詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇250)Obra, Xose Gomez Rivada

2022-11-30 23:36:37 | estoy loco por espana

Obra, Xose Gomez Rivada

 Mirar la escultura es mirar la forma. Pero al mirar la escultura, no sólo se ve la forma. Al mismo tiempo hay espacio, luz y sombra. Los cambios pueden atraerme.
 Esta obra de Xose tiene un equilibrio muy bonito con la sombra. La forma por sí sola me recuerda a un yate, pero la sombra me dan una impresión aún más fuerte.
 No sólo la sombra de la obra, sino también las sombras de los árboles fuera de la ventana y la sensación de luz, ellos son hermosos.  Ahora escribí sombras de árboles, pero podrían ser las sombras de las nubes que se extienden sobre un amplio mar. Puedo sentir el movimiento del viento y sentir cómo el yate se desliza sobre el mar con el viento.
 Cuando miro estas foto, quiero ver la obra  con mis porpios ojos en ese lugar.
 La escultura (o la pintura) en sí no cambia, pero el aire cambia la obra, la luz y la sombra cambian la obra, y quien está conmigo cambia la obra. La imprecion de la obra  se cambia en ese momento. El aire, la luz, la sombra y la persona dan a la obra un aspecto diferente. 
 Todo la bellesa de arte existe en el "momento" en que nos enfrentamos a él. Hay tiempos y lugares en los que el "momento" se convierte en "eternidad".


 彫刻は形を見るものである。しかし、彫刻を見るとき、見えるのは形だけではない。同時に空間があり、光があり、陰がある。その変化に、引き込まれることがある。
 このXoseの作品は影とのバランスがとても美しい。形だけを見てもヨットを連想するが、影を見るとこその印象がさらに強くなる。
 作品の影だけではなく、窓の外の木々(?) の影というか、光の感じも美しい。いま、私は木々の影と書いたが、それは広い海に広がる雲の影かもしれない。風の動きを感じ、風に乗って海をすべっていくヨットを感じる。
 こういう写真を見ると、やっぱり、その場で作品を見たくなる。
 彫刻(あるいは絵画)そのものは変化しないが、空気の変化、光の変化、そのとき誰といっしょか、ということが作品に違う表情を与える。芸術は、生きている私たちの「場」そのものを美しくしてくれる。
 あらゆる芸術は、それと対面する「一瞬」に存在する。「一瞬」が「永遠」になるときがある。

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岩木誠一郎「夏の果て」

2022-11-30 16:50:58 | 詩(雑誌・同人誌)

岩木誠一郎「夏の果て」(「59」28、2022年11月20日発行)

 私はメールをつかった「現代詩通信講座」を開いている。先日、ある受講生から「完成度」について聞かれた。詩の完成度は、どうやって判断するのか。これは、はっきりいって答えようがない。ある具体的な作品を読んで、その作品を完成度が高いと感じるか、低いと感じるかはひとによって違うだろう。私は「音/リズム」が安定しているときに完成度が高いと感じるのだが、この「音/リズム」が安定しているという印象も、ひとによって違うだろう。
 岩木誠一郎「夏の果て」は、私の基準では「完成度が高い」作品である。

日が傾くと
潮の匂いが強くなる
波打ち際の
濡れた砂のうえで
むすうの泡がひかりを
映しては消えてゆく

 一連目。詩人が海辺にいることがすぐにわかる。「潮(の匂い)」が海を連想させる。「海」とは書いていないが「潮の匂い」で、「海」以外を思い浮かべるひとは少ないだろう。いくらかかわったものを連想するとしても、魚(干物を含む)や市場くらいだろう。その「海」は「波打ち際」で明確になり、さらに「濡れた砂」が定着させる。ここにはイメージの「リズム」もある。動き方が自然なのである。さらに書き出しの「日が傾く」は「ひかり」「消えてゆく」によって、イメージを固定させる。私はこういうイメージにも「音」を感じるのである。映像そのものの重なりというよりも、「音」が呼び合っている感じがする。
 さらにつけくわえると、この「音」は「万葉の音」ではなく「古今の音」である。「声」ではなく、つまり「肉体」を通って響いてくる「音」ではなく、「頭」のなかを動いていく音である。どちらかというと「肉体」の存在を忘れさせる音、「意識に刻まれた音」という感じ。
 だから、この詩、この詩のことばは「意識」へと動いていく。

それだけのことなを
ただ眺めていると
流れ着いたのか
たどり着いたのか
どちらでも
かまわないように思えてくる

 「眺める」「流れ着く」「たどり着く」という動詞は出てくるが、「思える(思う)」が全体を統一している。「どちらでも/かまわない」のは、意識というものは、いわば虚構であって実在ではないからだ。「肉体」が変化するわけではない。
 「思う」は、さらに「意識」のなかへ深く入っていく。

ふりかえると
海辺のちいさなまちに
灯りがともりはじめるところだ
そこで暮らしていた
少年のことを考えながら
廃線になったはずの列車が
走り去るのを見送っている

 「ふりかえる」は「肉体」の動きをあらわすが、同時に「意識(こころ)」の動きをあらわすときにもつかう。「思う」は「考える」という動詞にかわっている。「思う」と「考える」はどう違うか。ひとによって基準が違うかもしれないが、私は「考える」の方が「意識的」だと思う。「意識」を動かしている感じがする。「意識」を動かして、「現実」には存在しないことも、ことばを通して、そこにあるかのように出現させることができる。これは「意識」の運動である。「そこで暮らしていた/少年」は「過去形」が明らかにするように、そこには、もういない。「廃線になった列車」も、もちろん存在しない。「はずの」ということばを岩木は挿入しているが、「はずの」があるから現実にそこに列車が走っているわけではない。「意識」で「廃線」をさらに意識化しているのである。一種の強調である。「走り去る」のを「見送る」のは「肉体の目」ではなく、「意思の目」である。「ことば」である。
 夕暮れの海という現実、そこから感情が動き、「思う」という動詞になり、それがさらに深化して「意識」になり、その意識は「現実」を「架空」の世界へと導いていく。ここは、いわゆる「起承転結」の「転」である。
 「意識=虚構」にまで達したから「結」は、もちろん「現実」にもどる。

どこへ向かうのだろうか
鉄橋のあたりを
通り過ぎるとき
季節の
終わりを告げる音が
星空の方から降ってきた

 「季節の終わりを告げる音」は、まあ、現実というよりも「虚構(ことばの運動だけがとらえることのできるもの)」だけれど、そして「星空の方から降ってきた」というものことばの運動でしかないのだが、「星空」は現実であり、それは書き出しの「日が傾く」ときちんと呼応している。
 夕暮れが夜になる。その時間、岩木のこころは日暮れの風景を見ながら動いたのである。これが、とても自然なリズムで書かれている。行ったり来たり、つまり、方向を間違えたり、迷ったりしない。だから「完成度が高い」と感じる。
 そう評価した後で、不平をいえば、三連目の「ちいさなまち」「(過去形の)少年」「廃線」「(走り)去る」というのが、あまりにも「抒情の定型」にはまりすぎる。だから、「頭で書いている/意識がことばを支配している」という印象が強くなる。工場の排水で汚染されたままの街、出て行くことのできない老人だけが住んでいる街というのは、いまの日本ではあちこちにあるかもしれないが、そういう「現実」は、ここにはない。岩木のことばは「現実(現代)」とは少し違った場所で動いている。もちろん、岩木の書いている「海」「まち」も実際にあるだろうけれど、抒情だけで語られる存在であるとは、私には思えない。「現実」に近づかないことで、ことばを「頭」のなかで動かすことによって、岩木の詩は「完成度」を保っているともいえる。
 と書いてしまうと、なんだか、とんでもなくつまらない詩を取り上げているような感じになってしまうが……。
 私は二連目の書き出しの「それだけのことを/ただ」に感心した。うなってしまった。散文的な、何の「意味」もないような行に見える。実際、「それだけのことを/ただ」がなくても詩は成立する。実際に「それだけのことを/ただ」を消して読んでみるといい。いったい何人が、そのことばがないと「わからない」、あるいは「不自然な展開」と感じるだろうか。「それだけのことを/ただ」は岩木だけに必要なことばなのだ。私はそういうことばをキーワードと呼んでいるが、ここには岩木の無意識、肉体そのものがある。
 岩木がほんとうに肉眼で見たのは夕暮れの海辺、波打ち際の光の変化とそれを支える風景だけなのである。あとは、ことばの運動である。ことばが、ことばのために動いた運動である。
 いわば虚構のなかで、ぎりぎりの形で「肉体」を存在させている。読者に見つからないように、「肉体が邪魔だから」そこを少しどいてくれないか、もう少し美しい情景を眺めたいから、ねえ、岩木さん、そこをどいて、と言われない形で「肉体」を存在させている。それが、この詩のいいところである。そして、こういう「肉体」の存在のさせ方が、岩木の詩の特徴だと私は感じている。「完成度」でいうと、「超絶技巧」の完成度だね。

 

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Estoy loco por espana(番外篇249)Obra, Joaquín Llorens

2022-11-29 23:28:56 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
Privada (homenaje a Julio González)

 Luz y sombra. Cuando se bloquea la luz, se crean sombras.
 ¿Es esto cierto?
 Observando esta obra de Joaquín, las sombras parecen haberse reunido allí desde la dirección opuesta a la luz. Se han reunido allí para decir que estoy aquí y siempre estaré contigo.
 Me parece como si se diría al ser del lado izquierdo: "La soledad no es algo malo". Hay una sensación de que la luz, una vez que se acerca, se va poco a poco.
 La sombra no es creada por la luz, sino que existe antes de que ésta aparezca. La soledad también existe antes de que se pierda nada. 
 Invitado por esta voz, algo aún no nombrado crece más allá de la luz y la sombra.

 光と影。光が遮られたとき、影ができる。
 ほんとうだろうか。
 Joaquín のこの作品を見ていると、影は光とは反対側の方向から、そこに集まってきたもののように見えてしまう。「私はここにいる」と告げるために、集まってきたのだ。
 それはまるで、左側の存在に向かって、「寂しくてもいいんだよ」と語りかけているように見える。影は光がつくりだすものではなく、光があらわれる前から存在している。寂しさも、何かが失われる前から存在している。それは、いつだって存在するものなのだ、と。
 その対話に誘われて、まだ名づけられていないものが、光と影を超えて成長していく。

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斎藤茂吉『万葉秀歌』(16)

2022-11-29 22:16:39 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(16)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)
          
否といへど強ふる志斐のが強ひがたりこの頃聞かずてわれ恋ひにけり    持統天皇

否といへど語れ語れと詔らせこそ志斐いは奏せ強語りと詔る         志斐嫗

 この軽いやりとりは楽しい。音の繰り返しが効果的だ。いかにも、「軽く」やりとしているという感じがする。万葉の音はのびやかだが、こういうやりとりのなかにも、そののびやかさが生きている。「意味」があるというよりも、「音」がある。「音」を楽しむ余裕がある。

玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船ちかづきぬ            柿本人麿

 「枕詞」というのは、最初は「意味」があったのだと思う。柿本人麿がこの歌を詠んだときも「意味」はあっただろうか。今の私には「音」しか、わからない。つまり、そのとき「音」は、「無意味」である。これが、いいなあ、と思う。
 「枕詞」だから、持統天皇と志斐嫗の掛け合いの「音」とは違うのだが、「無意味」であることよって、軽く、伸びやかになっている。と、「枕詞」の「意味」を知らない私は感じる。船がすいすい進んでいる様子が目に浮かび、妙に楽しい。「枕詞」の無意味さが船の進み具合を加速する。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇248)Obra, Lu Gorrizt

2022-11-29 09:06:33 | estoy loco por espana

Obra, Lu Gorrizt
Colección 314 Colors 

 ¿Dónde ves el cuadro? ¿Dónde cuelgas el cuadro?
 Cuando vi esta foto me sorprendí. El cuadro está poniendo en el suelo al azar. No es un estudio. Por la vista interior detrás del muro, puedo imaginar que es una casa privada. Sin embargo, las paredes y el suelo parecen ser de hormigón. Esto también es, por así decirlo, azaroso. No hay nada superfluo. ¿Cómo el dueño puede decorar este cuadro aquí?
 Una respuesta es esta foto.
 Por un momento sentí frío. Me sentí incómodo. Pero pronto sentí el deseo de acercarme al cuadro, de verlo de frente. Sin quererlo, incliné mi cuerpo (cara) hacia la derecha.
 Entonces sentí el deseo de ir realmente al "lugar" donde se exponía el cuadro y experimentar el espacio. El trabajo de Lu tiene el poder de transformar suelos, paredes, techos e incluso sofás en obras de arte. Me pareció que esta forma de exponer este cuadro le venía bien.

 絵をどこで見るか。絵をどこに飾るか。
 この写真を見たとき、私は驚いた。絵が無造作に立てかけられてある。アトリエではない。壁の向こうに見える室内の様子から、個人の家だと想像できる。しかし、壁や床がコンクリートそのままに見える。これも、いわば無造作。余分なものがない。ここで、どうやって絵を飾ればいいのか。
 ひとつの答えとして、この写真がある。
 私は一瞬、寒さを感じた。違和感を憶えた。しかし、すぐに、もっと近づいて絵を見たい、正面から絵を見たいという欲望を感じた。思わず、体(顔)を右の方に傾けてしまった。
 そして、実際に、この絵が飾られている「場」へ行って、その空間を体験したいという気持ちになった。床や壁、天井、ソファさえも作品にかえてしまう力がある。Luの作品は、いつでも空間をかえてしまう。どんな絵でも同じ方法で飾ることはできないだろうが、この絵にはこの飾り方が似合っていると感じた。

 

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Estoy loco por espana(番外篇247)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-11-28 21:44:36 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
Carta a Frida 2021 mixta Colección Srs. Meuser


  Carta a Frida. Hay matasello. El sello es un retrato de Frida Kahlo. ¿Qué lleva en la mano? No lo veo claro. Me puse a escribir así, pero no es eso lo que quiero escribir.
 Tebfo algo otra cosa que realmente quiero escribir, pero no puedo hacerlo de inmediato. No sé cómo escribir. Por eso, sólo escribo lo que puedo escribir hasta que las palabras empiezan a moverse.
 Lo que realmente quiero escribir es la inquietante oscuridad del "rojo" en este cuadro. El rojo es como la sangre que poco a poco se va endureciendo y secando. Pero no ha muerto. Todavía queda vida en la sangre.
 El "negro" contrasta con ese rojo. El negro debería ser oscuro, pero me parece brillante por el misterioso rojo. El negro es una luz misteriosa y pura.
 Pero......hay momentos en los que me parece lo contrario.
 La profunda oscuridad del negro absorbe el negro del rojo. El negro absorbe la turbiedad del rojo e intenta que el rojo sea rojo. 
 ¿Cómo es "correcto" verlo? Tal vez no exista lo "correcto". 
 No sé lo que estoy viendo. Pero aunque no lo sepa, siento que es algo. Mi mente no puede comprenderlo, pero mi corazón resuena con este cuadro. Esto puede ser lo que significa tener miedo. Es aterrador, pero no puedo apartar la mirada.
 En este extraño choque de rojo y negro, Frida tiene el mismo rostro de siempre. En su rostro conviven la fealdad y la belleza. Esto causa una impresión muy fuerte. Su cara y algo blanco en su mano, que me parece la luz misma.

  Carta a Frida (Frida Kahlo へのはがき)。「消印」のようなものが見える。切手はフリーダ・カーロの肖像。彼女が手に持っているのは何か。よく見えない。と、私は書き始めたが、書きたいのは、そういうことではない。
 本当に書きたいことは別にあるのだが、すぐにそれを書くことができない。どう書いていいかわからない。だから、ことばが動き出すまで、私に書けることを書いているにすぎない。
 私が書きたいのは、この絵の「赤」の不気味な暗さである。噴き出した血が、少しずつ固まって乾いていくような赤。だが、渇ききっていない。死んでしまっていない。まだ、血の中に命が残っている。
 その赤とは対照的な「黒」。黒は、暗いはずなのに、不思議な赤のために明るく見える。不思議な光、純粋な光を放っている。
 逆に見える瞬間もある。
 黒の深い闇が、赤のなかの黒を吸収していく。濁っていく赤から、濁りを吸収し、赤が赤であることを保とうとしている。濁った赤のなかに純粋な赤が残っているように見えるのは、濁った赤の中から黒い色を吸収する何かがあるからだ。
 どう見るのが「正しい」のか。
 おそらく「正しさ」はない。何を見ているかわからない。でも、わからないのに、それが何かであると感じてしまう。頭では理解できないのに、こころが共鳴してしまう。「恐ろしい」というのは、こういうことかもしれない。恐ろしいけれど、目をそらすことができない。
 この不思議な赤と黒のぶつかり合いのなかで、フリーダ・カーロは、いつもと同じ顔をしている。彼女の顔のなかには醜さと美しさが共存している。そのためにとても強烈な印象がある。その顔と、手に持っている白い何か、それが光そのもののようにも見える。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇246)Obra, Joaquín Llorens

2022-11-28 00:16:56 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

Digo en mi corazón:
Cuando estoy ansioso.
Te sientes solo.

Dices en tu corazón:
Cuando me siento solo
Estás ansioso.

Oigo en mi corazón:
La ansiedad y la soledad 
Son muy similar.

Oyes en tu corazón:
Soledad y ansiedad
No se parecen en nada.

Ya sea que digan lo mismo
O sea que digan lo diferente.
Nadie puede saberlo.
Las palabras se acercan y  se conectan en silencio.
"Yo soy tú. Tú eres yo".
¿Eres tú o yo quien grita primero? ¿Yo o tú?


私はこころのなかで言う。
私が不安なとき、
君は孤独だ。

君がこころのなかで言う。
私が孤独のとき、
君は不安だ。

私はこころのなかで聞く。
不安と孤独は
とても似ている。

君はこころのなかで聞く
孤独と不安は
まったく似ていない。

二人が同じことを言っているのか
違うことを言っているのか、
誰もわからない。
ことばが静かにつながって、静かに近づいていく。
「私は君だ。君は私だ」
最初に叫ぶのは、君か私か。私か君か。

 

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三木清「人生論ノート」から「利己主義について」

2022-11-27 20:13:17 | 考える日記

 

簡単そうで、なかなか書けないテーマ。読むのも、かなり難解なところがある。
三木清は、ときどき、数学で言う「虚数」のようなものを「仮説」として持ち出す。つまり、否定するための「径路」。論理を強固にするための「手段」。

①「利己主義」ということばを、どんなときにつかうか。だれに対してつかうか。だれかを「利己主義」と思ったことはあるか。だれかから「利己主義」と批判されたことはあるか。
②「利己主義」と批判したときと、「利己主義」と批判されたときでは、どちらがいやな気持ちがするか。
③「利己主義」に似たことばはなにか。「利己主義」の反対のことばはなにか。

このことを話し合った後、読解に進んだ。

第一段落の次の文章はなかなか難解である。

いったい誰が取らないでただ与えるばかりであり得るほど有徳あるいはむしろ有力であり得るだろうか。逆にいったい誰が与えないでただ取るばかりであり得るほど有力あるいはむしろ有徳であり得るであろうか。純粋な英雄主義が稀であるように、純粋な利己主義もまた稀である。

「英雄主義」の文章は理解できる。「取らないで与えるだけ=有徳・有力」。しかし、「利己主義」はどうか。「与えないで取るだけ=有力・有徳」。「与えないで取るだけ」は「力があるもの」なら可能だろう。しかし、それがどうして「有徳」なのか。この「有徳」が「虚数」のようなものなのである。現実には存在しない。しかし、本当に「有徳」なひとがいれば、彼は何も取らなくても、多くの人が彼のところになにかを与えようとするだろう。語弊があるかもしれないが、ほんとうに「神」がいれば、多くのひとは何も期待せず、ただ感謝の気持ちとしてなにかを「与える」だろう。「返し」を期待しないで、ただ「与える」ということがあり得るだろう。

注意しなければならないのは、三木清がここで「純粋な」ということばをつかっていることである。「純粋な英雄主義」「純粋な利己主義」。この「純粋な」は「絶対的な(論理的に正しい)」と言い換えることができるだろう。

ことば(想像力)が、したがって、このあと問題になる。想像力とは、構想力のことである。ことばをつかって、どんなふうに世界を描写するか。ことばは、それを否定するための「仮説」である。ことばを何が否定するか。倫理(道徳)=行為が、ことばを否定するというか、ことばを超越する。「道」が「ことば」を超越する。行為によって「超越」されるために「ことば」はある、と三木清は考えているかどうか知らないが、私は、そう読み取っている。もちろん、「日本語の読解」なので、こういうことまでは語らないが。

二段落目の次の文章も厳しい集中力を払わないといけない。

 我々の生活を支配しているギブ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合は意識しないでそれに従っている。言い換えると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
 利己主義者が不気味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それゆえにまた利己主義者を苦しめるのは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。

ここでは「意識(する)」が「意識的」「自意識」という具合に、少しずつ変わっていく。この「変化」を見落とすと、何が書いてあるかわからなくなる。

哲学は、あることばを別のことばで定義することと言い直せると思うが、このとき、ことばの「ずれ」「ずらし」というのは非常に微妙であり、ことばだけではなく「文体」に注意しつづけることが重要である。最初に引用した文章では「取る/与える」が「与える/取る」とことばの順序がかわると、それにつづく「有徳/有力」は「有力/有徳」と順序をかえている。そのことに気づくなら、その後に出てくることばに「純粋な」という形容動詞がついていることにも気がつくだろう。この「純粋な」は、実は、その前に存在する文章(省略した文章)にもつかわれている。つまり、三木は「純粋な」論理問題として、論を進めていることになる。

倫理と哲学は別の学問かもしれないが、三木清は倫理と哲学を接近させてことばを動かしている。それが、彼の文書をを難しくしているし、おもしろくもしている。この三木清の文章を「好き」「おもしろい」といえる18歳のイタリア人というのは、すごいなあ、と私は感心している。

写真は、きょうつかったテキストのメモ。

 

 

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草野早苗『祝祭明け』

2022-11-27 17:30:03 | 詩集

 

草野早苗『祝祭明け』(思潮社、2022年09月30日行)

 草野早苗『祝祭明け』は、どの詩も「文体」が安定している。ことばの「出所」をしっかりとつかんでいるという印象がある。こういう書き方は、あまりにも抽象的かもしれない。どう言い直すことができるか。
 たとえば「石段」。

港へ直進する大通り
古い石造りの建物にある
薄日の射す石の階段
断りもせず下から八番目に座る

 なぜ「下から八番目」なのか。理由は書いていない。あとで書くのかもしれないが、一連目を読んだときはわからない。しかし、この「下から八番目」には、何かしら草野の「意識」があることがわかる。明確な意思があるから「断りもせず」に座るのである。
 この明確な意思は、書き出しの「直進する」という、かなり硬い響きのことばにも反映している。何かを見極めている人間の視線を感じるが、この「下から八番目」にこめられている意思とは、どんなものなのか。

港の岸壁から海に下りる石段
使われているのかいないのか
海水が行き場を失って諦めたように石段の足を洗い
私はその少し上の段に座る

 このとき、その石段の「下から八番目」に座ったのではないのかもしれない。もしかするのと「上から八番目」かもしれない。海の中に沈んでいる石段の数を確認して「八番目」を選んだとはいえないだろう。そうだとすれば、その位置を決めるのはなんなのか。
 「少し上の段」と草野は書く。
 この「少し」が草野の思想なのだ。距離の取り方。「少し」何かから離れる。しかし、完全に離れるのではない。距離を意識している。それは、たとえば「水」との距離ではない。「使われているのかいないのか」という行に注目すれば、草野は「人との距離」を意識しているのである。
 ある建物の階段。それが何段あるか知らないが「下から八番目」。途中である。侵入ではない。しかし、無視でもない。接近である。近づきながら、何かを確かめているのかもしれない。相手を確かめるというよりも、自分を確かめるのだろう。
 どういうことか。
 「告知」という詩が、巻頭にある。天使・ガブリエルがマリアに近づく。

告知方法その1
思い切って扉を開けて
蒼ざめた顔で座っている乙女に告げる
「あなたの体に神の子が宿っておられます」
懐に隠し持ってきた白百合を差し出し
聖母となる人に敬意を見せる
乙女は驚愕のうちに思わず花に手を伸ばすが
受け取る指がおぼつかない
どこかで鐘が鳴っている

告知方法その2
思い切って扉を開けて
蒼ざめた顔で座っている乙女に告げる
「あなたの体に神の子が宿っておられます」
両手を胸の上で交差する
それは乙女への深い思いやり
乙女は驚愕と不安を抱えつつ
謙虚に両手を胸の上で交差する
どこかで仔羊が鳴いている

 フラ・アンジェリコに託して書いた詩だが「敬意を見せる」「深い思いやり」ということばが、草野の「距離の取り方」なのである。この「敬意」と「思いやり」が草野のことばの「暴走」を抑制している。
 ガブリエルのしていることは、善でも悪でもなく、ひとつの「事実」(真実)である。真実であるけれど、やはりひとにそれを告げるとき、そこには「敬意/思いやり」のようなものが必要である。そのとき、そこに生まれる「距離」が、人間関係を支えているのである。草野には、そういう認識があると思う。
 この「告知」で繰り返される「どこかで」ということばは何気ないことばだが、やはり草野の思想をしっかりとあらわしている。「距離」(あるいは方向)が特定できない。けれど、「存在」は確実に「存在する」。それを信じることができる。だから「距離」も置くことができる。いま、それに直に触れていなければならないのではない。信じていれば触れることができる。けれど、触れるためには常に「ある距離」を保つようにして、それに近づいていなければならない。
 「湖」には、静かな一行がある。

いつか私を迎えに来てくれるといいのだけれど

 これは不安、願いというよりも、「いつか私を迎えに来てくれる」ものがいると確信していることば、ひとつの安らぎのことばである。それを待つために、草野は「距離」を守るのである。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇245)Obra, Javier Aranguren Ispizua

2022-11-27 16:11:48 | estoy loco por espana

Obra, Javier Aranguren Ispizua


¿Es la forma o el color lo que mira este pintor, Javier?
Creo que está mirando la "estructura".
Todos los edificios tienen alguna estructura común.
Esto también podría decirse de los seres humanos. La estructura de la inteligencia. La inteligencia humana tiene una estructura.
La estructura de la inteligencia humana se refleja en la arquitectura. Es la estructura del intelecto humano la que sustenta la arquitectura. La arquitectura se reconstruye en un cuadro. En ese momento, la "estructura del intelecto/estructura de la sensibilidad" de los seres humanos debe reflejarse allí.
Manhattan reflejada en el agua. La luz del crepúsculo. ¿El círculo que flota entre los edificios es la luna?
El hecho de que la luz y la luna estén integradas en el cuadro se debe probablemente a que su idea de "estructura" incluye el universo.


この画家が見ているのは、形だろうか色だろうか。
「構造」を見ている気がする。
どの建物にも、何か共通する構造がある。
それは人間についてもいえるかもしれない。「知性」の構造。人間の知性には、「構造」がある。それをたとえば「建築」が再現するのだとすれば、それを絵画に再構成するとき、そこには人間の「知性の構造/感性の構造」が反映されるに違いない。
水に映ったマンハッタン。夕暮れの光。ビルの中に浮かんだ円は月か。
光や月が絵の中に溶け込んでいるのは、かれの考える「構造」というものが宇宙をも含んでいるからだろう。

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Sergio Estévez『 Mar en sombra 』

2022-11-25 21:19:42 | 詩集

Sergio Estévez『 Mar en sombra 』(Beginbook Ediciones、2022年09月行)

フェイスブックで知り合ったSergio Estévezが詩集を送ってくれた。『 Mar en sombra 』。そのなかから一篇。

Brisa Salada 

No sé llegaras pero te espero.
en la orilla de mi alma te anhelo
la espuma golpea mi roca, 
brisa salada me da esperanza,
que de alegría llena la boca

 誤訳を承知で、日本語にしてみた。

やわらかな潮風 

君が来ることを願って、私は待っている
魂の岸辺で、私は君に憧れる岩
岩に打ち寄せる波が白い泡になるとき
潮風が私に希望をもたらし
喜びが口をふさぐ

 君に憧れ、君を待っている。そのときの状況を、岸辺、岩、波(泡)、潮風(そよ風)、喜びということばで立体化させている。待っていた君がやってきて、キスをして、喜びにあふれる、ということかなあと思いながら、スペイン語にしたがってではなく、私の気持ちで日本語を動かしてみた。
 きっと、君が来ても来なくても、「待つ」という気持ちが作者を幸福にしている。だれかを待つということは、それ自体で「希望」であり「喜び」である。待つひとがいるということが、人間の喜びなのだ。「喜びが(で)口をふさぐ」のは、やわらかな舌だけではない。思いがことばになり、ことばが口をふさぐ。声に出していわないが、恋する気持ちが自然にことばになり、口を満たす。
 そのときのことばが口から自然にあふれた詩、として読みたい。

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Estoy loco por espana(番外篇245)Obra, Juan Núñez-Romero Cortés

2022-11-24 22:09:25 | estoy loco por espana

Obra, Juan Núñez-Romero Cortés
"Tiempo de invierno" Acuarela sobre papel Canson de 300 gramos grano fino.

 Hay un extraño sentido de la perspectiva en este cuadro de Juan. En este cuadro no hay cercanía ni lejanía. Sólo hay un punto medio. Es decir, cuando miro el cuadro, siento que hay el mismo paisaje gris detrás de mí, y que estoy rodeado de él. No importa dónde vaya, no puedo acercarme a nada. Es como si sólo hubiera "aquí" en el mundo.

 El invierno. Llueve, no nieva. No hay paraguas. La fría humedad me envuelve y se filtra en mi núcleo físico. El color se vuelve invisible. Experimenté este tipo de frialdad varias veces cuando era niño, y se parece al paisaje que vi entonces. Sabía que hay mi casa allí, pero no podía acercarla. Lo mismo ocurrió cuando intentía volver a la casa de mi amigo. Por mucho que camine, la "distancia" no se acorta y me encuentro en el "punto medio". Se asemeja a la fría grisura de esa soledad.


 Juanのこの絵には不思議な遠近感がある。この絵には、近くと遠くがない。中間だけがある。というと、変な言い方になるが、絵を見つめていると、私の背後にも、同じ灰色の風景があり、私はその灰色に取り囲まれていると感じる。どこへ進んでも、何かに近づけない。「ここ」しか世界に存在しない感じだ。

 冬。雪ではなく、雨が降る。傘がない。冷たい湿度が、私を包み、肉体の芯にまでしみこんでくる。「色」が見えなくなる。そういう冷たさを、私は子供のとき何度か経験したが、そのときに見た風景に似ている。この向こうに家があるとわかっているのに、どう進んでも近づけない。友の家に引き返そうとしても、同じだ。どれだけ歩いても「距離」は縮まらず、「中間点」に私がいる。その孤独の冷たい灰色に似ている。

 

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Estoy loco por espana(番外篇244)Obra, Jesus del Peso

2022-11-23 22:35:12 | estoy loco por espana

Obra, Jesus del Peso


 El sello de la obra de Jesús es la belleza del línea. Puede que no sea correcto decir que las línea es bella en la escultura, pero es la línea la que deja mi impresión. Hay una voluntad de ser "recto" en el hierro. Me parece que ha crecido esta voluntad desde el interior del hierro, y  rápidamente ha tomado forma de manera natural.
 La superficie es tan pura y sin manchas como la piel recién nacida de un bebé. Su deseo es sólo ser recto. Su pureza es como el agua que se ha vuelto demasiado transparente. No se limita a reflejar lo que hay a su alrededor. Pasa por el interior y llega al otro lado.
 Quiero tocarla con la mano. Pero si la toco, mi mano podría ser cortada por la afilada voluntad del hierro y brotar sangre. No sólo los bordes afilados, sino incluso las superficies hierro me hacen sentir así. Incluso el ojo que me mira siente como si pudiera cortarse por la nitidez y sangrar.

 Jesus の作品の特徴は、線の美しさにある。彫刻に対して線が美しいというのは正しい表現ではないかもしれないが、印象に残るのは線である。鉄のなかにある「真っ直ぐ」を目指す意思が形になっているといえばいいのか。真っ直ぐを目指す意思が、鉄を内部で爆発してしまった結果、自然に生まれたかのような印象がある。
 磨かれた面は、まるで鉄の赤ん坊の、生まれたての肌のように純粋で、何にも汚れていない。ただ、真っ直ぐであることだけを目指している。その純粋さは、まるで透明になりすぎた水のようだ。まわりにあるものを映すだけではない。内部を通過して、向こう側の面にまでとどいてしまう。
 手で触れてみたい。しかし、触れれば、私の手は鉄の鋭い意思のために切れて、血を噴き出すかもしれない。鋭角の部分だけではなく、平たい面までも、そう感じさせる。見ている目さえも、その鋭さに切られて出血しそうな気がする。

 

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平野峰子「しずめる」

2022-11-22 21:26:43 | 現代詩講座

平野峰子「しずめる」(現代詩通信講座、2022年10月19日行)

 現代詩通信講座の内容を一部紹介する。googlemeetをつかっての講座。

しずめる  平野峰子

あなたと 仲良くしたいから
そのままの関係を続けたいから 争いを好まない
ほんの少し我慢する わたし
それは ほんとに寄り添うということだったのだろうか
幾たびか ほんの少しだけ

でも 超新星のように老いた星は
とてつもない質量になってしまっていた

ほんの少しは 気づかない間に
理解し難い重さになってしまっていた
少しずつというのは 実感が伴わない
少しずつが積ると 地層が変わる

その重さは 背骨を砕き
胸を突き破る程の痛みになっていく
地球上でもっとも重いイリジュウムを集め
滝つぼに その痛みを音もなく 波立ちもさせず
消えるように沈めたい

星の光が届くとき すでに星はその状態ではないのだけれど
今も 今も 光っている・・
光り続けていると信じ 私は見上げる
私とともにあるわたしが
しっかりと 肩を抱いている

 親友がいる。有効な関係をつづけたい。争いを避けるために我慢をする。しかし、その我慢が蓄積し、どうにもならなくなる。友好に亀裂が入る。感情が爆発する。そのあとで、まだ友好がつづいていてほしいと願う。あるいは、その友情を思い、自分のなかで大切に守る。こういうことは、多くのひとが経験することだと思う。
 平野は、このことを「超新星の質量」「地層」というふたつの存在を通して語っている。「超新星の質量」は感情の爆発を連想させる。「地層」は「我慢の蓄積」を連想させる。「少しの我慢」がある日、蓄積し続け、ある日、超新星のように爆発する。そこで終わるのではなく、その遠い星を見ながら、光の過去を思う。超新星は爆発したが、そこには何もなくなったのではなく、いまも光がある。その光は「私」のなかに生きている、ということを表現したいのだと理解できる。
 超新星の比喩もわかるし、地層の比喩もわかる。地層の部分に書かれている「その重さは 背骨を砕き/胸を突き破る程の痛みになっていく」という二行は、感情の蓄積(苦しみの蓄積)の比喩として、とてもいい。
 でも、読んでいて、なんとなく読みにくい。
 超新星の爆発(すでに存在しない)といまも見える光のことを言いたい思いが強く、そのために超新星ということばを先に言いすぎている。二連目は最終連につながっていくのだが(そして、そのことが平野のいちばん言いたいことだとわかるのだが)、語り方が急ぎすぎていると思う。
 そこで、こんな提案をしてみた。二連目の二行の位置を変えてみたらどうだろうか。こんなふうに。

あなたと 仲良くしたいから
そのままの関係を続けたいから 争いを好まない
ほんの少し我慢する わたし
それは ほんとに寄り添うということだったのだろうか
幾たびか ほんの少しだけ

ほんの少しは 気づかない間に
理解し難い重さになってしまっていた
少しずつというのは 実感が伴わない
少しずつが積ると 地層が変わる

その重さは 背骨を砕き
胸を突き破る程の痛みになっていく
地球上でもっとも重いイリジュウムを集め
滝つぼに その痛みを音もなく 波立ちもさせず
消えるように沈めたい

でも 超新星のように老いた星は
とてつもない質量になってしまっていた

星の光が届くとき すでに星はその状態ではないのだけれど
今も 今も 光っている・・
光り続けていると信じ 私は見上げる
私とともにあるわたしが
しっかりと 肩を抱いている

 一連目の「ほんの少しの我慢」が二連目で「ほんの少し」「少しずつ」にかわり、それが「積もる」、そして「地層」になる。三連目で、その「地層」の姿を描く。いろいろな「重さ」が積み重なっている。その深層には「地球上でもっとも重いイリジュウム」がある。「重い質量」の凝縮は「超新星の質量」をとつながる。この部分は、「起承転結」でいえば、「転」になる。世界がいったん飛躍する。そして、その集積された質量の爆発(層の爆発、と読むこともできる)が、最終連で「あなたと私/わたし」の関係をあらわすものとして語り直される。その超新星の爆発は、宇宙の彼方で起きるのだけれど、地球に戻って言えば、深い「滝つぼ」で起きている何かでもある。
 「滝つぼ」と「宇宙」の関係(三連目と四連目の関係)を、もう少し書きこむ必要はあると思うけれど、「超新星」の二行を後ろに回した方が、詩の展開が劇的になるし、それまでの「我慢の蓄積」から「地層」への世界の変化が「ほんの少し/少しずつ」によってスムーズになると思う。
 起「ほんの少し」承1「少しずつ蓄積」承2「地層(重い質量/蓄積の極限)」転「超新星の爆発(重い質量の爆発)」結「いまも存在する過去(過去を抱きしめ、可能性を信じる)」
 こういう展開ができると思う。
 思いついたことを思いついたまま、忘れないうちに書いておくというのは必要なことだけれど、書き終わったら、一呼吸置いて、ことばの動きを見直してみることが大事だと思う。その過程で、足りないことば、余分なことばも見えてくる。
 ことばは書いた人のものである。しかし、同時に、ことばは読んだ人のものでもある。書いたことはいったん忘れて、読むひとになって、ことばの動きの連続性を見直してみると、詩は読者に届きやすいものになるかもしれない。
 ただ、このとき注意しなければいけないのは、ことばの動きのスムーズさにとらわれてはいけないということ。
 二連目に「超新星」があらわれたのは、たぶん「老いた星」の「老いた」と関係している。そこには「長い年月」という意識、さらには作者の「人生」が反映されている。どうしても、そのことを「ほんの少し我慢する」という形で生きてきた人生を、まず語りたいという気持ちがあるからだろう。それは重要なこと。
 だから、いま、とりあえず二連目の二行の位置を変えてみたのだけれど、そこで整理された意識をもう一度組み立て直す形で、二連目へもどすにはどうすればいいかを考えるといいと思う。とりあえず入れ替えた形では、まだ何かが不足している。その不足しているものを補ってみると、二行を二連目へ戻す方法も見つかるかもしれない。それができれば、そのとき、この詩は一つの「完成形」になると思う。
 私が提案したのは、その「完成形」へ行くための試みのひとつである。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇243)Obra, Fernando Carrasco Joaniquet

2022-11-21 17:34:04 | estoy loco por espana

Obra, Fernando Carrasco Joaniquet
en la Muestra de Arte Contemporánero "Palacio 15" en Arenas de San Pedro del 30 de Julio al 3 de Septiembre

 Las obras de Fernando Carrasco Joaniquet. Si los miro solo, no me vienen a la mente otras palabras que no sean "sencillo" y "bonito".
 ¿Qué pasará si lo viera junto a las obras de otras artistas?
 "Palacio 15" es una exposición organizada por Miguel González Díaz y su grupo, en la que también participó Fernando. Encontré una foto en Facebook. Es muy fascinante. No puedes evitar querer acercarlos y verlos con más claridad. Las obras de Fernando parecen absorber y cristalizar las cosas del espacio expositivo.
 Los dibujos en el suelo, el desconchado de las paredes, los colores desiguales. Cada presencia tiene su propia belleza. La humilde belleza de simplemente estar ahí. La belleza del tiempo quieto.La belleza del tiempo de silencio.
 Quiero acercarme a la obra y escuchar con atención, para oír la voz que la obra de Fernando está escuchando. La escultura es algo que se ve con los ojos, pero por alguna razón tiene una belleza silenciosa que me hace querer llamarla "escultura para escuchar con los oídos".

 インターネットで見た作品を紹介するとき、随分迷うことがある。たとえばFernando Carrasco Joaniquet の作品。あまりにシンプルなので、単独で見たら「シンプル」「美しい」以外のことばが出てこない。
 他の作品といっしょに見たら、どうなるだろうか。
 "Palacio 15"はMiguel González Díazたちが開いた展覧会だが、その展覧会にFernandoも参加している。その写真がFacebookにあった。とても魅力的だ。思わず、近づいて行き、もっとはっきりと見たいという気持ちになる。会場にあるいろいろなものをFernandoの作品が吸収し、結晶させているように感じる。
 床の模様や、壁の剥落、その色むら。どの存在にも、それぞれの美しさというもある。ただ単にそこに存在するという、謙虚な美しさ。静止した時間の美しさ。沈黙する時間の美しさ。
 Fernandoの作品が聞いている、その聞こえない声を聞くために、作品に近づき、耳を澄ませたいと思う。彫刻は目で見るのもだが、なぜか、「耳で聞きたい彫刻」と呼びたくなる静かな美しさがある。

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