菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

今日の街頭演説は、16か所です

2016年05月28日 18時43分49秒 | 議会
 2日間演説を休んだので、体が軽い。
 幸い天気も、曇りがちで暑くはない。そういうことで、9時過ぎに家をでた。

 今日は、上小幡、下小幡を11か所やりました。上小幡では、南小幡の上の方で、いい演説場所を見つけることができました。

 日々、環境が変わっていますから、いつも回って、新しい発見をしなければなりません。

 まだ、時間があるので、東飯田の手面方面に行きました。ここでは、5ヶ所演説ができました。手面も、道が整備された部分があり、いつもと演説場所を変えました。

 この疲れ具合なら、午後からはできると考え、16か所で、終わりました。

 昼食を食べ、家に帰って、ブログを書くと眠くなって寝てしまいました。
 気が付いたら、もう4時前です。

 結局、午後の演説はできずじまいでした。

 


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吉村昭の作品の追加「間宮林蔵」

2016年05月28日 12時59分45秒 | 日々の雑感
 私が、中学校時代に知った茨城県の有名人に間宮林蔵がいます。

 昨日のブログで、吉村昭作品の紹介は最後にしますと書きましたが、追加させて下さい。

 私は、小・中学校のころは、社会科が好きでした。地理も好きで、地図帳をよく見ていました。
 樺太とユーラシア大陸の間に、「間宮海峡」という日本人の名前がついた場所があり、すごいことであり、不思議でなりませんでした。

 だれも、なぜ、どういう経緯でついたのか、教えてくれません。

 茨城県人となった時、伊奈村が間宮林蔵の生家があると聞いていましたが、なかなか行く機会がありませんでした。

 ところが、地方選挙の応援で、つくばみらい市にいく機会があり、今年2月にも見てきました。小貝川のほとりにあります。

 林蔵は農民から身を起こし、幕府の役人として20年以上にわたって、蝦夷地で活躍しました。林蔵は、困難を克服して、1808年、アムール河口で、樺太が島であることを自分の目で確認した。

 これは、樺太は半島であるという定説を覆す大発見でした。
 
 そして、江戸にもどり、「北蝦夷島図」という地図を作製したのです。
 
 それだけでは、「間宮海峡」の名前は、世界には広まりません。

 実は、その功績はシーボルトによるものだと、吉村昭は、この小説に書いています。

 シーボルトは、伊能忠敬図などを海外に運んだとして、徳川幕府から追放されます。その中に、「北蝦夷島図」もあったのです。

 さらに、そのシーボルト事件の発覚は、隠密であった間宮林蔵の密告のよるものであると、言われています。

 日本を追放されたシーボルトも、間宮林蔵が密告者であるという噂は信じていたのですが、地理学上の功績は認めていたのです。

 オランダに帰ったシーボルトは、20分冊に及ぶ『ニッポン』の著書を書きました。その中に、「海峡発見を証明する地図」も挿入し、その海峡を「マミヤの瀬戸」と名付けていたのです。

 この本によって、世界的に知られることになりました。

 そして、「間宮海峡」が不動のものとなったのは、フランスの地理学者エリゼ・ルクリュの『万国地誌』によってです。

 この本によって、世界地図の地名に日本人としてただ1人間宮林蔵の名が刻まれたというのです。

 中学校以来の疑問が解けた瞬間でした。



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