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安保法案の採決

2015-07-16 04:48:40 | Peace Cafe

安保法案は結局歯止めなく衆議院の委員会で採決が行われた。審議すればするほど、この法案の問題点が表面化した。それは国会論議で疑問が生じたというより、憲法学者の違憲判断によるものだ。法律の専門家がこれほどはっきりと違憲と判断した法案が、国会を通過して、最高裁で審議した場合どうなるのだろう。当然、違憲ということになるとなりそうだが、そうでもないと政府も考えているのだと思う。自衛隊ができた時も、当事の憲法学者は違憲と主張した。ところが最高裁が結局政府の圧力に負けたというか、違憲判断を出すことはできなかった。今回も、三権分立と言いながらも、司法が憲法学者の人たちと同様の判断ができるかと言えばそうとばかりは言えないのだと思う。だから平気で違憲の疑いの強い法律を国会で成立させようとしているのだ。それにしても、民主主義と立憲主義などというものは、肝心な時には政府は無視するものだということを、目の当たりにした。今回、国会でおきた事実は忘れる訳にはいかない。

問題は選挙というものが、制度の不備から、おかしなことになっているということになる。小選挙区制というものが、自民党を一辺倒のものに変質させ、議員がまるで個性を失い、自民党の社員化してしまった。。死に票という形で、大切な民意が埋もれることになった。この法案の審議過程で、3つのことが浮かび上がった。政府に反対する報道機関はつぶしてしまえという自民党の議員の暴言である。そんな議員でも自民党では、厳重注意で済ましているので、注意された後からでも、相変わらず報道批判を繰り返している。次に自民党の推薦した憲法学者が違憲を主張した。つまり、安倍氏の言う安全保障論を間違えとは考えていない人たちの多くのひとが、憲法改定が先だということを主張したのだ。こんな無理をしてゆがんだ法律を作れば、肝心の憲法改定ができなくなるという考えである。それは、右翼系の人からも安倍批判として表面化してきた。

アメリカの圧力をどう考えるかである。アメリカは安倍氏を日本の軍国主義者として、要注意人物と判断している節がある。靖国神社に参拝した中曽根氏、小泉氏が、アメリカの議会演説がさせてもらえなかったにもかかわらず、さらに靖国支持者と目された安倍氏を議会演説させ、アメリカへの忠誠を誓わせ、TPPの推進や軍事同盟の強化法を約束させられた。なぜ日本の保守はアメリカ依存になるかである。本来であれば、軍国主義者は自主独立路線で、反アメリカになるはずである。ところが、アメリカ隷属政権が、日本を軍国化させようとする政権なのだから、この矛盾は今後どこかで豹変するのかどうか。大いに注目しておかなければならない点ではないかと思われる。今回の法案に対して、河野太郎氏まで、説明が分かりにくい。たぶんこれが今の自民党の一辺倒化の姿だ。国連で承認されているということが、日本国憲法の上位に来るという説明ではおかしい

いずれにしろ、この流れで安保法案は成立してしまうかもしれない。それでもこうした安倍政権の卑劣な、反民主主義、反立憲主義の本質だけは、忘れないことである。そして次の選挙では、自民と公明には投票しないことである。アベノミクスなど考えないことだ。選挙になると、必ず景気を良くした安倍などというだろうが、次の選挙は今回の暴挙を忘れさせないための選挙にしなければ、日本の政治はおかしくなる。間違ったことを行えば、次の選挙で敗北するという痛い目に合わない限り、いよいよ安倍政権が軍国化の道を駈けのぼることになる。こうしたひどい経験を繰り返しながら、しっかりした野党が育つことを期待するしかない。民主党に政権能力がなかったことが、こんな事態を招いたということを民主党は心底反省すべきだ。そして、前原氏の一派などは、アメリカ隷属意識が強い。安保法案に大賛成に違いないからだ。

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日本の分岐点

2015-07-15 04:28:58 | Peace Cafe

今日本は分岐点に立っている。このことは間違いがないので、どういう思想の持主であれ、どこに向かうのかは責任を持たなければならないのだと思う。分岐点にあるという自覚を持って今の時代を見る必要がある。政府は多数派ではあるが、選挙の矛盾でこうなっているにすぎない。安倍政権の考える積極的平和主義の日本に舵を切るかどうかである。それも一つの道である。それを良い方角と考える人は、自分の頭で考えて、是非その責任を持って判断してもらいたい。また、ふつうに戦争のできる国は嫌だと考える人も、その軍事力を使わないという、理想主義に責任を持って判断しなければならない。日本は経済の困難さにぶつかり、あがいている。経済競争に負けまいと、もがいている。その結果、他のことはどうでもいいのではないか、という気分が蔓延してきた。経済を立て直そうではないか。とすべてをその一点に向けようとしてきた。

戦後の日本が経済の一貫した上り調子の中で、世界中の競争相手の充実によって、停滞を見せ始めた。70年代後半のフランスは今の日本の空気に似たところがあった。すでにイギリスは、イギリス病とか言われて元気を失った後である。経済が停滞するといっても、ヨーロッパの国のように社会インフラが植民地時代に完備してしまったような国と、日本とは違う。私の子供のころには日本は資源のない国だから、人間が学んで頑張るのだとよく言われた。世界と競争するなどという前に、どちらかと言えば頑張らなければ生活ができないという切迫感があった。その後目覚ましい経済成長で、何か日本は、日本人は変質した。衣食足れば礼節を知る、と思っていたがところがどうもそうではなかった。豊かになるに従って、失うものも大きかったようだ。その一番の変化が、生き方の確信を失い、お金に価値を置くことが、何か当たり前になってしまった。

最近手紬の糸や、手漉きの布の興味がある。沖縄の布の文化を学んでいるうちに、日本各地に存在する布のことに興味が広がった。日本の布文化の層の厚さは、学べば学ぶほどすごいものがある。良くもこれだけ手間暇をかけて、布を織ったものだと思う。衣食住の先頭に、衣があるという意味が見えてきた。私の祖母は明治時代に山梨の田舎で、看護婦になった人だ。その人がお蚕さんまで飼っていた。蚕などと、敬称抜きでは話せない家の雰囲気だった。手織りの花嫁衣装で、機織り機を嫁入り道具にお寺に嫁いだ人だった。鶴の恩返しではないが、機織りを夜なべでやっていた。好きでなければやれないことだ。私の母もその影響を受けて、晩年まで機織りをした。その布が今飾ってある。それはウールの糸で織ったものだ。編み物が好きで、ファッション雑誌に掲載されたこともあったぐらいのなかなかのレベルだった。庶民が暮らしの中で布を作るそうした文化はほとんど失われたと言っていい。経済性の問題である。

手織りの布を織るということほど、経済性のない仕事はない。一年かけて一枚の服を作るというようなことであれば、一枚が1000万円くらいの価格になる。イランにギャッベと言うすばらしい絨毯があるのだが、これは1月ぐらいで一枚を織るが、一枚の織り代が6000円だそうだ。日本で行えば、その50倍はどうしてもかかる。そのギャッベは30万円くらいで日本で売られている。機械で作る布と、人間の織る布。その違いは当然あるのだが、手織りの布で暮らしている日本人はもうほとんどいないのであろう。たぶんこれが失われた日本の象徴である。それは、手植えの稲作と同じである。手植えの稲作の中に、沢山の価値があるが、経済性の中で切り捨てられて行っている。人間が生きてゆく価値である。何が日本人の目標であったのか。日本人は何に向かおうとしていたのか。

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中国経済は崩壊か

2015-07-14 04:08:16 | Peace Cafe

中国の株価が30%も下がって、経済が崩壊するのではないかという意見が見られる。アジアのライバルが駄目になって欲しいという、醜い願望が現れていて、情けない限りである。今中国で起きているのは、株の急上昇のバブルがはじけている状態。中国には3回、農村地域ではあるがかなり入念に見てきた。このまま経済が上昇を続けることはないだろうとその都度感じてきた。しかし、中国の潜在的な力量は高いものがある。一定の質の高い労働力が大量に存在するということが、かなりのところまで経済力を上昇させるだろうとも感じた。中国人は投機的な商人気質が強く、これが破たんにつながりやしないかということも感じた。よく言われた、模倣文化とか国際的な商取引に適合しないということである。経済的なリーダーになりにくい、世界基準から距離がある。儲かるものであれば何でも手を出す傾向が強く、新しいものを開発する能力にはまだ乏しいのではないか。しかも、国家資本主義という特殊性もある。国家資本主義とでもいう仕組みが、良い面と悪い面を共存させている。

今ギリシャが経済破綻に向かっている。その原因は世界企業のない国が、EUという経済連合に組み込まれたことにある。EUという枠の通貨統合をすることで、共通の経済圏を作れば、その中での競争は資本主義的な経済での競争ということになる。北海道や、沖縄が、東京という世界企業がたくさんある地域と、共通の基準で競争するということになる。当然、東京が一人勝ちになる。EUではドイツなどの主要国が勝ちになってゆくのは予測されたことだ。資本主義における平等の競争というものは、グローバル企業のある先進技術国が勝利するようにできている。ギリシャのように、一次産業や観光の国であれば、経済的に苦しくなるのは当然の帰結である。一人の労働力で生産できる物量は農業産品と、工業製品を比べて、その労働力への依存率は比較にならないくらい、開いている。農業を大規模化し、工業化している国と、個人農家的経営を行っている国が同じ枠に入れば、ギリシャが苦しくなる。

TPPでも同じことになる。必ずアメリカの一人勝ちになる。ドイツがギリシャを経済原理だけで攻め立てているように、弱い国はますます、経済原理の前に追い込まれてゆく。資本主義は共通のルールで、一定の正義ではあるが、強者の論理であることも間違いがない。発展の方向が資本主義的な合理性に向いている国と、そうでない文化の国とがある。それを、一つの金銭的競争の価値観ですべてを、押し延べてゆくのが資本主義の問題点である。競争原理に加われない国を努力が足りないからだと、決めつけることは間違いである。価値観は国によって、民族によって様々であるべきだ。世界基準に統一することが良いこととは言えない。EUの理念も各民族の文化やあり方を尊重し、経済の合理性だけを共通価値とするのであれば、ギリシャのような国はどこまで行っても浮かばれないことになる。このことはかなずらTPPでも起こることであるから、日本は加わるのであれば、十分にそのことを考えなければならない。

中国の国家資本主義はそうした背景のもとにできた。中国のことは、たぶん日本が一番理解できている気がする。付き合いが長いからである。欧米各国は中国がアメリカを抜く経済大国になると予測している人が大半だそうだ。ところが日本人は中国が破綻するとみている人が80%もいるそうだ。そういう読みは日本人だけがしているらしい。私は中国は経済大国にまではならないが、破綻することもないと考える。あれだけの国土と、能力のそれなりにある国民がいて、しかも、有能なリーダーがいる。そこそこまで経済をのばして行くのは当然である。問題は汚職撲滅キャンペーンの逆作用である。汚職があるからこそ中国は伸びている。水清くして魚住まずの国である。余り、倫理的なことを強調すれば中国人の能力を矯めることにもなる。それが今起きていることのような気がしてならない。

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現実主義と憲法

2015-07-13 04:16:51 | Peace Cafe

いよいよ安全保障法制が衆議院で採決されようとしている。安倍氏の分かりやすいビデオレターを希望したら、ネット動画を配信してくれた。これが何と、安倍ちゃんと、やくざっぽい麻生君が、喧嘩に巻き込まれる話で、いよいよ意味不明のたとえ話で、一つも分かり易くない。分かり易く国会で議論をするということだったが、議論を聞けば聞くほど、この法律が分かり易く憲法違反だということが見えてきた。90時間の議論をしたから、通過儀礼はすんだというのが、安倍政権の決まり切った考えである。一体国会の論議とは何なのだろう。だいぶ国会の討議は聞いたが、政府の説明で納得した人は少ないのではないか。聞けば聞くほど、無理な法案だということが見えただけだった。これは私が初めから反対の人間ということもあるのだろうが、自民党支持者ですら疑問を感じた人が増えたと思うがどうなんだろう。憲法違反ではあるが、現実を考えれば仕方がないだろうというのが、自民党系の人の見方の気がする。公明党の人と話したが、憲法違反ではないと信仰していたのでびっくりした。

憲法学者の98%が憲法違反だと言っているのだから、当たり前に解釈すれば無理な法律なのだ。それでもあえてやろうという原因が、憲法改定は当面難しいと考えているからというのだから、ずいぶんひど話ではないか。日本にいまだ進駐軍の司令官がどこかに駐留しているのだろうか。確かに、民主主義では最終的には多数決で決めるしかないから、自民党に投票した。あるいは公明党に投票したという人に、今後の安全保障に対しては責任を持ってもらうしかない。確かに私でも、日本がすぐにでも戦争に巻き込まれるということはないと考える。しかし、日本が完全に中立性を失うということで、様々な影響は出てくる。テロのリスクは明らかに高まる。企業スパイ行為も増加する。サイバー攻撃も頻繁になるのではないか。マイナンバー制度の漏えいなど大丈夫なのだろうか。そういうところらか、破壊しようとするのが、現代の戦争である。今回のアメリカとの軍事同盟の強化は、そのねらわれる国に、日本が名乗りを上げたということになるのだろう。

確かに日本の安全保障は中途半端で、それなりの軍事力があるが、完全ではない。当たり前のことで軍備に完全などない。事故のない原発などあり得ないのと同じことだ。その完全ではないところを強調すれば、アメリカとの同盟強化ということで安心したいということになるのだろう。しかし、アメリカも中国も外国には変わりがない。文化も違えば方向も違う。なぜアメリカならいいのかが私には耐えがたいところだ。大東亜共栄圏とアジア主義を掲げたのは何だったのかと思う。こういう意見はむしろ右翼から出るはずのところなのだが、日本の右翼は旗を掲げない、現実主義というか、政府主義のようで、権威主義ということなのか。お上の言うことはおおむね正しいと考えている人が、軍国的傾向の人に多いい理由が不思議でならない。そうじゃないか、現実主義者は、現金主義者なのか。

安全保障を考えるときに、現実をみるのはいい。しかし、わざわざ現実の緊張感を高めている、政府の行為も考えてみなければならない。つまり、現政権は中国との緊張感をわざわざ高めている。尖閣もそうであるし、70年談話もそうである。中国が日本を攻めてきて、離島の一つも取られれば、目が覚めるであろうなどと、発言する国会議員すらいるのだ。国会議員のそうした、現実離れした発言が、緊張感を高める。こうした積み重ねで、日中関係の現実を変えたのだ。すべては、憲法改定を考えているからだ。国民の目を覚まさなければならないと考えているのだ。今のアジアの緊張の高まりは、中国の拡張主義だけではない。それに対する日本の態度も関係している。日本が韓国のような対応をしていれば、また違うだろう。もちろん、それも嫌だが。今の状況は作られた現実である。

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コロナの湯の営業停止

2015-07-12 04:18:11 | 日帰り温泉

コロナの湯は相変わらずの営業停止が続いている。コロナからの13日現在の回答では、再開のめどは立っていないということである。たまには行きたいので、どういう状況か調べてみた。神奈川県保健センターに電話できいてみた。その時の話では、1ヶ月ぐらいはまず営業の再開はないということだった。営業停止になったのは、6月18日だ。7月中の再開されるのかどうか、というあたりだろうか。再開のためには、まずすべてを見直し、体制を整え、二度とレジオネラ菌が広がることがないような対策をとり、そのうえで水質等の自主検査を行う必要があるとのこと。その自主検査だけでも一カ月はかかるということだった。レジオネラ症の患者が発症したのは、5月25日前後からのようだ。そして、6月8日に保健所は調査に入ったそうだ。その後10日間調査があって、営業停止になったということだ。私などはその前後のの1ヶ月間レジオネラ菌で問題になるお風呂に入っていたということになる。もちろん感染などしない。風呂の入り方が、大きな要因になる。しかし、コロナの湯に行った人の7名がレジオネラ症に感染したそうだ。

これはさすがに多いい数なので、遺伝子調査まで行い、コロナの湯で発見された菌と、患者から出た菌が一致したということになったそうだ。患者にも保健所が直接いろいろお聞きして、状況的にもコロナの湯で感染が広がった以外考えられないということになった。3名はまだ入院しているという話も聞いた。そもそもレジオネラ菌というものはどこにもいる。そのあたりの土の中にもにいくらでもいる菌である。問題は口に入って感染する。シャワーの水の中にいればどうしても吸い込む。打たせ湯のお湯の中にいれば、やはり飲んでします。たぶんそういうことは少ないのだが、お風呂のお湯の中には数はともかくいて普通だと考えている。そのつもりで銭湯には入る。家の風呂だって同じであるが、特に銭湯ではどういう菌がいるのかわからないのだから、銭湯の湯船に潜るなどもってのほかのことだ。しかし、コロナの湯では特に水風呂で葉何分も潜っている人が良くいる。別に当人の問題だから何も言わないが、いや知らない人の行為をああこういうことは難しいものだ。

しかしそいうことで病気になって、営業停止になれば、コロナの湯の入浴指導が悪いということになる。うるさいようでも入浴のマナーの徹底が、再開のタイミングを逃すことなく行うべき第一であろう。風呂屋で糞尿を垂れ流すような人は、さすがに入浴禁止にしなければ、安心して風呂に入れない。だから、銭湯ないの巡回監視も徹底して行う必要があるだろう。感染症にかからないための、入浴マナーの第一は入浴前によく身体を洗うことだ。それから風呂に入ればだいぶ違う。そのためには構造的に、まず湯船に向かう前に体を洗いやすい流れにしておく必要がある。上がり湯が入り口付近に充実している銭湯もある。そして入浴しても風呂の水が間違っても口からはいらないようにする。風呂のお湯で顔を洗うとか、風呂のお湯にタオルをつけて顔を拭くというのもよしたほうがいい。潜水をするなどもってのほかである。

銭湯ごとに、それぞれの定着した習慣があるものだ。秦野の湯花楽にコロナから移動した人が現状多いい。私もやむえず行くことがあるのだが、コロナの常連の人も湯花楽の習慣に併せている。潜水もしないし、水風呂に入る前には、良く体を流している。まあ、湯花楽の常連は相当に迷惑そうだが、大声で風呂名主をしているのは相変わらずである。日帰り温泉は地域にとって必要な施設だと思う。未病を直す。というのが神奈川県のテーマということだから、温泉施設はとても重要である。温泉施設が健康増進のための施設になるように、県も協力する必要があるだろう。検診機器の貸し出しや、健康増進キャンペーなどやることはある。

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7月10日の田んぼの様子

2015-07-11 04:37:04 | 稲作

7月10日農の会の田んぼをめぐって歩いた。毎年この日にあるいて、様子を比較することにしている。良い田んぼも、悪い田んぼもあった。今年は、7月の初めから日差しのない日が続き、田んぼは停滞している。いちばん分げつが増える時期に日差しがないということは、生育に遅れが生じている。それでも昨年以上の出来のところもある。アジサイ田んぼと、夢田んぼがとてもできが良かった。欠ノ上田んぼの出来は昨年よりいくらか遅れている感じぐらいの状態だ。しかし、稲の感じは悪くはないので、天候が回復すれば追いついてゆくことだろう。特に何か手を打つ必要がある感じでもない。11番田んぼに豊年エビがいた。去年良くなかった。10番と11番に豊年エビがいるのは、何か嬉しいことだ。

稲の生育は、様々な要因が関係している。何が原因でこういう状態になるかは、難しいところがある。しかし、農の会の田んぼは有機農業の枠内で、様々な試みが行われている。これを比較して観察していることが、稲を見る目を深めてくれていると考える。同じ苗床で作った、同じような苗が、違う田んぼに同じ日に田植えされ、大きな変化をしてゆく。当然田んぼの土壌の問題が大きい。冬の間に行ったことを結果として出てくる。もちろん土壌の蓄積など、さらなる条件が加わる。

ひとつ気付いたことがある。何故有機農法では干しをする人が少ないかである。それは田植えがて上で1本苗に近いからである。これで分げつを多くするには、分げつ期の今の時期に水を切るのは、良くない。ところが田植え機で、5本とか7本とか田植えする人は、1本が3本になれば十分である。むしろ、過分げつを抑えることが、主眼になる。そこで水を切り弱い分げつを押さえたくなるのだろう。分げつが十分取れるまで、水は切らないほうがいいということになる。

田んぼは田植えから6週目を迎え、今年の方向が決まってきたところである。毎年比較のために7月10日の同じ角度からの写真を撮ることにしている。

2014年7月10日。上から見た、1番から7番まで。(すべて下の写真のこと)

2015年7月10日 上から見た、1番から6番まで。

2014年1番田んぼ

2015年1番田んぼ

2013年2番田んぼ

2014年2番田んぼ

2015年2番田んぼ

2013年3番田んぼ

2014年3番田んぼ

2015年3番田んぼ

2014年4番田んぼ

2015年4番田んぼ

2013年5番田んぼ

2015年5番田んぼ

2013年6番田んぼ

2015年6番田んぼ

2014年7番田んぼ

2015年7番田んぼ

2015年8番田んぼ

 

 2013年9番田んぼ

2014年9番田んぼ

2015年9番田んぼ

2013年10番田んぼ

2014年10番田んぼ

2015年10番田んぼ

2013年11番田んぼ

2015年11番田んぼ

 2015年一番下の11番から一番までを見ている。

 

 

 

今年はめだか田んぼの写真は載せておく。

入水口付近

排水口付近

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何故女子サッカーは強いのか。

2015-07-10 04:42:02 | 身辺雑記

女子サッカーの決勝戦アメリカと日本戦では、立ち上がり立て続けに4点を取られた。その理由は澤選手を入れなかったからではなかったか。こういう緊張感の強い試合では、選手が力を出すことは極めて難しい。何といってもベテランの頼りがいのある澤選手を立ち上がりから入れなければだめではないか。一方アメリカは立ち上がりにすべてをかけてきた。試合が後半に入れば、日本選手の体力の強さと精神力の強さが、生きてくる。前半ドローなら、日本が勝てるとみていた。しかし、さすがにアメリカの作戦は一枚上だった。すべてを立ち上がりにかけたのだ。このときに、澤選手がいれば、何とか2点ぐらいに抑えられたはずだ。これなら後半に追いつく希望はあったかもしれない。澤選手が90分やれる体力がなくなったということが、日本チームの限界であったのかもしれない。今度は、澤選手が監督になってぜひとも東京オリンピックに挑戦してもらいたいものだ。

なでしこジャパンと呼ばれる女子サッカーは、ワールドカップで準優勝を成し遂げた。日本のボールゲームでは、格別な強さである。その強さは、生き方としてサッカーにかけている強さだ。女子のソフトボールとサッカーが何と言っても強い。しかも、男子チームはボールゲームで強いものはない中でである。このことを考えてみる必要がある。男子サッカーはもちろん、野球もメダルが取れない。女子チームが強いのはスポーツの精神を持っているからだ。テレビの解説などでは、盛んに女子のチームのプロスポーツ化を主張しているが、いったい何を意図してそういうバカなことしか考えつかないのだろうか。日本の報道陣の低下が目立つ。スポーツをエンターテイメント化して、テレビが盛り上がればうれしいぐらいの感覚に陥っているのではないか。全くスポーツというものの大切な意味を理解できない。男子サッカーがなぜ弱いのかを、考えてみれば一目瞭然にわかることだ。お金のためにやっている人が多いいからである。野球がなぜ弱いのか。お金のためにやっている人が多いいからである。

そうしたことを悪いことだとまでは言わないが、国家がスポーツでの金儲けを奨励するようなことはよくない。かつて東ドイツのやったようなことになる。ドーピングしてまで勝てばいいという考えに至るのだ。国家とスポーツの勝利が重なるようなことは、あってはならない。オリンピックは参加することに意義があると考えた、クーベルタンのオリンピック精神は完全に失われた。最近主張すら聞いたことがない。サッカーは勝つために外国人監督を雇っている。そして監督の名前を冠する、ザックジャパンなど名乗っていた。なでしこジャパンは公募してつけられた名前だ。男子チームはサムライジャパンと呼ばれたこともあったが、侍が弱いというのもなじまなかったので消えたのか。サッカーと野球はプロスポーツとしては成功している。しかし、そのことによって、世界レベルでは弱いわけだ。

スポーツは人間を極めるために行うものだろう。お金を稼ぐためにやるのもいけないとは言わないが、それだけではつまらない。男子サッカーの弱さはそこにある。プロスポーツになることで、大切なはずの、スポーツによって人間を極めるという、人間修業がゆがめられる。男子のサッカー強豪高校生チームの、韓国での集団万引きを見ればよくわかることだ。倫理観のない人間をプロスポーツが育てているのが現実である。とくに、プロになれなかった選手の人間としての堕落など、目に余るものがある。女子のサッカー選手は、お金になるなどということではなく、サッカーが好きで極めようという気持ちがあふれている。アメリカのサッカーチームは確かにプロサッカーの道を作り始めているようだ。そこにはアメリカの文化というものが背景にある。付け焼刃でプロ化することを目標にすることはまちがいである。

 

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沖縄の新聞

2015-07-09 04:26:23 | Peace Cafe

地方紙には全国紙とは異なる地方紙としての役割がある。沖縄のように、長くアメリカに占領されていれば、そうしたことに対抗する新聞ができて当然であろう。それが占領下の沖縄の困難な状況を反映している。そのような新聞が成立しているということこそ、残された民主主義である。それを左翼新聞であるから、つぶしたほうがいいという発言が、自民党の青年局の議員の芸術文化懇談会というところの講演会で出た。沖縄には独自の芸術文化が息づいている。それを育ててきたもの、沖縄の新聞である。自民党の芸術文化の認識は、異質は認めがたいものらしい。確かに芸術文化にはそうした傾向がある。何が良いかを決めてあれば分かりやすい。文化の基準化である。しかし、日本が民主主義国家である以上を政府を批判する役割としての、新聞は不可欠である。報道の基本理念は批判精神である。政府の翼賛報道など百害あって一利なしである。百田氏も産経、読売は残すべき新聞としていることでもその意味がわかる。

沖縄の文化は多様で深いものがあるが、音楽と布の文化に特に魅かれる。それを後押ししてきたのも沖縄の新聞である。沖縄文化が息づいているのは、報道の文化に対する姿勢もある。先日の三線座談会にも、沖縄の新聞は取材に来ていた。報道機関の役割をどう考えるかである。地方紙であれば、その地方の情報を生活者に届ける。それが地域の暮らしを豊かなものにする。そして、問題点があれば、先んじて調査して報道してゆく。そうした報道が存在するかどうかが、民主主義社会が成立するための不可欠な要素である。だからこそ、報道は批判精神を持って、権力に対抗する姿勢がなければならないのだろう。それは良い文化を育てるという意味でも同様である。資本主義の商品文化に流されない、その地域の歴史に根差した文化を守り育てることも大切な役割になる。

沖縄の報道の目的の根底にあるものは沖縄の文化という、そのものが世界遺産と言えるような、沖縄の歌謡文化を残すことでもある。おもろそうしに見られるような、歌謡の文化である。文字で残す文化が成立する以前の世界では、唄でその記憶を伝えてゆく。そうした専門の記憶の素晴らしい歌い手が、歴史担当として必要であった。日本本土では古事記や万葉の世界である。特に琉球王朝では王朝から、一般の庶民にいたるまで、その生活の記録、あるいは祖先からの伝承まで、民族の歴史そのものまで、歌謡として残されていたのだ。それが息づいたまま、近代を迎えた。その意味ではアイヌのユウカラも同じことである。三線の神様「あかいんこ」もおもろぞうしに書かれている。膨大な唄を記憶して、次の時代に伝えてゆくためには、記憶する者としての一族がいたのではないだろうか。おもろの編纂が1500年代だとすると、三線が伝わった時代と重なる。

自民党では、沖縄の新聞が政府の方針を批判する側面だけで、つぶせばいいというような乱暴な意見が飛び交っている。しかも、広告を載せることを経団連から圧力をかけようというのだ。もちろん経団連も、そんなことはあり得ないと口では言うだろうが、どういう行動をとるかは注視しなければならない。報道は資本主義経済に負けてはならない。NHKのように、経済から独立している機関については、その人事で操作しようとしている。この暴言大王の百田氏が安倍内閣から送り込まれた委員であったのだ。NHKの籾井会長も、でたらめな発言を繰り返したが、いまだ辞めないで居座っている。こうして報道に圧力をかけようというのが、政府のやり方なのだ。沖縄の新聞は明らかに他所の地方の新聞より、骨がある。だから、あえて自民党は問題にしたのだ。百田氏はつい軽口で出たようなことを言っているが、確信犯である。こうして安倍氏の意図を伝えているのだ。

 

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自民党文化芸術懇話会とは何か

2015-07-08 04:25:50 | Peace Cafe

自民党の文化芸術懇話会というものは、報道弾圧を話し合っているらしい。どうも不思議な名前の集まりである。設立趣意書によると、「心を打つ『政策芸術』を立案し実行する知恵と力を習得する」ことが会の目的だという。つまりナチの行った、芸術や文化を、国の政治に利用する方法を研究することが主眼である。ついに自民党はここまで来てしまったのだ。この集まりを調べてゆくと、安倍氏の青年親衛隊のようなものに見えてきた。官房副長官の加藤氏まで参加している。そして加藤氏はこの集まりが百田氏の講演で有意義なものであったと国会で見解を述べている。自民党の安倍内閣もいよいよ馬脚を現してきたというところではないか。自民党では安倍氏に何も言えなくなっている。静かに、しずかに独裁政権を作り上げているところだろう。意見を述べることができるのは、辞めた長老たちである。若い人たちは、上ばかり伺い首をのばして、忠誠を誓っている人ばかりである。

その忠誠心が、行き過ぎたのが今回の報道弾圧の話であろう。だいたい、暴言大王の百田氏をNHKの委員にしたのは、安倍氏の了解があってのことだろう。そして、今回の青年局の講演である。自民党の文化芸術懇話会とは一体どういうものなのだろうか。作家で右翼の百田氏を招いた勉強会を行う意味があるのだろうか。加藤勝信官房副長官、萩生田光一党総裁特別補佐ら首相側近が出席していた。加藤氏は勉強会への出席を認めた上で、「作家としての立場でお話をされていた。我々としてもそうした視点からのご意見、大変拝聴に値するなと思った」と感想を語っている。懇話会のメンバーには安倍晋三首相(党総裁)に近い議員も多く、9月の総裁選を前に無投票再選の機運を高める「首相の応援団」(若手議員)と位置づけられている。(産経新聞)

どうもこの文化芸術懇話会というものは、「日本会議およびその事務局たる日本青年協議会の代弁機関」という側面を有しているとうことが書かれている。日本会議、またはその前身とされる日本青年協議会というものは、現会長でもある椛島有三氏を有する右翼組織である。日本会議という組織があり、美しい日本の憲法を作る国民の会というものがある。三名の共同代表とは、三好達氏元最高裁判所長官は日本会議の代表であり、田久保忠衛氏杏林大学名誉教授は日本会議の代表委員でもある。そしていつもの右翼元キャスター櫻井よしこ氏。事務局長をつとめるのが、日本会議の事務総長である椛島有三である。日本会議というものが、今回の文化芸術懇話会と縁が深い。要するに安倍氏のお友達たちが作る、右翼の人たちの会と考えていいようだ。テレビをどう利用するかを、報道をどうすればいいなりにできるか。そういうことを相談する集まりと考えるの自然であろう。

今回安保法制を無理に進めれば、憲法改定の見込みが立たなくなるだろう。そのために今の安倍氏は民主主義的な静かな顔をしているところである。十分に議論するというのは、本当に国民に分かり易く説明するというのでなく、表面的には議会制民主主義を尊重しているのだという、形を作りたいということにんすぎない。数を頼んで、法案を通したいだけなのだ。それがアメリカからの要請であり、財界からの要請であり、安倍氏のアメリカや財界への忠誠心の表明である。それを進めるにはテレビやマスコミをうまく利用しなければならない。その研究をしてゆこうというのが、この「文化芸術懇談会」であって、だから、テレビ番組制作にかかわってきた、安倍氏の友人である百田氏を講師として招いたのである。自民党内部では、深刻な右傾化が起こっている。そして、気付いた時には、独裁政権になっている。という静かな革命を考えているのだ。だからこそ、民主主義をやたら強調しているのだ。本音が出ると、大西議員のように支離滅裂な考え示すことになる。

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三線文化の魅力 2

2015-07-07 04:59:04 | 日帰り温泉

三線文化の続きを書く前に、那覇でりっかりっかの湯というところに行ったことを書いておく。好みのリラックスできる温泉であった。サウナが3種ある。水風呂もしっかりと16度(ただし、私の体感)その他3種もあってジェットバスも充実。そして天然温泉もある。地元の人がくつろいでいるところがいい。お風呂は裸の付き合いというくらいで、その地域に住む人の生の感覚が垣間見れる。那覇セントラルホテルというところが経営していて、そこに泊まる人はいつでも入れるとなっている。古いホテルで大分老朽化しているらしいが、温泉のほうもそれなりの歴史を感じるつくりになっている。しかし、施設的には十分充実しているのは、熱心な経営がされているということだろう。場所が国際通りからすぐ裏で、元の三越の裏である。那覇で長期滞在するなら、ここがいい。何しろ、1週間、1カ月の長期滞在が格安である。

銭湯を終わって、昨日は三線にたいする私の考えで、今日は話された方々の考えを書きとめておく。

3人の方が三線文化の座談会を行った。銘刈春政さんは、三線制作の第一人者である。比嘉康春さんは沖縄芸術大学学長。そして平田大一さんは沖縄県文化振興会理事長それぞれの角度から沖縄と三線の文化を語られていた。銘刈さんは作り手として、三親という楽器の持つ魅力の尽きない面白さ、微妙さを語られていた。三線の音色のわずかな変化が竿作りの中に潜んでいることを繰り返し語られていた。その形の美を位牌づくりで学んだといわれていたのが面白かった。そもそも大工をされていて、位牌も作っていたそうだ。位牌の下のハスの花を彫刻する時のバランスで、形の美を身につけたといわれていた。たまたま三線屋さんの家を作ったことをきっかけに、三線づくりの修行に入ることになったそうだ。見る目というものが重要で、良い物をたくさん見るということにかけているといわれていた。その見る目というのが、絵を描くみるという目の話とまるで同じだった。

比嘉さんは演奏家として三線を語られていた。何故三線が伴奏楽器であるのかということである。唄というものが沖縄文化においていかに重要であるかを、歴史的に語られた。何故古典音楽が武士の唄うものになったのかである。そこから三線がより単純な音の中に、深い音色を求めることになったかを語らた。西洋音楽の音率とは違い、唄に伴うことで変化すので、他の人の伴奏で歌うということは極めて難しいことになると、ここが面白い。民謡でも唄三線ということが言われている。この方の声が素晴らしい。沖縄の方の唄の素晴らしさは、普段しゃべられている声で、そのまま歌われる。その素朴が、実は深い。ありのままであるから、その人が唄になる。その人がつまらなければ、唄も伝わらない。その人間の大きさのような、深さのようなものが唄になっていた。

平田さんは笛の演奏家でもある。沖縄の笛もなかなか良いものである。くるちの森100年プロジェクトをやられている。宮沢和史氏が発起人である。三線を作る材としての黒檀の木を植えててゆく活動である。すでに3000本が植えられたそうだ。100年先に三線の竿になるためには、今の小学生のその子供にまで伝えてゆく必要があるということで、子供たちへの普及活動を行っている。この活動は読谷村で行っているそうだ。10月18日には育樹祭があるというので、一度行ってみたいものである。稲刈りのころで無理かな。また平田さんは赤いんこの演劇の脚本を書かれているそうだ。沖縄を統一した尚巴志王と赤いんこの物語のようだ。赤いんこは三線をもたらした神様である。三線を琉球に広めた伝説の人である。文化で沖縄を統一してゆくという、物語を語られた。まさに私が考えている、天皇家の本来の姿、を意味しているので、少し驚いた。国というものは、武力でできているのでなく、文で納めるものなのだ。

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三線座談会

2015-07-06 04:16:59 | 身辺雑記

 

那覇の三線組合で、三線の過去・現代・未来を語る座談会があった。どうしても三線の話を聞いてみたくて出かけた。三線が琉球王朝に伝わって600年、なぜ変わらない形を保ってきたかということに一番興味がある。たいていの楽器は、形の変化をしてゆく。音楽は常に変化してゆくものであるある。楽器は音楽の変化に伴い、より高度な技術にこたえようと変化してゆく。同じく中国から日本に伝わり、変化を遂げた三味線と比べてもそうだ。特に北の津軽三味線の変化の大きさと、南の三線の現状維持に何か文化的な特徴を感じる。今回の座談会の中では、三線が伴奏楽器であったということが変化をしなかった原因と話されていた。そのことから考えてみれば、確かに津軽三味線は独奏楽器の要素が強まってゆく。伴奏楽器に徹してきた三線とは音楽的に違う使われ方をしてきた。津軽三味線が門付けの楽器である。三線は琉球王朝の武士のたしなみとしての文化である。三線は女性には許されない楽器であったという。

 

 

音楽が武士のたしなみとしての文化として存在する琉球王朝。琉球王朝は力の外交ではなく、強国のはざまに生き抜く知恵の国であった。薩摩支配の時代には、帯刀が禁止され、空手が生まれたとされる。武士が武術を禁止されたという特殊な状況の中で、文化で統治するという思想が生まれたのではないか。文化には女性の宗教的な統治と、男性の文化芸術学問による統治ということがある。その中で、歌というものの意味がとても高まる。その歌の伴奏楽器としての三線であるから、変わることを拒絶したのではないか。以前津軽の文化の話を伺ったときに、いまだかつてないものを打ち出すことを安定した価値としようという心理が働いた。津軽三味線は常に以前にはなかった演奏法を考え、人を驚かすことが発展の方向となったという。それは角付けという、その場で評価されなければ生き抜けなかった芸という背景があるといわれていた。極端な早弾きや、叩きつけるような音がその特徴になる。聞く人を圧倒してなぎ倒す音色。北国の猛烈な吹雪のような、激しい地吹雪のような音楽。

 

三線は伴奏楽器であるために、むしろ徐々に演奏法が単純化されたようだ。そして一音の響きに、唄を生かす音色が求められた。中国で生まれた三弦は、北のほうでは大きな竿を持つ楽器であり、南のほうに行くに従い、ほぼ三線と同じく短い竿の小三弦と呼ばれる楽器になる。この小三弦が直接琉球王朝に伝わったと考えることが分かりやすい。だから琉球で小型化したということではなく、到来した形を維持したということのほうが近いのではないか。そして、到来した形を強い意志で維持してきた。維持した理由には上流階層のたしなみであるために、保守的な変化を好まない気持ちもあったのかもしれない。そして、あくまで歌を中止にそれを引き立てる伴奏としての楽器ということなども加わった。

その変わらない大切さというものが、今回の座談会にも表れていた。三線職人の方も、演奏家の方も、形は変えないほうがいいと繰り返し話されていた。問題として、現在沖縄の古典音楽を継承している人は、女性が多くなっているのだそうだ。しかし、女性は声が高く、その音程に合わせようとすると、一オクターブあげることになる。すると、三進の形を変える必要が出てくる。弦の張りの強さでそこまで上げようとすると、弦も切れるし、竿も痛んでしまう。そこで女性の声のほうを、現在の三線の音階に併せてゆくしかないということだそうだ。そして、女性は裏声を使ってもいいということになったらしい。三線の形を女性の声に併せて、変化する試みはいろいろあるそうだ。しかし、三線の持つ音の魅力を損なってしまうということで、楽器の変化は拒否されている。三線組合というものは、三線を制作する人たちが、共同で三線を販売し、研鑽してゆくというすごい組織である。

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何故、ホルムズ海峡が出てきたのか。

2015-07-05 04:52:15 | Peace Cafe

安倍氏は分かりやすく安保法制を説明するということで、ホルムズ海峡の機雷除去を事例として挙げた。あるいは子供を抱えたお母さんの日本人の救助も事例に挙げた。確かに具体的なことだから、この法律を考える上では参考になる事例だと思う。事例を上げれば、賛成に回る日本人が多いいだろうと考えたに違いない。それは人情に訴えかけようという母子の姿と、アベノミクスで、日本人はお金に弱いという成功事例を体験したからだろう。こうすれば儲かるということを説明すれば、学者の主張する憲法違反ぐらい、無視しても国民の支持は高まるだろうと考えたのだろう。原子力発電所の再稼働ですら、経済のために必要だと主張すれば、通りそうだと読んでいる。ホルムズ海峡が封鎖されれば、石油が来なくなる。石油が来なくなれば、日本の経済は崩壊する。日本の存立が脅かされる事態である。このように、紙芝居まで出して、分かり易く説明したのだ。ところが、この分かりやすい説明こそが、実に分かり易く憲法違反だったのだ。

それ以来、安倍氏の説明は分かりにくい抽象論に終始することになった。誰が考えても、石油が来なくなるからと言って、自衛隊が戦闘地域の機雷を除去して、イランや、オマーンと戦争を開始することが、三要件による日本人の生命の安全を守る活動とは思えないからだ。その前に、イランや、オマーンと国際紛争を平和的に解決するための努力を行うべきと、憲法に書いてある。その平和的努力の説明は抜きにして、母子の救助と機雷除去の話である。日本国憲法の精神から言えば、日本国の存立が、ホルムズ海峡の石油輸送に依存しているのであれば、常日頃政府がどのような平和的努力を重ねているかが重要であろう。その平和的努力を抜きに、突然機雷除去の仮想敵国にされた、イランやオマーンにしてみれば、日本がどれほど常識のない国に見えていることだろうか。自国が日本の存立を脅かす事例に挙げられ、いつでも戦力を持って対抗できるように、法律を変えようというのだ。それを積極的平和主義というのだからあきれる。

日本という国が、経済のためなら戦争も辞さないという、経済至上主義の国であるということを世界に宣伝しているのである。まことに恥ずかし安倍政権である。国民はお金に弱いに違いないと、石油を持ち出せば納得するだろうと、分かりやすいだろうと、見くびっている証拠だ。恥ずかしいのは安倍政権であって、日本国民はそこまで卑しくはないと信じたい。そこで本音である中国を仮想敵国とした、中国覇権主義への対抗説が浮上してきた。黙っていたら中国にやられるぞという脅しである。中国の人権侵害のひどさを見れば、日本人もあのように中国人から、ひどい目に遭うという恐怖の宣伝である。しかし、中国の覇権主義の根底は、経済主義である。経済的に優位に立とうとしている。膨大な人口と、広大な国土を基盤として、世界での経済競争でのし上がろうとしているのだ。またそいうした能力の高い民族だと思う。隣国の経済成長は本来であれば、日本の喜ぶべきことである。

ところが、中国の成長を喜べないのが、日本出身のグローバル企業である。独裁資本主義という特殊な経済体制の中国は、グローバル企業にはとても手ごわい相手なのだ。日本発の企業も負けてなるものかと、アメリカと組んで対抗しようとしている。それに操られているのが安倍政権なのだろう。グローバル企業の利権のために、中国と対抗する構図。だから中国は日本を占領して、日本人を奴隷にでもしかねない人たちだと、そういうイメージを作り上げようとしている。一般に日本の右翼は明治時代のように、白人には卑下して、アジア人にはえばりたいという人たちのようだ。私にはアメリカも中国も変わらない。アメリカは日本人を奴隷にしないで、上手く利用している。中国も、日本を利用したいだけだ。沖縄のどこかの島が占領されるなどと、デマを流す自民党系の人が絶えない。外国と仲良くしようという平和主義で行こう。

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書店の減少

2015-07-04 04:35:09 | 地域

新刊本の本屋さんが減少している。新刊本の数が膨大で大きな本屋さんでなければ置くことができない。。インターネットはいくらでも本を並べられる。店舗で販売を充実して行うには、一定の規模が必要になる。地方の小さな本屋さんで、新刊本を並べることは相当に困難になっている。現代の社会のように、多種多様な書物が出版されている中で、地方の小さな本屋さんとしては、新刊本を読者の興味に即してそろえると言う事が難しい。行っても面白い本がない事が続けば、本屋さんに行く回数が減る。一方にブックオフの様な新しいタイプの古本屋さんは増えている。本の傾向としては、売れ筋に納得ゆかない所はある。図書館も昔より充実しているから、本屋さんで本を購入すると言う事は、どの角度からも減っている感じだ。勿論一番大きな要素は、インターネットである。古本でも、新刊本でも、一番探しやすい。何しろ、私のおじいさんの大正時代の歌集と言う物が売られていたほどだ。そんな本があることすら知らなかった。

インターネットの本屋さんがこれからの書籍販売の中心になるのだと思う。便利だし、充実しているし、町の本屋さんが無くなるのは、必然ではないかと思う。小さな町の本屋さんは教科書販売と言う事で、それなりの利益を上げており、なんとか経営していると聞いたことがある。地方の過疎社会文化機能としても必要な物だという主張を読んだ事がある。しかし、本屋さんから教科書を買わなければならないという事もないし、教科書販売が町の本屋さんとの対面でないからと言って、何か困る事があるとも思えない。と言いながらも、本屋さんが無くなる事と、地方の活字文化の衰退と言う事が、関連ずけられて言われる事がある。本屋さんのあの雰囲気である。私が本好きになったのは、2つある。本が欲しいと言えば、かなりの無理をしても買ってもらえた。その無理を子供の私は気付かなかった。母親に申し訳なかったと思う。もう一つは、宇治川さんという方が、家に来るときには、必ず本を持って来てくれたのだ。

この宇治川さんという方は、13人兄弟の長男で、とても苦労された方と聞いた。優しくて人間的に実に立派な方だった。一番下の弟が、死んだときに、殺したのではないかと言われて本当につらかったと言われて、涙を流したことがあった。私の父を支えてくれていた様な方だったのだと思う。宇治川さんはメリヤス工場というものをやっていた。渋谷から都電に乗ったような記憶がある。蒲田の方ではないかと思う。小さな機械編みの機械が並んでいて、注文のセーターなどを編んでいた。父はその頃毛糸を販売していたので、注文があると宇治川さんの所へ届けるのだ。出来たセーターを宇治川さんが届けてくれるときがある。そのときには必ず、本を持って来てくれるのだ。本を選ぶことはできないので、多分蒲田の駅前の本屋さんで歳を言って、選んでもらうのだと言われた。私たち兄弟にとってはいただいた本が宝物で、それで本好きになった。

本屋さんの雰囲気というものがある。子供の私には全く別世界だった。今日は誕生日だから本を1冊買ってきていいよと言われて、兄弟で本屋さんに走った。本屋さんには後で、親がお金を払いに行ってくれたのだ。本屋さんの隅から隅まで、何時間もかけて本を選んだ。そして大抵は、動物の本を選んだものだ。あんなに真剣に本と対面した事はない。図書館などというものがあることも知らなかった。小学校に図書室というものはあったが、本の数も少なく、読みたい様なものもなかった。本の有る世界。家でも本を並べ直すのが好きだった。今もそうだが、いつか読む予定の本が飾られている。目が悪くなってきて心配なのだが、その内読むべき本があると言う事が、どこか幸せな感じである。本を読む習慣。これは親が本を読んでいたからである。あんなに忙しい中、本好きの両親であった。家族で読書感想大会を良くやっていた。本好きになる事は、世界を広げてくれる。そして好きなことを発見できる。

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ブログを続けること

2015-07-03 04:21:29 | 水彩画

認められたいという気持ちがある。人からの評価に影響されないように生きてきたいと思いながらも、消えないものがある。そこから離れるということが禅の修行なのだと思ってきた。認められたいという気持ちが、自分らしく、自分を深めて生きるためには邪魔になる。認められたいという気持ちがどこかにあるので、あれこれ生き方に影響されてきたのかと思う。それはこの歳になっても、注意しないと間違う問題点のような所である。このブログを書いているのも、認められたいからという側面がある。公開することにはそのような側面が伴う。公開しないでも、続けられるものであったかと言えば、確かに怪しい所がないとは言えないが。ブログを始めるより15年ほど前に山北に開墾生活を始めて、日誌は書き続けていた。その意味ではその後作業日誌が、公開日誌に変わったという事になる。開墾日誌は日々のメモで、必要に迫られてつけていた。

記録する事は非公開でも続けてはいた。しかし、内容はだいぶ変わったはずだ。その内容の変化の中に、人に伝えたいという要素が出てきたという事になる。絵画制作と開墾生活を書きとめ始めたのは、自分の今から行う経験を残しておく価値があると思っていたからだ。機械を使わない開墾生活を行う中で、絵を描くということ。養鶏をやっていて、一番知りたかったのは江戸時代の鶏のことである。なぜあれほど美しい鶏を作り出せたのか。この記録が残っていない。わずかあるようだが、全体が分からない。秘伝の技術という側面もあったのだろうが、すごい技術が消えてしまったという事に、空しさというか、悲しみを感じた。多分明治の西洋的近代的技術というものが、江戸時代の鶏を飼う技術を、つまらない、価値の無いものと見なしたのではないか。同時に、古い技術の保持者自身がその技術の価値を意識出来なかったのではないかと思われる。ありきたりの人に伝えるほどのものでない技術。所が、今になってみると、そのささやかと思われた、古い知識こそ、近代的な技術の限界を乗り越える、深い知識を秘めているという事になる。

だから、普通の人間の日誌も、集積してみれば次の時代には意味を持つのかもしれない。このような意識は公開日誌にして、考えるようになったことだ。無数の普通の人の生活記録こそ意味がある。柳田民俗学の考え方だ。本を作るときに本は1万部売れなければ、採算が合わないと言われた。ブログは無料でこのように続けることが出来る。認められたいと言う事が、ふつうのくらしの記録をゆがめるてはならないと考えた。評価されたいと言う事をどのように封ずるかである。認められたいと思うと、本当の役立つ日誌にはならない不安があるからだ。なぜ、いつ田んぼにソバカスを撒くのかなど、いかにも効果があるかのように書いた所で、無駄なことだ。自分の思考の助けに書くには、むしろ上手く行かないことを書くことも重要になる。田んぼは多様である。行う人も多様である。その組み合わせで、何が起こるのかが見えてくるのではないか。

絵を描くと言う事も、同じことなのではないか。ゴッホは自らを「価値ある絵を描く人間」と自覚できる事で、自分の人間の価値を確認したかったのだと思う。 絵が評価されなかったために、それが出来ないと感じた時に終わったのだろう。良い絵を描くと言う事で、認められるという事はどういう事なのだろう。現代であれば商品としての価値が、絵画の価値である。商品に向かないものは、絵ではないという事になる。ゴッホも売れないということへの受け止め方に失敗をした。社会が絵という物の位置を見失いかけている。絵画は商品価値だけで存在している。しかし、その背景にあるいわゆる、個人の趣味として描かれる膨大の量の絵画。それは商品絵画の数万倍の量であろう。私はその趣味の絵画の方に焦点を当てるべきだと考えている。それに私絵画と言う言葉を当てた。その膨大な数の承認を必要しない絵画の方が、人間の本質に向かう可能性が高いという考えである。

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国連PKO軍参加の意味

2015-07-02 04:24:12 | Peace Cafe

今審議している、安全保障法制は、憲法学者の間では憲法違反という疑念が出ている。過去の内閣法制局長官も、多くの方が憲法違反であるとしている。しかし、政府は背に腹は代えられない。当面憲法改定が難しい以上、憲法解釈を政治的に拡大する以外にないという考えのようだ。現実は空理空論では動かない。政治は今ある国民の安全を守ることがすべてに優先する。こういう主張のようだ。しかし、憲法の下に法律はあるものである以上、時間がかかるとしても今ある世界の現実が、日本人の安全を脅かしていて、安保法制を変えれば守れるのか、国会審議してほしい。中国の脅威に対する対抗が必要だというのが、今回の安保法制の必要性なのであろう。アメリカからの要請もあるのだろう。政府もそのことを隠しているわけではないが、PKO参加を出来るようにするとか、ホルムズ海峡に行けるようにするなどと、中国以外のことが主たる論議になり、問題を分かりにくくしている。

ホルムズ海峡が機雷封鎖されたなら、石油が来なくなる。石油は日本の生命線だから、自衛隊が取り除きに行けるようにすると、安倍氏は力説している。世界から見れば、日本は石油確保に軍を出すと宣言していると受け止められかねない。経済のためなら、戦争も辞さないと世界に宣言している。いくら日本人の本音であるとしても、情けなくさすぎる、恥ずかしい。日本人の本音であろうと、政府は読んでいるのだろう。PKO参加はどうなるのか。国連のPKO活動はあくまで人道的に、つまり、国家とは言えないような、自国民を虐殺し続けるような、テロリストや、あるいはその当事国家であったりするのだが、住民を保護するために、出兵している活動と考えられる。無謀な隣国が、主権を無視して攻め入ったので、やられている国からの要請があり、助けるために出かけてゆくというようなものではない場合が多くなっている。

最近のPKO活動は紛争当事国からの要請に基づいて、国連PKO軍が出撃するわけではない。国際社会から見たら、人道的に許されがたい、住民の虐殺が行われている場合、救済のために、要請なく出かけざる得ない活動になっている。しかも、以前のように停戦監視の範囲ではなく、本格的に戦争に参加しているような形もある。本来内政不干渉が国連の正しい判断である。どれほどの虐殺があろうが、内政問題に国連は関わるべきではない。ところが、国家とは言えないような、虐殺をおこなう国がある。こういう事態を無視できなくなっているのが現実であろう。またそこに、アメリカの正義という名の下の、様々な内政干渉的な、アメリカ軍やその関連国の軍事介入がある。それに日本の自衛隊も参加することになる。世界からどのように言われるにしても、日本は軍事的なかかわりは避けるべきだ。PKO活動は、自衛隊員の命にかかわる危険な行為である。同時に日本国民がテロ攻撃を受ける可能性を高めることになる。

日本が傍観者になり、国連のPKO軍にも軍事的には参加しないことは、国家としての尊厳を失うのかという問題がある。それに代わる、日本の世界に対する人道的支援を行えばいいのだ。日本は軍事的には何もしない非武装の国であるから、世界の貧困や、災害に対しては、精一杯努力をしている。こういう国になろうと、憲法は方向を示している。平和的努力とはそういうことのはずだ。国連軍とは言え、やられる側に立てば、その報復の連鎖は止まることがない。武力で解決できることは少ない。イスラム国など日本をテロ対象と宣言までしている。イスラム国ですら、日本は別であるといいたくなるような国を目指すべきだ。そんなことは現実離れした空論であると、言われることは分かっているが、そうした理想主義を目指す可能性のある国は、世界で日本が唯一と言ってもいいのだ。日本がその理想を捨てたときに、世界はただ一つの希望を失うことになる。

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