詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英『星の(半減期』

2019-05-31 10:33:38 | 詩集
渡辺玄英『星の(半減期』(思潮社、2019年04月25日発行)

 渡辺玄英『星の(半減期』の巻頭、目次に先立って掲載されている作品「未読の街」の最初の部分。

これはずいぶん前に書かれたものだ
読みづらい文章の中に
欠落した言葉があって
欠けた言葉の向こうに
ぼんやりと夕日が差している
ひとが影になって歩いている
ありふれた住宅街にすり鉢状に
窪んだ公園があって
だれかが砂利をふむ音が
耳元にきこえてくる(ほかに音はない
(まだわたしはあそこに立っている

 「欠落」とは何か。「欠落」はいつでも、何らかの動きを誘う。「欠落」と意識されたときからその動きは始まる。
 「ほかに音はない」というとき、「砂利をふむ音」だけが「ある」。この「ある」をあえて「ない」という「欠落」を指し示すことばをつかって明確にするときから、詩ははじまる。
 「まだわたしはあそこに立っている」とき、それを意識する「わたし」はどこにいるか。ここに「いる」。「いる」が二重化される。そして、この二重化から、ほんとうは「実在しないわたし/あそこに立っている意識のわたし」、「欠落」の中心へとことばは動く。
 この「欠落」をめぐる運動は、「抒情」である。「論理」を必要としている。けれど「論理的抒情」というのは「現代詩」ではもう「遺物」である。だからこそ、渡辺は、その「遺物」を、閉じない括弧を多用することで装飾する。装飾で目を引きつける。
 表記が難しくて引用できないが、渡辺はさらに「見せ消ち」という装飾を取り入れている。書いた文字の上に棒を引き、何が書いてあるかを見せながら、それを否定するという手法である。開かれた括弧が「追加」あるいは「補足」ならば、「見せ消ち」は何だろうか。「補足」の否定か。そうではなく、否定の「補足」だろう。つまり「過剰」。「現代詩」は「わざと」書かれたことば、過剰のことばである。それを実践している。

 この冒頭を二連目で、こう書き直す。

ずいぶん前に書いたものだこれは
書かれているわたしが書いていたかれを思い浮かべて
(それで影のように(幾重にも(わたし
(わたしが重なって立ち竦む
たとえばあの公園の銀杏の木、という
文章の下に埋葬されているわたしたちを
わたしは覚えていて
(そうこのあたりだ(わたしの
見開いた目元が仄かにあかく染まっている

 書き直しは「補足」であり、「否定」だから、ある意味では二連目は、その行頭に丸括弧がないけれど、構造としては丸括弧を含んでいる、丸括弧が「欠落」したことばであるということもできる。(「書き直し」を渡辺のつかっていることばで言いなおせば、「重ね」である。)
 一行目の「倒置法」のことばをふつうにもどすと、一連目の書き出し「これはずいぶん前に書かれたものだ」になる。ここから逆に、この二連目の書き直しを一連目を「倒置」させたものと定義できる。
 ものを「重ねる」にはふたつの方法がある。同じ向きに重ねるのと向かい合わせに重ねる方法。後者の場合、絵ならば鏡のように左右が対象になる。ことばの場合は左右の転換ができないので、上下、つまり倒置によって「向き合っている姿」をつくりだし、重ね合わせることになる。二連目が「倒置法」ではじまる必然は、ここにある。
 一方に「正常(?)なことばの運動」があり、他方に「倒置したことばの運動」がある。その間にあるのは何か。何がふたつの運動を切断しているか。あるいは連続させているか。いや、そういう「運動」そのものを生み出しているか。そして、この「鏡効果」の重ね合わせは、当然のように「鏡」と「鏡」の間で増幅し、止まることがない。
 増殖することばが、詩である。

 でも、この詩については、もうこれ以上書かない方がいいかもしれない。
 この詩が、詩集の一連目となり、他の作品を二連目にしていると言えるからである。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(11)

2019-05-31 09:04:16 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくの影はいつも)

ぼくの影はいつもぼくの生について語りたがつている
太陽が斜からさしてくると
ぼくは影の重さで傾きながらそれがうまく掴まりそうだ

 「語りたがつている」は、「語っている」とは違う。まだ「語っていない」。つまり、ことばになっていない。でも「語りたがつている」ことは、わかる。
 これは不思議な「均衡」である。
 「均衡」だからこそ、「重さで傾く」ということも起きる。「均衡」がくずれる。「斜」は「均衡」がくずれることを象徴している。
 「掴まりそう」は微妙だ。嵯峨は、ぼくはそれをうまく掴まえられそう、という意味でつかっていると思うが、逆にぼくが掴まえられそう、とも読むことができる。
 「ぼく」と「影」は分離できないものである。だからこそ、瞬時に主客が入れ代わるのかもしれない。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(10)

2019-05-30 10:36:28 | 嵯峨信之/動詞
* (愛するということには)

愛するということには
地名がない

 「愛するということ」は「土地」ではない。しかし嵯峨は「土地」のようにとらえて、「名がない」と言う。言い換えると「名前をつけない」。
 抽象的な、あまりにも「比喩的」な表現である。
 「愛するということ」と嵯峨は、わざわざ「名詞」に仕立てているが、「愛する」という動詞そのものとして見つめ、「氏名 人間はそれをなぜつけたか」という断章と結びつけて読みたい。「愛する」は動詞である、動詞は存在の運動をあらわす。存在(名詞)が前提になっている。あえて言うならば「愛する」という行為は「愛する」という「名」をつけられている。ある行為を「愛する」と名づけた。「名づける」は「呼ぶ」でもある。「地名がない」のではなく、必要としない。「呼ぶ」という行為だけがある。

死んだあとの土地にはただ白い地名があることを

 「愛する」には「地名がない」、死んだあと「地名がある」。行為は肉体の中に記憶として残る。思い出が「ある」。それには「名前」はいらない。思い出すという動詞が、ただあるだけだ。



*

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これから天皇に起きること(トランプ報道を読む4)

2019-05-30 10:27:47 | 自民党憲法改正草案を読む
これから天皇に起きること(トランプ報道を読む4)
             自民党憲法改正草案を読む/番外271(情報の読み方)

 平成の天皇の強制生前退位、新天皇の即位、トランプの来日は個別のことがらではなく、ひとつづきの「政治」である。安倍の天皇の政治利用であり、そこには自民党が狙っている憲法改正(2012年の改憲草案)が「先取り」するかたちで実施されている。
 これを、「ことば」からもう一度書いておく。

 平成の天皇が退位するとき、安倍は、「退位礼正殿の儀 国民代表の辞」として、こう述べた。

 平成の三十年、『内平らかに外成る』との思いの下、私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間、天皇陛下は、国の安寧と国民の幸せを願われ、一つ一つの御公務を、心を込めてお務めになり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。

 「日本国及び日本国民統合の象徴」ということばをつかっている。このことばは、現行憲法のものではない。自民党改憲草案のなかに出てくることばである。現行憲法は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と書いている。
 日本国憲法のことばをつかって語るならば、「日本国の象徴として日本国民統合の象徴として」と言うべきだろう。この「言い回し」がまだるっこしい(象徴が二回出てくる)からという理由で「日本国及び日本国民統合の象徴」と言い換えたのだと安倍は主張するかもしれない。しかし、歴史の節目の大事な「ことば」である。そういう「文書(記録)」を端折るのは、納得ができない。
 ここには、何らかの意図があると読むべきだ。
 この「日本国及び日本国民統合の象徴」は新天皇が即位するとき、そして新天皇への安倍のことばのなかにも繰り返される。4月30日、5月1日、二日間で3回繰り返し語られた。繰り返されることで「歴史のことば」になってしまった。自民党改憲草案のことばが「現実」になったのだ。

 なぜ、安倍は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」ということばをつかわなかったか。「日本国及び日本国民統合の象徴」と言ったか。
 トランプの来日と結びつけると、見えてくるものがある。トランプは「令和」最初の「国賓」として来日した。「国賓」を迎えるのは天皇である。このとき天皇は、トランプから見れば「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」というよりも、「元首」のイメージの方が強いだろう。「象徴」という「肩書(?)」は日本以外にはないだろう。トランプは、天皇を「元首」と理解して、天皇と対面しただろう。
 「元首」ということばは現行憲法にはなく、そのためぼんやりした「イメージ」としてなんとなく国民に受け入れられている。天皇が国賓を迎えるときは「元首」の役割を果たしているかもしれないという具合に。少なくとも、国賓を迎えるとき「国民統合の象徴」とは考えにくいだろう。
 この「ぼんやりした元首イメージ」は、しかし、自民党の改憲草案では明確に「ことば」として書かれている。改憲草案は、こう書いてある。

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 「天皇は、日本国の元首であり」という「定義」を利用して、安倍は天皇とトランプを引き合わせたのだ。平成最初の国賓はジンバブエの大統領だった。このことについて、サンケイ新聞は、こう書いている。

 どの国の元首を国賓とするかは数年前から政府内で綿密に協議して決めるのが通例だ。平成初の国賓は元年10月、ジンバブエのムガベ大統領(当時)だった。「数年前から調整を進めていたため、昭和天皇の崩御は想定しておらず、たまたまジンバブエになった」(政府関係者)という。

 安倍は、数年間かけて綿密に協議する国賓を、強引に決定し、天皇に引き合わせた。「元首」であることを、はやばやと「国外」「国内」に示そうとしたのである。
 退位、即位のときのことばでは引用できなかった「天皇は、日本国の元首であり」ということばを「現実」(事実)として、先に実行して見せた。先取りした。
 ジンバブエに対して失礼な言い方になるが、今回もジンバブエの大統領が「初の国賓」だったら、トランプ来日のような「大騒ぎ」になったかどうか。たぶん、ならない。安倍も、ゴルフをしたり、大相撲を一緒に観戦したりしないだろう。
 安倍は「元首」としての天皇にトランプを引き合わせる形で、常にトランプと一緒に行動し、安倍自身の存在をアピールしたのである。参院選が控えているからだ。

 でも、それだけではない、と私は読んでいる。
 なぜ、安倍は天皇を「元首」として印象づけようとしているのか。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という現行憲法の定義を隠そうとしているのか。
 平成の天皇の「象徴」の「定義」と比較してみると、見えてくるものがある。平成の天皇は「日本国民統合の象徴」であることを実践的に示した。被災地に出向き、被災者のそばに寄り添い、ひざまずき、視線を同じ高さにして、みんなの安全を祈った。「元首」のように、高みから国民を見下ろし、統合(統治)するのではなく、国民と同じ場所で、視線をあわせて祈った。平成の天皇にとって「日本国民統合の象徴」であることは、「元首」であることを否定する行為だったのだ。「元首の否定」という意味(思想)が含まれていたのだ。
 安倍は、この「元首の否定としての象徴」をなんとしても取り除きたいのだ。「国民視線の天皇」を排除したいのだ。「国民とは別の次元の存在としての天皇」に仕立てないのだ。
 トランプを「国賓」として招くことは、「国民とは別の次元の存在としての天皇」を印象づけるのに役立つ。トランプが「国賓」としてどれだけ「桁外れ」であるかを証明するために、大相撲の観戦では升席に椅子まで持ち込んだ。特別待遇のトランプと会う天皇は、これもまた特別待遇の存在である。その特別待遇の存在と、安倍は同列の人間であると言いたいのだ。
 自民党の改憲草案では「天皇」は「元首」であるが、現行憲法と同じように「国政に関する権能は有しない」と定義されている。「天皇は元首」は「名目」であって、実際は、内閣総理大臣が「元首」にとってかわる。天皇と同時に行動し、天皇は「象徴元首」であり、実際の「元首」は安倍であることをアピールする。
 こういう天皇の「政治利用」が、これから増えてくる。
 その第一弾が秋に行われる「即位パレード」。パレードには安倍が加わる。「天皇=象徴元首」を「現実の元首=安倍」がコントロールしているという印象を与えるためである。コースも、自民党本部前を通る。

 さらに、こういうことも起きる。
 たぶん、こちらの方が影響が大きい。目立たないけれど、影響力として大きい。
 天皇が国民の間に入り込むということが少なくなる。平成の天皇が実践した「国民目線で、国民のなかに踏み込み、そこで祈る、あるいは交流する」という「象徴の実践」が少なくなる。災害が起きたとき、被災地に出向き、被災者のそばに寄り添い、ひざまずき、安全を祈るということが少なくなると思う。(災害が起きないことを祈るが。)天皇は「国民統合の象徴」であるまえに、「元首」であり、「国家」の象徴だ。元首は国民のそばで「ひざまずく=同等になる」ということがあってはならない、というような「理由」を安倍は用意するだろう。(安倍が被災地でひざまずくことがあっても、それは平成の天皇の姿をなぞっているのであって、本心ではない。)
 平成の天皇は、平成の皇后と行動をともにしたが、新天皇の場合、同じことができるかどうか。たとえば皇后の「病気」を理由に、安倍が「待った」をかけることが増えるのではないか。天皇と皇后は、行動をともにするのが基本であるというような「理由」をつくり、国民と天皇の接触を減らすための「口実」に利用するに違いないと思う。
 平成の天皇と皇后は、日本各地を訪問した。離島にも足を運んでいる。こういうこともきっと減らされる。「元首」が足を運ぶのではなく、必要ならば国民が「元首」のいるところまでくればいい、という主張になると思う。
 こういうことを、スムーズに遂行するために、安倍は「象徴」を定義するのに、2012年の自民党改憲草案のなかにある「日本国及び日本国民統合の象徴」ということばをつかったのだ。「元首」のイメージをそっとしのびこませたのだ。

 大きな変更は誰もが気づく。しかし小さな変更は気づきにくい。小さな変更を積み重ね、大きな変更にしてしまう。そういうことが起きているのだ。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』を読む、発売中。

2019-05-29 22:53:25 | 詩集
池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』を読む

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秋川久紫『フラグメント奇貨から群夢まで』

2019-05-29 11:14:50 | 詩集
秋川久紫『フラグメント奇貨から群夢まで』(港の人、2019年05月15日発行)

 秋川久紫『フラグメント奇貨から群夢まで』は作為に満ちた詩集である。「あとがき」にこう書いてある。

五部構成の断片の内側に、位相の異なる四部構成の断片を折り込む手法

 同時にこういうことも書いている。

経済用語や会計用語、IT用語などを、漢語や古語、彩色された超獣への置換による韜晦を施しながら、半ば強引に詩の構成要素に引きずり込んだ

 で、この二つ目の引用の「言語」の問題に関して、秋川は

現代詩らしからぬ試み

 と書いているのだが。
 では、「現代詩らしい試み」というのは何なのだろうか。
 「経済用語」がどういうものであるかしらないけれど、さとう三千魚が『貨幣について』(書肆山田、2018年08月20日発行)を出版している。これは傑作だった。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/54a94ad0c148c2bc9366a0182f6a0968参照 
 さとうの場合、「用語」ではなく、肉体を通した「ことば」になっている。
 でも、秋川の場合は、あくまで「用語」なのだと思う。
 で、私の考えでは、「用語」を用いるのは詩ではない。「用語」と呼ばれるものを、用語ではなくしてしまうのが詩である。
 つまり、秋川のやっていることは、あくまで「試み」であって、詩になっていないと私は思う。

 どう書いても抽象的になってしまうかもしれないが、「火焔と屹立を巡るエスキス」の最後の部分。

黄龍税法一三二条第一項が、係累黄龍と非係累黄龍との間の徴租負荷の均衡を維持する趣旨であることを鑑みれば、当該営為又は計量が、理財上の合理性を欠く場合には、相互に情交関係のない冷却者間で行われる交易は異なっているものと解するのが相当であり、その判断にあたっては、個々の黄龍が吐く火焔の状況や、その熱量に即した検討を要するものと解するべきであろう。

 簡単に言いなおせば、セックスと金のやりとりのことを書いているのだろう。愛情がなくてもセックスはできる。そしてセックスをすれば、愛情がなくても生理的反応は起きる。生理的反応があったからといって、愛情があったとはいえない。両者の関係をどう「客観的」に判断するか、そして弱者の利益をどう保障するかというために法律はある、ということなのだが。
 こういう「架空」のことばの運動は、私の考えでは、「後出しジャンケン」であって、いつでも、どうとでもなる。つまり「屁理屈」になってしまう。
 「現代詩」は「屁理屈」であってはいけない、とは思わないが。
 私は「屁理屈」が嫌いだ。
 めんどうくさい。
 そして、なぜ、ことばの運動を「屁理屈」と感じてしまうかといえば、ことばに「凝縮」された感じがないからだ。「余剰」というのとも違う。ことばがありあまって暴走していくというのなら、それはそれで楽しい。別なことばで言えば「リズム」がない、ということかもしれない。いや、どういうことばにも「リズム」そのものはあるから、「リズム」の統一感がないといえばいいのか。
 「用語」の持っているリズムと、「用語」を運用させるリズムが違う。「用語」がもっぱら「漢語(漢字熟語)」で構成されているが、「漢語(中国語?)」というのは私の印象では「語順」である。「語順」が「意味」を決めてしまうという文体リズムだと思う。けれど日本語は「語順」も大事だが「助詞」が主語と動詞の関係を支配するので、「漢語」とはリズムが違う。それを処理しないまま、「屁理屈」にするから、読んでいて面倒くさいと感じる部分が多くなる。

 きっと誰かが好意的な批評を書くだろうと思うが、私は、こういう文体にはなじむことができない。





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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(9)

2019-05-29 10:12:11 | 嵯峨信之/動詞
「地名、人名」

* (氏名 人間は)

氏名 人間はそれをなぜつけたか
雲には名前はない ひたすらながれて いつとなく消える

 書かれていない動詞がある。「ある」。人間には名前がある、雲には名前がない、と言いなおすと「ある」と「ない」が対比されていることがわかる。
 「ない」は「流れる」「消える」という動詞といっしょに動いている。そうならば、書かれていない「ある」は「流れない」「消えない」といっしょに動いている。
 人間に名前をつけるのは、人間を「消さない」ためである。そこには祈りが「ある」。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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フランシス・フォード・コッポラル監督「ゴッドファーザー」(★★★★★)

2019-05-28 10:07:17 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラル監督「ゴッドファーザー」(★★★★★)

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン

 語り尽くされた作品。私も何度か感想を書いた。もう書くこともないのだけれど、スクリーンで見る機会はもうないだろうから、少しだけ書いておく。
 とても手際のいい作品。いくつものエピソードがとても自然に組み合わさっていて、なおかつ、それぞれのシーンでの人物の描き方がしっかりしている。ストーリーの要素として動いているというよりも、そこに人間がいる感じがする。
 今回特に感じたのがダイアン・キートンの出てくるシーン。アル・パチーノと一緒に、アル・パチーノの妹(姉?)の結婚式へやってくる。幼稚園だか、小学校の先生なので、「ゴッドファーザー」一家の雰囲気になじめない。その「違和感」をさりげなく、しかし、しっかりとスクリーンに定着させている。カメラアングル、フレームのとり方に力がある。浮いていない。結婚式の片隅で、そこだけ違った世界になっている。アル・パチーノは状況がわかっているから、いわば「秘密」を隠す感じの演技をしている。ダイアン・キートンはアル・パチーノにあれこれ質問をする。ダイアン・キートンが「攻め」の演技、アル・パチーノが「受け」の演技ということになるのかもしれないが、ダイアン・キートンが演じると逆になる。「秘密」というか「違和感」に気づきながら、アル・パチーノに声をかけるのだが、それが「受け」になっている。質問攻めなのだが、答えが返ってくるのを受け止めるという印象が強い。アル・パチーノの「苦悩」が引き立つ。
 一家の秘密を知り、さらにアル・パチーノが雲隠れしたことを知る。そのアル・パチーノの行方をたずねてくるシーンも好きだなあ。ロバート・デュバルが相手をし、「手紙を受け取ると、どこにいるか知っていることになるから受け取れない」と言われて、書いた手紙をそのままもって帰る。このときの、「組織対個人」というと大げさになるかもしれないが、「個人」の悲しみのようなものが、ふっとのぞく。アル・パチーノの妹の悲しみ、絶望の表現と比較すると、「個人」という感じがわかると思う。アル・パチーノの妹は夫の浮気に苦しんでいるが、彼女には「一家」がある。けれど、ダイアン・キートンには「家族」がない。「家族」になるはずのアル・パチーノは、どこかに隠れたままだ。もう一人の主要な女性、アル・パチーノが逃亡した先のシチリアの娘と比較しても同じことが言える。彼女にも「一家」がいて、さらに親類もいるのに、ダイアン・キートンは一人。「個人」としてアル・パチーノ「個人」に向き合っている。その「線の細さ」、なんとかつながりを引き寄せようとする感じが、情報を求めてロバート・デュバをたずねていく短いシーンにも、しっかりと表現されている。この時のフレームというか、全体の構造も好きだなあ。
 アル・パチーノがシチリアから帰って来て、幼稚園で目をあわせるシーン。公園を歩くシーンもいい。
 何よりも、ラストシーン。アル・パチーノが「ゴッド・ファーザー」になる瞬間を隣の部屋から見てしまうシーンもいいなあ。ダイアン・キートンは「一家」にはなれない。アル・パチーノと一緒に生きるけれど、「一家」にはなれず「個人」として生きている感じがとても象徴的に表現されている。ダイアン・キートンが頼りにするのは、最初から最後まで、彼女自身の、「個人」の感覚だ。「個人」であるからこそ、苦しい。「一家」にはなれない悲しさがある。
 そして奇妙なことだが、この「個人」でしかないことの苦悩、絶望が、もしかすると「ゴッド・ファーザー」という「組織」を生み出していく要素だったかもしれないとも思えてくる。マーロン・ブランドが「ゴッド・ファーザー」になれたのは、アメリカに移住してきて(移民としてやってきて)、「個人」であることを知らされた結果、「個人」の限界をのりこえようとして手に入れたのが「組織」だったかもしれないとも感じさせる。こういう見方はロマンチックすぎるだろうけれど、ロバート・デ・ニーロが若い日のマーロン・ブランドを演じた「パート2」を思い出してしまうのである。ほんとうに求めているのは「組織」ではなく「個人と個人」のつながり。それが「集団と個人」に変わってしまうとき、ひとは、それとどう向き合うか。
 「ゴッド・ファーザー」はいわば「男の映画」だけれど、そこに差し挟まれた「女」の部分が、とても切なく感じられる。
 こういう感想になってしまうのは、ひとつには公開当初衝撃的だった殺しのシーン(暴力シーン)がいまは「ありきたり」になってしまって、そこに目が向かなくなっているからかもしれない。首を絞められた男が車のフロントガラスを蹴り破ってしまうシーン、そのガラスの割れ方など夢に見るほど美しく、あのシーンをもう一度見に行きたいと思ったくらいだったけれど。ジェームズ・カーンの車が高速道路の入口で蜂の巣になるシーン。アル・パチーノがレストランで二人を銃殺するシーン。いまでも、ほんとうに大好きだけれど。
 (午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2019年05月18日)
ゴッド・ファーザー (字幕版)
フランシス・フォード・コッポラ,マリオ・プーゾ,アルバート・S・ラディ
メーカー情報なし
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(8)

2019-05-28 09:09:18 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいのはずれを)

魂しいのはずれを
ひとびとが通つている
そこをぼくはふるさとへの道という
でもだれひとりそこへたどりついた者はいない

 「魂しい」という表記は嵯峨独特のものである。ふつうは「魂」と書く。
 なぜ「魂しい」と書いたのか。
 「悲しい」「嬉しい」「淋しい」という表記を連想してしまう。
 「魂」は体言だが、「悲しい」「嬉しい」「淋しい」は用言。嵯峨は「魂しい」と書くことで、その存在を「用言」としつかみ取っていたのではないだろうか。

 私は「魂」というものを見たことがないので、その存在を信じていない。私自身からは「魂」ということばをつかうことばない。誰かがつかっていて、それについて何かを言うときだけ、仕方なしにつかうのだが。
 でも嵯峨の書いている「魂しい」が「名詞」ではなく「用言」なら、それは信じてもいいと私は思う。動いているものは見えなくても動きそのものを感じることはできる--たとえば風。
 「魂しい」とは、どういう動きをするのか。どういう動きを「魂しい」と呼ぶのか。

魂しいのはずれを
ひとびとが通つている
 
 どこかの「はずれ」(中心ではないところ)を通ること、その動きを「魂しい」と呼んでいる。そこにとどまるのではなく、あくまで「通る」。つまり「過ぎていく」。そこには通った後(軌跡)が残る。通ったという「軌跡」を残す運動を「魂しい」と呼ぶ。
 「軌跡」はまた「名詞」であるけれど、「通る」はたぶん完結しない。永久に「通る」。だから「軌跡」も未完のままの運動だ。
 通る、歩く。けれど「たどりつけない」。嵯峨はたどりつけないではなく「たどりついた者はない」と書くのだが。
 その「ない」という否定よって、初めて見えてくるもの。

 冒頭の「魂しい」を「悲しい」「淋しい」と読み替えてみたい気持ちになる。たぶん、そう読み替えても詩として成り立つ。人によっては「悲しい」「淋しい」ではなく「悲しみ」「寂しさ」というような形で書くかもしれないけれど。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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トランプ報道を読む(3)

2019-05-28 08:29:02 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプ報道を読む(3)
             自民党憲法改正草案を読む/番外270(情報の読み方)

 2019年05月28日の読売新聞(西部版・14版)の一面の見出し。

トランプ氏/日朝会談「前面支持」/日米首脳会談 貿易交渉を加速

 これだけ読むと、見出しになるニュースは何もなかったのだなあ、とわかる。
 日朝会談に「反対」と言うとしたら、それは「おれ(トランプ)の交渉に口を挟むな」と言うことであり、こういう場合は「支持する」としか言えない。「だいたい拉致問題は日朝の問題なのだから、おまえ(安倍)が責任を持て。おまえが解決しろ。おれにいちいち頼むな」と言うのがトランプの言い分だろう。
 貿易交渉は「8月には発表する」と宣言しているのだから、「加速」も何もない。読売新聞の記事によれば、トランプは

「8月には両国にとって非常に良い発表ができるだろう」と述べた。

 とあるが、「両国にとって」というのは、とてもあいまいな言い方である。たとえば、アメリカの農産物に対する関税を撤廃する。アメリカの農家は農産品が売れるので収入が増える。日本の消費者はアメリカの農産品を安く変えるので、家計が助かる。アメリカの軍需品を日本が大量に購入する。アメリカの軍需産業は儲かる。日本は防衛力が高まる。これを「両国にとって良い」交渉結果と、トランプは言うことができる。
 でもそれは逆の見方もできる。アメリカの安い農産品が大量に入ってくると日本の農産品は売れなくなる。日本の農家は打撃を受ける。アメリカの軍需品を大量購入する。そのとき、日本の福祉予算を減らし軍事予算にまわさないといけないかもしれない。日本の国民は、国を守るという名目で苦しい生活を強いられる。
 どのような状況も立場が違えば評価も違う。「ことば」を読むときは、そのことばを「立場」に還元して読まないといけない。だいたい「外交」のことばは、「立場」を配慮した「あいまい」な部分があり、そこに「かけひき」のすべてがある。簡単に鵜呑みにしてはいけない。
 だいたい、日朝会談をほんとうに支持していて、会談によって日朝の関係がよくなることを期待しているのだとしたら、アメリカが武器を日本に売りつける理由はどこにある? 日本が武器を買わなければならない理由は? 単に米軍需産業を設けさせるだけであり、日本は不必要な軍備を抱え込むということになる。
 アメリカにとって好都合なことが日本にとって好都合というわけではない。
 もし日本にとっても「良い発表」なら、参院選の前に発表した方が国民は安心する。自民党の支持も高まるだろう。日本にとっては「悪い発表」だから「8月」までのばすのだろう。
 ほんとうに「見出し」として書くべく部分は、農産品をめぐる次の記事の中にある。

日本政府は農産品の関税水準を環太平洋経済連携協定(TPP)と同程度に収めたい考えだが、トランプ氏は記者会見で「(米国が離脱した)TPPに縛られていない」とけん制するなど、貿易交渉を巡るずれが見られた。

 この記事はもっと踏み込めば、アメリカの農産品にかかる関税はTPPのものより低い、つまりオーストラリアなどから輸入されている肉よりも安い牛肉がアメリカから大量に輸入される。アメリカの畜産家はもうかり、日本の消費者も助かる。でも日本の畜産家は大打撃をうける、ということだ。
 こういう「密約」だから参院選が終わるまでは公表できない。

 書くべきニュースがなにもないから、3面の解説には、きのうは記事から取り下げた「イラン」がまた復活してきている。その見出し。

日米会談/首相、橋渡し外交/「イラン緊張緩和」成果狙い

 アメリカとイランは書く合意をめぐり対立している。アメリカはイランへの経済制裁を強めている。そのあおりで、日本はイランからの石油輸入が難しくなっている。困っているのは日本である。イランも日本に石油を輸出できなくなれば経済が苦しくなる。でも、日本とイランの経済問題は、アメリカには関係がないだろうなあ。トランプにしてみれば、石油が必要ならイランからではなく、アメリカから買えよ、と言うことにもなる。さらに、イランにしてみれば、単に経済の問題だけではなく、イスラエルとの関係があり、そのためにアメリカと対立している。さらにその先には新聞に書いていないパレスチナ問題がある。世界がほんとうに求めている「橋渡し」は、読売新聞には書かれていない「イラン-イスラエル」、あるいは「イスラエル-パレスチナ」の橋渡しである。パレスチナとどう向き合うか、中東の平和をどう実現するかである。安倍のやっていることは、トランプのご機嫌とりに過ぎない。イランは、いざとなれば石油を日本には売らないという「切り札」を出すこともできる。対イスラエル戦略の関係で、他の中東諸国も石油を日本に売らないということで歩調をあわせることだってありうるかもしれない。
 アメリカとイランの対立関係は、アメリカと北朝鮮の対立関係とはまったく性質が違う。北朝鮮はアメリカと戦っているが、イランはアメリカと戦う前にイスラエルと戦っている。中東で起きていることを書かずに、「橋渡し」という美しいことばをばらまいても意味はない。
 トランプについてまわるだけでは、何も成果が上げられない。安倍はただ「顔出し」の機会を増やすことだけに専念している。










#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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トランプ報道を読む(2)

2019-05-27 20:33:19 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプ報道を読む(2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外270(情報の読み方)

 2019年05月27日の読売新聞夕刊(西部版・3版)の一面の見出し。

日米貿易「8月に成果」/首脳会談 トランプ氏表明/首相のイラン訪問 理解

 朝刊の見出しが

トランプ氏/首相のイラン訪問 期待/貿易協定は参院選後に/きょう首脳会談

 だったから、トーンが少し変わってきている。貿易協定が「参院選後」から「8月」と絞られている。もうすでに決定していて、8月に発表するということだろう。そうでなければ、「8月」とははっきり言えないだろう。
 イランは、本文中には「期待」ということばがつかわれているが、見出しは「理解」とトーンダウンしている。見出しが同じではニュースにならないから文言を変えたという「読み方」もできるが、新聞なのだから先に進まないかぎり(新しい要素がないかぎり)見出しにしないだろう。つまり「理解」は「期待」していない、という「訂正」を含めた表現なのだ。
 貿易協定の「参院選後」が「8月」に変わったことと比較してみればわかる。「参院選後」では8月だろうか、来年だろうが参院選後。「8月」と限定できたところがニュースなのだ。そして「8月」に限定しているからこそ、もう水面下では決着がついていると想像できる。
 本文中は「8月にも」ではなく「8月には」と書いていることからもわかる。
 では、どういう「貿易協定」なのか、「柱」は何か。3面に、トランプの発言要旨が載っている。

日本は多くの防衛装備品を米国から購入している。我々は世界一の防衛装備品を製造している。日本はそれらを必要としており、ほぼ独占的に米国から購入している。それが貿易赤字を大幅に引き下げている。

 この発言から推測できることは、安倍はすでに約束している「防衛装備品(武器だね)」を、今まで以上に購入すると確約したのだ。
 国民がふつうに買う「商品」は、「これだけ購入します」と安倍が確約することはできない。輸入しても売れないということはありうる。アメリカ産の車を何台買うとか、スマートフォンを何台買うとか、牛肉を何トン買うとは確約できない。輸入して売れなかったら、買った業者が困る。
 ところが「武器」は、そうではない。そんなものは国民は買えない。買うことができるのは「軍隊」をもっている「国」という組織だけである。そして、それは買うだけでいい。転売する必要がないし、使わなくてもかまわない。だいたい「武器」はつかうことが前提につくられているはずなのに、使わないようにするのが「政治」の仕事なのだから、使われない方が国民にも好まれる。戦争をせずにすむのだから、使わない方がいいに決まっている。
 こんな、使わない方がいいもの、消費されなければいいものを、単にアメリカの企業をもうけさせるために安倍は大量に買うと約束したのだ。
 トランプは、この確約がよほどうれしくて、大はしゃぎでことばにしてしまったということだろう。成果は早くアメリカに知らせる必要がある。

 これだけたっぷり安倍政権に対する「攻撃材料」を提供してくれたトランプだが、野党はどこまで「攻撃材料」を利用できるか。
 他紙には野党側の声が載っているのかどうかしらない。朝刊で展開されるのかもしれないが、マスコミは、そういう声もきちんと紹介してほしい。











#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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エマニュエル・フィンケル監督「あなたはまだ帰ってこない」(★)

2019-05-27 19:53:40 | 映画
エマニュエル・フィンケル監督「あなたはまだ帰ってこない」(★)

監督 エマニュエル・フィンケル 出演 メラニー・ティエリー、ブノワ・マジメル

 マルグリット・デュラスの小説「苦悩」は読んでいないが、デュラスの小説が原作、予告編の「君が必要としているのは苦悩か、夫か」というシーンを見たいのと、ブノワ・マジメル(「人生は長く静かな河」では、子役だった!)が出るので見に行ったのだが。
 駄作。
 小説を読んだ方が絶対におもしろいと思う。映画になっていない。大事なところはナレーションになっていて、そこに風景とメラニー・ティエリーが映っているだけ。ナレーションなしで、そのときのマルグリットの「思想」と「感情」が伝わってくるのならいいけれど、ナレーションなしでは「描写」がわからない。
 小説は「ことば」だから、風景(描写)と思想、感情は「地続き」になる。だから、どんな風に書いても(とはいえないかもしれないが)、「一体感」が生まれる。渾然とした感じが、読者を引きつける。
 でも、映画では、映像とことばが分離してしまう。映像と無関係なことばなら、まだ刺戟があるが、映像をなぞっていてはだめ。あ、ことばを映像がなぞっているのかもしれないけれど。
 唯一の見せ場は、予告編にあった「君が必要としているのは苦悩か、夫か」と友人がマルグリットに問いかけるシーン。マルグリットは友人を平手打ちするが、ここの「作家」の宿命のようなものが凝縮していて、そこだけが光っている。「苦悩」が作家を育てる。作家のことばを豊かにする。言い換えると、マルグリットが小説を書けるのは、苦悩があるからだ。その苦悩が、「夫が帰って来ない」というものであっても、作家は「苦悩」を必要とする。問題を図星されて、マルグリットは、反射的に、ヒステリーを起こす。ヒステリーの中へ逃げ込むことで、自分自身を「解放」する。
 でも、まあ、こんなシーンは、「物書き」に興味がなければ、どうでもいいシーンだろうけれどね。私は「作家」にもデュラスにも関心があるので、なるほどなあ、と思って見たのであった。
 もうひとつ、見たいと思っていたブノワ・マジメル。
 うーむ。フランスの「美男子俳優」のはずだったが。いや、いまでも「美男子」なのかもしれないが、まるでジェラール・ドパルデューを見るみたい。ぶくぶくに太ってしまった。最初に登場するとき、上着を脱いでいてカッターシャツ姿なのでビール腹がそのまま目に飛び込んでくる。役どころにあわせて太ったというのではなく、単に不摂生で太ったというところ。「人生は長く静かな河」から見ているから、この変化には、あきれかえった。フランスでは、太っているかどうかは、もてる、もてないとは関係がないということがわかり、中年太りの人には「朗報」かもしれないけれどね。
 中年太りといえば、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」に出るディカプリオもスーツを着ていても太っていることがあからさまにわかるくらい太っていたなあ。目の感じがチャールズ・ダーニングに似ていると思っていたが、体型も似てきてしまった。(身長は違うけれど。)
 という具合に、見た映画からどんどん感想が離れていってしまう作品。
 (KBCシネマ1、2019年05月27日)
人生は長く静かな河(字幕スーパー版) [VHS]
ダニエル・ジュラン
EMIミュージック・ジャパン
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(7)

2019-05-27 10:43:57 | 嵯峨信之/動詞
* (いちどだけ呪いながら)

日を少しひろげて
おまえをやわらかに包んでみた
おまえは花よりももつとやさしく風にさわり
小さなことばを光りの上に泳がせた

 「ひろげる」と「包む」。反対の動きが読者の意識を詩へと誘う。矛盾のなかに何かが生まれてくる予感がある。既に知っているものではなく、知らないものが姿をあらわすとき、そこには必ず矛盾がある。
 パラダイムの変更、と言っていいかもしれない。
 「やわらかな」は「やさしく」へと変化していくことで、動き始めたものを、そっと後押しする。
 「さわる」は「ひろげる」が変わったものか、それとも「包む」が変わったものか。どちらもありうる。
 この「不安定」を経て、動詞は「泳ぐ」へと変わっていく。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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トランプ報道を読む

2019-05-27 10:10:26 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプ報道を読む
             自民党憲法改正草案を読む/番外270(情報の読み方)

 2019年05月27日の読売新聞(西部版・14版)の一面の見出し。

トランブ氏/首相のイラン訪問 期待/貿易協定は参院選後に/きょう首脳会談

 まるで安倍がイランを訪問すること、アメリカとイランのの関係改善のために何かすることがトランプの訪日のテーマみたいな書き方だが。そんな期待を伝えるため、あるいは「要請」するための訪日するはずがないだろう。だいたいアメリカのイラン制裁の結果、困っているのは日本であって、アメリカはぜんぜん気にしていない。イランとの関係悪化が気になるならイラン制裁などしないだろう。まるで安倍に、アメリカとイランの関係改善(橋渡し)をする能力があるかのような書き方には問題があるだろう。日本とイランの関係をどうするか、ということさえ、わかっていない。
 本当のニュースは「貿易協定は参院選後に」にある。それが「証拠」に、3面の解説にはイラン問題など書いていない。安倍とトランプの「親密さ」と参院選のことが少し書かれているだけだ。
 一面の記事中には、見出し部分は、こう書いてある。(1)(2)は、私が便宜上補足した。

(1)首相はゴルフの際に、日米の新たな貿易協定交渉について、夏の参院選前は農業分野などでの譲歩が難しいいとして配慮を求め、トランプ氏も理解を示した。
(2)トランプ氏は、26日午後のツイッター投稿で、貿易協定交渉について「大きく前進している。多くのことは7月の選挙後まで待つ」とし、脳産品の市場開放などの具体的な要求を参院選後とする考えを表明した。

 問題点はふたつある。ひとつは、なぜ貿易交渉を参院選後にするか。せっかく日本に来たのに、わざわざ交渉を避けたのはなぜか。
 (1)に「参院選前は農業分野などでの譲歩が難しい」という表現がある。これは逆に読めば「参院選後は農業分野(などで)の譲歩は簡単だ」ということだ。言い換えると、参院選で勝利してしまえば、自民党(安倍)の支持母体である農業関係者の票を気にする必要がないから、いくらでも譲歩します。選挙前は、農業関係者の票離れが心配だから、譲歩した貿易協定は結べない、ということ。
 農業関係者を完全にばかにしている。
 「日本の農業を守るから参院選では自民党に投票して」と呼びかけておいて、参院選が終われば「日米関係は何よりも重要なので、農業関係者にはがまんしてもらいたい」と言うことになる、と「事前予告」している。
 (2)の部分のいちばんの問題点は、トランプの「7月の選挙後」ということばである。(1)には「夏の参院選」ということばがあるが、トランプはこれを「7月の選挙」と言いなおしていることになる。参院選の日程はまだ明確になっていない。けれどトランプは「7月の選挙」と言っている。トランプが日程を決められるわけではないから(安倍のことだから、トランプの言いなりになって日本の選挙日程を決めているのかもしれないが)、これは安倍がゴルフの際に「7月の参院選前は」と言ったということだろう。国会や国民よりも、トランプを優先していることになる。こんな非常識な首相がいていいのか。 またこの「7月の選挙後」という表現には、もうひとつ、問題がある。「外交」(ゴルフ外交)がどういうものか、私は知らないが、外交だから「オフレコ」の部分あるだろう。水面下の交渉ということもあるだろう。しかし、そういう交渉を進めたときの「基本」は、これは「オフレコだから、外には絶対に漏らさないでくれ」と念押しをするのがふつうなのではないのか。つまり、安倍が「7月の参院選前は譲歩がむずかしい」と言ったのだとしても、参院選の日程はまだ決まっていないので「7月」という表現はつかわないでほしいとクギをさすべきなのに、それをしなかった、ということだ。
 これで思い出すのは2016年の日露首脳会談の直前のことである。このとき、日露首脳会談の成果(北方四島の返還に道筋を付ける)を掲げて衆院選を強行するといううわさがあった。ラブロフが「ロシアへの経済協力を言ってきたのは安倍であって、ロシアが経済協力を申し込んだのではない」という「外交の内幕」を暴露した。つまり、「ロシアが経済協力を申し込んだのではないから、見返りに北方四島を返すというようなことはありえない」と言外に言ってしまった。岸田が交渉過程で、よほどラブロフを怒らせたのだろう。そうでもしないかぎり、外交の「内幕」は口にしない。あらゆる協定が終わってから、「実はこうでした」というのが外交の基本だろう。
 安倍は「外交が得意」と言われているが、単に外国に行って金をばらまく約束をし、歓迎されるというだけだろう。野党は外交の責任をとれないから、どうしても与党主導になる。単に安倍がメディアに露出する機会が増えるというだけで、「外交が得意」ということになっているだけだ。
 この「外交の基本を知らない安倍」について、読売新聞は、3面でこう書いている。

 トランプ氏はツイッターで、まだ日程が決まっていない参院選が「7月」に行われると投稿した。首相がゴルフの合間などに、参院選の日程について言及したのではないかとの憶測を呼びそうだ。

 これはなんとも「甘い」追及である。「憶測を呼びそうだ」ではなく、それに気づいたのなら、それを問題にして、そのことを読者にわかるように追及するのが新聞の仕事のはずだ。社会的な議論にしていくのが新聞の仕事だ。これが問題になることは、わかっていました、という「証拠」を残しておけば言いということではない。
 トランプはどうやって「7月」ということばを手にしたのか。安倍が「7月の参院選」と言ったのだとしたら、なぜ、国会(国民)に知らせる前に、トランプに言ったのか。いま開かれている国会との関係もあるはずだ。国会をどうするつもりなのか。開かれていない予算委をどうするのか。憲法審査会をどうするのか。
 トランプをどんなふうにもてなしたか、などよりも重要なはずだ。










#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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谷川俊太郎の世界(5)

2019-05-26 21:43:27 | 現代詩講座


谷川俊太郎の世界(5)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年05月20日)
                         

 「よなか」「まいにち」「ふたり」を読んだ。参加者は、池田清子、香月ハルカ、井本美彩子、青栁俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。きょうは「よなか」をどう読んだかを紹介する。

よなかっていういいかたがすきだ
おれいま
よるのまんなかにすわってる
あかりはつけてない
つきもでてない
めをあけてもなにもみえないから
めをつむってもおんなじ
かとおもうとちがう

はじめはまっくらです
でもだんだんみえてくる
そとにあるものじゃなくて
じぶんのなかでたえずうごいているもの
いろもかたちもなくていきているもの
こわいようなおもしろいような

それがいったいなんなのか
いいたいけどどういえばいいのかわからない
なみのようなくものようなそのうごきに
おれ ただよっている

--まず、ここが好き、ここが嫌い、ここがわからない、ということろから語り始めましょうか。
「めをつむってもおんなじ、ということろが好。夜中が何をあらわしているかな、というのが気になった。宇多田ヒカルの歌で『目をつむれば夢も現実も同じ』があって、そのことを少し思った。対比すると、谷川は『同じ』とは言わずに『おんなじ/とおもうと違う』といっているのだけれど」
「でもだんだんみえてくる/そとにあるものじゃなくて/じぶんのなかでたえずうごいているもの。お昼じゃなくて、夜中だからそういう感覚になるのかなあとも思う。私も夜が好きで、夜に自分に戻れるということころがあって、そういうことと重なる」
「私も、じぶんのなかでたえずうごいているものが好きを中心にした三行。目をつむって、動いているものを感じるところが人間の人間の深いところをとらえていて、とてもおもしろい。人間の不思議さが描かれている。こういうことを書くひとはあまりいないかなあと思う。つかわれていることばは簡単だけれど、思っていても言えない。簡単なことばで深いことを表現するところがすばらしい」
「最後のおれ ただよっている。真っ暗なところは私は怖いイメージがある。そのなかで動いているものを、谷川は『こわいようなおもしろいような』と書いているけれど、自分には怖い方が強い。でも、そもその動きに最後で漂っているというところで、自分が救われる感じがする。怖いのじゃなくて、楽しんでいるところが出てきたので、そこが好きだなあ」
「おもろいですね、その部分」
「じぶんのなかでたえずうごいているもの。だれもが感じていることとも思うけれど、まだことばになる前の意識の状態が描かれている」
--いま出てきた感想のなかで「対比」ということばがあったけれど、「同じ」と「違う」のように、この詩のなかには「対比」がたくさんありますね。ほかにどんなことばが対比になっていますか?
「何も見えないから、だんだん見えてくる」「外と自分の中」「こわいとおもしろい」
--三連目にはないですか?
「いいたいけどどういえばいいのかわからない」
「目をあけても何も見えない、目をつむっても同じは、開けてもとつむるが対比になっている」
--この詩には、いま指摘があった「ない」ということばがたくさん出てくる。見えないもそうだけれど、明かりはつけてない、月も出てない、とか。この「ない」の反対のことば、対になっていることばはないだろうか。
「ある。だんだん見えてくるものがある」
--そうですね。見えてくるものがあると、あるを補って言ってくれたんだけれど、「そとにある」ということばのなかには、そのまま「ある」がありますね。谷川は「ある」ものと「ない」もの、見えるものと見えないものがある。その組み合わせでいろいろ書いている。でもその組み合わせが奇をてらっていない、とても自然なので意識しにくい。その見過ごしてしまいそうな対比を追いかけていくと、谷川の書こうとしていることが、また違った感じで見えてくると思う。
 それを探すために、今度は逆のことをしてみましょうか。「対比」は違うものを比べる。そうではなくて、同じことを言い換えたものはないか。たとえば一行目の「よなか」を同じようなことばで言い換えた部分はないですか?
「よるのまんなか」
--そうですね。言い換えると、思いが少しずつ深くなっていく。対比もそうなのだけれど、ほんとうにいいたいことが少しずつわかってくる。最初からいいたいことがあってそれを書くというよりも、いいたいことを探しながら書いていく。そうしてだんだんかわっていく。もちろん最初から書きたいことがぜんぶ決まっている人もいるかもしれないけれど、多くのひとは書きたいことを少しずつ確かめながらことばを進めていく。谷川の場合、そのときつかっていることばがとても日常的なことばなので、なかなか気がつきにくいけれど、やはり対比や言い換えをくりかえして、少しずつ動いていると思う。作為が見えないので、自然な感じが強い。
 「めをあけてもなにもみえないから/めをつむってもおんなじ」は対比だけれど、同時に言いなおしでもある。繰り返しですね。
 でも、この一連目の「めをつむってもおんなじ/かとおもうとちがう」は何が同じで、何が違うんだろう。わざわざいいなおしているのはどうしてなんだろう。何がいいたくて同じだけれど違うと書いたんだろう。
「目を開けても見えない、というのは外にあるものが見えない。現実に見えない。でも、めをつむっても、こころのなかにあるものは見える。外にあるものは見えないけれど、心の中にあるものが見えるということが違う」
--そうですね、外と内側の違いがある。これを二連目で言っている。だから、二連目は一連目で言えなかったことを言いなおしていると読むことができる。夜、外にあるものは何も見えない。けれど、目をつむると、外ではなくて、自分のなかにあるもが見えてくる。二連目の一行目に「めをつむると」ということばを補うと、二連目と一連目の違いがわかりやすくなると思う。「めをつむる」と「自分の中をみつめる」が自然につながっている。
 この二連目の「じぶんのなかでたえずうごいているもの」を言いなおしたのは、何になりますか?
「いろもかたちもなくていきているもの」
「なみのような、くものような」
--そうですね、二連目につかわれていることばだけでさらに言いなおすと?
「こわいようなおもしろいような」
--そうですね。少しずつ言い換えてるんですね。色も形もないから見えない。でも、動いているのを感じる。それを「こわい」と感じ、また「おもしろい」と感じている。そして、見えていると感じるのは、こわいと感じたりおもしろいと感じたりするからですね。どちらが先か言えないけれど、重なり合っている。何かを感じているかぎりは、そこに何かが「ある」ということになるのだと思う。「こわいようなおもしろいような」のあとには、その前の行にあった「もの」ということばが省略されている。けれど、そこには何か「もの」があるんですね。
 で、もうすこし言い換えを見てみましょうか。「じぶんのなかでたえずうごいているもの」の「動いている」という動詞を言い換えたことばがありませんか?
「いきている」
--そうですね。私も生きているだと思います。生きているから動いている。これをうけて三連目が始まると思います。「それがいったいなんのか」。「それ」と呼ばれているのは二連目全体が書いていることだけれど、動いて、生きている、目に見えないけれど、「ある」もの、ですね。
 谷川は、それを「なんなのか」と自問自答しながら、同時に読者にも問いかけていると思う。谷川自身は「いいたいけどどういえばいいのかわからない」と、明確ではないけれど、答えを探すようにしてことばを動かしている。「わからない」といいながら、そのあともことばを動かしている。ここが、詩のおもしろいところですね。
 算数やなんかの場合、1+1=2のように決まった答えがあるんだけれど、詩には答えがない。文学には答えがない。自分で、自分なりに探し出して「答え」にしてしまえる。ときには1+2、また1+3という問い方もできるので、答えも違ってきてしまう。
 それで、とてもおもしろいのは、
 「なみのようなくものような」
 と言ってしまうと、それが「なんなのか」「わからない」はずの「答え」になってしまう。同時に、もし、それが答えだとすると、
 「いいたいけどどういえばいいのかわからない」
 という一行はなくてもいいことになる。なくても、「意味」(答え)は変わらないですよね。
  それがいったいなんなのか
  なみのようなくものようなそのうごきに
  おれ ただよっている
でも詩は成り立つ。谷川のいいたい「結論」のようなものは、わかる。
 でも、谷川は書かずにはいられない。
 それでさっき、感想の中に「自分のなかでことばになる前に動いている無意識のようなもの」という指摘があったけれど、それが、この「いいたいけれどどういえばわからないもの」になりますね。「いいたいけれどどういえばわからないもの」というのが、ことばになる前のことですね。
 それでもう一度二連目に引き返す形で詩を読み直すと、二連目の「うごいている」(動く)という動詞が、三連目で「うごき」という名詞になってますね。ここからも、「じぶんのなかでたえずうごいているもの」を言いなおすと「なみのようなくものような」になることがわかる。
 で、いま感想を言い合う形で、一連目、二連目、三連目の全体の構造というか、ことばの動きがわかったと思うけれど、もう一度一連目から読み直してみましょうか。
 いま見てきた「対比」は「暗くて外が見えない」「けれど自分のなかで動いているものが見える」という対比だったけれど、自分の中が見えるというのはとても抽象的な言い方ですね。もっと具体的な対比を探してみましょうか。
 詩の最終連ので「おれ ただよっている」が好きという意見があったけれど、その「ただよっている」ということばの対局になることばはないだろうか。それを「対」と考えることはできないだろうか。
「すわってるかな。じっとしている」
--そうですね。谷川は、一連目で「すわってる」。けれど三連目で「ただよってる」と動いている。変化している。でも、どうして「すわってる」が「ただよってる」になってしまったのだろう。何が変わったのだろう。それを考えてみましょう。どういう変化があったのだろう。
「波のように雲のように絶えず動いているから、漂う」
--座ってるから、動いているに行って、そのあと漂ってる。そうですね。見えないものが見えるようになって、それが見えるようになったのは動いていると気づいたからですね。
 まず、座っている。外を見ると真夜中なので、真っ暗で何も見えない。けれど、自分の中を見ると、何かが動いているのが見えた。感じられた。その結果、漂い始めた。そうすると、自分の中を見ることによって、動いた、動きが始まったということがわかりますね。自分は何者なのかな、とかいろいろ考えることが動きにつながったと思う。ここには視線が自分の外から、自分の中へと動いている。
 そのほかに、私は、この詩にはとても大きな変化があると思う。
 井本さんは、この詩をみんなと一緒に読んでみたいといったとき、「おれ」ということばがつかわれているのが珍しい、と言ったのだけれど。この「おれ」は最初から最後まで「おれ」ですか?
「じぶん、ということばが二連目に出てくる」
--そうですね。いま萩尾さんが「じぶん」ということばを見つけ出してくれたんだけれど、二連目の「じぶん」は「おれ」でもかまわないですよね。「意味」は変わらないですよね。「おれのなかでたえずうごいているもの」と言ってもいいのに、谷川はなぜ「じぶん」ということばをここで選んだのだろう。
「じぶんって、もしこれが私(井本)だったとしても、ことばとして成り立つ」
「そとから見えるものじゃなくて、からだのなかで感じるものだから、じぶん。内面だから」
「おれというと、一人称ですよね。でもじぶんというと、そこにある人間のかたらのようなものを思い浮かべる」
「おれ、の場合は、何か意志のようなものを感じる」
「おれの方が客観的、かなあ」
--対比で言うと、「おれ」の反対側にはだれがいるんだろう。
「おまえ」
--自分の反対側には?
「あなた」
--この詩の場合は、もしかすると「読者」ということになるかもしれない。井本さんが言ったように、この自分には、読者がだれでもすっと「自分自身のこと」と思わせる力がある。「おれ」と書いてあると、男性は自分を重ねやすいかもしれないけれど、女性は自分を重ねる前に、対象として見てしまう、客観的に見てしまうかもしれないですね。
 で。前回「キーワード」について、私は言い換えの汚いことばを「キーワード」と読んでいるという話をしました。この詩の場合は、この「じぶん」がキーワードだと思う。「おれ」と言ってもいいのに「じぶん」と言いなおしている。
「じぶん、というのは普遍的ということですか」
「この自分ということろで、井本さんが言ったように、自分自身になってしまいますね」「おれは、わたしから見て他人なのだけれど、ここまで読むと、あ、自分のなかに動いているものがあると気づく」
--そうですね。それから「じぶんのなか」の「なか」ということばも不思議ですね。だれでもつかうことばだけれど。ほかにも「なか」が出てきますね。「よなか」「よるのまんなか」とか。それで、一行目の「よなかっていういいかたがすきだ」と書いてあるけれど、何と比べて好きなのかなあ。「よる」が好きと書いているわけではない。これは私だけの感じかもしれないけれど、「よなか」というとそここそ「よるのまんなか」、夜の内面という感じがしませんか? 広がりがあって、その広がりの中と、自分の中が重なっている気がします。
「夜中じゃないと、たぶん自分のなかのものは見えない」
「私、夜中を夜の真ん中と感じたことがなかったです。12時とか1時とか、時間のことを指しているのだと思っていた。それで、ほーっと思いましたね」
「夜中と真夜中の違いが、よくわからない」(笑い)
「時間的に夜の真ん中と思っていて、夜というものの真ん中を考えたことがなかった。ことばをそんなふうにつかうことを考えたことがなかった」
「時間とは別の広がり、時空間を感じさせる」
--夜というと日が沈んで日がのぼるまでの時間を指すのがふつうだけれど、この詩のなかの「よなか」というのは時間のことじゃないということですね。「よるのまんなか」というのはそれを強調している感じですね。
 もうひとつ。三連目に「いいたいけれどどういえばいいかわからない」ということばがある。「ない」ということばは、一連目に「あかりはつけてない」「つきもでてない」「なにもみえない」と繰り返されている。それが二連目で「外にある」と「ある」が出てくる。ただし、この「ある」は、すぐに「じゃなくて」と一瞬にして消えてしまう。けれども、たしかに「ある」。そのあと三連目で「わからない」ということばが出てくる。「おれ→じぶん→おれ」という動きにあわせるように、「ない→ある→ない」も動いている。この重ね合わせがあって、詩がとても自然なのだと思う。
 ところで、この「いいたいけどどういえばわからない」というのは、ふつうの言い方ではあるんだけれど、ほかにはどういう言い方をします?
「どうしていいかわからない」
「いいたいけど、とは言わずに、どういえばいいかわからない、だけかな」
--いいたいけどいえないと、いいたいけれどどういえばいいのかわからないは、どう違うんだろう。
「言いたいけれど言えないは、言えるんだけれど言わない。言わないを選んでいる」
--言いたいけど言えないは、「わかってる」ということですね。わかっているけれど、言わない。
「そこのところが、なんかいらいらしますね。おれ ただよってるが結論じゃなくて、もっとわかるように言ってほしいという気持ちになる」
--あ、それおもしろいなあ。もし、池田さんなら、最後はどうする?
「えっ、わからない。でも、動いているものを、もっとはっきり言ってほしい。ただ、それに漂っているのではなくて」
--うーん。二連目の、「こわいようなおもしろいような」、三連目の「なみのようなくものような」のこの「ような」をなんといいますかね。
「比喩」
--比喩というのは、何か言いたいことを強調したり、あるいはうまく言えないので別なことばで言うことだと思う。この詩では、的確に言えないので比喩にしているのだと思う。だから、わかるように、というのはむずかしいなあ。わからないから比喩にしている。ここがわからないといわれたら、詩人は困るかなあ。はっきり言えない。だから「ような」ということばで何かを示そうとしている。それを「ような」をつかわずに言いなおすのはむずかしい。たぶん、「ような」を明確にすることは、読者ひとりひとりに任されている。
 それで、さっき対比について語り合ったとき、二連目の「こわいようなおもしろいような」を対比ととらえたけれど、ふつうは「こわい」の反対、対になることばは何ですか?
「楽しい」「安心」「やさしい」
--こわくないがいちばん簡単な反対のことばじゃないですか? こわくないを言いなおすと安心とか、平気になる。
 で、この「こわいようなおもしろいような」というのは、体験したことあります? どういうとき「こわいようなおもしろいような」を感じます?
「ジェットコースター」
「恐怖映画」
「こわいけれど、わくわくする」
--それで、自分のなかで動いているものというのは、私はそういうことじゃないかなあと思う。はっきりしないけれど、何かが起きる。何が起きるかわからないからこわいのだけれど、それをしてみたい気持ち。味わってみたい気持ち。それが「こわいようなおもしろいような」にあらわれている。「こわいようなこわくないような」とは違うと思う。ドキドキ感が出てこない。自分の中に、そういうこわいと同時におもしろいと言えるものがあるんだという気持ちがここに書かれている。それが動いてきて、最後に「ただよっている」になっていると思う。
 この「ただよっている」はちょっとずるいというか、それこそもっとはっきり動いてほしいという気もしますが。
 で、井本さん、一人で読んでいたときと、こうやってみんなで感想を言いながら読んだときと、印象が変わりました?
「さらに難解になったかなあ。(笑い)あ、ここまでことばにこだわって読むんだと驚いた」
--谷川のこの『バームクーフン』の詩は、ひらがなで書かれていて、ふつうに使うことばばかり出てくる。何を書きたいのか、ぱっとは言い切れないですね。「平和を訴えている」とか「誰かを慰めている」とか簡単に要約できない。それがおもしろいかなあ。でも、こういう気持ちがあるんだということを書きたいのかなあ。
「谷川の詩を読んでいると、ソクラテスを思い出す」
--あ、そうですか?
「詩を書きながら哲学をしている。だから、ことばに色気がないですよ。西脇順三郎のことばに比べると、背景とか風景とか、とてもシンプルですよ。ぜんぜん違う気がします」
--いまの、色気がないというのは、言いことばだなあ。言い得て妙というか、どきっとしましたね。谷川に聞かせてやりたいですねえ。
「谷川のことばは日常的なことばばかりですよね。どういうのが、色気があることばなんですか?」
「詩ではないけれど、源氏物語のことばなんか、古典は色気がありますね。西脇もそうだし。むしろ、谷川みたいな人が少ないような気がする。まどみちおの詩が谷川に近いかなあ。簡単で、童謡に近い。」
「ぞうさんの詩とか、童謡になってますね」
--むずかしいですね。谷川とまどみちおは似ているけれど違うかもしれない。まどみちおは好きだけれど谷川は苦手という人もいますから。逆は少ないかもしれない。色気の問題なのかなあ。私も西脇のことばは色気があるなあと思う。
「どういうことろが?」
「西脇は色とか形を具体的に言っている。目に見えないものを書いていない。目に見えるように書いている」
--曲がったなすとかがよく出てくるのだけれど、ことばがあるというよりも、まず「もの」が直接見えてくる、ほんものがある、という感じ。色気を定義するというのはむずかしいけれど、そこに「もの」があるという存在感のあることばに私は色気を感じる。谷川の場合は、具体的な「もの」というよりも、いったん抽象化し、整理しているという感じがしますね。

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