詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(39)

2014-07-31 10:23:10 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(39)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夕星」は「ゆうずつ」と読ませるのだろう。こんなことばを私はつかわない。つかわないけれど、出会った瞬間、あ、そういえば、そういうことばがあったなあ、と肉体の奥が揺さぶられる。肉体の奥から「ゆうずつ」という音(声)ともに薄暗いものがまわりから空へ立ち上って行く。そして、そのまだ暗くならない空に静かに光る星になってあらわれる、そういうことが起きる。ことばが情景をひきつれてくる。
 池井は、どうなのか。こんなふうに書いている。

たのもいちめんゆうやみがこめ
のびたきをするにおいがながれ
ぼくはとほうにくれてしまって
ぽつねんとたたずんでいた
おさないころのことだった
あのひとときがむかしになって
もうあとかたもなくなって
けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて
だれのこころかしらないが
ゆうずつうかぶそらのした
ぽつねんとまだ
とほうにくれて

 「ゆうやみ」がまわりに広がる。そのとき池井が最初に感じるのが「におい」であるのは、何度か書いてきたが池井の「根源的な肉体」の反応である。「におい」を呼吸する(体内に取り入れ)、そのまま放心する(途方に暮れる/ぽつねんとたたずむ)のだが、そのあとの、

あのひとときがむかしになって
もうあとかたもなくなって
けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて

 この4行が、書けそうで書けないなあ。
 「あのひとときがむかしになって」の「なって」、「なる」という動詞。それが「あとかたもなくなる」と変化していく。
 この変化は、とても微妙だ。
 「意味」としては、「あのひととき」と「むかし」は同じものだから、「むかしになる」の「なる」はいらない。「あのひとときは、もうあとかたもなくなって」と書いても「意味」はかわらない。
 でも、そうは、言えない。
 「学校作文」や「ジャーナリズムの節約表現」では省略(削除)してしまう、その「なる」という「動詞」を経ることによって、何か微妙なものが、そこに残る。「あのひととき」を思い出すとき、それは「いま」と変わりがない。「いま」のすぐ隣にあらわれてくる。それがすぐ隣よりもちょっと遠いところにある。それが「むかし」に「なる」かもしれない。その微妙な違い、ずれのようなものを意識するから、

けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて

 という感じも生まれてくる。
 「のこっている」のは「なる」があるからだ。「あのひととき」と「むかし」はほんとうは「ひとつ」ではない。「ひとつ」ではないけれど「おなじ」なにかが、そこには「のこっている」。「なる」を超えて、何かが「つながっている」。
 「あのひととき」「むかし」の風景は「現実」からは「あとかたもなくなって」しまったが、池井はその風景を「こころ」のなかに呼び出すことができる--というよりも、「こころ」のなかに残っている風景が甦ってくる。
 その「こころ」を池井は、

だれのこころかしらないが

 と書き直している。自分の「こころ」。でも、それは「池井だけのこころ」ではないのだ。
 池井はいつでも「自分だけ」のことを書く。しかし、書いているとそれは「池井だけ」のことではなくなる。「だれ」のことなのか、わからなくなる。いや、池井はわかっている、自分のことだというかもしれないが、読んでいると、「池井」がくっきりとみえてくればくるほど、それは「池井」ではなくなる。知っている「池井」ではなく、新しい「池井」に生まれ変わっていることに気がつく。毎回、「新しく生まれ変わった池井」に出会うことになる。「だれ」かわからないけれど、池井とつながっている「生まれ変わった池井」に出会うことになる。



冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(131)

2014-07-31 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(131)        

 「二十三、四歳の青年ふたり」も男色を描いている。カフェでひとりが相手を待っている。十時半から待って一時半になっても(三時間過ぎても)あらわれない。三枚もっていた銀貨もなくなってくる。

コーヒーを飲みコニャクをすすって二枚が失せた。
シガレットも吸い尽くした。
長い長い待ちびと。心がずたずたに破れてゆくなあ。
こう何時間も独りでいると
道徳に背く自分の人生を
彼とて悩み出しもする。

 客観描写を「主観」が突き破る。「彼の心がずたずたに破れていく」ではなく、彼の「声」がそのままむき出しになる。この乱調のリズムがとてもおもしろい。中井久夫の訳のおもしろさだ。ふいに自分が詩の主人公になったような気持ちにさせられる。「……なあ」という口語の調子が複雑でとてもいい。自分のことなのに、はんぶん外から眺めているような「主観」の「倦怠感」のようなものもある。「主観」の「色」が強い。
 そういう強い「主観の色」のあとに、「彼とて悩み出しもする」とまた静かなことばが動くので、寸前の「心が……」の声が印象的になる。
 このあと、詩の調子はまた激変する。

だが友がきた。見えたとたん、
疲れも悩みも退屈もあっという間にまったく消えた。

 「友がきた。」という短い文が、それまでのリズムを断ち切る。見えたとたんと「友がきた」を別のことばで言いなおして、それから「疲れも悩みも……」と彼の心の変化(肉体の変化)を描くのだが、これは「客観」描写になるのだろうか、「主観」の描写になるのだろうか。「消えたよ」と文末に口語の「よ」を補うと、その前のことばの畳みかけがそのままこころの躍動になる。
 客観か主観かはよくわからないが、「……なあ」という口語の調子が消えて、状況が変わった感じが明確になる。二人の「場」の空気が、とてもよくわかる。

友の知らせ。何という棚ボタ。
六十リラ儲けた。カードでだ。

 悩みが消えて、こころが弾む。その躍動が、ことばを再び短くする。
 それから、愛欲へ走るふたり。そこからまたいつものカヴァフィスにもどる。「さあ、何もかも換気、生命、官能、魅惑。」というような修飾語のないことば。互いを知り合っているふたりには、個性的なことば、具体的なことばなど必要ないとでもいうように。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(38)

2014-07-30 10:21:44 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(38)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「雲の祭日」はある日突然連絡のとれなくなった息子のことが心配になり、妻と二人でアパートまで息子の安否を確認に行くことを描いている。やっと探し当てたアパートで、息子は「携帯電話を変えた」と言う。急にたずねてきた両親にびっくりする息子に対して「鰻でも喰えばいい」と1万円渡して帰ってくる。連絡がとれずに心配してたずねてきたとは言えないのだ。まあ、「親馬鹿」ぶりをただことが起きた順番に、小学生の日記のように書いているのだが、その最後の部分。

                一万円は痛かったな。いいよ、
それくらい。夕闇の籠め始めた帰路、バスに乗ればよいものを、私
も妻も何か高揚して歩道を歩んだ。子がいてくれるのは、いいな。
うん。そしてまた黙って歩いた。遠くを台風が過ぎるらしい夕映え
の終わりの空には様々な姿した雲が様々に姿変えつつ流れ、だんだ
ん涼しくなってきた。背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。ヒトのこ
と、言えるか。私は応えた。肩を並べて初めての帰路だったが、家
にはまだ、まだ遠いのだ。

 息子はもしかしたら死んでしまったのではないか、という不安が消えて、ほっとする。それから「一万円は痛かったな」と、ふと、さっきの自分の行動を思い出し、ことばがでる。ほんとうは、もっと別のことが言いたいのだが、すぐにはそういうことばは出て来ない。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、大災害であれ、こどもとの連絡がとれないということであれ、どんなことでも人は初めて経験する。そして、その初めてのときは「ことば」は遅れてあらわれる。「あったこと」はすぐにはことばにはならない。何といっていいかわからないので、とりあえず、何かを言う。それは、いつかどこかで言ったような、ありきたりのことばである。そして、それは必ずしもその場にぴったりのことばではない。でも、それを言うしかない。何か言わないと、何かことばにしないと、次のことばが動いてくれない。
 その、「一万円は痛かったな」ということばに対して、妻が「いいよ、それくらい。」と応える。何でもないようだが、ここから季村の言う「出来事」があらわれる。「遅れて」あらわれる。池井と妻のこころがいっしょになって動く。家族という「こと」が静かに動く。その静かさが「こと」の確かさを証明する。「静か」が「たしかなこと」になる。
 息子の安否が確認できた。元気でいた。勤務先からの急な電話に応える息子の姿も見た。その家族の安心に比べると、一万円というのは何でもないことなのだ。
 そして、そのあとの、

子がいてくれるのは、いいな。
うん。

 この、「飛躍」がいい。息子のことが心配だった。一万円、ふいの出費があった。でも、息子が生きていること、元気で働いていることがわかった。それを「息子が元気でいてよかった」ではなく「子がいてくれるのは、いいな」と言う。子どものことを言っているのではない。自分のことを言っている。自分ではないだれかのことを、自分のことのように心配し、それから安心する。そういう「どきどき」を体験しながら生きるのは、つらいけれど、うれしい。そういう感じだ。
 最初に、この詩は小学生の日記のようだと書いたが、小学生の日記のように書きつないでいって、言うことがなくなった瞬間(書くべき出来事、報告すべき出来事がなくなった瞬間)、池井自身の「肉体」のなかにある「出来事」があらわれる。妻と愛し合って、子どもが生まれた、という「出来事」がふいにあらわれる。それは、ずっとつづいてきた「出来事」だけれど、初めてのようにしてあらわれる。つまり、「遅れて」あらわれる。「出来事」がことばになるまでの間に「遅れ(時差)」のようなものがある。その「遅れ」のなかへ、池井と妻は、帰っていく。
 突然、「幸福」がよみがえってくる。「いのち」がつながっている「幸福」が、「遅れて」やってくる。「実感」があとからやってくる。「出来事」というのは「実感」のことなんだなあ。「出来事」を「実感」と言い換えると、たぶん、ことばのしなければならない仕事、詩の仕事も見えてくる。無意識に感じているけれど、うまくことばにできないことを、口に出して言えるようにする。そのことばの形をととのえる--それが詩なんだなあ。
 だらだらと「親馬鹿」を書いてきて、最後も「親馬鹿」ではあるのだけれど、その「親馬鹿」のことばをととのえている。それがそのまま「暮らし」をととのえる力になっていく。ことばのしなければならない「必然」が、詩の形で動いている。

背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。
ヒトのこと、言えるか。私が応えた。

 漫才のようなやりとりを、夕映えの雲が姿を変えながら祝福している。
 ことばが「正直」に帰っていくとき、「必然」の詩が生まれる。ことばは、「正直」という「家(詩)」をめざして、どこまでも歩いていく。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(130)

2014-07-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(130)        

 「一八九六年の日々」はある男色の青年(?)の「堕落」を書いている。

その堕落は完璧だった。あいつの性的偏向は
御法度。断罪されても しかたのないものだった。

 そして、彼といっしょにいるのを見られたら「具合が悪い」ということになって、世間から抹殺されたのだが……。

だがこれで話は終わりかい。  それじゃあんまりだろ。
あいつの美の思い出は ずっといい。
そうなれば話は別。そこから見れば
ひたむきな愛の子。ほんものさ。
その純粋な肉の官能、 理屈抜きの純粋の肉体感覚を
ためらうことなく 名誉名声よりも上に置いているあいつ。

 この評価の部分がおもしろい。カヴァフィスはあいかわらず具体的な描写をしない。「あいつ」の美とは書いても、それがどんな美であるか、その「個性」を書かない。
 「ひたむき」「ほんもの」「純粋」ということばが「あいつ」の「個性」というのでは、読者はどういう「あいつ」を思い浮かべていいのかわからない。
 もしかすると男色には「個性」というものがないのかもしれない。あるいは「個性的すぎる」のかもしれない。自分の「ほんもの」「純粋」だけを信じているので、それを他のひとにわからせる必要がない。だから「ほんもの」「純粋」ですませられるのかもしれない。
 こんなことでは詩は味気なくなるはずなのに、カヴァフィスの詩は味気なくない。ことばを読んでいて、おもしろい。「あいつ」の姿が見えてこないのに、なぜか、彼を「美男子」と思い込んでしまう。
 そう思い込ませるのは何か。
 語り手の口調。ことばのリズム。「口語」の感覚である。
 この詩では「あいつ」はまったく動かないが(堕落した、ということはわかるが)、語り手は忙しい。「断罪されても しかたない」と批判したり「それじゃあんまりだろ」と反論したり。
 特に「反論」の口調がいい。「あんまりだろ」という「口語」の響き。「ほんものさ。」というたった一語の肯定。ぷつんぷつんと断片的にことばが動いてきて、「純粋」「肉の官能」「肉体感覚」とことばを繰り返すことでスピードをつけ、肉体のよろこびを「名誉名声よりも上に置いている」という長い文章(長い修飾語)。「上」というのは具体的なようで、ここでは抽象的だ。長い文章で、突然抽象的になる変化のなかに、あ、話者はこれをいいたかったのかという感じが強くなる。
 ことばの躍動を中井は訳出している。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(37)

2014-07-29 10:19:45 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(37)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「草葉」という詩まで読み進んできて、こんなところで、こんなことをいうのも変なことなのだが、池井の今回の詩集には「固有名詞」がないものがある。そういう作品が多い。たとえばこの「草葉」。

こんなところでみおろせば
いろんなはながさきみだれ
いろんなくさがおいしげり

 くさばのかげではたくさんの
 いろんなちいさなものたちが
 あちこちいったりきたりして

 どこのことを書いているのだろう。詩の途中まで読み進むと「ばすまつまでのつかのまを」という行が出てくるので、まあ、池井の家の近くなんだろうとは思うが、それにしても「実体」が見えにくい。そこに書いてある「もの」が具体的に見えてこない。「いろんなはな」「いろんなくさ」「いろんなちいさなものたち」と書かれても、花も草も虫も、私には見えてこない。何を思い浮かべていいのかわからない。「くさばのかげ」ということばからは私は「墓」を思い浮かべてしまうが、そうすると「いろんなちいさなものたち」というのは死者かな……でも死者だとどうもこの作品には合わないなあ。
 で、具体的なことは何もわからないのだけれど、「いろんな」ということばが気にかかる。「固有名詞」がないから「いろんな」になってしまうのだが、なぜ「いろんな」と書いてしまうのか。「いろんな」をつないでいるものは何だろう。

なもないあんなものたちも
ああしてゆききするところ
かえるところがあるんだな

 「いろんな」は「なもない」言い換えられている。「いろんな」は同時に「あんな」とも言い換えられている。「いろんな」だけでは池井と「いろんなもの」との関係がわかりにくかったが「あんな」と言い換えられてみると、その「いろんな」のなかには池井は含まれていない。池井から離れた存在であることがわかる。そうして、その「いろんな(あんな)」は「かえるところがある」ということで共通している。そうしたものたちを「かえるところがある」というとき、池井は「かえることろがない」と感じていることになる。
 池井はどこへ「かえりたい」のか。

 さくらのころもすぎこして
 いまはあおばがかがやいて
 いつかこずえがかぜにゆれ

それをだまってみあげている
ばすまつまでのつかのまを
みんなだまってかたよせて

 ふいに「みんな」が出てくるが、この「みんな」には「いろんなはな」などは含まれていない。「みんな」は「人間」である。そして、それは「いろんな人間」であるはずなのに、ここには「いろんな」は書かれていない。「いろんな」とは感じていないということになる。
 「みんな」ということばが「人間」をつないでいる。そこにいる人間をつなぐ何かを感じて池井は「みんな」と書いている。

 ひがしずみまたひはのぼり
 ひはのぼりまたひがしずみ
 くさばのかげにひがともり

おちこちあかりのうるむころ
あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ

 最後に「みんな」ではない「だれか」が突然あらわれてくる。「固有名詞」は割り振られていないが、この「だれか」は「固有名詞」である。つまり、置き換えがきかない。でも、それはだれ?
 「みおろしているいまもなお」の「みおろしている」という動詞を手がかりにすれば、それは一行目で「こんなところでみおろせば」というときの「主語」とおなじになるだろう。あのときあんなところで「みおろす」ことをしていたひとが、「いまもまだ」「あんなところで」「みおろしている」。つまり、池井が、あんなところで、いまもまだ、いろんな花や草を見おろし、虫たちを見おろしている。
 池井の意識(こころ/あたま?)のなかで、世界がぐるりとめぐって重なっている。
 そうであるなら、最初に「こんなところでみおろせば」と書いたとき、池井は、もうそのことを予感していたのかもしれない。草花を見おろしている「池井」をだれかが見おろしている。あるいは、草花を見おろす池井のなかにだれかがいて、いっしょに草花を見おろしている。
 「こんなことろで」と書いてあるのは、それは「ほんらい」の場所ではないからだろう。「場所」はほんらいのものではないが、「見おろす」(見おろしている視線を感じる)という「こと」は「ほんとう」なのかもしれない。
 何かを見おろす、見おろして何かを感じるという「こと」のなかに「ほんとう」がある。だれかの視線を反復すること(こんなところで、反復すること)のなかに「ほんとう」がある。「こんなところ」と呼ぶのはそれが「ほんとう」ではないからなのだが、「みおろし」「いろんなはな」「いろんなくさ」を見ることは「ほんとう」なのだ。
 繰り返すことができることだけが「ほんとう」であり、繰り返されるものは、繰り返されるたびに、繰り返しのなかで「ほんとう」になっていく。--というのは、抽象的すぎる言い方だが。
 「池井」が花を見るということを繰り返す。その「見る」ということは「ほんとう」。「動詞」が「ほんとう」。見られている「対象(もの/花・草・虫)」はそれぞれの固有名詞を必要としなくなり「花・草・虫」という「一般名詞」に帰っていく。かえってゆくところというのは「一般名詞」。この「一般」を別なことばで言うと「普遍」、あるいは「永遠」になる。花や草や虫には、そういう「一般」(普遍/永遠)がある。
 池井、あるいは「みんな」と呼ばれている人間には、その「普遍/永遠」とは何だろう。「家」ではない。「家族」ではない。(家、家族であるときもあるが……。)
 人間にとっては「見おろせば」の「見る」という「動詞」である。「動詞」なのかで、ひとは「普遍/永遠」になる。だからこそ、

あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ

 なのだ。「いまもまだ」と池井は書いているが、そこには「時間」がない。「いま」も「かこ」もない。時間がないから便宜上「いまもまだ」と「持続」として書くのである。「普遍/永遠」は人間にとっては「持続」のことである。「持続」できること(反復し、持続すること)が「普遍/永遠」である。そして「持続」は「ここ」でも「あんなところ」でもできる。「場」を選ばない。「持続(反復)」があらゆることを「いま/ここ」を「普遍/永遠」にかえるのだ。
 何をするでもなく、何をしていいのかわからず、ただ草花をみつめ、虫を見ている。そのことのなかにも「永遠」がある。
 繰り返し繰り返し考え、感じたために、その「繰り返し」だけが浮かんでくるようになった。「繰り返し」は、そのものが「肉体」として感じられるようになる(対象が無意識になる)ので「固有名詞」ではなくなるのだ。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(129)

2014-07-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(129)        2014年07月29日(火曜日)

 「アンナ・ダラシニ」は、アレクシオス・コムノニス皇帝が母アンナ・ダラシニを讃えた詔勅について書かれたものである。

聡明な妃殿下アンナ・ダラシニ。
いさおしも立居振る舞いも、模範というもおろか。
賛辞は数かぎりなくあるが、
ここでは一つ挙げるにとどめる。
美しく気品あるこの一句。
「こは”わがもの”そは”汝がもの”てふ
冷たきことばを決して口にされざりし きみ」

 アンナ・ダラシニの評価を簡便に書きつらねたあと、アレクシオス・コムノニス皇帝の詔勅を最後に引用している。詩集の前半にあらわれた「墓碑銘」に何か似ている。誰もが知っていることを(歴史的な評価を)そのまま書いている。それを「他人の書いたことば」で伝えている。
 カヴァフィスの個性は、どこに? カヴァフィスにしか言えないことばは、どれ?
 こういうことを考えると、どうにもわからなくなるのだが、その「わからない部分」にこそ詩がある。
 「カブァフィスの個性」「カヴァフィスにしか言えないことば」というものを考えているとき、私たちは「意味」を想定してしまう。カヴァフィス独自の「評価」を読み取ろうとしている。カヴァフィスは、最初からそういうものを表現しようとはしていない。「意味」ではないものを書いている。
 ことばの調子、ことばのリズムと旋律。ことばを省略し、省略することで、ことばを読んだひと(聞いたひと)が、ことばを補うように仕向けている。読者がことばを補うとき、ことばは読者の「肉体」のなかで動く。読者が自分で考え出してかのように、ことばが動く。(カヴァフィスの原文がどうなのかはわからないが、中井久夫は、そうなるようにことばを書いている。)
 たとえば、「いさおしも立居振る舞いも、模範というもおろか。」という行ならば、読者は、「模範というもおろか、模範を通り越した絶対的な模範である」とことばを追加する。自分で追加したことばは、そこで読むことばよりも早い。読者自身の肉体になじんでいるからである。
 そんなふうに読者のなかで読者のことばが動くように仕向けておいて、絶対的に動かせないことばをそれに対比させる。「引用」。そのとき「文体」をかえる。すると、そこにはっきりと、自分ではない人間の「声」が響きわたる。「異質」なものとして響く。わかりきっている「評価」なのに、初めてのように聞こえる。鮮烈に聞こえる。詩として聞こえる。
 これを中井久夫は「文語(旧仮名遣い)」で表現している。この対比の浮かび上がらせ方はすばらしい。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(36)

2014-07-28 11:03:05 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(36)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「野辺微風」は「人類」の続編と呼べるかもしれない。東日本大震災について何か書こうとして、その何かがうまく書けなかった。書き残したことがある。それを書き直したという印象がある。

こんなことでも なかったら
こうして であえなかったろうに

 こんなことでも なかったら
 だれとも であえなかったろうに

こんなことでも なかったら
こんなことでも なかったら

 「こんなこと」としかいいようのないことがある。起きたことが未体験のことなので、それをことばにする方法がわからない。「こんなこと」としかいいようがない。「こんなこと」で通じてしまうのは、誰もがいっしょに経験したことだからである。具体的なことを言わなくてもわかる、いや具体的なことは「こんなこと」としかいいようがない。まだ、ことばはあらわれてきていないのだ。季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』(みすず書房)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、「こんなこと」がことばになるにはやはり時間がかかる。「こんなこと」がことばのなかにやってくるのは、もっと遅れてからである。でも、そういうものを待っていて書くのではなく、いま書きたい、いま書かねばならないという気持ちが、ことばを動かして、こうして詩になっている。(「人類」もやむにやまれずに、突き動かされて「ことば」を動かした詩といえるだろう。)

 けれども あいたくなんかなかった
 だれとも あいたくなんかなかった

こんなことさえ なかったら
こんなところで ひとりきり

 「便りのないのは無事な頼り」という言い方があるが、だれとも会わずに暮らせる「平穏」というものもある。誰に会わなくてもつづけられる「日常」というものがある。誰かに会わなければいけないのは非日常なのである。
 東日本大震災のあと、被災者は、誰かに会わなければならなかった。会うことが生きていることを伝える唯一のたしかな方法だからである。そんなふうに切羽つまられること--そんなことなど、だれもしたくなかっただろう。
 しかも、「ひとりきり」で誰かに会う。「ひとりきり」なのは、ほんとうに会いたいひと、いっしょにいたいひとがそこにいないからである。「こんなこと」が人を引き裂いている。
 そんな思いで、人は出会っている。そのとき、安心と、悲しみが同時にある。

 こんなことさえ なかったら
 みんなおんなじ ひとりきり

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 こうして さいて いられたろうに
 いちめん ゆれて いられたろうに

 普通は、なんにもないときは、ひとはみな「ひとりきり」である。誰かと会っている、いっしょにいるということを意識する必要はない。けれど、今は、意識するために生きている。いっしょにいるということを確かめるために生きている。だれといっしょにいるのか、だれがいっしょにいないのか、それを確認するために生きている。まずしなければならないのは、そういうことだと神経が張り詰めている。

 それから時間が経って、いま、目の前では野の花が咲いている。風にゆれている。もし、大震災がなかったら。--そう、池井は、この詩を書いたとき思っていたのだと思うが……。そうだとして、

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 繰り返されるのは「あんなこと」ではない。「こんなこと」。大震災も福島第一の事故も「あんな」という離れた「こと」ではなく「こんな」という自分に接続したものなのである。
 「こんな」はつづいている。
 池井はいま「こんなこと」と書くことで、大震災と福島第一の事故を引き受けているのである。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(128)

2014-07-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(128)        
 「口語」の不思議さは、「ことば」の「意味(頭の中で整理されることがら)」が正確にわからなくても、それを話しているひとの「感情の真実(こころのなかで起きていること)」がわかることだ。「ユリアノスとアンチオキアびと」の最後の二行。

だからさ、みんな揃って「キ」を選んだ。
揃って「コ」を選んだ。ああ百度でも選んださ。

 「キ」と「コ」が何をあらわすか--それがわかる前に、「キ」と「コ」がこころから望んだものではないことが伝わってくる。正確に口にするなんて、まっぴら。その強い感情から出発して「キ」と「コ」が何をあらわしているか、人は直感的につかみ取る。「頭」を通さずに、嫌悪という感情でつかみ取る。こういうときの感情の判断は頭の判断よりも正確である。感情は絶対に間違えない。事実というより、感情を共有するのかもしれない。
 この「ああ百度でも選んださ。」という投げやりなことばの背後には何があるか。感情は、あるいは本能は、ほんとうは何を選びたかったのか。何に親しんでいたのを奪い取られたのか。
 それは最初に書かれている。

そもそもがだ、みんなだ、一体全体どうしてあの美的生活をだ、
捨てられるってのか。あの快楽の日々のひろがりのすべてを。
さんざめく芝居小屋。あのかがやき。
しなやかな肉のエロスと芸術がひとつに溶ける劇場!

 「キ」。キリスト教以前の生活。快楽に満ちていた。
 「そもそもがだ」「みんなだ」「生活をだ」と「だ」によって、文章を「単語」に切り詰めて、その一瞬一瞬に何かを爆発させる言い方--全体を無視して、その一瞬にかける動き。これはそのままセックスにつながる。「快楽の日々」の人間の動きに合致する。
 「捨てられるってのか。あの快楽の日々のひろがりのすべてを。」という倒置法は「捨てられない」という欲望の強さ(欲望の悔しさ)を強調すると同時に、「快楽」をそれと同等のものに輝かせる。
 倒置法によって強調された「快楽」が、そのまま次の行に直接つながっていく。
 これが「あの快楽の日々のひろがりのすべてを捨てられるってのか。」という普通の文章だったら、次の「さんざめく芝居小屋……」と言いなおされる快楽の広がりが遠くなってしまう。
 中井久夫の訳は、欲望(本能)が触れ合っている部分を、触れあったままの形でつかみ取って再現している。こういう感情(欲望)の正直な動きを「口語」として聞いたあとなので「キ」ト「コ」が何を意味しているのかわからなくても、それが何を指しているのかが直観としてわかってしまう。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(35)

2014-07-27 09:06:09 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(35)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「人類」は東日本大震災、福島第一原発の事故を踏まえて書かれている。

ゲンパツの跡地から
恐竜の骨が出土した

恐竜が絶滅したのは
おおよそ六千五百万年前

いわゆる白亜紀末のこと
ジンルイの影もなかった

いったい何があったのか
おおよそ六千五百万年

いわゆる西暦二千数十年
跡地は更地へあらたまり

やがて野花が咲きみだれ
人影はどこにもなかった

 「意味」が強い詩である。原発の跡地は更地になり、野の花は咲いているが人間はいない--それが福島第一原発の将来の姿である。六千五百万年前に恐竜が絶滅したように、人間もまた絶滅するかもしれない。それでも「野花」は咲き乱れる。それが池井の想像している世界である。
 おもしろくもおかくしもない詩である。原発事故に対して、おもしろ、おかしくは求めてはいけないことなのかもしれないが、なぜ池井がこの詩を書いたのか、私にはよくわからない。
 人間(ジンルイ)は信じられないが、野生の花の力は信じる、ということなのだろうか。

 池井は、この詩ではいったい誰と、あるいは何と「一体」になっているのだろうか。
 詩集には、こういう詩もある。
 この変な感じが「いま」を伝えている。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(127)

2014-07-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(127)        2014年07月27日(日曜日)

 「ソフィスト、シリアを去る」はソフィストに「あの名高いメヴィス」のことを書かないかと誘いかける詩である。その「口調」に詩がある。

見目のよさは最高。アンチオキア切っての騒がれる青年。
またとない人生。あれだけかかるのはいない。
メヴィスを二、三日囲うとするだろ。
百スタテルだぞ、おい。アンティオキアでな、
いや、アレクサンドリアでも、ローマでさえもだよ、
メヴィスみたいな よか二才(にせ)はまたとないよ。

 「よか二才」--好青年(九州語)、古語「兄(せ)」より、と中井久夫は注釈に書いている。中井は雅語、俗語、漢語、和語をとりまぜて詩の「声」を再現しているが、ここでは九州の「口語」をつかって、感覚をいきいきと伝えている。いつもなじんでいることばが、気心の知れた身内に語りかけることばが、制御がきかないまま噴出している。
 「あれだけかかるのはいない。」と突然金の話からはじまる。ただし「金」ということばはつかっていない。(原文にはあるかもしれないが。)「かかる」ということばだけで「かね」とわかる。そういう雰囲気のなかでことばが動いている。
 中井は「意味」よりも、「場」の雰囲気、そこで起きている「こと」に重点をおいて翻訳している。
 「金」を意識させたうえで、その経費が何のための経費かを説明する。「囲うため」。この俗語も強烈である。恋人として自分のそばにおいておくために金がかかる。「二、三日囲うとするだろ。/百スタテルだぞ、おい。」という倒置法と念押しが強烈だ。「だろ」「だぞ」「おい」という荒々しい響きが、語り手の欲望を露にしている。
 そこにはメヴィスへの羨望と同時に、彼を恋人として囲うことのできる人間への羨望も含まれている。
 そうした感情の発露にあわせて、「よか二才」が飛び出す。「よか二才」と言った人間は、そのことばを発した瞬間「方言(九州語)」を話しているという気持ちはないだろう。無防備に、感情があふれている。
 引用が逆になるのだが、これは書き出しの二行と比較すると、よくわかる。

おえらいソフィストくん、今シリアを去るところだね。
「アンチオキア論」執筆の企画を持って--。

 ここには方言がないし、口語の、直接感情に呼びかけてくる強さもない。ことばは感情を遠回りして、慇懃に相手に語りかけている。
 このことばの調子がメヴィスを「見目のよさは最高」と言った時から乱れはじめる。「囲う」という俗語で欲望が刺戟され、暴走していく。そのリズムを中井は巧みに再現している。たぶん、カヴァフィス以上に、と思ってしまう。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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池井昌樹『冠雪富士』(34)

2014-07-26 10:27:13 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(34)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「歌」というのは「論理」とは違って、かなりいいかげんなものを含んでいる。--と書くといろんなひとから叱られそうな気がしないでもないが(この詩集を書いた池井からも叱られそうだが)、どこかに「論理」をつきやぶって動くものがあることばが「歌」なのだ。そして、その「論理」をつきやぶって動くことばというのは、詩なのだ。
 「日和」は家を出てバスに乗るまでのことを書いているのだが、

きせつはずれのうろこぐも
こころがそらにすわれそう
でも
にんげんばかりがいとわしく
にんげんわたしがうとましく
にんげんとすれちがうたび
しかつめらしくめをそらし
なにおもうのかうつむいて
でも
くさばなはかぜはよろこび
こころもかぜにそよぎそう
こんないいおひよりのあさ

 日和のいい朝なのに池井の気持ちは「にんげんばかりがいとわしく/にんげんわたしがうとましく」と、朝の気持ちよさとは「矛盾」して動いている。いや、逆か。「にんげんばかりがいとわしく/にんげんわたしがうとましく」感じる朝なのに、草花、風が喜んでいるのに気づいてしまう。朝がめぐってくること、草花がいきていることと池井は無関係だからといえばそれまでなのだが、そして私はきのう、その「無関係」を「非情/永遠」ということばと結びつけて屁理屈を書いたのだが。
 「非情/永遠」と書いたくらいでは、おさまりのつかない「矛盾」がそこにある。
 どうして、私たちは、「にんげんがいとわしく」「わたしがうとましく」感じられるときにも、「くさばな」や「かぜ」にこころが動いてしまうのだろう。もちろん、暗い気持ちにあわせて草花も風もうるさく感じるときがあるのだけれど、そうでないときもある。これはなぜなんだろう。
 何かが「矛盾」している。そして、その「矛盾」に人間はすくわれている。

 池井の詩は、こんなふうにつづいていく。

うちをでて
ばすにのる
ほんのつかのま
のしりのしりとあしあとが
おおきなふるいあしあとが
うちよりずっとおとくから
ばすもかよわぬずっとさき
へと
にんげんわたし
おきざりにして

 私は草花や風(自然)を「非情」と考え、「非情」ゆえに「永遠」であると考えるのだが、池井は違う。
 草花や風は「あしあと」とともに遠くからやってきて、遠くへとつづいていく。それは「にんげんわたし(池井)」を「おきざりにして」つづいていく。それは「非情」に見えるかもしれないが、それ自体「情(こころ)」をもっていて、人間を超越した「こころ」をもっていて、そのこころゆえにつづいていく。歩いていく。自立した存在なのだ。
 その「つづいていく」ものについて池井は「のしりのしり」という大きな感じのことばをつかってあらわしている。「おおきな」と言いなおしたあと「ふるい」ともつけくわえている。
 それは池井の「いのち」以前からはじまり(古い、というのは池井よりも古いという意味である)、池井よりも大きく重いのだ。その「いのち」、その「ちから」が草花と風を存在させている。
 池井は、そういうものを感じている。
 そして、そう感じているとき、池井は、その「いのち」「ちから」よりも、「つづいている」ことの方に力点を置いているかもしれない。それが「ある」というよりも、それが「つづいている」(歩いている)にことばの重点を置いているかもしれない。「あしあと」ということばが、そういうことを象徴している。




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中井久夫訳カヴァフィスを読む(126)

2014-07-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(126)        

 「僧侶・信徒の大行列」について中井久夫は三六三年、ユリアノスが戦死し、キリスト教徒ヨノヴィアノスが跡を継いだと背景を説明している。ユリアノスの死後における十字架の凱旋を記述したテオドレオスの『教会史』に触発されて書いた詩か、とも。そういう「史実」よりも、この詩が「現在ギリシャの学校で教えられる「肯定的な詩」であると聞く」と書いているのがおもしろい。「ある」と言い切らずに、わざわざ「と聞く」と中井が書いたのはどうしてだろう。「肯定的な詩」という評価に疑問をもったからではないのか。--もっとまわった言い方になってしまったが、私も、「肯定的な詩」という評価(感じ)には疑問をもっている。
 「肯定的」という感じとは違うものが、この詩にはある。私は中井の訳しか読んでいないので、断言はできないが、中井はこの詩を「肯定的」とは違うことばの調子で訳している。
 十字架の行列を見たときの、異教徒の反応。

異教徒め、さきほどまで胸をはっていばりくさって、
どこへ行きおった? あ、うろたえて
こそこそ行列を避ける。逃げ去る。

 この描写の「声」は、すこし自惚れている。ほんとうの勝者なら、こういう威張り方(視点の動き)はしないだろう。あるいはほんとうの戦士もこういう言い方はしないだろう。もっと「冷静」だ。「逃げ去る」は単純に「逃げる」だけではないかもしれない。反撃をするために「逃げる」という作戦もある。そういう配慮を欠いた「あからさまな声」を「肯定的」ととらえるのは、どうも腑に落ちない。

行かせよう。去るに任せよう。
(あやまちを捨てないうちはな)

 これは「あやまち」を捨てて異教徒がキリスト教徒に帰依するまで待とうという自信たっぷりな「声」である。こういう「声」だけで詩が構成されているのなら、たしかに「肯定的な詩」と言われてもいいだろうが、「威張りくさって」という「口語の批判」、「うろたえて」という蔑視を「こそこそ」という「口語」で追い打ちをかけるような響きのなかには、何か「肯定的」と呼ぶのをためらわせるものがある。

あの聖ならざるユリアノスのアホウの支配がついに終わった。

 この「アホウ」のつかい方も、街なかで、「口語」でしゅべっている分にはいいだろうが、「学校」で引き継ぐようなことばではないだろう。異教徒ユリアノスを批判するにしても、もっとほかのことばがありそうだ。ユリアノス批判は市民の間では常識だった(口語で語られていた)としても。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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和田まさ子『なりたいわたし』

2014-07-25 09:55:07 | 詩集
和田まさ子『なりたいわたし』(思潮社、2014年07月15日発行)

 和田まさ子の作品については何度かこの「日記」で書いている。そのとき取り上げなかった作品を取り上げようと思ったけれど、むりにあれこれ考えるのは嫌いなので、前に取り上げた作品についてまた書いてしまう。「生きる練習」と「皿」が、私は好きだ。
 「生きる練習」のなかほど。

私はいまサバの味噌煮になっている
サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう
生きるために冷凍庫から冷蔵庫に入るしかなく
カチカチのものが
徐々にできたてのものになっていくために時間を逆走する
あるいはそれは再生の試み

 「サバの味噌煮」といっても、できたてのものではなく、和田がなっているのは一度できあがって冷凍保存されている「サバの味噌煮」。なぜ、そんなものになっているか、ということは問うたってしようがない。和田はなぜ女のなのか、と問うたって仕方がないのに似ている。それは変更がきかない何かなのだ。変更がきかないことを聞いたって仕方がない。
 で、「冷凍のサバの味噌煮」与えられた仕事というのは、食べられる柔らかさになって、食べられてしまうということなのだろうけれど。

生きるために冷凍庫から冷蔵庫に入るしかなく

 たとえば、この行の「冷凍庫から冷蔵庫に入る」という部分が、私はとても好き。ぞくぞくしてしまう。冷凍のサバの味噌煮をやわらかくする方法は、何も「冷蔵庫に入る」こととはかぎらない。「冷水」にひたしたっていいだろうし、凍ったままをフライパンで温めてもいいはず。でも、和田は冷蔵庫に入る方を選んでいる。その選択に、和田の「暮らし」が見える。和田の「肉体」が見える。「思想」が見える。そうか、和田はじっくりと時間をかける人間なんだなあ、と思う。時間がかかることを気にしないのだ。
 時間が気にならないから、サバの味噌煮のなかへ微速度で入っていく。変化を微速度で再現して見せる。

どこから解凍されるのか考える
わたしは味噌汁の汁に浸かって
ビニール袋に個梱包されている
はじめに味噌の汁が融けてくるのか
あるいはわたしの背の皮から少しずつ融けるのだろうか

 あ、そんなこと「考える」必要があるの?
 まあ、ないね。考えなくたって、どこかからか融けはじめる。そのことにかわりはない。でも考えたい。
 うーん、そうなのか。
 何かになるということは、何かを考えるということなのか。そして、それはたぶん、自分ではないものについて考えることだね。--ちょっと、めんどうくさいことを書いてしまったかな?
 和田は「冷凍のサバの味噌煮」になった、そしていま解凍されていると書いているのだが、和田が「なる」というとき、それは「考える」ことと同じなのだ。サバの味噌煮になってしまったのなら、何も考えなくてもいいじゃないか、どうせ食べられるだけなんだから……というのではなく、自分ではなくなったからこそ和田は「考える」のである。
 で、「考える」というのは、どういうことかというと。
 私は面倒くさがり屋なので、感覚の意見にしたがって、飛躍して書いてしまうが、「考えるとは、ことばがどんなふうに動いて行けるかを確かめること」なのである。
 もし、わたしがサバの味噌煮になったら、ことばはどんなふうに動いて行けるか。何を手がかりに、どこへ動いていくのか、それを確かめることが「考える」ということだ。そして考えるとき、その手がかりにするのが和田の場合、暮らしである。暮らしのなかで身に着けたこと(観にしみ込んでいること)を手がかりに和田はことばを動かす。その、暮らしへの密着感がとてもおもしろい。
 知らないことを(たとえばサバの味噌煮になるという未体験のことを)、知っていること、おぼえていること、肉体にしみ込んでいることから見つめかえす。冷凍したものを解凍するとき、あれはどこから融けたっけ……。固体のまわりの液体部分? まわりが融けて液体になるのか、液体が先に融けて固体へ進入していくのか……。そのとき和田は、暮らしを思い返すことはしても、よそから「知識」を借りてくることはない。
 繰り返しになるが……。冷凍のサバの味噌煮が解凍されて、融ける。そのときその「融ける」はどこからはじまるのか。それを「考える」。実際に「体験」するまえに、何かが「融ける」というときの動きを思い出して、それをあてはめてみる。「肉体」がおぼえていることを思い出しながら、まだ起きていないことをことばとして動かしてみる。「科学」のことばも、「現代思想」のことばも借りずに、和田は自分の「暮らし」をふりかえる。暮らしを借りてくると言い換えてもいい。
 そのとき「肉体のおぼえていること」と「未知のこと」が出会う。出会いながら、その「未知のこと」を「おぼえていること」でととのえようとする。まるで、ことばをととのえて「未知」を描き出せば、「こと」はそのとおりに起こると信じているかのように。
 たぶん、私たちは、新しいことをするとき、そんなふうにしてるんだろうなあ、と思う。和田は、そういうことを書いているのではなく、サバの味噌煮が融けるときのことを書いているのだが、そのありふれたことが、何か非日常、未知のことのように見えてくる。「考える」という運動のなかで、何か忘れていたものが「肉体」の奥から甦って、「肉体」をくすぐる。私はくすぐったがり屋なので、笑ってしまう。そして笑っているうちに、それが「肉体」の反応ではなく、「こころ」まで笑いに感染してしまう。「ああ、おかしい」と思ってしまう。
 この「おかしさ」「笑い」が詩なんだろうなあ。(あ、飛躍したかな?)

味噌の中は塩辛くてひりひりするのか
ねっとりとした感覚は心地よいのか
わたしがここにいるとはだれも知らないのだが
もうそれはどうでもいいことで
さあこれからは
解凍されるのを感じていくのだ

 「考える」がいつの間にか「感じる」と動詞が変わっていくのだが、どうしてだろう。「ひりひり」するのか、「ねっとり」するのか、とことばが「肉体」に則して動くからだろう。自分の「肉体」を基準にして、その「肉体」に起きる変化を見つめるからだろう。ここでは和田は「融ける」を考えているのではなく、それといっしょにある「肉体」を考えている。「肉体」にこだわっている。「肉体」を思い出している。「非日常(ありえないこと)」を書きながら、和田は「肉体」を離れない。むしろ「肉体」の奥へと引き返していく。「肉体」のなかでことばを動かす。こういう、「肉体」を離れない「思想」は強いなあ、と感じる。


なりたいわたし
和田 まさ子
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(33)

2014-07-25 09:52:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「赦されて」。これも同じように「歌」なのだが、

ぼくはなんにもできなかったし
なんにもしてやれなかったし
そのうえなんにもおぼえてないし
どんなばちでもあたっていいのに
どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき
みんなすっかりわすれはて
きれいさっぱりわすれはて
ここはいったいどこいらの
いったいいまはいつころか

 こういうことは、だれにでも思い当たることがあると思うけれど(思うことがあると思うけれど)、よく考えると不思議なことではないだろうか。
 「なんにもおぼえていない」のに「ぼくにはなんにもできなかった」「なんにもしてやれなかった」ということは覚えてる。どうして「できなかった」「してやれなかった」は覚えているのだろう。
 こんなことを書くと「揚げ足取り」をしているみたいだが、そうではなくて、これは意外と重要なことなのではないか、と思う。
 これを「論理的(?)」に問いつめていくと、きっと「間違い」にたどりついてしまう。「論理的」に考えずに、ただ、そうだね、そういうことがあるね、と受けてとめればいいのだけれど--そう知っているけれど、私は少し「理屈」をこねてみたい。

 「できなかった」「してやれなかった」を覚えているのは、ほんとうは「したかった」ことを覚えているということではないだろうか。
 でも、その「したかったこと」とは何だろう。

どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき

 これが「したかった」こと。
 はなのにおい、やさしいにおいといっしょにあること、それをしたかった、してやりたかった。
 これでは、やっぱり何のことがわからないのだが……。

 わからないことは、わからないまま、ぼんやりとほうっておく。そうした上で、思いついたことを書くと、ここに書かれている「におい」。そのことばに、私は、池井の「本質」のようなものを感じる。(ここから、「屁理屈」を言ってみたいのだ、きょうの私は。)
 池井は基本的に「嗅覚」の人間である。嗅覚の詩人だ。
 そこにある「空気」を吸い込み、吐き出し、つまり呼吸して、そこにある空気と一体になる。そのときに「幸福」を感じる。
 色や音や手触りで幸福を感じるのではなく、そこにあるものを「呼吸」し、その「匂い」にすっぽりと包まれる(同時に、その匂いを池井の肉体でつつむ)ときに、「幸福」を感じる。そういう「幸福」のなかにいたかった。そして、誰かに対しては、そういう「幸福」をいっしょに分かち合いたかった。それがしたかったことなのだ。「空気」を吸い込むとき、呼吸するとき、その「空気」というものは、そこにいるすべてのひとに区別なく分け与えられている。この見境のなさ、それが「幸福」である。
 「見境がない」というのは、別のことばで言えば、「空気」は勝手に存在しているということでもある。

 ここから、私はちょっと飛躍する。(かなり飛躍する。そして、強引に、飛躍を「地続き」にしてしまう。屁理屈で……。次のように。)

 「なんにもおぼえていない」のに、いま、ここで感じているものが、「はなのにおい」「やさしいにおい」であることがわかる。「におい」(嗅覚)は人間のもっとも原始的な感覚であり、最後まで記憶に残っているそうだが、池井はその「におい」を忘れることができずにいる。そして「におい」が甦るとき、「におい」のなかから「はなの」と「やさしい」があらわれてくる。形をとる。
 それは、池井の存在とは別に、勝手に存在している。
 池井がどう感じていようが、その感じていることとは無関係に「におい」のなかに、「はな」は存在し「やさしい」は存在している。この「はな」や「やさしい」の勝手さを、「非情」ということもできるし「永遠」と呼ぶこともできる。
 「非情」と私が呼んでしまうのは、「はな」も「やさしい」も池井の「情」とは無関係だからである。「永遠」と呼んでしまうのは、それが池井の存在している「時間」とは無関係の別の時間に属しているからである。
 池井は何にもおぼえていないと書きながら、その非情/永遠の存在だけはしっかりおぼえている。忘れることができない。
 それを「におい」を嗅ぐように、呼吸したい。

 そう思ったとき、また、別のことにも気がつく。
 池井はいつだって「どこかではなのにおいがし/やさしい匂いがなかれてき」ということを体験している。池井はその「幸福」から離れて生きることができない人間なのである。だからこそ、誰かに対して「なんにもできなかったし」、誰かに対して「なにんもしてやれなかった」という思いが募る。
 それは、また池井が誰かから「何かをしてもらった」ということは、忘れることなくおぼえているということでもある。

なんだかなつかしいひざに
しどけなくただあまたれて
びろうどばりのあるばむの
せぴあいろしたいちまいに
もうあとかたもないものたちと
うまれてまもないこのぼくと
ぼくだけいまにもなきそうに
あらぬかたみて

 これは池井の子どものときの記憶である。「おぼえていること」である。
 池井は家族に愛されていた。家族の愛につつまれていた。それは「はなのにおい」につつまれること、「やさしいにおい」につつまれることと同じである。
 しかし、そういうときも、池井は、そこにある「におい」だけでは満足せずに、「あらぬかた」を「みて」いる。
 「どこかではなのにおいがし/やさしいにおいがながれてき」ているのを感じている。ものごころのつかない先から。「永遠/非情」に見つめられ、見つめかえし、その「におい」を感じている。

 池井は詩人であることを「赦されて」いる。いま、そうなのではなく、生まれたときから、「赦されて」ている。「赦されて」いる人間だけが感じる「苦悩」のなかに池井はいる。
 「宿命」とか「運命」というものを私は信じるわけではないが、池井の詩を読むと、そこに何か「必然」を感じてしまう。詩人の「必然」。私なんかとは無縁の「必然」の美しさを感じてしまう。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(125)

2014-07-25 09:49:32 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(125)        2014年07月25日(金曜日)

 「タベルナにて」は失恋した男の「声」を書いている。

ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアに いたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手を取って 行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸だもな。

 途中にはさまれた「ちくしょう。」が美しい。短くて、響きが強い。次の行の「息子め」の「め」もいい。「息子」と言うだけでは言い足りない。けれど、長々しくは言いたくない。「め」に「主観」が炸裂する。
 「ナイル……」以下のことばは、長い。一行目の「はいずりまわる」ということばそのままに、「理由」を求めてはいずりまわっている。そこには「声」の強さがない。「主観」がない。--というのは、変な言い方かもしれないが、「理由」をつけて自分を納得させようとする「弱い」何かが動いているだけだ。「理由」はいわば「客観」であり、それは「主観の声」を弱めてしまう。
 ここから「抒情」がはじまる。「弱い主観の声(声の主観の弱々しさ)」が共感を求めてさまようとき、それは「抒情」になる。
 失恋した(捨てられてしまった)男の「救い」とは……。

いちばん花のある子だったタミデスが まる二年
私のものだった。あまさず 私のものだった。
しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと。

 豪邸やナイルの近くの別荘目当てではなく、タミデスが「永遠にあせない美のような、わが身体」が目当てだったと、思い込んでいる。そう思えることが「救い」なのだ。
 だが、これはほんとうだろうか。
 この「救い」は私には、どうも「嘘」に思えて仕方がない。豪邸と別荘をもたない自分には、かわりに美しい身体がある--というのだが、それがほんとうに美しいのなら(魅力的なら)タミデスは去らないだろう。「私」は「永遠にあせない美」と思っているが、それは「豪邸」と「別荘」の前に瞬時に消えてしまった。
 タミデスが「私」にそういうものを求めなかったのは、そのときは、そういうものが存在すると知らなかっただけである。そういう「肉体」以外のもので誘ってくる人間がいると知らなかっただけである。そういう「残酷な事実」を隠して、「論理的な分析」で自分をごまかす--そこに「抒情」のいやらしさがある。
 それは人間のいちばん弱い「声」をゆさぶってくる。「これなら自分にも言える声」と思わせる「声」で共感を求めて、すり寄ってくる。これなら他人に同情(共感)してもらえるかもしれないとささやきながら。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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