★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

物語のことをのみ心にしめて

2014-07-11 23:25:34 | 文学


昼は日ぐらし、夜は目の覚めたる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢に、いと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、「法華経五の巻をとく習へ。」と言ふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語のことをのみ心にしめて、「我はこのごろわろきぞかし。盛りにならば、容貌も限りなく よく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ。」と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。

 
源氏を読んでいたら、夢に僧が現れて、「法華経五巻をいますぐ習え」と言った。にも関わらず、孝標の娘は「これからきれいになって、夕顔や浮舟みたいになる!」と思っていた。ひどく浅はかだった。――

しかしまあ、源氏を読んでいたら内容的にも仏教の方に意識が次第に行くのは別に間違ってはいないのだ。ドストエフスキーを読んでいるうちにクリスチャンになる道もあるのである。だから、別にいいではないかとおもうのだ。夕顔や浮舟になりたいとか、おれはもしかしてラスコーリニコフかもしれないなとか、ムイシュキンかもしれないとか、どちらかというと実際はイヴォルギンみたいな人の考えそうなことである。恐いのは、夢の中で、桐壺の更衣になんかになってしまうことである。悲劇というのは、しばしば忘れ去られる。

古い一人称のゴオタマは、彼の親しい二人称である文珠を再発見するや否や、次代の三人称である彌勒を打ち立てる。だが未来をシンテーゼとして片付けてしまうには、アジア的範疇はあまりに並立的範疇に属している。三人称を一人称に還元させるには手持無沙汰すぎる未顕現の剰余生産が、第四人称としての常識を生み出すが、彼は必然的に反撥して、次の未顕現の剰余を善財の形でシンテーゼに纏めてしまう。この第五自我は、言い得べくんば、第四次元の並列範疇の鏡の前に立つと同時に、共同体の合せ鏡の中に重々無尽に自分の姿を見つけ出すことが出来る。こゝには、永久に有限的な無限のシンテーゼを矛盾の中に探し求めるところの、統制生産における理想主義が、宿命的に浮び出ている。剰余生産の未顕現の程度の濃さ、すなはち数重の間接的な社会の搾め木の強さの、数次元的なまでの深刻な表現は、同時にいかに内攻的な人間の人間に対する掠取の甚しかったかを物語っているのである。

――槇村浩「華厳経と法華経」


現代なら、小説なんかを読んでいると、突然抽象的な言葉が沸いてくることがあるが、――当時だって、法華経を学んだ輩が、上のような口調で威張っていたのかも知れない。孝標の娘の夢の方が正しい。でも、可愛そうなのは槇村の方である。逮捕され脳病院で死んでしまった。二六であった。