詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫「無題」

2021-05-14 09:57:39 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「無題」(「兆」190、2021年05月05日発行)

 林嗣夫「無題」。起承転結で書かれている。

  年を取ったせいだろうか
  骨やら肉やらのことが 気にかかる

  骨が先か肉が先か そのどちらが大事なのか
  そんな二元に考えるのは意味がないが
  しかし 最後に残るのは骨のほうである
  ホラホラ、これが僕の骨だ、
  というふうに

  骨のある生きものと ない生きもの
  その人生観 宇宙観は全く異なるだろう
  骨は寂しいから 花としての肉を求める
  肉は花を生きるために
  骨という規範を必要とする

  骨のない生きもの 昆虫 なめくじ……
  なんだか切なさの固まりのようでもあるが
  何を思って生きているのだろう

 私は、この詩の最後の一行にひかれた。何も書いていない。「何を思って生きているのだろう」とほうりだされたら、それを想像して書くのが詩であり、文学である、と学校の先生なら言うかもしれない。「考えを書きなさい」と。
 しかし、考えにならないこともあるのだ。ぼんやりとした何か。「無題」というタイトルがついているが、それこそ「無」といかいえない、何か。「無意味」ではない。でも「意味」でもない。そこにあるだけのもの。たぶん「無分節」の「無」、と書いて、あ、そうだったのか、と私は脱線する。私は「未分節」と知ったかぶりをして書く。「無分節」の「無」がわからなかったからである。「無分節」の「無」は、いま、林が書いている「何を思って生きているのだろう」なのだ。それは、前の行では「なんだか切なさの固まりのようでもある」と書かれていて、「意味」としてはその行の方が強い。でも、その強さを叩き壊して「何を思って生きているのだろう」とほうりだす。「意味」を追いかけてもしようがないのだ。「意味」はいつでも林を襲ってくる。「意味」に襲われる前の「無」の方が「手応え」があって、「図太い」。
 で、この視点から読み直すと、この詩はおもしろい。
 一連目(起)は、ぼんやりとはじまる。ことばがどこへ動いていくかわからない。「骨」と「肉」と「気」が提示される。
 二連目(承)に「大事」「意味」ということばが出てくる。「大事」は「意味がある」という意味である。「意味がある」と「意味がない」という「二元論」をくぐりながら、「気」は「二元論」を否定しようとする。しかし、ことばは中原中也を引用しながら「最後に残るのは骨」というふうに動いていく。なにかしらの矛盾、飛躍の踏み台があり、次元の違った世界(転)へ向かう。
 その三連目(転)は、ことばの面構えからして、一連目、二連目とは違う。「骨」「肉」と書きながら、そこに書かれているのは「気」である。精神である。言い直せば「哲学」である。哲学であるから、ここには「論理」がある。それを「規範」と言っている。意味、規範は論理の骨格である。
 と、いったん「結論」を先走る形で提出しておいて、四連目(結)。これを否定するというよりも、叩き壊す。禅問答(公案)で、どういう質問だったか忘れたが、何か問われた方が何も答えず、近くにあった何かをけとばして部屋を出て行く、というのがあったと覚えているが、そんな感じだな。
 「論理=意味」としての「哲学」なんて、意味がない。批判してもはじまらない。そんなものはなかったことにする。ただ、いま、ここに生きている。それを直接的につかみとるには、「論理=意味」(これは、切なさという感情の場合もある)を叩き壊さなければならない。「無」をほうりだすのだ。すべての問いに対して。
 私は、その「無」のいさぎよさのようなものをいいなあ、と感じる。いさぎよい、にまでは達していないから、それがまたいいなあ、と思う。先に書いた「公案」のように、何かを完全に叩き壊して出て行ってしまうのでは、それはそれで難問を残されたようで気分が重い。わからない。なぜ、そんな「答え」が語り継がれるのか。そこにどんな「真理」が隠されているのか。難問すぎて、考えたくない。
 ぼんやりと「何を思って生きているのだろう」に体をあずけ、「ばかだなあ、なめくじが何かを思って生きていることなんかあるもんか、なめくじなんだぜ」と言って笑うのである。もちろん、反論があるのはわかる。でも、「ばかだなあ」と、反論があるのを知っていて笑うのである。

 

 

 

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