詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『露地の花』(3)

2010-11-30 23:59:59 | 詩集
高貝弘也『露地の花』(3)(思潮社、2010年10月31日発行)

 高貝の詩の音楽について考えるとき、私はときどき眩暈のようなものを感じる。音楽とは耳(聴覚)の世界だと思うけれど、高貝の音楽には聴覚のほかに視覚の音楽があると思うのだ。
 「露地の花」の最後の部分。

寥(さみ)しくて、まなうらが滲(にじ)みでている
--裸の幼女が走るよ!

それはとても露骨な露地裏で

 さ「み」しくて、にじ「み」でて、さみ「し」くて、に「じ」みでて、は「し」る、「は」だかの、「は」しる、「ろ」こつな、「ろ」じうらで、というのは音そのものの交錯する音楽だが、

「寥」しくて、まなうらが「滲」みでている

 この2文字の漢字の「形」(特に最後の5画の部分)、それから私の引用ではわかりづらいのだが、2文字の漢字にふられた「ルビ」のバランス--それが網膜の奥で不思議に重なる。
 「露」骨な、「露」地裏になると、かさなり過ぎてうるさい感じがするが、「寥」「滲」はほんとうに微妙だ。あ、どこかで見た感じがある--と記憶がくすぐられる。
 それは「和音」ではなく「和形」とでもいうべき音楽である。形のハーモニーである。
 高貝の詩には、どうしてこんなに古くさい漢字(失礼!)ばかり出てくるのだろう、どうしてルビをふらないと読めないような漢字ばかり出てくるのだろうと思うときもあるが、それはみな「視覚」の音楽のために選ばれているのである。
 複雑な画数の漢字と小さなルビが奏でる視覚のいらだつような音楽--私は昨年眼の手術をした関係もあって、それをいらいらと感じる。つまり、明確には識別できないために神経がいらだつのだが、それが単にいらだつのではなく、詩全体のなかで不思議な間隔(リズム)であらわれては消えていくので、特に音楽を感じるのだ。単に形が重なるだけではなく、不思議なリズムをともなっているからである。
 この視覚のリズムは、漢字、ルビというよりも、詩全体のテーマかもしれない。
 高貝の詩は多くの場合、短い行数の「連」で構成される。その「連」、そして1行1行は、それぞれに「意味」を持っているかもしれないが、意味以上に視覚のバランスによって動かされているとしか思えない。
 簡単に言ってしまうと、「見た目」である。「見た目」で1行が構成され、1連が形作られる。ふいにあらわれる句読点も、感嘆符やダッシュ(長い棒)、かっこなどの記号も意味ではなく視覚のリズム、視覚の呼吸に働きによるものだ。句読点にも記号にも「音」などない。「耳」を刺激はしない。それは「眼」を刺激するだけである。

 高貝は「耳」をつかってことばを動かすだけではない。「眼」もつかってことばを動かす。いや、もっと積極的に、高貝は「視覚」でことばを動かす。高貝の音楽は「視覚の音楽」である、と言った方がいいかもしれない。
 
 「視覚の音楽」という点から見ていくと、「境川」の次の部分は非常におもしろい。

生まれたての、光  橋の上(うえ)
花 開き。たがいに、耳寄せ(よせ)

 この2行のそれぞれの末尾。(うえ)(よせ)。これは何だろう。「上」を(うえ)と、「寄せ」を(よせ)と読めないひとは高貝の詩の読者にはいないだろう。(この詩には、「指切りの後で(あとで)」ということばもある。)
 これは「意味」などない。
 ここではひらがなの形、それが並ぶのを見るときの「視覚」を刺激するためのものなのだ。この行を読む時(黙読する時、のことだが)、視覚が(うえ)(よせ)に触れる時、一瞬、聴覚が遠ざかる。それは視覚が前面に出てくることによる錯覚かもしれないけれど--何か肉体のなかで聴覚と視覚がすれ違い、いままで存在しなかった感覚が呼び覚まされる。
 そういう存在しなかった感覚を揺り動かすために、視覚を積極的につかうのが高貝の詩なのである。
 そして詩は、そういういままで動いていなかった感覚のなかにあるのだ。



 今月のベスト3。
1 粕谷栄市『遠い 川』(思潮社)
2 高貝弘也『露地の花』(思潮社)
3 和田まさ子『わたしの好きな日』(思潮社)

縁の実の歌
高貝 弘也
思潮社


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ナボコフ『賜物』(25)

2010-11-30 11:16:47 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(25)

果たして書評家は実際に詩のすべてを理解し、そこには悪名高い「絵画性」の他にもなお特別な意味というものがあって(理性の彼方に隠れた心が新たに発展した音楽とともに帰ってくるということだ)、それだけが詩を人の世に出すことになる、ということを理解したのだろうか。
                                 (47ページ)

 このことばはナボコフの「音楽」に対する意識を明確に語っている。この作品の詩の部分は、たとえば直前に書かれている詩をみると、

磁器の蜂の巣が青、緑、
赤の蜜を蓄えている。
最初はまず鉛筆の線から
ざらざらと庭が形づくられる。
白樺の木、離れのバルコニー--
すべては陽光の斑点の中。ぼくは筆先を
絵の具に浸し、ぐるっと回して
オレンジがかった黄色でたっぷりくるもう。
                              (46-47ページ)

 色が次々に出てくる。はっきりした名詞で存在が書かれ、いかにも絵画的な詩である。そうであることを認めて、ナボコフはなおここで「音楽」について語っている。そのことばの音楽そのものについては、訳文を読むのとロシア語の原文を読むのでは違うだろうが、「ざらざらと庭が形づくられる。」や「ぐるっと回して」「たっぷりくるもう。」ということばのなかに何か刺激的な音楽が隠れているのかもしれない。「ざらざら」は視覚でも(絵画でも)伝えられるが、日本語の場合、触覚に属する。視覚から触覚への移行があり、その移行を聴覚がとらえる「ざらざら」という音が後押しする。そういうことがロシア語でもおこなわれているのかもしれない。 
 私は詩も小説も音読はしないが、音読はしなくても、発声器官や聴覚は無意識的に動く。そのときたしかに音楽というもの(音というもの)の効果は大きい。音楽的ではないことばを読むのは、とてもつらい。
 音の中に「隠れた心」があるというナボコフの指摘は、とてもうれしい。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社

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高貝弘也『露地の花』(2)

2010-11-29 23:59:59 | 詩集
高貝弘也『露地の花』(2)(思潮社、2010年10月31日発行)

 粕谷栄市の『遠い 川』には「死」がたくさん出てくる。けれど、それは「死」を通り越している。「死」なのだけど、けっして死なない。「死」へ行ってしまうことはない。逆に「死」は「生」の方へ越境してくる。「生」から「死」へではなく、「死」から「生」へと越境する「時間」がある。「死」は生まれ、そして「生きる」のである。
 だから「死」は「幸福」なのだ。
 高貝弘也のことばは、どうだろうか。粕谷のことばとは逆の動きに見える。年齢的には、粕谷の方が高貝よりはるかに高齢である(はずである。--私は、粕谷にも高貝にも会ったことはないので、はっきりとはわからないが……。)それでも、不謹慎な言い方になるけれど、その若いはずの高貝の方が「死」に近い。「死」に近づいていくことばである。
 ただし、そのときの「死」とは、生が生をまっとうした先にある「死」ではなく、なにやら「生」が生まれる前の、つまり「未生」の「死」という感じがする。

あの露地へ、ひとがたが だしぬけに呼ばれて。
密かに川明かり かすれている
お襁褓(おしめ)が泣いている。柳川の水汲場(くみず)、
それは女間者貝(メカンジャ)の殻の 傍らで
過ぎし日の、夏草の霊(ひ)よ さようなら
泣けば手向(たむ)けの、みずの火よ
さようなら

 ここに書かれていることが具体的に何なのか、私にはさっぱりわからない。何が書かれているかさっぱりわからないのに、断片的に、ことばにひかれてしまう。「ひとがたが だしぬけに呼ばれて。」と中途半端な響きのまま終わることばは、どこへでもつづいていく。つながっていく。「呼ばれて。」ととぎれているのに、どこへでもつながっている。その「つながり」にそのまま飲み込まれていくような感じである。
 そして、この「どこへでも」は、けれど、絶対に生をまっとうした先の「死」ではない、という印象がある。直感的に、私は、そう思う。

ひそ「か」に「か」わあ「か」り 「か」すれている

 この「か」の繰り返しによる不思議な音楽。それは、前へ進んでゆくというより、どこかへ引き返していく。そして、その引き返すという運動の方向性だけをみると、粕谷の「死」から「生」への逆行に似てはいるのだが、「かすれている」ということばが象徴的なように、それは何からしらエネルギーの衰弱につながるものである。粕谷の「死」が「生」へと逆行してきて、そこでいきいきと動くのに対して、高貝のことばは逆行することで徐々に弱まっていく。弱々しくなっていく。無力になっていく。
 めんどうくさい(?)のは、そんなふうに無力になるのに、それは「ゼロ」にはならないという点である。無力になり、ゼロに近づけば近づくほど、あ、そういう遠いところから高貝のことばはやってきていたのだ。いま、高貝のことばは、そのことばが生まれてきたはるかなはるかな遠くへ帰っていくのだという印象が強くなる。
 高貝のことばは、「いま」「ここ」を切り開いて、「いま」「ここ」ではない時と場へとは炸裂しない。逆なのだ。「いま」「ここ」に開いているものを、静かに閉じて、フィルムを逆回しにするようにして、「いま」「ここ」以前へと帰るのである。
 その「時」と「場」はどこか。

お襁褓(おしめ)が泣いている。柳川の水汲場(くみず)、
それは女間者貝(メカンジャ)の殻の 傍らで

 「柳川」ということばのせいだろうか。「くみず」「めかんじゃ」という音のせいだろうか。私は白秋を思い出すのだ。先日読んだ部分では、なんとなく朔太郎を思い出した。きょうは白秋を思い出している。高貝のことば、そのリズム、そのメロディー(というのだろうか、音の変化の組み合わせ方)は、高貝のことばが生まれる以前から存在したことばへと帰っていく。
 なつかしいなつかしい「未生」のゆりかご。「おしめ」が登場するから、赤ん坊や、赤ん坊以前を思うのだろうか。
 
過ぎし日の、夏草の霊(ひ)よ さようなら
泣けば手向(たむ)けの、みずの火よ
さようなら

 「霊」(高貝は旧字体をつかっているが、私は新字体で引用している)を「ひ」と読ませるということを私は高貝のこの詩で始めて知った。「霊」には「たましい」とか「神」というような意味合いがあり、それは「あきらかなもの」である。その「あきらか」と「火」が呼応して「ひ」になるのかもしれない。「日」は「太陽」であり、そこにも「あきらか」なものがある。
 「霊」を「ひ」と読ませるとき、「霊」が「れい」になる前の「未生」の「ことばの場」が、ふいに見える。そのふいに見える「場」へ高貝のことばはかえっていく。朔太郎も白秋も通り越して、さらには古今集も万葉も通り越して、ことば以前へ帰っていくのかもしれない。
 かすかに、弱まりながら「ゼロ」を通り越して、どこかへ帰っていく。
 限りなく弱まり(というのは表面的な印象であるが)、「ゼロ」に近づくのは、「未生」へ帰るには「存在」であってはいけないからなのだろう。「未生」とは存在以前である。そういう「場」へ帰るにはできるかぎり小さくならなければならないのだ。
 きっと素粒子の振動(波)になって、高貝のことばは、ことば以前へ帰る。
 高貝の書いているは、そのための素粒子の波動そのものなのである。
 そんな過激なことばにおいては、「みずの火」(水の火)というような、実際にはありえないようなことばが瞬間的に炸裂する。炸裂して「見ずの火」(見なかったけれど絶対的にあきらかなもの」を、どこにもない場に刻印する。それは「水子」のように、実際には存在しないのに、存在してしまう何かでもあり、その存在は一度存在してしまうと、それが存在しなくなってからも、刻印として残る。
 
 そのときの刻印が「詩」である。


子葉声韻
高貝 弘也
思潮社

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ナボコフ『賜物』(24)

2010-11-29 22:44:17 | ナボコフ・賜物
 この小説に書かれている詩に対する「批評」がおもしろい。

これらはもちろん小品には違いないが、並外れた繊細な名人芸によって作られた細密画のようで、髪の毛一本一本まではっきり見えるほどである。とはいうものの、それは過度に厳格な筆によってすべてが丹念に描き込まれているからではなく、この著者には芸術上の契約がすべての条項にわたって著者によって遵守されることを保証する誠実で信頼できる才能が備わっており、どんなに些細な特徴でさえもそこにあるかのように、読者は知らず知らずのうちに思いこまされるからなのだ。
                               (44-45ページ)

 ナボコフのナボコフ自身によるナボコフのための批評である。ナボコフは厳格な細密描写を否定している。厳格な細密描写が作品にリアリティーを与えるのではなく、文学のリアリティーは「芸術上の契約」を「遵守」することで成立する。それは、文学のことばは、文学のことばの運動を遵守することによって成立するというのに等しい。
 ナボコフは、そのことばの運動を「古典」によって支えているのだ。ナボコフのことばはすべて「古典」なのだ。どんなに新しいことをしても、そこにはかならず「古典」が引用されているのだ。
 ナボコフは古典に精通し、あらゆる文学に精通しているのだ。
 先の文につづくプーシキンの詩に関する言及(45ページ)は、その「証拠」である。


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ロリータ (新潮文庫 赤 105-1)
ウラジミール・ナボコフ
新潮社
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松井久子監督「レオニー」(★★★★)

2010-11-29 11:52:21 | 映画

監督 松井久子 出演 エミリー・モーティマー、中村獅童、原田美枝子、竹下景子

 松井久子監督の映画を見るのは、これが初めてである。「ユキエ」「折り梅」は見ていない。見ていないことを、とても残念に思った。再上映されるだろうか。再上映されるなら、ぜひ、見てみたい。
 映像と人間描写に品がある。その品は、クリント・イーストウッドに近い。描きたいことはたくさんあるだろうけれど、深追いしない。映像に触れて観客のこころが動く。その瞬間、映像はもうおわる。ひとつひとつのシーンがとても簡潔なのである。映像の意味を、そこに動いている人間の行動の意味を押しつけない。
 イサム・ノグチの母親の生涯を描いている。そこには信じられないような苦労があったはずである。誰にもいえないような哀しみがあったはずである。日本語も話せないのに、日本にやってきた女性。男女差別が根強い時代。それだけでたいへんなことだと思うが、その苦労、哀しみを押し売りしない。声高に苦労や、哀しみを主張しない。
 映画は苦労や哀しみのかわりに、芸術にかける女性の強い意思を描く。「いま」「ここ」にしばられず、どこでもないところへ行こうとする純粋な思いをストレートに描く。
 いや、レオニーは、「いま」「ここ」に縛られずに、どこでもないところへ行こうとするのではなく、自分の知らないもの(芸術の美しさ)にふれた瞬間、その美しい世界へ一気に行ってしまう才能をもった人間なのである。その一瞬の飛躍を、この映画は次々に描いている。
 最初にヨネ・ノグチと会って、詩の話をする。ヨネ・ノグチの書いた詩を読みながら、レオニーのなかで、ヨネ・ノグチを超えたことばがふっと動く。ヨネ・ノグチのことばを、一段高みへと引き上げる。それが、実に自然だ。苦労してことばを動かすのではなく、彼女の肉体のなかでことばが自然に生まれてくる。それをそのまま声にする--そういう感じである。まるでヨネ・ノグチが詩人であるというよりも、レオニーの方が詩人であり、レオニーはヨネ・ノグチに出会うことで瞬間的に詩人になってしまった、という感じである。
 レオニーは絶対的な他者と出会った瞬間に彼女自身を超えてしまうのだ。彼女の限界がなくなるのだ。日本にきて、英語を教える。英語を教えるという名目で、ヨネ・ノグチの知人たちに会う。そのたびにレオニーは人間性の幅を広げていく。
 それは相手が教養人(あるいは芸術家)の場合だけとは限らない。家で雇っている「お手伝いさん」の場合も同じである。具体的には描かれていないが、レオニーにそういう不思議な人間性の広がりがあるから、ひとはレオニーを支えるのだ。お手伝いさんは、レオニーに小言(?)を言いながらも、レオニーが娘を産むとき、きちんと産婆をつとめる。そういうところに、レオニーの魅力が静かに描かれている。
 この人間が自分を超える瞬間、他人に対してこころを開き、他人の思想に身をゆだねることで生まれ変わるという「生き方」は、イサムにも引き継がれている。それは、彼が、家を建てる大工に鉋のかけ方を習うシーンにさりげなく描かれている。自己主張するのではなく、他人に任せる。それは大工の「木にあわせる」ことで鉋をかけるということとも一脈通じるものがある。
 ひとは生きるのではなく、生かされるのだ。生かされることで、生きる以上の何かを手に入れるのだ。
 イサム・ノグチが石を彫っているシーンが何度も何度も繰り返されるが、この石の彫刻も、きっとイサム・ノグチが石を彫っているのではなく、石に彫られれているのだ。そういうことを感じさせる。石のなかにある何かが形になろうとして、イサム・ノグチに働きかけてくる。その働きかけに身をまかせて動くとき、そこに芸術が生まれる。
 不思議なことに、これはイサム・ノグチとレオニーの関係そのものでもあるようだ。イサム・ノグチは自分から芸術家を目指したわけではない。母が、おまえには芸術の才能がある。医学なんかではなく、芸術分野へと進め、と助言する。イサムにもちろん才能があったことはたしかなのだろうけれど、イサムは母の助言にそうようにして新しい自分をつかみ取る。母と出会うこと(というのは変な表現だが)で、イサムは彫刻家になったのだ。母がいなかったら、医者になっていたのだ。母に生かされて、芸術家に生まれ変わったのだ。                 
 これはなんとも不思議な出会い。不思議な「一期一会」だ。だが、それ以外に、何もないのだ。この世にあるのは「一期一会」の出会いと、その出会いをとおして変わっていくこと、変わっていくことを自分に許すことがあるだけなのだ。
 この映画の品(気品といってもいい)は、苦労や哀しみを自己主張しないことにある、と最初に書いたが、「一期一会」は自己主張をしていては成立しないことだから、その描き方はごく自然なこと、当然なことでもあるのだ。
 映像、ストーリーとは、あまり関係ないことを書いたような気がする。そんなふうなことを自由に考えさせてくれる広がりをもった映画なのだ。



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コメント (2)
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粕谷栄市『遠い 川』(11)

2010-11-28 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(11)(思潮社、2010年10月30日発行)

 高貝弘也の、それぞれのことばが互いの音楽を呼吸し合う(?)詩を読んでいたら、また粕谷栄市の詩を読みたくなった。
 「幸福」。

 別に、その馬のように長い顔のためでなかったが、そ
の男は、とうとう、老齢になるまで生き延びることがで
きた。生き延びたというべきだろう。子どもの頃から、
病弱で、いつも顔色が優れず、頭痛持ちだったから。

 この詩は、いままで読んできた『遠い 川』(あ、「遠い」と「川」の間に1字分の空白がある--と、いまごろになって気がついた)とは少し違う--と書こうとして、いま、「遠い」と「川」の間に1字分空白があると書いたとたん、そうかな、ほんとうに違うのかな、という疑問に襲われた。
 私は最初(つまり、いま、こうやって書いている直前まで)、この詩で繰り返される「馬のように長い顔」ということばについて、それがこれまでの粕谷のことばとは微妙に違うということを書こうと思っていた。
 粕谷の繰り返しは、高貝のことばが微妙な変化で他のことばを呼吸するのとは違って、まったく同じ「馬のように長い顔」を繰り返している。

 少年時代から、近くの酒屋に勤めに出て、小僧になり、
やがて蔵番になった。ときには、頭痛で、馬のように長
い顔を顰めていたが、休まず、薄給の日々を過ごした。
 その間に、馬のような長い顔で言い訳しながら、父親
の借金やら何やらをきれいにして、やっと自分のためだ
けに暮らせるようになったときは、もう中年だった。
 当然、縁遠くて、ずっと独身だった。酒も煙草も知ら
なかったから、仕事の休みの日も、小さな家で、馬のよ
うに長い顔をして、ぼんやりしているだけだった。

 この繰り返される「馬のように長い顔」に何か「意味」があるのだろうか。
 どうも「意味」などないように感じる。それはただ無意味に繰り返され、「繰り返し」だけを印象づける。そして、その果てに、なぜだがわからないが、「馬のように長い顔」ということばだけが残る。
 男は、ある日、女と一緒になって暮らしはじめる。女は……。

 毎朝、彼の髪を整え、馬のように長い顔を拭くことか
ら始めて、夕方、彼が仕事から帰ると、すぐ、馬乗りに
なって、腰や手足を揉んでくれさえてたのだ。
 彼の好きな鰊の団子を作ることも忘れなかった。そし
て、その後、無事、歳月は過ぎ、彼は死んだ。つまり、
彼の一生は、永遠に、彼のものになったのである。
 それは、何ものかの幻である。暗黒のある日、朝顔の
花の咲く庭で、彼が笑っている。一緒に笑っているのは、
みんな、馬のように長い顔をした彼の娘たちである。

 「馬のように長い顔」がそんなふうにして最後まで残ってしまうと、なんといえばいいのだろう、この詩でも「主人公」は死んでしまっているのに、なぜか、「馬のように長い顔」ということばと一緒にいつまでも生き残っている感じがする。
 男は「老齢になるまで生き延びることができた」を通り越して、いつまでも生き残っている。その生き残ったものを、粕谷は「幻」と書いている。「何ものかの幻」と。しかし、それは「幻」ではなく、「夢」なのではないだろうか。「何ものかの夢」ではなく、「私」の、つまり粕谷の、そして粕谷の詩を読んでいる読者の「夢」。言いかえると、「日常を超えてやってくる、特別な時間」なのではないのか。
 「馬のように長い顔」が「特別な時間」というのは奇妙な言い方になるが、「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは、そんなふうにして変なものなのである。わけのわからないもの--けれど、はっきりとわかる特徴のあるものなのだ。
 不思議にリアルで、リアル過ぎてどうすることもできない何かである。そして、その不思議なリアルさが、なぜか、とても懐かしく、また安心感がある。

 ここで、こんなこと(次に書くこと)を唐突に書くのは、それこそ変かもしれないが。

 この粕谷のリアルななつかしさと、高貝の書いているはかないような音楽の呼吸はどうも対極にあるような感じがする。
 高貝の書いていることばは、ほんとうに音楽そのままで、読む先から消えていく。先へ動いていくときだけ、その動きのなかに「日本語の歴史」が「肉体」(声)としてふわーっと浮いてくる。そして、その「ふわーっ」は、はかないながら、けっして消えない根っこを持っている。その根っこは、「日本語」のなかに、深々と根を張っている。。
 粕谷のことばは、はかなさとは反対の位置にある。この「反対」をうまく表現できないけれど、あえていえば、「日本語」のなかに根を張っていない。もっと言い換えると、どうも「他人(日本語を離す日本人)」に共有されない。--あ、違うなあ。「日本語」なのだけど、そこには「日本語」の歴史と共有している「感性」というか、共通の感覚がない。粕谷独自の「肉体」しかない。
 粕谷のことばは日本語であり、それが日本語であるから私は読むことができるのだが、読めば読むほど、それは「粕谷語」そのものになる。粕谷の「肉体」のなかで完結していることばだと感じてしまう。「ことば」ではなく、粕谷は「肉体」を書いている。
 そういう「リアル」さがある。
 「ことば」ではなく、粕谷の肉体を見て、その肉体に触っている感じがする。--私は、粕谷に会ったことがないし、その写真も記憶にないのだが……。
 一方、高貝の肉体は、ことばのなかに消滅していく。肉体は消え、呼吸だけが、ことばからことばへと通っていく。
 そういう呼吸としてのことばをきのう読んでしまったので、私はまた呼吸ではなく、呼吸する「肉体」の方のことばをふいに読みたくなって、また粕谷にもどってきてしまったのだ。

 「馬のような長い顔」というあまりにも具体的なイメージのために、私は、この作品を「異質」と感じていたが、それは間違いである。いままでの私の読み方が完全に間違っていたのだ。たとえば巻頭の「九月」。その詩のなかに登場してくる「私」という人間がいる。その「私」を、私は粕谷と置き換えるようにして読んでいたが、そうではない。粕谷は「ちょうちん花」なのだ。

 それだけのことだ。それだけのことだが、たとえ、一
切が、遠い夢のなかのできごとだったとしても、九月に
なったら、私は、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆく
のだ。
                     (「九月」)

 私と妻はちょうちん花を見にゆくのではない。ちょうちん花になってしまうのだ。男が「馬のような長い顔」そのものになったように、ちょうちん花こそ、粕谷の肉体なのだ。ことばを書くことで、粕谷は書いたことばの肉体になる。
 この瞬間を、粕谷は「幸福」と名づけている。
 粕谷の今回の詩集には「死」が何度も登場するが、それは絶望ではなく、幸福としての死である。粕谷の肉体は、彼の書いたことばとして残る。肉体が残れば、そこに死など存在はしない。

遠い川
粕谷 栄市
思潮社


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ピエトロ・ジェルミ監督「鉄道員」(★★★★★)

2010-11-28 15:12:52 | 午前十時の映画祭
監督 ピエトロ・ジェルミ 出演 ピエトロ・ジェルミ、アルフレード・ジャンネッティ、ルチアーノ・ヴィンセンツォーニ、エンニオ・デ・コンチーニ、カルロ・ミュッソ

 この映画はいつ見ても泣ける。泣かせる映画の「定番」という感じがする。子どもの視線が生きているのだ。子どもは何も知らない。何も知らないけれど、何でも理解している。そして、その理解というのは、たとえば最初の方に描かれる家族の喧嘩(娘の妊娠を知り、父親が怒る)のような場面にしっかり描かれている。子どもは、そこで実際に何があらそわれているかわからない。けれど、家族が喧嘩をすると哀しくなる--その哀しさを心底理解している。そういう理解の仕方である。
 ひとには言ってしまうと(わかってしまうと)困ることがある。秘密がある。大人はそれぞれ秘密を持っている。それは子どもだからといって犯してはいけない領域である。哀しみをとおして子どもはそれを直感的に理解している。この映画の少年は特にそういうことに敏感である。
 だから父親が家出(?)したあと、その父親がある酒場で女と話しているのをみかけても「お父さんはいなかった」と言ったりする。そして、そういう理解力こそが哀しみを哀しみにしているということがわからず、ひとりで哀しみに閉じこもる。
 そういう子どもが見せる一瞬の転換点。それも、この映画はとてもていねいに描いている。
 姉が泣いている。好きでもない男と結婚し、別れ、昔つきあっていた男につきまとわれ……という姉が、少年の前で泣く。「なぜ、泣くの」「おとなになれば、わかる」。そのことは秘密にしなければならないのだけれど、少年は母親に言ってしまう。「お姉さんはおとなになればわかるといったけれど、ぼくはいま知りたい」。
 そうなのだ。子どもは何でも理解する。しかし、その理解は「哀しい」という感情の理解であって、人間がどんなふうにして思い悩み、そんな行動をしてしまうのか、その行動を突き動かしているのは何なのか、ということは理解していない。わかっていない。それを知りたいといつも思っている。たしかに、それを知らない限りはおとなになれないのだと知っている。
 これに対して、母親がていねいに語る。家族は何でも話しあわないとだめ。思っていることを内に秘めると、それが少しずつ歪んで、ある日突然爆発する、という具合に。この母の語りかけが切実で胸を打つ。私はいつもここで泣いてしまうなあ。すべてを知っていて、それをつつみこみ、和解させようと願う母の(妻の、女の)祈りがでている。それは、夫や息子(長男)や娘にこそ語りかけたいことばである。でも、その語りかけたい、本当は聞いていもらいたい相手がいない。だから、本当は聞かせたくないたったひとりの子ども(末っ子)に向かって、涙で語ってしまうのだ。
 このお母さんは、女の哀しさと強さを体全体で具現化している。すばらしいなあ、と思う。

 女の哀しさ--といえば、娘(少年の姉)が父親に怒りをぶつけるシーンもいいなあ。「18歳まで木綿のストッキングだった。コートは父親のコートの仕立て直し。どんなに恥ずかしかったか」。「はずかしかった」というのは直訳なのか意訳なのかわからないが、感情(思い)をわかってもらえない切なさが一気に爆発する。そのとき、それまではっきりしなかった一家の暮らしぶり(どんなに貧しいか)が浮かび上がる。その描き方の「品のよさ」に、なぜか、胸を打たれる。



 鉄道の、特急のスピード感も、とてもいい。線路を特急の運転席から写しているのだが、枕木や風景の動きからスピード感がとても感じられる。剛直な感じがとてもいい。あ、この運転士(父親)そのものなのだ、と今回みて、初めてわかった。だから、冒頭に運転席から見た風景が描かれるのだ。
 この映画の主人公(父)は剛直に生きている。酒を飲むと止まらない。歌が大好きで、クリスマスでも酒場で飲むとついつい帰るのを忘れてしまう。そういう、一種のだらしない(?)男なのだが、そのだらしなさのなかに剛直さがある。家族を支えなければならない、そのためにはつらい仕事をしなければならない。長時間の運転。神経も磨り減ってしまう。就職しない長男と娘のことも気になって仕方がない。末っ子はまだ幼い。大家族なので、働いても働いても貧しくなるばかりだ。--息抜きは必要なのだ。その息抜きのときも、父は剛直に、つまり真剣に(?)息抜きをしてしまうので、ついついはめがはずれるのだ。
 この剛直な性格(?)がこの映画を貫く。描かれる生活は、剥き出しである。家のなかも、職場も、町で遊ぶ子どもたちでさえ、剥き出しである。「スト破り」という落書きの、剥き出しのやりきれなさ、子ども(少年の友達)に、そういうことばを書かせてしまう社会全体の感情の剥き出しさ加減--そこにある剛直としかいいようのない監督の厳しい視線。そして、そうやって剛直に生活をみつめることこそやさしさなのだ、やさしさが育つ場なのだと、観客は最後に知ることになるのだが……。
 「泣ける」から書きはじめてしまったので、剛直な美しさについては補足になってしまったが、この映画は、冒頭の特急のスピード感、それをしっかり定着させるカメラという点から再構成するようにしてみつめると、また違ったことが書けると思う。娘と父が喧嘩するシーン、「恥ずかしかった」と思い出を語るシーンについてももっと深く書けると思う。--で、「*」以後、少し補足した。



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高貝弘也『露地の花』

2010-11-27 23:59:59 | 詩集
高貝弘也『露地の花』(思潮社、2010年10月31日発行)

 高貝弘也『露地の花』は、本の構造が少し変わっている。普通、本には「奥付」がある。そして、それは本の末尾に書かれている。それは本の出生証明書のようなものである。その出生証明書を高貝の今回の詩集は「栞」の形で収めている。栞に、初出一覧と奥付がある。本体には奥付がない。(目次もない。)
 私はとても整理が苦手で、なんでもかんでもなくしてしまう人間なので、きっとこの栞もどこかになくしてしまうだろう。私はカバーとか帯とか、本にぴったりとくっついていないものは読むのに邪魔になるのでたいてい捨ててしまう。栞も読んでいるときにどこかに落としてしまう。今回も、あ、「日記」を書くときいつも紹介している奥付がないと思いながら、困ったなあ、と思ったとき、偶然栞が落ちて、拾い上げて、あ、こんなことろに奥付が……と気づいたのだ。--で、書きたいことは別にあったのだが、ふと、その奥付について書きはじめている。
 奥付がない--いや、本体に書きこまれていない、というのは、高貝の「意図」であると思う。そこに高貝の「思想」が、「肉体」があると思う。高貝は、そこにあることば、それを、ただことばとして読む。いつ書かれたか、を消してしまいたい--とまではいかなくても、いつ書かれたかということをテキストから切り離してしまいたいのだ。
 私は、すぐに本の付属品を捨ててしまう(なくしてしまう)と書いたが、高貝は、彼のことばからそういうものを捨ててしまいたいのだと思う。私のような人間は、たぶん、高貝にとって理想の読者なのだろうと思う。--あるいは、そんなふうに考えることは、高貝の罠にはまっているのかもしれないけれど……。

 罠--と、ちょっと奇妙なことを書いたが、高貝のことばには、何かしら「罠」のようなものがある。
 「露地の花」。冒頭の2行。

漣痕(れんこん)のした、とろり 波が揺れている。
二町谷くだり、見桃寺をたずねた

 「蓮根」と「漣痕」は別のものである。が、「れんこんのした」という音は「蓮根の下」を想像させる。蓮根は水の下、泥のなかにあるのだが、その下の方から逆に水面を見上げると、とろり、と波が(水が)揺れている--そういうイメージがまず浮かぶ。そして、その「とろり」には「した」という音を「舌」にかえてしまうものがある。蓮根を食べる。そのときの感触、とろり。それが蓮根が眠りながら見上げた水の(波の)揺れる様子を思い出させる。
 これはもちろん完全な「誤読」である。
 そう意識しながら「漣痕」の方へことばを動かすのだが……。「漣痕」というのは、海辺の波の痕のことだが、うーん、砂浜に打ち寄せた波が沖へ引いていくのではなく、砂の下へ下へともぐりこみ(砂は水を吸い込むからね)、砂を「とろり」とさせながら、下の下の方で記憶の波を揺らしているということなのかなあ。あるいは「漣痕」が「舌」のように「とろり」としていて、それが波のように見えるということなのかなあ。
 あ、これも「正しい読み」には入らないだろう。きっと「誤読」だろう。
 私は「誤読」が大好きな人間だから、「誤読だよ」と高貝に指摘されても、そういう指摘自体はなんとも感じないが、どうも不安定である。私の気持ちが。「よし、こんなふうに誤読してやるんだ」という気持ちがかたまってこない。「波が揺れる」ではなく、私の「読み方」が揺れる。
1行目で、それだけ揺れてしまうと、2行目はもっとたいへんである。「二町谷くだり」とは「二町谷」を「下る」ということ? 1行目の「した」がここでは完全に「下」ということばを揺り起こし、目覚めさせている。私はどうしても「下る」と読んでしまう。そして「を」を無意識に補っている。詩に書かれている誰かは、二町谷を下り、見桃寺をたずねる、と私は読んでしまう。(「二町谷」も次の「見桃寺」も私にはわからない名前だが実在の固有名詞だろうか。)そして、そう読んだ時に、また1行目の「漣痕」が「蓮根」になってしまうのだ。寺は仏教。仏。蓮の花。「谷」ということばも、「漣痕」の海辺ではなく、静まり返った池のようなものを連想させる。
 高貝はいったい何を書いているのだろう。それがわからない。わからないのだけれど「意味」を通り越して、「した」「とろり」「揺れている」「くだり」「たずねた」ということばが、のんびりと動いている人間を感じさせる。彼のなかには、何かしら「した」「とろり」「揺れている」「くだり」「たずね(る)」という感じの音が動いている。(たずねた、ではなく、たずねる、の方が私には音楽的に響きがいいように思える。)その一方で、彼の肉体は「見桃寺」の「見」るということばのように、何かしら視覚的である。「漣痕」は耳では認識できない。あくまで視覚で認識する。あるいは、触覚で、というひともいるかもしれない。--触覚で、というのは「とろり」ということばが呼び覚ますのである。
 何が書いてあるのか「頭」ではわからない。「頭」ではわからないが、何かしら「肉体」の奥から、いつもとは違った感覚が動きはじめているのを感じる。いまは春。春のとろりとした光が(波だったのに……、そして海辺ではまだ波なのだけれど……)あふれ、お寺では桃が咲いていて、そのとろりと酔うようななかを、あてもなくただ感覚を遊ばせている。感覚が遊びはじめている。
 そういう感覚に呼応する(そういう感覚をさらに呼び覚ます、あるいはかき混ぜる)ように2連目が動く。

ひき毟(むし)るばかりの 哀しい反照が
馬酔木(あしび)の淡淡しい 馥(かお)りが
前橋の袂(たもと) 幽かな半母音が

 「意味」はここにも存在しない。(あるのかもしれないけれど。)「ひきむしる」「かなしい」、「あしび」「あわあわしい」、「ひきむしる」「たもと」、「 幽(かす)かな」「かなしい」「かおり」、「幽(ほの)かな」「かおり」「たもと」、「あわあわしい」「ほのかな」「はんぼいん」--ただ、ことばが、その意味ではなく「音」が反照しあうのだ。まるで、1連目の「蓮根」が「下」から見上げた水の揺れる姿のように。
 この「反照」することば--それは意味を拒絶する「罠」である。「罠」であることがわかっていても、そこに置かれている「えさ(?)」が魅力的なので、そのなかに入ってしまうような「罠」である。
 そして「前橋」。
 あ、ここは朔太郎の土地? 朔太郎の母音が高貝を動かしている?
 「前橋」こそが「魅力的なえさ(?)」

 こんなふうに動いていくことば、--私のことばは高貝のことばに動かされているのだけれど、動かし、動かされるそのことばは、2010年10月31日という日付(奥付)も、2010年11月27日という日付(きょうの日付)も関係がないなあ。朔太郎(?)の生きた時代も吹き飛ばして、ただ日本語の音のなかへなかへと彷徨い、そうすることで「日本人」の肉体を彷徨う。朔太郎ということばをたまたま私は思いついたが、朔太郎も、高貝も、私も関係ない。個別の、個人の肉体を超えて、肉体そのもののなかへと動いていく。誰のものでもない肉体(誰のものでもある肉体)になって、日本語を呼吸する。


高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
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ナボコフ『賜物』(23)

2010-11-27 10:50:51 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(23)

 その代わり再現されているのは、駅から出たとたん最初に覚える感じのような、春の印象の数々だ。地面は柔らかく、足に近く、まったく遠慮のない空気の流れが頭を取り巻く。
                                 (41ページ)

 この春の描写は、私にはとても懐かしく感じられる。私が雪国育ちだということと関係している。「地面は柔らかく、足に近く」。これは雪が消えているからである。雪の凍った道に比べると地面は柔らかい。そして何よりも「足に近い」。地面と足の間に雪がない。それだけではない。いや、正確ではない。足が感じるのは「もの」ではないのだ。「もの」の感触なのだ。雪があるとき、雪とともにある感触。冷たい、滑る--などの感触がない。それを足という肉体がはっきり感じる。それは、なんといえばいいのだろう、自分自身の「感触」を脱いだ感じなのだ。自分の肉体が自然にまとってしまう緊張感を脱いで、地面に直接触れる感じ。それが「近い」。それは地面と足の間に雪が挟まっているか挟まっていないか以上の違いなのだ。「物理」ではなく「生理」の近さである。
 同じことが「遠慮のない空気の流れ」にも言える。「遠慮がない」ということばそのもので言えば冬の空気も遠慮がない。人間に配慮しない。平気で頭を殴ってくる。帽子や耳当てがないと、とてもつらい。冷たい空気は痛くてたまらない。春の空気の遠慮のなさは、それとは違う。空気が触れるのは同じだが、人間が、「さあ、遠慮しないでもっと愛撫して」と要求するものなのだ。空気に遠慮がないのではなく、人間の方に遠慮に対する意識がない。どんなに触られたって、どんなにぶしつけにふいに襲ってきたってうれしいのだ。ここに書かれているのは「気候」ではなく「心理」なのだ。
 ナボコフは、生理や心理を、すばやくことばにもぐりこませるのだ。

ちょっと離れたところでぼくたちを待っていたのは、内側も外側も真っ赤なオープンカーだった。スピードの観念のせいですでにそのハンドルは傾斜していたが(ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)、全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。
                                 (41ページ)

 (ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)がおもしろい。人間に、ではなく、海辺の崖の木々。風にあおられつづけて傾いている(傾斜している)木々。ナボコフの視力は、いま、ここにない、遠くのものをすばやく引き寄せる。そして視力で引き寄せたものは、それぞれに「肉体」をもっている。だからこそ、その「肉体」が「わかる」と信じることができるのだ。崖の木々は「頭」でナボコフの書いたことばを理解するのではない。肉体で、風と、スピードが引き起こす風と肉体の傾斜の関係をわかるのだ。
 この自然との一種の一体感がナボコフの肉体そのものにあるような感じがする。そのことが、ナボコフのことばを伸びやかにしている。
 他方、人工のものに対しては、こういう親和感はない。「全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。」オープンカーも幌馬車も、車のひとつ。オープンカーは幌馬車の外観を真似ている(似ている)。それは後輩が先輩のスタイルを礼儀として真似るのに似ていて、そこには一種の「卑屈さ」がある。
 ナボコフは人工物に対して親和力ではなく批判力を発揮する。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
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粕谷栄市『遠い川』(11)

2010-11-26 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(11)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「歳月」。ここに、壮絶なことばがある。

 自分が、何をして飯を食ってきたか、もう、半ば分か
らなくなっているのだ。他人の死の歳月のかなたで、一
切は、朦朧としている。

 「他人の死の歳月のかなた」。この「死」は「生」である。「生きる」である。
 この詩の登場人物の「自分」は「刑場」の首刎ね職人である。他人の首を刎ねる仕事をしてきた。そして、いまは庭に菊を咲かせることを楽しみに生きている。仕事をやめて余生を生きている。「おれは、耄碌して、一日、縁に坐って、口をあけているだけだ。」という状態である。
 「他人の死の歳月」というのは、他人の首を刎ねつづけた歳月という意味であり、「他人の死の歳月のかなた」とは、そういう自分の生きてきたことの、ただ唯一はっきりしている「他人の首を刎ねる」ということのかなたで、ということになる。つまり、自分の「生」のかなたということになるのだが……。
 その「生」(首を刎ねる、刎ねて生きる)が「他人の死」と重なるとき、当時(首を刎ねているとき)は気がつかなかった「他人の生」というものが、ふいに反逆してくる。「生」がないのに、そこに「死」だけがあるという不思議な事実が、「おれ」に反逆してくる。
 「朦朧」としているのは、一義的には自分の「生」なのだが、それは朦朧とはしていない。ちゃんと「首を刎ねて生きてきた」ということはわかるのだから、そこでほんとうに朦朧としているのは「他人の生」だということがわかる。「朦朧」どころか、まったくわからないということを、男は知ってしまう。
 知らないものがある、ということを男は知ってしまう。

 知らないもの、絶対的に知ることのできないもの。それは「死」である。自分の「死」である。それは絶対に知らないということで「他人の生」(首を刎ねられた他人の生)とふいに重なる。
 そして。
 「他人の生」というのは、他人のなかだけにあるのだろうか。もしかしたら、「自分」のなかにもあるのではないだろうか。他人の首を刎ね、その後、道楽で菊を育てて生きてきたが、そのほかにも、男の生はあったのではないのか。ほかの生き方はあったのではないのか。そればかりか、意識せずに生きてきた「いのち」があったのではないのか。
 「朦朧」としているのは、実は、そういう自分の「生」そのものである。

 これは、いま、私が書いたことは「現実」なのか、それとも「夢」なのか。つまり、粕谷が実際に書いていること、書こうとしていることなのか、それとも粕谷の「日常を超えてやってくる、特別の時間」--粕谷の書いたことば、粕谷が繰り返し書いていることばを超えてやってきた、何か特別な「時間」--粕谷のことばのなかにある「いのち」の動きが描いて見せるものなのか……。
 それこそ、そういうことが、私の中で「朦朧」となってしまう。何かがどこかで矛盾しているのかもしれない。その矛盾に気がつかずに、それでもことばを動かそうとするとき「朦朧」という状態になるのかもしれない。

 おれは、とんでもない幻の運命を生きたのだろうか。
暗黒の夢のなかで、おれは、大刀を振りかぶり、坐って
いる自分の首を刎ねる。ころころと、首は転がる。

 これは、たしかに「夢」なのだ。そうでなければ、そのように書くことはできない。書く--書いているという「現実」があり、他方に、自分で自分の首を刎ねるという「夢」がある。
 自分で自分の首を刎ねるということは、現実にはできない。だから、それは矛盾である。そういう矛盾が「日常を超えてやってくる、特別な時間」である。
 そこでは、あらゆる時間が重なっているのだ。
 大刀を振りかぶり、他人の首を刎ねるという「おれ」の時間。そして、そのとき「おれれ」に首を刎ねられる「他人の」時間。重なりようのないものが「いま」という一瞬の「時間」のなかで、「一瞬」であること、「同時」であることにおいて重なる。
 それが「夢」。
 「日常を超えてやってくる、特別な時間」は、自分の時間を超えてやってくる、他人の時間、他人の生、なのだ。自分の生と他人の生とはまったく別なものである。その別なものが重なる瞬間が「夢」。
 そして、これは次のように書き直すこともできるかもしれない。
 自分にとって(人間にとって)の「生」とはまったく別なものとは「死」である。「生」と「死」が重なる瞬間--「生」と「死」が「同時」にある「時間」、それが「夢」であると。
 あるいは、さらに、「生」と「死」の「境界」が「夢」である、と。

 遠い天に、三日月が出ていて、長い刑場の塀が続いて
いる。そのあたりに、無数の白い菊の花が咲いている。
どんな人間の一生も、一生は、一生なのだ。

 長い刑場の「塀」。それが「境界線」である。そして、そのあたりに咲いている「無数の白い菊」が「夢」である。誰の一生も、そこでは区別ができない。同じように「生」と「死」の「境界線」として「一生」がある。絶対に同時に存在しえないものが同時に存在する矛盾が「一生」なのだ。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
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ナボコフ『賜物』(22)

2010-11-26 10:53:36 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(22)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。--と、きのう書いた。
 ただし、これには補足しなければならないことがある。
 「濁り」(不純物)はないが、「異物」はある。混ざっている。たとえば、「黒いもの」が。しかし、その「黒」も透き通って、どこまでも見通せる。そこから始まるのは「黒--抽象的な黒、透明な黒」なのである。その黒は、いわばサングラスの「黒」かもしれない。自分の目を他者から隠しながら、しかし、対象をしっかり見てしまう。

あの瞬間、私はおよそ人間に可能な最高度の健康に到達していたのではないかと思います。私の心は危険な、しかしこの世のものとは思えないほど清らかな暗黒に浸され、洗われたばかりだったからです。
                                 (38ページ)

 「清らかな暗黒」と書いて、そのあと、すぐ次の文章がつづく。

そしてこのとき、身じろぎもせず横たわったままでいると、目を細めもしないのに、心の中に母の姿が見えたのでした
                                 (38ページ)

 「目を細めもしないのに」は、この文章の中でとても重要な表現である。「心の中に」何かを見るとき、人はたいてい「目を閉じる」。けれどナボコフは「目を閉じもしないのに」ではなく、「目を細めもしないのに」と書く。
 「目を細める」は、実は、近眼の人間が「遠く」を見るときにする一種の「癖」である。きのう読んだ文章のなかに「遠く」ということばがあったが、ナボコフは「遠く」を見るときの視線と、母を見る視線を対比していることになる。
 ナボコフは、母を「遠く」ではなく、「近く」に見たのである。そして、その「近く」というのは「心の中」であるのだが。
 「心の中」と言えば、きのうの、ベッドの中でみた「どことも知れない遠く」も心象風景、つまり「心の中」の風景であろう。「心の中」で見るものでも、ナボコフは「遠く」と「近く」を区別する。
 そして「近く」を見るとき、そこに「危険」と「暗黒」が親和するのである。
 先にサングラスのことを少し書いたが、サングラスが目を隠すのは「近く」の人に対してである。「近く」から隠れるためにサングラスがある。
 主人公が「近く」に見た母というのは、買い物に出かける母であり、そのとき叔父(母の弟)に声をかけられたのに気がつかない母である。そして、その母は叔父と一緒に歩いていた男にも目撃されている。それはそれだけでは「秘密」にするようなことではないかもしれないが、その知らない男に目撃されているということを、ナボコフの主人公は「危険」、ただし「清らかな・暗黒」との親和力のなかにつかみ取るのである。

 ナボコフには、あるいはナボコフの主人公には、自己の内と外の区別はない。ただし、その自己の外そのもののなかに「近く」と「遠く」がある。その「近く」と「遠く」を意識するのがナボコフの主人公である、ということになる。





ナボコフ短篇全集〈1〉
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ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン監督「雨に唄えば」(★★★★)

2010-11-26 10:12:34 | 午前十時の映画祭

監督 ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン 出演 ジーン・ケリー、ドナルド・オコナー、デビー・レイノルズ、ジーン・ヘイゲン、ミラード・ミッチェル

 冒頭の3人の黄色いレインコート姿の歌とダンスが楽しい。この黄色いレインコート、ほしくない? ほしいねえ。黄色いレインコートで雨のなかを歌いながら歩きたい。
 有名なジーン・ケリーの、雨のなかのダンスもいいなあ。雨にぬれながら無邪気に歌って踊りたいねえ。水たまりだ水をばしゃばしゃ。あ、できそうでできないことをやってしまうのが映画なんだねえ。
 そういう意味では、ジーン・ケリーが恋を打ち明けるとき、映画のセットを利用するのもおもしろいなあ。実際の黄昏ではなく、セットでつくりだす黄昏。風。風になびく、長い長いリボン(スカーフ?)。
 そして、アフレコのおかしさ。
 今ではトーキーが常識になってしまっているから軽い笑いだけれど、昔(1952年当時)はほんとうに大笑いだっただろうなあ。
 役者としては、ドナルド・オコナーの鍛え上げた動きが魅力的だ。芸達者、ということばがぴったり。客は笑わせるけれど、自分は笑わない--そういう一種の身にしみこんだ真剣さがスクリーンを引き締める。自分の位置をしっかり主張している。



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粕谷栄市『遠い川』(10)

2010-11-25 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(10)(思潮社、2010年10月30日発行)

 きのう、粕谷のこの詩集の明るさについて少し書いた。そこには「生きていることが特別な時間なのだという哲学」があるから明るいのだ。一方、死を描くからには明るさだけではなく、別な面もある。さびしさである。
 「隠者」には、さびしい音が響いている。

 そうしていると、次第に、からだが、痩せ衰えてくる。
そのまま、年月をすごすと、やがて、目がかすみ、すべ
てが、ぼんやりとしか見えなくなる。
 悦ばしいことに、そのために、すべてを、ぼんやりと
しか考えられなくなるのだ。彼に約束されるのは、襤褸
を下げて、あちこちを、さ迷い歩くことであり、やがて、
そのぼんやりとした世界のどこかで、行き倒れて死体と
なることなのである。
 隠者が、真の隠者となるのは、それからである。つま
り、それからは、彼は、隠者として、魂の力のみで存在
することになる。

 「悦ばしい」と書いているけれど、そこには歓喜はなく、逆にさびしさがある。このさびしさは、きっと「魂の力」に原因がある。「魂の力」を粕谷は、「魂の力のみ」と強調して書いているが、この「のみ」にさびしさがあるのかもしれない。
 「のみ」は単独をあらわす。「ひとつ」をあらわす。誰とも出会わない。だから「さびしい」。
 この「魂(の力)」を粕谷は言い換えている。

 そうなった彼は、万事、自由である。他人の家に入り
こんで、飯櫃の飯を食ってもいいし、女を襲っても構わ
ない。どこかの寺の松の木に首を吊ってもいいのだ。
 つまり、それが、隠者としての彼に関わるものである
限り、一切は、この世のことでないから、それらは、彼
にしか存在しないできごとになるのである。

 ここに書かれている「哲学」には簡単に触れることはできないかもしれない。簡単に触れてしまうと、何か、とんでもないことが起きそうな気がする。
 たとえば、ここには「自由」ということばが書かれているが、その定義は? なんでもできるから自由? しかし、そのなんでもできるは、彼にしか存在しないできごとなのだから、不自由であるはずがない。不自由ではないということが「自由」であるとは、言えないのではないのか。

 そのことの意味を考えるのは、さらにばかげたことで
ある。彼の一切は、虚妄のことなのだ。

 「自由」とは「虚妄」のことである。もし、そうであるなら、「自由」を求めることに何の価値があるのだろう。
 この詩では、何かがおかしい。そして、その何かおかしいところに、「さびしい」の原因がある。「魂の力」というようなものに頼っている(?)のが、その「さびしさ」の原因かもしれない。
 「夢」の場合は、こういう「さびしさ」とは無縁である。「夢」と「虚妄」の違いが「さびしさ」の原因かもしれない。
 そして、そのことを思うと、「虚妄」を引き出したいくつかのことばが気になりはじめる。
 「虚妄」は「意味」「考える」から生まれている。そして、その「意味」を「考える」のは何かといえば、それは「魂の力」である。「魂」が「意味」を「考える」。そのとき、世界から何かが抜け落ちていく。その欠落が「さびしい」のである。
 何が抜け落ちていくのか。
 「肉体」である。
 飯を食う「肉体」、女を襲う「肉体」。そういうものがないとき、その「食う」も「襲う」も「虚妄」である。「魂」が考えただけの行為である。実体がない。

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。それに対して、その反対の「虚妄」は日常を「超えることなく」やってくる、特別の時間である。
 「日常を超える」「日常を超えない」の違いは何か。「日常」とは何か。「繰り返す」が「日常」であった。「日常」はつづいているものである。繰り返し、つづいているものである。人間にとって、繰り返しつづいているものとは何だろう。何かを「繰り返すことのできる・肉体」である--と、直感的に言ってしまおう。
 「夢」は、「肉体」を超えてやってくる、特別な時間である。「肉体を超える」とは「肉体」の遠くから、かけ離れたところからやってくる、ということかもしれない。
 一方、「虚妄」は「肉体」を超えることなくやってくる。「肉体」を超えない、とはどういうことになるだろうか。「肉体」の内部から。「肉体」の連続していることころから。そして、それは「考える」ということと結びついていることを思うとき、私には「頭」ということばが浮かんでくる。
 「頭」で「意味」を「考える」。「魂」で「意味」を「考える」。「魂」とは「頭」である。そのとき、「虚妄」がやってくる。「夢」ではなく、「虚妄」がやってくる。
 それは、さびしい。

 「魂」(頭)で考えることは、さびしいことなのだ。
 「隠者」--「隠者として生きるには、それ相応の覚悟がいる。」というのは、この詩の書き出しのことばだが、ここに、もうひとつ「さびしい」につながることばがある。
 「隠者」というのは「頭」で考え出されたものだが、同じように、「生きる」というのも「頭」で考え出されたことばなのだ。きっと。

 私はきっととんでもないことを書いているのだろうけれど、粕谷の詩(そのことば)を読むと、「生きる」ということを考えないものが、人間にはある。「肉体」である。「肉体」は「生きる」ということを考えない。もし「肉体」が何かをするとすれば、それはただ「死」へ向かうということである。考えるのではなく、ただ「生きる」。「生きている」という動きのなかにだけ「肉体」があり、それは「肉体」の外から「夢」がやってくるのを待っている。「夢」とは、そのとき「肉体」の完全なる外部にあるものだから「死」でもあるのだ。
 「死」こそが「夢」。「死」は、「日常を超えてやってくる、特別の時間」。「死」だけが「虚妄」から人間を解放する。

 そのいじけた男は、最後に、ただ、人並みに、白骨と
なって、生涯を閉じることのできた僥倖だけを、真の何
ものかの魂に感謝すべきなのである。

 最後にもう一度「魂」が出てくることがこの詩を複雑にしている。この最後の「魂」は「いじけた男の・魂」ではなく、「真の何ものかの魂」である。そのことを、しっかり、みつめないと、この作品はわけのわからないものになる。
 もし「魂」というものがあるとしても、それは「私」の魂ではなく、つまり「肉体」のなかにあるものではなく、外にあるものであるとき、そこに死の幸福がやってくる。無事に、白骨になって、死ぬことができる。

 よりよく死ぬために、粕谷は、この詩で「魂」を「頭」を捨てる練習をしている。私には、なぜだか、そんなふうに感じられる。



遠い川
粕谷 栄市
思潮社


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ナボコフ『賜物』(21)

2010-11-25 10:24:41 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(21)

 私は--いやはや、本当のところ--虚弱で、わがままで、透明でした--そう、水晶の卵のように透明でしたね。
                                 (37ページ)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。
 そういう透明な存在と世界との関係はどうなるか。

青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなしている部屋の中でベッドに平らに横たわった私の内には、信じがたいほどの明るさが秘められていました--それは、黄昏時の空間に輝かしく青白い空が彼方まで帯のように延び、そこにどことも知れない遠くの島々の岬や砂州が見えるかのようで、さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、濡れた砂の上に引き上げられたきらめくボートや、遠ざかっていく足跡を満たすまばゆい水まで見わけられるのではないかと思えるような、そんな明るさでした。
                                 (38ページ)

 近くと遠くの関係がなくなる。消える。自己と自己の外の世界の垣根がなくなる。「透明」の反対は「不透明」ではなく、「枠」(垣根、区切り)というようなことばであらわすことのできる何かなのかもしれない。
 「枠」(区切り)がないから、それは「どことも知れない」場所である。しかし、それは「遠く」であることはわかる、という矛盾した世界である。「どことも知れない」なら、それは「近く」である可能性もあるのだ。私たちは「どことも知れない」ところを「遠く」と考える習慣があるが、これは、知らないのは行ったことがないから--つまり、「遠く」だからと考えるが、それは単なるずぼらな精神がそうさせるだけのことである。ナボコフのように、どこまでもことばにしてしまう作家の精神にとって、「どことも知れない」が「遠く」と簡単に結びつくはずがない。
 では、なぜ、ナボコフはここで「遠く」ということばを使っているのか。
 それにつづいて出てくる「さらに」が重要なのだ。

さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、

 「さらに」「遠く」。自己と自己の外の区切りはなく、この小説の主人公は、ベッドのなかにいながら、遠くを見る。そして、その遠くを見る視線を「さらに」遠くへ飛ばす。自己と自己の外との区切りはない、つまり、そこに距離がないにもかかわらず、その外のある一点と他の一点との間に「距離」はある。そういう「距離」を無意識の内に見てしまう。
 「どことも知れない」は、それがどこであっても構わないということを意味する。そして「さらに」は、そのどこであってもかまわない場所であっても、ナボコフは、そこに「距離」を、「空間」を見てしまう。「隔たり」を見てしまう。
 どこまでも「透明」なナボコフは、ある一点と他の一点を隔てる「透明」な「空間」(距離)に親和してしまう。(親和する--という動詞があるかどうかもわからずに、私は、ふと書いてしまったのだが……。)
 そして、この「親和力」が「青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなし……」というような、美しいことばの光景になる。--美しい光景がことばになる、というより、美しいことばが光景を美しく調え、それからナボコフと親和する。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社

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粕谷栄市『遠い川』(9)

2010-11-24 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(9)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。そういうときの「日常」の定義はとても難しい。
 「米寿」。

 八十八歳になると、そんな日もある。気がつくと、こ
の私が、長閑な春の町を歩いている。どこに行っても、
にこにこ笑って、お辞儀をする女がいる。こちらも、鷹
揚に、会釈をして行きすぎる。

 ここに書かれているのは「日常」か。あるいは、「非日常」か。「そんな日もある」ということばは、どちらともとれる。「そんな日もある」というのは、「そんな日ではない」日の方が多く、「そんな日」は少数派(?)に属することを意味するなら、それは「日常」というには少し遠いかもしれない。けれど「日常」が「日常」であるかどうかは「頻度」の問題ではないだろう。「異常」だと判断しない限り、それは「日常」ということになるかもしれない。
 ほら、わからなくなるでしょ?
 さらに「長閑な春」が「非日常」だとすると、「日常」は気ぜわしい春? そんなのは、いやだねえ。「長閑な春」こそ「日常」であってほしいと私などは思ってしまうが、そう思うのは、そう「思う」ことが「日常」になってしまうほど、現実の「日常」は長閑ではない証拠?
 ほら、またわからなくなる。
 どこへ行ってもにこにこ笑ってお辞儀をする女がいるというのは、これも「非日常」に近いかもしれないけれど、誰かに会ってにこやかにお辞儀をすることが「非日常」というのは、やっぱりいやだね。できるなら、「日常」こそ、そうあってほしい。
 うーん。なにやら「日常」というものには、「日常」がどんなふうにあってほしいかというような願望が入っている。純粋な(?)「日常」というものはないのかもしれない。--だとすると、その「日常を超えてやってくる、特別の時間」とは?
 わからなくなるねえ。

 こういうときは、私は考えない。ただ、ことばが、どんなふうに動いているかだけを追っていく。そうすると、粕谷のことばは、同じことを繰り返していることに気がつく。

 八十八歳になると、こんな日もある。つまり、長閑な
春の町を、自分が、誰彼となく、会釈をしてゆく日だ。

 「そんな日」が「こんな日」にかわっている。「そんな」(それ)は自分より少し遠くにある。離れている。「こんな」(これ)は「そんな」(それ)よりは身近にある。最初は離れていたものが、繰り返しているうちに身近になってくる。
 あ、これこそ「日常」の「日常性」かもしれない。
 わけのわからないこと、変だなあと思うこと、違和感のあることも、繰り返していると「肉体」になじんでくる。
 「夢」とは、そういう次第になじんでくる「日常」を超えてやってくる、のかな?
 いや、違うねえ。

 よろしい。要するに、私は、鷹揚に、誰彼となく、会
釈をして歩いてゆけばいい。どこまでも、それを繰り返
してゆけば、行き着くところに、行き着くわけだ。

 びっくりしてしまう。「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」という定義(?)が完全にひっくりかえる。「日常」ではないもの、何だか変だなあ、違和感があるなあと思っていることを繰り返していると、それが「日常」になってしまう。「そんな日」は「こんな日」にかわり、その繰り返しが「日常」を「行き着くところに、行き着く」というのは、「日常」が「日常」を超えてしまうということにならないだろうか。
 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」ではなく、「日常」そのものが「日常を超えて、特別な時間」になってしまう--それが「夢」ということにならないだろうか。

 よろしい。そこで、私がやることといえば、さらに、
鷹揚に、おれの花見の宴を張ることだ。つまり、私を取
り巻いて、輪になって踊る、赤い腰巻の女たちを見なが
ら、ゆっくりと、大きな盃の酒を傾けることだ。
 八十八歳になると、そんな日もある。それからだ。私
が、いきなり、その花山ぐるみ、紫色の雲に乗って、し
ずしずと、大勢の女たちと一緒に、極楽に昇るのは。

 人間の最終的な「夢」が「極楽」であるというのは、ひとつの「答え」だとは思う。そうすると、ますます、変だねえ。
 「日常を超えてやってくる、特別の時間」は「日常」を繰り返すことで「日常を超えてしまう、特別な時間」というのと、区別がつかなくなる。ただ「日常」を繰り返すことだけが「日常」を超えることであり、それが「極楽」にたどりつくことなのだ。行き着くところに行き着くとは、「日常」を繰り返すことなのだ。

 たぶん、「日常」そのもののなかに、何かしらの「夢」がある。その「夢」は繰り返すことで「夢」ではなく、「日常」になる。そして、そうやって完成された「日常」が、さらに繰り返されることで「極楽」になる。
 「八十八歳になると、そんな日もある。」からつづくことばは、それ自体が「夢」なのである。そういう感じで「極楽」に行きたいという「夢」が、老人の「日常」のなかにあらわれ、その「夢」を繰り返していると--つまり、誰彼となく会釈をかわすという暮らしを繰り返していると、その「夢」が「日常」になり、その「日常」の積み重ねでしか超越できない「行き着くところ」に「行き着いてしまう」。

 こんな考えは「誤読」かもしれない。けれど、そういう「誤読する力」のなかに、何か「夢」そのものの力と触れ合うものがある。そして、それは「繰り返す」ということと、切っても切り離せない関係にある。
 たぶん、

どこまでも、それを繰り返してゆけば、行き着くところに、行き着くわけだ。

 ということばの「繰り返してゆけば」が、今回の粕谷の詩集のキーワードである。「どこまでも……」は、「どこまでも、それを繰り返してゆけば」ではなく、「繰り返してゆかなければ」、行き着くところに、「行き着けないわけだ」の言い換えなのだ。
 そして、「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」ではなく、「日常」は「夢を繰り返すことによって、夢を超える、特別の時間」なのだ。「日常」こそが、「特別の時間」なのだ。
 生きているということが、特別の時間なのだ。

 ばんざい。めでたいはなしだ。ばんざい。つまり、長
閑な春の日、私は、とうふ屋のまえで躓いてころんで、
脳天を打って、立派に、その一回で死んでいるのだ。

 この詩は、この最終段落で、突然、それが死んだ男の「夢」であるとわかるのだが、死んでいながら、そこには「ばんざい」という喜びがはじけている。
 死を喜ぶ。
 --それは生きていることを、より深く喜ぶということにほかならない。生きているという特別な時間があって、そのあとにはじめて死がある。
 粕谷のこの詩集が何度も何度も死を描きながら、不思議に明るいのは、生きていることが特別な時間なのだという哲学に到達しているからだ。




遠い川
粕谷 栄市
思潮社


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