詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池江選手の「ツイッター」騒動

2021-05-12 15:07:32 | 自民党憲法改正草案を読む
 書こうか、書くまいか、迷ったが。
 思ったことは、消えるわけではないから、書いておく。
読売新聞2021年5月12日の社説「五輪開催の賛否 選手を批判するのは筋違いだ」のなかに、こういう文章がある。
 
 五輪の中止を求めるなら、政府や東京都などに向けて声を上げるべきである。出場を目指して努力を重ねてきたアスリート個人に、「辞退して」「反対の声をあげて」と要求するのは、あまりに酷な注文で、配慮を欠いている。
 
 もっともらしく聞こえる。
 でも、これが、批判でなくて、たとえば「池江選手、絶対金メダルとって」だったら、どうなるのだろう。「池江選手のがんばりで、日本中を元気にして」「五輪反対といっていたひとたちのやっていたことが間違いだったことを証明して」(五輪は日本を勇気づけるために必要だったということを証明して)だったら、どうなるのだろうか。
 これは酷な注文、配慮を欠いた要求にならないのだろうか。
 ふつうの国民は、選手をとおして夢を見る。それは何も池江選手だけをとおしてではないし、日本選手だけをとおしてでもない。外国の選手、名前を知らなかった選手をとおしてさえ夢を見る。名前を聞いたこともないだれかがマラソンで2時間を切って優勝する。そのとき、それを見ていた人は、興奮するだろう。スポーツは、そういうものだと思う。ふつうの国民は、スポーツ選手に、自分のできない夢を託し、それが実現する瞬間を共有する。
 それはスポーツそのものが基本だけれど、スポーツ以外でも同じ。
 大坂なおみが、黒人暴行死に抗議する黒いマスクをつけて、全豪テニスで優勝した。ひとは大坂の優勝にも興奮したが、黒いマスクの抗議にも興奮した。
 ふつうのひとが大阪と同じマスクをつけて街を歩いていても、テレビも新聞も取り上げないだろうし、それが世界に報道されるということもない。スポーツ選手は、スポーツだけではなく、ほかの行為でも多くのひとの思いを代弁できる。代弁できるだけではなく、メディアをひきつけることで「大声」を発することができる。そういうことを、私たちは知っている。
 だから、池江に夢を託すのだ。
 池江が白血病に打ち勝ち、努力を重ねてきた。日本選手権で優勝し、五輪出場権を獲得した。そういうことを知っているからこそ、池江が五輪に反対する、中止を要求すれば状況が変わるのじゃないかと期待する。そういう期待をもつことがいけないという批判が起きるのは、当然わかっている。わかっていても、そうしたいひともいるのである。
 なぜか。
 読売新聞は「五輪の中止を求めるなら、政府や東京都などに向けて声を上げるべきである」と書いているが、その声を上げている人は大勢いる。国会前でのデモもあれば、反対署名もある。読売新聞の世論調査でも五輪に反対の人は6割もいる。それなのに菅は「安心・安全の大会へ向けて努力する」と言うだけである。ふつうの人は何を言っても、政治に声が届かない。権力は聞こえないふりをする。そういう社会にしてしまった責任はマスコミにもあるだろう。世論調査で6割が反対しているのに、読売新聞は、その声を聞いて「読売新聞として五輪に反対する」と言ったか。無視しているだけではないか。それはマスコミとして「正しい姿勢」なのか。
 池江に「辞退して」「反対の声をあげて」と要求するのは、あまりに酷な注文で、配慮を欠いていると指摘するのは簡単だが、池江しか頼ることができないと思っているひともいるということも忘れてはいけない。
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愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』

2021-05-12 09:34:19 | 詩集

愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』(土曜美術社出版販売、2021年05月19日発行)

 愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』は、詩集の前半で、過去に書いた詩の「注釈」を詩の形で書いている。過去の詩のメーンイベント(?)は、勤務先の学校で「組合」をつくること。そのために愛敬は奔走している。引きずり回されている、かもしれない。ある状況があるのだが、それを完全に把握しきれない。それは、いつの時代でも同じことだが、その把握しきれないものを、これまた把握しきれない(と書くと愛敬に怒られるだろうけれど)ことばでつかみ取ろうとしている。かつて、そういう時代があったのだ。わからないことがあるからこそ、わからないことばにかける。そのことばの先に何かが見える、と思って、「ことばの肉体」に頼って動くということが。
 これを裏返せば、現在の政治である。コロナ時代の「ニュースタイル(新生活?)」だったかなんだか忘れてしまったが、いまの内部へ入り込み、問題点をつかみとるというよりも、いまの問題点から目をそらすために、ひとがつかっていなかったことばを率先してつかう。この「ことばの先」に、新しい生き方がある。それを知っているのは、新しいことばを最初に口にした私だ、というわけである。小池なんとかというのは、こういう作戦にたけている。学歴詐称が問題になったが、これも同じ。ひとの知らない「学歴」をぶら下げて見せて、「その先」にあるものを暗示する。何もないのに。カタカナ語の、新しいことばが出てくるときは、たいてい同じである。現実を見せない、現実から目をそらすために何かが仕組まれている。「エビデンス」などというのは、その「証拠」である。
 というのは、まあ、脱線である。
 もちろん、「組合結成」の周辺を、暗号めいたことば(いわゆる難解な現代詩)で書いていたとき愛敬はそんなことは考えていない。ただ、ことばの向こうに何かが見えると真剣に信じていただろう。あのときは、詩のことば全体が、そういう動きをしていた。その潮流に、若い詩人はどうしても乗ってしまう。そのことは、とくに否定されるべきことではない。だれだって、裾の広いパンタロンを履いていたのだ。流行を無視して、独自路線を生きているのは、よほどの偏屈である。愛敬の友人である石毛拓郎(とっても感動的な帯を書いている)は、そういう詩人かもしれない。この「かつての流行」のことばを見るのは、なつかしい。こういうとき、よくひとは「なつかしい」ではなく「はずかしい」というが、私は、おもしろく、なつかしいと感じる。
 でも、こんなことを書いてもしようがない。「過去の詩」は脇に置いておいて、いま書かれた詩だけ取り上げ、思ったことを書いてみる。「アパート」という作品は、組合結成のために世界史の先生のアパートに仲間が集まったときのことを書いている。「熱々の、近所のコロッケをみんなで食べたりした」という一行があるが、あの年代にはマックもケンタッキーもなかったから、「おやつ」といえばコロッケだったのである。

二間だけの、アパートの一階
本と本棚しかない部屋に
十数人が座り込み
話し合われたことの、ほとんどすべてを
いやいや、何一つ
今では、何も思い出せない
七〇年代の終わり
あれは、どういう時代だったのだろうか
新任の彼は
五月の連休明けに
そのアパートへと誘われた
あの頃は
何で、あんなに時間があったのだろう
みんな、どのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も
職場としての学校へ行っていたのだろうか


 「新任の彼」と書かれているのが愛敬本人である。話し合ったことを何一つ覚えていない、というのは、誰もが経験することだろう。あれはどういう時代だったのか、と思うのもだれもが思うかもしれない。熱々のコロッケをふくめて、そこまでは私は単なる思い出として読んできた。よく聞く話だと思って読んだ、という意味である。
 ところが、

あの頃は
何で、あんなに時間があったのだろう


 ここで、私は思わず棒線を引いた。意味としては「あれは、どういう時代だったのだろうか」に非常に似ているが、ちょっと違う。
 「あれは、どういう時代だったのだろうか」は「あれ」ではなく「どんな」に力点がある。「あれ」というのは、書いているひとと読んでいるひとに共有される認識、ただし目の前にある認識ではなく、遠くにある認識、つまり「ふたり」(愛敬と私)が同時に思い出している「七〇年代の終わり」を指している。そして、「あれ」という形でテーマ(話題)を提示した上で「どういう時代だったのだろうか」と疑問を投げかけ、「どういう」に焦点をしぼっている。
 「何で、あんなに時間があったのだろう」は順序が逆である。「何で」は「どうして」と言い直せば、「どうして、あんなに時間があったのだろう」であり、「あれは、どういう時代だったのだろうか」とは「どう」「あれ」の順序が逆だということがはっきりする。「七〇年代終わり」という漠然とした時間ではなく、「あの時間」(アパートに集まって、コロッケをかじりながら組合結成の夢を語る時間につながるもろもろの時間)が凝縮して見えてくる。
 愛敬の今回の詩集のキーワードを指摘するなら、この「あんなに時間があったのだろう」の「あんな」である。「こそあど」ことばの「あの」である。「共有認識」を示す「あの」。愛敬が知っている「あの」時間。それは私が知っている「あの」時間であり、また石毛が知っている「あの」時間である。それは、いまの若い世代が知らない。つまり認識として(体験として)共有されていない時間、若い人にとっては単なる「情報」の時間である。でも、愛敬、石毛、私には「共有している時間」である。私は愛敬にはあったこともないから「共有」というのは変に聞こえるかもしれないが、「共有」以外では語れない時間である。
 そして、ここまで書いてくれば、あとはことばが指し示す通りである。愛敬がいま書いた詩とセットで編集している「過去の詩」は単なる「過去の詩」ではなく、「あの」詩なのである。それは「共有された詩/共有されている詩」なのである。
 もちろん、その「共有された詩」を再びひとが(とくに若い人が)共有すべきであると、私は、絶対にいわない。そんなことは不可能というよりも、そんなことをすれば嘘になってしまうだけである。
 私は、あ、ひとは何かを「共有」しなければ生きていけない、と感じたと書きたい。いま必要なのは、それが何かわからないけれど「共有」なのだ。いま、社会では、あらゆることが「共有」しにくくなっている。「共有」を分断する力がどこまで広がっている。どんな形で何を「共有」できるかわからないが、愛敬が今回の詩集で「出現」させようとしているのは、「共有」の困難さと、必要性なのだと感じた。

みんな、どのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も
職場としての学校へ行っていたのだろうか


 この最後の部分。これを、

みんな、あのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も(あのようにして)
職場としての学校へ行っていたのだ


 と書き直せるとき、そしてそれが「当たり前」になるとき、「共有」が絶対的な力になる。そのためのヒントは、過去の作品に隠れているはずである。かつて、私たちは「あのようにして」詩を書いたのだ。ことばを動かしたのだ。
 でも、そこには「あのようにして家に帰り」「あのようにして職場としての学校へ行っていた」がない。具体的な行動がない。暗示的なことばがあるだけだ。「あの」は何よりも具体的でなければならないのだ。(過去の詩を脇に置いたままにしているのは、そのためである。)
 「あの」と呼べるものを、詩は作りだしていけるか。
 愛敬は、それを問いかけている。この問題は、「七〇年代終わり」を知らない若い人にも考えてもらいたい問題である。「いま」は常に「過去(既知)」になる。あした、今日(いま)起きていることの何を「あの」と「共有」できるか、そのためにことばはどう動けばいいのか。

 

 

 


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