詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

雨沢泰訳『白い闇』の訳文

2021-09-30 10:58:31 | その他(音楽、小説etc)

雨沢泰訳『白い闇』の訳文

  雨沢泰訳『白い闇』(NHK出版、2001年2月25日発行)の訳文は、あまりにもひどい。私の持っているのは古い版なので改定版が出ているかもしれないが。108ページにこんな文章がある。

医者の妻は時計を見た。針は二時二十三分をさしている。眼を寄せると秒針がとまっていた。情けない時計のネジをうっかり巻き忘れていたのだ。それとも、情けないのは彼女なのか、わたしなのか。

 この「情けないのは彼女なのか、わたしなのか」の「彼女」って、だれ? この小説には、おもだった女はサングラスをかけた若い女と、この医師の妻。ほかにはいない。いくら前を読み返しても「彼女」にふさわしい人間はいない。
 スペイン語訳(原文はポルトガル語だと思う)では、こうなっている。「情けない時計」以後を引用する。

 Se había olvidado de dar cuerda al maldito reloj, o maldita ella, maldita yo
                   
 たしかに「 maldita(情けない) ella (彼女)」ということばは出てくる。だが、これは「maldito (情けない)reloj (腕時計)」と医師の妻が思わず時計を罵った後、ほんとうに罵るべきなのは時計なのか、ふと思い悩む(後悔する)場面である。時計を罵ってもしようがない。情けないのは、ほんとうはネジを巻き忘れた私である。それが「 maldita(情けない) yo (私)」。
 それでは「彼女( ella )とは誰なのか。誰、ではなく「cuerda(ネジ)」なのである。「cuerda」が女性品詞だから「 maldita cuerda 」と書くかわりに「 maldita ella 」と書いている。代名詞をつかっている。そして代名詞をつかったのは、そのあとに「 yo (私/代名詞)」が来るからなのだ。
 スペイン語にしろ、フランス語にしろ、名詞に「男女」の「性別」があるということは、語学の初歩で習う。私はいまだにNHKのラジオ講座の初級編をクリアできないけれど、それくらいのことは知っている。小説を訳す人間なら、当然知っていることである。
 日本語訳には(先に書かなかったけれど)、「情けない時計」にはわざわざ「傍点」がふってある。「情けない」ということばのつかい方に特徴がある、「時計」は器械だから「情けない」という修飾語はふさわしくない、けれどサラマーゴは「情けない」ということばをつかっているといいたいのだと思う。そこまで気配りができるならば、「 maldita ella 」を「情けない彼女」と翻訳する気持ちがわからない。
 「maldito (男性形) maldita(女性形)」は時計、ネジを修飾するときは「情けない」というよりも「いまいましい、のろってやりたい、ばかな」くらいの訳の方が日本語敵だと思うが、それを「わたし」にそのままあてはめるとなんとなくおかしい。「わたし」の場合は、たしかに「情けない」の方がぴったりくる。ネジを巻くのを忘れてしまうなんて、わたしはなんて情けない(だらしない)人間なのだろう、というわけである。そこまでことばをつかいわけるのなら、なぜ「 maldita ella 」を「彼女」と訳したのか。「彼女」ということばで、あ、これはネジのことだ、とわかる日本人読者がいるだろうか。
 この小説の書き出しの文章の訳文の不適切さについては既に書いたが、あまりにもひどい訳文だね。

 ちなみに(というつかいかたでいいのかどうかわからないが)、スペインの友人に聞いてみた。この本を読むのを手伝ってくれている。「ここに書いてある ella はcuerdaのことか」。即座に、「そうだ」という返事。「ほかに何か考えられる?」という感じの答え方だった。代名詞(日本で言えば指示代名詞)が何を指すかは、どの国のことばでもむずかしいときがあるが、この部分では「 ella 」を「彼女(人間)」と思うネイティブは皆無だろう。そういう部分を「見落としている」のがなんともおかしい。原稿を読んだ編集者も「この彼女というのは誰ですか」くらい聞けばいいのに。

 

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇102)Roberto Mira Fernandez

2021-09-30 09:29:31 | estoy loco por espana

Me dan una extraña impresion las pinturas, que tienen las perspectivas o las profundidades, de Roberto Mira Fernandez.
la perspectiva o profundidad de las obras

No puedo encontrar la "primera posición" cuando aparece un color a medida que se forma.

Eso me inquieta.

Así que escribo este poema como se me ocurre.

 

*

NO LO ES

 

¿Quieren cambiar los colores a una forma?

No lo es

¿Quieren cambiar las forma a un color?

No lo es

 

¿Qué representa el color cuando se convierte en forma?

No lo es

¿Qué representa la forma cuando se convertie en un color?

No lo es

 

¿Qué esconde el color cuando toma una forma?

No lo es

¿Qué esconde la forma cuando toma un color?

No lo es

 

No lo es

Quiero que me mires

No lo es

Quiero que no me mires

 

Si soy un color, ¿eres una forma?

No lo es

Si soy una forma, ¿eres un color?

No lo es

 

No lo es

No es correcto

No lo es

No es correcto

 

Cada vez que repito me acerco a ti

No lo es

Cada vez que repites te alejas de mi

No lo es

 

He visto este dibujo tuyoa

No lo es

Este dibujo tuyo me ha visto

No lo es

 

No lo es

Quiero que me mires fijamente

No lo es

No quiero que me mires fijamente

 

¿Yo lo digo?

No lo es

¿Te, dentro de en este dibujo, lo dices?

No lo es

 

Si yo soy tu

No lo es

Si tu eres yo

No lo es

 

ロベルトの絵の遠近感、あるいは深度は不思議だ。

ひとつの色が形になりながらあらわれてくるときの「最初の位置」がみつからない。

そのことが私を不安にさせる。
だから、思いつくままに、

こんな詩を書く。

 

色は形になりたいのか

そうではない

形は色になりたいのか

そうではない

 

色は形になることで何を表すのか

そうではない

形は色になることで何を表すのか

そうではない

 

色は形になることで何を隠すのか

そうではない

形は色になることで何を隠すのか

そうではない

 

そうではない

私は見つめられたい

そうではない

私は見つめられたくない

 

私が色ならば君は形なのか

そうではない

私が形ならば君は色なのか

そうではない

 

そうではない

そうではない

そうではない

そうではない

 

繰り返すたびに近づいていく

そうではない

繰り返すたびに遠ざかっていく

そうではない

 

私はこの君の絵を見たことがある

そうではない

この君の絵は私をみたことがある

そうではない

 

そうではない

私は見つめられたい

そうではない

私は見つめられたくない

 

私がそういったのか

そうではない

絵の中の君がそういったのか

そうではない

 

私が君なのか

そうではない

君が私なのか

そうではない

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青柳俊哉「彫塑」、池田清子「旅」、徳永孝「虹と心」

2021-09-29 14:55:53 | 現代詩講座

青柳俊哉「彫塑」、池田清子「旅」、徳永孝「虹と心」(2021年09月20日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

旅  池田清子

もし 飛行機に乗らなくていいのなら
行ってみたい場所がある

パリのモンマルトルの丘にのぼり
モンパルナスの通りにあるカフェをのぞきたい

モディリアーニ、ピカソ、ユトリロ、キスリング、スーチン
若い画家たちの集うカフェ
高級で、画商やパトロン達もいるような音楽もあるカフェ
その頃の空気を感じたい

いや もういっそのこと
その時代に行けるのなら
カフェの一番隅っこでいい
彼らの表情とかをじっとずっと見ていたい

『モディリアーニー!』

 「じっとずっと見ていたいに共感する」「キスリング、スーチンというあまりなじみのない名前が出てくるところ、画商、パトロンも登場するのでリアリティーがある」という声。
 この詩は「もし 飛行機に乗らなくていいのなら/行ってみたい場所がある」と書き出されているが、実際に書かれているのは「行ってみたい場所」というよりも「行ってみたい時代」である。「行ってみたい場所」というとき、ふつうは「いまの場所」を考えるが、池田は「過去の場所」である。その「過去」を特徴づけるのが「モディリアーニ、ピカソ、ユトリロ、キスリング、スーチン」。固有名詞によって、自然と「ある時代」が浮かび上がってくる。これはなんでもないことのようだけれど、ことばの呼応の仕方が自然で正直である。だからこそ「その頃の空気を感じたい」が自然に響く。「その頃の空気」をどう説明するか。難しいが「感じたい」の方にことばの重心をうつして、「彼らの表情とかをじっとずっと見ていたい」と「肉体」そのものの行動に置き換えて言っている点に説得力がある。
 そのあとに自然に、正直に「モディリアーニー!」ということばが出てくる。あ、池田はモディリアーニーが好きなんだ、とわかる。モディリアーニーが好きだから、彼が生きていた時代のパリへ行きたいのだと伝わってくる。
 この作品は、当初、最後の行が「楽しいだろうなあ」だった。しかし、それでは、意味はわかるが、もっと他のことばの方がいいのではないのか、という指摘があった。それを受けて、池田は「モディリアーニー!」に書き換えた。この推敲は効果的だと思う。たくさんの画家の名前が二連目に出てきたが、最後にモデイリアーニーひとりが出てくる。このことで、池田はモディリアーニーが一番好きなのだとわかる。
 せっかくモディリアーニが好き、というところまで書いたのだから、ただその時代に行ってみたいだけではなく、その時代に行ってモディリアーニを目撃した(出会った)ときのことを書き加えるのもいいと思う。名前だけではなく、そのときの様子を書き加えるとまた違った世界が広がると思う。

彫塑  青柳俊哉

夏の光が野をながれ
母と少女が波を踏みわけて行く
朝の空が大きな羽を振り
ふたりは洗った衣を風に懸ける
山と空は 巨大な明るさにみちて
宇宙に吹きぬけている

ふたりはこの土地の水脈に
光がふれてのびる樹木と草の葉
同じ土と太陽の成分に育まれていた
朝の光がふたつの像にうちよせる
山も空も 巨大な明るさにみちて
宇宙に吹きぬけていた

 「母と少女の像がある。光があふれている情況が美しい。山と空はから始まる二行が一連目と二連目に出てくるが、とても印象的」「一連目の宇宙に吹きぬけているが二連目で宇宙に吹きぬけているたに変化する。一連目ではバラバラだったものが二連目で一体化していく感じがいいなあ」という声。
 受講生も私も「彫塑」というタイトルに影響されて「母と少女」を「像」だと思ったが、私たちの感想を聞いて、青柳は「土地から生まれた命の象徴として書いた。人間から植物に変化していく大きな動きを書きたかった」と語った。人間が人間の世界に納まるのではなく、自然(植物)と融合して「宇宙」そのものになる感じ、ということだろうか。
 「いる」と「いた」の変化をどうつかみ取るかは難しい。私は「いる(現在形)」を主観的、「いた(過去形)」を客観的(事実になってしまった)と感じるが、「いる」の方がいま現在という感じがするので「客観的」と感じる受講生もいた。「いま/いる=リアリティ=客観的」ということだろうか。
 この詩のなかでの大きな変化は「いる/いた」とは別にもうひとつあるように思う。「朝の空」と「朝の光」である。「朝の空」は私には「遠い」感じがする。「朝の光」は近い、身近という感じ。遠くにあった「朝(の空)」が近くに押し寄せる。(詩ではうちよせる、と書いている。)押し寄せて、「母と少女」の体を貫き、「宇宙に吹き抜け」る。そのときふたりは宇宙そのものになる。

虹と心  徳永孝

雨あがりの青空に
所々かかる薄雲
その上に広がる
半月状の虹

太陽 雨 青空
雲 虹 月
何の意味も持たない
純粋な物理現象なのに
美しいと感じる

美とは何なのだろう

物理・科学の自然法則に従って
生物が出現し進化してきた
そこに働くのは全くの偶然で起る突然変異と
生存に有利か不利かによる自然淘汰だけ

人間も
何の価値評価もしない進化の法則に
ただ従って出来てきたはずなのに
喜怒哀楽 善悪に心が動く
時には嵐のように

心とは何だろう

 「美と心の対比がコンパクトに書かれていて、新鮮な印象がある」「純粋な物理現象と喜怒哀楽、善悪との対比がおもしろい。虹から始まるところもおもしろい」という声。
 「美」と「心」の対比。客観的な存在としてそこにある「何か」。それを美しいと感じる。そのときの美しいと感じる心とは何か。人間が他の存在と同じように「進化の法則」にしたがって誕生したのなら、なおのこと、何かを美しいと感じる、その心とは何かが気になる。考えてみなければならない問題である。
 こういう哲学的なテーマは重要である。
 この作品は、最初は「物理・科学の自然法則に従って」から始まる四連目がなかった。「人間も/何の価値評価もしない進化の法則に/ただ従って出来てきたはずなのに」が唐突な印象があるので、もう少し書き込んでみたらというアドバイスをし、それを反映させたのが現在の作品。人間の存在を「自然(物理)」現象と対比させている。ただ、書かれていることは「虹(現象)」とは違って「論理」である。ここがむずかしい。詩は「論理」を整合的に書くというよりも、「論理」にならないものを具体的に書き、読者に感じさせる(刺戟する)ものだと思う。
 「正しい論理」を書いた後で「何だろう」という質問を提出するのは、むずかしい。「論理」は正解以外を許さないからだ。一方、詩は、正解か間違っているかを判断しない。好きか嫌いかによって選ばれる。

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たけむらさとし「庇」、八城裕貴「子どもたち」

2021-09-28 10:05:38 | 詩(雑誌・同人誌)

たけむらさとし「庇」、八城裕貴「子どもたち」(「現代詩手帖」2021年10月号)

  たけむらさとし「庇」は投稿欄に掲載されている作品だ。小池昌代、岡本啓のふたりが選んでいる。短い作品。

向こう岸にわたる飛び石の上で女の子が川面を覗いている。おんなじようにしてみると逆立った髪の毛の下で青黒く笑っている他人のような自分が流されずにこっちを見ていて胸元に水草と苔のついた石も空き缶まで抱えていて、そこから銀色の魚が逃げていった。
ときどき混ざる冷たい風は、その影の外へ僕の顔をおしている。

 「おんなじように」から始まる長い文章がとてもおもしろい。視線の動きをそのままつなげて、視線が動くままにしている。「抱えていて、そこから」という部分に読点があるが、これは読みやすくするためか、あるいは書きやすくするためか。読点なしの方が、よりおもしろくなったと思う。
 というのは。
 「他人」と「自分」がここでは区別がない。その区別のなさが自分の胸と川底の石、いや空き缶か、と重なり、他人なのか自分なのかわからないものが魚となって逃げていくという感じは区別のなさがない方がいいと思う。読点によって意識をととのえると、この微妙な動きがそこなわれるとまでは言わないけれど、あ、もう一度読み返してみたいという気持ちが少し薄れる。
 一呼吸でつづく不思議な連続性。どこかでずれ、どこかで重なる。そのまま意識で再現できないけれど、何かが動いたという感じ、意識が肉体の無意識のように動いていて、そこに私の肉体ではないたしかな別人の肉体を感じる。
 小池はほかにも短い詩を選んでいる。八城裕貴「子どもたち」。

子どもが鳴いている、
深い、
草の匂いのなかで。

夏は子どもたちのなかで傾き、
すべての心理が
すべりおちていった。

大きくなった主体が鳴きごえのなかをすすんでいる。

 たけむらの作品と「相似形」をなしている。ともに自分ではないもの「女の子」「子どもたち」をとおりぬけて、そのときに「胸」「心理」が動いている。たけむらは「水底」とか「水のなか」ということばをつかわず、「影の外」と「外」ということばをつかうことで、「内」を暗示しているが、八城は「なか」を三回もつかって強調している。八城の方が論理性が強い。あるいは何を書きたいかということに対する意識が強い。そして、それがあまりにも整理されすぎているので、もう一度読んでみたい、という感じがしない。かといって続きが読みたい(先が読みたい)という感じでもない。「心理」「主体」ということばがうるさくて、あ、ここで終わってよかった、という感じがある。
 これに対してたけむらの作品は、「外」ということばが出てきて、広がりを感じさせるにもかかわらず、「外」、あるいはことばの続きではなく、いま読んだばかりのことばのなかへ引き返し、もう一度読んでみたいという気持ちを起こさせる。つづきがあるとすれば、その読み返したことばのなかにある、読んだけれど、私にはきっと読み落としがある、それを見つけたい、という気持ちに誘われるのだ。
 どちらが好きか、と言えば。
 私は間違いなくたけむらの作品を選ぶ。何かよくわからなかったが何かが書いてあるのはたしかだ。それをもう一度読んでみたいという気持ちにさせられるからだ。

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(26)

2021-09-27 09:36:46 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(26)

(現行憲法)
第54条
1 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
2 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
3 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。
(改正草案)
第54条(衆議院の解散と衆議院議員の総選挙、特別国会及び参議院の緊急集会)
1 衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
2 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、特別国会が召集されなければならない。
3 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
4 前項ただし書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失う。

 第54条に改正案は「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」を追加している。これは緊急事態条項の親切に匹敵する重大な問題である。
 憲法第52条には、「国会の常会は、毎年一回これを召集する」と規定している。「首相が召集する」とは書いていない。内閣に権限があるのは「臨時国会を召集する」ときだけである。第7条第2項には天皇は「国会を召集する」と書いてある。これも「名目」であって、実際に天皇が独断で国会を「召集」できるわけではない。この「召集」は別のことばで言えば、国会議員を集めることである。「国会」をあつめるわけではない。同様に「解散」というのも国会議員を国会から追い出す(議員資格を剥奪する)ということであって、「国会の会場(建物)」を解体してなくしてしまうわけではない。「機関」をなくしてしまうわけではない。「召集」は誰かが決めることではなく、憲法で決まっているのだ。憲法は国民のものである。言いなおせば、国民が「国会は開かなければならない」と決めているのだ。だから、開かれるのだ。首相(権力者)は、それを拒絶できない。
 こういうことを考えるとき、参考になるのは、「書き方」である。どういう順序で第4章(国会)は定義されている。書き進められているか。第51条で「国権の最高機関」と定義した上で、衆議院、参議院の構成(二院制)について触れ、そのあと国会議員の資格、権利について書いている。これは第三章の「国民の権利及び義務」の書き方(定義)と同じである。「国民」を定義した後、国民の「権利」を保障している。第4章も「国会(国会議員)」を定義した後、国会議員の「権利」を保障している。この「保障」の意味は、「権力の実行者(内閣)」は国会議員の権利を侵してはならないという意味である。言いなおすと、内閣は自分の都合で国会議員の議席を剥奪できないということである。国会議員の議席を剥奪することができるは、国会議員を選ぶ国民だけなのである。
 内閣が国会を「解散できる」のは、第69条にあるように「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」だけなのである。議員の言っていることが正しいか、内閣の言っていることが正しいか、国民に判断を求めるときだけ、内閣は国会を解散できる。
 それ以外は、国会議員は、内閣の権限を上回る。だからこそ信任案、不信任案を審議し可決することもできるのである。権限は、国会議員にある。内閣にはない。
 「天皇」の項目でも触れたが、改正草案では「テーマ」のなかに、突然、「主役」ではない「内閣」が割り込んできて、「自己主張」する。「内閣」というこ項目は、天皇、国民、国会のあとに書かれている。その順序を飛び越えて、割り込んでくる。そして内閣にとって都合のいいことを言う。「独裁」の姿勢が、そういうところに明確に出ている。「内閣」のことは「国会(国会議員)」の後で定義する。それまでは「内閣」は主語になってはいけない。「主語」として割り込んでくるのは「独裁」がおこなわれているからである。
 繰り返しになるが、第54条で定義しているのは、国会議員(特に衆院議員)の「権利の保障」である。国会解散は、議席を失うことである。国会議員の「権利」がなくなる。その「権利なし」の期間は短くなければならない。第54条は、選挙は「四十日以内」、国会開会は選挙から「三十日以内」と決めているのは、当選しても国会が開かれなければ国会議員の権利を行使できないからである。そういうことを保障した上で、二院制の問題(参議院)の役割と、衆議院の議決が優先することを定義している。参議院がどんな議決をしようが「衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ」。
 「衆議院議員」を国会の中で最上位に位置づけている。この衆議院議員の「権利」を「内閣総理大臣」が一方的に奪うということは許されてはならない。「首相に解散権がある。根拠は第7条だ」というのは憲法解釈として完全に間違っている。違憲である。自民党は改憲草案を先取り実施しているというのが私の見方だが、国会解散に関しては安倍以前から「首相に解散権がある」を先取りしている。
 内閣(首相)が国会議員の「権利」を剥奪するはできない(「解散権」をふりまわして、議席を剥奪することはできない)ということは、次の第55条を読めば明確である。

(現行憲法)
第55条
 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
(改正草案)
第55条(議員の資格審査)
 両議院は、各々その議員の資格に関し争いがあるときは、これについて審査し、議決する。ただし、議員の議席を失わせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。

 現行憲法も改正草案も「議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする」「議員の議席を失わせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする」と決めている。内閣だけの意志で「議席を失わせる」ことはできない。「解散」は、その瞬間に衆院議員の議席を剥奪す/権利を奪うものである。
 内閣にその権限はない。内閣が信任されなかったときだけ、その対抗手段として国会を解散し、国会議員の議決の「不当性」を問うことができるのである。
 改正草案の第54条は「後出しジャンケン」ならぬ「ジャンケンルール」の一方的な押し付けである。それは簡単に言いなおせば、「あなたに後出しジャンケンの戦利を譲ります。今回のルールはグーなしです。私が先にパーかチョキを出します」というようなものである。

 それにしても、今回の自民党総裁選の報道はむごたらしい。ひたすら自民党の宣伝をしているに等しい。自民党の総裁選は国会を開会しながらでもできる。国会を開かずにいる自民党の責任を追及せず、ひたすら自民党のことだけを報道するというのは、ジャーナリズムとして情けない。
 コロナ対策の「緊急事態宣言」は9月30日に一律に解除されるようだが、解除前に、きちんと国会で審議すべきだろう。決定権が内閣にあるにしろ、状況を国会に報告し、判断の正当性をあおぐ必要があるだろう。
 国会軽視は国民軽視である。「改憲草案」の先取りが着々と進んでいるのに、だれもそれを批判しない。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)

2021-09-26 15:30:02 | 映画

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)(2021年9月2 6 日、KBCシネマスクリーン2)

監督 ヤスミラ・ジュバニッチ 出演 ヤスナ・ジュリチッチ

  映画が始まってすぐ、ファーストシーンで、私は、あれっと思う。室内。ソファに座っている男を映し出す。映像に奥行きがない。人物に立体感がない。精密な絵画か写真のよう。えっ、こんな映像をずーっと見せられるのか、といやな感じになる。作為的すぎる。映像を加工しすぎじゃないのか。
 ちょっとがっかりしながら、自動販売機で買っておいた缶コーヒーの一口呑む。
  映画は、画面が変わって、まず木と太陽が映し出され、戦車の一部が映し出される。一部で「全体」を暗示し、そこから「世界」を描き始める。これも、まあ、平凡な手法だなあ。そんなことも思う。
 ところが。
 主人公のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)が出てきてからが、引きつけられる。アイダは国連の平和維持軍の通訳をしている。通訳というのはなかなかやっかいな仕事である。自分の思っていることとは関係なく、ひとのことばを正確に別な人に伝える。時間が一瞬止まり、世界がことばのなかで繰り返され、ことばが通じた後やっと動き出す。この「間合い」がなんとも言えず「濃厚」なのである。その「濃厚」さのなかに引き込まれる。なぜ「間合い」が「濃厚」になるかといえば、アイダは一方でセルビア人に侵攻される住民(犠牲者)であり、他方で住民を守る平和維持軍の職員だからだ。つまり、守られる人間でありながら、守る人間なのである。もし彼女がどちらか一方だったら、彼女の行動は違ってくる。彼女にも主張があるはずなのに、通訳をするときは、それは封印されている。この封印感が間合いを濃密にする。
 この奇妙な「濃厚な間合い」は実際に「濃厚な関係/複雑な関係」を生み出す。アイダは国連軍の中にいて「安全」である。しかし、夫やこどもは国連軍の基地の外にいる。避難してくるが、中に入れない。避難させたい。しかし、国連軍はアイダの家族だけを特別待遇するわけにはいかない。混乱が大きくなるだけだ。アイダはまず夫を侵攻してきたセルビア人との交渉役に仕立てる。セルビア人と交渉する民間人の代表に仕立てる。そのあと強引に二人の息子も基地の中に引き入れる。基地の外にはまだ2万5000人も住民が避難場所を求めて待っている。
 アイダのやっていることは、だんだん「通訳」の仕事から、家族を守ることへと重心を移していく。しかし、これがなかなかうまくいかない。国連軍はアイダの家族を守るためにだけ存在するわけではなく、スレブレニツァの住民を守るために存在するのだから。ひとりの願いだけを聞いているわけにはいかないのだ。でも、アイダにとっては、まず家族なのだ。他の人が目に入らなくなる。「通訳」の仕事の枠をはみ出し、自分自身のことばを「英語」で、つまり自分の母国語以外で言うことになる。これが「敵」との交渉ならば、その「敵のことば」を話すということは意味があるが、「味方」と話すのに自分以外のことばをつかわなければならない。「敵」とは「母国語」で話し、「味方」とは「外国語」で話す。「外国人」にはアイダは「外国人のひとり」にすぎない。しかも、その国連軍が向き合っている「敵」はアイダの話すことばを話しているのである。ここで、とても奇妙なことが起きるのだ。国連軍が最後まで守るのは、結局「国連軍が話すことば(英語)」を話す人間だけであり、国連軍に協力する人間だけであり、それ以外の人間は「区別しない」のである。いちおうスレブレニツァの住民を守る姿勢は見せるが、具体的には、何もしない。放置する。
 結局、「英語」を話すために、アイダは家族から引き離されてしまう。そして家族は、夫、ふたりの息子が全員男であるために虐殺されてしまう。
 で。
 途中は省略するが、映画の終わりの方で、私はもう一度、あっと声を上げる。ファーストシーンの奇妙な映像、あれは「写真」だったのだ、と確信する。
 アイダはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わった後、自分の住んでいた家に向かう。そこには別な一家が住んでいた。家の中は改装されている。そこに住んでいる女が、アイダの家族の残したものを渡してくれる。それは写真だ。冒頭のスナップ写真はないが、きっとそのなかの一枚なのだ、と私は確信する。冒頭の奇妙な感じのシーンは、この写真を受け取るシーンの伏線なのだ。彼女には、もう写真しかない。記憶はもちろんあるが、記憶の証のようなものは写真しかない。家族は、その写真の中に生きている。この悲しみ、そして喜び(というと、変かもしれないが)。写真は、アイダにとっては過去といまとをつなぐ「通訳」のようなものである、とも思う。
 映画は、そのあともつづいていくのだが、「写真」の存在を、ことばをつかわずにただ映像の質の変化だけで表現したこの構成に私は心底こころを揺さぶられてしまった。(途中に、家族の交友関係がわかる写真を廃棄するシーンもあって、最初のシーンと写真の引き渡しのシーンを強く結びつけるのだけれど。)「スレブレニツァの虐殺」では、きっと、アイダの持っている写真さえも残されていない犠牲者がいるのだ。戦争は、人間の記憶さえも奪い去り、なかったことにしてしまう。そのことへの強い抗議が、この映画を貫いている。「一枚の残された写真」になろうとする映画である。個人に徹することで、歴史を忘れないという映画である。戦争は個人を破壊する野蛮な行為であると告発する映画である。
 私は、結局、缶コーヒーは最初の一口だけで、残りを飲むのを忘れてしまった。吸引力の非常に強い映画である。

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(25)

2021-09-25 10:09:11 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第46条
 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第47条
 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。(改正草案)
第46条(参議院議員の任期)
 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第47条(選挙に関する事項)
 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律で定める。この場合においては、各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない。

 第46条は変更なし。
 第47条は、「法律」に対して一定の規定を与えている。「一票の格差」問題を配慮しての追加といえる。一票の格差は「人口を基本」としている。改正案は「人口を基本にする」と最初に書いてあるが、「行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」と言う。現行でも「行政区画」は勘案されていると思う。問題は「総合的に」ということばである。「総合的」とか菅が得意とした「俯瞰的」ということばは非常にあいまいである。どこまでを「総合的」と呼ぶか、ここには「定義」がない。「総合的」は「恣意的」と読み直すことが可能だし、実際、恣意的に操作するために「総合的」というあいまいなことばが挿入されたのだ。人口、行政区画、地勢は、そのときそのときで変更ができないが、「総合的」の「総合」はいつでも変更できる。
 こういうあいまいなことばは法律には不向きだし、憲法ではつかってはいけないことばだろう。
 昨年、日本学術会議の会員(議員?)任命拒否問題が起きたとき、菅は「総合的/俯瞰的」ということばをしきりにつかった。具体的に説明できないとき、権力は「総合的/俯瞰的」ということばをつかうのだ。それは「おまえらには、総合的/俯瞰的視野がない」という「独裁」の表明である。具体的に問題点を指摘できないとき(問題点に対処できないとき)、その人間を一般的には「無能」と呼ぶが、菅は自分の「無能」を棚に上げて、説明を拒否するために「総合的/俯瞰的」ということばをつかったのだ。

(現行憲法)
第48条
 何人も、同時に両議院の議員たることはできない。
第49条
 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第50条
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
第51条
 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
第52条
 国会の常会は、毎年一回これを召集する。
(改正草案)
第48条(両議院議員兼職の禁止)
 何人も、同時に両議院の議員となることはできない。
第49条(議員の歳費)
 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第50条(議員の不逮捕特権)
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があるときは、会期中釈放しなければならない。
第51条(議員の免責特権)
 両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
第52条(通常国会)
1 通常国会は、毎年一回召集される。
2 通常国会の会期は、法律で定める。

 第48条から第51条までは、大きな変更はない。
 第52条は「召集する」が「召集される」になっている。能動から、受け身へ、文体が変更されている。これは「国会」が、国会自身で国会を召集するというは日本語として奇妙だからということかもしれないが、逆に考えてみるべきである。
 国会は誰かによって「召集される」ことで開かれるのではなく、かならず開かなければならないものなのである。「召集」は「名目」なのである。天皇の国事行為を定めた第7条「国会を召集する」とあるが、これはあくまでも「名目」であって、天皇はそれを拒むことも、天皇の発案でできるわけでもない。
 「国会の常会は、毎年一回これを召集する」というのは、いわば、憲法が「召集する」のである。つまり、憲法が「国会の常会は、毎年一回これを召集しなければならない」と言っているのだ。内閣総理大臣やその助言を受けた天皇が国会を「召集してはならない」、勝手に通常国会の開会を中止してはいけないという禁止条項なのだ。
 これは逆に言えば、内閣は勝手に国会を解散してはいけないということでもある。解散していいのは、内閣不信任案が可決されたとき、内閣信任案が否決されたときだけなのだ。日本の内閣は議院内閣制である。しかし、内閣にも主張があるだろうから、対立したときは、信を国民に問うことができる、というのが内閣に許されている。対立もしていないのに、勝手に「解散権」をふりまわしてはいけない。
 そういう意味が含まれているのに、それを「召集される」と書き直すと、意味が見えなくなる。それだけではなく、逆に「内閣が召集するのだから、内閣が解散できる」という意味に転用されてしまう。
 これは次の第53条と結びつけて読むといっそう明確になるが、その前に、追加されている第2項について。「通常国会の会期は、法律で定める」とわざわざ追加しているのはなぜだろう。これでは「国会」は「法律」よりも下位に属することにならないか。「国会」よりも「法律」が優先するのはおかしい。
 このことは、第50条を見ればわかる。国会議員は、国会開会中は基本的に逮捕されないし、逮捕されても議院の要求があれば釈放される。釈放しなければならない。国会、国会議員は「法律」に優先するのである。
 第47条にも「法律でこれを定める」と「法律」が出てきたが、それはあくまでも「選挙区」「投票の方法」であって、国会や国会議員ではない。「国会議員」を「法律」で選ぶことはできないのである。
 国会の会期は、国会が自ら決めることであって、「法律」の規定を受けない。改正草案がわざわざ「通常国会の会期は、法律で定める」と追加したのは、「法律の解釈」によって「会期」を変更する意図があるからだろう。
 
(現行憲法)
第53条
 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
(改正草案)
第53条(臨時国会)
 内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない。

 現行憲法で「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」と書いてあるのは、日本の国会が「通年国会」ではないからだ。国会開会中に何か国の安全を脅かすようなことが起きたら、どうしたってそれに対処するための「法律」の整備が必要になる。そのために国会を開かなければならない。「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」は実質的には、「国会を開かなければならない」という義務規定である。内閣に「召集権」を認めている(内閣が勝手に、国会を開いたり開かなかったりしてはいけない」という内閣に対する「禁止事項」なのだ。
 それは、それにつづく「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」という文言で説明されている。議院の要求があれば臨時国会を開かなければならないのだ。そしてその「要求基準」は「いづれかの議院の総議員の四分の一以上」である。過半数でも、三分の二でもない。しかも、衆議院、参議院のどちらかだけでも開かなければならない。国会議員には、それだけの権限が与えられている。国会の権限、国会議員の権限は、内閣の権限を上回るのである。これは、憲法が国民→国会→内閣、という順に展開されていることからもわかる。自民党は、これを逆転させて内閣→国会→国民という「支配体制」に変更しようとしている。「支配体制(独裁体制)」を隠蔽するために、天皇に「元首」という称号を与えようとしている。「独裁」と批判されたら、「元首は天皇です」と答えるつもりなのだろう。
 脱線した。
 改正草案は「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」ともっともらしく追加しているが、これはこの改正草案が2012年、自民党が野党だった時代につくられたものだからだろう。ほんとうに国会を優先させ「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」と考えているのだったら、森友学園問題以降の「臨時国会要求」にはきちんと応じるべきだ。
 改憲草案の「先取り実施」はいろいろあるが、この第53条は先取り実施されていない。不都合なときは知らん顔をする。憲法も法律も、自分の都合に合わせて「総合的」に判断し、運用するというのが自民党の姿勢なのである。

 いま、マスコミは自民党総裁選一色である。衆議院議員の任期満了が迫っているのに、自民党総裁選を優先させ、自民党の都合に合わせて、衆院選を衆院議員の任期切れ後に実施する。順序が逆である。衆院議員の選挙を優先させ、自民党の総裁選は日程を変更すればいいのである。衆院選の結果次第で自民党が野党になる可能性もある。自民党総裁が「首相」に選ばれない可能性もあるのだ。それを阻止するために、自民党は菅を退陣させ、総裁選を実施し、できるだけ「不人気」を挽回し、そのあとで総選挙を実施しようとしている。自民党敗北回避のための作戦に、マスコミが一致して協力している。
 「独裁」はここまで進んでいる。マスコミは「独裁」の手先になって動いている。
 野党もだらしがない。なぜ、自民党総裁選の日程を変更しろと要求しないのか。安倍から始まった「独裁」に野党もなれきってしまっている。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピックは中止すべきだった(36)

2021-09-24 09:51:20 | 考える日記

 9月24日の読売新聞(西部版・14版)。コロナ感染はどうなっているか。
↓↓↓↓
国内の新型コロナウイルス感染者は23日、46都道府県と空港検疫で新たに3604人が確認された。重症者は前日から110人減って1273人。死者は49人だった。
 東京都では、531人の感染が判明した。1週間前から300人減り、前週の同じ曜日を32日連続で下回った。
↑↑↑↑
 これは間違いではないけれど、正しいとは言えない。
 23日の新聞は、こうだった。
↓↓↓↓
 国内の新型コロナウイルス感染者は22日、全都道府県と空港検疫で新たに3245人確認された。重症者は前日から46人減って1383人、死者は54人だった。
 東京都では537人の感染が判明。1週間前から515人減り、1日当たりの感染者数は31日連続で前週の同じ曜日を下回った。
↑↑↑↑
 全国の感染者 3604人(23日)-3245人(22日)=359人
 22日より感染者が増えている。23日が祝日だったことを考えると、実際はもっと多いかもしれない。きょう発表される数字を見ないとわからないが、感染者現象は底を打ち、第六波が始まる兆候がでているのではないのか。
 東京は253人(21日)、537人(22日)、531人(23日)という変化。22日から23日にかけては6人の減少。検査実数がわからないが、どう考えても「減っている」と言える状況にはないのではないか。
 22日→23日の順序で、東京以外のおもな感染状況をピックアップすると、
大阪591→540、愛知270→359、神奈川137→259、埼玉192→239、千葉140→166、福岡96→123、沖縄162→141
 大阪、沖縄以外は増えている。都市部を中心にふたたび増加しているから、22日に比べると23日は359人も増えることになったのだ。
 読売新聞の記者はたぶん前日の記事をコピーして、数字を差し替えただけなのだろう。だから23日の数字を「前週の同じ曜日」との比較でしか把握できない。「増加」に目が向かない。
 「安心・安全(?)」を権力が発表する数字を垂れ流して宣伝するのではなく、もっとデータを分析すべきだろう。どんな変化が起きているが、それに目を向け、読者に分かりやすく報道する責任があるはずだ。

 こんななか、一面では「コロナ都市封鎖 議論/自民党総裁選/河野・高市氏前向き」という見出しのニュース。というより、自民党総裁選(自民党)の宣伝。こんな議論をここで展開する前に、4人はいままで党内でどんな発言をし、それを政策にどう反映させてきたのか、それを問うべきだろう。4人とも、「総選挙のころはコロナは終息している」とでもいう感じでのんびりしている。いまどき、何を言っているのか。第六波を視野に発言しているのだとしたら、総裁選告示直後にコロナ対策で議論すべきだろう。その内容を報道すべきだろう。いままでのコロナ対策をどう評価するのか、それを抜きにして、するつもりもない「都市封鎖」を議論して何の意味があるのか。「コロナ対策を考えています」というポーズの宣伝にすぎない。コロナ対策に全力を注ぐといって退陣した菅は、コロナをほっぽりだしてアメリカへ行っている。(2面に記事が載っている。)
 「コロナ都市封鎖」をほんとうに考えているのだとしたら、即座に国会を開き、審議すべきだろう。そう菅に提案したらいいだろう。

 新聞は記者が権力の都合に合わせて書いた「作文」部分を読者が排除して、「事実」を抜き出しながら読まないと、いま何が起きているかわからなくなるという状況になっている。
  東京オリンピックの馬鹿騒ぎがまだつづいている、としか思えない。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)

2021-09-23 16:31:27 | 映画

セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)(2021年9月21日、KBCシネマスクリーン2)

監督 セバスティアン・ボレンステイン 出演 リカルド・ダリン

 リカルド・ダリンは何本か見ている。「瞳の奥の秘密」が有名だ。シリアスな役者かと思っていたら、コメディーも演じる。スペイン語の練習もかねて、見に行った。「字幕」があるのでついつい字幕を見てしまう。それに、喜劇の方が、深刻な劇よりも「ことば」を理解するのがむずかしい、というようなことを考えながら、それでも笑ってしまう。
 何がおかしいかというと。
 出で来るアルゼンチン人が、みんな正直なのだ。銀行の頭取(?)と弁護士に、農協設立のために出し合った資金をだまし取られる。どうも、その金は、山の中の厳重な金庫に隠してあるらしいという情報を手に入れ、奪われた金を取り戻そうとする。「でも、全部はダメ。自分たちが奪われた分だけ」などと、真剣に相談する。まあ、他人のものまで取り出すと「盗み」になるからね。
 このあたりのやりとりは、私が真っ正直な人間ではないので、やっぱり笑ってしまう。そこまで正直にならなくていい、と。結局、奪い返した金の残りは慈善団体に寄付しよう、という結論にたどりつくのだが、これだって、なんというかアルゼンチン気質をあらわしているなあ、と思う。かたくなに信念を守る、というところがある。
 見どころは、どうやって警報装置のついた厳重な金庫を破るか。二面作戦が楽しい。ひとつは、物理的に金庫を破るためには警報装置が働かないようにしないといけない。簡単に言えば、停電。この簡単(?)なことも、奇妙に失敗してしまうところに味がある。根っからの悪人ではないので、上手くできないのだ。もうひとつが心理作戦。金庫のことが気になってしようがない弁護士を、警報装置を誤作動させることで、ふりまわす。警報装置から携帯電話にメッセージが流れてくるたびに、弁護士は山の中まで車をぶっとばす。何度も何度も。そんなことしなくたって、停電で警報装置を止めてしまうだけでいいじゃないか、というのではちょっと味気ない。単なる金庫破りになる。そうではなくて、金を奪った人間を精神的に追い詰める、という復讐がおもしろいのだ。これは「怒ってるんだぞ」と相手に分からせることだね。相手が、それに気づくかどうかは別問題。自分たちが憂さ晴らし(?)ができればいい。
 これは、最後の最後。悪徳弁護士が、正直者集団の車修理屋へやってくる。彼にオーナーがマテ茶を出す、というシーンに、さらっと描かれている。「何も知らないばかな弁護士」と、ちらっと思う。この「ちらっと」という感じがいいんだなあ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピックは中止すべきだった(35)

2021-09-23 08:29:37 | 考える日記

 9月23日の読売新聞(西部版・14版)の2面のコロナ感染症に関する見出し。(番号は私がつけた。)
↓↓↓↓
①宣言解除 27日にも判断/「まん延防止」一部移行も
②3回目接種 12月100万人/厚労省案 医療従事者が対象
③コロナワクチン追加提供を表明/首相、計6000万回分
↑↑↑↑
 ①を読むと、「宣言解除」へ向けて動いていることが分かる。総裁選、衆院選とつづくから、なんとしても宣言を解除したいのだろう。しかし、本当に感染症対策は大丈夫なのか。コロナは終息するのか。
 ②は、①とは反対の動きである。ワクチン接種は2回では不十分。3回目を実施することにした。まず医療従事者から、という。医療従事者の次は高齢者、それから一般の人ということだろう。少なくともコロナは年内には終息はしない。来年も拡大すると予測するから3回目の接種があるのだろう。
 ①と②は、あきらかに「矛盾する」対策である。もちろん、規制を緩和しながらワクチン接種をつづけるということなのだが、そのバランスの取り方が、どうにも「うさんくさい」。
 ③はワクチン不足の国へワクチンを提供するという内容だが、これはワクチン接種が進んでいない国が多いから。つまり、国内対策だけではコロナは防げないということ。たとえ国内の感染が減ったとしても海外から「新株」を含めてコロナ感染が侵入してくる危険性があるということ。

 こんなさなかに、国会も開かず、そのことを追及するでもなく、読売新聞は「総裁選」の報道をつづけている。同じ2面の見出し。
↓↓↓↓
こども庁創設 3氏意欲/高市氏は言明せず 河野・岸田・野田氏
↑↑↑↑
 コロナ対策についての候補者の「政策」は報道済みなのかもしれないが、単なる「宣伝の言い合い」を紙面化するよりほかに報道することがあるだろう。
 しかしなあ、と思うのは、見出しの順序である。
↓↓↓↓
こども庁創設 3氏意欲/河野・岸田・野田氏、高市氏は言明せず 
↑↑↑↑
 にしないと、「3氏」と「河野・岸田・野田氏」が離れてしまう。「3氏=河野・岸田・野田氏」がわかりにくくなる。これはね、うがった見方をすれば、読売新聞は安倍の意向を受けて、高市をアピールしているのである。
 総裁選報道は、マスコミの「権力すり寄り合戦」という感じだ。コロナ報道がおろそかになっている。
 それは、たとえば29面に書いてある「感染者状況」の記事を見ても分かる。
↓↓↓↓
 国内の新型コロナウイルス感染者は22日、全都道府県と空港検疫で新たに3245人確認された。重症者は前日から46人減って1383人、死者は54人だった。
 東京都では537人の感染が判明。1週間前から515人減り、1日当たりの感染者数は31日連続で前週の同じ曜日を下回った。
↑↑↑↑
 これは、このとおりである。しかし、昨日(22日)の記事には、こうある。
↓↓↓↓
 東京都の新規感染者は253人で、1週間前より751人減少した。300人を下回るのは、6月21日(236人)以来3か月ぶり。
↑↑↑↑
 計算してみよう。537(22日)-253(21日)=284。前日よりも284人も増えている。21日に比べると2倍になっているのだ。
 数字は「基準」を何に置くかによって、評価が違ってくる。一週間前に比べたら「改善」、きのうに比べたら「悪化」。簡単に一方の「基準」だけで判断してはいけない。直前の「連休」の影響があるのかもしれない。連休の影響があるのだとしたら、きょう23日の「秋分の日」の休日も影響するかもしれない。

 東京オリンピック前から、コロナ隠し報道が横行している。政府の発表をそのまま鵜呑みにして報道している。最初にとりあげた①②の「報道内容」自体には間違いがないだろう。政府の発表を忠実に、そのまま提供している。政府の提供するニュースに何の疑問も持っていない。
 私はオリンピックの記事はほとんど読んでいないが、あの大宣伝は、菅の失政をごまかすためのものでしかなかっただろう。

 つくずく思う。東京オリンピックは中止すべきだった。コロナ対策も不完全だったが、オリンピック批判をしなかったマスコミは、いまは、そのまま完全に「自民党の宣伝紙」としかいいようのない状態だ。
 9月4日に書いたことだが、なぜ、衆院議員の任期が切れるのが分かっているのに、衆院選挙が任期切れのあとなのか。それをなぜマスコミは追及しないのか。
 こういうことも東京オリンピック後遺症なのだ。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

U-NEXT光01の対応(2)

2021-09-22 08:44:51 | 考える日記

U-NEXT光01の対応は、不誠実である。前回アップした後のメールのやりとりを掲載しておく。(前回のものを含めて、私が問題にしている点の概略は以下の通り。)

U-NEXT光01は、今回の通信障害について、最初はU-NEXT光01に問題はなく、私が使用している機器(一部はU-NEXT光01提供)に問題があるので、メーカーに問い合わせろと答えている。
しかし、実際には8月11日11時35分から8月16日15時43分通信障害を起こしていた。

この説明の過程で、U-NEXT光01は通信障害は私の住んでいるマンション全体で起きたかのように伝えてきているが、実際はU-NEXT光01だけだった。
私が、何件U-NEXT光01と契約しているかと質問したところ、「個人情報なので伝えられない」ということだった。私が、それはどういう法律に基づいているか、どういう社内規定になっているのかと重ねて問い合わせた。法律については口頭での条項説明だったので、よく聞き取れないし、検討もできないのでメールで連絡してほしいと伝えた。社内規定については言えない、ということだった。
この問題に関して、今回のやりとりで、「法律」と「社内規定」の公表先(リンク)を連絡してきたが、具体的にどの条項を適用したのか不明なので、さらに問い合わせた。
すると、何口契約しているかは個人情報なので公開できる、とだけ伝えてきた。さらに何口なのか問い合わせたが、回答がない。

なぜ、契約口数が問題になるかというと、「補償」が絡んでくるからである。
前回公開したメールには、8月分の使用料金から回線障害が起きた期間の利用料金を差し引くということが書かれている。
しかし、いつ、差し引くのか、その金額はいくらなのか、どうやって計算したのかの説明がない。さらに、質問中のことなので、ここには書かないが、「契約件数」との関係で言うと、「補償」は平等におこなわれていないという「事実」を私は把握している。だから、だれが、どのような計算をし、どのような指示をしたのか、その文書の公開をも求めている。

当然のことながら、回答はない。
私は目が悪く、こういうことをしていると、他のことに影響してくるのだが、悪質としかいいようのない対応なので、ここに公開しておく。
仕事の関係上、私はネット接続が不可欠なので、いまもU-NEXT光01をつかっているが、U-NEXT光01は、そういう利用者の弱み(すぐには契約会社を変更できない)を利用して、不正をしている。上に書いたように、まだ公開はできないが、「不平等補償」の証拠を私は把握している。

(なお、前回の記事は、以下に掲載。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/433e5b5977f1d543612571ea43d32f66)

******2021 年8 月26日以降のメールのやりとり****************************************************************

(1) 2021 年8 月26日 19:55"U-NEXT 光01カスタマーセンター

谷内 修三 様
平素は格別のご高配を賜り誠にありがとうございます。U-NEXT光01カスタマーセンターです。
ご連絡にお時間をいただき誠に申し訳ございません。ご不便をおかけしておりました機器障害ならびに弊社対応について以下に回答を記載致します。
まずお客様お住まいの物件につきましては、弊社にて検知可能な範囲にて過去に通信障害が発生したことはございませんでした。今後同症状が発生した際は、可能な限り迅速な対応を差し上げることが出来るよう回線事業元ならびに管理会社様との連携を密に構築して参ります。

別途ご質問いただいておりますキーボード接続につきまして物理キーボードはインターネット回線を使用しPCと接続される仕様ではございませんのでご申告の症状につきましては弊社回線に起因する問題ではないように見受けられます。

また、物件ごとの契約戸数やお部屋番号、お問い合わせいただいた件数・内容につきましては個人情報保護ならびに弊社方針上の観点からお答え出来かねます。
併せていただいた回線容量や通信回線の規格・スペックに関するご質問につきましても弊社公式ホームページ上にて公開されている内容以上のご回答が出来かねてしまいます。

最後に、回線の通信障害による各種ソフトウェアのインストールに関しまして他のお客様のお問い合わせ状況に該当する為、回答を差し控えさせていただきますが一般的に一時的な通信障害でソフトウェアのインストールが正常に完了しなかった場合は通信環境が正常な状態で再インストールをおこなうことで問題なくご利用可能かと存じます。

上記につきましてはあくまで一般的な回答となりますので各ソフトウェアの詳細情報につきましては各サービス提供元へご相談くださいませ。

ご希望に沿う形で回答を差し上げられないご質問が多々あり大変恐縮ではございますが
上記が弊社にてご案内可能な内容となりますのでご理解賜りますようお願い申し上げます。

(2)2021年8 月27日 20:40谷内修三

何件通信障害が起きたのか、個人情報だから言えないというときの根拠として「通産省の通達(?) がある、第〇条にこう書いてある」と前回の電話では「さの」が言った。
私はそれは口頭ではよく分からないから文書で示してほしいと伝えた。通産省の通達は、「公文書」。
公開しても問題はないはず。なぜ、それを明記しないのか。約束と違う。
また今回の通信障害は、マンションまで貴社の光回線をつかい、建物内部(配電盤? )からから私の部屋までは電話回線を使っていることと関係があるのか。
他の契約者も同じように電話回線を使うタイプなのか。私が契約している二口だけが電話回線なのか。
そのことを教えてほしい。
さらに、部屋まで光回線にした場合は、通信速度はどれくらい違うと把握しているのか、そのことも教えてほしい。


(3) 2021 年8 月29日 20:29"U-NEXT 光01カスタマーセンター谷内 修三 様

重ねてご連絡いただき、お手数をおかけしております。U-NEXT光01カスタマーセンターでございます。

ご質問の件、以前お電話にてご説明させていただきました電気通信事業法につきましては以下URL よりご確認可能でございます。
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=359AC0000000086

なお、弊社では上記法令ならびに個人情報保護の観点に則り「個人情報保護方針」を策定しており、以下URL に記載しております。
https://www.unext.co.jp/ja/legal/privacy

なお、通信障害と物件の配線構造に因果関係はなく、どのような提供タイプであっても
建物レベルの機器障害が発生する可能性はございます。
また、一般的に光配線方式に変更された場合、最大速度は1Gbps になるかと存じますが
U-NEXT光01は光配線方式に対応しておりません。

上記ご参照いただけますと幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。

(4)2021年8 月31日 10:53谷内修三

「ご質問の件、以前お電話にてご説明させていただきました
電気通信事業法につきましては以下URL よりご確認可能でございます。」
↑↑↑↑
以前の電話の説明では「電気通信事業法」の「第〇条」という説明でした。
「第〇条」が明示されていません。
きちんと明示してください。
他の光回線の業者に聞いてみましたが、今現在のマンションの回線は何本で、空きは何本という説明をしてくれました。
何口契約しているか(何回線あるか)は、「個人情報であり、開示できない」とは判断していません。
unext 光01が、回線が何本あり、何本契約しているか言えないという根拠となるのは「電気通信事業法」の「第〇条」なのか、明確に明記してください。

また、私は二口契約していますが、ほんとうに二口分の光回線はマンションまで来ているのでしょうか。
一本の回線を日本の電話回線につないでいるということはありませんか?
配電盤(?)の構造や配線の仕組みはわかりませんが、二口の回線が全く同時に同じ障害を起こしたのはなぜなのか、その説明もしてください。


(5)2021年9 月1 日 16:37谷内修三
追加質問

いくつかの光回線事業をしている業者に聞いてみましたが、VDSL方式での「二口契約」はできない、という回答ばかりでした。
どうしてunexto光01は、二口契約が可能だったのですか? 
いま私がつかっている回線はほんとうに二口なのですか? 
8 月に起きた回線障害は、二口契約にしていることと関係があるのですか? 
ほんとうは一口なのに、二口分の料金をとっていたということでしょうか。


(6) 2021 年9 月2 日 19:27"U-NEXT 光01カスタマーセンター" 

谷内 修三 様

U-NEXT光01カスタマーセンターです。
ご申告の内容につきまして、担当者よりお電話にてご説明させていただきたく存じます。つきましては、お手数ではございますが以下の項目につきまして
可能な範囲でご返答をお願いいたします。

===========================
連絡先  :第1 希望、第2 希望(携帯電話と固定電話など)
連絡希望日:第一希望○月○日、第二希望○月○日、第三希望○月○日( 必ず第三希望までご記載お願いいたします)
指定時間帯:①13~15時まで/②15~17時/③17~19時まで/④19~19時半まで

※即日のご希望ですと、ご要望に添えない場合がございます。
 別日で第三希望まで記載いただけますと幸いでございます。
===========================

お手数をおかけしてしまい誠に申し訳ございませんが
ご返信のほどよろしくお願いいたします。


(7)2021年9 月2 日 20:36谷内修三

私の家の電話は録音機能がついていません。前回のように、口頭で言ったこととメールとでは内容が違うというのでは、埒が明きません。私は眼が悪いのでメールよりも電話での応対のほうか容易ですが、嘘をつかれても「証拠」が残らないので困ります。メールで答えてください。
私の住んでいるマンションでunexto光01と契約している件数は何件なのか言えない理由の根拠となっている法律の「条項」を明示してください。
二口契約しているが、回線使用は1回線ではないのか。料金を二重取りしているのではないか。
光回線の総合窓口(オープンプラット)にVDSLタイプの回線整備(設置)について訪ねてみたら一回線の取り出し口を2箇所にする場合は工事が必要になるが、2回線を使用することはないという説明だった。個別にいくつかの回線業者にも聞いてみたが、どこも1回線の契約しかできないという返事だった。
いったいどういう「配線」をしているのか説明してほしい。
また工事業者について、今井は、子会社であり名前が言えないと言った。さのは「アルテリアネットワーク」と言った。今井が名前を言えないと言ったがと問いただすと、さのは今井は「アルテリアネットワーク」の名前は出している。その子会社の名前は言えないといった。録音を聞いたと言った。そこで私がもう一度、「unexto光01がアルテリアネットワークに工事を委託し、その委託を受けた業者の名前を言えないということか」という趣旨の質問をした。さのは「そうだ」という趣旨の答えをしている。ところが16日に工事をした業者は「アルテリアネットワーク」と管理業務をしている女性に語っている。チラシのようなものが掲示板に張り出されていた。そのチラシには「光ネットワークがこのマンションで利用できる」趣旨の文言が書いてあった。電話番号に連絡してみるとアルテリアネットワークは回線事業を unexto 光01に譲った、いまは回線事業はしていないという返事で、わざわざ unexto 光01の電話番号を教えてくれた。
いったい誰が「嘘」をつきはじめたのか。どこまでが「真実」なのか。

(8) 2021 年9 月4 日 20:08"U-NEXT 光01カスタマーセンター" 

谷内 修三 様
U-NEXT光01カスタマーセンターです。
ご質問の件、以前のお電話にてご説明させていただいた通信事業者法につきましては第4 条が該当致します。

なお、物件内の契約者数につきましては上記ならびに弊社個人情報保護方針に基づき保護されている個人情報に該当しませんので然るべき部署にて確認を実施することで開示が可能でございます。
※お部屋番号等を含む場合は上述の規定に基づき開示を差し控えております
当時ご案内をおこなったオペレーターがお客様のご要望を正しく汲み取ること出来ずご希望に沿った形で回答を差し上げることが出来ておりませんでしたこと、お詫び申し上げます。

また、お客様のお部屋にはU-NEXT光01の回線が2 契約分開通しておりますがそれぞれご契約者様名義が異なっております。
弊社は本サービス用通信回線ごとに1つの会員契約を締結しておりますので同一住所に別名義にてそれぞれ契約することは可能でございます。
上記の場合、配線につきましてはマンション内の共有部機器よりお客様のお部屋の別の電話線差込口へ別個に開通処理が実施されているかと存じます。
併せてご質問いただいた工事作業員に関するご質問につきまして現在もU-NEXT光01の回線事業元はアルテリアネットワークスでございます。
※詳細は以下URL をご参照ください
■運営会社の変更について
https://bb01.unext.co.jp/succession 

通信障害やお客様宅への個別訪問につきましてはアルテリアネットワークスが調査の実施ならびに作業員の稼働調整をおこなっており派遣する作業員はアルテリアネットワークスが自社業務を委託している組織に所属しております。

上記より、アルテリアネットワークスが業務委託を依頼している会社名をお客様へ開示することは出来かねますが、業務委託先の作業員が訪問時に「アルテリアネットワークス」を名乗るケースも起こりうるかと存じます。

お客様へは分かりづらい案内となっており大変恐縮ではございますが上記ご参照の程お願い致します。

何卒よろしくお願い申し上げます。

(9)2021年9 月4 日 21:22谷内修三  

ご質問の件、以前のお電話にてご説明させていただいた通信事業者法につきましては第4 条が該当致します。
↑↑↑↑
契約口数を言えない、根拠として「さの」が口頭で答えたのは「百何条」かであって( 百五十何条、とさのは言ったと記憶している。unext 光01では電話の会話を録音しているとさのは答えていた、今井と私が会話したときはさのは休みだったが、あとで録音を聞いたと言っているので、確認してほしい) 、「第四条 電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない。2 電気通信事業に従事する者は、在職中電気通信事業者の取扱中に係る通信に関して知り得た他人の秘密を守らなければならない。その職を退いた後においても、同様とする。」ではなかった。
この第4条は、憲法の第20条の2 項の「通信の秘密は、これを侵してはならない」に通じるものであって、これは通信事業だけではなく、あらゆる事業に通じること。どの業界でも、「個人情報は事業以外にはつかいません、と明言している。そういうことは私は既に知っている。だから、名前も部屋番号も聞いていない。契約口数だけ質問している。メールにも「契約口数を明示しろ」としか書いてないし、電話でも何度もそう伝えている。
なお、物件内の契約者数につきましては上記ならびに弊社個人情報保護方針に基づき保護されている個人情報に該当しませんので然るべき部署にて確認を実施することで開示が可能でございます。
↑↑↑↑
「開示が可能」であるなら、なぜ、即座にその契約者数を書かないのか。なぜ個人情報保護のために答えられないと、今井もさのも言い張ったのか。さらに、メールでは、カスタマーセンターが全部の問題に対処していると書いている。「然るべき部署」とはどこのことなのか。

弊社は本サービス用通信回線ごとに1つの会員契約を締結しておりますので同一住所に別名義にてそれぞれ契約することは可能でございます。
上記の場合、配線につきましてはマンション内の共有部機器よりお客様のお部屋の別の電話線差込口へ別個に開通処理が実施されているかと存じます。
↑↑↑↑
「存じます」とは、だれが「存じ」ているのか。だれが、どのような方法で確認したのか。
8 月12日のメールでも「いただいた内容につきましては弊社回線ではなくご利用の機器側の設定により発生している症状かと存じます。」と「存じます」ということばをつかっている。回線状況を調べずに、そう書いている。実際に11日から回線障害が起きていた。
いったい、だれとだれが、どの部署がこの件について関与しているのか、なぜ明確にできないのか。どこの企業でも、メールにしろ電話にしろ、かならず「名前」を名乗る。私は「今井」と「さの」の名前は聞いたが、カスタマーセンターは今井、さのの二人だけで営業しているのか。

アルテリアネットワークスが業務委託を依頼している会社名をお客様へ開示することは出来かねますが、業務委託先の作業員が訪問時に「アルテリアネットワークス」を名乗るケースも起こりうるかと存じます。
↑↑↑↑
「アルテリアネットワークスが業務委託を依頼している会社」と書いているが、アルテリアネットワークス自体は業務をしていないと言うことか。その場合、問題が起きたとき、アルテリアネットワークスが責任をとるということか。「そこまでは知らない(unext光01は関知、関与しない) 」という意味か。私が電話したとき「アルテリアネットワークス」は「光回線事業についてはunexto光01に問い合わせてくれ」と答えている。これでは、問題のたらい回しだろう。ここでも「存じます」と書いているが、だれが「存じ」ているのか。「存じます」だけでは、どこにも「事実」がない。
明確に答えてほしい。


(10)2021年9 月11日 9:03 谷内修三

再送です。
9 月4 日に、以下の内容のメールをしています。なぜ、私の住んでいるマンションでの契約口数の返答がないのでしょうか。また、ほんとうに二本の光回線が配電盤まできていて、そこから個別の二部屋に電話回線とつながっているのでしょうか。なぜ返答がないのでしょうか。
***********9月4 日送信のメール。********************
(省略


(11)2021年9 月21日 8:34 谷内修三

なぜ、質問に答えないのか。
マンションでの契約件数は回答しても個人情報保護には違反しないから答えることができるといいながら、回答しないのはなぜか。さらに、通信障害が発生した期間の使用料金は引き下げると言っていたが、どうなったのか。どういう計算で、いくら引き下げ、いつそれを実施するのか。
何の連絡もない。
私は何度か目の都合が悪いと訴えている。目が悪いから放置しておけばいいという判断なのか。
引き下げ料金自体は高額ではないと思うが、引き下げると言っておいて、それを実施しないのなら警察に被害届を出します。
引き下げに当たっては、誰が(どこの部署が)誰に(どの部署に)指示したのか、社内での「文書」があると思うので、それを添付して説明してください。
何度も書きますが、この問題の責任者はいったい誰なのか。さの(文字、不詳。女性と思われる)と今井(男性と思われる)のふたりは電話で名前を名乗ったが、その二人が共同責任者と判断していいのか。
そのことも合わせて知らせてください。警察への被害届を提出するためです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂多瑩子「おまけ」

2021-09-21 10:30:48 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「おまけ」(「すぷん」4、2021年夏発行)

  坂多瑩子「おまけ」は省略して引用するのがむずかしい。作品自体に省略が多いからだ。

非常事態宣言ですこし遠くのスーパーに行くようにしたら
おなじ人を見かけるようになった

きょうは
その人 坂の手前のパン屋のかどをひょいと曲がった
つられて曲がると

わっ
ぐらんどみたいな
空地
ひとっこひとりいない

タケオに似ていた あれっ
埒もないこと考えながらパン屋に寄ってイギリスパンを買って帰った

布巾を洗って麦茶を沸かし
家事の終わりはいつもと同じように終わったが

「おれは、パンに夢をくっつけて食ってるんでさあ」
という一行を菅原克己の本から見つけた

するとちょっぴり夢がふくらんで
なにかを追っかけるようにあたしは走っていた

やぶれたフェンスをくぐると

履物屋
バス停
右に曲がると
小学校
空色のろくぼく

タケオだ ろくぼくの横に立っている

カンナが一列に 黄色

あの道を曲がったところだとあたしは思い
早く行けよ
遠い夕暮れで彼はいうのだった

 実は、この作品を朝日カルチャー講座で読んだ。書かれていることばそのものに難解なものはない。だが、詩を読み慣れていないと、すこし難しいところがある。説明がないからだ。書き出しの「非常事態宣言ですこし遠くのスーパーに行くようにしたら」にも省略がある。非常事態宣言はコロナの非常事態宣言である、ということはすぐに分かる。すぐに分かるから、分かった気持ちになるが、なぜ「少し遠くのスーパー」? これは、分かりにくい。近くのスーパーは人が多いから人の少ないスーパーを選んだということかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。「理由」なんて、どうとでも付け加えられるから、ここは分からなくていい。分からなくいいけれど見落としていけないのが「すこし遠く」という「感覚」。知っているけれど、ふつうは行かない。そして、その知っているけれど、という感覚が、この詩では大事。「おなじ人を見かけるようになった」とさりげなく書かれているが、なぜ「おなじ人」に目が行ったのだろうか。きっと「何か」を思い出したのだ。それが「タケオ」につながっていくのだが。「すこし遠い」けれどは、知っている。そういう関係にあるのだ。
 でも、これが、即座にはわからない。「タケオってだれ?」と受講生に聞いてみると、答えにつまる。「誰って?」「たとえば、夫とか、恋人とか」「夫じゃないことは分かるけれど、恋人でもない感じ」。そこで手がかりを探す。「タケオだ ろくぼくの横に立っている」。これは小学校の体をつかった遊び道具「ろくぼく」の横にタケオが立っているということ。でも、タケオは小学生か。たぶん小学生のときの友達なっだろう。その「タケオに似ていた」から「おなじ人」に目が行ったのだ。ふと、タケオの後をついて行ってしまったのだ。小学生のときのように。
 そこで見かけた空き地。バブル崩壊後、日本のあちこちにある空き地。そこから「ぐらうんど」を思い出す。小学校のグラウンドだ。
 それやこれやの間に、「家事」の日常が紛れ込む。
 「おれは、パンに夢をくっつけて食ってるんでさあ」という一行が突然だけれどとてもおもしろい、という声が受講生から聞かれた。「そして、この一行のあと世界がどんどん変わっていく」とも言う。
 ここからが、ポイント。
 「でも、そのパンは、突然のようだけれど、突然じゃないよ。前にパン屋が出てくる。パン屋に寄ってイギリスパンを買って帰った、という行もある。突然のようだけれど、ことばがつながっている。どんかわるけれど、つながりもどんどん見えてくる。夢ということばは、次の連にも出てくる。夢ということばで連がつながっている」
 そこから詩の中にある「つながっていることば」を探してみる。「ぐらうんどみたいな/空地」はそのまま「小学校」のグラウンドにつながるだろう。それから「空地」と「小学校」の前には「曲がる」という動詞がある。角を曲がると「空地」、角を曲がると「小学校」。昔の子供の遊び場は、「空地」か「小学校のグラウンド」。走って行って、走って遊ぶ。何を追いかけているかわからないけれど、何かを追いかけていたかもしれない。走って、角を曲がると、今まで見えなかったものが突然見える。「あの道を曲がったところ」に何かがある。
 さて。最終行の三行。「早く行けよ」というタケオ。「これは、どこへ行けよ、といっているのかな?」私はまた訪ねてみる。「夕暮れ」を手がかりにすれば「家へ行けよ、家へ帰れよ」ということかもしれない。遊び場をグラウンドから空き地にかえて(学校から空き地に移動して)遊び呆けている。日が暮れてくる。「早く帰れよ」とタケオは、そういうことも言ってくれるような、ちょっと「おとな」の子供だったのかもしれない。
 まあ、こんなことは、どこにも書いていない。
 だから「誤読」なのかもしれないが、詩は(詩だけではないが)、みんな「誤読」で成り立っている。人の言っていることを「正確に理解している」わけではなく、そのことばを自分なりに受け止めて納得している。だから坂多が「書いていることと違う」と言っても、そんなことは気にしない。坂多が書いていることばを通して、私は私の知っていることを「読む」。そして、受講生にも、自分なりに「読む」ということを提案する。
 そして、「読み」をつづけながら、この詩は、ふと小学校のときの友達の面影をのこす人を見かけ、子供のときを思い出した。友達のことを思い出して書いているんだなあ、と考える。それはまた自分自身の小学校のときの友達、何をして遊んだか、どこで遊んだかというようなことを思い出すんだけれどね。
 「小説のなかの、印象的なシーンをピックピップしたような感じの詩だ」
 受講生のひとりが、そう感想をもらした。これは、とても重要なポイント。詩を書き始めたころ、多くの人は「小説」のように「ストーリー」にしたがる。「ストーリー」にしないと「意味」がつながらないような不安に襲われる。でも、何かを思い出すときというのは「ストーリー」ではなく、断片なのだ。断片の背後にはもちろん「ストーリー」もあるだろうけれど、「ストーリー」の上を、イメージが飛び越えてつながっていく。
 「ストーリー」を「意味」と読み替えると、詩の姿がもっと鮮明に浮かび上がるかも。詩は「意味」ではなく、「意味」を飛躍したものなのだ。

 というようなことを語りながら、私は、私の「誤読」にもこだわる。
 私がこの詩でいちばんすごいと思ったのは、

布巾を洗って麦茶を沸かし
家事の終わりはいつもと同じように終わったが

 この二行。ここには「タケオ」や「空地」「小学校」のようななつかしい思いではない。いわゆる「詩的」なものにつながるイメージは何もない。詩からは遠い「散文」が紛れ込んだような、奇妙な言い方をすると、「わくわくする」感じがない。むしろ「がっかり感」の方が強い。いつもとおなじ「日常(家事)」が終わるのだ。何も変わったことばないのだ。この二行だけを取り出すと、どこに詩があるのかわからない。単に一日の終わりを改行して書いただけのように見える。
 でも、これがすごい。
 何も変わらないという「事実」が、不意に思い出した「懐かしいもの」を揺さぶる。揺るぎない事実があるから、思い出の中へすっと入っていける。また、この事実(日常/家事)へ戻ってくることもできる。深くは語られていないが、この静かな「認識」が、この世界を支えている。このことから、これを「日常の経験」を改行し、説明を省略しただけの作品と呼ぶこともできるかもしれないが、私は、そうは思わないのだ。
 散文の力が詩を支えている、と感じる。
 こんな例がいいのかどうかわからないが、大岡信、丸谷才一、石川淳らがやっていた「歌仙」を思い出す。大岡や丸谷は、なんというか、ちょっとまねして書いてみたくなる「鮮やかな一句」を書く。ところが石川は「一句の屹立(鮮やかさ)」を狙っていない。ひたすら句を突き動かす「運動」主体のことばを書いている。「散文的」なのである。
 この不思議な、現実的な力が、

カンナが一列に 黄色

 という詩を支えている。忘れることのできない風景を支えている。それはどこに咲いていた一列なのか。坂多は書かない。どこに咲いていてもいい。思い出しているのは「カンナ」であり「一列」であり「黄色」なのだ。
 「早く行けよ(帰れよ)」と言われたときに「タケオなんか大嫌い」と思って、にらむように見たのが、そのカンナかもしれない。「大嫌い」はもちろん「大好き」と言えないときに言ってしまうことばなんだけれど。
 「おばさん詩」って、やっぱりいいなあ、と思う。私は坂多にあったことがないから、よくわからないが、私は勝手に「おばさん」と思っている。

 この感想も、野沢啓の『言語隠喩論』に対する疑問として書いた。野沢は坂多の詩を堂読むか、それを知りたい。
 

 

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天童大人『ドラゴン族の神-アンマに-』

2021-09-20 09:54:15 | 詩集

天童大人『ドラゴン族の神-アンマに-』(七月堂、2021年08月30日発行)

  天童大人は声が大きい。詩を、大声で読む。そのことが詩集にも書かれている。わざわざ書くことではないのかもしれないが、きょう取り上げるのは、大声ではない詩である。「Bine・Bine」。どう発音するのかもわからないが、私はこの詩から「大きな声」ではないが、「揺るぎない声」を聞いた。

  白いシーツの上
  健やかにのびる淑やかな黒い肢体
  遠目には誰にもわからない

  Bine・Bine

  微かに腰を動かす度に
  触れ合い沸き立つ

  Bine・Bine

  決して他人には
  見せてはいけないもの
  誰にも見せられないもの

 「Bine・Bine」が何かわからない。誰かの「声」だろうか。そう想像してしまうのは「シーツの上」「黒い肢体」という状況と、「腰を動かす」「触れ合う」「沸き立つ」という動詞、さらには「他人には/見せてはいけないもの」という禁止のことば。どうしてもセックスを思い浮かべる。
 そう思っていると、詩は、こう展開する。

  Bine・Bine

  静かなベッドで生みだされる音
  の調べを聴く
  と男と女の愛の営み
  の深さが分かると

  Bine・Bine

 やはりセックスを描いている。でも「Bine・Bine」は何? まず「静かなベッドで生みだされる音」と説明され、「音」は「調べ」と言いなおされる。「音」はきっと人間の耳に入り、人間の「肉体」のなかで「調べ」にかわる。「肉体」によって浄化された「音楽」。
 「声」かもしれない。ベッドのきしむ「音」かもしれない。あるいは肉体が「触れ合う」ときの「音」かもしれない。肉体が「触れ合う」とき肉体の奥から「沸き立つ」官能の「声」かもしれない。
 でも、その「音/声」を聞くのはなんだろう。「耳」だろうか。「耳」を超える何か、「肉体」そのもの、「肉体」を統合している「力」かもしれないなあ。「肉体」の外で鳴る「音」ではなく、「肉体」のなかで鳴っている音。それが聞こえるのは、「愛の営み」をしている二人だけである。
 「決して他人には/見せてはいけないもの/誰にも見せられないもの」とあったが、「見せた」としても「聞こえない」だろう。「調べを聴く」のは愛を営んでいる男と女だけなのである。

 世界には、他人には「聞こえない声」がある。

 これを「大声」で叫ぶには、難しい。大声を発してしまえば、その大声に「聞こえない声」がかき消されてしまう。
 でも、ことばにしたいのは、その「聞こえない声/音」である。

  Bine・Bine

  揺れる車中
  恥じらいながら
  聲を落として教えてくれた美形の詩人
  の握りしめた掌のなかに
  強い香りを塗り籠めた黒いBine・Bine

  これがほんとうのBine・Bineなのか

 「Bine・Bine」は「音/声」ではなく、「もの」なのか。いったい何なのだろう。
 詩は、こう締めくくられる。

  彼女の原色鮮やかな括れた衣服の内に
  巻きつき擦れ合い見えぬ

  Bine・Bine

  から 一瞬 烈しく触れ合う音が聴こえた

 差し出された「Bine・Bine」という「もの」ではなく、天童が受け止めるのは、あくまでも「Bine・Bine」という「音」である。そして、その「音」を天童は「Bine・Bine」という「声」にする。
 美形の詩人の「肉体」で鳴っている「調べ」を、天童の「肉体」が聴き取り、それを「ことば」の調べにかえる。ここに、「肉体」が「声」を発するときの不思議な「共感」があるのだが、さて、これを「どんな大きさの声」で発するのか。「大声」では「聞こえない音」はかき消されてしまうかもしれない、と私は最初に書いた。しかし、それはあくまで他人が発している「音/声」である。もし、それが天童の「肉体」をくぐり抜けた後ならば、どんな「大声」でも、その秘密の「調べ」は聴こえるだろう。「大声」を圧倒して、強い余韻のように「大声」の底から沸き上がってくるだろう。
 そういうことを思った。
 私は、詩の朗読を聞くのが好きではない。「ことば」は自分のペースで読みたいからである。私は「ことば」を聞くのではなく、「ことば」を読んで「ことば」で考えたいからだ。
 しかし、この詩は、「朗読」を聞いてみたいと思った。「Bine・Bine」がどういう「音/調べ」で「声」にされるのか聞きたいし、それが実際に私の耳にどう響くかを確かめてみたいと思った。それがどんなものであれ、そこには天童の「肉体」を通り抜けることでたしかなものになる何か、揺るぎない何かがあるはずだと思うからだ。

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇101)Roberto Mira Fernandez

2021-09-19 15:08:06 | estoy loco por espana

Roberto Mira Fernandezを見たときの最初の印象は絵画的ということである。
どこが絵画的なのか。

写真でしか見たことがないから間違っているかもしれないが、作品を見るときの位置が固定されている印象がある。正面から見なくてはいけない。

横からはもちろん背後から見てもいけない。いけないということはないかもしれないが、たぶん横や背後から見られることを想定していない。これはRoberto Mira Fernandezが絵を描いていること、芝居をやっていることとも関係しているかもしれない。絵や芝居には「背後」から見るという習慣がない。作品も「正面」を向いて見る人と対面するのだ。

 

さらに、別の印象にも、絵画、芝居のイメージが入り込んでくる。

まず、絵画。

二つの作品は、どれも不思議なバランスを保っている。倒れそうで倒れない。まるで絵画なのだ。絵画は絶対に倒れない。逆さまにしてさえ倒れないのが、絵画の中に描かれた世界だ。不安定な形であるのに、その不安定を維持している。不安定であることが、Roberto Mira Fernandezにおいては安定なのだ。そして、私はその不安定に誘い込まれていく。

そのとき、芝居の印象が作品の背後からやってくる。

芝居では、役者は突然あらわれる。小説のように「背景」説明されない。役者は登場人物人物の「過去」を肉体で感じさせなければいけない。透明であってはいけないのだ。

Roberto Mira Fernandezの不思議な形は、「私には過去があります」と主張している。「過去があるから、こういう形をしているのです」と告げる。その過去に耐えてきて、いま、ここにあるから、それが不安定に見えても過去に耐えてきた時間がその不安定を逆に安定させる。

これはなんだろう。「過去」とはなんだろう。

まだわからない。
わからないからこそ、私はそれを見てみたいと思う。

 

*

 

存在が形になるまでには「過去」がある。
形になってしまった作品は「いま」の姿しか見せない。
何を経験してきたから、いまの姿になったのか、自ら語り、説明し、共感を強要したりはしない。
こうした作品の前では、鑑賞者は自分の過去と向き合わないといけない。
私はどうして私になったのか。

そう自問するとき、Roberto Mira Fernandezの彫刻は、この不安定なのに直立している形の背後にあるものを語り始めるだろう。
それまで私は自問する。

なぜ私はこの作品の前に誘われ、見つめ合っているか。

答えが見つかったとき、きっと作品を抱きしめたくなる。

そういう作品だ。

Hay un "pasado" antes de que una obra se convierta en una forma concreta.

La obra que ha ido tomando forma sólo muestra la apariencia del "ahora".

No habla de lo que ha experimentado el trabajo y cómo se ve ahora. Por supuesto, no fuerza la empatía.

Frente a estas obras, el espectador debe enfrentarse a su pasado.

¿Por qué me converto en yo? ¿Por qué me encuentro contigo?

Al preguntarse eso, la escultura de Roberto Mira Fernández comenzará a decir qué hay detrás de esta forma inestable pero erguida.

Hasta entonces me pregunto.

¿Por qué me invitan a mirar este trabajo?

Cuando encuentres la respuesta, seguramente querrás abrazar tu trabajo.

Es un gran trabajo.

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓『言語隠喩論』(11)

2021-09-19 11:21:02 | 詩集

 

2021年09月19日(日曜日)

野沢啓『言語隠喩論』(11)(未來社、2021年7月30日発行)

 あとがき。
 野沢も「あとがき」を書いているのだが、その「あとがき」についての感想ではない。私がこれまで書いてきたことに対する、私自身のあとがき。
 野沢はこの本の中で「身分け」「言分け」ということばを紹介している。このことばは、とても刺戟的だった。私はそのことばを知らなかったが、読んだ瞬間、あ、これは私が考えていることに似ている、と「文字面」から思った。私は野沢が紹介している市川浩、丸山圭三郎を読んでいないので、私の考えている「身分け」「言分け」は野沢の考えている「身分け」「言分け」とは違ったものであると思う。しかし、このことばはつかえるなあ、と思ったのである。
 「身分け」「言分け」とはなにか。私たちは「肉体」をもって世界の中に存在している。世界と向き合うとき、必ず「肉体」も動く。「肉体」を動かすことで世界を確かめ、世界の中へ入っていく。これを、世界に対する「身分け」と私は勝手に理解する。「身分け」ということばをつかって、私が考えてきたことを、整理する。そして、こういう「身分け(肉体をつかって世界に入っていく)」をするとき、同時に「ことば」も動く。「肉体」を通して、あ、これはこういった方が自分の「肉体」には納得がいくなあと思い、今までとは違うことばのつかい方をする。これを「言分け」と呼ぶことができると思う。「身分け」と「言分け」には強い、密接な関係かある。「肉体の運動」と「ことば」の間には切り離せない関係がある。
 私は、この「肉体」と「ことば」の密接な関係を、誰から学んだか。ソクラテス(あるいはプラトン)、ハイデガー、マルクスである。プラトンはときどき読み返す。ハイデガーは「存在と時間」を三回読んだが理解できなかった。マルクスは読んだことがなく、私の周りで見聞きしたことを頼りに、これがマルクスとかってに思い込んでいる。この三人には共通点がある。ソクラテスはことあるごとに「靴職人」「馬の飼育係」を例に引き出す。靴職人も馬の飼育人も自分自身の「肉体」をつかって靴をつくり、馬を育てる。そのとき彼らは、私の知らない形で「肉体」をつかっている。そして、そこから「智慧」を自分自身のものにしている。「智慧」とは明確な「ことば」にならなくても、「ことば」を含んでいる。ハイデガーは「存在と時間」のはじめの方にハンマーと手のことを書いていた。手を使ってハンマーを動かす。そうすることで鉄に変化を生み出す。それは世界へ「肉体」をつかって入っていくということである。このときも「ことば」が存在するはずである。ハイデガーは「投企」というようなことばをつかっていたと思う。それはハンマーを動かす人が思いついたのではないが、ハイデガーがハンマーをたたく人間になったときに思いついたことばである。「肉体」が世界に入っていくとき、どうしてもそのことを「正当化」するための「新しいことば」が必要である。この新しいことばをつくることを「言分け」と呼ぶことができると思う。マルクスは、労働(基本は「肉体)」と金の関係を考えた。金は「ことば」そのものではない。しかし、「ことば」のように「関係」を描き出す。一枚の布がある。それをつかって上着をつくる人がいて、一方にハンカチをつくる人がいる。肉体の動かし方は違う。それは支払われる金の違いになってあらわれる。これは「言分け」というよりも「金分け」と呼ぶべきものかもしれないが、その金が1000円とか100円とか、明確に区別されるとき、それは「ことば」の区別でもある。この三人から、私は「肉体」が動くとき、世界が変わり、同時にその世界を語る「ことば」がかわるということを学んだ。それを、私は、市川、丸山、そして野沢がつかっている「身分け=言分け」とは違うかもしれないが、同じ「身分け=言分け」としてつかうのである。借用するのである。こういうことを「誤読」「誤解」「誤ったつかい方」と言うのだろうが、私は私の考えを進めるために、私なりの解釈で、ことばをつかう。他人の言ったことばを正しく理解するというのは大切なことだろうが、私は市川や丸山と対話するわけではなく、ただ自分の考えを書くためにつかうのだから、「正しさ」を気にしない。市川や丸山、野沢に、私の考えを「採点」してもらうために書くのではない。

 で、ここからが本題。
 野沢は安藤元雄の「からす」を引用し「身分け」「言分け」ということばをつかって感想を書いている。「からす」は、

さて おれはここにとまって
空がしきりと赤い方角を眺めているが
別にあれが何かのしるしというものでもあるまい
飛ぼうと飛ぶまいと おれはどっちみち
空と地面の間に閉じ込められているだけだ

 と始まるのだが、この詩に対して野沢は、「身分け」「言分け」ということばをつかってこう書く。「どこともわからない〈ここ〉から詩が開始されるのだが、〈ここ〉とはまさに詩人=哲学的カラスが未知の世界へ身をもって対峙しているスタートの地点である木の枝なのであり、それは世界に対峙する詩人の〈言分け〉の姿勢なのであって、そこから最初に分節される〈空がしきりと赤い方角〉とは夕陽のことをさしていることがあとでわかってくる。(略)詩人=哲学的カラスは動かないという断固たる選択をおこなうことによってじつはみずからの詩を、この対象たる世界にたいしてのひとつの身分けの行動を発動しているのである」。
 私なら、こう書く。枝に止まって動かないという「肉体」のあり方が世界に対する「身分け」である。それは「とまっている」という動詞で表される。そして、その動かないという姿勢でいるとき、「とまっている自分」の外にある世界は、まず「空がしきりと赤い」ということばで言い表される。「言分け」される。そして、その「言分け」された「空がしきりと赤い(方角)」は「眺める」という動詞(肉体の動き)」によって完結される。「見分け=言分け」が一体になった動きを「分節する」と言いなおすことができると思う。
 安藤のこの詩の「肉体」の動きは「とまる/眺める」である。「とまる」は詩の後の方で「枝に載ってさえいれば」「枝を一本掴んでいるだけで」と「載る/掴む」と言いなおされているが、「とまる」は「閉じ込められる」にも通じるだろう。「とまる」には「閉じ込められる」という「隠喩」が隠されていることになる。そして「とまる」の反対の動詞としては「動く」がある。「閉じ込められている」ものは動けないが、閉じ込められていないものは「動く」。動かないまま、動くものを、眺める。それがこの詩の「肉体」のあり方、「身分け」の姿勢であり、その姿勢から世界かどう認識されるかが言語化(言分け)されるという構造を持っている。
 「〈空がしきりと赤い方角〉とは夕陽のことをさしていることがあとでわかってくる」と野沢は書いているが、カラス、空が赤いなら、これは夕焼け(夕陽)のことであるのは、あとで補足されなくても、多くの日本人なら想像してしまう「定型」の風景だろう。夕焼けの赤は、当然のことながら変化していく。暗くなっていく、というのも「常識=定型」である。定型を利用しながら、安藤は、カラスは枝に「とまっている」が、そのときも世界は「動いている」を暗示している。「隠喩」している。
 そして、その後、「とまる」と「動く」の想像力の交渉がある。「言分け」が進み、詩の世界が展開する。その過程で、

飛び立ったが最後 おれの体はたちまち散らばって
嘴だの目玉だの何枚もの羽根だの
その羽根の軸だのということになる
(略)
或いは輪の中心に死んでいる一匹の鼠
を見つけるまでは
おれは密度がゼロになるまで拡散し
それから鼠の上で収斂するのだ

 と、もし「とまる」ではなく「飛ぶ」ならば、世界はどう分節(身分け=言分け)されるかが書かれている。これは飛んでいる自分の姿を想像し、それを眺めているのである。「飛ぶ」ときは肉体のさまざまな部分を酷使する。「足」でとまっているときとは違う。目も嘴も羽根も動かし、鼠に襲いかかる。(それは死んでいる鼠だが)。餌を見つけるまでは、「世界」の中を飛び回る。飛び回ることで、カラスが「世界」を動かすのである。それは羽根の動きが、そのまま世界の動きになるのである。「眺める」は、「動かない」ものを探すことに従事する。獲物を探すから、「肉体」は動く。それを「安藤は「散らばる」と書いている。そして、獲物が発見されたら「照準」のずれが「ゼロ」になり、つまり「肉体」も一点に向かって収斂し、鼠を手に入れる。世界は完全に「停止」する。この世界の完全な一体化、完全停止がカラスの理想である。これは逆に言えば、このカラスは飢えて木の枝の上にとまっている。死んだ鼠さえ自分のものにすることができないということだ。それくらいに「肉体」が弱っている。だからこそ、「飛び立ったが最後 おれの体はたちまち散らばって」と自分の死も予想する。そして、そこから他のカラスを見ているのである。他のカラスだって、やがて自分のようになる、と「眺めている」。世界が、一匹の鼠のように、完全に停止することを待っている。「あの鼠、殺さなければ死んでしまう」と言ったのはベケットの戯曲の中の誰だったか知らないが、このカラス、殺さなければ死んでしまうというくらいの状況の中で、まだ世界へと入っていっているのである。「ことば」は、そんなふうにいつでも「生きている」のである。生きていけるのである。
 詩は、こう結ばれている。

おれが目をつぶったところで
ここに平べったく降り注ぐ光
は相変わらずだ
まだああやって赤い方角からよろよろ帰って来る奴らが
全部揃って目をつぶることが必要なのだ
そうすれば夜が来るだろう 顔のない夜が
それまでは いま暫く
どすぐろい羽根の軸でも嘴でこすってやるだけだ

 書き出し二行目の「眺める」は「目をつぶる」にかわっている。「目をつぶる」は単に眠るではない。「永眠する/死ぬ」である。まだカラスは死んでいないが、死ぬことによって永遠に生き続ける「隠喩」になる。「死んでいる一匹の鼠」ということばのなかの「死ぬ」という「動詞」の重さを見逃してはいけないと思う。「とまる」は「死ぬ」でもあるのだから。
 野沢は簡単に「哲学的カラス」と書いているが、それが不満だったので、「あとがき」という形で追加しておくことにした。

 私は詩を読むときにかぎらないが、ことばを読むときは「動詞」に注意して読む。「動詞」になら、自分の「肉体」を重ねることができるからである。私は、精神やこころというものもほんとうに存在しているかどうかあやしく感じている。左手はこれ、右足はこれ、と確認することができるか、精神やこころが果たして頭にあるのか、小腸にあるのか、指先にあるのか、わからない。そのときそのときで場所をかえるかもしれない。わかるのは「肉体」があるということだけだから、「肉体」を動かす「動詞」と、動いた肉体が見つけ出すものを読むしかないな、と考えている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする