★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

子に琴を

2023-02-05 19:34:40 | 文学


中納言、「かの竜角は、賜はりて、いぬの守りにし侍らむ」。 尚侍のおとど、うち笑ひて、「いつしかとも、はた。さても、かやうの折には言ふやうかある」とのたまへば、「おほかたのことは、いかが侍らむ。この琴のある所、声する所には、天人の翔りて聞き給ふなれば、添へたらむとて聞こゆるなり」。尚侍のおとど、典侍して、大将のおとどに、「かの、おのが琴、ここに要ぜらるめり。 取らせむ」と聞こえ給へれば、急ぎて、三条殿に渡り給ひて、取らせておはしたり。

仲忠と女一宮のあいだにいぬ宮がうまれた。で、うまれたとたんこの子の形見の琴を傍らに、と仲忠は主張する。たいがい親というものはこういう焦りをして混乱のなかにはいってゆく。この親の脳裏には、子が奏でる琴の音に惹かれて天人が舞い降りている。たぶん、これからずっと舞い降りているのであった。わたくしも、生まれる前から、クラシック音楽を聴かされていた。生まれた子はたしかに音楽が好きにはなったが、いっこうに天人は降りてこない。

いつのころからか、我々には天に二種類のものが同居するようになった。彼方からやってくる天女や天啓とともに、われわれそのものを造った天が居る。むかし神様が天浮き橋から下界のとろとろしているところをかきまぜて島を造った。これが日本である。思うに神様の下のとろとろしているところとは、ぼっとんトイレのそれにちがいない。宮台真司氏は、日本はアメリカのケツにクソがついていてもなめるのかとよく言っていたが、クソがクソをなめたところ
でなんてことたあないわけである。我々のなかにはこういう元も子もない品格が備わっており、すぐに地上レベルのみの世界に降りたがる。しかし、自分が子どもをもったりすると、ついそのクソの世界を忘れる。

そして、家庭のなかを天とみなし、外部のクソ世界をクソみたいに生きることになる。それは集団の世界である。いつの頃からか、この集団の世界を家庭の延長とみなすセンスが消失して、社会は社会として成り立つかのような幻想が生まれた。そこで生じたのが目的にのみに向かう価値の人工的制作である。しかし、そういう大概の評価システムは、目標を一人で達成したかのように見せかけるゴミの増殖を後押ししただけであった。そりゃ社会の感情秩序は崩壊するわな。教育界も見えないカリキュラム批判とかかっこつけてる場合ではない。見えないカリキュラムがそもそも分からなくなっているやつらが昔の価値を妄想しているだけではないか。

昔から言われる「問題児」とかなにやらが疎外されてゆく問題はたしかに重大で、彼らが「悪影響を与える」みたいな言い方で仲間はずれにはなっていたわけで、――それは憐憫を感じさせさえもするわけである。しかし、その「問題」には、卑怯なやつ、嘘つきやろう、弱い者いじめするやつというのも入っていたに決まっている。それが周りに模倣者をつくっていくおそろしさは集団ならではだ。そんな現象を阻止するために教師が存在しているはずなのに、教師の生き方が幇間じみておかしくなってると、もうそういう機能は崩壊せざるをえない。問題児とそう見えてしまうマイノリティの関係の処理という難しい問題を解くどころではなくなる。そして、いまや、問題児、あるいは仲間はずれになった人間に対する合理的配慮云々というマルクス主義者もびっくりの二項対立的おおざっぱさが、新たな事態を創出した。内実を見極めようとする誠実な教師たちにとって、こんな複雑な方程式をそもそもとける気がしない。昔からある程度そうだが、一握りの能力の高い人間が自分の出世やら業績やらを犠牲にしてケア専用で走り回るということになると思う。現にそうなっている。

一方、家庭には、社会的=学校の手法の応用が勝手に始まった。お母さんたちが社会に出ていった必然である。私の経験だと、たとえば学校の先生は集団教育の職人であって、自分の子どもの教育に関してはやはり他の職種の人間とおなじく素人たらざるをえない側面がかなりあると思った。子育て?というのは教育の中でも特殊分野で、それ自体時間をかけた学問的追求が必要なのである。我々は、むかしも子どもは大概放置されてたじゃないか、親がなくとも子は育つという通念もあって、ちょっと舐めてるところがあるのではなかろうか。それは集団教育とおなじく非常に難しい営為なんだと思う。だから通過儀礼みたいなものをつくって出来たことにする。むかしからそれはかわっていないかもしれない。

育児は大変、みたいなのは育児を労働としてみた場合で、そりゃそうなんだが、それ以上に難しい仕事なのであろう。しかし、これは、仕事一般にもいえて、最近は難しい仕事を労働のきつさに変換してそれを減らせばよしみたいな発想が跋扈している。減らしても難しさは減らねえよ。親子の絆という言い方もその難しさをなにかなめてる気がする。絆は同志とかの間でお互いを意図的に縛り合うみたいなときには有効かも知れないが、親子は絆で説明できるもんじゃない。身体的に魂を共有してるみたいな状態を絆みたいな意識的な紐帯に還元した結果、かえって面倒なことになってる気がする。

ドッペルゲンガーは文学的な意匠でもあるが、親子も一種のドッペルゲンガーで芥川龍之介がそれにこだわったのもそのせいだと思う。ドッペルゲンガーは鏡にうつった似姿以上に影のようなもので、子が親を見たり、親が子を見たりするときにあらわれる。われわれに、こういう感覚を消去してものを考えることが可能であろうか。可能なはずがないのに、可能なふりをしているに過ぎない。