詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『天国と、とてつもない暇』

2018-09-30 15:04:06 | 詩集
最果タヒ『天国と、とてつもない暇』(小学館、2018年10月01日発行)

 最果タヒの詩については何度か書いてきた。いつもとは違うことを書きたい。書いてしまえば同じになるかもしれないが。
 「いい暮らし」の書き出し。

美しくなるよりもずっと前。
優しくなるよりもずっと前。
私はあなたを好きでした、

 繰り返される「ずっと前」といことばに、私は傍線を引いた。これが最果のキーワードかもしれない、と感じた。キーワードというのは、わたしの「定義」ではほとんど表にはでてこないことば、「無意識」に動くことばなのだが、「前」に関しては少し前に読んだ気がした。
 詩集を逆戻りしてみる。「生存戦略!」の書き出し。

拒め。肉体より社会より宇宙より糸より毛皮より帽子よ
り食べたものより果てにあるのが、私よりも前からある
私だけの愛情。

 「私より前からある」ということばがある。ここにも傍線を引いていた。
 「ずっと前」というのは「私よりも前」ということ。
 「私」は生まれ、美しくなり、優しくなり、あなたを好きになる。けれど、それは「私」から始まるのではなく、「私より前」から始まっている。
 「私はあなたを好きでした」には「なる」ということばがないが、ここに秘密(キーワード)が隠れている。
 「私」とは無関係に、「美しい」と呼ばれるものが「ある」、「優しい」と呼ばれるものがある。それと同じように「好き」というものがある。「美しい」「優しい」はともに用言である。「好き」は「好く」ということばから派生している。「好く」は動詞である。用言である。つまり、「美しい」も「優しい」も「好く」も動く。動くことで初めて「美しい」「優しい」「好き」が生まれてくる。「美しくなる」「優しくなる」「好きになる」が、いま「美しい」「優しい」「好き」という状態として姿をあらわす。
 まだ名づけられていないものがあり、それが美しく「なる」ことによって「美しい」が生まれてくる。同じように優しく「なる」ことで「優しい」が生まれてくる。好きに「なる」ことで「好き」が生まれてくる。
 そして、この「なる」以前は、「ずっと前」「私より前」としか呼べないことなのである。
 また、「なる以前」(ずっと前、私より前)というものが「ある」ということは、美しく「なる」、優しく「なる」、好きに「なる」ことによって初めてわかることである。いま「美しい」「優しい」「好き」という「状態」に「いる/ある」ことが、「ずっと前/私より前」のどこかにも「ある」。「いま」と「いつかどこか」が結びつき、「美しい」「優しい」「好き」が、全体的な「真実/事実」になる。
 こういうことを、最果は書いている。
 「生存戦略!」は、こう続いている。

       それに手を伸ばすためだけに生まれてき
た、ひとつひとつを脱ぎ捨てて、針よりも細く、弱くな
りながら、届こうとしている、

 「手を伸ばす」という動詞の比喩が強い。「いつか/どこか」に名づけられずに「ある」もの、美しさ、優しさ、好きをつかみ取るために「生まれてきた」。生きることは「いま」から「未来」への動きであるのに、実際にしていることは「生まれる前/私より前」の方に「手を伸ばす」ことなのだ。「未来」へ手を伸ばすのは、「過去」に手を伸ばし、「いま」のなかに「過去」を噴出させるためなのだ。「いま」のなにか噴出してきた「過去」だけが「未来」なのだ。

 私の書いていることは抽象的だろうか。

 しかし抽象性こそが最果の詩の特徴だ。「論理」を動かすことでつかみとることができるもの、浮かび上がらせることができるものを追い求めている。
 私は基本的には、詩とは抽象性を突き破って動く具体そのものだと考えているが、最果にとっては「抽象」の「動き(運動)」が「具体」というものなのだろう。なぜ、「抽象の動き」を「具体」と呼ぶことができるのか。
 「新婚さんいらっしゃい」のなかに、こんな行がある。

きれいだから、選んだんだよ、きれいという価値観は、私というより世界が決め
たもの、と責任転嫁して、ほんとうは、私が決めたものなのだ、

 「決めた」ということばに注目する。「決める」のは「私/最果」なのである。「きれい」は「世界の価値観(世界が決めたもの)」のように見えるが、そうではない。それはあくまでも「私/最果」が「選び」、「きれいである」と「決める」。「選び(手を伸ばし、それをつかみとる)」、そして「ことば」として差し出すことを「決める」。そのとき最果の「きれい」が「いま/ここ」に生み出される。

 プラトン(ソクラテス)は「イデア」を「想起する」と言った。この「想起する」というとき、「想起される対象(イデア)」は「いま/ここ」にない。「想起される先(未来)」の方にある。「想起」し、それにむけて動いていく。「未来」をつくりだしていく、というのがプラトンの「時間感覚」である。「理想」の追求の仕方である。
 最果は、いわば「逆方向」の動きをする。「過去」を「掘り返す」。掘り返していると、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。噴出してきた瞬間、それは「未来」へ向かって動き出す。この動きを「誕生する」と言い換えるならば、最果は「想起」するものを「過去」をつかって「生み出す」のである。産婆術である。そのとき「いのち」がつながる。「いのち」が生き始める。
 この「いのちを生み出す」「生み出されたいのちが生き始める」ということばをつらぬく運動が最果の詩であり、それは「ずっと前/私(最果)よりも前」を「根源」としている。
 男の詩人なら、たとえば谷川俊太郎ならば、「ずっと前/私より前」を「未生」と言う。哲学者ならば「混沌」とか「無」ということばであらわす。
 しかし、最果は、そいう「男ことば」をつかわずに、彼女自身の「肉体」で動かしている。「手を伸ばす」というような具体的な「肉体」の力で。
 抽象的だけれど、若い人に人気があるのは、そういうところに「秘密」があるのかもしれない。

 私は……。
 私は、かなりとまどっている。こういうふうにことばと向き合い、ことばを動かすのが「現代」の人間なのだと、わかったふりをする(誤読する)が、それについていくことができない。
 「肉体」と「意識」、「意識」と「ことば」の関係を、最果のようには割り切れない。詩を引用しながら、言いなおすと、こうなる。
 「クリーニング」という作品。

終わりが来ないことに慌てている、もがいている、溺れ
ている、ここに水があったっけ? もがいている、出ら
れない場所にいる気がして、足がつかない気がして、流
れていく気がして、自分というものが溶けて消えてもこ
の意識だけが残る気がしている、

 私は「意識だけが残る」と意識を「理想化」することができない。
 あるいは「雲の詩」の次の行。

あなたより、わたしより、先に死んでいったものたちの魂が、幽霊という言
葉で侮辱されていくけれど、

 「魂」は「幽霊」と同じように、私には理解できない。それは「意識」を動かすための「意識」、つまり「方便」にしか過ぎない。そこには「肉体の論理」、「肉体の運動」が存在しないと私は判断している。
 私は最近、若い人たちの「肉体感覚」の欠如に、とても恐怖を感じている。そのことが、最果の詩を読むときも影響しているかもしれない。










天国と、とてつもない暇
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*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(84)

2018-09-30 10:58:26 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
84 犬のギリシア

 「83 老人と犬」には現実の犬は登場しなかったが、この作品では「ギリシアには 何処にも犬がいる」と高橋が街でみかけた描かれている。しかし「犬」の描写では終わらない。ギリシアの経済破綻寸前の状況にふれたあと、詩はこう展開する。

いつ崩壊するかわからない この人間世界は
犬の目に どう映っているのだろう
そして その視界をつかきまよぎる旅人の翳は?
翳は去るや見る間に老い 冥府への道を急ぎ
犬は永久に生まれ変わり 死に変わる

 「死に変わる」か。「生まれ変わる」という表現があるのだから、「死に変わる」という言い方があってもいいのかもしれない。
 「死にざま」ということばが、いつのまにか「生きざま」にとってかわったように。
 しかし、一般に「死に変わる」とは言わない。なぜだろう。「死ぬ」とこの世から存在しなくなる。ほんとうに「変わった」のかどうか、確かめられないからだろう。
 「生まれ変わる(生まれ変わり)」もそれが事実であるかは確かめられないが、いま、この世にいる存在について、そういう具合に思うことはできる。想像することができる。
 けれど「死に変わる(死に変わり)」は想像の出発点に「存在」がない。「死んだ」という事実、「死体」という事実はあるが、それはあくまで「この世」に存在するものであって、「死の世界」で確かめることはできない。
 これは「論理」がつくりだした「誤謬」というか、「誤読」というか、「ことば」でのみ「想起」できる何かである。
 想像力は、いつでも「間違える」。想像力とは事実を歪める力であると言ったのはバシュラールだったか。
 しかし、それが「間違い」であっても、ことばにした瞬間、それが「事実」のように出現してしまう。「間違い」を「論理的」に出現させる、生み出してしまうのが、詩という装置かもしれない。

 「死に変わる」。これは、詩にしか書けないことばである。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(83)

2018-09-29 09:16:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
83 老人と犬

ギリシアの冬はきびしい ことに老いた者には
老人は自ら暖まれない 寝床で暖めてくれる者がほしい

 と書いたあと、高橋は「文学」の世界へ入っていく。「現実」ではなく「文学」の世界へ、というのは、たぶん間違った指摘だろう。高橋にとっては「文学(ことば)」こそが現実、ことばになっていないものは現実ではないのだろう。

寄り添ってくれる猫は 古代ギリシアにはまだいなかった
いたのは犬だけ だが犬は厭われ 冥府の番に追いやられた
犬は抗議の牙を剥いて 吠え立てた 老人は犬を叱った
叱りつつふるえていた さみしい老人 さみしい犬

 「きびしい」が「さみしい」に変わっている。「韻」を踏んでいる。(「さびしい」ではなく「さみしい」と音を選ぶことで、「音」が「肉体」のなかへ入ってくる感じがする。「さびしい」だと、「音」が破裂して「肉体」から出て行く。)
 この変化を動かしているのは「ほしい」ということば。「欲する」という動詞が、高橋の「肉体」のなかに蓄積されている「時間(文学のことば)」を掘り起こしている。
 「きびしい」と「さみしい」を入れ替えると、詩は「抒情詩」から「叙事詩」にかわるだろう。感情が寄り添うのではなく、「肉体」がぶつかりあい、物語をうみだすだろう。感傷を書きながら、ひそこにドラマ(悲劇)を夢見ている高橋を思い浮かべた。

ギリシアの冬はさみしい ことに老いた者には
老人は自ら暖まれない 寝床で暖めてくれる者がほしい
寄り添ってくれる猫は 古代ギリシアにはまだいなかった
いたのは犬だけ だが犬は厭われ 冥府の番に追いやられた
犬は抗議の牙を剥いて 吠え立てた 老人は犬を叱った
叱りつつふるえていた きびしい老人 きびしい犬

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(82)

2018-09-28 09:41:02 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
82 とりあえず

朝は一本足 昼は二本足 夕べは三本足……
この永遠の謎の三本足 三本目は彼方から
かつて枝が伸び 葉が繁っていた瑞みずしい若木
その葉をこそげ 枝を落とし 樹皮を剥がし
よく乾かし 何度も丹念に脂を塗りこんだもの

 「朝は四本足」というのが一般に伝わっている「なぞなぞ」だが、高橋の記憶間違いか(出版社の校正機能が働いていないのか)、それともそういう謎かけもあるのか。
 おもしろいのは「三本目の足=杖」の描写である。
 「若木」から書き起こしている。木にも「一生」があるだろう。双葉が出て、成長し、やがて枯れていく。その「一生」のなかから「若木」だけを取り出している。
 「かつて」と書かれているが、たぶん、まだ「若木」なのだ。
 まるで若者とセックスをするように、丹念に手をかける。自分の肉体(欲望)にあうように、外側から丁寧に「衣服」を脱がせる。素裸にし、ていねいに仕込む。「脂を塗り込む」と高橋は書いているが、情念(欲望)そのものを塗り込んでいるように見える。そうすることが「若返る」ことであるかのように。実際、若いしなやかな肉体にふれながら、高橋は「若さ」を吸収するのだろう。

それはいまのところ かろうじて私のものではないようだ

 と高橋はつづけている。まだ「杖」は必要としていない。それは高橋には「若い肉体」との接触が「若さ」をもたらしているからであろう。
 そう読むと、高橋の謎の勘違いは、違った風に見えてくる。
 「朝(生まれたとき/赤ん坊のとき)は四本足(四つんばい)」ではなく、「朝(生まれたとき)は一人」、「昼(活発な成長期)は二人」、「夕べ(老いたとき)は人以外の支えてくれる存在」も必要になる。「杖」をそんなふうにとらえているとも読むことができる。
 あるいは「二人」を支えてくれる「新しい人(もう一人の人)」があらわれてくることを夢見ているのかもしれない。
 杖をつくる描写が(高橋はほんものの杖を手作りなどしないだろう)、あまりにもなまなましく、丁寧なので、そんなことを思った。




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日米関税交渉と日米共同訓練

2018-09-28 07:13:22 | 自民党憲法改正草案を読む
日米関税交渉と日米共同訓練
             自民党憲法改正草案を読む/番外232(情報の読み方)

 2018年09月28日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

日米関税交渉 1月にも
物品協定 農産品、TPP水準
首脳合意 車追加関税、協議中課さず

 なんだ、これは。「農産品、TPP水準」というけれど、「TPPの合意文書」の「日本語訳」はいつ公表されたのか。分厚い「黒塗り資料(英文?)」が公表されただけではなかったか。だれが「水準」を具体的に知っているのか。だいたいアメリカが拒否している「TPP水準」が今後も有効なのか。有効なら二国間交渉をする必要がない。車を除外して「TPP」でまとまればいいだろう。
 「車追加関税、協議中課さず」というのは、協議が終われば「課す」ということ。協議の間は車に関税はかけない。それを条件に農産品の関税交渉をすすめるということだろう。これは日本に配慮するふりをして、アメリカの思うがままに交渉をすすめる、欲求を押しつけるということではないか。
 まず農産品交渉を進める。日本の要求はどういうものであるかは確認した。それに対してアメリカはこれから条件を出して、ひとつひとつを思うがままに進める。アメリカがもうかるように交渉を進める。その間は、車には関税をかけないから、安心しろと騙されている。
 「車追加関税、協議中課さず」という見出しを読んだだけでわかる。これは「車の追加関税については、車の関税をどうするか協議している間は、車に追加関税をかけない」という意味ではない。対象産品について協議しているとき、対象産品について追加関税をかけるというのでは、協議の意味がない。

車追加関税は、農産品関税について協議中は、課さず

 という意味なのだ。
 あまりにも日本をばかにしている。ばかにされていることに気づかない安倍が情けない。私は安倍が大嫌いだが、このばかにされ方はひどすぎると思う。
 見出しにはとられていないが、記事を読むと、さらにびっくりすることが書かれている。

 トランプ氏は26日に行った記者会見で「日本は長年、貿易協議を望んでいなかったが、いまはその意思がある」と述べ、交渉開始を自らの功績と位置付けた。日本が米国からの液化天然ガス(LNG)輸入を倍増させる意向を示した、とも説明した。「彼ら(日本)は大量の機材と武器装備を買っている」とし、貿易赤字の解消を迫った結果だと主張した。

 日本がアメリカから大量の軍備を買っているのは「国難」から日本を守るためではない。防衛のためではない。貿易赤字を解消するための手段だったのだ。トランプの歓心を買うために、大量の武器を買っている。トランプと仲よくしていれば(仲良しとみせかければ)、安倍の「価値」はトランプと同様のものになる、と思い込んでいるようだ。
 「危機」をあおって国民を脅し、他方で国民を安心させるという名目でアメリカから武器を買う。日本ではつくっていない武器なので、日本の企業とは競合しない。(日本の企業の不利にはならない。)アメリカの軍需産業がもうかれば、トランプが喜ぶ。トランプ側には、当然、軍需産業から「見返り」があるだろうなあ。

 もうひとつ。同じ一面に、

東シナ海 B52と空自訓練/日本海へ北上、最大規模

 という見出し。これはたぶん「(日本)は大量の機材と武器装備を買っている」を脇から支えるための記事だなあ。「武器ばっかり買わされて、どうするのか」という批判は、当然起きるだろう。それに対して、「中国や北朝鮮からの危機は確実に迫っている。武器購入は絶対必要だ」ということを共同訓練で間接的に説明しているのだ。
 それが証拠(?)に、その記事には、「中国を念頭に連携を示す狙いがある」とは書かれているが、「最近、中国がこれこれの軍事行動を取っている。それに対処するためである云々」とは書かれていない。一方的に、中国に対して日米の軍事力(同盟力)を見せつけているだけである。これは中国から見れば、たいへんな脅威だろう。それこそ「国難」かもしれない。アメリカは「貿易問題」で中国叩きをやっている。そこに日米の軍事力を見せつける。中国は「貿易(経済活動)」に集中できない。軍需にも勢力を注がないといけない。「貿易(経済活動)」が鈍くなる。アメリカの「一石二鳥作戦」に日本が利用されてる。それに気づかず、「アメリカといっしょに軍事訓練ができた。アメリカとの信頼関係が築けた」と「おぼっちゃま」安倍は喜んでいる。
 アメリカの保護主義に対しては、日本は中国とこそ手を組んで、自由貿易を押し進めるべきなのではないのか。自由貿易こそが日本が生き残る道だと言うのならば。トランプが安倍のことを気に入ってくれれば、それで「外交」が成り立つと思い込むのは、あまりにも単純すぎる。だれだって利用できる人間が、利用したいがままに動けば、その相手を気に入る。いつでも命令に従う「子分」にすぎない。トランプは安倍を持ち上げ続けて、金をしぼりとる。用がすめば(中間選挙を乗り切れば)、さっさと捨てるだろう。さすがにビジネスマンだ。何も気づかないのは、ほんとうにほんとうに「おぼっちゃま」だ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(81)

2018-09-27 08:14:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
81 祝福 ヒポクラテスに ガレノスに

食欲はひたすら貪婪な腹の要求だと 長年信じてきたものだが
ひょっとして無思慮な頭のしわざかと 今頃になって疑っている

 と詩ははじまる。そして、こう転換する。

そうだとしたら 自分と宇宙の関係についての種種考察の場も
頭なんかではなく 腹だったのかもしれない と思えてきた

 食欲は「頭」で感じ、思考は「腹」でおこなう。
 ふたつのことばを、「そうだとしたら」がつないでいる。
 さて、この「そうだとしたら」は、では、どこに属するのか。「考察」だから、「腹」になるのかもしれない。だが、単純に、そうは断定できないように思う。

 「食欲」というとき、「食べ物」と「肉体」がある。それは「食べ物と自分の関係」である。「自分と宇宙の関係」というとき「自分」と「宇宙」がある。「関係」が二つの存在をつないでいることになる。「食べ物と自分」「自分と宇宙」。
 それと同じように「食べ物と自分」「自分と宇宙」というふたつのものを「そうだとしたら」が結び合わせるようにして動いている。片方だけでは「そうだとしたら」は動いていかない。

いまではこの聖なる道を讃えるために 朝目覚めたらまず白湯を呑む
口腔から始まってわが消化器官 という名の思考回路の なんと悦ぶこと
わが八十歳の健やかな一日は 内臓への祝福から始まる

 高橋の詩は「そうだとしたら」をほうりだして、「内臓こそが思考の目抜き通り(回路)」という具合にことばを動かす。毎朝、白湯を飲むことで、内臓を祝福するという具合に日常を描写し、思考回路としての内臓は「悦ぶ」と、ことばを続ける。
 この「悦ぶ」は「思考」か。あるいは「感覚」か。なぜ、高橋は「悦ぶ」ということば(動詞)をつかったか。ここに、もうひとつ問題が生まれてくる。そのことについて、高橋は何も書いていない。書かなくてもいいのかもしれないけれど、ここに高橋の詩のポイント、特徴がある。無意識がある。
 「そうだとしたら」という「関係」を生み出すことばが、この詩を動かしている。「頭」でも「内臓」でもない。「肉体」から独立して、ことばそのものが「肉体」として動いている。「ことばの肉体」がある。「そうだとしたら」は、その「ことばの肉体」があらわれてきた部分である。


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須藤洋平『赤い内壁』(3)

2018-09-26 20:24:51 | 詩集
須藤洋平『赤い内壁』(3)(海棠社、2018年09月30日発行)

 「ワゴンの記録」。

重ねられた書物から飛び降りた
水鳥の熱い小便のように
女は人混みにまぎれた

 この三行は、どういうふうにつながっているか。「重ねられた書物から飛び降りた」のは「水鳥」か、「女」か。どちらとも読むことができる。「水鳥の熱い小便のように」は「人混みにまぎれた」の「まぎれた」という動詞を修飾しているように読むのが「学校文法」かもしれない。でも、「学校文法」にしたがって読めば何かがわかるとはかぎらない。
 「女は人混みにまぎれた」という「事実」があって、そのほかは、その行を修飾することばだと仮定してもいいが、そんなことをしても何もわからない。なぜ、そんなことばを「修飾節」としてつかったのか。もしかすると「女は人混みにまぎれた」というこよりも、「重ねられた書物から飛び降りた」「水鳥の熱い小便のように」の方を書きたかったのかもしれない。実際に立ち会ったのは「重ねられた書物」だけかもしれない。「書物」もあやしく、「重ねられた」ということだけを見たのかもしれない。「事実」は、どこにあるかわからない。「枕詞」のように、ことばを導くためのものとみなされているものが、ほんとうはいちばん大事な「事実」ということもありうる。。

うなだれて生い茂るはほら穴
ほの暗い穴は軽はずみな男をよび
気の利いた鼠が足をそろえて踏みならす

 「穴」は「女の穴」かもしれないが、性器そのものを描きたいのか、「生い茂る」を書きたいのか「うなだれて」を書きたいのか。あるいは「ほの暗い」を書きたいのか、「軽はずみ」「男」を書きたいのか。「よぶ」という動詞を書きたいのか。
 こんなことは区別できないし、区別しても始まらない。
 ことばは「方便」として「前後」して書かれる。「文体」のなかには必然的に「時間」が入り込む。けれど、整然と順序立てて進む時間、時計の針のように進む時間、あるいは「意識」の流れというものが、ほんとうに存在するのか。
 書かれていることばの順序と、そのことばが現実をつきやぶって須藤の意識をひっかきまわした順序は逆かもしれない。すべてが同時だったかもしれない。
 だから、たとえ、ことばがその順序で書かれていたとしても、その順序にしたがって読むことが「正しい」とはかぎらない。むしろ、ことばの順序を無視して、いま、自分がどのことばに反応しているか、それを見極めることが大事ということもありうる。
 私は、この六行では、

熱い小便

 に全身をつかまれた。私が「熱い小便」になったような感じだ。「熱い小便」は「重ねられた書物から飛び降りた」のか。その「飛び降りる」ときの放物線が「熱い小便」の描く形か。あるいは、「人混み」のなかで「熱い小便」をすることを想像し、ああ、それができたらどんなに楽しいだろうとも思う。ほんとうは、そういうことをしたい。けれども、その欲望はきっとかなえられずに「人混み」に「まぎれ」消えていく。そういうことも思ったりする。須藤は、そうは書いていないのだが。
 いや、書いていないように見えるだけで、書いているのかもしれない。ほんとうは、そう書きたいのだが、書き方がわからずに、こうなっているのかもしれない。

 こういう感想は、感想になっていない。もちろん批評なんかにはなっていない。そんなことは、知っている。私は端から「批評」など書くつもりはない。論理を組み立て、ある評価を「結論」として指し示したいとは思っていない。
 思っていることを、思ったまま、どこまで詩のことばといっしょに動いて行けるか。私のことばを動かして行ける。それ以外は何もしたくはない。

緑けむる海けむる
音楽なんぞ鳴らし慣らした道は
繋がらない変態性欲とともにけむり

 ああ、ここはイメージが「過激」になっていない。「同じ音」が繰り返され、おだやかな「歌」のように聞こえる。「変態性欲」ということばさえ、純粋な性欲、あるいは無欲の性欲(?)のように見えてしまう。聞こえてしまう。
 この「音楽」を聞いたあとでは、というのは、変だが……。
 「生い茂るはほら穴」「ほの暗い穴は」の「は」の繰り返しさえ「音楽」だなあ、と感じ直してしまう。「軽はずみ」のなかにも「は」がある。時間がまきもどされたように、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。

髭を固めた老人と並んで煙突掃除しながら
最小限主義者の血の揺すぶりのように言った
「脅かすつもりじゃなかったんだ」

犬はすっと、背すじを伸ばした。
そして寝る。水を飲んでまた寝る。
(実は3兄弟。上がフリークスで自殺している)

 何を書いているか、ぜんぜん、わからない。いや、正確に言うと、わからないのは「関係」である。「つながり」である。ひとつひとつのこと、一行一行は、「わかる」。言いなおすと、その「わかる」は「ほんとう」と感じられるということである。
 「ことば」なのに、「ことば」ではなく「事実」とし目の前に浮かんでくる。
 これは書き出しからそうなのである。一行一行(あるいは、ひとことひとこと)が全部「ほんとう」である。「ほんとう」のものは何か不思議な力で「共存」している。それは、ある意味では「暴力」である。共存してほしくないものまで共存している、現実に存在するのが「世界」だからである。この暴力に耐えられずに、ひとは「論理」でそれを整理整頓する。ひとは「世界」を整えて、自分を守っている。
 須藤は「学校文法」にしたがって「世界」を整えようとはしていない。整える前に「事実」をことばにしてしまう。整えられた世界を破壊し、その瞬間に、ぐさっと刺さってくる断片を受け止めている。
 たとえばビルが爆発したとする。ガラスの破片が飛び散り、体中につきささる。そのとき、そこには「時間差」(順序)というものがあるはずだが、ひとは「順序」を識別できない。すべては「一瞬」のうちに起きてしまう。
 須藤は、その「一瞬」を「一瞬」そのままの形でことばにしようとしていると思って読めばいい。あらゆる行に前後(時間差)はない。「方便」として、そう書いているだけである。読む人間は、いちばん先に感じた痛み(衝撃)を中心にして、「世界」を追体験すればいい。
 もちろん、正確な追体験などできない。
 だから私は「誤読」を、「誤読」そのままとして、書く。弁解はしない。これが、私の須藤との「出会い方」なのだ。ほかの方法では、出会えない。「出会い」で何がわかるわけではない。須藤のことなど何もわからない。しかし、「須藤がいる」ということだけはわかる。この瞬間を、私は「詩の体験」と呼んでいる。



























*

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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
あなたが最期の最期まで生きようと、むき出しで立ち向かったから
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(80)

2018-09-26 14:15:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
80 ヒポクラテスより

「メリポイエの青年 過度の飲酒と房事ののち
発熱が続いて病臥 悪寒と嘔気を訴えた
錯乱気味だが行儀よく 沈黙を守っていた」
もし医聖が 症例の一つとして記録しなければ
二千数百年後に 知られることもなかった人物像
「二十四日目死亡」と終わることで 些かな永遠化

 カヴァフィスの詩(墓碑銘シリーズ)を思わせる作品。括弧内は引用、ヒポクラテスのことば。高橋は、それを説明し、最後に「永遠化」と書き加えているだけなのだが、私はこの詩に強く惹かれた。
 引用されているヒポクラテスのことばが簡潔である。ヒポクラテスが書いた通りなのか、高橋が簡潔に書き直したのか。どちらかわからないが、余分なものがなく、「神話」の文体である。
 高橋がここで「永遠化」と呼んでいるのは「具体」のことである。「具体」は「一つ」ということばで言いなおされている。「永遠」は「一つ」ということ。「普遍」というよりも「個別(具体)」であることが「永遠」の核心なのだ。
 「二十四日目」の「具体的」な数が、それを象徴する。「日にち(時間)」に明確な区切りを刻みつけている。連続する「抽象的なもの」を切断し、「個別(具体)」にすることで「肉体」そのものに引きつける。
 そして、それが「記録」される。「永遠化」の「化」とは「記録する」ということによって成り立つ。「ことば」は何かを記録し、記録することで「永遠」を生み出す。そこにある「ことば」を読み取り、理解する。そのとき「永遠化」の「化」ととりはらわれ、「永遠」そのものになる。
 その繰り返される運動が、ここに書かれている。

 ただ、カヴァフィスなら、「永遠化」とは書かなかっただろう。念押し(?)などせずに、ヒポクラテスをただ引用する。つまり反復することで、そのことばを「永遠」にしただろう。カヴァフィスのしたことを読者が繰り返すとき、そこに「永遠」があらわれる。それを「永遠」と判断する人もいれば、気づかずに通りすぎる人もいる。そのことばの前で立ち止まるのは、いま生きている人ではなく「二千数百年後」の人であってもかまわない。そう判断し、ことばを切って捨てただろう。
 私は中井久夫のカヴァフィスしか知らないのだが。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
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人権はどこへ行ったか(生産性の問題、2)

2018-09-26 09:35:30 | 自民党憲法改正草案を読む
人権はどこへ行ったか(生産性の問題、2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外231(情報の読み方)

 2018年09月25日の毎日新聞夕刊(西部版・4版)の特集ワイド(2面)。びっくり仰天し、またやっぱりそうなのか、と思う記事が載っていた。

日本で生まれ育った少年 ファラハッドさん
強制送還でいいのか
労働者は必要 でも「移民」反対 外国人の人権は?

 という見出しがついている。
 少年は16歳。出稼ぎで来日したイラン人の父と日系ボリビア系の母の長男。神奈川県で生まれ、神奈川県立高校に通っている。家族の会話は日本語で、両親の母語はほとんど話せない。
 父親は短期在留ビザで入国した。期限が切れても滞在していたので逮捕された。そして家族に退去強制令が出た。現在、退去強制令の無効確認を求めて係争中だが、国側は、事実関係に争いがないから「尋問の必要はない」とはねつけている。人権については、何も考えていない。
 この問題は、これからどんどん起きてくる。
 日本は外国人を「労働力」として搾取する方針を取っている。「研修生」などの「名目」で呼び寄せ、働かせ、一定の期間を過ぎると追い返す。長期間働かせると「賃金」をあげないといけない。だから期間を限定し、期間が過ぎた人を追い返し、新しい「労働力」を補給し続ける。賃金面からみた「生産性」を重視している。
 ところが、人間というのは、単に「労働力」ではない。「力」として抽象化できない。生きている存在である。働いて、暮らしていれば、そこに必然的に人との出会いがある。恋愛もすれば、その結果、子どもも産まれる。あるいは「研修生」が「家族(夫婦)」で来日すれば、やはり子どもが生まれることも考えられる。子どもの教育に金がかかる。家族も金を出すが、国(あるいは自治体)も金を出すことになる。せっかく「安い労働力」で「生産性」をあげているのに、他の部分で取り崩してしまう。そうならないようにするために、「労働力」を「単身者」に限定している。外国人を「労働力」としてのみあつかうシステムを日本は作り上げている。
 こういうものは破綻するしかない。その例がこの少年の問題に集約されている。
 繰り返しになるが、人が暮らしていれば、そこには絶対に「恋愛」が入ってくる。「家庭」が生まれ、「家族」が誕生する。杉田は、LGBTのカップルは子供を産まない。だから「生産性」がない。そういう人たちに税金をつかうのは間違っている、と主張した。その一方で、外国人が日本に来て、その結果として子どもが生まれることに対しては「生産性」の問題を逆にとらえている。子供が産まれる。家が必要だ。教育が必要だ。そういうものに金を使うのは「生産性」重視の政策に反する。
 つまり、「生産性」についてダブルスタンダードなのだ。二重の基準で人間の行動を裁いている。そして、そのダブルスタンダードを支えているが「差別意識」である。LGBTのひとは、多数派ではない。だから差別してもいい。外国人は多数派ではない。だから差別してもかまわない。「人権感覚」がまったくないのだ。日本は「生産性(経済効率)」だけを基準にして、人間を峻別している。「生産性が低い」と判断すれば、その人を排除しようとする。
 杉田がつかった「生産性」ということばは、安倍の基本姿勢なのだ。

 もし、この「生産性」を「戦争」にあてはめるとどうなるだろうか。
 子どもは、将来「戦力」になる。(生産性、戦争遂行に貢献しうる。)だから、子どもを殺すということはしないかもしれない。「沖縄スパイ戦史」では少年たちがゲリラ兵として徴用されていた実態を描いていた。しかし、老人はどうか。戦えない人はどうなるか。全員、マラリアの危険がある地帯に追いやられる。生き延びることができた人もいるが、多くの人が、死んだ。これは殺されたのである。一般の市民は、スパイになってしまうかもしれない。情報を敵に渡すことになるかもしれないからである。また、そうやって戦力以外の人間を殺してしまえば、その人たちが生きるために育てていた牛などを奪い、兵士の食糧にもできる。「生産性」に貢献できる、ということである。

 ファラハッドさん問題は、単に、彼の一家だけの問題ではない。そういう問題の奥には、日本の人権を無視したシステムがある。それは「生産性重視」というシステム、「資本主義」の病根である。安倍が独裁者でいるかぎり、「資本家」だけがもうかり、他の国民は搾取されるという社会が増幅する。
 近くのコンビニで買い物をしてみるだけで、現在の暮らしがいかに「外国人」に頼っているかがわかる。外国人が働いてくれない限り、コンビニは次々に潰れるだろう。建設現場、介護の現場も、必死に外国人を雇い入れようとしている。外国人頼みなのに、一方で外国人を排除しようとしている。
 大阪なおみがテニスで優勝すれば「日本人」と呼ぶ。しかし、彼女が四大大会に出ることのできないアマチュアだったら、どうか。ダルビッシュはどうか。ケンブリッジは、どうか。「日本人」として取り上げられるだろうか。個人として尊重されるか。
 スポーツは「国籍」など、だれも気にしない。プレーを見るとき、「どの国の人」かを気にしない。ただ、自分にはできないことをやってのける「肉体」、それを支える「精神」を見ている。「その人」を見ている。ボルトがオリンピックで走るとき、人は、ボルトが何秒で走るか、それだけを見る。連覇するのかどうか、それだけを見ている。
 日本が「労働力」を求めるなら、国籍を無視して「労働力をもった人間」を尊重すべきである。それは、「労働力をもった人間(労働者)」が「労働者」としていちばん活躍するのにふさわしい「環境」を用意しなければならない、ということである。安心して「家庭」がもてる、安心して「子どもの教育」ができる、という環境を整えないといけない。「労働力」を「労働者」として、「労働者」を「人間」として育てていくシステムが必要である。
 「生産力」ではなく「共存力」へ向けてのシステムづくりが必要なのだ。

 ファラハッドさん問題は毎日新聞が取り上げなければ、ほとんどの国民は知ることがなかっただろう。私も知らなかった。そういう知らない問題が、身の回りにたくさん隠されているはずである。













#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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三上智恵、大矢英代監督「沖縄スパイ戦史」(★★★★)

2018-09-25 11:04:26 | 映画
三上智恵、大矢英代監督「沖縄スパイ戦史」(★★★★)

監督 三上智恵、大矢英代

 第二次大戦末期の「沖縄戦」を描いたドキュメンタリー。少年ゲリラ兵、マラリア地獄、スパイ虐殺と三部で構成されている。背後に「陸軍中野学校」がある。「陸軍中野学校」の兵士が沖縄に潜入し、沖縄での戦争をより悲惨な結果へと導いた。
 映画の最後に、戦争は国民を守らない、戦争が守るのは兵士(軍隊)と権力者だけであるというようなことが語られる。その視点で貫かれた作品である。
 見ながら思ったことは、そういう沖縄戦をとおして見えてくる、「いま、起きていること」である。
 佐川事件(森友学園事件)を、私は思い出しながら見ていた。
 安倍が、安倍や昭恵が森友学園の土地売買に関与していたら、首相も国会議員も辞めると見得を切った。そのために佐川が資料の改竄をした。部下に改竄をさせた。その結果、近畿財務局の職員が自殺した。
 これは「佐川学校」が引き起こした「財務省戦争」である。自殺した職員は、「少年ゲリラ兵」である。「少年ゲリラ兵」に採用されたのは、優秀な生徒たちである。単に体力的にすぐれているというよりも、頭脳的にもすぐれていた。それこそ成長していれば「陸軍中野学校」で士官になる教育を受けた(受けることができた)だろう少年たちである。彼らは、とても優れているが、少年だから(経験が不足しているから)、全体の状況までは見渡せない。全体の活動を組織できるわけではない。命じられるままに、命じられたことをする。「お前はひとりで陣地に帰れ」と山の中で突然言われて、必死になって逃げ延びるというようなこともさせられる。自殺した職員も優秀な能力をもった人間、選ばれた人間である。ふつうのひとは財務省の職員にはなれない。その彼は、「お前ひとりでやれ」と言われ、そうするしかなかったのだろう。「国民のために」働くのではなく、「ひとりの独裁者のために」働かされた。その「働き」が国民のために、どう役立つのか、はっきり知らされることもないままに、仕事を強いられた。職員は「少年」ではない。分別がある。だからこそ、「これは自分の仕事ではない」と苦悩して、自殺してしまった。
 もし「陸軍中野学校の士官」が沖縄で「少年ゲリラ」を組織しなかったら、少年の多くは死なずに済んだだろう。同じように、もし佐川が資料の改竄を計画し、それを実行しなかったとしたら、近畿財務局の職員は自殺せずにすんだだろう。職員を自殺に追い込んだのは、安倍であり、佐川なのである。もちろん、それを明確に証明する「証拠」はない。だから安倍は開きおなっているのだが。
 「マラリア地獄」からは、長期間拘留された籠池夫婦のことを思い出した。なぜ、逃亡する恐れもない人間、証拠を隠滅する恐れのない人間を長期にわたって拘留したのか。拘留している間に、籠池夫婦の生活の場で何がおこなわれたのか。だれも知らない。「マラリア地獄」ではマラリアの危険がある島に島民を閉じこめている間に、飼っていた牛などの家畜を全部軍部が取り上げている。食糧にしている。島民に食べさせるのではなく、軍が生き残るために、住民のものを奪っている。籠池夫婦を拘留している間、捜査当局は何をしたのか。籠池夫婦を守るための「資料」を、安倍を守るために奪ったということはないのか。その「資料」があれば籠池夫婦が生き延びることができるはずなのに、それを奪い、安倍を守るためにつかった(牛を食べるように、「資料」を消してしまった)ということはないのか。
 権力者(軍隊)は、彼ら自身を守るためには何でもする。国民は、彼らを守るための「道具」に過ぎないと判断している。
 「スパイ虐殺」からは、加計学園事件(前川事件)を連想した。
 最近、文科省の官僚が次々に辞任に追い込まれた。もちろん「接待汚職」という「事実」があってのことなのだが、私はほかのことも「妄想」する。なぜ、文科省ばかり? ほかの官僚は「接待」を受けていない?
 文科省には前川前次官によって教育を受けた職員がいるはずだ。前川のように、政権の「腐敗」を指摘する人間がまた出てくるかもしれない。そういう職員は、安倍から見れば「スパイ」だろう。敵側に通じている人間に見えるだろう。処分してしまえ、ということだ。辞任することになった官僚が実際に「スパイ(政権を裏切る)」かどうかは問題ではない。政権は、職員の細部の行動を把握している、いつでも「処分」できるぞ、ということを見せつければ、それでいい。政権に逆らえば、「証拠」をでっちあげて追い込むこともできる。すでに私たちは、前川が「風俗店通い」というレッテルで誹謗・中傷されたことを見ている。
 権力は権力を守るためになら何でもする。そして、そのために平気で他人を利用する。また、それに協力する人(組織)も出てくる。いったん「スパイ虐殺」の動きがはじまれば、「スパイ」は捏造され、処分される。
 ここから、これから起きることも予想できる。
 安倍は憲法改正をもくろんでいる。独裁者になって、戦争を引き起し、軍隊を指揮する、国民を支配するという野望を持っている。
 その安倍を批判する活動をすると、どうなるだろうか。「言論の自由(思想の自由)」は憲法で保障されている。だから安倍批判をしたからといって、「スパイ虐殺」のようになことは起きない。弾圧はされない、と思うかもしれない。しかし、安倍批判そのものではなく、ほかのことを取り上げて、個人を批判し、抹殺するということがあるのではないか。前川を「風俗店通いをしている不道徳な人間」とレッテルを貼ったように。それこそ、「風俗店に出入りしているのを見た」「妻以外の女(夫以外の男)とホテルに入るのを見た」(山尾事件、だ)ということで「人格攻撃」をする。「人格的に問題がある」、だから安倍の改憲論を批判する資格はない、という具合だ。「秘密」を公開されたくなかったら、安倍批判を辞めろ、という間接的な弾圧だ。
 いま書いたように、こういうことはすでに起きている。もう起きていることは、これからさらに起きるのだ。前川とか、山尾とか、ふつうの市民ではない人間だけを対象として起きるのではなく、ただ街頭でビラ配りをした、デモに参加した、安倍批判の映画を見に行ったという市民を対象にしても起きるだろう。
 そして、そういうことが起きると、「密告」が起きる。自分を守るために、他人を「密告」する。「密告」することが、「権力側である」という証拠になり、保身につながるからである。
 安倍のもとで、こういうことははじまっている。
 逆の「証拠」で、それを「証明」できる。女性をレイプした安倍の「知人」は、逮捕 されなかった。「セクハラ罪はない」と麻生は言った。「LGBTのひとは生産性がない」と言った杉田は擁護された。安倍の「知人/友人」なら、どんなことをしても守ってもらえる。しかし、そうでなければ徹底的に批判される。
 こういう「戦い」は見えにくいが、日本はすでに「内戦状態」であり、安倍は独裁者として平然と生きている。

 あ、沖縄のことを書き忘れた。
 沖縄に米軍基地があるかぎり、沖縄は攻撃対象になる。「沖縄戦」は再び起きる。そのとき、沖縄県民を「自衛隊」は守らない。米軍は、もっと守らない。沖縄県民の反対を押し切って、辺野古基地の建設が進んでいる。そのために全国から機動隊までもが動員されている。権力、軍隊は、国民を犠牲にしても何もと思わない、ということが現実として証明されている。私たちは、いま、その現実の真っ只中にいる。
 「沖縄戦」は、はじまっている。
 (2018年09月24日、KBCシネマ1)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

沖縄の戦世―県民は如何にしてスパイになりしか
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(79)

2018-09-25 09:13:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月25日(火曜日)

79 究極の知恵

究極の知恵とは こういうことではなかろうか
すなわち よいことはすべて他人のおかげ
悪いことはことごとく 自分から出たこと

 「他人」と「自分」、「よい」と「悪い」が対比されている。対比によって「ことば」を動かしている。これは「論理」の準備である。「論理」は「なかろうか」という推論から始まり、「すなわち」という断定への飛躍の中に準備されているのだけれど。
 このあと、

そう考えてなおかつ 悪いことしか起きなかったら

 と、もう一度、仮定(ことば)によって論理を動かしていく。その論理の中に「神」が登場する。「神」と「きみ(人間)」が向き合い、「倫理」が示される。

その悪いことが きみをいっそう研ぎ磨いてくれるのだから

 「研ぎ磨く」というとき、「磨く」ために「研ぐ」のだと思うが、高橋はこのことばの「重心」を「研ぐ」の方において、

研いで磨いて 研磨の果てに磨り減って きみがすっかり
消滅したら 悦ぶべし きみはもはや苦しむことはない

 と動いていく。具体的な事実を含まない、「ことば」だけの運動だ。
 このあと、最後の一行。

きみはどこにも存在しないどころか 非存在もしないのだから

 「ない(非存在)」が「ある」という発見はギリシア哲学によるものだが、ここで急に飛躍するのか……と、私は驚く。同時に、最初の一行、「なかろうか」のなかに、すでに「ない」があったことに気づく。「なかろうか」は「ない/だろうか」である。「出発点」に高橋は帰るのである。
 「ない」の発見を「よい/悪い」「他人/自分」「神/きみ」の対比からとらえ直し、対比を衝突、研ぎ磨くという動詞をつかって「非存在」にまで動かしていく。この運動を「磨く」という動詞に重点をおいて動かし直せば、きっと「善(よい)」は「想起する」ときにだけ「ある」にかわる「非存在」という定義になるんだろうなあ。
 「悪」に重心を残すことで、詩に踏みとどまろうとしている。


つい昨日のこと 私のギリシア
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論理はどこへ行ったか。

2018-09-24 09:13:09 | 自民党憲法改正草案を読む
論理はどこへ行ったか。
             自民党憲法改正草案を読む/番外230(情報の読み方)

 2018年09月24日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の文化面。「論壇誌 9月」に、9月に発行された論壇の批評が載っている。(筆者は、小林佑基)そこに、歴史学者・與那覇潤の「リベラル派の凋落は自業自得だ」(『Voice』)が紹介されている。私は、與那覇の文章を読んでいない。小林が紹介している文章から判断するだけなのだが、びっくりしてしまった。これが「論」なのかと。小林は、こう紹介している。(括弧内の番号は、私が補った。)

 (與那覇は)杉田議員がLGBTを不自然な存在とみなしている事実は隠しようもないとし、「LGBTに関する無知」があったと指摘する。ただ、批判側の中心になったリベラル派の「凋落」と「自己矛盾」も示されたと強調する。なぜなら、(1)同じリベラル派は2年前に「保育園落ちた日本死ね」と題した匿名ブログを取り上げ、「子育て支援には最優先で税金を投入せよ」とのロジックを展開していたからだ。(2)当時、子育て世代への優遇策を主張した彼らが、同性カップルや独身者に配慮する考えを持っていたのかと問いかけ、それを自制する議論を現在、ほとんどみかけない。

 與那覇の論は二つある。
(1)「保育園落ちた日本死ね」というブログに触発されて、リベラル派は「子育て支援には最優先で税金を投入せよ」と主張した。
(2)子育て世代への優遇策を主張した彼らが、同性カップルや独身者に配慮する考えを持っていたのか。

 私は疑問に思う。
 (1)に含まれる「子育て支援には最優先で税金を投入せよ」は、単に子育てをしている人(家族)を支援せよ」という主張ではない。そこには子どもの教育に税金を投入せよ、ということである。子育てをしている人(家族)に税金を投入せよ、と言っているのではない。それはすでに「子ども手当て」とか,企業から支払われる「扶養家族手当て」で優遇されている。
 問題は、保育園が少ないということ。保育園をもっとつくれ、保育士をもっと増やせ、というのがリベラル派(?)の主張である。それは「子育て支援」というよりも「子ども支援」だ。
 現実を見てみれば、わかる。幼稚園に子どもを預けることができなかったひとは、働くことをあきらめ、子育てを優先している。その結果、家系が苦しくなったと訴えている。子育てを放棄していない。子育ては放棄できない。
 ここにいちばんの問題がある。
 これを無視して(2)の論理を展開するのは、論理になっていない。
 リベラル派(?)は、同性カップルや独身者にも「子育て費用」として支給されている金を払えと言っているわけではない。同性カップルや独身者も「子育て費用」を要求などしないだろう。同性カップルや独身者は、自分自身の判断で、そうあることを選んでいる。そういう人間が、自分に「子育て費用」が支給されないのは差別だと言うだろうか。
 「子育て」ではなく、「高齢者介護」を例にとるとわかりやすい。親の介護のために「介護休暇」をとる人がいる。そういう制度に対して、まだ親の(あるいは兄弟の)介護をに迫られていない人が、「私が介護休暇をとれないのは差別だ」と言うだろうか。
 どんな「支援」も「対象」を見極め、同時にそれに従事する人との関係で見ないといけない。
 「子育て支援に税金を投入せよ」とは、「子ども支援に税金を投入せよ」ということである。「高齢者介護支援に税金を投入せよ」なら「高齢者支援に税金を投入せよ」ということである。結果的に、実際に「子育て」「介護している人(介護士を含む)」に金が支払われるとしても、それは「子ども」「介護が必要とされる人」への支給である。
 與那覇は、現実の金の流れと、その「効果」を見ていない。

 ここからは、少し別のことを書く。
 安倍は改憲案のひとつに「教育の無償化」をあげているが、これは注意深く吟味しないといけない。安倍はほんとうに「教育の無償化」など考えていない。
 「保育園落ちた日本死ね」という批判を受け止め、政策を実施するとき、どうしてもそこに保育園の増設、保育士の増員という問題が絡んでくる。安倍は、そういうことをするはずがない。「だれでも高等教育が受けられるように」とは言っても、「子どものすべてが保育園、幼稚園に入れるように」とは言っていないことだけを見てもわかる。
 さらに、これは別な角度からも証明できる。
 日本は現在多くの外国人労働者の力を借りている。しかし、その「労働者」として日本に入国しているのは「単身者」が中心である。家族、子どもぐるみで「研修生」が来ているわけではない。家族で来れば、それなりの住居の手当てが必要だ。子供が産まれる、あるいは子連れでくるなら、子どもの教育にも金をかける必要がある。日本で働く外国人の国籍がさまざまになれば、学校運営はとてもたいへんである。そういうところに金をかけたくないから、「単身者」しか受けいれないのだ。
 「子どもの教育」は、すでに「選別/差別」されている。こういうことは実際に外国人の子どもがまわりにあふれてこない限り、「見えない」。見えないけれど、実際に起きていることなのだ。
 朝鮮学校の問題に目を向ければ、すぐわかる。そこで学んでいる人たちは、日本で生まれた。それなのに税金が投入されていない。差別されている。
 外国人労働者が増え、外国人の子どもたちが日本で暮らし始めれば、同じことが起きるのだ。

 自分と違う意見の人を「リベラル派」と断定する與那覇は、リベラル派に属さない人なのだろう。
 そういう人が、どういうことを言っているのか、私は個別に確かめたことはないが、たとえば(1)の問題なら、「子育てには母親が絶対必要だ」というような言い方をする。一方で、女性に社会で働くことを要求しながら、他方で子育てを母親に限定して押しつけるという矛盾した論を展開する。
 たぶん、そういう人たちは、特別な「家族像」を描いている。いるまの日本ではほとんど姿を消してしまった「家庭像」を思い描いている。
 子供が産まれた。母親が働くのなら祖父母が孫の面倒を見ればいい。昔ながらの「大家族制度」で子育てを充実する。これが「理想」なのだ。祖父母に介護が必要なころには、子ども(孫)はすでに社会で働いているだろう。女性は退職し、家で両親(孫にとっての祖父母)の介護をする。孫たちは、働いて家系を支える。「家庭内」で「子どもの教育」「高齢者の介護」を完結する。「国家(つまり安倍政権)」に金銭的負担をかけない。これが、究極の「生産性の高いシステム」ということになる。
 だからこそ、2012年の自民党の憲法改正案には

第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 と書かれているのである。そして、それは憲法の前文の、

活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 と直結している。
 「生産性(経済発展)」が最優先であり、そのためにかつての「大家族制度(家長制度)」を復活させる。「国家」という「家族」の頂点に安倍が居座り、「独裁」をふるう。それが安倍の狙いのすべてだ。そのためには戦争も引き起こす。戦争になれば、「家族内(国家内)」で対立している余裕はない。すべて安倍にしたがって状況を乗り切るしかない。
 安倍は、自分では死の恐怖に向き合わず、国民を死の恐怖で支配する。
 そういう体制をつくるために、「教育の無償化」をてこに、教育に介入する。政権批判をする「学問」を封じ込める。

 教育とは、いったいだれのためのものなのか。そのことを考えないといけない。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(78)

2018-09-24 05:17:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月24日(月曜日)

78 神聖喜劇

 ソクラテスとプラトンを描いている。
 私にとってソクラテスは最大の謎である。ソクラテスの言っていることは、私の考える限り「論理」的に正しい。けれど、その論理の正しさはソクラテスのいのちを守れなかった。いのちを守れなくて、どうして正しいと言えるのか。
 ソクラテスの論理は間違っているのではないか。
 でも、私は、「間違い」を見つけることができない。
 この問題を高橋がどう解決したのか、よくわからない。こう、書いている。

老いさらばえて尊厳ある自然死なんて 何処にもありはしない
あるのは 汚物と屈辱にまみれた みじめ極まりない最期ばかり
七十過ぎてなお強健なソクラテスが何より怖れていたのは それ

 これはほんとうか。私にはわからない。ソクラテスは「汚物と屈辱にまみれた みじめ極まりない最期」を恐れたかどうか、それはどのことばをもとにすれば、そう判断できるのか。高橋は、ここでは書いていない。
 つづけて、こう書く。

だからこそ 神界を否定した科に自死せよという 虚偽の判決を
かえって神神からの慈悲にあふれる贈りもの と悦んで受け容れ
獄舎の夕べ 信奉者たちの嘆きに囲まれ 従容と毒杯を飲み干した

 「だからこそ」ということばは、この詩でとても重要だ。
 高橋は、ソクラテスが老いの死を恐れたという根拠を示していない。それなのに、高橋は自身の想像(?)を根拠として、「だからこそ」とさらにことばを先へと動かしている。想像に想像を重ねる。
 まるで想像を押し進めれば、想像が「事実」に変わるかのようだ。

 詩は、たしかに、そうなのかもしれない。
 詩は「客観的事実」でなくていい。「個人的な事実」(主観的な事実)でいい。「主観」が強ければ強いほどいい。「強さ」が「事実」なのだ。

死の場面は描かないという作劇術暗黙の決めごとを 敢えて破り
もと悲劇作者志望の若きプラトンが いきいきと描いたのは
この最期の大団円 すくなくとも喜ばしい破局と断じてのこと

 「強さ」は「いきいき」と言いなおされている。



つい昨日のこと 私のギリシア
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アニエス・バルダ、JR監督「顔たち、ところどころ」(♡♡♡♡♡)

2018-09-23 19:25:24 | 映画


アニエス・バルダ、JR監督「顔たち、ところどころ」(♡♡♡♡♡)

監督 アニエス・バルダ、JR 出演 アニエス・バルダ

 アニエス・バルダとJRのふたりが、ふつうの(?)フランス人の顔を写真にとって、その写真を巨大な壁に貼り付ける、という旅を追ったドキュメンタリー。いわゆるロード・ムービー。
 私は、こういう映画が大好き。ちょっとルノワールの映画の味に似ている。アニエス・バルダは、いわゆるヌーベルバーグの監督なのだけれど。
 どこがルノワール的かというと。
 自分を押しつけない。登場人物(役者)の中から出てくる(あふれてくる)ものに丁寧に寄り添う。人間が生きているがままの姿を、「私はあなたが大好きです」という感じでつつみこみ、励ます。
 そのとき「登場人物」というのは「他人」だから、思いがけないことが起きる。監督ひとりでは思いつかないことが起きる。そして想像力が刺戟される。「未知」のものが、そこからはじまる。どこまで「未知」が「未知」のまま世界を広げていくかわからないけれど、こういう「時間」はどきどき、わくわくする。
 あ、いま「事件」が起きている、その「現場」にゆきたい。そこにいる人といっしょの時間を過ごしたい、と思う。
 うれしくて、うれしくて、前半は涙が出そうだった。
 フランスの「田舎町(田舎の村)」。そこで初めて出合う人。そのひとの、ことば。どこかから借りてきたことばではなく、そこで生きて、自分で考えたことばを話す。借り物ではないから、とても強い。
 いろいろなことばが生きているが、田舎の村の年金で暮らすホームレス(?)は、まるで哲学者だ。自慢の家を見に来い、という。言ってみると屋根のない家だ。「母は月の優しさを持っていた。父は太陽の激しさ(厳しさ)を持っていた。私は、それを引き継いでいる。私は宇宙だ」というような、壮大なことばを自然に声にしている。手作りしたモービルのようなものが、青空に揺れる。そのときは真昼なのに、その男の声を聞いていると、青空の中に星が輝いているのが見える。満天の、星の海である。
 打ちのめされる。
 そういう、ことば(暮らし)とは別のものもきちんと映画にしている。村のレストランで働く女性。彼女の写真を拡大して、レストランの外壁に貼る。二人の子どもがやってくる。母親の写真をバックに「自撮り」する。そのあと、写真の母親の足を「こちょこちょ」とくすぐる。女性は裸足で写真に納まっている。あ、この母親は子どもをあやすとき、足をこちょこちょとやったのだな、ということが自然にわかる。子どもだから、ほかの登場人物のように「含蓄のあることば」を言うわけではないが、この「こちょこちょ」の「肉体のことば」がとてもいい。正直だ。そして、その子どもの正直が、そこで語られる大人たちのことばの「正直」を保証する。誰もが、自分自身の、暮らしの中でしっかりと「肉体」で覚え込んだことばをしゃべっているのだ。そう教えてくれる。
 あたたかくて、正直で、苦労から逃げ出さずに、がんばって生きている人が、こんなにたくさんいる、ということに、ほんとうに涙が出てくる。
 でも、最後に悲しいエピソードがひとつ用意されている。
 アニエス・バルダは、かつての友人、ゴダールを訪ねていく。しかし、約束の時間にゴダールの家に行ってみると、扉は固く閉ざされている。「呼び鈴」がない。ガラス窓に「伝言」が書いてある。会えないのだ。
 それまで、一度も会ったことのない人と会い、ことばを交わし、写真を撮り、互いに刺戟を与えながら生きることができたのに、旧友には会えない。窓に書かれたことばは、かつてほかの場所で聞いたことばだ。
 これは、とても悲しい。
 けれど、この悲しさが、また前半の美しいことば、出会いを、強く思い出させてくれるという「隠し味」になってもいる。
 もしかすると、前半の出会いにも、悲しく、つらいことがあったのかもしれない。でも、アニエス・バルダは、楽しく、想像力をゆさぶるようなシーンを大切にし、それを映画のエンジンにしたのだ。そういうことも想像できる。アニエス・バルダの「生き方」が、最後にそっと差し出されていることになる。
 「ゴダールの好きなパンを買ってきたのに」と言って、袋に入ったパンをゴダールの家の扉(その取っ手)に結びつけるシーンは涙が出るなあ。
 笑って笑って、うれし泣きしたあと、悲しい涙も流す。でも、それが前半の感動を、そっと落ち着かせる。まるで何も見なかったような、自然へと世界がもどっていく。静かな世界に戻りながら、目をこらせば、いますぐそばにある喜びが見えてくるよと語りかけてくれるようでもある。
 こういう映画は、私は大好きだ。だから、今回は★ではなく♡マークで点数をつけてみた。



 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(77)

2018-09-23 09:29:39 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
77 四十年前と四十年後

「貴公は見たところ たいそうお若いようだが
頭髪に白いものが混るのは どういうわけか」
四十年前の老人たちに とっさに答えられなかった
四十年後のいまなら 微笑ってこうも答えようか
「あのときの生若い私は ひたすら老いの知恵に憧れた
逆にいま生老いの私は 無知の若さを惜しんでいる」

 対句になっている。「対」のなかに「時間」がある。「対」は「向き合う」という動詞としてとらえ直すことができる。
 高橋はしかし別の動詞で「対」を完成させる。

同じ松脂入りの白葡萄酒のグラスを独り重ねながら

 「重ねる」は、この行では「グラスを重ねる」、酒をさらに飲む、という意味。情景の描写だが、「四十年前」と「四十年後」を「重ねる」という動きを象徴している。行頭の「同じ」は「四十年前」と「四十年後」が、ことばこそ違え「同じ」だと言っている。「重ねる」は「同じ」にすることである。「同じ」になることである。
 ここから前の行に引き返すと、「とっさに答えられなかった」も「微笑って答えようか」も「同じ」に見えてくる。もしかすると「とっさに答えない(即答しない)」は「老いの知恵」であり、「微笑って答える(微笑に意味を持たせる)」は「若者の本能」かもしれない。
 だいたい「頓智(論理)」というものは若い人間が動かすものだ。老いた人間は論理を捨てて動く。肉体の動きそのものが論理になるというのが、老いることだ。
 私は、高橋の空想の問答には感心するというよりも、笑いを誘われた。

 「重ねる」とき、「同じ」ものと同時に、その瞬間に「違う」ものもすれ違う。
 そのとき「時間」は、どんな「形」をしているのか。「四十年」は「四十年」という「長さ」を持っているだろうか。「四十年」を忘れてしまっているだろうか。

 「グラスを重ねる(盃を重ねる)」は常套句だが、常套句に隠した、常套句ならではの「味」がある。この「味」に迷いながら、ことばに「酔う」のは楽しい時間である。





つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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