものを感じさせる。木が生きている。「意味」を壊して、木が自己主張している。芸術とは、たぶん、意味を超えて行く自己主張なのだと思う。



 「河童の酒盛り」というタイトルの根付。根付だから、たぶん、とても小さい。
 写真でしか見ていないのだが、写真で見た作品の中では、これがいちばん温かい味がある。河童が酒を飲んでいる。昔からある題材だと思う。そこには「形」があるけれど、新しい「意味」はない。意味が付け加えられていない。
 岩倉は私の感想には不満かもしれないが、意味が付け加えられていない作品、「象徴」になることを拒んでいる作品の方が、私は好きである。
 前回紹介したひな人形は、すでに「形」として完成している。どこかに新しい要素が加わっているのかもしれないが、あ、ここが新しいという感じはしない。しかし、そこに「親しみ」というものがある。
 「意味」など、いちいちいわなくてもいい。「形」があれば、そこに生きてきた人の歴史がある。「形」には人の生き方が受け継がれている。そういう作品があってもいいはずだ。
 根付を手で転がしながら、河童と酒を酌み交わすのも楽しいかなあ、と思うことがあれば、もうそれで十分だ。
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50年後の発見(2)

2018-11-20 23:57:43 | 50年後の発見

 井波は欄間で有名だ。木彫職人が店を並べている。
 川田良樹を尋ねた。店先で作品をつくっていた。どの店もそうだが、こうやって仕事風景を見せながら、客を待っている。
 彫っていたのは龍。正月の縁起物なのだろうか。ほかにも正月の縁起物らしい作品が並んでいる。




 川田の人柄なのか、堅実な印象がある。叩いても壊れない、という感じ。木だから、叩いたくらいでは壊れないのは当たり前なのだが。

 そうした縁起物のほかに、少女の像もつくっている。やはり美術品は、美術館や個人所蔵が多くなるので、手元にはなかなか残していない。
 工房訪問のむずかしさは、このあたりにある。つくっている途中の作品、完成したばかりの作品を見る楽しさはあるが、写真で知っているあの作品はどこ?となると、作家のアトリエにはないのだ。




 少女像は、胸のそらした感じが、顔の表情にまでつながり、あたたかな春の光を感じる。さわやかな希望が、体中にひろがっていく。その感じを、あじわいつくそうとしている。
 上半身のラインが美しい。
 足元には、作品をつくるための、小さなモデルがあった。実物を見ることができないのは、残念だった。



 ネットに残っているものでは、この作品がいちばん美しい。少女の肉体と、裸体に巻いた布のリズムが楽しい。足のバランスも落ち着いている。



 岩倉雅美は欄間を彫っていた。
 やはり店先で客を待ちながらの制作である。




 手元にある作品は、モダンアート風のオブジェ。同級生の中では作風が変わっている。面が組み合わさって立体になるのか、立体が解体して面になるのか。接続と同時に、切断もある。相反する概念をつなぎとめるものとして、木を選んでいるのだが、理に走りすぎている感じがする。




 木が時間をかけて一本の木に育つように、作品の中で概念が育ってくるとおもしろいと思う。木のことはよくわからないが、形と材質が固く結びつくと違った風に見えるかもしれない。
 展示場所も選ぶ作品といえる。違う場所で見れば、また違った感じがするだろうと思う。欄間をつくっている店先とは相いれない気がする。
 


 ひな人形は、形が落ち着いている。つくりなれている安心感がある。
 モダンアートの試みもいいけれど、手になじみのある形の方が、木が生きている感じがする。

 高桑良昭の作品は、鯉が印象に残った。




 シンプルな形に作為がない。自然な美しさがある。うろこのパターンと、顔の対比も鮮やかだ。一匹つくるというよりも、何度も何度もつくってきたことを感じさせる静かさがある。鯉をつくることが生活になっているのだろう。
高桑本人の写真は、手振れでぼけてしまった。申し訳ない。




井波には瑞泉寺がある。その山門の柱に掘られた獅子がおもしろい。右側の柱は、獅子が子供を滝から突き落としている。左の柱には、滝壺からよじ登ってくる子獅子が掘られている。そうやって生き延びるものだけを育てる。厳しい自然の掟である。
 この獅子を見ながら、私の同級生は育ったのだ。
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50年後の発見(1)

2018-11-19 10:42:48 | 50年後の発見
 高校時代の同級生の作品を尋ね歩いてみた。
 私は木に携わる仕事をしてみたかった。しかし、高校に入って実際に木に向き合ってみて気づいた。私の「立体感覚」は同級生に比べて格段に劣る。机の引き出し、つまり「箱」さえ正確な形にならない。立体をつくることに向いていない。
 就職先もなく、大学へ進学しようかな、でも木の仕事もしたい。そう思っていたとき、県美術展で大丸晃世(勉)の作品を見た。男の頭。コンクリート製。圧倒された。私にはやっぱり立体はつくれない。夢は完全にあきらめた。
 その作品をもういちど見たかったが、大丸は持っていなかった。美術館にある。他の写真でしか見たことのない作品も、美術館か個人の所蔵。自宅と工房にあるのは、完成直後か作りかけのもの。いわば、まだ誰も見ていない作品。それを紹介する。



 「揺光」という作品。
 手前には水草(菖蒲のようなもの。名前を聞いたが忘れてしまった)。背後が波。光が反射している。写真ではわかりにくいのだが、波のなかにそれぞれ水紋がある。つまり、光の変化がある。その変化は光の揺れである。水草は、その光の揺れを隠すように、まっすぐに直立している。しかし見ていると、水草の背後に揺れている光が、水草を黒い部分のなかにも見えてくる。隠しているもの(水草)と隠されているもの(水紋/光)が交錯し、入れ代わるような感じ。一体になって、「宇宙」になる。平面作品と呼んでいいのだと思うが、「平面」ではなく「空間」が広がる。



 改めて「水紋」を見る。とても細かい変化だ。手が非常に込んでいる。しかし、スピード感がある。水の揺らぎは、私のような目の悪い人間には再現できない。動きが速すぎて、どういう形をしていたか、どういう色がそこにあったのか、はっきりとはわからない。揺らいでいた、光っていた、とことばにするだけだ。大丸は、その変化を確実にとらえている。光の変化よりも、大丸の視力の方が速い。手の動きの方が速い。手のスピード、正確な強さが揺れる光をつくりだしている。
 水草も繊細だ。輪郭部のこまかな線は、水草の揺れか、厚みか。揺れだと仮定してみる。不思議なことに、その「揺れ」によって、水草の直線の強さがさらに強くなっていると感じる。剛直さと繊細さが同居している。



 鹿と森か、鹿と草原か。背後の模様が何を表しているのかわからないが、わからないことが魅力だ。突然、鹿を目撃する。あ、鹿がいる。そう思うとき、私は森も見ていないし、草原も見ていない。まるで「異界」から鹿があらわれ、いまいる世界(森、草原)を異界そのものに変えてしまったかのよう。「芸術」の瞬間というか、美に触れた瞬間というのは、これに似ている。すべてを理解するわけではない。何かに驚く。驚いて、自分の知っていることが壊され、壊されることで、もう一度生まれ変わる。「あ、鹿だ」と叫ぶ瞬間。それから鹿が二頭いる。楽しそうだ、と感じる。その楽しいは、鹿の楽しさであり、また私の楽しさだ。私はまだ生きているんだなあ、と感じる喜びと言いなおしてもいい。これ、いいなあ、これ、ほしいなあ、と思う。「欲望」が生まれてくる。



 海の上を飛んで行く鶴。高い空を飛んで行く鶴、かもしれない。(これは写真で知った。実際には見ていない。)
 鶴は鶴の背後の波、あるいは空(雲、光の変化)を隠している。しかし、鶴が動くと、その鶴のいた空間を波、光がすばやく埋める。水草と揺れる光の関係に似ている。世界の広がり方は、「揺光」よりも広く、その広さは拡大していく広さである。鶴が飛ぶからだろう。鶴の動きが世界を広げていく。
 二頭の鹿の作品に似ていいるかもしれない。二頭の存在が、動きを誘い合う。呼応が音楽を生み出す。



 大丸が住んでいる庄川は井波の近く。井波は欄間で有名だ。大丸も依頼を受けて欄間をつくっていた。松。凝縮と解放のバランス、リズムが強烈だ。幹、節の感じから判断すれば、この松は老木なのだが、力がみなぎっている。葉っぱの先まで、力が動いている。「枠」をはみ出して生きていこうとしている。この躍動が、とても自然だ。
 「揺光」について書いたときも触れたが、手が速いのだ。揺るぎ、ためらいがない、と言い換えてもいい。「肉体」が覚えている。木を覚えているし、見たものも覚えている。覚えているものを育てるようにして、手が動いている。







 ひな人形、天神様もつくっていた。(完成した天神様は、提供写真)
 こうした作品にも、スピード感を感じる。つくりたい形を大丸は確信している。どこに、どうノミをあてれば、木はどう変化するかを熟知している。
 ひな人形は彩色されている。それも大丸の手によるものである。着ている服、その色と模様も美しいが、私は人形の目に引きつけられた。とても澄んだ目をしている。人のつくるものは、つくった人に似るというが、人形の目は大丸の目と同じように、ここにあるものを超えて、その遠くにあるものをしっかりと見つめている。
 天神様については、大丸は「厳しい顔の天神様をつくりたい」と言っていた。写真の天神様は、まだ柔和かもしれない。顔の「ノミ痕」が菅原道真の厳しさをあらわしているかもしれない。
 この作品にもスピードを感じた。スピードが、作品に「生きている」という感じを生み出している。「飾り物」ではなく、生きている存在。生きていると感じさせるものが、芸術なのだろう。








 大丸の工房は合掌造りを解体、移築したもの。天井が高く、いろりがある。いろりには炭。昼間だったので、灰でつつみ、火を守っている。
 無農薬でコメをつくり、柚子もネギもつくっている。
 どこにそんなに時間があるのだろうと思うけれど、すべてのことが「肉体」にしみついていて、確実なのだろう。知っていること、確信していることを、確信しているままに実行する。
 そういう強さが、いたるところにあふれている。



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