詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木忠栄「母親・父親・兄」

2019-08-31 22:30:20 | 詩(雑誌・同人誌)
八木忠栄「母親・父親・兄」(「交野が原」87、2019年09月01日発行)

 八木忠栄「母親・父親・兄」は、たぶん、ほんとうのことなんだろうけれど、嘘であってもかまわないくらいに楽しい。八木の結婚前のことが書いてある。いわゆるデートの様子が書いてある。
 デートに、N子の母親がついてきた。それで、何があったかというと。

御苑を出て間もなく三人で入った新宿の食堂で、カレーライスを注文した。その
とき私は、実家でしていたようにカレーライスにソースをかけて食べた。母娘は
遠慮がちに驚いていたようだ。そのことははっきり今でも憶えている。

 いや、何があったかというより、何を覚えているか。問題は、これだね。覚えていることだけが、ことばになる。そして、その覚えているということは、不思議な「広がり」をつかみとる。
 あ、そうだった。昔は、カレーライスにソースをかける、ということは特に珍しいことでもなかった。食堂にソースが置いてあった。そのソースも一種類ではなく、ふつうのソース(?)とは別に「豚カツソース」というものまであったなあ。「薬味」が加わって、ソースよりも「どろどろ」感が強い。
 きっと昔のカレーはまずかったのだ。カレーを食べるというよりも、大げさに言えば、ソースで味付けして、なんだかよくわからないものを食べるという感じ。
 しかし、詩の眼目は、そこにはない。

母娘は遠慮がちに驚いていたようだ。

 八木は、カレーもソースも、その味を覚えていない。覚えているのは、母娘が八木を見ていた。その視線に八木が気づいた。母娘はカレーにソースをかけなかった。行動の違いが、「驚き」を生んだ、というそのこと。
 「驚き」は、どこにでもある。そして、それをことばにすれば、そこに詩が生まれてくる、という事実がここにある。
 この詩には、まだまだつづきがある。「父」も「兄」も出てくるが、彼らが出てくる前に、母親がもう一度登場する。二度目のデートだ。

             唯一記憶に鮮明なのは、母親が手作りの栗ご飯のお
にぎりを持参したこと。その素朴さに内心驚いた。母親と、栗ご飯のおにぎり付
きデート。両者は妙にしっくり符合していた。

 今度は、八木が驚いている。
 いや、カレーのときも、八木は驚いたんだろうけれど、母娘の驚きによって八木が驚かされた。今度は、母娘は驚いていない。当然と思っている。(か、どうかは、わからないけれど。)
 で、この「驚き」。八木は「内心驚いた」と書いている。表にはださなかった。でも、つたわっただろうなあ。「内心驚いた」は「遠慮がちに驚いた」とは違うんだけれどね。この「違い」もおもしろいなあ。
 覚えているのは、もしかすると、「遠慮がちに驚いた」と「内心驚いた」の違いかもしれないぞ、とさえ私は思うのだ。「驚く」という「動詞」が書かれていなかったなら、この詩はぜんぜん違っていただろうなあと思う。
 これに比べると、後半、父と兄が出てくる部分は、ちょっとつまらない。兄の行動は風変わりだが、つまらない。なぜかなあ、と言えば、そこには「驚き」が書かれていない。事実は「驚き」によって、強いものに変わるのだと教えられる。







*

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ナディーン・ラバキー監督「存在のない子供たち」(★★★)

2019-08-30 21:58:02 | 映画

ナディーン・ラバキー監督「存在のない子供たち」(★★★)

監督 ナディーン・ラバキー 出演 ゼイン・アル・ラフィーア

 この映画の感想を書くのはむずかしい。私自身の「視点」をどこに置いていいか、悩んでしまう。そして、悩んでしまうということこそが、この映画が告発していることかもしれない。
 悠長に悩むなよ、と怒っている。
 悩みは、苦しみではない。
 主人公の少年は苦しんでいる。悩む暇などない。両親もまた苦しんでいる。彼らもまた悩む暇などない。どうしようか、考えない。考えても答えがないからだ。そして、この苦しみは、誰かに代わってもらうことができない。いつも直接的だ。
 と、飛躍する前に、悩むことについて思いを巡らしてみる。
 とても興味深い男がいる。少年が家出をし、助けを求めたエチオピアの不法移民。彼女には赤ん坊がいる。その子供の父親である。一緒に暮らしているわけではない。市場で店を開いている。そこへ主人公が赤ん坊を連れてやってくる。彼が父親だから、赤ん坊の父親に助けを求めるのだ。
 この男は、苦しまない。悩みもしない。どう行動するか、もう結論が出ているからである。悩むことを放棄し、ただ行動する。子供に金をやる。食べ物をやる。
 ここに、何か恐ろしいものがある。
 「結論」が出てしまっている、という恐ろしさだ。
 見回せば、世界はすでに「結論」だらけである。少女は生理が始まれば結婚させられる。不法移民は発覚すれば追放される。偽造の身分証明書と金があれば、スウェーデンへ行ける。世界には、いくつもの「結論」がある。ひとは、そのどれかを選択するのではない。選ぶ権利、選択を悩むということが許されていない。
 これは、そういう苦しみを生きていない人も同じである。
 不法移民は逮捕する。犯罪者は刑務所に入れる。もちろん裁判もあるが、それは「結論」として裁判があるからであって、裁判をとおして人間を再生させるためではない。「結論」を「結論」らしくみせかけるだけのものである。

 だからこそ。

 私は、悩むということを選び取りたい。「考える」ということを選び取りたい。
 映画から離れてしまうが、いま、日本のネットであふれているのは「結論」としてのことばだけである。みんなそれぞれ「結論」をもっていて、それを基盤にして、違う「結論」を主張する人間を否定しようと、罵詈雑言をばらまいている。罵詈雑言をばらまくことを、だれも悩んでいない。言えば、それで満足している。
 考えなくなっているのだ。「結論」をコピー&ペーストして、この「結論」があるから大丈夫と思っている。なんといっても、それは自分で考えた「結論」ではなく、すでに出てしまっている「結論」だから、間違っているはずがない、と信じている。

 たぶん、この映画に登場する多くの「無名」の人間は、同じように行動しているのだ。ネットで罵詈雑言を書くかわりに、ただそこにある「結論」をそのまま採用して生きている。奇妙な言い方だが、エチオピアの不法移民の女性さえ、不法がばれないように働いて生きるという「結論」を生きている。乳呑み子をかかえているという問題があるが、それによって「結論」がかわるわけではない。ある意味で、悩まないのだ。
 少年だけが悩んでいる。妹に生理が始まれば、どうやって隠そうか。赤ん坊にのませるミルクがなくなった。どうしよう。よその赤ん坊の哺乳瓶を奪う。氷に砂糖をつけてなめさせる……。
 
 だからこそ、こう言いなおすことができる。
 
 主人公の少年は、苦しむのではなく、悩めと言っている。みんな「結論」をそのまま受け入れて、「結論」をかえようとはしない。少年は、たったひとり「結論」を変えようとして、悩み、戦うことにしたのだ。
 裁判官も、マスコミも、みんな悩んでなんかいない。「結論」が存在していて、それをすべてにあてはめようとしているだけだ。それに対して少年は異議を唱えたのだ。悩みを行動に変えたのだ。

 学ぶべきなのは、ここなのだ。悩み、行動する。そのとき、苦しみは生きる力になる。少年は、最後にほほえむ。身分証明証の写真を撮るためだが、行動こそが身分証明書であることを、少年は告げている。
 だが、こういうことを「結論」にするのは、やめておく。私は、悠長に悩むなよと叱られたことを、もっと考えてみたい。
 (KBCシネマ1、2019年08月30日)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(100)

2019-08-30 09:32:46 | 嵯峨信之/動詞
* (--そうだ)

ぼくは川霧の中から詩のFormを探してこよう

 詩のことばではなく、「Form」と嵯峨は書く。突然あらわれたこの外国語を私はどう読んでいいのかわからない。

ぼく自身を忘れなければならない
知識を 経験を
愛を
憎悪を

 これは「詩のFormを探してこよう」を言いなおしたものだろう。「ぼくを忘れる」ための方法である。「ぼくを忘れる」とは、新しく生まれ変わると言いなおせるだろう。
 知識も経験も愛も憎悪も、いままでとは違う形として生み出す。嵯峨は、その方法を自分を捨てるということのなかに見つけようとしている。日本語を「外国語」のように、新しいものとしてとらえようという「意味」をこめて「Form」ということばをつかったのかもしれない。







*

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菅井敏文『コラージュⅡ』

2019-08-29 10:48:44 | 詩集
コラージュ II: 詩集
菅井 敏文
洪水企画


菅井敏文『コラージュⅡ』(洪水企画、2019年08月25日)

 菅井敏文『コラージュⅡ』は、最初の方に書かれている詩がおもしろい。とくに巻頭の「なにものか」が楽しい。

なにものかでないことはできない
人はそこにいるところでなにものかであり
引き受けるしかないなにものかとされることで
なにものかとなっている
なにものかは生活の動力としてあり
とどまらずなり続けるものとして転質をしていく
なにものかはなにものか以外によって生じてこない
どんななにものかでも心を尽くして生きて
存在の可能性を広げるなにものかに向かうしかない
変わるも変わらないもどちらでもよいこと
なにものかでありつづけ超えつづける意志に
仮託をして流れていく

 何が書いてあるか。何も書いてないかもしれない。書くことが何もなくても、書くことはできるのである、と書くと菅井に叱られるか。
 逆に言おう。何を読み取ることができるか。何も読み取ることができない。何を読み取ることができなくても、そこに何かが書かれていたということだけは読み取れる。
 それでいいのだと思う。
 何を読み取ったと書いたにしろ、それは作者には関係がない。読み取ったことは、読み取った私の「意味」を超えない。私のなかにとどまりつづける。
 感想というものは、そういうものだ。

 私は「転質」ということばを知らない。つかったことがない。けれど、「質」が「転々」と動いていくのだろうと推測する。「とどまらず」「なり続ける」ということばが、そう読んでもかまわないと告げている。
 いちばん気に入ったのは、

なにものかはなにものか以外によって生じてこない

という一行である。逆であってもいいかもしれないが、菅井は逆は嫌いなのだ。つまり、「なにものかはなにものか以外によって生じる」ということが。菅井は「自己完結」が好きなのだ。私は「完結」が嫌いだから、「自己完結」を好む人を見ると、ふっと気がつくのである。あ、いま私は「自己完結」しそうになっていたかもしれない、と。そして、それを気づかせてくれたひとに感謝する。
 こんなことは感想ではないかもしれないが、感想ではないからこそ、感想なのだ。と、書くと「自己完結」しそうである。
 だから、別なことを書く。

 最終行は、「なにものか」ではなくなっている印象が残る。抒情になっている。抒情うになってはつまらない。

 「差異」「こてこて」も楽しかったが、めんどうくさい詩もたくさんあった。十篇くらいの小さな詩集か、あるいは逆に百篇以上の分厚い詩集か、どちらかの方が迫力があったのではないかと、ふと思った。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(99)

2019-08-29 08:09:29 | 嵯峨信之/動詞
* (一対-無数)

一からながれでる透明なピアニシモはとどまるところがない

 「とどまるところがない」の強さに打たれる。
 このときの「ところ」というのは、文法的には何というのだろうか。「ところ」というと「場所」のようだが、「場所」を超えた次元を指しているように思える。「こと」というのに似ているし、「とき」というのにも似ている。いや、そういう「名詞」で言いなおすよりも、「ところ」ということばから引き返すようにして、動きつづける「運動」そのものをあらわしているように感じる。
 「とどまる」自体は「動かない」のだが、それを否定することによって、おさえようとしてもおさえようとしても、内からあふれてくる運動。
 「一」と「無数」が対比されているように、「ながれでる」と「とどまる」が拮抗して、「動き」そのものが「具体的な力」になっている。





*

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望月遊馬『もうあの盛りへはいかない』

2019-08-28 09:32:30 | 詩集
望月遊馬『もうあの盛りへはいかない』(思潮社、2019年07月30日発行)

 望月遊馬『もうあの盛りへはいかない』には「散文形式」と「行分け形式」の作品がある。「散文」で書かれたものについて書きたいのだが、どこを引用しようか迷っている。言い換えると見分けがつかない。望月の「散文」が事実を「ととのえる」というよりも、事実を「まきちらす」性質のものだからだ。
 ことばは「現実」ではない。だから、どうしても事実をとりこぼしてしまう。ととのえればとのえるほど、それは実感している現実からは遠くなる。こぼれおちたもののなかにこそ真実があるという後悔が「散文」のなかには隠れている。隠れているだけではなく、くやしがって暴れている。これを救済するには、ことばをととのえるのではなく、こぼれかけたものを内側から強い力で押し出す、噴出させる以外にない。
 そういう思いで書かれたことばだと読んだ。

 で、ぱっと開いたページが12ページだった。

少年が蛾の群れに囲まれて発狂する。混濁した老父が芙蓉の木のしたで人骨を
処理する。老父は遅滞だが、蛾の群れがいっせいに視界を埋めつくすとわたし
の胸にそろそろと芽をだす木の存在がある。こずえのむこうで僕の胸が割れる。
「八月の温室で起こされた火事は僕のなかのないはずの瓶のなかでしずかに布
団をしいていった。」ヴァイオリン弾きが僕の眼球のなかでキャッチボールを
している。それは僕のすべてを奪って眼には投手の姿が浮かんで消えた。

 「少年」と「老父」「わたし」「僕」は、「蛾」「(芙蓉の)木」「ヴァイオリン弾き」「投手」という「対象」と向き合う。「少年」「老父」「わたし」「僕」はひとりの人間の別の呼称(そのときぎきの呼称)であるかもしれないし、別の存在かもしれない。「木」「ヴァイオリン弾き」「投手」も個別の存在かもしれないし、ある瞬間瞬間の「比喩」かもしれない。「対象」というもの、あるいはそれを認識する「人間」というものよりも、ことばは「人間存在」から「別の人間存在」へと動き続けるもの、「対象」はその動きにあわせて選択される「現実」の瞬間的事実ということになるのだろう。
 こういうことばの運動において「存在する」と明確に指摘できるのは、「ことばを動かすエネルギー」があるということだけだ。このエネルギーと、どう向き合うべきか。
 「僕のなかのないはずの瓶のなか」ということばのつらなりを手がかりにして、望月のことばは「なか」というものにこだわっている、ということができる。「なかのなか」という入り子細工の構造がそれを強調している。「なか」は「内面」であり、「精神」であると言い換えることもできる。つまり、ことばは「客観(事実)」から出発して動いているのではなく「抽象」を土台にしている。しかも、その「抽象(なか)」は「ない」のだ。「ない」からこそ、さらにその「なか(なかのなか)」をつくりだしていかなければならない。実際にそういう運動をくりかえすことで、「なか(ないもの)」のなかから「ある」を噴出させている。
 これはこれで楽しいのだが、私は手放しで楽しいとはいえない。「好み」の問題になってしまうだろうが、私は望月のことばに「音楽」を感じることができない。軽く響いているが、その軽さは「事実ではない」ということに頼っている感じがする。
 「発狂」「混濁」「処理」「遅滞」。これらの「意味」にととのえられたことばは、エネルギーの運動の「助走」に過ぎないのかもしれないけれど、「助走」が「加速」し、限界を越えていく(爆発する)という動きにはなっていない。「音楽」の出発点が「いのちち」ではないからだろう。
 こういうことは、まあ、私の印象に過ぎないのだが。

 これ以上書くと、「嘘」になるのでやめる。ことばは「結論」のためなら、どんな「嘘」でもついてしまうものだから。
 私の書いていることは支離滅裂でデタラメかもしれないが、思ったことを思った順序のまま、考えずに書いている。前に書いてしまった「結論(嘘)」を壊すために書いている。




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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(98)

2019-08-28 08:19:49 | 嵯峨信之/動詞
* (小さな港に出た)

ここに来て
海の隅に
緑が休んでいる

 「来て(来る)」「休んでいる(休む)」の「主語」は何か。海の「緑(色)」が港に来て、その港の隅で休んでいる。何もしないで、ただ緑(の色)のままに、そこにある、ということか。
 海はどこまでもつながっている。そのつながりのなかで、つながりから隠れるようにして、そこにある緑。
 それは嵯峨の自画像だ。
 書き出しの「小さな港に出た」の「出る」という動詞がとても興味深い。港に来ようとしていたのではない。歩いていたら港に出会ったのだ。「出会い」の「出る」なのだ。
 それは隠れていた自分自身との「出会い」でもある。

 「油津港」という註釈がついている。





*

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デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)

2019-08-27 20:22:07 | 映画
デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)

監督 デクスター・フレッチャー 出演 タロン・エガートン

 見始めてすぐ、これはスクリーンではなく「舞台」で見たいなあ、と思った。タロン・エガートンの演技が、そう感じさせる。
 スクリーンと舞台とどう違うか。
 スクリーンは細部(アップ)を見ることができるが、肉体がカメラに切り取られるので「全身感」がない。ときには「肉体感」が逆になくなってしまうときもある。もちろんアップによって強調される「肉体感」もあるのだが。
 舞台では、当然のことながら「肉体」が切り取られ、アップになるということはない。常に全身がさらけだされ、ときには飛び散る汗がきらきら光り、息づかいまで聞こえてくる。そばにいる、という感じがしてくる。
 タロン・エガートンは、この「肉体感」が強い。ふつうの肉体(中肉中背?)という感じで、特にスマートということもない。それが「距離感」を縮める。(似た俳優に、マーク・ウォールバーグがいる。)
 で。
 おもしろいことに、この映画はエルトン・ジョンの音楽を描きながら、エルトン・ジョンと「他者」との「距離」を浮かび上がらせていて、そのことも「舞台」向きなのだと思う。
 「距離」を象徴するのは「ハグ」。幼いエルトン・ジョンが父親に「ハグして」とせがむ。しかし、父親は拒む。その瞬間に、そこにあらわれる「距離」。これがスクリーンでは「ことば」になってしまう。「舞台」なら、きっと「せりふ」を越えて、そこにある「空間」そのものが見えてくると思う。「肉体」と「肉体」の「距離」が、「距離」ではなく「空間」になってしまう。「空間」は「舞台」からはみ出し、観客席にまでつながってしまう。その瞬間、少年の「悲しみ」が観客のものになる。
 カメラのフレームは、その「距離感」の絶対性を、ときにあいまいにしてしまう。カメラのフレームによって「距離」が勝手に動いてしまう。でも、「舞台」なら、そういうことはない。観客からは、常に登場人物と登場人物の「距離」が見える。
 この「距離」に苦しみ、それをなんとかしようともがくエルトン・ジョン。なかなかおもしろい。
 映画の始まりが、エルトン・ジョンがアルコール依存症(薬物依存症)のグループに出かけて行き、そこで自分を語るというところから始まるのも、象徴的だと思う。円を描くように坐り、語り始める。エルトン・ジョンが最初に見るのは、そこに来ている「参加者」ではなく、円の真ん中にある「空間」だろう。それを、エルトン・ジョンはどうやって乗り越えるか。参加者と、どうやって「一体」になるか。まあ、「一体」になる必要もないのかもしれないけれど。ともかく、エルトン・ジョンは「空間」(距離)というあいまいな「哲学」にひっかきまわされつづける。
 それを見ながら、私はさらに、こんなことも考えた。
 私は音楽をほとんど聞かない。エルトン・ジョンも、実は聞いたことがない。大ヒットしているから、どこかで聞いているかもしれないが、これはエルトン・ジョンと思って聞いたことはないのだが。
 何度も出てくるライブシーンを見ながら、エルトン・ジョンはやっぱり「ライブ(なま)」を生きていたのだ思ったのだ。観客に誰がいるか。そのことだけで、もう、「距離」が違ってくる。「肉体」に変化が起きてしまう。
 レコードも出しているが、彼はきっとライブなしには生きられなかっただろう。ステージと観客席はわかれているが、ステージに立てば観客の存在がどうしても「肉体」に迫ってくる。その不特定多数の「肉体」にどうやって向き合うか。自分の「肉体」をどうやって届けるか。曲(音楽)だけではなく、エルトン・ジョンは「肉体」そのものを「他人」に近づけたかったのだ。そのときの「緊迫感」を生きたのだ。
 派手な衣装はエルトン・ジョンと観客を「分断」するかもしれないが、エルトン・ジョンとしてはきっと観客に近づく(観客の視線を引きつける)ための手段であり、方法だったのだと思う。
 音楽を聴かないし、ライブというものに一度も行ったことがない人間が書くと「嘘」になってしまうかもしれないが、音楽はやっぱりライブにかぎると思う。エルトン・ジョンの「声」をつかわず、タロン・エガートンが自分で歌っているのだから、ぜひ、この映画を「舞台」にのせてほしい。それが実現したら、見に行きたいなあと思う。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン8、2019年08月27日)

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(97)

2019-08-27 08:50:56 | 嵯峨信之/動詞
* (晴れた日はどこへも行くところがない)

立つたまま 水晶になり 霧になり 鶏頭の花となつて
黙つて立つている

 「立つたまま」「立つている」と繰り返される。書かれていないが「座る」と対比されている。「立つ」と視線は高い。つまり、遠くまで見える。遠くを、ここではないところを見たいから「立つ」のである。
 それを強調するのが「黙る」である。意識を集中するために「黙る」。
 「黙つて立つている」は「黙つたまま立つている」である。引用の一行目と二行目は「まま」ということばで強くつながっている。








*

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宮川朔「祖母の年譜」

2019-08-27 08:21:52 | 詩(雑誌・同人誌)
宮川朔「祖母の年譜」(現代詩手帖、2019年09月号)

 宮川朔「祖母の年譜」は「現代詩手帖」の投稿欄の作品。阿部嘉昭、野木京子の二人が選んでいる。投稿欄には、ときどき、あ、これで次の「手帖賞」はこのひとだな、と思う作品がある。そう思って、私の予想が外れたのは和田まさこだけ。彼女は、その後、人気が出たが、私は投稿時代の2篇の作品を上回るものを書いていないと読んでいる。
 前置きが長くなった。宮川の作品は、こう始まる。

昭和三十二年。二十一歳。東京の専門学校で
資格を取って、帰郷。栄養士になると思って
いたが、知人のすすめで算盤と作文の試験を
受け、ミドリ中学校の事務員になる。自己流
で学んだ算盤の成績は一番で、後に生徒にも
教えた。

 淡々と進む。森鴎外の文章のように無駄がない。言い換えると、かざったところがない。必要なことを書けば、それがそのまま人間の運動になる。

    十名ほどの先生の給与計算はすぐに
終わり、暇だった。運動会では、丘の上で女
事務員たちがダンスをした。校長は午後三時
になると魚屋に刺身を持ってこさせて日本酒
で一杯やった。魚屋に借金が三万あった。若
かったので不安になったが、副校長に校長は
山を持っていてあれを売れば大丈夫、となだ
められた。初任給六千九百円の時代。ときど
き罠にかかった動物を調理した。いのしし?

 「祖母」から少し逸脱していくが、それにしたがって「まわり」が見えてくる。この感じも、こう書くとちょっと大げさになってしまうが、鴎外の「渋江抽斎」の抽斎が死んだ後の散文のようでおもしろい。主人公はいないのに、主人公(祖母)が見える。
 「不安になった」「なだめられた」の「主語」は「祖母」なのか。「祖母」がなぜ、校長の金のことまで心配しないといけないのか。まあ、算盤をやっていたので、どうしても計算してしまうというのだろう。そこに「じんわり」と「祖母」が顔を出すのが説得力がある。「山」から「いのしし」へと思いがけない展開をするのも楽しい。
 散文体はここで終わり、二連目は、一転して行わけになる。「祖母」ではなく、作者が描かれる。

原稿用紙にここまで書いて、鉛筆を置いた。
夜も更けたので風呂に入る。
湯船につかり、ゆっくりまぶたをあけとじ。
壁になめくじがいるのに気づき
からだがこわばる。The only thing
We have to fear is fear itself.
ルーズベルトの演説の文句を、唱えて耐え
 た。
年譜のことば運びにも、筆者の主観が混ざ
 る。
反省をして早くに寝る。明日は昭和三十三
 年。

 行わけだが、リズムは散文を守っている。ただし、一行一行の飛躍は大きくなる。行間が広くなる。そして、その飛躍が「余白」の大きさを感じさせる。「余白」なのだけれど、そこに何もないわけではなく、作者の「気」が静かに広がっている。「fear」(恐れ)ということばが出てくるが、「畏怖」に通じる何か「確かさ」のようなものがある。
 「知っている」ことと「わかっている」ことを明確に区別し、「わかっている」ことだけをことばにする、その「肉体」の「確かさ」に、私は立ち止まるのである。「肉体」を「知性(思想)」と言い換えてもいいが、私はあえて「肉体」と書いておく。
 「原稿用紙」「鉛筆」が、そういう印象を引き起こすのかもしれない。手を動かしてことばを動かす(書く)。おのずと抑制、制御され、ととのえられていくものがあり、それが「ことばの肉体」にもなっている。宮川が手書きで詩を書いているかどうかは知らないが、手でことばを書いた記憶が静かに残っている。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(96)

2019-08-26 08:34:20 | 嵯峨信之/動詞
* (旅びとは)

行く
ただ行くだけだ

 と「行く」が繰り返される。この「肯定」は「自画像」にも見えるが、そうではない。

かつて立ちどまつたことはなく
帰つてきたこともない

 すぐに二つの「否定」があらわれる。
 この「肯定」と「否定」を比較するとき、嵯峨の重心は「否定」の方に傾いている。「意味」は「否定」の方におかれている。その「意味」は最終行で結晶する。

そのひとは父であつた







*

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岩阪恵子『鳩の時間』

2019-08-25 22:34:45 | 詩集
鳩の時間
岩阪 恵子
思潮社


岩阪恵子『鳩の時間』(思潮社、2019年07月31日発行)

 岩阪恵子『鳩の時間』は散文の詩集。しかし、詩集というくくりでなくてもいいかもしれない。散文。文章。ことば。
 巻頭の「原田辰五郎氏」がいちばんおもしろい。最初に読んだから、その印象が強いのかもしれない。同人誌で読んだかもしれないが、詩集の方が印象が強い。たぶん、活字の組み方、本の紙質が影響しているのだろう。いわゆる詩集のような押しつけがましさ(いい紙をつかってるでしょ、という印象)がなくて、気持ちいい。思いついたので、忘れないうちに書いた、という自然な感じがつたわってくる。


 わたしの母かたの祖父は乳呑み子のとき、兵庫県のとある村の
辻に建つ道標の傍らに捨てられていたと聞いている。明治に元号
が変わって一五年ほどがたったころである。出生についてはなに
もわからない。捨て子はちょうど似たような月齢の赤ん坊がいる
地主の家に引き取られた。辰の年のことであったので辰五郎と名
づけられ、将来はその家の下働きにでもと育てられた。

 なかなかつらい人生の始まりである。しかし、「捨てられていたと聞いている」の「聞いている」がいい具合に「距離感」となって働いている。哀れさというか、同情に、どっぷりつかる感じではない。淡々とした響きがある。
 他の作品も淡々としている。清潔なことばの運びだが、この作品が特に自然な感じがするのは「聞いている」とことばの力が強い。
 それから語られることも、ほとんどが「聞いたこと」なのだが、聞きながら、辰五郎をしずかに想像している感じがつたわってくる。
 岩阪の印象だけではなく、

  ものを言わないひとで、直接叱られたことはなかったが、こ
わかった、と母はその父を評した。

 という具合に、他人の「感想」がことばを支えているのもいい。この部分につかわれている「評した」ということばも、とてもこの作品には似合っている。「言った」というよりも、そこに「視点」の明確さが付け加わっており、それが岩阪の感情を制御(抑制)している。

 原田辰五郎氏。彼の生涯には捨て子であったことを除けば取り
立てて記すほどの出来事はない。風に運ばれ知らぬ土地で芽を吹
いた一茎の雑草のような一生であったといえる。

 「取り立てて記すほどの出来事はない」という語り口、「雑草のような一生」という比喩。それはある意味で「定型」(決まり文句)である。けれど、「決まり文句」だけがもつ不思議な強さがある。つまり、他人によって「共有されてきたことば」の確かさがある。「決まり文句」が多くの人に共有されているように、原田辰五郎氏の生涯は、確かに「共有」されていくのである。知っている人には当然のことだが、その人を知らない私のような読者にも。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(95)

2019-08-25 10:25:47 | 嵯峨信之/動詞
* (言葉からぬけ落ちた小さな仏の子を)

湯浴みさせ 名をつけよう
裸のままもう歩きだそうとする

 「名をつける」は美しい動詞だ。名前がなくても「仏の子」は存在する。もしかすると生まれたときからすでに名前を持っているかもしれない。それでも、「名をつける」。
 その存在に、そうやって近づいていく。「名をつける」ことは「関係する」ということだ。そして、それは一方的な働きかけではない。「名をつけ」たそのときから、「仏の子」から何かが返ってくる。
 嵯峨は「名」を呼びながら、「仏の子」が歩きだす方向へと追いかけていく。









*

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中島悦子『暗号という』

2019-08-24 18:25:08 | 詩集
暗号という
中島 悦子
思潮社


中島悦子『暗号という』(思潮社、2019年08月22日発行)

 中島悦子『暗号という』を読みながら、私は、木下順二が死んだとき『子午線の祀り』を読み直したことを思い出した。「過去」がふいにやってくるのか、それとも私たちが「過去」へふいに行ってしまうのか。「時間」は、それが「いつ」であれ、人間のそばにある。「物語」から聞こえてくるのは、だれの声だろう。
 「回転」という詩の書き出し。

隣家の洗濯機の音
静寂の中に
薄暗い戸口はあらゆるところにあって
その一軒一軒に洗濯機が回っている

 「あらゆるところ」と「一軒一軒」は、どう違うか。書かれていることばの順序とは逆に「一軒一軒」に「戸口」があり、その「ある」ということが「あらゆるところ」であると思う。「過去-現在-未来」という時間の形式的な順序と実際に想起する「時間」が無関係なように、「一軒一軒」と「あらゆるところ」の関係も流動する。

静寂も時折回転しながら
おむつを洗っているのだ

 「おむつ」でなくても洗濯機は洗うが、「おむつ」が選ばれたときから「時間」(過去)が噴出させるものが違ってくる。「無防備」が「無防備」のまま動き出す。「おむつ」は「おむつ」ではなく、「無防備」を生きるものの比喩である。「運命に翻弄されるものの比喩」かもしれないし、あるいは「運命」そのものの比喩といってもいい。
 人間は、こういうものに「物語」を与える。あるいは「物語」に閉じ込める。そのとき、そこにほんとうに「ある」ものは「もの」ではなく、運動である。運動の中に「時間」が整理されていく。逆ではない。逆であったとしても、最後に残るのは運動である。

澄んだ水に攪拌されている
模様は藍色
白夜のみずうみのように
寂しい一日の
早朝や真夜中に限って

私は目を閉じて寝返りを打つ
今時どの家にも赤ん坊がいて
泣き声は聞こえないのに
おむつの乾くことがないなんて
もの悲しい町
ここは

一軒一軒の洗面所の窓を
尋ね歩く
残響のやまない耳をすませて

 最後の「すませて」は「澄んだ水」につかわれている「澄む」という漢字をあてることができるかもしれないが、中島は「すませて」とひらがなを選んでいる。私は、そこに、あえて「住ませて」という違う漢字をあててみる。「棲ませて」でもいいかもしれない。「肉体」から「耳」だけをとりだして、意識を「澄ませる」のではなく、「肉体」の中に「耳」をもう一度「住まわせる」。
 いま、ここに「平家物語」を「住まわせる」ように。いま、ここに「過去」を「住まわせる」ように。
 「すませて」と「すまわせて」は違うのだけれど。
 この「違い」は、しかし、いま、この詩を読んでいる私には「薄暗い戸口」であって、それは「あらゆるところ」へつながっていこうとしている。

 あらゆることばは、ことばを言いなおすためにある、と私は考えるが、どうせ言いなおすなら、よりいっそう「無防備」になるために言いなおしたいと思う。
 で、私は「回転」が好きなのだ。
 「暗号」もいいが、

はさみで切り抜くことのできない形は

ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい

蕎麦緒口を集める
誰が口をつけたのか分からない
裏底の偽刻印の
古い文字は隠されて
死児に憶えさせようとすること

コウゾの根を抜く
わが神経を抜くように

二〇〇一年は み だった

 「二〇〇一年は み だった」かどうか、私は「真偽」を知らない。しかし三連目に書かれている「偽」の文字、そして「死」が、それを「偽」であると告げることで、「偽」を「真」に変えてしまう。「偽」でなければ「真」にはなりえない。
 それが「暗号」の運命かもしれない。
 ここには時里二郎とも高柳誠とも違うもうひとつの「虚構」があるといえるかもしれないが、私は「深入り」したくない。「平家物語」(古典)には近づかず、「薄暗い戸口」ちかくの「洗濯機」という「現実」にとどまりたい。
 「暗号」は解読するのではなく、誤読して楽しみたい。私はいつでも「答え」が嫌いだ。





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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(94)

2019-08-24 09:46:06 | 嵯峨信之/動詞
* (一方から他方へ)

ぼくを移動させる透明な車がある

 「透明な」は「見えない」。「ある」は嵯峨が「ある」という状態にさせている。想像力が「ある」を生み出す。

どこにもない国へつれていつてくれる〈時の車〉だ

 「時の車」ならば、つれていくのは「どこ」というよりも「いつ」になる。「時」はふつう過去から未来へうごいているととらえられている。しかし嵯峨の「時の車」は「過去」や「未来」へゆくわけではない。「どこにもない」時間へと嵯峨を連れて行く。
 「時」がある方向へ(一方から他方へ)動く前の「時」という概念のなかへ。







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