詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(34)

2024-04-28 15:39:39 | こころは存在するか

 和辻哲郎が、マイヤーのことばを引用している。マイヤーは「歴史の基礎理論をアントロポロギー(人類学)」と呼んでいる。それは「しばしば誤って歴史哲学と呼ばれている」。
 歴史哲学は人間学と呼ばれるべきである。これはマイヤーの理解の仕方であり、理解は常に「表現」をもっと具体的に示される。おもしろいのは(重要なのは)、その理解の仕方を「誤って」と呼ぶところにある。たぶん、マイヤー以外のひとは、マイヤーの説(表現)を「誤っている」というだろう。
 「歴史哲学=人間学」を統一することばあれば、この「誤り」は止揚されるだろう。
 和辻は、それを「倫理学」ということばで止揚(統一)したいのである。
 この私の「理解」は「誤っている」か。
 「誤って」いても私はかまわない。私はもともとすべてのことばを「誤読」したい人間である。つまり「誤読」をとおして、私自身の考えていることを書きたい。和辻の感じ得ていること(考えたこと)を「説明」したいわけではない。

 いま書いたことと、直接関係はないのだが、私はときどき思い出すことがある。
 私が小学1年・2年のときの担任は石田先生。参観日に、その先生が「私は、遠眼鏡をもっている。だからみんなが家で何をしているか、すべて見える」というようなことを言った。無学の母は、そのことばを真実と思い、よく私に「石田先生は遠眼鏡をもっているから、なんでも見ている」と言った。幼いながらも、私はそんなものがあるはずがないと思っていたが、つまり母は間違っていると思っていたが。
 最近思うのである。母もそんなものがあるはずがないと知っていたかもしれない。知っているけれど、わざと、そのことばを繰り返したのかもしれない。その場合、母は間違っていたのか。母の行動は「誤っている」のか。これが、むずかしい。私に間違ったことをさせないために、あえて、そう言いつづけたのか。もし、そうだとすると「誤り」は、どこに存在するのか。
 「理解」というものに「誤り」は存在するのか。「理解」はつねに「表現」をともなう。「誤り」というものを、どこで把握するか。それがむずかしい。もし「誤り」というものがあったと仮定して、それでは、それをどうやって「乗り越える」か。
 誰も、「誤り」たくて「誤る」わけでは、ない。

 この歳になって思うのだが。
 私は両親といっしょに暮らした期間が意外と短い。そのせいばかりではないと思うが、いちばん身近な両親のことを語ることばをもたない。何を考えていたのか。それを私のことばで語り継ぐことができない。これは、とても奇妙なことである。どんな人間もことばをもっている。ことばで考えている。そして、だれもが幸せというものを目指して生きている。「石田先生は遠眼鏡をもっているから、なんでも見ている」と繰り返した母のことばも、そうしたものを目指していたはずだ。そう思うけれど、どうことばにすれば、そのことばに近づくことができるか。どう「誤読」すればいいのか。

 

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こころは存在するか(33)

2024-04-14 21:39:30 | こころは存在するか

 和辻哲郎はハイデガーについて言及することが多い。「風土」はハイデガーの「存在と時間」を念頭に置いている。
 ハイデガーは人間存在を時間をもとに考える。空間性を考えない。しかし、和辻は常に空間を考える。その「空間性」を「間柄」という、とても日本的なことばで考え続ける。だからだと思うが、私の知っているコスタリカ人は「風土」を読み、これは日本人論だと言った。
 そこから私は、ハイデガーの「時間論」に引き返し、「風土」が日本人論ならば「存在と時間」は「西洋人論」なのではないか、と思った。「西洋人論」というのは変な言い方になるが、別の言い方をすれば「キリスト教の人間論」(一神論の人間論と言った方がいいかもしれない)になる。コスタリカ人を「西洋人」とは、日本人はたぶん呼ばないが、コスタリカはキリスト教が信じられている国、一神教への信仰が強い国である。だから、私の知人も無意識的に、「一神教」の影響を受けていると思う。
 西洋人(だけではなく、アラブ人もそうだが、いわゆる一神教を信じるひとたち)の意識は、「個人対神」の関係のなかで動く。唯一の神に向き合い、自分を考える。しかし、多くの日本人は「絶対神」というものを考えない。「絶対神」の意識がない。「神」とどこにでもいる。木々も神なら山も神。川も石も神かもしれない。神が無数に存在するから、「神」と向き合うことで「個人」に立ち返るということがない。
 西洋の「神」が「一人」(絶対的)であるのに対し、日本の「神」は無数(多数)に存在している。日本人は「一神教」の信者とは違って「神」と「一対一」にはならない。個人的立場から見れば、いつでも「一対多」である。
 そして、この「一対多」というのは、どうも「社会」(世界)そのものの構造でもあるように感じられる。「私」が存在するとき、いつも周囲に「多数のひと」がいる。そして、この「多数の存在」を考えるとき、そこにはどうしても「多数」を受け入れる「空間」が必要になる。
 「神」と「一対一」で向き合うとき、そこに「空間」があるとしても、それは「直線」である。「面」のひろがりを必要としない。この「直線(あるいは線)」の意識は「時間」の意識にとてもよく「似合う」。「時間」を表現するとき、ひとはしばしば「直線」を描き、その延長線上に「時」を割り振る。「面」を想定し、そこに「時」を配置しない。だから、「空間」の存在を忘れてしまうのだ。
 それは「良心の声」についても言える。「良心の声」は「神」につながる一直線の根源から聞こえてくる。それは「一神教」を生きる「時間の根源」からの「声」でもある。
 しかし、日本人は、「良心の声」に関係しているのは「間柄(世間と個人との関係)」である(と、和辻は考えている、と私は「誤読」している)。


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こころは存在するか(32)

2024-04-12 21:57:50 | こころは存在するか

 和辻哲郎の「倫理学」。こんなことを書いている。(私のノートに残っているメモなので、正確な引用ではない。)

 個人と全体者(社会)とは、それ自身では存在しない。他者と関連において存在する。個人は社会を否定し、個人になる。社会は個人を否定し、社会になる。否定という行為をとおして、個人も社会も、その姿をあらわす。

 ここには二重の否定、相互否定がある。この否定の否定、絶対的否定性から、和辻は「空」ということばを引き出している。あるいは「空」ということばに結びつけて考えている。「色即是空/空即是色」の「空」である。
 「混沌」、あるいは「無」ではなく「空」を思考(ことばの運動)のなかに取り込んでいる。「空」は、私にとっては「無」よりも「理念的」である。
 「無」は定まった姿のあらわし方がない(無)であり、つまり、そこからはどんなものでもあらわれうる(限界/制限がない=無)である。何も制御されていないから「混沌」なのである。
 「空」は「無=混沌」の対極にある。「混沌=無」を洗い清めるのが「空」である。「混沌=無」は「空」をとおることで、「存在」として顕現するのである。
 で。
 私の頭のなかに、こんなことばが突然やってきた。
 色否是空/空否是色(色を否定したら空が顕現する/空を否定したら色が顕現する)
 「即」と「否」は同じく、ひとの「行為」である。ひとが色や空に対して働きかける。肉体が動くとき、色も空も顕現する。色も空もひとが動かない限り、顕現しない。つまり、ひとが動かない限り「世界」は存在しない。
 ひとの動きによって、「世界」は生まれる。

 それに関するメモがひとつ。

人間が時間のなかに存在するのではない。時間が人間のなかから出てくる。
(人間が空間のなかに存在するのではない。空間が人間のなかから出てくる。)

 私が先に書いたことばは、きっとこのことばの影響を受けている。
 もうひとつ、メモ。

内容は過ぎ去らず、常に現在である。

 この「内容は過ぎ去らず」ということばは、「漢字」のことを思い起こさせる。中国語(漢字文化)には「時制」がない。ないといってしまうと、語弊があるが、日本語のように動詞の語尾を見て、過去かどうかがわかるわけではない。動詞の「活用」がない。「動」は「動いた」「動く」「動くだろう」でもある。
 漢字は「表意文字」であり、表意の意は「意味」の意であり、それは「内容」でもある。確かに意味や内容は、過ぎ去ったりせず、いつも「いま(現在)」そこにある。中国語は、いつも「意味/内容」を問題にしているのである。「永遠」を問題にしているともいえるかもしれない。
 そこで思うのだが。
 中国では、いま漢字は「簡略体」がつかわれている。これは、日本人の私がいうのは変なことであるけれど、文化の否定そのものではないだろうか。簡略体によって「表意」の「意」が変わってしまうということはないのか。

 脱線したついでに、さらに脱線しよう。
 日本語の表記、漢字、ひらがな、カタカナの混在は、めんどうくさそうで、意外と便利ではないだろうか。「動いた」「動く」。漢字の「動」からは「意味/内容」がわかる。「いた」「く」という「活用語尾」で「時制」がわかる。英語やその他のヨーロッパのことばでも、語幹から意味、内容がわかり、語尾から時制がわかるが。ただし、アルファベットの国では、ことばのくぎりを「空白」にしないといけない。いわゆる「分かち書き」。でも日本語は漢字があるので、それがアクセントになり、分かち書きをひなくてもすむ。ひらがなだけで書くときは、きっと分かち書きにしないと読みづらいだろう。
 私はときどき外国人に日本語を教えているが、上級者はみんな「漢字が好き」という。漢字のおかげで意味がわかる。文章が読みやすい。漢字で書けばいいところをひらがなで書いてあると意味を把握するまでに苦労する……。外国人といっしょに日本語のテキストを読んでいると、その気持ちがよくわかる。


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こころは存在するか(31)

2024-04-05 11:43:21 | こころは存在するか
 神谷美恵子「生きがいについて」(著作集1、みすず書房)を読んでいて、「人格」ということばにであった。
 
 死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじきだされたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。
 
 「人格」ということばは、何度も何度も和辻哲郎の本のなかに出てくる。その定義はむずかしいが、私は、ひとが実践をとおして肉体の内部にかかえこむひろがりと感じている。
 「おおきな人格」というのは、実践がそのひとを「おおきく」見せるのだと思う。そして、その「おおきさ」は客観的には測れないが、自然にわかってしまう「おおきさ」であり、「おおきなもの」は大きな引力をもっているから、それに引きつけられてしまう。
 神谷は「人格」を「生命そのもの」とも呼んでいるが、この「読み替え(呼び方)」も、私には和辻に通じるものがあると思う。もちろん、この「思い」は私の「誤読」であり、神谷が和辻から影響を受けているかどうかは知らない。しかし、私は、私の「誤読」を通じて神谷と和辻をむすびつけるとき、妙に安心する。
 ことば、あるいはひとのつながりはとても不思議なものだ。
 私が神谷を読んでみようと思ったのは中井久夫の文章をとおしてである。アウレーリウス「自省録」(神谷訳)を読んだのも、中井が神谷について書いている文章のなかに登場したからである。そして、その神谷の文章のなかに「人柄」という和辻の大事にしていることばが出てきたとき、単に神谷と和辻が結びついただけではなく、中井とも結びついた。直接、中井と和辻を結びつけることばではないが(中井の文章のなかで「人柄」ということばがあったかどうか、いま、思い出すことはできない)、私の肉体のなかで「世界」がぐいと広がるのを感じた。「ことば」は時間も空間も超えて、「世界」を広げてくれる。
 「人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでる」を神谷は、こんなふうにも書き換えている。「生きがいの」の発見を「心の世界の変革」ととらえる視点から、こう書いている。
 
以前大切だと思っていたことが大切でなくなり、ひとが大したこととは思わないことが大事になってくる。これは外側から来た教えではなく、また禁欲や精進の結果でもなく、すっかり変わってしまった心の世界に生きるひとから、自然に流れ出てくるものと思われる。
 
 「自然に流れ出てくる」。この「自然に」が「人格」なのである。そして、この「自然」に注目すれば、夏目漱石の「人間の自然」へもつながるだろう。漱石の描いている人間は、最初は何か「窮屈」である。つまり、苦悩している。それが何かのきっかけで「窮屈」を打ち破り「自然」に動き出す。ああ、あれは「人間」ではなく、ひとが「人格」になって動き出しているのだと思い出すのである。
 そのときひとは「道」を歩いているのだ、と考えれば、それはまた和辻につながる。
 「こころは存在しない」と考える私と違って、神谷は「心の世界」ということばをつかっているが、この部分をどう整理しなおすかは、書こうとすればかけるが(書きたいことはたくさんあるが)、長くなるので、書かないでおく。「こころは存在するか」というタイトルで書いているので、補足しておく。
 
 もうひとつ、どうしても引用しておきたいことばが神谷の文章のなかにあった。読んでいて、ふいに涙があふれてきた。神谷の「人柄」を、私は、この文章に感じたのである。
 
 深い苦しみと悲しみを克服して来たひとたちにも、以前と変わらぬ欠点や弱点を持った人間である。
 
 
 
 
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こころは存在するか(30)

2024-03-28 23:03:04 | こころは存在するか

 「ことばは人間とともに生きている。語る相手を待ってのみ発達していく。」という文章が和辻哲郎全集第十巻のなかにある。相手を「持って」ではなく「待って」。「待つ」と「持つ」は漢字が似ているが、意味とずいぶん違う。「待つ」とき、「待っている人(ことば)」にできることは何もない。
 「ことば」は語る相手=聞いてくれる相手のなかで発達していく。新しいことばになっていく。筆者が書けば「新しいことば」になるのではなく、「相手のことば」のなかで変化することで「新しくなる」。これは、「聞いてくれるひと」の、それまでのことばが否定され(破壊され)、新しく生まれ変わるということだ。ことばは、常に、発した人を超越し、他者のことばを否定しながら生まれ変わり、そのあとで話者に帰ってくるものなのだ。
 「間柄の本質」については、こう書いている。

我れの志向がすでにはじめより相手によって規定せられて、また逆に相手の志向を規定している。

 これは「ことば」について語っている部分と完全に重なる。ことばを相手に語り始めるとき、何を語るかは相手によって規定せられていると言えるが、語り始めればその瞬間から(語り始めなくても、語ろうと思ったときから)、そのことばのなかには相手のことばを破壊する何かが秘められている。相手のことばを破壊し、生まれ変わって帰ってくることばをこそ、話者は「待っている」。

 こういう「読み方」は、たしかに「誤読」なのだが、私は「誤読」をやめることができない。私の「誤読」は和辻には帰っていくことがない。和辻はすでに存在しない。しかし、本のなかで、和辻は「待っている」と、私は感じる。
 これは「自惚れ」ではなく、さらに大きな「誤読」というものだが、私は私の肉体のなかで、和辻のことばも私のことばも変わっていくのを「待っている」のだと言えばいいのだろうか。

 こういうことを書く瞬間、「喜びにこころがおどる」というのかもしれないが、これは「胸のなかで(奥で)こころがおどっている」ということか。しかし、私は「こころ」は存在しないと思う。「おどっている」のは「こころ」ではなく、たとえば顔の筋肉、足の筋肉である。ときには、その動き(おどり)を抑えることでさらに激しく「おどる」ものもある。「こころ」があると仮定したら、そのとき「こころ」は「胸の奥」にあるのか、押さえつけられた足の筋肉にあるのか。顔や、足や、手や、方々の肉体に散らばって、「こころ」は存在するのか。
 和泉式部の「千々にくだくれどひとつも失せぬ物にぞありける」みたいだなあ。(脱線)

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こころは存在するか(28)

2024-03-25 22:34:38 | こころは存在するか

 「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」というのはほんとうか。
 私は、そもそも「絵を見ないとき、その絵は存在しない。酒を飲まないとき、その酒は存在しない」と考えている。「見る」「飲む」のかわりに「想像する」をつかえば、「ある絵を想像する(想起する)とき、その絵は存在する。ある酒を想像する(想起する)とき、その酒は存在する」と言えるが、それはあくまで「想像のなか」に存在するのであって、現実に存在するかどうかはわからない。いろいろ考えるとめんどうくさくなるので、便宜上「どこかに存在している」という形で対応してはいるが、こんなことは何の意味もない。
 和辻は、「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」ということばから、別のことを考えている。「美しい」「うまい」というのは価値である。価値には志向性がある。価値は、人間が「対象」に対して「与える」ものである。「与える」という動詞が、このとき動いている。そこには「生きている人間」がいる。
 つまり、「価値を与える」ということで、自分自身をあらわしている。「顕現化」していることになる。

 ところで、この顕現化とはどういうことか。「価値を与える」にかえって考えるとわかりやすいかもしれない。
 というか。
 私は、こんなふうに「誤読」している。
 私が和辻に惹かれるのは、和辻のことばの動かし方が「個人的」にとじこもらないからである。「哲学」というのは、なにか「個人にとじこもって考える」印象が強いが、和辻は「個人」から踏み出していく。どこかに「いまの自分」を否定して、「いまの自分」以外のところへ踏み出していく印象がある。
 簡単に言いなおせば、「専門以外」のところへ踏み込んでいく。「専門以外」のところで、和辻なりの「価値付け」をする。それが、おもしろい。そして、その「踏み出し(新たな価値付け)」から、いままで存在しなかった時間と空間がひろがる。新しい時間と空間が和辻のなかから出てきて、それが新しい和辻になる。そういう印象がある。
 すべてのこと(世界)は、和辻という「肉体」のなかにある。それが少しずつ何かに「価値を与える」につれて、「肉体」のそとへあふれてくる。

 以上は少し前に書いた「日記」。
 きょう読んだ文章のなかに「倫理」を定義した部分がある。
 倫=なかま=一定の行為的関連の仕方
 理=ことわり、すじ道
 大胆に「要約」すると、そういうことになる。「すじ道」の「道」にも私は関心を持ったのだが(「古寺巡礼」で「道」ということばに出会って以来、私は、それが気になっている)、もうひとつ「一定の行為的関連の仕方」ということばに、何か、肉体をつかまれた気になった。「行為の仕方」を「行為のかた(型/形)」と「誤読」した瞬間、「歌舞伎」を思い出したのである。私は「歌舞伎」をほとんど知らないのだが。
 島流しになっているある役者が、仲間と別れるシーン。彼は島に残され、仲間は許されて京都(?)へ帰っていく。それを岬で見送る。そのとき、その役者の手の動きがとてもすばらしかった。「さようなら」と力いっぱい叫んでいるときは、振っている手の(指の)隅々にまで力がこもっている。それが船が見えなくなるに連れて、力をなくし、次第に腕がさがり、指先もまがる。そこには「張りつめた感情」が変化していくときの肉体の動きが「新しい型/形」として具体化されていた。腕、指の動きに「感情の価値(形)」を与え、「表現」を創造していた。
 歌舞伎は、引き継がれてきた「型/形」を繰り返して見せるものであり、まあ、そこで肉体の動きを確認し、自分のなかに感情を蘇らせる「仕組み」になっているのだと思うが、その役者がやったことは「型」の継承ではなく、昔からある「型」を破って、新しい「型」へ踏み出していくということだった。そうすることで、新しい「人間」に成ったのである。
 和辻なら、もっと的確な表現で批評するかもしれないが。
 なんとなく、私は、和辻がことばでやっていることを、その役者は肉体でやってみせたように感じたのである。
 これは(きょう書いたことは)、「誤読」をはるかに通り越して、脱線の脱線かもしれないが……。


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こころは存在するか(27)

2024-03-20 22:24:27 | こころは存在するか

 「人間の存在は行為である」。これは和辻哲郎全集(9)に出てくることばだが、「論語」のなかに書かれていたとしても疑問に思わない。カントにしろハイデガーにしろ和辻にしろ、ひとは結局同じことを、それぞれのことば(孔子語、カント語、ハイデガー語、和辻語)で語る。
 これは、ふつうは「翻訳」というかもしれない。しかし、私は「誤読」と呼ぶ。違っているが、重なり合う。重なり合うが、ずれてしまう。ひとの肉体は、それぞれ「個別」だからである。「理念(イデア?)=精神」が「一致する」という考えに、私は与しない。「肉体は個別でも共通(一致する)精神、理念がある」とは、私は考えない。

 肉体と精神(こころ)を分けて考える必要はない。肉体と精神(こころ)--それがあると仮定して--は同じものである。肉体を、ときどきひとは「精神」と呼んだり「こころ」と呼んだりする。私は、それを「肉体」というひとつのことばのなかに統一する。
 そして「精神(こころ)」を「肉体」の用語(?)で言えば、それは「行為(する)」なのだと思う。

 

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こころは存在するか(26)

2024-03-19 22:44:10 | こころは存在するか

 時間は存在する。
 しかし、過去を考えるとき、時間は存在しない。「過去」という時間は存在しないというか、「過去」を考えるとき、時間のなかで「過去」「現在」「未来」という区別はなくなる。
 言い換えよう。
 過去の行為がいつまでも苦痛であるのは、時間とともに「過去」が過ぎ去らないからである。いつも「現在」として、私のそばにある。私を取り囲んでいる。
 時間は人間の意思、感情を無視して、人間のなかで「時制」を破壊して存在し続ける。物理や数学のときにつかっている時間、人間の意思や感情とは関係のない時間について考えても、意味はない。
 時間は存在しない、とはそういう意味である。

 和辻は、カントは「有るものと、単に考えられるにすぎないものを区別する」というようなことを書いている。
 単に考えられるにすぎぬもの、とは何か。
 数学的、物理学的な時間も、それだろう。
 また、精神、こころとは、考えられるにすぎぬものではないのか。それは、ほんとうは存在しない。
 一方、ことばはどうか。ことばは声(音)であり、文字である。それは、たしかに存在する。その存在を、私という「肉体」は受け止めることができる。耳で、目で。そして、それをつくりだすこともできる。声(喉)で、手で。
 ことばのなかには、「精神」とか「こころ」とか、人間が名付けたものがあるが、それは、やはり「ことば」であって、それが「精神」あるいは「こころ」かどうかは、わからない。だいたい、「ことば」はほんとうのことを語るだけではなく、うそをも語ることができる。「うその精神」「うそのこころ」。それを存在させてしまう力。ことば自身がもっている力。
 ことばは生きていて、ことばをつかう人間と戦っている。

 

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こころは存在するか(25)

2024-03-17 12:37:10 | こころは存在するか

 カントの「実践理性批判」について、和辻がいろいろ書いている。それを読んでいる途中に、私はノートにこんなことを書いている。

人を殺す。それが善いことか悪いことかは、実際にそれが行われたあとで判断される。

 もちろん「人を殺すことは悪いことである」。しかし、こういう道徳というか、定義というか、よくわからないが、それが真実かどうか、私は自分の肉体をとおして語ることができない。私は殺されたくない。だから、それを悪いことと感じている。つまり、利己心から、自己中心的な感覚から言っていることになる。
 しかし、実際に「人を殺す」、あるいは「人を殺すことにかかわる」場合は違うだろう。
 私が「頭のなか」で考える善悪を超えて、実際に人を殺したひとの肉体に何かが押し寄せてくるだろうと思う。
 もし、その「殺人」がボタンひとつで可能ならば、これは「肉体」で「肉体」を「殺す」こと以上に大きな問題となって押し寄せてくるに違いない。私はまだ見ていないが、近く公開される映画「オッペンハイマー」は、この問題に向き合っていると想像している。
 動詞、「肉体の動き」が引き寄せる「世界」、和辻は「世間(世の中)」ということばを好むが、それは「私という肉体」と、「私の肉体」が存在するとき、その近くに引き寄せてしまう「ひと」との関係であり(和辻は「間柄」と読んでいる)、その「広がり(空間)」と、自分のなかにある「時間」、つまり「間柄」は、常に変化し続けるものである。そして、その変化は「言語化」することがむずかしい。「ことば」はいつでもおくれてやってくる。つまり「直観」は「ことば」よりも先に動き、「肉体」を支配する。

 「動詞」と書いて、こんなメモを残しているのにも気がついた。和辻は「ことば」を「日本語」のつかい方から切り開いていく。
 「幸せ」を「仕合わせ」と言い換えて(読み替えて)、それが一種の「共通項」になりうると書いている(ように、私は「誤読」する。)
 ひとは誰でも、何か「足りないもの」に囲まれて生きている。そして、その「欠けている」ものを補いながら生きているのだが、その「補う」という仕事をするとき、単にあるものを自分のものにするだけではなく(もちろん単独のものを自分に「組み合わせる」という方法もあるのだが)、何かと何かを組み合わせて補うことがある。Cが欠けているときAとBを組み合わせてCをつくり、それを自分のものにする。この「合わせる」という動詞、他動詞の動きに注目するならば、そこから「主体」という問題が浮かび上がってくる。他動詞には「主体=私(の肉体)」が必要である。「自発性」をもった「肉体」が必要である。まず「肉体」が必要であり、確実に存在するのは、その「肉体」だけである。「ことば=こころ(精神)」は、あとから付け足した何かである。あるいは「創造」した何かである。もちろん「創造したもの(創造されたもの)」が「ない」とは言わないが、それには「創造するもの」が必要である。だから、私は、そのことを意識するために、あえて「肉体」は存在するが、こころ(精神)は存在しないという。「ことば」は例外である。それは、声となり、文字となり、「肉体」で「いつ」「どこ」にあると確認できるのだから。

 

 

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こころは存在するか(24)

2024-03-12 22:43:11 | こころは存在するか

 フォイエルバッハから和辻が引き出していることばでは、「思惟は有から出る。有が思惟から出るのではない」が刺戟的である。「有」と呼んでいるものは「人間存在」であるが、これを「肉体(あるいは実践)」と読み替えると、「思惟は肉体(実践)から生まれる。思惟から肉体が生まれるのではない」になる。
 人間とは、まず「肉体」なのである。「思惟」や「ことば」は嘘をつくかもしれないが、「肉体」は基本的に嘘がつけない。
 机の上にコップがある。水がある。喉が渇いている。その水が安全かどうか、わからない。しかし、目の前の相手がそれを飲んで見せてくれたら、「ことば」が通じなくても(相手が外国人だとしても)それは安全だとわかり(直観することができ)、飲むことができる。もちろん相手があらかじめ「解毒剤」のようなものを飲んでいて「安全」について嘘をついていることもありうるが、それは特別な場合である。たいていは「肉体」の「行為」を「真実」と判断していいだろう。「真実」はいつでも「ことば」として定着する前に、「肉体」が「直観」するものである。
 「ことば」が嘘を含むのは、ことばというものが人間関係のなかで生まれてくるものだからだ。「ことば」は、その「場(社会/共同体)」のものでもある。しかし、同時に「ことば」は個人が動かすことができるものである。だからこそ、相手が知っている「ことば」を利用して、ひとは「嘘」をつくのである。

 こう書きながら、私は、野沢啓の「隠喩論」を思い出している。
 「隠喩」が成り立つためには、すでに「ことば」が存在しなくてはならない。集団でつかっている「ことば」の「意味」を否定し、それを「個人的な意味」に変えるとき、そこに比喩というものが成り立つ。「共有されている意味」をゆがめてしまう。否定してしまう。そして、否定することによって、逆に「ことば」がその奥底に含んでいるものを生かして見せる。それが比喩の「いのち(運動)」である。
 だから、あらゆる「比喩(隠喩であろうと、暗喩であろうと、直喩であろうと)」は詩が特権的にもっている「技法」ではなく、あらゆるジャンルにおいて展開されるものである。もしどうしても「特権」を主張するなら、それは「個人/人間」の特権であって、「ジャンル(社会)」の特権ではない。
 ベルグソンは「ベルグソン語」で書き(私は、翻訳された日本語で読んでいるのだが)、和辻は「和辻語」で書く。そこに「同じことば(日本語)」が書かれていたとしても、それは「みかけ」のことである。ほんとうは、違うのである。それぞれが「絶対的な個人語」で書くからこそ、私はそれを「私語(谷内語)」に翻訳する。「誤訳」する。「誤読」する。その「誤読」を修正するのは、辞書ではない。「肉体」である。「動詞」である。「ことば」を読んだとき、そのことばが生まれてきたときの「肉体の動き」を想像できるかどうか、私の「肉体」で追いかけることができるかどうか。それが問題なのだ。
 精神は存在しない。ことばも存在しない。「思惟」というような、ひとをたぶらかすような奇妙なものもない。あるのは「ことば」である。そして、それは「肉体」が生み出したものである。

 

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こころは存在するか(23)

2024-03-11 22:52:12 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集9。「人間の学としての倫理学」のなかで、和辻は「歴史学」とは「実践哲学」である、と書いている。私が知っている「学校教育」では「歴史」は「ストーリー」で、たしかに誰が、いつ、どこで、何をしたかを教えられたが、それは「実践」ではなかった。歴史上の人物の「実践」について教えられたが、それは「私の実践」とは何の関係もなかった。「歴史上の人物」はいたが、個人はどこにもいなかった。だから、私には「学校教育の歴史」というのもがぜんぜん理解できなかった。
 私が「歴史」がおもしろいと感じたのは、和辻の「鎖国」を読んでからだ。そこには「歴史上の人物」のほかに、無名の「個人」がいた。スペインを出発し、世界を一周してきた船が、スペイン(だったと思う)近づく。スペインの船と出会う。そのとき、「きょうは何月何日」という話がでる。世界を一周してきた船の航海士は、日付が一日違っていることに気がつく。毎日日記をつけていたから、間違えるはずがないのに。この驚き、この発見のなかに「実践」がある。「毎日日記をつける」という、なんとも地味な「実践」だが、そこには「地味」な行為(実践=肉体の記録/記憶)だけがもっている「真実(事実)」がある。そして、それが「発見」につながっていく。「発見」といっていいのかどうか、まあ、わからないのだが「地球には日付変更線がある」という発見に。そのころは「日付変更線」とはいわなかっただろうが……。そして、その「日付変更線」は「ことば」としては存在するが、その「線」を実際には誰も見ていない。そういう「線」の発見。それは、その「線」の「創造」でもある。「実践=肉体の記録/記憶」が「ことば」を生み出しているのである。「肉体(行動/実践)」が「ことば」をつくりだしていく。「肉体」がその「ことば」を必要とするからである。

 ちょっと飛躍して。

 和辻はヘーゲルから「自己直観」ということばを導き出している。(「直観」はベルグソンが大事にしたことばである。和辻も、それを大事にしていると私は感じている。)そしてそこから「人倫=精神」という考えに発展させる。この「人倫」は「行動」であり、「精神」は「ことば」である。「肉体(行動/実践)」は「ことば」であり、それはときとして「ことば」を「創造する」、生み出す。
 和辻は

心の肉体化

ということばも書いている。「顔つき、身ぶり、姿勢」などを指しているのだが、私は、この「心」を「精神」と読み替え、「精神(心)=顔つき、身ぶり、姿勢」ととらえ直した上で、「ことばの肉体化」と「誤読」をすすめていく。「顔つき、身ぶり、姿勢」から私が聞き取るのは「ことば」である。「悲しんでいる」「喜んでいる」「驚いている」。なんでもいいが、「ことば」として、つかみとっている。

 ここから「日付変更線」の発見(あるいは、創造)に飛躍するのは、飛躍のしすぎかもしれないが、何か人間が実践をとおして「共有してきたもの」が「ことば」になる。そして、それは何も「歴史的人物」の「肉体(行動/実践)」だけが生み出したものではなく、丁寧に生きてきた「無数のひとり」が「他の無数のひとり」と出会うことで生み出してきたものだと思う。
 「無数のひとり」を、私は「個人」と呼んでいるのだが。「無数のひとり」は「無数の肉体」として学校教育の「歴史」では切り捨てられているが、この「無数のひとり」がいなければ「ことば」もないのだと思う。

 「こころは存在するか」という問い、「こころは存在しない」という答えは、「肉体(無数のひとり)」の「実践」から出発しなければならないという私自身の「決めごと」なのである。

 

 

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こころは存在するか(22)

2024-03-09 23:26:36 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集9。「倫理」について考えながら、和辻は、こんなことを書いている。

〈間・仲〉は生ける動的な間であり、従って自由な創造を意味する。

 この「自由な創造」ということばを読みながら、私は、そこにベルグソンとの共通性を感じる。「生きる」とは「自由な創造」をすることである。

 和辻は「日本語」にこだわって、ことばの「意味」をおいかけているが、きょう読んだ部分では「存在」、「存」と「在」の区別が刺戟的である。「存する」「在る」は、ともに「ある」という意味でつかっているが、そのつかい方は微妙に違う。
 「存」の反対のことばは「失」であり、それは時間的な意味をもつ。「生存」ということばの反対のことばは「忘失」である。「生存」とは主体的な行動をすること(創造すること)である。その「創造」には「自己自身」と「もの」を含む。
 一方「在」の反対のことばは「去」であり、場所的な意味をもつ。「不在」とは「ある場所に人がいない」ということであり、それはつねに「社会的」な場所とかかわりをもつ。

 あるコスタリカ人(私は彼のもとで半年間スペイン語を勉強した)が、和辻の「風土」を読み、「日本人論だ」と言ったが、和辻は、人間を空間と時間とにおいてとらえている。人間の空間性と時間性は、人間の風土性、歴史性としてあらわれてくる。だから「風土」で和辻が書いているのは「日本人論である」というのは、確かにその通りだと思う。日本人は、日本の風土のなかで、どんなふうに日本人を「創造」してきたか。

 「存在」に似たことばに「有る」「ある」がある。「有る」は「所有」ということばがあるように「有(も)つ」ということでもある。ひとが己自身を有つ、「存」は自覚的に自分自身をもつことである。
 だから「心は把持すればあり、捨つればなし」というような言い方も成り立つ。
 これは、誰のことばだったか。
 私は「こころは存在しない」と考えている。で、その場合、その「心」と呼ばれているものに私は何をあてはめるか。「ことば」あてはめる。「ことば」は確かにある。私は、それを書いているし、読んでいる。
 「こころは存在しない」と書くことは、一種の矛盾だが、つまり「存在しない」ならそれを「ことば」にすることはできないのだから。私は「方便」として「こころ」ということばをつかっていることになる。「こころ」のかわりに、目や手や足がある。腹もある。性器もある。それは、いわゆる「こころ」と同じように、自分の意思で動かすことができることもあるが、意思では制御できないこともある。このときの「制御不能」の状態を、すべて「ことば」にすることができれば、とてもおもしろいだろう。「ことばの持続」として展開できれば、とてもおもしろいだろう。そのとき「創造」されるのは、「文学」か「哲学」か「心理学」かわからないが。

 

 

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こころは存在するか(21)

2024-03-05 14:48:26 | こころは存在するか

 行動は自分に欠けているものの獲得を目指すか、存在しないものの創造を目指す、とベルグソンは書くのだが、この「存在しないもの」を単にいまそこにないものではなく、「無」と考えるとどうなるか。
 「無を創る」。
 「無になる」とか「無我の境地」ということばが日本語にはあるが、「無を創る」というのは、それとは違う。「有」の否定(「有」からの解放)ではなく、「有」とは関係なく(「有」を踏まえず、「有」を基盤とせず)、「無を創る」。

 ベルグソンのなかに「絶対的な無」ということばが出てくる。これは「全体の観念」であり、しかもそこに精神のひとつの運動が加わっている。「否定」という運動だ。
 ある事物から他の事物へと飛び移る。飛躍する。ひとつのところに身を置くことを拒む。ひとつのところに身を置くことを否定する。そして、自分の「現在」の位置を、自分が立ち去った(拒否、否定した)位置との関係において規定する。
 その瞬間にあらわれる「無」というもの。それが絶対的。
 このメモは、どこまでがベルグソンのことばで、どこからが私のことばなのか、実はわからない。ノートのメモに、引用したことばのページが書いてないので、探し出せない。 私が注目したのは「運動」ということばである。「飛び移る」「飛躍する」は「運動」のひとつだが、運動するのは「肉体」である。ベルグソンは「精神」と書いていると思うが、「身を置く」の「身」には「肉体」にほかならないし、「精神」の運動であってもベルグソンはそれを納得するとき「身」を関係させている。「身を置く」は比喩ではない。現実であり、「精神」ということばこそ「比喩」なのだ。
 デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、ベルグソンなら「我行動する、ゆえに我あり」と言うのではないか、と私は想像している。

 いま書いていることは「比喩」か。比喩よりもなぞめいている「暗喩」か。
 「暗喩」とは何か。それは「構想」である。存在しないものを、存在するものによって描き出すことだ。それはつねに動く。肉体を動かす。
 この「比喩/暗喩」の反対のものは何か。「概念」である。「概念」の抽出。
 そうならないようにしないといけない。
 「概念」を書くこと、たとえば、ベルグソンを読み、そのことばを利用して体験以外のことを書くことは、「体験(肉体)」を殺すことである。--きょうの反省。

 

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こころは存在するか(20)

2024-03-02 12:34:19 | こころは存在するか

私は多なる一であり、一なる多である

 このことばがベルグソンのなかに出てくる。「なる」を「即」と「誤読」すれば「多即一、一即多」であり、「多」を「色」と、「一」を「理(空)」読み替えれば「色即是空、空即是色」になるだろう。このとき「なる」は英語で言えば「be動詞」になるのかもしれないが、「なる」を「なす」、つまり「為す」あるいは「生す」と読み替えれば、それはすべて「私」という「肉体」によって誕生する世界になる。
 私がベルグソンに親近感を覚えるのは、こういう「誤読」を誘ってくれるからである。ベルグソンのことばのどこかに、私が知らずになじんできた「東洋」のことばがある。
 「多」を「色」と私は書き換えたが、これは「私が出会った、私以外の存在」であり、それは「意識が存在として分類しているもの」というものであり、「私(肉体)」を抜きにしては存在し得ない。意識は単独では存在せず、常に「肉体」とともにある。むしろ「肉体(いのち)」が理解しているものを「ことば」にしたものが「意識(知性)」である。

 こんなことばもある。

直観は生命の方向に進み、知性は逆の方向に進む。

 「直観は生命の方向に進む」とは、直観はいのちを維持・継続・持続させることを目指す、ということ。そのために「知性」をつかう。つまり、「知性は逆の方向に進む」とは、知性は「もの」の方に進むということ。「もの」を「無機物」と言いなおすと(ほんとうは有機物も含むのだが、とりあえず)、それは、人間は「もの」を解体し、別のもの(いままで存在しなかったもの)をつくるとき、そこには知性が働いているということである。簡単に言えば、鉄鉱石から鉄をつくり、その鉄から橋をつくる、ビルの骨組みをつくる、あるいはさまざまな機械をつくる。鉄鉱石を鉄鉱石ではなくしてしまう。そうすることで、「いのち」の維持・継続・持続をはかる。「生きやすく」する。
 しかし、「人間」は解体できない。解体すると「殺人」である。鉄鉱石から、武器をつくり、戦争を有利に進めるということも、人間はしてしまうのだが、これは少し脇に置いておく。
 実は、「殺人」以外の、「人間の解体」も、あるには、ある。「いのち」を「労働力」に解体し、「肉体」を拘束することができる。ひとつの方向に「限定」して動かすことができる。しかし、これもまた別の問題である。
 ベルグソンが言っているのは、直観は持続を目指し、知性は切断を目指すということである。そして、その接点に「肉体」があると、私は考えている。「存在するのは肉体だけ」というのは、そういうことである。


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こころ(精神)は存在するか(19)

2024-02-27 12:31:56 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。
 「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。

母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。

 この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。
 ベルグソンの書いている「身をのりだす」というのは「比喩」なのだが、その「比喩」をとおして私が知るのは「意味」というよりも「欲望」である。母が「身をのりだす」ときの「欲望」。彼女の「肉体」を動かしてしまう力。「知性」の制御を無視して、暴走する「欲望」。そして、それを「欲望」と感じるのは、私自身に何かに対して「身をのりだした」体験があるからだ。それは私の「肉体」のなかに残っている。
 「つぎに続く世代」というのは、これもまた「比喩」である。実際にはまだ存在しない。その存在しないものに向かって「身をのりだす」とき、そこには何があるのか。ただ、新しいものへの「欲望」がある。「身をのりだす」欲望。そして、「肉体」そのものの、「動き」であって、「肉体」の「動き」をともなわない「欲望」というものはない。
 ベルグソンが書いていることは、私がいま書いたこことは関係がない。
 私がただ「追加」するかたちで考えたことばである。

 

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