詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新延拳『背後の時計』(2)

2011-09-30 23:59:59 | 詩集
新延拳『背後の時計』(2)(書肆山田、2011年09月10日発行)

 きょうは、少し脱線。

 詩集には「栞」がついている。解説がついていることがある。私は、この類をほとんど読んだことがない。詩集が、どうにもつまらなかったとき、これはどんなふうに読めばいいのだろうと思って10冊に1回くらい読む程度である。
 今回も読むつもりはなかった。
 けれど、あ、岡井隆が書いている。読むつもりはなかったのだけれど、大好きな岡井隆が書いているか。どんなふうに書いているんだろう、と読みはじめた。

 ある日、キリスト教の本郷弓町教会の牧師のSさんからお手紙をいただいたのです。

 と、新延拳『背後の時計』を読むことになった経緯、栞を書くことになった理由から書きはじめている。
 あ、そうか、新延はキリスト教と関係があるのか。きのう読んだ詩に「十字架」とか「罪」とかでてきたが、新延にとっては、それは身についたことばだったのか……と思いながら、1ページ目を読み終え、2ページ目に進み、

ぎゃっ、

 私は声を上げてしまった。岡井は「神話の切れ端」について書きはじめている。きのう、私が感想を書いた作品である。そこに書いてあることが、そして書き方そのものが、私が書いたこととまるっきり同じなのだ。
 1連目を、まず最初の3行だけ引用し、感想を書く--というスタイルからしてそっくりなのである。
 わっ、これでは、私が岡井の文章をそのまま引き写していることになる。いわゆる「盗作」「剽窃」というやつだなあ。
 あ、困った。もうブログにアップしてしまった。私のブログの読者はとても少ないけれど、きっと「盗作」と思っただろうなあ。あまりにも似すぎている。

 言葉が清潔にそして正確に、或る種の抒情味をもつて使はれてゐるのに(当然とはいへ)共感しながら読みます。ところで、作中主体の「少年」は、誰でせう。ぼくは、なんとなく作者の少年期を重ねて読み出しました。(ちがつてゐれば、あとで訂正すればいいのです。)

 これは、最初の3行に対する岡井の感想。
 私は、書かなかったけれど、「ちがつてゐれば、あとで訂正すればいいのです。」という読み方、その態度(開き直り)--これがまず、私の考えそのもの。岡井の書いている感想よりも、まず、そこにびっくりした。私が詩の(あるいは、他の小説や映画でもそうだけれど)感想を書くときは、見境もなしに書きはじめる。間違っていれば、途中でなおす。それでいいと思って書いている。書いている途中で、最初に思ったこととはまったく違ったことを書くことも或る。「傑作」と書こうとしていて、「つまらない」と書いてしまうこともあれば、「つまらない」「大嫌い」と書こうとしたのに、「うーん、傑作だ」と書いてしまうこともある。ことばは、動かしてみないと、どこへゆくかわからない。きっと、最初に思っていたことよりも、ことばを動かしているとき、誘い出されてくるものの方が正しい--私は、そう思っている。
 あ、でも……。
 これは、私が岡井が好きで、そのことばを読んでいるうちに、無意識に取り込んでしまったことかもしれない。私は岡井のことばに影響され、その影響の下でことばを動かしている。自分で感想を書いているつもりでも、知らず知らずに、岡井をコピーしていることかもしれない、と思った。

 岡井は、その後「川」が「沼」にかわっていること、「少年」が「君」にかわっていることに触れている。「十字架」と「罪」といことばに目を止めたことを書いている。「神話」と「物語」についても触れている。「整える」ということばについても触れている。まるで、そっくりそのままである。
 あえて岡井と私の書いていることの違いを探せば、

「草矢で」落とされる夕日と、夕映えの中を落ちてくる鳥。かうひふところは、わたしのよく知る短詩型の描写力と親近性があります。
          (谷内注 落とされる、落ちてくる、には傍点がついている)

 というところである。
 私は、それにはまったく気がつかなかった。「対句風の技法」ということも気がつかなかった。これは、私が俳句や短歌を書かないから、気づきようがないことなのかもしれない。指摘されて、あ、そうなのだ、と思った。
 しかし、私が書いていないことを書いているから、私が岡井の「盗作」をしなかった--という証拠にはならないなあ。私が馬鹿だから、岡井の指摘していることがらの重要性に気づかなかったという証拠にしかならない。

 とういうことよりも。

 そしてさらに、「テクストクリティークまがいの解読」、「構造主義のはやつた八〇年代」に触れている。
 まいったねえ。あ、そうか、私のやっていることは、八〇年代の構造主義的解読なのか--と、そんなことまで、ここで教えられもするのだ。見透かされてしまうのだ。私は構造主義も、テクストクリティークも勉強はしたことがないが、そういえば八〇年代は、そういう「声」がまわりで聴こえていた。私は、自分の聞いたことを、耳で聞いて、無意識にコピーする癖があるのかもしれないなあ。
 ちょっと、どう書きつづけていいのか、わからなくなった。
 でも、がんばって、少し書いてみよう。
 岡井は、栞の最後に「悲しみの賞味期限」という作品の一部(アフォリズムめいた詩行--岡井のことば)を引用している。そして、

そのどこからでも、「本当の物語」を想像することができるやうに思はれます。

 と書いている。
 だから、私は、その岡井の引用していることばを避けて、少し感想を書いてみたい。そうすれば、そこは「盗作・剽窃」とは言われないだろうから……。



 「悲しみの賞味期限」を読んでみる。

潮が引くとき砂とともに足裏を削ってゆく感触を
何にたとえたらよいのだろう
夏の夕暮れ
悲喜は交互に調べをなすようにおとずれる
記憶しているのは些細なことばかりだけれど
われわれは「どこか」へ向かうのか
それとも
「いつか」へ向かっていくのだろうか

 1行目が、繊細で美しい。「足裏」ということばが「肉体」を刺激し、海辺を歩いたときのことを思い出させる。砂が流れていく(砂が奪われていく)ではなく「足裏を削ってゆく」がとても繊細だ。「肉体」の「足裏」は実際には削られたりしない。「感触」が、そう錯覚するのである。
 「現実」と「感触」のあいだには「ずれ」がある。その「ずれ」を書いていくとき、そこに「物語」があらわれる。
 「現実」と「私」を和解させる--そのために「物語」が必要ということだろう。
 「神話」は「私」が「現実」と和解するための「ことば」ではない。それは「現実」を超越するための「ことば」であり、「神話」のなかで「私」の「感情(感触)」は燃焼に輝く「美」になる。
 「物語」にも感情の燃焼はあるかもしれないが、それは完全燃焼ではない。何かが、残る。それは、

何にたとえたらよいのだろう

 という二行目のことばがあらわしているように、よくわからないものである。燃焼しきれない何か、ことばをもとめている何か。ことばになろうとする何か。
 この「何か」は、不思議なことに、必ずしも「同義反復」ではない。「同じことば」を行き来するわけではない。

われわれは「どこか」へ向かうのか
それとも
「いつか」へ向かっていくのだろうか

 「われわれはどこへ向かうのか/ここか/あそこか/それともそこか」と「場」をあらわすという意味での「同義反復」なら、にく経験することである。けれど、新延は、ここでは、

どこか(場)
いつか(時間)

 を同じものとしてというか、比較の対象として書いている。
 「場(空間)」と「時間」は比較の対象にはならない。--はずであるけれど、それを比較してしまう。そのとき、その「比較」を成立させているものは何か。
 「肉体」である。「足裏」に象徴される「肉体」である。
 「空間」と「時間」を「いま/ここ」に結びつけるものとして、「私」がいて、「私の肉体」がある。
 そして、そのとき、もし「私」と「あなた」がいるとすれば、「私」が動くとき「いま(時間)/ここ(場所)」が動き、また「あなた」が動くとき、あなたの「いま(時間)/ここ(場所)」が動くということでもある。ふたつの「いま(時間)/ここ(場所)」は、そのときどうなるか。
 ずれる、離れる--と私は思う。

すぐ手垢にまみれてしまう形容詞の哀れ
恋心が脱臼するように
日焼けのあとが消えてゆくのに合わせて思い出も薄れてゆく

 ここには、「私」と「あなた」の、どうすることもできない「ずれ」がある。
 「恋心」の「脱臼」は、痛いけれど、おかしい。そういう「ずれ」もあるけれど、私が触れたいのは、次の部分。
 「日焼けのあとが消えてゆくのに合わせて思い出も薄れてゆく」--この「合わせて」は「ずれ」を強調する「合わせて」である。「どこか」と「いつか」が重なり合いながら別なことばであり、別なことばであるということで「離れている」ように「離れている」。だから、それはどんなに「合わせて」動いているようにみえても決して重ならない。どうすることもできない「ずれ」がある。

もらうたびに手紙の文字がだんだん細くなってゆくのはなぜ

 「なぜ」の「理由」を「私」が知らないはずがない。知っているからこそ「なぜ」と問う。それは質問ではなく、実は、より強く胸に刻み込むためである。知っているのに聞くという「ずれ」。知らずにすむなら知りたくないのに、胸に深く刻んでしまうという「ずれ」。--そこに、「神話」ではなく、「人間」の「物語」がある。
 矛盾のなかで動くものが「物語」である。そして、思想である。

たぶんあなたの人生の中で
私は単なるエキストラのようなものだろうけれど
マラソンのリレーゾーンを伴走しているつもりだった
いまや伴走のあと離れてゆく電車
いや崇拝のあとの迷走
二つのぶらんこの揺れが合わない
いつまでも
言葉があふれそうだが無言のまま

 「伴走」したいのに「離れてゆく」。その「ずれ」。「合わない」。
 そして、「言葉があふれそうだが無言のまま」。あ、これは、言えないのか。言いたいけれど、こらえているのか。
 ひとは、いつでも矛盾を生きるのだ。矛盾の中にある、「ずれ」「分離」と、だからこそ「合わさる」ことを求めるもの、結晶として新しい形になりたいものがある。「物語」がある。
 このときの、うごめき--それを私は、詩だと思う。

 この「物語」の「結末」は、私はあえて引用しない。「結末」があると、「物語」は実は「物語」ではなくなる--私は、そう思っているからである。

雲を飼う
新延 拳
思潮社
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夏目美知子「小窓」

2011-09-30 12:45:47 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「小窓」(「乾河」62、2011年10月01日発行)

 「乾河」につどっている詩人たちは、ことばがとても静かである。その静かさに惹かれるが、静かというだけではその魅力を伝えることができない。でも、どう書けばいいのだろうか……。
 たとえば夏目美知子「小窓」。

玄関脇に小窓がある。そこから隣家の庭が見える。隣家は
長い間、空き家になっていて、壁も屋根も全体の雰囲気も、
次第に生気がなくなっていくが、端からはどうしようもな
い。窓は明かり取りほどの大きさなので、斜め上から見え
るのは腕で囲ったくらいの僅かな空間である。ブロック塀
の下の黒ずんだ部分や、縁が欠けた煉瓦の階段。そして、
半ば草に覆われた地面。草は枯れたり繁ったり新しい種類
が混じったり、多少の変化がある。
        (谷内注・「端」には「はた」、「縁」には「ふち」のルビがある)

 小窓から見えた風景を淡々とスケッチしているだけなのかもしれない。
 そのことばのなかで、私は「端からはどうしようもない。」という部分に、強く惹かれた。「端から」ということばのつかい方に、何か不思議なものを感じたのだ。いま、私は「端から」ということばをつかわない--つかわないと思う。かつてつかったかどうか、よくわからない。いわば、あまりなじみのないことばである。しかし、意味がわからないわけではない。逆に、うまくことばでは説明できないが、あ、そうか「端から」というのはこういうことか、と「肉体」の深いところで納得させられる「響き」がある。
 「読んだ」というよりも「聞いた」記憶がある。その「聞いた」ときの「響き」が私の「肉体」のなかに残っている。「端から」というとき、そこにあらわれる「距離」のあり方が、ふと「肉体」のなかにもどってくる。
 「端」というのは不思議な距離である。中心からは離れている。まさに「端(はし)」なのだ。しかし、それが「端」であるということは、「中心」がどこかにあり、それとはつながってもいる。
 それなのに「どうしようもない」。
 あ、私は、「端」ではなく「どうしようもない」に誘い込まれたのかな?
 そうではなく、「端」と「どうしようもない」ということばの「距離感」に惹かれたのかもしれない。
 「中心」とつながっている。けれども「端からはどうしようもない」ということがある。力が及ばない。--あるいは、それは力を及ぼしてはいけないということかもしれない。その「距離」のあり方が、ふいに「そこから隣家の庭が見える」の「見える」につながっていく。
 「見る」ではなく「見える」。「見える」だけではなく、夏目は「見ている」(見る)のだが、「見える」と書く。その「見える」に隠れている「肉体」と「意識」の関係が、まさに「端から」なのだ。離れている。そして、離れていながら「見る」という「肉体」でつながっている。しかし、「見る」という風に自分の「肉体」を駆り立てていくわけではない。
 自分の「肉体」が何かに関係する、そのときの動きを最小限におさえている。
 ここに夏目の「静かさ」の理由がある。
 そこにあるものを「受け止める」けれど、それに対して積極的にかかわるわけではない。「肉体」は、対象の「端」にあるだけで、「中心」へは向かって行かない。「中心」に対して働きかけない。

急に空が暗くなったと思うと雨が降ってくる。窓枠の向こ
うで、石蕗の葉が雨粒を受け、上下に揺れ始める。小石も
破けた金網も地面も次々に濡れていく。ただ黙って強い雨
に打たれている。

 こう書くとき、夏目は「石蕗の葉」になっている。石蕗の葉とは離れた場所にあって、しかし、ことばで「石蕗の葉」になる。そして、上下に揺れ始める。
 「雨粒を受け」ということばのなかに「受け」があるが、ことばで何かを書くことは、その対象になることで、対象になることは、その存在が「受け止めている」ものを「受け止める」ことである。「受け止める」という運動の中で、「私(夏目)」と「対象」が一体化する。けれど、その「一体化」はあくまで「ことば」のなかだけで起きることであり、「私の肉体」と「対象」は離れている。「私の肉体」は「対象」の「端」にある。「対象」の中心と「私の肉体=端」をつなぐのは、「ことば」だけである。
 「ことば」は「端」と「中心」をつなぐが、その連絡はただ「受け止める」ことである。

        情景は誰かの横顔のようでもある。私は
それを見ている。降りしきる音が辺りを包み込み、そのた
めに反って静けさがある。すぐ傍なのに、どこか遠いとこ
ろのように思える。

 「情景は誰かの横顔」ではなく、「夏目の横顔」である。夏目は情景をことばにして受け止めることで情景になる。そして、ことばにすることで「それを見ている」。ことばにするということは、「私」を「端」に置くことでもあるのだ。
 書くことは対象に接近することだが、同時に、対象から離れることでもある。そして、その離れ方のなかに「客観性」というものがあるのだが。あるいは、その離れ方の「距離」が一定であるとき、そこに「文体の安定」というものが生まれてくるのだが、まあ、これはちょっと脇においておいて……。
 「降りしきる音が辺りを包み込み、そのために反って静けさがある」ということばのなかの「反って」。ここに夏目の「思想」がある。ここでは、夏目は雨音と静けさの「矛盾」のようなものを書いている。芭蕉の「しずけさや岩にしみ入る蝉の声」のような「矛盾」を書いている。その「矛盾」を「反って」ということばで、はっきりとらえている。そこが芭蕉の句とは違うところだ。
 何かを書く、ことばで何か「真実」を書く、ことばでしかとらえられない「真実」を書くとき、そこには「反って」ということばに代表される「矛盾」が入り込む。そして、その「矛盾」が「矛盾」として成立するためには、「端」と「中心」という構造が必要であり、「端」と「中心」のあいだに広がる「間」が必要なのだ。「間」のひろがりのなかで、「矛盾」は運動する。

すぐ傍なのに、どこか遠いところのように思える。

 「すぐ傍」と「どこか遠いところ」には、実は、計測できる「間」(ひろがり)はない。計測しようとすると、それは逆に(夏目なら「反って」と書くだろう)ぴったり重なる。
 この「矛盾」は「どうしようもない」。解消しようがない。

 「端(はた)」ということばに誘われて、私は、そんなことを考えた。



10月のおすすめ。
1 江夏名枝『海は近い』
2 三宅節子『砦にて』
3 黒岩隆『あかときまで』
4 新延拳『背後の時計』
5 清岳こう『マグニチュード9・0』



私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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新延拳『背後の時計』

2011-09-29 23:59:59 | 詩集
新延拳『背後の時計』(書肆山田、2011年09月10日発行)

 新延拳『背後の時計』の巻頭の「神話の切れ端」の書き出しの3行がとても美しい。

沼にさざ波の立つ夏の終わり
変声期をむかえた少年は葦の影から光を惜しむように
スケッチをしている

 この美しさは、なつかしさでもある。そしてそれは私自身が見た風景の美しさというよりも、「読んだことがある」美しさである。これは、新延のことばが「盗作・剽窃」という意味ではない。どんな風景(現実)でも、ことばによってととのえられる部分がある。風景・現実は、それ自体で美しいときもあるが、それがことばでととのえられるといっそう美しくなる。ことばを風景が模倣するのである。
 そういう時代の--というのは、かなり説明が必要なことなのかもしれないが、「現代」、つまり2011年ではなく、かつてそういう時代があったのだ。ことばが現実をととのえる、ことばが風景をととのえる、という時代が。私はあまり丁寧に読んだことはないのだが、たとえば「四季」の時代とか……。

 新延は、ことばによって風景・現実をととのえる「方法」を完全に知っているのだ。そして、それが無理なく動いている。
 たとえば1行目。沼に立つのは「さざ波」でないといけない。荒い波では激しすぎる。そして、季節は「夏の終わり」。ここで重要なのは「終わり」である。「終わり」ということばのなかにははかなさと、変化がある。はかなさは「さざ波」の「小ささ」と呼応して、私たちの(私の、といった方が正しいのだろうけれど)意識を、拡散ではなく、集約させる。集中させる。小さな変化に意識が集中する--そこからはじめて見えてくる風景というものがある。
 2行目。「変声期をむかえた少年」。ここには「夏の終わり」と重複するものがある。精通を知らない少年の純粋な(?)季節は「終わり」、これから変化していくのである。「光を惜しむように」は、そのまま「終わりを惜しむように」にもなる。過ぎ去るもの、変化して消えていくものを「惜しむように」である。「少年」と「葦」はかよわいもの(パンセ、だね)として通い合い、「影」と「光」は切断(分離)しながら連続(影響)するものを浮かび上がらせる。
 季節(夏)が終わり、何かが変わっていく。そして、少年が声が、透明な声から太くたくましい変わる。その変化のなかにある、小さな何か。その変化のなかで消えていく何か。それを新延はことばでととのえることで詩にする。
 この、ことばで風景・現実をととのえることを、新延は「スケッチ」と言い換えている。「スケッチ」にはもちろんことばのスケッチもあるのだが、このスケッチを「ことばのスケッチ」としてしまうと、あまりにも「詩」と重なりすぎる。画帳をもって(あるいは画板をもって)、ことばではなく、絵としてスケッチしている。

 繊細な変化--その変化をととのえることばの運動は、さらにつづいてゆく。

雲が流れてゆく
綾取りのように形を変えながら
そこにあるのはまぎれもなく疵のない青空
近くには総身で泣いている女の子がいる
白いブラウスからそよ風が生まれる

 「雲が流れてゆく」。その変化を見つめる視線。「綾取り」という比喩と「形を変え」るものを見つめる視線。そして、その変化を見つめながらも、なお新延がこだわっているのは「疵のない青空」。それは、「変声期」の「少年」の、声変わり前の透明な声と重なり合う。ちょっとナルシスティックすぎるけれど、そうか、変声期前の声は疵のない声なのか……と私は妙に納得してしまう。新延は(あるいはスケッチをする少年は)、それを消えていく「光」のように「惜しんでいる」。
 こういう風景には、母とか、年増のおんなではなく、「女の子」が必要である。「少年」と「女の子」がいて、成立する風景。ととのえられる風景である。その「女の子」がほんとうに泣いていたか、ほんとうに白いブラウスを着ていたかは、どうでもいい。ことばは、そうしたことばを呼び寄せることで風景をととのえる。そばに笑い転げている女の子、黒いTシャツを着た女の子がいたのでは、「夏の終わり」「変声期」とかみあわない。消えていくもののはかなさを「惜しむ」気持ちと重ならない。

 状況を美しく設定し、ととのえてから、新延の書いている「少年」は動きはじめる。

夕方になり
君は立ち上がって川のほとりまで歩いてゆく
いつも風が生まれているむこうの丘の上の大きな欅の樹
君は草矢で夕日を落とす
薄紅色を溶かした空から鳥も次々と落ちてくる
川を流れてくる木の枝が重なって十字架の形となり
目に見えない罪を背負って行く
君の瞳はそれらをしっかり映しているか
天地の呼吸に合わせて
神話の切れ端が吐き出される
言葉に影を認めたらそこに深い穴を掘ろう
きっと新しい神話が見つかるよ

 「君」は「少年」である。「少年」という書き方も「私」という書き方かと比べると「客観的」だが、どこかロマンチック(ナルシスティック)な響きもある。「君」と、新延は、もっと客観的に、「私ではない」という形で「過去」を冷静に見つめようとしているのかもしれない。
 これもまた、しかし、「現実」をととのえる方法ではある。
 「少年」は「君」になり、(「沼」も「川」にかわり、この「変化」に同調?している)、そう変化することで、少しおとなになったのかどうかわからないが、「少年」にはできなかったこと(スケッチ以外の、もっと「男」っぽいこと)をする。--この「男」っぽいことが、(草)矢で太陽を落とす、さらに鳥を落とすというのは、すこし「定型化」しすぎているかもしれないが、そうした定型化があらわれるのは、新延がたくさんのことばのととのえ方を読んできている証拠である。無意識に定型化したことばの運動の方に動いてしまうくらい、新延は、これまでの「文学」に慣れ親しんでいる。その蓄積が、新延のことばを安定させている。
 その何かを矢で落とす(殺す)という「青年」の夢(少なくとも「変声期以後の少年」の夢)--無意識に対して「十字架」が登場するところが、うーん、ちょっと「嫌味」ったらしく私は感じてしまう。「十字架」「罪」--うーん、キリスト教徒? まあ、そうなら、そういことばが自然に出てくるのかもしれないが。
 そういう夢--無意識を、きちんと意識化したか、と「青年」は自問する。(君の瞳はそれらをしっかり映しているか)。そして、ことばを「風景」ではなく、自分自身の「意識」に向ける。そこから「神話」が吐き出される。
 「神話」とは、新延「青年」にとっては、自分の意識・行動を、純粋化された「物語(青年が太陽を射落とす、鳥を射落とす)」のなかで反芻し、鍛えるための方法なのだ。その「物語」のことばに、何か「影」がしのびこんできたら(純粋に対して、不純、無疵に対して、疵、光に対して、影、という構造である)、そのことばを掘り下げ、別なことばにたどりつくまで考え直してみる。ことばを動かしつづけてみる。そこからまた「新しい神話」が生まれる。

 3連目。ここでは、ことばが、かなりかわった感じで動く。

君が撃ち落とした夕日が黄金色の畑を海原に整える
君には見えるだろうか
イルカとぶジェノバの海の夕焼けが
海の遊園地ではイルカが木馬のかわりなのだ
油のように広がってゆく夕焼け
視野が望遠と広角の間を移動しているうちに
いつのまにか少女を見失ってしまった
風が吹いて夕菅の光が乱れる

 1連目(変声期の少年)、2連目(変声期後の青年)と動いてきて、いま、その青年から、1連目・2連目の「変化」を見つめなおしている。
 そこに突然、イルカ、ジェノバ、海が登場する。
 詩集では1、2連目は8、9ページ。3連目から10ページになっている。一瞬、「乱丁」かな、と思わせる変化である。1、2連目も「異国」の風景だったのだろうか。最初から、この詩の登場人物は「異国」にいたのだろうか。
 よくわからないが、2連目の「十字架」を手がかりに考えるならば、新延(青年)は、日本に古くから根付いているものではなく、あとから知ったもので世界をととのえなおそうとしているのかもしれない。(海原に整える、と「整える」ということばが、3連目の1行目にある。)
 そうした独自の(?)世界のととのえ方--その視界から「少女」は消えている。新延(青年)は少女を見失った。
 これは1連目から、すでにわかっていた初恋の「終わり」である。「少年」よりも先に「少女」はそれに気づき、泣いていたのかもしれない。おんなの涙には、どんな男もどうしていいかわからないものだが、少年なら、なおさらわからないだろう。
 少年は、自分の肉体のなかからあふれてくる力にしたがって、スケッチを捨て、草矢を振り絞り、太陽を、鳥を射落とす(3連目では、撃ち落とす、と銃がつかわれているような感じになっているが……)。
 そうした力の暴走--罪を、「異国」の「ことば(十字架といっしょにある宗教)」で整理しなおす。いま生きている「風景」を「異国」の「風景」で洗い直す--そういう「不思議な神話」を3連目は通過しているのかもしれない。

 そして4連目。

夕闇が少しずつ濃くなってゆき
大観覧車が花火のように浮かんでいる
空の反対側には大きな月がぽっかりと
尻のポケットには小型のナイフ
さあ本当の物語が始まるのはこれからだ

 ここで、ことばは大きく変わっている。「尻のポケットには小型のナイフ」は、かろうじて「少年・変声期・青年」の雰囲気をもっているが、「スケッチ」をする少年にナイフは似合わないし、太陽を矢で射落とす青年にも似合わない。
 何かが完全に、かわってしまった。
 「神話」が、最後に「物語」にかわった。(最終行では「物語」ということばがつかわれている。)
 ここでは、ことばは「風景・現実」をととのえようとはしていない。ここでは「文学」の蓄積が働いていない。(尻の小型ナイフは、まあ、文学というよりは「歌謡曲」のようなものである。)
 「神話」と「物語」--どこが違うか。
 私なりに考えていることがないわけではないが、新延がどう考えているかは、ここからだけではわからない。これ以後の詩に書かれるのが「物語」、つまり「神話」ではないということだけはいえるかもしれない。
 あすは、そういうことを考えながら、つづきを読むことにしよう。






雲を飼う
新延 拳
思潮社
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稲垣瑞雄「襤褸の僧」

2011-09-29 10:40:14 | 詩(雑誌・同人誌)
稲垣瑞雄「襤褸の僧」(「双鷲」76、2011年10月05日発行)

 稲垣瑞雄は散文(短編小説)も書いている。「襤褸の僧」は「螺旋の声」という「小詩集(?)」のうちの冒頭の一篇である。詩の形式(?)で書かれているが、短編小説のようなところがある。

田舎寺の山門に
ランのる僧は
しっかりとくくりつけられていた
キリストの真似か
それともただのお仕置か
眼に涙を溜めながらも
僧は毒づいていた
よくもこお俺さまを
コキュにしてくれたな
往生際の悪い坊主だ
妻の手を曳いて
駆け抜けてゆく男の声が
椎の樹々に囲まれた境内の
あちこちに谺する
涙も枯渇する頃
僧はようやく気がついた
自らを雁字搦めにして
この寺に閉じこめたのは
妻でも男でもなく
この俺自身ではなかったか
全身からこぼれ出る汗が
錐揉み状に
手脚を縛り上げていく
こうやって俺はまた
ぬるま湯につかっていくのだな
声が消えぬうちに
僧はぼろぼろになって
溶けはじめた

 「キリスト」と「コキュ」が「僧」にはなじまないが、なじまないがゆえに(?)、ストーリーをくっきりと浮き彫りにする。ほかのことばだったら、もっとどろどろした人間関係、しがらみがあふれてきそうだが、そういうものを「キリスト」という異質な存在、「コキュ」というスノッブ(?)なことばが、寺とか僧とかがもっているめんどうくさいものを洗い流していく。寺が舞台、登場人物が僧なのだけれど、ちょっと、そういうものを忘れさせてくれる。
 それがいいことかどうかというと、また別の問題になるかもしれないけれど……。
 まあ、おおげさというか、芝居染みているというか。わざわざ、寝盗られ男になってしまった僧を、いくら田舎寺とは言え、山門に縛りつけることはないなあ。そんなところに縛りつけたら目立ってしまう。せいぜい、本堂の柱にしなさい--というような忠告は、でも採用してもらえないだろうなあ。
 詩、なのだから。
 現実ではないのだから。

 と、書きながら。一か所、うーん、とうなってしまった。
 突然あらわれる「現実」に、びっくりしてしまった。

こうやって俺はまた
ぬるま湯につかっていくのだな

 この、「こうやって」をどう読むか。
 私は「自らを雁字搦めにして/この寺に閉じこめたのは/妻でも男でもなく/この俺自身ではなかったか」という自問のことだと思った。
 妻が悪いのではない。妻を寝盗った男が悪いのでもない。俺自身が悪いのだ。俺自身に原因があるのだ。
 --こういう自己否定、あるいは自己批判をどうとらえるか。
 ふつうは厳しい反省と思うかもしれない。ふつうは、あの男が悪い、おんなも悪い、俺は悪くはない。俺は憐れな人間だ。同情されていい人間だ、と思うかもしれない。
 けれど、稲垣の書いている僧は「自己批判」している。
 そして、そのこと、自己批判することを「ぬるま湯につかっていく」と、もう一度自己批判する。
 「自分が悪いのだ」というような「自己批判」は「自己批判」ではない。あまやかしである。そんなふうにして「自己批判」してみせれば、同情が集まる。
 山門に、みせしめのようにしてくくりつけられている姿も同情を呼ぶ。着ているものが涙でよごれてどろどろになっていれば、なおのこと同情を呼ぶ。
 見せかけの「自己批判」は、同情という「ぬるま湯」にどっぷりつかることなのである。
 同情だけではないかもしれない。
 「俺が悪いんだ」と自己批判してしまえば、もう、それから先、ことばは動いてはいかない。僧のなかで、ことばはとまってしまう。
 ふいにやってくる怒り、哀しみの衝動に突き動かされることもなくなる。
 自分の感情からも甘やかされてしまうのだ。
 これは短編小説の「ストーリー」のようであって、実は長篇小説の「テーマ」である。人間は、自分をどうとらえるのか。「自己批判」は自己に厳しい態度にみえるが、そうではなく、実は自分自身を甘やかすことにならないか。他人を批判するとき、そこから「戦い」が始まるが、「自己批判」にとじこもっていれば「戦い」はない。つまり、それは他者との接触がないということでもある。

 稲垣は、ここでは「哲学」のありかを、ただ暗示している。
 そうか、その暗示こそが、詩なのか、と思ったのだった。



半裸の日々
稲垣 瑞雄
思潮社
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茨木のり子を読む

2011-09-28 23:59:59 | 現代詩講座
茨木のり子を読む(「現代詩講座」2011年09月26日)

 茨木のり子の『倚りかからず』(筑摩書房、1999年10月07日発行)を読みます。朝日新聞の「天声人語」が取り上げて有名になりました。私がつかっているテキストは2011年04月10日発行のもので、第20刷です。ベストセラーであり、ロングセラーでもあるんですね。私は、実は、今回はじめて読みました。
 
倚(よ)りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


 いつものように、同じことを聞きます。
質問 読んで知らないことば、わからないことばがありますか?

全員「ありません」

 知らないことば、わからないことばがないということがわかったので、次に進みます。 きょうは、私の方がみなさんから教えてもらいたいことが多いので、たくさん質問します。質問、質問、質問というか形で、少しずつ読んでいきたいと思います。
 
 まず、田村隆一の詩と比べて、どちらが簡単だったか聞かせてください。簡単か、むずかしいか、まず、それだけ言ってください。そのあとで、具体的な感想を聞きます。

全員「茨木のり子の方が簡単」

 次に、この詩を読んで、この詩を要約し、どう感じたかを聞かせてください。

「私は私。できあいの思想に翻弄されずに生きている。男たちを駆り立てた思想をおんなは信じない。おんなは自分の意思で立って生きる。そうしたいし、そうできる」
「既製のものによりかからずに自分で生きる。その生き方に共感する」
「しがらみにまきこまれても、自分がしっかりしていればいい。自分の意思を確立していればいい」
「茨木には『私がいちばん美しかったころ』という詩があるが、そのいちばん美しかったときに戦争があった。時代の思想に翻弄されて生きてきた。そういう時代を経て、たよれるのは自分の思想だけである--という気持ちを確立した女性が茨木。いろんな知識を身につけ、自分のなかに思想が確立している。共感する」
「こんなふうになればいいなあ、と思う。自分の思想ができるまでには時間がかかるのがよくわかる」

 あ、みなさん、とっても丁寧に読むんですねえ。
 私は、みなさんほど、丁寧には読みませんでした。
 「何にも倚りかからずに生きていきたい」と茨木は言っている。それ以上は考えずに読みました。
 みなさんがしっかりこの詩を読んだということは、それだけ茨木の考え方に共感した、ということだと思います。ここに書かれていることは間違っているというような感じでは受け取らなかった。ここに書かれているのは、その通りだ、という感じで受け止めたということだと思います。

 で、これから少しずつ意地悪な質問になるかもしれませんが、その最初の意地悪。
質問 みなさんは、田村隆一の詩に比べて茨木のり子の詩が簡単といったのだけれど、その「簡単」というのは、別なことばでいうと、どうなりますか?

「比喩をつかっていない」
「やさしい」
「単刀直入」
「ストレートに言っている」
「表現が直接的」

 あ、「比喩をつかっていない」というのはおもしろいですねえ。「表現が直接的」というのと似ているかな?
 田村隆一の詩と比べると、たしかに比喩も逆説もない、ストレートな感じですね。
 私は「簡単」をちょっと違ったふうに考えています。
 私は、さっき、みなさんから感想を聞き出す前に、「詩を要約し」それから感想を言ってくださいと言いました。
 要約ができる、短いことばで言いなおすことができるとき、「簡単」ということになるのかもしれませんね。
 「何にも倚りかからずに生きていきたい」と茨木は考えている。そんなふうに、この詩を「要約」できると思います。その要約にたどりつくまでに、あれこれ、これはどういう意味だろうと悩まなかった。田村隆一のときは悩んだと思います。それに比べると、意味を考えて悩むことはなかった。だから、簡単--そう感じるのだと思います。
 このとき「要約」したものは、たぶん茨木のいいたいことになると思います。茨木のいいたいことを、自分のことばで短く言いなおすことができる--だから、簡単だと感じる。
 ところで、その「言いたいこと」というのは、茨木の詩のなかにあることばで「要約」すると何になります? 自分の言いたいこと、を「言いたいこと」といわずに表現している単語はどれになりますか?
 ちょっと学校の国語の試験みたいだけれど、考えてみてください。

 「思想」ですね。「言いたいこと」(考えていること)は、短いことばで言うと「思想」になると思います。
 まず、最初に、茨木は「結論」から書いている。「できあいの思想に倚りかかりたくない」。
 そして、同じようなことばを繰り返していますね。
 「思想」「宗教」「学問」「権威」とことばをかえながら、同じようなことを繰り返している。

質問 これはなぜですか?

「ことばをたたみかけている。できあいの思想に手痛い仕打ちを受けたので、それを一気に批判している」
「戦後、思想、宗教、学問が揺らいだ。現代も間違っていることが氾濫している。自分を確立していくことが大切だとはっきり言いたいから。茨木のり子は批判精神が強いひとだと思う」
「強調したいのだと思う。絶対的に正しいものはない。ひとつの思想に傾倒することは危険だと警鐘を鳴らしている」
「正解がないということを強調している」
「茨木の思想からみると、世の中がすべて気に入らない。全否定。、もはや、ということばがそれを強調している」

 あ、みなさん、ちょっと先へ進みすぎる。
 真剣にこの詩を読み、共感しているからそうなるのだと思います。
 もうちょっとゆっくり読みましょう。

 くりかえしたことについて、いろいろな考え方ができると思います。
 私は何度かこの講座で話したことだけれど、ひとは大事なこと、言いたいことは何度もくりかえす、と考えています。言いたいことがある。けれど、ひとことではいえない。だから、ことばをかえて言いなおす。そうすると思っています。
 茨木が言いたいこと、それはたしにかに「できあいの思想に倚りかからずに生きたい」ということになると思います。けれど、では「できあいの思想」って何? それがよくわからない。茨木自身も「できあいの思想」だけでは言いたいことが言い尽くせていないと思って、別のことばで言いなおしたのだと思います。
 そうだとすると、「思想」「宗教」「学問」「権威」というのは、どこかで共通点があるというか、似たものであるということになりますね。まったく違うものだとすれば、おなじように「倚りかかりたくない」とはいえなくなる。
 前回、田村隆一の「帰途」を読んだとき、同じ「述語」でことばを受けるならば、その「主語」が違っていても同じようなものを指しているということを指摘しました。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

 この2連から「言葉のない世界」「意味が意味にならない世界」が同じようなもの。「あなたが美しい言葉に復讐され」ることと、「きみが静かな意味に血を流」すことが同じようなものだと指摘しました。
 「思想」「宗教」「学問」「権威」も似たようなものでないと、論理的につじつまがあわない。

質問 では、「思想」「宗教」「学問」「権威」のどこが似ていて、どこが違うのだろう。

「思想、宗教というものは人間を成り立たせている根源的なもの」
「権威は、人間を格付けする」
「権威主義は生きていく上で必要ではない」
「すべてが権威だと思う」

 むずかしいですね。
 こういうとき、どうするか。これは、あくまで私の方法です。わからないことにぶつかったとき、どうするか。
 何か「わかる」ことがそのまわりに書かれていないかなあと思ってさがします。そうすると「できあいの」ということばが繰り返されていますね。
 「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」。茨木のよりかかりたくないものは、「できあいの何か」ということになると思います。
 「思想・宗教・学問」よりも、「できあい」を強調したかったのかもしれない、「できあい」に共通する何かを言いたかったのかもしれない、と私は考えます。
 「できあいの」というのは、どういう意味ですか?
 「すでにあるもの」ということかな?
 既製品という言い方があるけれど、その「既製」、すでにつくられたもの、すでにつくられて、いま、ここにあるということになりますね。
 この「できあいの」ということばと反対のことばが、この詩のなかにあると思います。

質問 それはなんですか?

「じぶんの、かな」

 私も「じぶんの」になると思います。
 「じぶんの耳目」「じぶんの二本の足」これは、だれかがつくったもの、できあいのものではありませんね。「既製のものではない」「既製品ではない」というのが「じぶんの」ということになります。「できあいの」「既製の」というのは「じぶんの」ということばと比べてみると、他人がつくったものということになると思います。

 そうすると、いままで読んできた部分は、「他人がつくった思想」「他人がつくった宗教」「他人がつくった学問」ということになると思います。

 で、私は、これまで、あえて

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 の「権威」について触れてこなかったのだけれど。
 この2行だけ、他の行と違ったところがありますね。「できあいの」といわずに「いかなる」と言っている。
 変でしょ?
 でも、私の読み方では、これは変ではありません。
 この2行は、実は、

もはや
いかなる「できあいの」権威にも倚りかかりたくはない

 という行なのです。
 「できあいの」が省略されているのです。
 なぜ省略されたのでしょう。これが、おそらくいちばん意地悪な質問だと思うのですが、なぜ、省略されたのでしょう。

「思想・宗教・学問に対して、権威はそれに順位をつけるものだから」
「権威は、思想・宗教・学問と違って、ひとを統率する力だから」
「でも、思想にも権威はある」

 私は「いかなる」ということばを茨木は書きたかったからだと思いました。
 「できあい」のものは、「思想」「宗教」「学問」だけではありません。いろいろあります。その「いろいろ」を「いかなる」と茨木は言い換えているのです。
 そして、「思想」「宗教」「権威」を、「権威」とも言い換えているのです。
 「権威」というのはなんでしょうか。
 いま、みなさんの答えのなかに、ひとを統率する力とか、順位をつけるという考えがあったけれど……。私も、似たものを感じます。
 広辞苑には「他人を強制し服従させる威力。人から承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力」と書いてありました。
 何のことか、わからないというか、ややこしいですね。でも、まあ「他人を強制し」というのがひとつの理解の手がかりになると思う。
 「じぶんから」ではなく「他人から」働きかけてくる力ですね。それもたぶん、このときの「他人」というのは「上から」という印象があると思う。「上から目線」という言い方があるけれど。
 このとき、その「上から」というのは「既製のものはできあい、できあがっている」から「上」にある。「じぶんのもの」というのはまだ未完成。なかなか自分は完成していると主張できるひとはいないですね。で、完成と未完成を比べると、どうしても「完成」の方が「上」、未完成の方が「下」ということになる。
 たとえば、自分の「思想」と、できあがっている(できあいの?)カントの思想、マルクスの思想と比較して、自分の方が上といえる人います?
 キリスト教と比べて、自分がみんなに広めようとしている「宗教」の方が上といえる人います?
 こんな例はよくないのだけれど、たとえば自分が出た大学で学んだ学問の方が、東大、ハーバードで教えている学問より上って、いえる人います?

 ここで、また、意地悪な質問です。
質問 茨木は「倚りかからず」「倚りかかりたくない」と繰り返しているのですが、この「倚りかかる」というのは、どういう意味だろう。
 最初の方で、みなさんは「知らないことば、わからないことばはない」と言っていたのだけれど、これはどういう「意味」だろう。
 この詩のなかでは、それを別のことばで言いなおしているけれど、それと結びつけるとどうなるだろう。
 
「自分で立つというのが、よりかかるとは反対のこと」
「よりかかるというのは、だれかにもたれること」
「傾倒すること」
「頼ること」

 「じぶんの二本足のみで立って」いる、自分だけで立っている--私も、これが「倚りかからず」ということになると思う。
 でも、これは、とっても変ですねえ。
 私には、とっても変に思える。

 できあいの思想に倚りかかっている人います? 宗教に倚りかかっている人います? 学問に倚りかかっている人います? 権威に倚りかかっている人います? 倚りかかったことがありますか?

受講生「茨木は、いままで生きてきて、いろいろなものを批判できるようになっている。その基礎的なものが確立されている。だから、倚りかからずに言える」

 そうなのかもしれません。
 でも、どうも、ここに書いてあることが私には納得ができない。
 「倚りかからる」というのは「もたれる」「頼りにする」というのとは違う意味ではないかなあ、と私は思う。
 では、どういう意味?

 ちょっと残り時間があと30分ほどなので、このままだと終わらない。ここからは質問を減らして、私の考えていることを中心に喋っていきますね。

 「倚りかからず」とは、どういう意味だろう。

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 この2行を手がかりに考えてみたいと思います。
 さっき「権威」を「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」を言い換えたものと言いましたね。そして、「権威」というのは「他人を強制すること・動かすこと」と言いました。
 その「他人を強制する・他人を動かす」ということばを、「思想」「宗教」「学問」「権威」の「動詞・述語」してつかってみると、どうなるか。

できあいの思想を利用して他人を強制することはしたくない

できあいの宗教を利用して他人を強制することはしたくない

できあいの学問を利用して他人を強制することはしたくない

できあいの権威を利用して他人を強制することはしたくない

 これも、実は変です。
 そういうことをしたことがある人、いますか?

 いま、私は、「講師」という立場(これも、権威の一種かもしれないから)、私はそれを利用してみなさんに質問し、答えを要求するということをしている。みなさんを、強制的に動かしている--といえるのかもしれないけれど、まあ、それはちょっとわきにおいておいてくださいね。
 きっと、ないと思います。
 茨木はどうだろう。
 あるのかな? ないのかな?
 「もはや」ということばを手がかりにすると、そうしたことがあったと考えることもできます。とくに最後の「権威」ということばにこだわれば、茨木は「現代詩の権威」ですね。そのことを利用して、何か他人に要求するようなことがあったかもしれない。たとえば、私がみなさんに質問するというようなことが。
 でも、まあ、なんとなく、そうではないだろうなあ、と思う。
 もし、そのことを反省しているのだったら、もっと反省のことばがあるはずですから。
 そうすると、ここでは何が書かれているか。
 「じぶん(茨木は)あらゆる権威に倚りかかりたくない」、権威を利用して他人に何かを強制したくない--そう反省しているというよりも、そうではなくて、権威を利用して他人に何かを強制しているひと(つまり、権威に無意識によりかかっているひと)を批判していることになる。
 茨木は自分の生き方を書いているのではなく、まあ、書いているのではないというと言い過ぎだけれど、自分の生き方を書くというより、他人を批判している。世間の多くのひとを批判している。
 茨木はとても批判精神の強い人だと思います。

 この詩は、とても変な構造をしている。
 見かけは、「なに不都合のことやある」までが1連目。そして最後の3行が2連目になる。けれど、読んでいると「いかなる権威にも倚りかかりたはくない」と「ながく生きて」のあいだにも、不思議な間合いがある。
 他人を批判してきて、突然「じぶん」の生き方を書いている。

ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい

 という2行。ここには、やはり変なところがある。わかりにくいところがある。

受講生「心底、ということばが大事だと思う。ただ学んだではなく、茨木は心底と言っている」

 あ、むずかしい問題だなあ。
 私は、そのことを考えませんでした。
 私は別なことを考えました。
 「学んだ」と茨木は書いているけれど、誰からだろう。誰が教えてくれたのだろう。だれも教えてくれていないと思う。
 だから、ここに書いてあるのは一種の反語、逆説ですね。教えられて学んだのではなく、自分で、他人を批判することで身につけた、体でおぼえたことなんですね。
 「心底」は、もしかすると、そういう意味かもしれません。

 「体でおぼえる、肉体でおぼえる」というのは前回、田村隆一のとき触れたことなのだけれど、茨木は「心」で学ぶのかもしれない。「心の底」で学ぶのかもしれない。
 でも、茨木も「心」だけではなく体でも学んでいると思う。体で学んだことだからこそ、次に、自然に「耳目」「二本足」という肉体をさすことばも出てくる。

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

 「じぶん」というのは「耳目」「日本足」のように、まあ、「肉体」をもっているものだね。

 で、この3行のうちの「なに不都合のことやある」というのはなんだろう。

質問 「なに不都合のことやある」を、ふつうに話していることばで言いなおしてみてください。

「何か不都合なことがあるだろうか」

 そうですね。そして、「何か不都合なことがあるだろうか」というのは、「いや、そんなことはありはしない」ということばを誘い出していますね。否定されるのをまっていることばです。
 「反語」ですね。田村を読んだとき「逆説」という感想がたくさんでたけれど、これも逆説の一種。
 「や」は文法的にいうと「係助詞」になるのかな? 私は文法は苦手で、適当なことを言ってしまうけれど、間違っていたらごめんなさい。
 「なに不都合なことはあるだろうか、ありはしない」という具合に、疑問形で問いかけ、否定のことばを導き出すという働きをしています。
 この凝ったというか、気取った部分--ここに、私は詩を感じます。かっこいいですね。このことばのつかい方。突然、文語になる。

 で、ここで、詩が終わるのかなあ、と実は私は思いました。読者から「いや、そんなことはない」ということばを引き出しておしまい。
 詩集では、ここまでが48-49ページの見開きです。だから、なおのこと、ここで終わったのだと思っていました。
 ところがページをめくると、次の3行がありました。

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 私はとてもびっくりしました。
 何なのだろう、この3行は、なぜ書いたんだろう。

質問 なぜ、書いたんだと思いますか?

「年をとっているから。若いときは書かない。自分の考えがしっかり確立しているから書いた」
「強い自分の意思をあらわしている」
「でも、茨木のり子はとてもやさしい人ですよ。批判精神が強く他人に頼らない。その一方で、他人を招き入れる包容力の強いひと」
「他人に頼らず、自分の生を終えるということを書きたかった。実際、茨木は夫が死んだあと誰にも頼らずに生きているし、子どもたちがいっしょに住もうとさそってくれたのも断っている」
「強いわよねえ。私だったら、すぐ子どものことろへ行ってしまう」

 あ、みなさん、茨木のことをいろいろ知っているんですね。私は実は茨木のり子のことはまったく知りません。
 だから、ただ、ことばだけを読みました。そして考えました。
 みなさんの感じていることとはちょっと違うかもしれないけれど……。
 視点を変えてみてみます。
 この3行より前の部分は「批判」であるというふうにして読みましたね。そしてそこに書かれているのは、茨木のことのように見えたけれど、実は他人のこと。他人の姿を描写し、それを批判していた。批判のことばで他人を描写していた。主語は「他人」ですね。
 ところが、この3行には「他人」は書かれていません。自分のことだけです。
 他人は権威によりかかり、ひとを動かす、ひとに強制する。そういうことを自分は学んだ。
 でも、自分は、そういうことはしない。「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」である。
 そこまではわかっても、どうにも納得がいかないことがある。
 なぜ、ここで「椅子」が出てきたのか。
 その前には、「じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある」と「立つ」という動詞がつかわれている。けれど、ここには「椅子」が登場している。書かれてはいなけれど、これは「座っている」ですね。
 なぜ、ここで「すわる」を暗示させる「椅子」が出てくるのか。

「座っているのではないのじゃないのかなあ。立ったまま、椅子の背もたれに手をおいている。姿勢を支えている」

 ええっ、そうなんですか?
 私はそんなふうにはまったく考えたことがなかった。
 どうしようかなあ。
 時間がないので、とりあえず、私の感想をつづけさせてくださいね。

 なぜ、「すわる」という印象が強い椅子がここに出てくるのか。「立っている」を強調するなら、

倚りかかるとすれば
それは
家の柱だけ

倚りかかるとすれば
それは
ふるさとのなつかしい一本の木だけ

 でもいいのでは?
 もっと適切な何かがあるのでは?
 家の柱は大黒柱=権威、ふるさとの木は大木=よらば大樹の影=権威という具合に連想されててしまうから、いちばん権威から遠いものを選んだのかな?
 けれど椅子にもいろいろ種類がある。
「英国王のスピーチ」には、吃音をなおす「教授」が王の椅子に座ると、王が「それはおれの椅子だ」と怒るシーンがある。椅子だって権威をあらわすことがある。
 なぜ、ここで「椅子」なのか。
 ここが、この詩のいちばんむずかしいところだと思います。

 もしかすると、この「椅子」は「立っている」に対して「座っている」ということをあらわすための「椅子」ではないのではないだろうか。
 これは、私の立てた仮説です。
 で、これから、その仮説が正しいかどうか、点検して行きます。

 前半の「倚りかかりたくない」を私たちはどんなふうに読み直したか、思い出してみたいと思います。

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 これを「いかなるできあいの権威をも他人を動かすことに利用したくはない。権威を利用して他人を動かしたくはない」という具合に読みましたね。
 「倚りかかる」を「じぶんで立っている」という意味ではなく、「何かを利用して他人を動かす」という意味に読み直しました。
 ところが、そういうことを書いたあとで、自分のことを書こうとしたら「二本足のみで立っていて」と「立つ」という動詞がでてきてしまった。
 他人を「動かす」--この「動かす」という動詞と「立つ」という動詞の関係はあいまいですね。うまく関係を結ぶことができないですね。

 「立つ」とはどういうことなのか?
 「立つ」ということばで言いたかったことは何なのか。
 茨木は言いなおそうとしているのだと思います。
 何度も言いますが、ひとは大事なこと、言い足りなかったことを必ず言いなおす、だから、その言いなおした部分を手がかりに見ていくと、そのひとの書こうとしていること、言おうとしていることに近づける--つまり、わかる、というのが私の、ことばの読み方の基本です。
 「立つ」で何を言おうとしたのか。
 それは「立つ」と「すわる」、「椅子にすわる」ということばのなかにある共通点を探せばいいのだと思います。
 「立つ」と「すわる」には、どういう共通点がありますか? 似ていることろはなんですか?
 私は「動かない」だと思います。
 「おまえ、そこに立っていろ」というのは、「おまえは、そこから動くな」という意味ですね。「すわっていろ」も「すわったまま、そこから動くな」という意味になると思います。
 「動かない」というのは、自分自身の体を動かさない、という意味でもありますね。
 「権威を借りて他人を動かす」というとき、そのひとは必ずしもあっちこっち動き回って他人を動かすのではなく、机にすわったまま指示をだすということもあるかもしれないけれど、それは「見かけ」の動きですね。そこにいるけれど、指示を出して動かす、何かを言って動かす。
 それに対して「椅子に座っている」と「すわる」に重きをおいてそのことばをつかうとき、そこには「指示をだす」という要素は入っていないと思います。「すわる」は「動かない」、そしてその「動かない」は他人になんらかの働きかけをしない、ということです。「じぶんの二本足のみで立って」いるというのも、他人に何かを強制するようなことはない、という意味になると思います。
 ひとを動かすようなことはしない。
 それを強調するために、椅子に座っている、と言おうとしているのだと思います。
 そして、「椅子の背もたれに倚りかかる」というのは、単にすわるというよりも、楽な姿勢でいるということですね。ここにも、「すわって指示をだす、指示をだして他人を動かすのではない」という意味が感じ取れます。ゆったりしている。休んでいる。そのためになら、椅子の背もたれくらいによりかかってもいい--これは、批判のまま詩を閉じると、批判が強くなりすぎる、意味になりすぎるので、それを避けたのだと思います。

 意味が伝わればいいというのではなく、意味以外のものがあってこそ、詩になるのだと思います。ここで「椅子にもたれてすわっている」というのが「意味以外のもの」なるかどうから、ちょっとあやしい問題ですが……。

 この詩のもうひとつの不思議。
 「倚りかからず」の「倚る」という漢字。
 この漢字をつかったことがあるひと、いますか? 知っていましたか? 辞書で調べたひと、いますか?
 少し調べてきました。大修館書店の「新漢語林」。「(1)よる。(ア)もたれる。よりかかる。(イ)たのむ。たよる。すがる。寄せる。(ウ)原因する。(エ)調子をあわせる。(ノ)かたよる。偏する。(2)立てる。(3)まかせる。
 「たのむ」という「意味」を手がかりにすると、「権威をたのむ」は「権威を利用する」「権威の力にまかせる」という「意味」がなんとなく思い出されますね。

質問 そういう「意味」とは別に、何か「倚る」から思うことはありませんか?

「倚るは人ヘンだけれど、椅子は木ヘン。ヘンをかえると倚は椅になる」

 そうですね、「椅子の、椅、の字」にとても似ている。一方は人偏、一方は木偏。
 「奇」という文字は「めずらしい。あやしい。ひとつ、対の片方。二で割り切れない数。あまり、はした。ふしあわせ」というような意味がある。(漢和辞典)
 「ひとつ、対の片方」という意味の「奇」と人偏、木偏が結びついて、「倚る」という漢字、「椅子」という漢字ができたのかな? ちょっとわかりません。
 でも、一方の人偏、木偏の「人」「木」については、いろいろなことを感じます。
 「人」は動きますね。一方「木」はそこにあるだけで自分では動かない。

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 を、いかなる権威をも利用してひとを動かすようなことはしたくないという意味に読みました。
 そのときの「人が人を動かす」という意識が、ここに反映しているかもしれない。
 人を動かすのではなく、動かないもので「倚る」という文字に近いものはないかなあ。そう思ったとき、そこに「椅子」がふっと思い浮かんだのかもしれない。
 人と奇が合わされば「倚る」という、人を動かすことばを生み出してしまう。
 けれど人と木が合わされば「椅子」。それは人を動かさない。ひとはそこに「すわる」ではなく、「動かずにいる」。
 動かない、ということをあらわしたくて、「椅子」ということばを選んだ--と私は考えました。

 で、一応、詩を読み終わって、最後の質問。
 「椅子のうえで動かない」というところまで私たちは考えてきたけれど、何か変な感じがしませんか? そのまま、納得できますか?

 タイトルの「倚りかからず」ということばだけを取り出して見たとき、どんなことを思いますか? 詩を読んだあとで、その詩のことを忘れて考えるというのはむずかしいことだけれど、もし「倚りかからず」ということばだけがあるとする。そして、それを読んだとしたら、どんなことを思いますか?
 私は「そんなところによりかかっていないで、さっさと仕事をしろ」「動け」というようなことばを思い出してしまう。
 「倚りかからず」というのは、動きなさい。自分の体をつかいなさい、という「意味」をもっている。
 そうすると、最後に私たちがたどりついた「結論」といっていいのかな、茨木はこの詩では「動かない」ことを言っているというのは、間違っていることになる。矛盾してしまいますね。
 最初に「倚りかからず」に動けというようなことを連想させながら、最後には「動くな」という。「動け」「動くな」--どっちが言いたいのだろう。

 「動け」「動くな」--これは、矛盾なのだけれど、こういう矛盾のなかに、そのひとのほんとうに言いたいことがある。思想がある、というのが私の基本的な考えです。
 「矛盾」してしまうのは、ようするに「できあい」のことばで茨木が語っていないからです。「できあい」のことばというのは、その「意味」が固定されています。誰もがつかっている「流通言語」です。そういう「流通言語」をつかわずに、じぶんのことばで書いてみる。だれもつかっていない「意味」をこめてことばをつかってみる。そうすると、どうしてもうまくいかない。どこかで、何か変なことがおきる。つまずいてしまう。この詩のように、「倚りかからずに動きなさい」ということからはじまりながら、「動かずに椅子に座っていなさい」という結論にたどりついてしまう。この「結論」を間違い(矛盾)から救いだすにはどうすればいいか。
 どうして、そういう結論になったか、それをもう一度みつめないといけない。
 タイトルの「倚りかからず」と本文でつかわれている「倚りかかりたくない」を結びつけて、もう一度詩を読み直してみる。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

 これは、ていねいに読むと、「できあいの思想には倚りかからず、じぶんの思想で動きなさい」という意味になる。さらにていねいにいうと、「できあいの思想に倚りかかって、じぶんの思想(ことば)を動かさないでいるのではなく、じぶん自身の思想、じぶんのことばで語りなさい」ということになる。「できあいの思想に倚りかかるというとこは、じぶんの思想を動かさないこと、じぶんで思想をつくらないことになる。そういうことはやめて、じぶんの思想をつくりなさい。じぶんをつくりなさい」ということになる。
 じぶんの思想をつくる、じぶんをつくる。そのためには、「じぶんの耳目」を働かせる。じぶんの「二本足」のみで動く。そうしなさい。疲れたら、まあ、休みなさい。ただし、勝手に動いていく「できあいの思想」や何かではなく、ぜったいに動かない「椅子」にすわるようにして、その背もたれに身をあずけるようにして休みなさい。
 「できあいの思想」「宗教」「学問」「権威」というものは、かってに動いていく。私たちが直接関係しないところで、動いて変化していく。そういうものに、たよらず、ただ自分をつくりなさい--そういうことを言っているのかなあ、と思います。

 前回、「茨木のり子」をいっしょに読んでほしいという声が出たとき、私はちょっと変なことを言ったと思います。
 茨木のり子の詩は簡単だと思われている。けれど、簡単に見えるものはとってもむずかしい。むずかしく見えるもの(たとえば田村隆一の詩)は意外と簡単で、茨木の詩はむずかしい。茨木の詩がどんなにむずかしいか、ということを話してみましょうか、と言ったと思います。
 なぜ、むずかしい。
 私は、ひとの思想は「矛盾」のなかにあらわれると考えています。言いたいことをじぶん自身のことばでいおうとすると、どうしても世間一般で言われていることとかみ合わなくなる。じぶん自身でも、何かさっき言ったこととちがったところにたどりついてしまったなあ、うまくいえないなあ、というところにたどりついて、もう、やめた、というようなことがおきる。
 これは、ちょっと逆な言い方をすれば、そのひとの「矛盾点」が見えれば、その人がわかる、ということでもある。
 田村の詩の場合、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という逆説からはじまっている。わざと逆のことをいっている。ことばをおぼえたから、いろいろなことを書くことができる。伝えることができる。それなのに、そんなことをおぼえるんじゃなかった、おぼえなければよかったというのは、だれがみても変、何か矛盾している。そういう「矛盾」がとてもわかりやすく書かれている。だから、それをときほぐしていけばいい。どういうことかな、と考えていけば、田村に近づいて行ける。
 けれど、茨木の詩の場合、どこが矛盾しているかわからない。
 矛盾がわからないから、そのまま「そのとおり」と思ってしまう。私も茨木のり子と同じように考える。「権威なんかによりかかってはだめ」と思う、とすぐ納得してしまう。わかったつもりになってしまって、考えない。
 でも。
 でも、ですよ。
 茨木のり子は、まず最初に、それを「だめ」と言っているんです。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

 私たちと茨木の詩の関係を考えてみる。
 茨木の詩は、「できあいの思想」です。すでに、天声人語で称賛され、みんながそのことば、その詩がいいと言っている。その詩はひとつの「権威」にもなっている。
 それをそのまま、借りてきて、私もできあいの思想には倚りかかりたくないといってしまうとき、そこには私たちのことばはいっさい含まれません。そこにあることば、思想は、茨木の思想に「倚りかかった」状態です。
 茨木の詩に感動しながら、茨木がしてはいけないといっていることをしてしまっている。矛盾に陥っている。

 さて、どうしましょう。

 とてもむずかしいですね。わかればわかるほど、むずかしくなりますね。
 で、そのむずかしくなったところで、今回はやめます。
 茨木のいっていることはとてもむずかしい。
 ふつうの人にはできないことを書いています。茨木は、たぶん、とっても強い人です。批判力が強く、自分自身というものをしっかりもっている。そして、自分を動かすようにことばを動かしている。簡単に言うと、とっても「立派」な詩人です。
 立派すぎて、私にはちょっととっつきにくい。

 私はまた「倚りかからる」こと「頼る」ことが、そんなに悪いこととは思ってもいない、からかもしれません。
 石垣りんの作品に、銭湯に入っていたら若い女性が近づいてきた。襟足を剃ってほしいと剃刀を渡されたというエッセイがあります。若い女性はあした結婚する。だから、襟足を剃ってほしいというのです。それを聞いて、石垣は襟足を剃ってやる。頼ってきた若い女性、もたれてきた若い女性をそっと支える。そのとき、石垣のなかで、不思議な力が生まれる。他人をささえる力。もたれるということは、そういう他人の力を引き出すということもある。石垣はもたれられながら、若い女性の幸せを祈る--そのなかで育っていく人間の力。これは、私は、何度思い出しても涙が出てしまう。美しいなあ、と思う。
 茨木の作品を読んだあとで、こんなことを言ってしまうのはよくないのかもしれないけれど、私は茨木の作品よりも石垣の詩の方が好きです。



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  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp




倚りかからず
茨木 のり子
筑摩書房
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古崎未央「椀の中」

2011-09-28 08:43:09 | 詩(雑誌・同人誌)
古崎未央「椀の中」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 「臍帯血withペンタゴンず」は、名前からして凝っているが、そこに集う詩人たちもそれぞれにことばに対しての「凝りよう」があるようだ。
 古崎未央「椀の中」の出だし。

後ろから浸り、百日紅に槍、吾の坊の棒もしなり、左、見遣り依頼、落雷の方に猿とモヒカンが卑猥に絡まりY・Y・Yの字、袋小路に去り、然りとて頭髪を剥ぎ、貼り、裸足から抜いてもぎもがき、解ぎ、炎の仄かの放り解ぎ、紛れもあり塗れ、揉まれ鹿尻、つるてんとした尻々。

 最初は不思議な尻取り。脚韻(?)といった方がいいのかな?
 ひた「り」、さるすべ「り」、や「り」、しな「り」、ひだ「り」、みや「り」、からま「り」、さ「り」、しか「り」、は「り」……という具合。
 「意味」は、まあ、だいたいのところを感じればいい--なんて、いいかげんかもしれない。「だいたい」の意味もなんにもないなあ。ただ、音があるだけである。
 「いらい」「らくらい」とか、「ひわい」「わい」「わい」「わい」。
 「猿とモヒカン」が出てくるが、まあ、その猿とモヒカンが「卑猥に絡まり」、セックスしている--と思いたければ思えばいい。「猿」は単にあとで出てくる「去り」の呼び水に過ぎないし、「モヒカン」も「頭髪を剥ぎ」の「頭髪」を呼び込むためのことばだろう。--いや、これは正しい順序ではないな。「猿」と書いたから「去り」が呼び出され、「モヒカン」と書いたから「頭髪」が出てきたのだろう。「去る」や「頭髪」を予定していて、「猿とモヒカン」を書いたのだとしたら窮屈でおもしろくない。
 で、思うのだが、古崎は、ことばを「音」を頼りに動かしていくとき、それはどこまでイメージをひろげられるかということを調べ、古崎の肉体でおぼえようとしているのだと思う。つまり、肉体でおぼえることで、肉体をつかうようにことばをつかえるようになる。そういう力を拡大するために、ことばを動かしていると思う。そして、そう思ったとき、この「猿」から「去る」、「モヒカン」から「頭髪」へのことばの連絡はちょっとおもしろくない。
 「卑猥にからまり」「Y・Y・Y」もあまりおもしろいものとはいえない。古崎の世代はどうかはしらないが、私の世代では「Y」はおんなのからだをあらわすときの暗号で「WXY」と上からおっぱい、へそ、股という意味で、これではセックスとあまりにも安直に結びついて、詩を読んでいる感じがしない。
 詩は、読者の知らないことが書いてあってこそ詩なのだ。

 「解ぎ」を古崎はなんと読ませるつもりで書いているのかわからない。「ほぐす」から派生した「ほぐ」? それとも「もぎもがき」お音を頼りに読むなら「がぎ」、あるいは「かぎ」?
 まあ、そういうことは、私はいいかげんなままにしておいても平気なので、そのままにしておく。
 最初、「尻取り(脚韻?)」でことばを追っていた古崎だが、「頭髪を剥ぎ」くらいから、頭韻(?)がまじる。
 「は」ぎ、「は」り、「は」だし。
 そのあと、「もぎもがき」--あるいは「ぬいても/ぎもがぎ」? あ、「ぬいても/ぎもがき」の「ぎもがき」と、いい音だなあ。非常に「肉体」がくすぐられる。私の場合は。そのあと、読み方のわからない「解ぎ」があって--まるで、「万葉集」の「わがいもがいたたせりけむいつかしがもと」(正しい?)みたいな、わけのわからない部分をはさんで。
 「ほ」のお、「ほ」のか、「ほ」おり「●」ぎ、「ま」ぎれ、「ま」みれ、「も」まれ。あれっ、「ま」じゃなくて「も」。途中飛び越して「も」ぎ「も」がきとつながりながら、全体としては「ま行」のゆらぎになる。「ま・み」れ、「も・ま」れ--とか。
 そのあと、また、これはいったい何? 「鹿尻」。
 どうでもいい。わからないままでいい。わからないものをはさんで、ことばというか、音はまた再出発するというのが、古崎の「流儀」のようだ。

その尻皮を剥ぎ、皮を浸した真水が真緑。紛れもなく真緑。迸り網走、筋の張った尻が走り今治、非理と非理が虚空を有して吾の嬢の黒髪真緑に。

 「ま」みず、「ま」みどり。「ま」ぎれもなく。
 これ、何かなあ。
 その前には、紛れも「あり」。いまは、紛れも「なく」。「あり」「なし」。ことばが逆戻りしていくね。何を書いているのかわからないが、そのことばの運動は、まっすぐにどこかへ進んでいるというよりは、あっちこっちうろついて、もどったりもする。そういう世界のようだ。
 「ほとばしり」「あばしり」「いまばり」というのもおもしろいなあ。あいだには、「はしり」もなあるなあ。
 網走なら、やくざ。やくざなら、「筋」をとおすかどうかが問題だ--はちょっと脇においておいて。刑務所なら、男色。「尻」--も脇においておいて。
 ほとば「尻」、あば「尻」が、ほら、鹿「尻」にもどっていくでしょ? 「尻」に重点がうつっていくと、いま「ばり」の「ばり」は「ゆばり」。「尿」。だんだん、汚物に塗れてくるねえ。(塗れ、というのは、最初に見た部分にあったなあ。)「ひり」は「屁をひる」の「ひり」。「糞をひる」の「ひり」。

 私の書いている感想は、論理的ではない? 道理にあわない?
 だから「しり」ではなく「ひり=非理」なのか。
 あらら。
 でも、おもしろいなあ。こんなふうに、でたらめに(ごめんね)、ことばを動かして、そのことばが動いている瞬間瞬間に、書かれていることとはまったく関係ないことをかってに考えるというのは。「音」と「音」、「声」と「声」がかって呼びあって、ああでもない、こうでもないというよりも--無意味な笑いになっていくのは。

 だから(?)。
 最後に苦情(?)。批判、かなあ。
 「黒髪真緑に」。これは、つまらないなあ。「緑の黒髪」という常套句にもどってしまうじゃないか。
 この「常套句癖(?)」は、詩の最後で「忘れたことさえ忘れる」という、とてもつまらないものをも呼び寄せてしまう。
 「音」だけで突っ走りはじめたら、最後まで「音」そのものであってほしかった。
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江夏名枝『海は近い』(8)

2011-09-27 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(8)(思潮社、2011年08月31日発行) 

 私は同じことを、それこそ「複製」しているだけなのかもしれない。どこまで書いても、私の感想は終わらないかもしれない。私はどの感想も、何の結論も用意せず、ただ書けるところまで書くだけなのだが、その方法では、江夏の詩集の感想は終わらない。私のことばが動かなくなり、終わるのを待っていてもだめなのだ。私自身で終わらせないことには終わらないのだ。
 やっと、そのことに気がついた。--だから、これを最後に、終わらせる。

 「海は近い」の「11」の部分。

 わたしたちはたがいに遠のくこともあった。わたしたちは想い、そして忘れる。距離を得るためにその場所に幾度も足を運び、全身を嗄らす。

 「遠のく」は「想い(う)」という動詞で「複製」され、それは「対」の形で「忘れる」という動詞で「複製」される。「想う」のは「忘れた」から「想う」のである--というと語弊があるかもしれないが、「いま/ここ」にないから「想う」のである。対象と「距離」がある。「わたし」と「もの(存在)=対象」とは「離れている」。この「離れている」ことを「心」を主体にして見つめなおすと「忘れる」ということになる。「心」に密着しているとき、それは「忘れる」ではない。
 だが、「心」を強くするというか、「想い」を強くするためには、「離れる」ということも必要である。「距離」があるとき、「心」はその「遠いもの」を「心のなか」に「複製」する。「反復」する。そうして、そのとき、

ここに現れる

 ということが起きる。
 「心」の「ここ」に、「心の複製」があらわれる。あらゆる複製があらわれる。
 「その場所」は「ここ」である。「ここに現れる」と江夏が書くときの「ここ」。
 「その」と「ここ(この)」は同じものではないが、やはり「対」なのだ。「ここ(この)」があるから「その(そこ)」がある。

 書きたいことが山ほどある。書かなければならないことが山ほどある。
 でも、「やめる」「終わらせる」と決めたのだから、少しだけの補足にとどめる。
 いまの引用の部分では、

全身を嗄らす。

 これがなんともあいまいである。不自然である。この「全身」には、実は、先立つことばがある。

 身体がざわめいている……棘をぬくために、もうひとつ身をほどく。

 「全身」「身体」「身」--つかいわけられている。そして、そのつかいわけを支えている(?)のが「ほどく」ということばである。
 「身」は人間には「ひとつ」である。それは「心」とちがって「千々に砕けたり」はしないし、「心」のようにこんがらかることもない。
 「ほどく」ということは「身」にとっては「矛盾」したことばである。「矛盾」した表現である。だからこそ、それが「思想」である。
 「身」は「身」ではないのだ。江夏にとって、それは「心」という「言葉」で「複製」された「わたし」なのである。

ここに現れる

 のは、ある瞬間は「身」であり、ある瞬間は「心」であり、それはともに「言葉」によって「複製」された存在である。そこには「隔たり」はない。「隔たり」はないけれど、「身」という「言葉」と「心」という「言葉」はちがって存在してしまう。
 この「矛盾」をどう解消するか。

 わたしたちは言葉を脱いで眠る。

 あ、たしかにそうするしかないのかもしれない。
 けれど、よく読むと--これは、とても変である。とんでもない「矛盾」である。

 わたしたちは言葉を脱いで眠る。

 この1行も、「ここに現れ」た「言葉」である。つまり「心の複製」である。これでは、終わらない。だから、これで終わりにする。




海は近い
江夏 名枝
思潮社
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金子鉄夫「ながぁい廊下」

2011-09-27 09:55:43 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「ながぁい廊下」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 金子鉄夫「ながぁい廊下」も、「意味」があるのかどうかは、よくわからない。

ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って
滑ってきたんだよ、このながぁい廊下
横を向けばあわれ腐った葱をくわえたおんな
が誤字脱字のようにわらって

 この書き出しの4行は、「書かれたことば」というより「声に出されるのをまっていることば」、あるいは「声」といった方がいいかもしれない。
 「声」あるいは「音」というのは不思議なものだと思う。
 「ぺらりん、ぺらりん、」ということばは、どんなにそれを長い間見つめていても「意味」につながるものはあらわれないが、声に出す、その音を聞くということを繰り返していると「肉体」のなかで、何かがあらわれる。
 「ぺらぺら」なもの。しかし、「りん」としたもの。「凛々」としたもの(?)。
 「ぺらりん」には、そういう「意味」はないかもしれないが、「音」、その「音」を「声」にするときに動く「肉体」が何かを引き寄せるのである。自分がおぼえているものを引っぱりだすのである。
 弱いけれど、あるいは軽いけれど、どこかに透明感のある何か。

 「声」や「音」が、独自に「意味」を捏造する。そこに、リズムも加わる。そして、イメージが新しく生み出される。それは「ことば」が、ではなく、「音」「声」が、「肉体」のなかからつくりだすものである。

 ぺらりん→ぺらりん→いちまい

 と動くとき、私の「肉体」は薄い何かを引き出す。薄いといっても、それは紙やセロファンよりも厚い。けれど、絨毯のように厚いわけではない。浮くて強靱な、アルミ金属。きっと透明だ。それは「飛ぶ」のではなく、空中を「滑る」。まるで「廊下」を滑るように、すばやく。

 「いちまい」という「音」がとても効果的だと思う。「いちまい」のあとに「名詞」が省略されているのが効果的だと思う。「いちまいのガラス」「いちまいのセロファン」「いちまいの畳」「いちまいの絨毯」「いちまいの金属」「いちまいのアルミニウム」「いちまいのジュラルミン」--どれもダメである。「名詞」が省略されたまま「いちまいに/乗って」と「音」が寄り道をしないから、改行後の「滑ってきたんだよ」がおもしろくなる。「滑ってきたんだよ、このながぁい廊下」という倒置法が楽しくなる。
 「意味」が半分生まれ、半分のまま、どこかへ行ってしまう。「意味」はどこかへ行ってしまうけれど、その「意味」を動かした(?)ときの「肉体」の感じはずーっと「肉体」に残りつづける。

横を向けばあわれ腐った葱をくわえたおんな

 という1行の「あわれ」と「腐った」の「あいだ」の密着感もいい。ほんとうは(?)、ここに読点「、」があってもいいのだと思う。あった方が「意味」がはっきりする。
 読点「、」がないために「あわれ」は「哀れ」(憐れ)という「意味」になるまえに、「音」のまま加速する。そして「腐った葱」を飛び越して「おんな」へ結びついてしまう。そこには読点「、」よりも大きな「腐った葱」があり、しかも「くわえた」という説明まであるのだが、その変なイメージというより、変な「音」が不思議な読点のように「肉体」のなかへ沈殿していく。

 このとき、私のなかで、何が起きているのか。

 「意味」はどこかへ消えてしまっている。「意味」はないのに、そこに書かれているものが「ある」と感じている。「いちまい」も「ながぁい廊下」も「腐った葱をくほえたおんな」も、「無意味」として、そこに「ある(いる)」のを感じる。

誤字脱字のようにわらって

 は、金子は、私が引用しなかった次の行を説明することばとして書いたのかもしれないが、「無意味」を強烈に感じる私は、「おんな」が「誤字脱字のようにわらって」いると感じるのである。それが見えるのである。
 このとき、おんながくわえている「腐った葱」が「誤字脱字」というものかもしれない。もし、「腐った葱」ではなくて、たとえば「赤い薔薇」だったら、「ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って」という軽い「意味」とは通い合わなくなる。「音」が消えて「意味」になる。句読点は、正確さを強いてきて、ことばがつらくなる。息苦しくなる。
 「意味」が強く、「肉体」が息苦しくなるような詩は詩でいいと思うけれど、金子の動かしていることばは、そういうものとは違う。

 こういう書き方は(ことばの動かし方は)、でも、むずかしいね。

いまさら喚いたところでどうなる
そんなことよりも釘を呑んだ表情で
射精を急げっ
肘から下が空語になるぜ

 あっという間に「意味」のことばに乗っ取られてしまう。「表情」「射精」「空語」。ここには「音」がない。そのことばは、ほかの行のことば、そのことばの周囲のどのことばとも、「息」のなかでまじりあわない。
 こういうことは、「肉体」で感じることである。「肉体」というのは、私と金子の「肉体」は別個のものであるだけではなく、何の接点ももたないから、私の書いていることは、一方的な「誤読」かもしれないけれど。
 でもね。
 と、私はつけくわえたいのである。
 道で誰かが倒れてうめいている。そうすると、あ、あのひとは腹が痛くて苦しんでいると感じるでしょ? そのひとの痛みは私のものではない。けれども、「痛い」ということがわかる。
 ことばの「音」、「声」としてのことば--には、何か、そういう「肉体」のようなものがある。その「音」を「声」にするとき感じてしまう「肉体」の何かというものがある。そうして、その「肉体」が感じるものというのは、私は、ある程度(というよりも完璧に?)、近いもの--つまり作者と読者で共有されてしまうものではないかと感じている。
 こんなことは、「非科学的」なのことなのだけれど。

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江夏名枝『海は近い』(7)

2011-09-26 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(7)(思潮社、2011年08月31日発行) 

 「海は近い」の「8」の部分。

 踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段は長い年月を守り、海からの風に晒されていた。

 「年月を守り」の「守る」は「擦り減った」の「複製」である。「擦り減った」の「減る」は「守る」とは「矛盾」する。この「矛盾」と、どうすれば(?)「矛盾」でなくなるか。
 「2」を私は思い出す。

誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 その言い方をまねてみるならば(複製しなお染みるならば)、

 石の階段は長い年月によって擦り減った。その擦り減った石の階段の、擦り減って、いまはここにない石段の記憶のなかに年月が守られている。その年月と向き合う石段の記憶が、擦り減った石段のなかに蓄積している。(守られている。)

 という具合になるかもしれない。
 「いま/ここ」にあるのは、「擦り減った」石の階段そのものなのか。それとも石の階段が「擦り減った」と「複製」してしまう「言葉」なのか。--それは、別の存在ではなく、いつでも「対」になった存在なのである。
 「もの(存在)」と「言葉」は「対」になる。「対」になることで、「複製」が存在する。一般的に考えるならば、「もの(存在)」を「言葉」が「複製」する。だが、いったん「言葉」が動きはじめると、「言葉」を「もの(存在)」が「複製」するということも起きるのである。
 「言葉」にあわせて、「もの(存在)」がととのえられ、さらに「言葉」になる。
 そのとき、「言葉」は変化するのである。

踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段のなかに長い年月が蓄積しており、

が、

踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段は長い年月を守り、

にかわる。「守る」とは「蓄積している」である。ただし、その「蓄積している」を認識できるのは「階段」ではなく、「言葉」である。「言葉」が「階段」のありようを定義していく。ととのえていく。
 そのとき、「主語」もととのえられるて(?)、変化してしまう。「蓄積している」というとき「主語」は「長い年月」だが、「階段」を「主語」にすると「蓄積している」では文章にならなくなる。「蓄積している」を述語にするには、「階段には」と、「階段」は「主語」の位置からずれてしまう。「階段は」「階段が」という「格助詞」を含んだ「主語」を「主語」として有効にするためには「蓄積している」ではなく「守る」に「述語」がかわらないといけない。
 江夏は、こういう「主語」「述語」の交代を、すばやく、しかもスムーズにやってしまう。
 「複製」(反復)は、互いに影響しながら、変わっていくのである。この「変化」に江夏の詩のおもしろさがある。
 「主語」が「述語」を変化させると同時に、「述語」が「主語」を変化させるという、一種の「鏡像」のような「ずれ(?)」が、ことば全体を動かしていく。
 「もの(存在)」が「言葉」を見つめなおし、「言葉」が「もの(存在)」を見つめなおすという「複製(反復)」の、果てしない繰り返しが、ここからはじまる。
 こういう「繰り返し」は「頭」でおこなっているかぎりは、「ずれ」や「間違い」をおこさないが、「心」がそれをおこなうときは、どうしても揺らいでしまう。だから、おもしろいのだ。

 雨の街路、思い見る記憶のかけらは少しずつ輪郭を変え、男たちの肌をくすませる。

 「記憶のかけら」は「心のかけら」であり、それは「風景のかけら」の「複製」であり、「反復」する「心」である。それは「鏡像」のように、正確であればあるほど間違っているものとなる。鏡のなかで対になっているものは、左右が違うように、どこかしら間違っているからこそ「正しく」見えるものなのである。
 この「雨の街路、」ではじまる文は、以前も書いたことだが、読点「、」のつかい方が独特である。「雨の街路、」の「、」は何か。そこに何が省略されている。
 雨の街路「にいると」。
 「、」は「ここ」であり、「いま」である。
 「1」に書かれていた、

波打ち際に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 という文のなかにつかわれていたことばをつかって言いなおせば、

 雨の街路、ここに現れるのは、心の複製のかけらであるから、それは少しずつ輪郭を変え、男たちの肌をくすませる。

 となる。
 「、」は「ここ」であり、「いま」であるだけではなく、「現れる」という動詞をともなった「現象」の「場」なのだ。「現象」そのものなのだ。

 次の、またまた独特の文がある。

誰かが、青色の涙を落とすことを許された余白がめくれる。

 「誰かが」と書かれた「主語」に、「述語」はない。「誰かが」のあとの読点「、」はほんとうは消えなければならない。

誰かが青色の涙を落とす

 と、「、」のない形のとき「主語」「述語」は成り立つ。その「主語」「述語」の「あいだ」に、「いま/ここ」が挿入された瞬間に、「誰か」に向き合うべきもの、鏡像としての「何か」が「余白」という「言葉」で「複製」され、そのあたらしい「主語」によって「めくれる」という「述語」が生み出される。
 それもこれも、すべて「心の複製」である。
 「心の複製」であるからこそ、「主語」も「述語」もなめらかにかわっていく。「心」のなかでは、あらゆるものは「心」でしかない。それは「ひとつ」の複数なのだ。心はどんなに千々に砕けても「ひとつ」以上ではありえない。どんなに小さなものに「複製」されても消えることはない。「千々に砕けた心」(つまり、無数に複製された心)とまた別の「千々に砕けた心」との「あいだ」に隔たりはない。千々に砕けながら連続している。そのために、いつでも「主語」「述語」がかわってしまうのである。



海は近い
江夏 名枝
思潮社
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榎本櫻湖「幕間/林檎の川を剥く妊婦」

2011-09-26 08:50:50 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「幕間/林檎の川を剥く妊婦」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 詩には「意味」がわかっていて書くものと、意味がわからないから意味を探して書くものがある。そして、後者の場合、探している意味も実際のところは知らないものである。知らないけれど探すというのは矛盾しているようだが、そうではないかも知れない。知らないけれど「予感」があるのだ。そして、その「予感」というのは、ことばに触れた瞬間に「肉体」が感じてしまうものなのだ。誰かに会った瞬間「あ、このひとが好き。このひとが運命のひと」と感じるようなものだ。そんな「運命」などほんとうはなくて、あとから、ひとが勝手に「理屈」をつけていくものだと思うけれど。つまり、なんとなくだんだん好きになっていくだけなのだと思うけれど。
 榎本櫻湖の詩を読んでいて感じるのは、それに似たことがらだ。
 書こうとしていること、その「意味」など、あとからやってくる。ただ、こういうことばを書いてみたい。書けば、その先に何か新しく動くことばが出てくるはずだ--という予感、「肉体」が感じる予感で書いているように思う。榎本の「肉体」が、ことば自身の「肉体」をどこかに感じて、それに「ちょっかい」を出し、反応を見ながら書いている、という感じである。
 「ことば」を信じすぎている--といえるかもしれない。つまり、ことばに肉体があり、ことばに肉体かあるかぎりは、ことば自身で動いていくということに期待しすぎているといえるかもしれない。
 でも、(でも、でいいのかな?)
 私は、実は作者が自分自身を信じて書く詩よりも、自分自身のことなどどうでもよくてことばの方が信じられると思って書いている詩が好きなのである。ことばが勝手に自己増殖というか、勝手に広がっていく詩が好きである。
 たとえば、「幕間/林檎の川を剥く妊婦」の書き出し。

……湖底に、ひっそりとおかれた疚しさの林檎の皮を、丁寧に剥くきらびやかなナイフ、蛇の這った痕に残る砂の畝、波形を辿る指先から滴る血は蛇の喉を潤し、優しい牙をそっと喉元へあてる所作を、それは睾丸ではなく、隠蔽された前立腺の、恙ない悦び、失われた恥部へ赴き、叢る狂おしい二十日鼠の穢れを啜る、艶やかな黒髪の娘、剃刀のつけた筋は次第にみだれ、刃をつたう汁は、匂いたち、たなびく、

 榎本が書こうとしていることは、榎本がまだ知らないことである。そして、その知らないことは、けれど榎本の知っている「林檎」と「蛇」ということばといっしょに動いているということを榎本の肉体は知っていて(おぼえていて?)、その記憶を頼りにことばを動かすのである。そうすると、「林檎」「蛇」に反応して「疚しい」だの「睾丸」だの「前立腺」だの「悦び」(つつがないよろこび--というのは、私には想像がつかない。悦びに憂いなどあるはずがない、と私は思う)だの、「恥部」だの「穢れ」だの「娘」だのといったことばが群がってくる。「指先」「血」「滴る」「潤す」「優しい」「牙」「艶やか」ということばも群がってくる。「啜る」「乱れる」「汁」「匂い(匂う)」も群がってくる。それやこれの、セックスを描くときのことばが群がってくる。
 榎本は、そのことばを「整理しない」。この「整理しない」というのは、天才の仕事である。
 群がってくることばを整理せず、そのかわりに、強引に「連結」させてしまう。ほぐすことはしない。こんがらがったときは、そのこんがらがりを利用して、いっそう強靱な結び目をつくってしまう。
 なかには、「蛇の這った痕に残る砂の畝」というような、ちょっと違和感があることばも強引に連結される。この畝自体は林檎を剥いたナイフに残る汁の痕、その盛り上がりから呼び寄せられたものだろうけれど、そういう湿ったよごれの盛り上がりと「砂(砂漠、乾燥)」は、私には不自然に思える。想像でいうのだが、榎本は林檎の皮を剥いたときに汁がナイフの刃先に残るということは肉体で知っているだろうけれど、畝というものをつくった経験がないのだろう。鍬で土を掬い取りもりあげるというようなことを「肉体」でおぼえてはいないのだと思う。
 まあ、いいけれど。
 で、この「連結」によって、榎本は「世界」をいくつにも重なり合った「層」にして見せる。重なり合いながら、ずれる。その瞬間に、何かが見えたような気がするのである。いま書いた「畝」にもどると、榎本の書いている「砂の畝」というのは、この書き出しのなかでは「異質」なものなのだが、その異質によって、榎本にとらえられていない「蛇」そのものの「肉体」が見えてくるのである。「林檎・蛇・セックス」と連結されてしまうだけではない何か、蛇にしかできない何かがふっと蛇そのものとなってあらわれてくるのである。
 ここから蛇がほんとうに動いていけばもっとおもいしろいのだけれど、まあ、セックスへもどってくる。一生懸命、もどろうとする。そのときの、むちゃくちゃ(?)がいい。強引さがいい。これだけことばが引き寄せ、群がらせ、そのままにしておけば、きっといつかは醗酵して毒になる。あるいは強い酒になる。(毒も、酒も、比喩ですよ。)楽しみである。

 あ、私の書いている感想は「正しい感想」ではないかもしれない。ましてや、「正しい批評」ではありえないのだが、こんな具合にしか書けないこともある。
 どこかへことばが広がっていく--その広がっていく力をただ感じてみるだけのことである。
 そのことばが、いつか私のなかで動きだすかどうかもわからないけれど、動きだすまで待っていられたらいいだろうなあ、と思うのである。
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江夏名枝『海は近い』(6)

2011-09-25 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(6)(思潮社、2011年08月31日発行)

 「海は近い」の「6」の書き出し。

 はぐれやすい心をとめたピンを外す。はぐれやすくても、とどめておくことはできない。

 「はぐれやすくても」の「ても」は不思議なつかい方である。ふつうは、「はぐれやすいので、とどめておくことはできない。」あるいは「はぐれやすいから、とどめておくことはできない。」と「理由」を明示することばをつかうと思う。
 なぜ、「ても」なのか。はぐれやすい「なら」、ピンを外さず、とどめておけばいい。江夏は何を書きたいのか。
 江夏の書きたいことを理解するには、ことばを補う必要がある。

はぐれやすい「とわかってい」ても、とどめておくことはできない。

 「わかっていても」あるいは「知っていても」の「ても」だけが、「はぐれやすい」に結びついてことばを動かしている。
 作者は、作者本人にはわかっていること、知っていることを省略してしまいがちである。そして、その省略のために、その文章が読者にはわかりにくくなっていることがある。
 「わかっている」「知っている」ということばが省略されていると判断した上で(想定した上で)、最初の文章を読み直してみる。そうすると「はぐれやすい心をとめたピンを外す」の「心」がくっきりと見えてくる。
 「わかる」「知る」という「認識」の動く「肉体の場」はどこか。「頭」で「わかる」。「頭」で「知る」。
 「心」は「頭」とは別なものである。
 江夏は、「心」と「頭」を明確に区別して考えている。(感じている。)

 そこで、「1」に戻ってみる。

 波打ち際にたどりついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 江夏は「心の複製」と書いている。「頭の複製」ではなかった。あるいは「言葉の複製」でもなかった。
 「くちびるの声がくちびるを濡らし」という書き出しを思うと、「頭の複製」はともかくとして、「言葉の複製」ではなぜいけないのか、という疑問も起きるが。
 その疑問を手がかりにして考え直すと、「言葉」というのものが、江夏にとっては「頭」で処理するものではなく、「心」で処理するものだからということにならないか。「言葉」を江夏は「心」で動かす。「心」で「複製」する。
 つまり、「反復」する。--「複製」とは「反復」のことである。

 波打ち際にたどりついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 は、

 波打ち際にたどりついて、心はあらゆることを複製する。つまり、心はあらゆることを反復する。そして、反復するとき、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 さらに、書き出しに戻ってみる。

 くちびるを心が反復しくちびるというとき、その声は反復することでここにあらわれたくちびるの複製を濡らし、そのくちびるを反復し複製する心の、いま、ここに、同じように心が反復し複製した青の記憶があらわれ、それはいま、ここで、また反復され、複製され、鮮やかになる。

 ほんとうは、そういうことなのだと思う。
 私がことばを補足した文ではあまりにもことばが重複する。そして、その重複する部分というのは、江夏にはわかりきっている。だから、そのわかりきった部分を無意識的に省略して、江夏は、

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。

 という形にしてしまう。
 わかりきったことば、知っていることがらは、いつでも省略されてしまう。
 その省略された部分--私は、それを「肉体となっていることば」と呼ぶのだが、その「肉体」に触れると、その詩がおもしろくなる。
 「肉体」に触れると、その「肉体」が動くのがわかる。--これは、まあ、私の錯覚かもしれないが、その「肉体」の動きがわかって楽しくなる。
 そのときから、詩を読むことは、セックスと同じになる。
 「肉体」にさわる。「肉体」が動く。「肉体」はいやがって動いているかもしれないが、これを、まあ、私は「快楽」で動いていると錯覚する。

 詩に、戻る。

 受け止めるものが、すぐに燃えさかってしまう。歓喜と呼ばれるものですら消えてしまう……消えてしまうのではなく、わたしはまたそこから離れてゆく。

 「消えてしまう……消えてしまうのではなく」という言い直し、その反復の形に、江夏の「頭」と「心」の明確な区別を読みとることができる。
 歓喜すら消えてしまうと「心」は感じるが、「頭」はそれを消えてしまうのではなく、わたしはまたそこ(歓喜)から離れていく--と、言いなおす。反復する。複製する。
 あるいは、
 歓喜すら消えてしまうと「頭」は認識する(知る、わかる)が、「心」はそれを消えてしまうのではなく、わたしはまたそこ(歓喜)から離れていく--と、言いなおす。反復する。複製する。
 --ふたつの文を考えることができるが、「頭」ではなく「心」でことばを動かすのが江夏の方法だから、この場合は、後者が、江夏の感じていることに近いはずである。
 それを証明するように、いまの文章は次のようにつづいていく。

だから、わたしはいつもあなたに見つめられていなければ、と願っている。

 「だから」ということばは「頭」で動かす論理的な接続詞にも見えるが、最後の「願っている」の「主語」は「頭」ではなく「心」である。ひとは「頭」では願わない。「心」で願う。「心」から願う。
 「心」が「言葉」を「複製(反復)」する。そうして、「心」は増えていく。
 うーん、
 君恋ふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬ物にぞありける
 和泉式部を思い出してしまう。
 「心」は「複製」され、増幅し、「いま」「ここ」がどうにもならないくらい「濃密」になっていく。


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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ポール・ハギス監督「スリーデイズ」(★★★)

2011-09-25 12:35:35 | 映画
監督 ポール・ハギス 出演 ラッセル・クロウ、エリザベス・バンクス

 前半と後半はまるで別の映画である。後半は面白い。だが前半が退屈すぎる。なぜ、退屈か。妻の殺人容疑、そして有罪の判決が「ことば」だけで語られるからだ。ときどきフラッシュバックで映像もあるにはあるが、それだけでは「ストーリー」である。人間がからんでこない。なんといっても、「無罪」であるエリザベス・バンクスの怒りが描かれないのが物足りない。エリザベス・バンクスの怒り、悲しみが映像化されて、その肉体化された「無罪」にラッセル・クロウがのめり込んでゆく――という形でないと、ラッセル・クロウのやっていることは「絵そらごと」になる。「愛しているから」というようなことは、ことばで話したって「うそ」になる。
 まあ、後半も、人間の感情がほんとうに動いて感じられるのは、エリザベス・バンクスが車から飛び降りようとし、ラッセル・クロウがそれを引きとめようとするシーン。それにつづく手と手のふれあいくらいだけれど。
 あとは、「有罪」判決を下した裁判に対する怒りも、警察に対する「うらみ」も感じられないし、エリザベス・バンクスにいたっては、刑務所から抜け出せてうれしいのかどうかもよくわからない。「無罪」にならなくても、いいのかな? 納得できるのかな?
 わからないなあ。つまり、うそっぽいなあ。
 でも、編集がうまい。
 シーンが次々に変わるのだけれど、残された時間がなくなるにつれ、「空間」の距離――ラッセル・クロウと追い掛ける警官の距離が短くなる、という構造が面白い。いや、空間がかならずしも縮むわけではないのだが、どんどん縮んですぐ背後に警官がいると感じさせる感じがいい。
 時間と空間の区別がつかなくなるのである。
 空間を時間が追い掛けてくるのか、時間を空間が追い掛けてくるのか。あるいは、こういう逃走劇というのは、逃げる人間の知能(主人公が短大の教授だからそう思うのか)を、警官の知能が追い掛けてくるのか、一種の「知恵比べ」みたいになり、その「知恵」のなかで、つまり「頭」のなかですべてが入り混じりながら接近するのか。
 逃走計画地図をわざと半分だけ発見させる逆トリックが、実に効果的。(原作もそうだったかな? 私はフランス映画を見逃しているかもしれない。思い出せない。)

 しかしなあ・・・。
 ラッセル・クロウは太りすぎだね。あんなに走りまわったら過呼吸で倒れそう。顔の吹き出物(?)も不健康の印みたい――と余分なことを思ってしまう。エリザベス・バンクスも、なんだか木偶の坊。ラッセル・クロウの父親が、やっぱり父親ならではの息子の理解の仕方をするのが、妙にしみじみとする。



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高塚謙太郎「屏風集」

2011-09-25 11:22:13 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「屏風集」(「Aa」4、2011年09月発行)

 詩人はことばを何によって選択するのか。「意味」ではない。「意味」はことばのあとから遅れてやってくる。--というか、どうとでも言い訳がつく、と私は思っている。それは、どんな「意味」もつけくわえなくてもいいということと同じ意味になる。

 高塚謙太郎「屏風集」の「玉響(たまゆら)」の1連目。

似ているようすはいつも花びらの悪寒にゆれているように、身がまえて眠る。見えてくるものがある。

 何が何に似ている? と、考えはじめると、「意味」がわからなくなる。
 だから私はそういうことは考えない。「花びらの悪寒」ということばに惹かれる。そのとき「ゆれている」は「震えている」かもしれない。悪寒で震えるとき、震えをおさえようと、からだをぐっと丸める。その姿勢を「身がまえる」といえば、そういえる。
 そこから、この1連目を、何らかの理由で悪寒に震えながら、眠ろうとしている人間のことを書いているという具合に「意味」化していくことができる。
 そうすると、書き出しの似ているは、悪寒に震えながら、その震えを抱き込むようにして丸くなっているようすは、花びらか散る前に身がまえる姿に似ている--という「意味」になるかもしれない。といっても、それは形というよりは、「意識」の問題である。
 ほんとうに悪寒で震える人間のようすが、花びらが悪寒にゆれているようすに似ているかどうか、だれも知らない。だいたい、花びらに悪寒というものがあるか。そんなものは、ない。あるのは、ただ花びらに悪寒がある、そして花びらは悪寒にゆれると考える意識だけであり、そういうとき人間は、自分のことを「悪寒にゆれる花びら」と思い込んでいることになる。
 --と書いてしまうと、どうなるだろう。
 ことばが、一巡してしまう。「主語」と「述語」が、それぞれのことばを飛び越して違う「述語」、違う「主語」と結びついて、世界を「二重化」する。そして、その二重化は、閉ざされている。
 閉ざされている--というより、世界を閉ざしながら、ことばは、何かに向かって結晶化していこうとしているよう見える。

 2連目。

轍というこの慙愧にみちたのりしろに背をそわせて、沈むまでゆっくりと視力を高めていく。こころから車輪の裏側をおもい、乳房からここの反面をまわす。このいたいけなものほしさよ。

 悪寒にふるえて、身がまえて眠るとき、見えるものが「轍」である。そして、それは「轍」のままでありつづけることはない。「主語」は、「高められた視力」によって「別なもの」に見えはじめる。「轍」から「車輪」へと視力は移行し、その「車輪」は「丸い」形ゆえに「乳房」へと移行する。「轍」がいきなり「乳房」になるのではなく、「車輪」の形をくぐりぬけることで、世界を閉ざし、探しているものへと結晶化する。
 この移行を「心の反面をまわす」といってしまうのは、正直なのか、それともわざとなのか……。
 いずれにしろ「心」と「反面」による「二重化」と、「まわす」とことばで、高塚のことばは、やはり一巡する。その一巡は、もちろん「轍」「車輪」ということばが反映し、加速する。そのため、「このいたいけなものほしさよ。」というスピードを出しすぎてしまって、「余剰」をまき散らしてしまう。飛び跳ねた泥濘のようなものである。

 3連目。

過ぎるうちに遠ざかる、翩翻としながら葉が。その葉が少し前にあった花萼ののどに今でも細く管はのびているだろうか。


 「轍」「車輪」「乳房」と動くことばは、ことばを「過ぎるうちに遠ざかる」。何から? 冒頭の「花びらの悪寒」から。「身構えた眠(り)」から。つまり、「夢」から。
 そんなことを意識しながら、意識は(心は、という方が高塚のことばに近いか……)、「花」にもどってくる。しかし、ただ「花」にもどってきたのでは、世界はおもしろくない。一巡すれば、そこには一巡しただけの何ごとかが反映され、どんなに丸く循環しても最初とは違っている。ことばを書くということは、最初とは違う状態になるのということなのだから……。
 で、「花びら」ではなく「花萼」に。そして、そこから「のど」が突然出てくる。「花びら」「花萼」と花の肉体を下とくだる「視力」はそこに「茎」をみる。「管」を見る。それは人間でいえば「のど」になるだろう。
 いま、ここに書かれていることばは、「悪寒」でふるえる「肉体」の夢と、その「悪寒」のときに目覚める「のど」を書いていることになる。

 --という余分な「意味」は、最初に書いたように、私がかってにつけくわえたものである。高塚のことばのなかへ遅れてやってきた「意味」である。高塚が同じ「意味」を、これらのことばにつけくわえる--あるいはことばに誘われて「意味」を結晶化させようとしているのか、どうか。
 私は、そのことについては、あまり関心がない。
 いいかえると、私の読んだ「意味」が「誤読」であるか、「正解(?)」であるか、どうでもいい。私はだいたい「誤読」したくて読むのだから、「谷内の読みは間違っている」といわれても、ぜんぜん気にならない。
 (あるひとが、私の書いた文章を読み、「読み間違えています。でも、気を落とさないでください」と電話してきたことがあったが、私は、そうか、一般的には作者の書いていることを誤読すると気落ちしないといけないのか、と変なことに気がついて、おもわず笑いだしそうになった。--私は「大学受験」や「入社試験」の問題を解いているわけではないのだから、間違えたってぜんぜん気にしない。)

 脱線した。

 詩にもどると……。
 私は「玉響」では1連目と3連目が好きである。2連目は、ちょっと「うるさい」と感じてしまう。
 1連目、3連目が好きな理由は、そこに出てくる「音」が、なんとはなしに私の肉体には気持ちがいいからである。
 「よ」うす。「ゆ」れて。「よ」うに。その「や行」のゆらぎ。それから「身がまえて」の「が・ま」の組み合わせのなかにある響き。「や行」をゆらいだあとの「が・ま」のゆらぎ--これが、特にきもちがいい。どこか、肉体の奥の、聞こえない「音」を聞いたような気持ちにさせられるのである。
 花「び」ら、身「が」まえる、「が」ある--この濁音の呼応も、私の肉体にはしっかり響いてくる。
 3連目は、その濁音とバリエーション(過「ぎ」る、遠「ざ」かる)にくわえ、「が」が何度も繰り返されるのが、読んでいて楽しい。私は音読はしないけれど、肉体が声を出そうとして動くときの、その感じが、きもちがいい。
 「の」も何度も出てくる。それが「が」と離れながら響くとき、「身がまえて」の「が・ま」の音ととてもなじむのである。(「身がまえて」は「み・が・ま」の動きといった方がいいのかもしれない--と、ここまで書いてきて、急に思う。)
 
 「意味」はあとから、付け足す。まず、音に反応する。私は、そんなふうに高塚の詩を読むのだった。




さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
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江夏名枝『海は近い』(5)

2011-09-24 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(5)(思潮社、2011年08月31日発行)

 江夏名枝『海は近い』の感想は、もっと効率的(?)な書き方があるかもしれない。けれど、詩は、もともと「効率」とは無関係なものだから、効率的に書いてもしようがないかもしれない。
 でも、少しずつ、書き方を変えてみるか……。

 「5」の部分。

 白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 「白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。」は簡潔な描写に見えるが、ここにも「複製」の問題が隠されている。
 白髪を「短く」刈り込んだ男は「小柄」と「複製」される。「大柄」だと「複製」ではなく、別なストーリーになってしまう。「想定外」になってしまう。それはそれでいいのだが、江夏は、こういう部分では「逸脱」しない。ことばの「軸」をぶらさない。ぶらさないことで、ことばの運動をなめらかにする。それは「小柄」「ひしゃく」という「複製」にも通じる。白髪を「短く」刈り込んだ「大柄」な男という具合にことばが「複製」されたときは、そのあとにつづくことばは「バケツの水をぶちまけた」という具合に「複製」される。その場合「白髪」の「男」、「男」「大柄」、「大柄」「バケツ」「ぶちまける」という「複製」の関係ができあがる。
 こういう「複製」は「常套句」という問題をはらむのだが--まあ、そのことは、わきにおいておく。(わきにおいたまま--というより、まあ、ここには戻ってはこないなあ、私は。)
 その次の部分がおもしろい。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 「眠り」が「目覚め」と「複製」される。
 江夏の「複製」には、いくつか種類がある。まったく同じことばの「複製」として、「1」で見た「くちびるの声がくちびるを濡らし」がある。ついさっきみたのは「想定内」の「短く」「小柄」というような「類似」の「複製」である。こうしたものは「複製」と理解しやすいが、「眠り」と「目覚め」が「複製」であるというのは--変に見えるかもしれない。「矛盾」しているように見えるかもしれない。けれど、「複製」としかいいようがない。
 「眠り」と「目覚め」は「矛盾」している、「対立している」ことばであるが、それは「矛盾」すること、「対立」することによって、「いま」を浮かび上がらせる。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 という文において、「いま」という句は、あってもなくても「意味」はかわらない。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だから、わたしは目覚めているのだとわかる。

と、「いま」を省略してみるとわかる。「いま」はなくても、読者は(少なくとも、私には)、それが「わたし(えなつ)」にとって「いま」であることはわかる。「過去」や「未来」の時間ではないということがわかる。「いま」のことを書いているのは自明なのに「いま」と書かざるを得ない--そこに江夏の「思想」があり、その「思想」に「複製」が強く関係しているのだ。
 「矛盾」をつなぐものが「いま」、「いま」が「いま」として強く認識されるのは、「矛盾」が「複製」としてあらわれるときなのである。

 「2」に戻ってみる。「2」に次のことばがあった。

誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 そこでは「誰かの捨てた風景」と「風景に見捨てられた、誰かの言葉」が「複製」であり、その「複製」は「裏返し-矛盾」であった。それが存在する時間は、そこには書かれていないが、やはり「いま」なのである。「いま」、「わたし(江夏)」は「かも知れない」という「述語」のなかで、その「矛盾」を統一している。
 その「2」の部分が、「5」では、「眠り」「いま」「目覚め」という形で、「複製」されているのである。
 「いま」という「時間」が、「矛盾」を統一する。
 これを、別なことばで言いなおすと、「ここ」に「矛盾」が「現れる」。その「現れる」何かが、「ここ」という「場」に同時に存在するかぎりは、そこにその「矛盾」を統合する何かがあるはずで、その統合する力が「いま」なのだ。

 世界に「ある」のは「いま/ここ」だけである。
 江夏のことばを読んでいると、そう感じる。「矛盾」は存在しない。「矛盾」が存在するとしたら、それは「いま/ここ」を刻印するためにある。

 それにつながることばが「6」にある。

 記憶を甦らせることは過去ではない。

 「記憶」は「過去」ではない。どんな「過去」も「記憶」として思い起こすとき、そこに「いま」がある。「いま」という一瞬に、「過去」が呼び出されるとき、「いま」と「過去」の「あいだ」がなくなる。
 この「あいだ」がなくなる「場」が「ここ」であり、「いま」なのだ。

 「5」に戻る。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 「眠りのなかにある……しぐさ」とは「夢」のことである。「夢」を甦らせ、ことばにするとき、その夢は夢ではない。「いま」起きていることである。
 「肉体」は、ことばがかってにつくりだして見せる「過去(夢)」と「いま」の「へだたり」(あいだの大きさ)を理解できない。把握できない。過去も夢も、すべて「いま」である。「過去」も「夢」も、ことばを動かしていく「意識」が、むりやりつくりあげる「幻」である。


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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ジャック・ヘイリー・ジュニア監督「ザッツ・エンタテインメント」(★★★★★)

2011-09-24 17:06:10 | 午前十時の映画祭
監督 ジャック・ヘイリー・ジュニア 出演 フレッド・アステア、ジーン・ケリー、フランク・シナトラ

MGMの50周年記念に1974年に製作されたこの作品、私はリアルタイムで見ているけれど、そこに集められている作品はリアルタイムで見たことがない。で、つくづく思うのは、こうした作品群をリアルタイムで見ることができた人は幸せだなあ、ということ。
いつ見ても(というのは変か)、フレッド・アステアのダンスの優雅さに感心する。体の線がとても美しい。苦労して踊っているように見えない。歌舞伎役者の話で「役者が一番美しく見えるのは無理な姿勢をしているとき」というのがあるけれど、フレッド・アステアも無理していたのかなあ。
帽子かけを相手にダンスするシーンなど、まるで人間を相手に踊っているとしか見えない。――というより、帽子かけを人間にしてしまうのがフレッド・アステアのダンスなのだ。そしてそれは、共演者を名ダンサーにしてしまうということでもある。フレッド・アステアひとりが優雅なのではなく、踊る人をすべて優雅にしてしまう。それは、実は見る人をも優雅にするということなのかもしれない。
見終わった後、あ、こんな風にダンスをしてみたい、とダンスの経験のない私でさえ思ってしまうのだから、私も優雅に「なった」ということだろう。
ジーン・ケリーはちょっと違う。ダンスはダンスなのだろうけれど、なんといえばいいのか、こんな風に体で遊んでみたいとい感じ。「雨に唄えば」のバシャバシャが象徴的だけれど、ダンスじゃなくていいから、雨の中でバシャバシャやってみたい――そう思ってしまう。ジーン・ケリーは相手と踊るよりも、「空気」あるいは「状況」とダンスをする。「舞台」が踊るといえばいいのだろうか。
何度か紹介されるスタントなしの危ない場所でのダンスは、ジーン・ケリーが「舞台」(状況)そのものと踊っていることを証明している。ジーン・ケリーがひとりで踊っているのではなく、「舞台」もジーン・ケリーにあわせて踊るから危険はないのだ。
74年か75年に見た時はぼんやり見ていたがクラーク・ゲーブルまでミュージカルに出ている。歌っていたのか。印象的なのは、まあ、しかし、クラーク・ゲーブルはやっぱり「ウインク」だね。色っぽい。真似したいねえ、あのウインク。
大好きなシナトラの歌も聞けるし、もう1回見てもいいかなあ、いやもう2回、3回・・・。



苦情をひとつ。天神東宝4(福岡市)で見たのだが、本篇が始まってから、後のドアが細く開いていた。いつまでたっても閉まらないので、席を立って閉めに行ったら、なんと眼鏡をかけた係員(だと思う、青い制服が見えたから)が、スクリーンを除いている。そのためロビーの光が入ってくるのだ。
「光が入るから閉めてください」と内側からドアを引いて閉めた。
映画が終了後、ロビーにいた係員に苦情を言ったら「本篇がほんとうに始まったかどうか確認している」という。そんなばかな。今までも何度も天神東宝で映画を見ているが、上映開始後に係員がドアを開けて上映を確認しているために、光が入ってきて困ったという記憶はない。確認するにしても、きちんと劇場内に入り、ドアをしめて確認すべきだろう。いつまでもドアを開けている必要はない。
とても不愉快だった。





ザッツ・エンタテインメント [DVD]
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