★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

崩壊するのは過程か、文化か?

2023-02-12 23:18:16 | 文学


いま一つには、俊蔭のぬしの父式部大輔の集、草に書けり。 「手づから点し、読みて聞かせよ」とのたまへば、古文、文机の上にて読む。例の花の宴などの講師の声よりは、少しみそかに読ませ給ふ。七、八枚の書なり。果てに、一度は訓、一度は音に読ませ給ひて、おもしろしと聞こし召すをば誦ぜさせ給ふ。何ごとし給ふにも、声いとおもしろき人の論じたれば、いとおもしろく悲しければ、聞こし召す帝も、御しほたれ給ふ。大将も、涙を流しつつ仕うまつり給ふ。 悲しきところをばうち泣かせ給ひ、興あるところをば興じ給ひ、をかしきをばうち笑はせ給ひつつ、異御心なく聞こし召し暮らす。

文化はこうやって、権威の命ずるところに失敗せぬ物語として成立している。これは明らかに差別であるが、文化はかように差別的なところがある。大学でも落第とか留年のシステムをとっている。これ自体、差別的なのだが、それはいままで容認されている。合理的配慮云々の件は、そこに楔を打ち込むことになりかねない。上の優秀な御仁は、帝の号令一下、素晴らしくやってのけるのだが、この速い過程に対して「ひとそれぞれ」という観点を導入すると崩壊する。――しかしなにが崩壊するのか、過程か?文化か?

大学で不可、落第を経験するのはよいことで、例えば、あなたは(弾丸のように銃で)発射されている、という脳内変換をあらかじめ体験しておくために必要である。きわめて実践的で役に立つ。――こんな考え方は、文化には犠牲がつきものであるという前提によって成り立っている。

ただでもコロナでコミュニケーションのあり方、とくに対面の講義の意義が再審されてしまったわけだが、学問に必要な議論の方は単に深刻な打撃を被った。思うに、昔私が、吹奏楽部で音楽と人間関係を学びながら、研究会で読書会とか合評会とかを定期的に大学時代行ったことは、解釈と自分の意見を変形圧縮して議論に面白く投入出来る訓練だったように思う。これができないと論文はただひたすら自分の意見とか解釈を写しておりますみたいな書きぶりになりやすい。論文そのものに議論の性格が必要なのである。コロナで打撃を受けていると思うのは、こういう性格で、しかしこれは授業でお題に対して一斉にお話タイムをしてもだめで、テキスト(論文)を読んだうえでやんなきゃだめだ。なぜかというと論文そのものが議論性を孕んでいるからであった。そしてて、こういうことも、我々が人間関係の常識を維持出来ていての話なのだ。文章の中に議論性を読めるのはどちらかというと現実のコミュニケーションの「空気を読む」性格に近いような気がする。

こういう現場の悪戦苦闘の一方で、必然的に政治化した学問の言語というものがある。読みの多様性を許しながら、テキストの政治的痕跡は一義的にするみたいな方向性をいつまでも放置しときゃ、政治的にテキストをつかう自由な多様な方向性を制御できなくなるに決まってる。あまりにもこういうことにナイーブな人々が多かったのである。

政治化した学問の言語は、背後に議論の性格が希薄でむしろルサンチマンの性格がある。先鋭化した政治的言語は、背後に人間的葛藤を抱えていなければならない。これがないと、体制化した瞬間にルサンチマンの暴発が始まってしまう。勢い、指示を出す奴は一人となる。合理的な改革は上から流れてくる薬みたいなものであるべきで、下部には、人を殺さない集団の伝統が必要だ。そして集団の伝統みたいなのをいかに維持するかは、それについてのいろんな議論をともなっていないといけない。そうでないと、伝統の維持を自負する人がその伝統そのものを壊してしまうという現象が生じる。加齢とか役割を押しつけられてきた不満とかいろんな理由でそうなる。時代の流れとか特殊な人間の大暴れとか、いろんな理由はあるが、主な理由は、伝統にも抑圧の移譲ならぬ、伝統の移譲みたいなものがあるということだ。これは下への移譲ではなく上への移譲である。

いまや学校の世界は、大学も含めて、この下部の世界になりはてた。伝統の維持がラディカルな課題である。そのなかで、文化の維持も同時に行われるべきだ。そのとき問題になるのが、合理的配慮云々の問題である。ちょっと口だけみたいだけれども、――わたくしの経験からいうと、教員は合理的配慮の必要とみえる人間ととにかく慣れることが重要で、長く時間をかけてお互いのことが分かってくることが重要である。その余裕がなかったり、最初にぶち切れてしまってコミュニケーションを断つと、怨念をためこんで差別的言動にいたる可能性が高まってしまうと思う。しかし、まあこれもそれぞれ人間は違うので、何が起こるか分からないから一概に言えないところがあるが。。とにかく、寄り添うみたいな心情的な接近は寄り添った側がぷっつんしたらおわりなので、重要なのは観察といろいろな知見をまなぶことだ。言うだけは簡単であるが。

そうでない学生においてもデッドロックは多い。「発達障害」の逆は発達(=成長)であり、そこに主体性という観念がくっついている。しかし、自分で自分をコントロールして成長みたいな観念にとても耐えられない人間は多い。が、そうだとしても、蛇が自分の尻尾を喰うみたいな状態ではないんだから、単に他人にコントロールを任せてもだめなのだ。私の体験にすぎないが、自分の癖は限界を超えて練習したみたいなあとにしか分からないので、それから主体的な勉強や仕事のやり方を自分で組織化すればよく、それ以前にやると病むし、あまりに限界ばかり超えてるとこれも病む、というか体が壊れる。こういうプロセスは自分でもよく分からないけれども、他人だから客観的で分かるということもない。早くからの主体化が推奨される一方で、他人=客観みたいな馬鹿馬鹿しい観念も一緒に推奨されていて、これじゃ自分に不安な真面目な奴は狂ってしまう。

中学の頃わたしが一番のびしろがあるかなと勝手に思っていたのは美術でその次が家庭科、いちばん好きなのは音楽で勝手にやってしまっていたのが国語で、そのほかは正直どうでもいいかんじであった。結局、勝手にやってしまっていた、ところに行き着いた。ちなみに成績でいうと、美術や家庭はよかったが社会科もわりと出来てた気がするし、理科もまあそこそこであった。で、案外点数が上がらなかったのが国語で、五教科で一番点が低いこともあった。というわけで、「得意教科」という観念もまったくこういういろいろな傾向を全く説明できず、「やる気」も同様だ。点数は無論である。まあ、こういういう場合にそこそこ間違っていないことを言えるのが教師の役目である。これはマルクス主義やフェミニズム、マイノリティ主義など――「学問」みたいなものに対する「批評」に近い。われわれはつい点数や態度にとらわれる。教師だけでなく本人もそうなのだ。

人間率直であればいいというものではない。何に対して率直であるかは本人にもよく分からないからである。そこには学問ではなく「批評」が必要なのである。学問を背景にしたイデオロギーはつい人間の複雑さを忘れる。マイナンバーカードとかでもあれだったが、ポイントに素直に釣られてほんと馬鹿な人民はどうしようもないなと思う知識人その他もいるであろうが、実際ポイントに釣られている人はどう考えているかというと「マイナンバーカードとかバカじゃないの。根性悪すぎ。でもポイントはもらっとくかw」である。

今更気付いたんだけど、例えばツイッターは、職業的自分と趣味的自分と政治的自分とわけてアカウントつくったりするみたいなんだが、これはある種の偽装転向というか擬態というか、ある種の職域奉公でもある。むかしのプロ野球選手の座談会とか見ていると、わりと「仕事は仕事、遊びは遊び」で派手にやってきた、とみんな言ってるのだが、――実際は、昔のプロ野球は試合でもだいぶ遊び的な野放図さがあったわけで、夜遊んでいる人格と試合中の人格はやはり一緒だったはずだ。そのうえで仕事と遊びをわけるという意識が働いていたのだと思う。いまだってプライベートの無為みたいなものが仕事にも影響与えている。人格はアカウントで分かれたりはしない。分けられるかのような幻想は浮薄である。言い方をかえてみれば、多重所属なんか、われわれには「根本的には」不可能である。