地場・旬・自給

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豚インフルエンザ5

2009-05-16 05:40:22 | Peace Cafe
インフルエンザウイルスについて、少し予想外の事が起きている。エジプトで豚が処分された。今までの鳥インフルエンザH5N1の時の対応だと、ウイルスを持つ、あるいは抗体がある。これだけで全てが淘汰されてきた。全くおかしな対応である。抗体があるというだけで、淘汰するなら、一度感染した人間は永遠に隔離しなければいけないと言うような意味になる。先日の愛知の弱毒のウイルスの抗体が見つかっただけで、何百万羽のうずらが、意味なく殺された。それでは同じことを豚でもやるのか。エジプトの情報は正確ではないが、豚の中から20%ぐらいH5N1ウイルスが見つかったという理由で、全ての豚を淘汰したと言う事らしい。そのとき出ていた情報だと、豚を調査して、インフルエンザの抗体があると言う事は珍しいことではない。と言う事だった。キリスト教系住民の弾圧という側面だけが、出てきているので、インフルエンザの本質は見えにくい。

エジプトは鳥インフルエンザH5N1については、蔓延が進んでいる。26人が死亡しているという。WHOは以前からエジプトの対応を、模範的蔓延予防措置をしていると言う事で、対応方法を評価していた。それが今回同じことを豚で行ったと言う事で、今度はWHOはエジプト政府を間違った対応と言う事で、批判している。何故、豚と鶏は違うのか。今回のウイルスが、幸いなことに弱毒であった。強度化する可能性がないとは言えないが、先ずは大きな危機の山は越えかかっている。ウイルスという物の変異の性格も今回の事で少しづつ、確認が進んだ。ワクチン製造過程でウイルスが変異したのではないか。このような疑いが出て調査がされている。これは即座に否定されたが、即座に否定できる根拠などあるわけもない。いかにも学問的でない。可能性がない事ではない。ワクチンという物は、リスクがある。製造過程にもあるし、ワクチンより感染が始まると言う事もあった。

しかも、ワクチンによる免疫と、自然感染による免疫とは、違うと言う事も今回の事でだいぶ判ってきた。感染の連鎖による強毒化の可能性と言う事では、人間での感染の連鎖は、強毒化しやすい条件が揃っている。ウイルスは条件が揃っているからと言って必ず強毒化して行くわけでもない。分からない事だらけだ。しかし、新型インフルエンザの出現には、豚が鍵を握っていると言う事は、いよいよ明確化して来た。豚を調べることだ。先ず、メキシコの豚を徹底調査する。どこでどういう過程で人感染が可能に変異したのか。今の所されているようでもない。どういう圧力が働いているのだろうか。他所の事は、どうにもしょうがないが、日本の豚の感染は調べているのだろうか。もしやっていないなら緊急にやる必要がある。豚がインフルエンザに感染していない理由がない。人間と同じレベルでは感染しているはずだ。もし感染がないなら、その意味こそ研究しなければならない。問題はウイルスの種類。

いずれ、メキシコ、アメリカでの感染の広がり方をみると、感染力は強い。確かではないが、弱毒のウイルスの方が感染力が強い、ようだ。そうあって欲しいということでもあるが、鶏においての感染状況を見ると、そんな気に成る。WHOは豚の調査を緊急に行うこと。本当に既に豚の中に、存在しているのかどうか。そして、強毒のH5N1ウイルスが、豚の中で人感染するように変異することを抑える。そう思うと、エジプトの対応を簡単には批判は出来ない。人類の危機ともいえる状況が生れるかもしれない。神戸では豚インフルエンザで人人感染ではないか、という事例が昨日発表された。遺伝子調査も陽性だという。しかしこれは違うような気がする。公表の判断もばらついている。不安を増幅させるから、基準をきちっとする必要がある。
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小田原市行財政改革検討委員会

2009-05-15 04:50:33 | 地域
小田原市には1500億円の借金がある、と言う話を何となく聞いていた。それがどの程度大変なことなのか。何でそうなったのか。気になってはいたが、どうせ日本全国同じことで、借金してまで箱物を作れ。に乗せられたのだろうと思っていた。例の財政破綻した夕張市である。国の補助金を引っ張ってくるのが、有能な地域政治家の役割となっている。そうしなければ地域経済が維持できない状況が作られている。公共事業が地場産業だそうだ。その小田原市の行財政を市民の立場から、検討しようという試みが、市長の発案で行われてきた。昨日は市民委員の3名の方が、検討委員会の様子を話してくれた。先ず3名の方の努力に、心より感謝したい。真剣に取り組んでくれたことが良く判った。審議過程、報告書は小田原市のホームページから取れる。しかし、会計と成ると、表面ではわからない問題点が多く。直接話が聞けたことは、判りやすくてよかった。

1500億円の借金があるといっても、内容については、良く判らないというのが、一般的市民感覚だろう。これを分かり易く、どのように市民に伝えるか。これが重大な目的。今までの行政は、借金のような都合の悪い話は、できるだけわかりにくく、説明することになっている。市民という存在を「わからずや」と決めてきたからだ。煙に巻いておけば文句も出ない。こうした長年の慣習から、どうせ役所の書類は、特に会計はわかりにくい。面倒くさいという所に市民の意識は追い込まれた。隠すことは出来ないし、公表もされているのだが、うまく複雑にしてある。ここにもそれなりの知恵があったのだと思う。例えば、職員を何人減らしました。こう言う事は分かり易く公表される。背景に、臨時職員が何人増えて、指定管理者制度の外部委託がどのくらい増えて、外郭団体への支出がどうなっているのか。これは別枠で書くから、見えにくい。

今後、市の収入は激減する。市の主な収入は市民の市税である。これは労働人口が減少すれば減る。人口減少の上に老齢化。日本全国地方財政は苦しい。小田原はまだ手が打てる状況。銚子市の病院閉鎖。小田原だって同じ問題がある。昨日の話では、小田原市立病院は10億ぐらいの赤字。表向き3億のマイナスで、それ以外に市からの支出が7億、別にある。どうしたら良いかを、市民の立場で考えるためには、状態を分かり易く正確に伝えたうえで、病院を閉鎖するのか、外部委託するのか、もっと支出が増えても、今の形で継続するのか。こう言う事を市民の暮らしのレベルで考える必要がある。観光協会には13000万円が支出されている。これがどのように使われているのか。市民は知る権利と義務がある。搭の峰の青少年の家は76万円の収入の為に、1200万円の支出がある。年間利用率5%。今後どう維持してゆけば良いのか。こうした事を精査してゆく状況ではないか。

市行政が行うべき役割。市民が担うべき役割。市の職員の給与は44歳で年収800万くらいだそうだ。こう言う高給な人は、本来雑務をやるべきではない。この3分の1くらいの人が行うべき仕事を、高額所得者が行っている。市役所の一階の業務は全て外部委託したほうが良い。といわれていたがなるほどと思う。役所で雑務や事務はやってくれると考える人が多いい。書類の印刷はお願いする。こう言うのは駄目だ。自滅の道である。時給2000円以上の賃金の人に、誰でも出来ることをお願いしていたら、もう続かないだろう。市民一人ひとりの意識改革が必要だ。行政に協力する人は、ボランティア意識の人が多いいから、コスト意識が少ない。行政でしかできない仕事を行政がやる。それ以外は市民が担う。担えないなら、その事業は成立しないことを市民は自覚しなければならない。

昨日の時給作業:草取り1時間 累計時間:16時間
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大豆の会の新展開

2009-05-14 05:23:12 | あしがら農の会
あしがら農の会には、田んぼの会、お茶の会、と「大豆の会」がある。大豆の会は昨年まで2反弱の下大井の田んぼ跡で耕作を続けてきた。そもそも、10数年前味噌作りを田んぼでやったのが、始まりだった。自然食の引き売りをしていた「一帆」さんの活動だった。5,6回あったのだと思う。音楽をされる人達だったので、大豆を煮ている間は、コンサートのようだった。後には今大磯の方に越した、陶芸をされる方が、巨大なまるで火事のような野焼きをやったりもした。味噌作りを中心にした、文化祭のような雰囲気だった。味噌よりも文化祭の方を楽しみに集まった人が多かったと思う。場所は内山の下の方の田んぼだった。今くだかけ生活舎で耕作している田んぼあたりだ。その活動が美帆さんに引き継がれ、それがまた農の会で引き継いでやるようになった。手前味噌が美味しいと言う事が、背景にあり、味噌作りが自給の入り口にあるのがちょうどいいのだろう。

農の会でやるようになって、当然の事だけど大豆も自給したいと言う事になった。農の会の人が作った大豆を、購入して味噌を作ると言う事もあったが、参加者が増えてとても会の内部の大豆では足りなくなった。そんなこともあって、Aさんが使っていた会の借りている畑が空くことを機会に、そこを先ずは1反だけ大豆畑にした。大豆が良く出来た。田んぼの畦なら良くできると言う経験があったので、田んぼに沢山畦を作ったような大豆作りだ。その後、Jさんが担当した場所に広げた。さらに、Mさんが耕作した場所にも広げ、2反弱の大豆畑になった。味噌の会の活動以来、一貫してNさんが中心に運営してきた。この「大豆の会」の特徴は自給の活動ではあるが、味噌作りだけでも良い。種蒔きだけでも良い。草取りだけでも良い。自由な参加が可能な点である。冗談ヌキに、草取りだけに参加した人もいる。

実に農の会らしい、「自給の思想」の主張だと思っている。農家の方から、以前田んぼで笑って作業しているのが許せない。こう言われたことがある。もっと真剣にやれ。と言う事のようだ。近代農業では笑いも許されなくなったのかと驚いた。江戸時代の田植えでは、みんなを冗談で笑わせる漫才師のような、役割があったという。卑猥であり、滑稽であり、すれすれの噂話で、過酷な労働を吹き飛ばそうということらしい。労働を禁欲的なものにしたのは、工業社会の賃金労働である。倫理観で監視しようという、資本の論理が働いている。農業で言えば、租税や小作料を搾り取るために勤勉を強制する。これは支配者の思想だ。生活するものの自給はもっと自由なものだ。元来、人間には田んぼで昼寝する権利がある。のんびり行こうよどこまでも。のんびりやったって、自給には一日1時間で足りるのだ。

今度大豆の畑は山北に第2グループが出来る。まさに、農の会らしい広がり方だ。自分にはこういう自給のほうが、都合がいいという形で、次のグループが出来る。田んぼの会もこういう形で、10ほどのグループになった。それぞれのグループはそれぞれの耕作法を行う。それぞれの思想に基づき、運営がされる。その結果、まるで空気が違う10のグループが出来た。大豆の会もそれぞれの思想に基づき行われればいい。既に県内にも様々なやり方の大豆の活動があるらしい。同じであることは少しも魅力がない。違いを大切にする。違っていても排除しない。違うと思う者は批判をするのではなく、自分らしいやり方を提案してゆけば良い。そして違うものが並立して、少しも違和感なく調和する。それが素晴しいのだと思う。まさに、田んぼの会がそうなっている。でも、その1時間の自給が結構大変なのだ。
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ごみを減らすには

2009-05-13 04:32:17 | 環境関連
「ごみを減らそう」こう言うテーマが小田原市の環境部から出されている。小田原トライフォーラムの11番のテーマである。以下が市行政の現状分析である。
○現在、小田原市では約8万トンのごみが出されています。
○ごみをできるだけ減らすため、過剰包装の商品を買わない、買い物ではマイバッグを持ってレジ袋を利用しない、フリーマーケットなどを利用し使えるものを繰り返し使う、詰め替え商品を買うなど、ごみの減量に向けた取り組みを広報誌や環境情報誌「ゴミダス」などで啓発しています。
○しかし、まだまだ徹底されているとはいえない状況にあります。
○さらに減量を進めるために、市民や事業者はどのような取り組みができるかを考え、その取り組みを重点的に促進していくことにより、効果的にごみの減量を進めていく必要があります。

「ごみを出さない暮らし」を山北で13年間やった。ごみの回収のない所で暮していたからである。ごみを出せないと成れば、ごみは減る。この原則はどこへ行っても同じである。これは良さそうだ。買いたい、思ってもごみが出ると思えば買わない。買えない。ごみを減らすには回収を止めることだ。冗談のようだけれど、そうしてしまって成功した上勝町のような町もある。あれは小さな町だから出来る。こううそぶいて済ませていたら、町田市がごみゼロウエスト宣言をした。そして徐々に成果をあげ始めている。やろうと思えばできる。というか、やらなければ日本はごみに滅ぼされる。そのことに気付き始めた地域もある。ごみを減らすと言う事を何故やれないかといえば、ごみを減らすには企業という製造者の責任が大きいからである。今以上の不景気になるからだ。世界相手の競争に不利になるからだ。その付けが、国民一人ひとりに来ている。

以下が私のごみを減らすための提案である。

☆ 広域化を止め、小さく地域ごとの、見えるごみ処理を行う。
☆ ごみと処理コストを明確化し、減らせば得するシステムを作る。
☆ 生ごみを出さない宣言をした、自治会にはその対価を払う。
☆ 生ごみ出さない宣言をした家庭には、その対価として、生ごみ入れないゴミ袋を配布する。
☆ 学校ごと、地域ごと、事業所ごと、集合住宅ごと、商店街ごと、大規模商業施設ごと、堆肥化施設を設置する。
☆ 生ごみの堆肥化を推進し、地域循環を小田原市のテーマとする。
☆ 紙類の完全再生処理を目指す。
☆ 地域にごみステーションを作り、市民自らごみ処理学習をしながら、分別廃棄ができるようにする。利用した市民にポイントをプレゼント。
☆ 現在稼働中の焼却炉を出来るだけ長く使い。焼却炉は必要最小限の処理能力にとどめる。ごみは出せない意識を作る。
☆ もったいない市を開催し、物を大切に使う暮らしを提案する。
☆ 年度ごとの削減目標をつくり、市民全体に見えるようにする。
☆ ごみ削減の検討委員会を、市民・議員・職員・専門家で作り研究する。

以下は町田市の先進的な思想である。
1.ごみを燃やさない、埋め立てない、徹底資源化方式を実現する。 
2.ごみになるものを作らない売らない拡大生産者責任制度の確立をめざす。
3.マニフェスト(目標数値設定と達成年次の公示)による目標達成を図る。
4.市民・議員・職員・専門家による参画システムの研究と実践を行なう。
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民主党代表小沢辞任

2009-05-12 05:06:40 | Peace Cafe
辞めるだろうと言われていたが、昨日押し切られて辞任を表明した。小沢氏も無念であろうが、日本の政治の闇支配の結果に見える。東京地検の暴走が引き金になった。地検に日本の政治を左右する力があると言う事が、これで証明された。地検批判というものが、完全に押さえ込まれれいる。と言うかそもそも、東京地検という存在と、自民党支持の体制翼賛報道機関が、合同して、小沢おろしに成功したと言う形になった。小沢秘書を軽微な罪で逮捕して、何とかあら捜しをしようと、2ヶ月も拘留して叩きまくっている。にもかかわらず、これ以上の問題点が出てこない、このときとばかり、しゃしゃり出たのが、報道各社である。一つ覚えのように、「説明責任を果していない。」国民の中には、本当に何か説明していないことがあるかのように感じる人まで出てきているのではないか。酒を飲んで裸になった人より軽微な、記載ミスがそもそもの罪状である。

小沢氏は良く耐えた。この不当な闇の圧力による、引きづり降しに対し、耐えに耐えた。しかし、党内にはまるで自民党の手先として、民主党にいるような右翼政治家M氏がいる。自民党以上の軍国主義政権樹立の為に、民主党に存在する人間が居る。民主党に問題があるとすれば、この一枚岩になり得ない、そもそもの民主党の弱さである。自民党に公認されないから、仕方なく、民主党から立候補したような人がいる。つまり、主義主張はないのである。思想のない政治家。この体質が小沢氏の足をすくった。挙党体制が組めなかった。それでも「自民党よりはましであろう。政権交代が必要である。」こう言う国民の高まる希望を、冷やしているのが、この民主党内の思想の分裂にある。せめて、憲法に対してどういう姿勢をとるのかぐらい、民主党内で充分討議してもらいたい。議論をすると分裂するような、脆弱さが小沢辞任につながってしまった。

それにしても、自民党の方で怪しいといわた、N閣僚についてはどうなったのだろう。本来なら、権力の監視をするのが、報道の役割である。報道人は、記者魂を失ったか。弱い者いじめが報道の役割では、どうにもならない。報道人はくらいついても批判してゆかなければならないのが、閣僚N氏である。どう考えてもこの人の方が罪状は重い。それを見ない振りをする。そして、金権主義に支えられた、日本の支配構造の死守に加担する報道。報道をひっくるめた既得権の死守。官僚の支配構造の維持。霞ヶ関の官僚支配構造。この既得権が政官財、加えて地検ぐるみの癒着によって、維持されてゆく。これを壊そうとした小沢氏は潰された。ある意味、田中角栄の失脚と似ている。しかし、小沢氏の辞任は総選挙での政権交代が目的である。闇の支配に対する、最後の挑戦に挑もうとしての辞任である。国民はこのことに目を開かなければならない。報道に騙されてはいけない。

もし、今度の衆議院選挙で、自民党が勝利するようでは、既得権勢力はほくそ笑むだろう。こんなチョロイ手法で国民を操作できると認識するようになる。ここはもう民主党の内部の云々ではない。こうした民主主義の成長を阻害するような、悪質な手法をとると、結局は自滅すると言う事を、今度衆議院選挙で、既成勢力に思い知らせなければならない。自分の選挙区の反自民立候補者が、右翼M議員の配下らしいとしても、じっとこらえて、反自民で結集しなければならない。日本が闇支配から逃れられるか。体制翼賛報道を駆逐できるか。この潮目にある。悲観することはない。国民は変化を始めている。そう簡単に騙されなくなっている。何故、草薙氏が家宅捜査まで受けたか。その背景もおおよそは見えるだろう。小沢秘書と同じことなのである。
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利他主義

2009-05-11 04:28:38 | Peace Cafe
「利己主義」というほうが、一般的だが良くは思われていない言葉である。一方、「利他主義」と言う言葉を、最近耳に、目にすることがある。向うべき方向として書かれている。確かに世界の状況がここまで荒んで来ると、資本主義が是としてきた、利己主義を問題にせざる得ない状況が生れている。投機的マネーが生む利潤というものが、是であると考えられるようになったのは、古い事ではない。歴史的に見れば、金貸しとか、株屋とか、行って見れば、銀行や証券会社が大企業であって、後ろめたい職業でなくなった世界観の登場は新しい。こうした仕組みに永続性があるのかどうか、微妙な所まできている。オイルマネーを代表とする、巨額な資金が世界経済を混乱に陥れた。その資金規模は生産を伴う、物々交換の便宜性で使われる貨幣の総量の、100倍の量が「投機マネー」として存在すると言われる。量的にそこまで大きくなってしまうと、経済の本質まで変えてきた。

資本の論理というものは、利己主義そのものである。そしてその世界では、お金が全ての価値の背景にして動く。簡単に言えば、得することが良いことなのである。損することは悪い事となる。企業買収というようなことが話題になる。ある会社の株を莫大な資金で、買い占めて行き、その会社の経営権を握る。あり得ないが、農の会が株式会社で株が公開されていれば、その株が買い占められ、その株を買い占めた人の意図で運営がされるようになる。株主が利潤を出すように経営しろというなら、参加者が間違いだと考えても、解雇される。お金が思想より優先的に動く。素晴しい、公共的利益を優先する会社や経営者は無数だが、資本の論理はそれを超えてしまう。このやり方では世界は駄目になるのではないか。と言うのが、利他主義の思想の出現である。公共的利益を優先する世界経済の仕組みの構築。

禁欲主義と、快楽主義は実は同じものである。禁欲主義のゼノンとエピキュロスの快楽主義がある。しかし、幸福という価値観の前では、実は両者は同じものである。幸せであるためには快楽の永続性が必要でとなる。永続性のある快楽とは、知的満足感を伴はなくては成らない。常に前進しなくてはならない。待っていて、同じ場所に留まっていたのでは、快楽は得られない。とすると、快楽の背景にある幸福観は、実は禁欲主義と同じものになる。「利他主義と利己主義」の問題は良く似ている。あくまで自分本位で生きようとすると、自分という存在の意味に至る。目立ちたいとか、勝ちたいとか、贅沢をしたいとか、自分の思うように動かしたいとか。こう考える自己存在の幸福観の確立が必要になる。本当の自己が欲する所は、どこにあるのか。それは他者の喜びによって得られるもので、あるのかもしれない。

この点人間を信じていいのだと思う。人類として過度期に過ぎない。利他主義の主張が起きるのは、資本主義による、利己主義の方向があまりに直接的な利益だけに向いている点にある。他者を滅ぼすことは、決して自分の利益にならない。他者が豊かになることこそ、自分の利益に成ると言う事に気付けば良い。これはまさに、利他主義と同じことである。道徳観的に利他主義を考える必要はない。利己主義の究極の所は、利他主義だと言う事。大資本化がさらに利益を上げようとして、世界の実態経済を壊してしまえば、自分が損をする。風呂屋では最近の株の値上がりが、話題である。ここで一時的に売って、当面の利益を上げて置くかどうかの判断である。ほぼパチンコのカクヘンがどうこうと言う話題と同列に出てくる。アブク銭と、汗水して、人に喜んでもらった金銭。これが同じと言うはずがない。この違いを反映した、経済システムの構築。実は農の会のゲストスピーカー、宮城大学名誉教授天明茂さんのお話でした。
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お茶摘み

2009-05-10 06:46:40 | あしがら農の会
坊所のお茶摘が終わった。5月清々しい一日を過ごせた。新芽の持つ力感が、指先を通して伝わる。風が柔らかく吹く、極上の一日。こんな日は人生で何度も体験できないだろう。幸いなことに、我が家では二人して2日間充分に茶摘が出来た。5月3日は20組。9日が30組。雨で日にちが移動していったため、参加できないグループが、10あった。グループの平均参加者数が3人とすると、150人ほどの参加だ。広い茶畑全体に広がれば、それでもパラパラと言う感じだ。坊所川に面した、ゆるやかな傾斜地1反5畝、の畑。周辺の空地や竹薮を入れて2反ぐらい。2日が八十八夜。今日が満月だった。お茶摘みは満月の方がいいのかな。よくわからないが、そう言う事も考えながら飲むのがいい。一年でお茶摘みの時にだけ会える人がいる。それぞれに一年を過ごし、元気にここで再開し、又来年の茶摘でというような具合がなかなか良い。

こんなゆるやかな形で、沢山の方の参加があるから、成り立っている茶摘である。今時手摘みでやるなんて、とんでもないような事だが、これが楽しいと言う事で、大勢の人が集まれる。奇跡のような素晴しさである。手摘みでやるには、どうしたって大勢の方に集結してもらわなくてはできない。手ずみには「折り摘み・かき摘み・しごき摘み・両手摘み・切り摘み」があるようだ。これで言えば、しごき摘みを提唱している。柔らかく葉をつまみ、葉先に向って軽くしごき上げる。これだと太い茎はとらずに、柔らかな葉と、一心二葉が採れる。これを左右交互にすばやく、繰り返してゆく。しかし、このやり方も、聞かれたら私はこうやっていますと言う事で伝えるが、みんなこう積みましょうという形では、言いたくない。好き勝手に、軸まで摘む人がいても全くかまわない。山田純さんが「自分は全体の茶葉のレベルを上げるために、芽だけ摘む。」こう言って摘んでいた。全く貯まらない茶葉であった。それも良い。あくまでそれぞれの心の事である。

どんな人の摘んだ葉も一つになって、どれが自分の葉なのかわからない。当たり前だが、それだから美味しいお茶になる。担当の下川さんの配慮が行き届いている。大勢が集まると言う事は、当然初めて農の会の活動に参加する人もいる。いわゆる体験農園、栗拾いとか、摘み取りイチゴ園。のように考えていることもある。3000円の参加人で、どれだけ有利に摘み取れるか。どれが一番得か。それは当たり前で、今の社会はそんな風に出来ている。特に生きる要領ばかりで出来ている。ところが、農の会の茶摘は、損も得もない。荒れてしまったお茶園の管理が大きな目的である。里地里山の手入れ法の一つだ。自然とのかかわりを思い起こし。恵を戴く。それでいて、一定の経済的合理性もある。2キロの生葉を摘むと1000円。そのうち、600円が製茶費。400円が地代であり、機械の購入費である。昨年は整枝機を購入した。

全体では465キロの生葉を摘んだ。そのうち持込が12キロ。お茶畑の収量は453キロ。例年通りというところだろうか。この後5回の作業日が予定されている。そのうち1回の作業には、お茶摘みをした人は参加するようなっている。義務という訳ではないか。大体にグループから、一人参加するという感じなので、各回10人から30人ぐらいの作業になる。午前中ぐらいの作業。これが、もし営農の一環に取り入れると、2キロの生葉で1300円程度か。キロ350円×453キロ=158550円、つまり1反の茶畑で、10万円の収入。これでは茶農家はやれないか。でも、この方法を、営農の一部に取り入れることは出来るかもしれない。これからの農業は、物を売るのでなく。人を農地の方に呼び寄せることも考える方が良い。

昨日の自給作業:茶摘6時間 累計時間:15時間
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裁判員制度の問題点

2009-05-09 04:10:16 | Peace Cafe
いよいよ5月21日から裁判員制度が実施となる。法が出来て5年の準備期間を経て、制度の実施が始まる。今からでも辞めて欲しい制度である。日本の社会の実態にそぐわない方法が持ち込まれようとしている。そもそも、明治以来取入れられた西欧文化としての司法制度が、日本社会では異物であり、その異物性ゆえに権威として、尊重されてきた。いわば、敬して遠ざけられて来たのではないか。裁判所へなど、生涯行く事なくすむ人生こそ幸いである。少なくても、喜んで行くところとは見られていない。裁判員に指名されて、調査票に回答した人は全体の42.3%。回答した人の4分の1の人は様々な理由でやらない人。回答しない人も、名簿記載者としているようであるが。調査票に回答もしない人は、拒否者と考えたほうがいい。として、全体では指名者の70%の人はやらない人ではないか。

今から5年前と言うと、あの小泉首相時代である。何でも審議会で決まれば、国会はノーマークで通ってしまった。一体裁判員制度が出来て誰が喜んでいるのだろうか。裁かれる被告で喜ぶ人はいないだろう。今、舞鶴で起訴された、高校生殺害事件の被告は、裁判員に判断してもらいたいだろうか。あの偏った報道の姿である。報道に惑わされて、白も黒になりかねない。推測ではあるが、素人に自分の命を預けたいと思う人はいない。被告が裁判員を拒否できるようにして欲しい。足利の類似の事件では、無期懲役が確定して受刑中の菅谷氏が、DNA鑑定で犯人でないことが判った。しかし、思い起こせば、当時の報道の印象ではパチンコ屋にいたとか、河原に行ったとか。いかにも犯人扱いであったと思う。しかも、当時のDNAの判定では可能性が高いと出ていたはずである。それも仕方がないとして、その裁判と言う危ういものに、素人を加えるのは、さらにまずいだろう。

裁判制度は文化的な背景が重要である。裁判員制度を一番苦々しく感じているのは、間違いなく司法関係者である。あの誇り高い裁判官が、素人を交えて何が出来るのかと、怒り心頭であろう。プロ中のプロであるはずの裁判官と、紛れもない素人が、どうやって話し合うのであろうか。素人の強みなどある訳のない分野の事だ。迷惑限りない。面倒なだけだと思っている。裁判員制度が扱う事件は、世間の注目を集める重大犯罪とされている。リアルタイムでいえば、妹を殺して、切り刻んだとされる。予備校生の裁判などである。その切り刻んだ、証拠写真などを見せられるのかと思うだけで、場慣れしない素人に、正確な判断力が残っているのかと思う。有罪無罪だけの判断ではない。量刑にまで責任は及ぶ。精神鑑定の結果の、学者による判断の違いがある。しかも、これをおおよそ3日でやると言う。裁判員の負担軽減のためだ。

確かに、日本の裁判は長いと言われている。あのオームの事件などまだやっている。被害者にしてみれば、この長さだけでも刑罰の意味が半減すると思う。しかし、あの複雑怪奇な、オーム事件を3日で判断することも、これまた出来ないだろうし。極めて危険なことになる。裁判員の負担と言う事を考えて、1週間以内でどの事件も判断を下すらしい。それならせめて、重大犯罪から始めるのは、間違えであろう。先ず小さな事件から文化としての定着を待つ。その上で、可能なら、重大事件も取り扱うように進むことが、妥当であろう。司法関係者が嫌い、国民70%は出来れば関わりたくないと言う制度。誰が望んだのかと言えば、国会である。自民党である。だから成立した法律である。何故自民党は、裁判員制度を望んだのであろうか。司法の独立への挑戦なのか。民主党はマニュフェストに裁判員制度の見直しを入れるべきだろう。

昨日の自給作業:苗の植え付け1時間 累計時間:9時間
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キュウリパイプと絹さや花壇

2009-05-08 04:37:50 | Peace Cafe
11メートルのキュウリパイプを組み上げた。ここにキュウリ30本とさやインゲンを植えようと思っている。キュウリをこんなに作るのは初めてだが、塩漬けキュウリに挑戦するつもりだ。キュウリの栽培はそこそこにできる。問題は一時期に集中する、夏場の果菜類を上手く使いこなす方法だ。塩漬けにしておいて、戻して利用する方法があるらしい。奈良漬とか、福神漬けとか、著名なものがあるが、これを自分の技術にしたいと考えている。農の会オリジナル漬物である。別に商品化というほどではないが、野菜の保存技術は食の自給には、不可欠なものだ。時期によって、余るほどできるものを無駄にしない技も大切だと思う。塩漬けは一番簡単な方法だろう。加工してよりおいしくならなければ意味がないので、いいものができるよう挑戦したい。そのためのキュウリ栽培であり、キュウリパイプである。

インゲンやあずきもそれなりに作って、保存食に回したいと思ってはいる。豆類はまず栽培技術を磨かなければならない。今年始めての事で、小豆と大豆は麦の後作にやる予定でいる。30坪でどの程度できるのか。場合によって余裕があれば、養鶏場の方の平地がもう30坪あるので、こちらでも何か豆類の栽培を試みてもいい。本当は豆類は面白い作物だが、大豆ぐらいしかやったことがない。大豆でいまひとつ上手く栽培が出来いので、その次の豆類には手が伸びないで来た。花時の湿度が問題だと聞いたので、その辺を配慮しながら、今年は栽培してみる。豆といえばソラマメは毎年作る。塩茹での空豆は春の味覚の王様。一度は食べたい。問題は冬の間の長い期間、作らないとならないこと。風やら無視やら、何かの障害を受けやすい。今年もどうやらそろそろふくらんで空を向いている。この風情がなかなか良い。

写真は窓辺の花壇のサヤエンドウだ。なかなか良いものだ。これで毎日食べられる量が取れる。長ければ3週間食べれるだろうか。採れだしたら終わってしまう。花も綺麗だ。白と赤紫とが混ぜてある。畑の隅では苗かサヤエンドウが、勝手に出てきた。畑を片付ける時に、去年の株からこぼれた苗だ。これがいつの間にか大きくなってしまった。お陰で、味噌汁に入れて、炒めて、卵とじでと充分に食べれる。エンドウが終わったら、この花壇には、もらったユウガオを植えようと考えている。苗を作ってくれている。6月にはいったら、植え替える予定でいる。去年集荷場の小屋の脇でそらやさんが作ってくれて、なかなか美しかった。その種を分けて貰えた。さつまいもとは同じヒルガオ科で、葉っぱが似ている。もちろん朝顔もヒルガオ科である。

畑では、トオモロコシの3列が目に見えるようになってきた。草の間から顔を出しているのだが、やはり強いもので、グンとえばり出している。手前には、ピーマン、キュウリ、なす、の早植えの苗が勢いづいている。一番早く売り出されたものを、買って植えてみた。我が家の苗が出来るのはいつも1ヶ月半は遅いので、早く食べれる分だ。上手く行くだろうか。インゲン、や枝豆はきゅうに生育を早めてきた。これなら結構食べれそうだ。豆の類は採りたてに限る。味は時間勝負のもの。この美味しさはトオモロコシと同じで、作る人しか味わえない。サツマの種芋はまだ芽を出さないが、少々遅れても大丈夫だろう。麦は毎日黄色みを増す。朝日に耀く美しさは他の作物にはない見事さがある。立派な作物だ。まだ、スズメは来ていない。雨が5日も続いている。お茶摘が出来ない。9日の予定だけは何とかなってほしい。お茶工場も大変なことになりそうだ。
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インフルエンザその4

2009-05-07 05:15:18 | Peace Cafe
木村盛世、医師/厚生労働医系技官が厚生省の水際防止対策を、全く無駄なことだと書いている。なるほどと言う事もある。「検疫で一人も国に入れない!」と狂気のさたで騒いでいる厚労省です。このスローガンは「日本に1人でもカゼの患者が出たら日本は玉砕する」と言っているくらい愚かなのです。「新型インフルエンザもインフルエンザ(流行性感冒)なのだから、日本に入ったら必ず広がる」ということと「日本に入るのは時間の問題」ということを理解することです。霞が関はもはや何かの宗教団体かあるいは新種のウイルスに脳を冒されたとしか考えられません。こう書いている。この書き方からしても、何となく人柄は推測できるが、現役の厚生省の役人がこう言う事を書くのだから、意味は深い。

しかし、水際での防止努力は、無駄だとは思わない。最大限ここで止めようとするのは当然の事だ。厚生省の対応は正しかった。当初は、メキシコでの多数の死者が誤報で出ていた。この数からすると、強毒化したウイルスの可能性もあった。もしこれが、強毒のウイルスであったら、既に1000人以上が死んでいることになる。この場合メキシコの封鎖と言う事すらありうる。問題は、その可能性が出てきていることだ。それは既に、インドネシアからヨーロッパまで、強毒化インフルエンザ・ウイルスが豚の20%に発見され始めたと言う事である。これは、人間への感染もそう遠くないという事になる。(この情報は、正確かどうかは不明。しかしあり得る事である。)もしワクチンの開発をするなら、こちらの方を優先しなければならない。今回のメキシコ風邪とでもよばれるウイルスは、今後人人感染の中で、強毒化するかどうかが焦点となる。このメカニズムも解明されていない。また、強毒、弱毒の意味する所は性格の違いにすぎない。

スペイン風邪のウイルスというのは、アラスカの墓地の死者から、確定されたと言う。現在、潜在的に存在するわけではない。このウイルスも蔓延はしたが、消えていった。では何故、香港風邪とか、ロシア型など淘汰されないウイルスがいるのだろうか。性格が違うのだろう。まだ分からない事がいくらでもある。今回のウイルスでは60歳以上の感染者がいない。これは、鳥インフルエンザの人感染でも、同じことが言える。これを、学者は免疫があるのではないかと推測しているが、人間の免疫システムの方がまだ解明されていないから、わかっている範囲で推測しているだけである。交差免疫、と言う考え方でも収まらない。例えば、風邪を引いて出来た免疫と、ワクチンでの免疫では、その効果の持続性が違う。もし、風邪を引いた免疫が続いていると言うなら、その免疫力は40年以上と言う事になる。ワクチンは毎年打たないと効果がない。自然免疫の優れた能力を見直す必要がある。私の提案する自然養鶏はその考えに基づいている。自然獲得免疫は、始めて遭遇するウイルスにも、有効な場合がある。

今回は次に来る強毒インフルエンザの予行演習である。木村氏の言われる、「風邪だから水際では止まらない。」つまり「潜伏期間に帰国して、発病が1週間後となる。その間にウイルスを蔓延させている可能性が高い。だから、もう国内に入っているとして、対応すべきだ。」としている。確かに、その可能性もある。しかし発病して帰国して来る患者の可能性がある。発病してからの二次感染と、潜伏期間での二次感染とではレベルが違う。水際でやると共に、追跡調査を徹底する。
しかし、豚や鶏の中で起きている事に目をやる、報道はない。畜産由来の病気は、このままであれば、繰り返し起きてくる。人間が肉食化して来たことに、問題があることに気付かなければならない。この根本に気付かなければ、人間は絶滅することになる。
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小田原人のこと

2009-05-06 04:16:08 | Peace Cafe
小田原市議会では、「議員の各議案に対する賛否の公開を求める陳情」が否決された。これは小田原らしい特長と考えるべきだろうか。
自分の意見をハッキリする事は、あまり賢明なことではない。とされてきたのが日本の風土である。どうもこれは室町時代以降の日本人に表れて来た性格らしい。移動の出来無い、未来永劫その場所に住み続けるという、生活形態の中から生まれた、生きる知恵のようなものだろう。だから、これは小田原だけの事ではないといったほうが良い。むしろ、何故小田原市議会が古い日本人の特性を残しているのか、と言う方を考えたほうが良い。小田原の人は、用心深い訳ではない。どちらかと言えば、初対面で、おせいじやおべんちゃらで、あたりを見る。と言うようなことはない。本音を最初から見せるほうだと思う。舟原に来て10年だが、初対面から印象が変わったと言うような方はいない。だからとても暮らし易い。

小田原の市議会議員というものの位置づけが、他と違うような気がする。市議会議員が、市議会において、具体的課題を審議すべき存在と言うようには、位置づけられていない。ここが、ちょっと特殊な気がする。だから、市議会議員の責任と言う事が問われることがない。そのためなのか、市長の責任というものは、つよく問われる。市議会のネット中継というものを見るようになって、そのことがある程度わかった。市議会は審議する場ではない。審議に責任を持つような場になっていない。そんな議論になっている。言ってみれば小田原評定である。議員各自の意見表明が並ぶ。それぞれの意見を述べられているが、その議論を通して、具体的に何かを動かすと言う事は目的とされていない。そういう実際的なことは、どこか違う場で進めることと成っているようだ。その違う場がどこなのか。この辺は部外者には見えない所というのが、意味があるようだ。

こうしてあえて、勝手な考えをブログで書いているだけでも、風は当る。しかし、物言えば唇寒し、を無くすにはドンドン発言する。それが「他の者」の、役割だろう。と覚悟している。「他のもの」とは小田原独特かもしれない。地の者に対する言葉だと思う。自分の考えを表明して暮してゆくのが、不都合かと言えばそんなことは全くない。しかし、小田原の市議会議員は自分の考えを表明することは出来るだけ避けたいらしい。その心理はわかるが、理由がさすがにない。市議会議員の存在はあらゆる角度から、公的存在である。その人の議会での賛否を少しでも隠したい。城下町ホール問題では、賛成した議員の責任は少しも問われなかった。とんでもない進め方に賛成しておいて、出来上がってから市民の反対に便乗し、反対を表明する議員が目立った。多分議会の表面上の意見表明とは別に、城下町ホールも根回しのようなもので進んだのであろう。

市民参加方式が現在進められている。議会軽視とか言う事が出そうであるが、今の所そうした議論は聞かない。市民参加の協議会方式であろうが、審議会方式であろうが。議会が議論の内容に、深い興味はないのかも知れない。ごみ問題を何とかしたと言うような、具体的な懸案で議員に成っている人が少ないのかも知れない。広域ごみ処理については、沈黙が支配している。市民に協議会として意見が求められることもない。こういう状況を打破するのが、本来なら市会議員の役割ではないだろうか。重大な場面が過ぎさって行く。行政としては、結論を出してから、パブリックコメントで意見を聞いて置く、と言うような従来の方式を想定しているのだろう。形式主義で済ます。本来なら、ごみ処理広域方式の是否が問われる所から始まるべきだが、そうした議論が、議会で行われたことはない。
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玄米卵の募集

2009-05-05 05:18:59 | 自然養鶏
笹村農鶏園は規模を縮小しましたが、一定の安定をしてきました。6軒限定で新規宅配先を募集いたします。6個330円か、10個550円です。火曜日の農の会宅配と、金曜日の久野周辺の方に限定させて頂きます。玄米卵の特徴は、地域循環です。地域の飼料を利用し、地域の方に食べていただきたいと考えています。

規模を縮小し、主に一人で行う養鶏を続けている。卵詰めは頼んでいる。ひよこの世話は半分頼んでいる。居ない時の世話も頼んでいる。一人では無理だと言う気持ちがあったが、結局気持ちの問題が多分にある。楽しんで続けられる間は、やってみようと思っている。最近、農の会の宅配も独立して単独で始める人が相次いでいる。玄米卵を配ることが出来なくなった宅配先もある。そこで、金曜日は自分で久野周辺で自分で届けることにした。周辺と言っても、コースがあり、小田原駅の方面には行っている。このあたりで、希望の方がありましたら、是非この機会に注文よろしくお願い致します。火曜日は農の会の集荷場から、農の会の宅配の皆さんに運んでもらっている。宅配の関係の方で、新たな希望の方がいましたら、火曜でありましたらお届けすることが出来ます。今回のこちらの勝手な都合で、宅配をやめざる得ない方もありましたことは、申し訳ありませんでした。

引き際というのは、なかなか難しい。結局は仲間に迷惑をかける事になっている。食べ物を買ってもらうと言う事は、自給をすると言う事と全く違う。全ての責任を持たなければ成らない。出来ないことだと思いながら、ドキドキしながら続けてきた。それは絵を描いているものが、絵を売らないでも良いと思うことと似ている。売らなければならないと言う事は、まな板の鯉で、それは大変なことだ。たいていの人はそのことで潰れてしまう。売れる絵を描いてしまう。卵で言えば、美味しい卵を作る事に似ている。おいしいを追及すれば、人気が出る。美味しいは大体は判る。簡単に言えば、濃度を濃くすればいい。油の味である。新鮮な魚のアラを、上手く好気発酵させて使うと、大抵の人が美味しいという卵に成る。しかし、これではまだ、いい卵とは言えない。いい卵とは、生命力の強い卵だ。7週間保管しても孵化できる卵だ。いい絵が売れているわけでもないことと同じだ。

生命力が強い卵は、むしろ草食にさせなければならない。新鮮な草を沢山食べさせなければならない。出来れば100グラム食べさせたい。これは食べるように育てなければ食べてくれない。結構難しい技術となる。例えば、鶏を外に放せば生えている笹の葉だって普通に食べつくす。中に笹を放り込んでもなかなか食べやしない。第一、1000羽飼えば、毎日100キロの草を与えることになる。相当に困難なことになる。まして、工場養鶏では不可能である。草を与えると病気に成るといって、全く与えないのが普通である。頑張って草を大量に与えたからと言って、おいしくなる訳ではない。グルメに喜ばれる卵にはならない。しかし、この味こそ、卵本来の味であると考えてやってきた。

もう一つの重要な要素は二つの発酵の組み合わせにある。好気発酵と嫌気発酵で飼料を作る。これで鶏の体の中を微生物で充満させる。微生物のお陰で病気にならない。一切の薬剤を使用しないでも、鶏を飼う事が出来る。今日もお二人の新しく始められる方が見学に見える。少しでもお役に立てるといい。本当は見学だけでなく、しばらく泊り込ん研修してもらう必要がある。それも受け入れる体制を作りたい。大規模の畜産は、止めるべきことだ。その代替方法を示したいと考えて、やってきた養鶏である。しかし、残念なことに、そうした主張はむしろ遠のいている。安く、安くが今の世の中の流れである。食べ物は安ければどこかに矛盾がある。その矛盾は必ず食べる者に帰ってくる。玄米卵1個55円が高いだろうか。

昨日の自給作業:苗の植え穴準備1時間、キュウリネット1時間 累計時間:8時間
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豚インフルエンザフェーズ6

2009-05-04 05:40:31 | Peace Cafe
豚インフルエンザが新インフルエンザに変更になった。理屈としては人人感染が可能な形態にウイルスの変化があったからと言う事だろう。しかし、気になるのはいつの間にかの、豚由来説の消滅である。本来なら、メキシコで始まった時、豚の調査が何より優先されるべきだ。豚の中で何が起きたのか。この研究を行うことは、ウイルス研究の大躍進の可能性がある。今まで行われてきた、仮説が今実証的に、臨床的に、確かめられる場面である。ところが、今の所、ドンドン闇の中に消え去ろうとしている。多分全ての豚の出荷が終わろうとしているだろう。何という杜撰な、不公正なことか。WHOはこの間オタオタ、ごまかしを続けてきた。鳥インフルエンザを槍玉に挙げてきた。正義の使者を気取った、あの女性日本人医師は今メキシコで、豚の調査をしているのだろうか。フェーズ3・・・4・・・5・・・いよいよ6と言う流れだ。アメリカの何かを感じる。

メキシコ政府が国内異変を気付いたのは、4月6日である。16日になって、WHOに連絡を取った。10日間、おかしいと言う事を感じながら、出遅れをする。しかし、WHO地方組織は連絡を処理せず。24日に至って、重大事に気付き、始めて対応をとる。アメリカ疾病対策センター(CDC)が本格的に関心を持ち始めたのか、20日まで遅れた。このづれは、何を意味するのだろうか。メキシコ政府の責任に、重大な過失がある。問題は、各国国状によって、初期対応システムの能力には差がある。これを、連絡体制で補うのが、WHOの役割であろう。16日のメキシコ政府の申し出を上手く処理できなかった、仕組みをこの機会に、徹底的に検証すべきである。次に欠落したのは、発生源の調査である。既に1ヶ月が経過した。発生源である養豚場では、全ての豚の出荷を終えたであろう。もう闇の中に消えて居るはずだ。

拝金主義経済が背景にある。人の命より金が先なのだ。アメリカ経済が危機的状況にある。アメリカは農業国である。メキシコの養豚業もアメリカ資本が、相当数あるという。とくに大規模養豚はアメリカ資本。ここで流通を止められると、大打撃である。BSEの時も、アメリカは世界中に汚染の可能性のある牛肉を、無理強情に販売しようとした。豚も全く同じことだ。豚インフルエンザの報道と同時に、一番叫ばれたのが、豚肉の安全性である。日本政府関係者はことごとく、豚肉の安全性を連呼した。アメリカ政府の要請があったかも知れず。アメリカ政府のとった対応は、メキシコとの交流遮断を一切とらなかった。検査のない、メキシコからの大量の人的交流が続いている。これを遮断する、経済的損出が優先されている。フェーズ3からの変更も、もたもた延ばされた。初期対応の重要性から言えば、WHO当局の失敗である。アメリカの圧力が働いていないかと言う、推測も出来る。

今回はまだ、病原性が低くいまのところ幸運だ。日本政府の対応は良かった。日に日に、国内への進入の可能性は減少している。5日を過ぎれば、徹底した水際での防止だ。アメリカでの感染の拡大を良く観察すること。後は、メキシコ、アメリカの蔓延の防止だ。ここで感染の拡大が止まらないと、強毒化の可能性が出てくる。7回の感染の連鎖が人の中で起こるような事態になれば、強毒化ウイルスへの変異の可能性が高まる。残念ながら、アメリカ、メキシコの封鎖は失敗に終わりそうな対応である。強毒化のウイルスだけは封じ込めなければならない。その場合は、交流禁止も視野に入れるべきだ。日本政府はメキシコの養豚場の調査に、ウイルス研究者を派遣する必要がある。緊急に行えば、まだ若干だが証拠が残っている可能性がある。このままでは豚であったことすら消し去られる。

昨日の自給作業:お茶摘4時間 累計時間:6時間
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恵命我神散

2009-05-03 05:30:52 | 身辺雑記
薬嫌いの私が唯一使う、胃腸薬である。お腹が弱い、これはたぶん遺伝である。おじいさんもいつも下痢をしていた。トイレに居るおじいさんが一番の記憶に残っているぐらいだ。トイレが一番ものを考えるのにいいのだと、威張って言っていた。子どもの頃からほとんどいつもと言えるぐらい、お腹が弱っていた。そのまま今まで来たので、別にそれでいけないという訳でなく、少々の加減に慣れてしまったという状態である。それでも、お腹が我慢できないほど痛いときは、恵命我神散を飲む。ところが、これが最近なくなってしまった。と言ってどこでも売っているわけでもないので、お腹を押さえながら捜し歩いてしまった。やっと小田原でも売っている店が1軒あった。所がこれが、6300円の大箱だけしかない。賞味期限。否、薬だからなんと言うのだろう、有効期限か。これ後1年半だと言う。120包入りだと言う。下痢便の回らない頭でも、月に8包みは絶対に飲まない。月に1回2包み程度が良いところだ。期限の切れた薬というのは、やはりまずいだろう。

やはり買えなかった。それで、考えた。主成分ガジュツは紫ウコンである。これは売っているに違いない。聞いてみると、500グラムの生薬が、1890円であった。何か怪しい値段だ。多分怖ろしく安く入荷したのかな。これを煎じて飲むことにする。5グラム煎じると3回飲める。これだけあれば100回お腹が痛くなっても大丈夫。生薬でも期限はあるのかな。あるだろうけど書いてはない。中国産と書いてあるが、漢方のガジュツは又ものが違うらしいが、見たところ匂いは、確かにガジュツだから、一応良いだろう。随分大雑把に決めたのだが、かえって早速煎じて飲んだ。このまずさは確かに恵命我神散だ。その晩の下痢のすごいこと。しかし朝にはほぼ治った、治ってもまだ煎じた残りがあるから、朝、昼と2回飲んだ。もうこれで完治した。ガジュツは私の身体には、とても効能があるようだ。効能があると言う事は、あまりには使うなと言う事だろう。

恵命我神散はなかなかの薬であったが、薬も自分で植えれば自給できる。ガジュツを植えることにする。他に入っているは、昆布とウコンのようだ。私にとって腹痛は長い付き合いである。痛いのは厄介なことだけど、それはそれで何かの合図だ思っている。身体が知らせているのだろう。心理的な物がスタートの事が多分にある。子供の頃と、身体と心の基本は変わっていないことがわかる。豚インフルエンザは若い人がかかりやすい。歳をとると言う事は感受性が鈍くなるということ。こんな自体ではあり難い様だが、心の方で失っているものが、多分にあると言う事だろう。しかし、まだお腹が痛くならないわけでもなく、捨てたものでもない。たまに痛くなることを大切にしておこう。

紫ウコンはそこらではなかなか種を売っていない。やはり、インターネット購入になるのか。そう思って探すと、何と恵命我神散もネットでいくらでも売っていた。何だと思ったが、お陰でガジュツを煎じれば充分と言う事が判ったのだからありがたい。恵命我神散は切り傷にも良い。やけどにも良い。歯痛、歯槽膿漏にも良い。歯磨きにも使える。とても不思議なものだ。よほど私の身体に適合しているのだろう。それだけに、めったに使うことはしない。肝心の我慢できない時に効能が減じたら困る。もう20年、薬という物は使わないできた。例外として、ガジュツだけは良いとしたのは、屋久島と言うのが気に入ったのだ。屋久島と言う憧れがあって、屋久島で出来たものならば、信頼できそうに思った。いつか屋久島に行きたい。

昨日の自給作業:キュウリパイプセット1時間、お茶の区分1時間 累計時間:2時間
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5月の自給畑

2009-05-02 05:55:13 | 自給
5月の畑はとても美しい。みどりの風が吹き抜けてゆく。一番楽しい季節だ。あれもやろうこれもやろうで、ドンドンやることが増えてゆく。4月にやるべき農作業が遅れていても、5月にやる気に成れば大体の事は間にあう。熱心な人は、分かりやすい耕作日誌をつけて、来年に備えているので、こういうとき少しも困らないのだろう。私のような場当たり的な人間は記録と言う事が出来ない。そこでたいていの作業をブログで記録して、5年もすれば、おおよその事がわかるという作戦である。出来れば頭の中に、全ての作業が浮かんでくるようになりたいのだ。今の畑は、麦が穂を徐々に黄色くなり始めている。1月に、実験的にばら撒きした種は、今になってやっと穂が出始めている。しかし、案外に茂っていて、ばら撒きの方法も可能性も感じる。筋蒔きにしたほうも、最近とても状態がいいようで、見に来た人が感心してくれるようになった。少し前までは、ナンダこの栄養不足の貧弱は、雑草カイ。こう言われていたので、様変わりでいい状態になった。こう成ると、倒伏が心配である。問題は、案山子を立てる時を探ること。

トオモロコシは蒔き時が実に難しい。最初のものは失敗。思いのほかの低温にあたった。二度目に蒔いたものはいま生育を早めている。少し遅くなったので、このまま行くと暑くなっての収穫と言う事で、虫にやられそうな点が心配である。その他、キュウリの苗、カボチャの苗を思い切って植えようと思っている。キュウリは塩漬けを沢山作るつもりだ。夏場にドンドン塩漬けして、冬に備える予定だ。そこでキュウリ棚を11メートル作る。材料は準備したので今日にも作る。ここでキュウリは思い切って作るが、棚には、インゲンやトマトも一部共存させるつもりだ。カボチャも一年保存して置くつもりだ。じつは、昨年のものがまだある。カボチャは養鶏場に作ると、毎年上手く行く。これは連休明けぐらいに植え付けを予定している。それなりに植え付けの秘策がある。草の中に埋もれるように植えてやる。もう良しと言う時に、周りを刈るつもりだ。後は、ピーマンやオクラやナス。しょうがも自給用に少々。

トマトは今年も主力だ。苗の方は、そこそこの出来である。後は直播。そして自家採種苗。それと去年の木の刺し芽。いずれも中玉でやる。味も悪くないし、ともかく丈夫。去年のものが今も生きている。昔は中玉だと、大玉が良く出来ないので中玉だろうと思われるのが困るので、大玉を作っていた。最近は事実は事実として認める覚悟が出来たので、中玉で行く。去年畑に作ったものが、茂りばかりで、実成りが悪かった。木が出来すぎが良くないというのがわかった。理由は作りすぎで管理が不充分。今年はもう少し数を減らして、管理の方に力を入れる。斜面植えも試す。今の時期収穫はサヤエンドウ、大根、コカブ、ニラ、ウド、キャベツ、菜花。食べる物に困るようなことはない。保存の里芋、ジャガイモ、カボチャも食べられる。

それにしても頭の中はいつも、稲の苗の事にある。このことが気に成って、他の事はどうでも良いような変な気分である。別に何かやることがあるわけでもない。そうだ水を見に行ってきて、又書き継ぐ。なかなか苗は良い。天候も良いし、悪い要因はない。舟原は発芽ぞろいも悪くない。水を辛くする方針だが、今も心配で水を入れてきてある。つい甘くなる。奥のほうが乾く。手前は水没。代かきのときのトラックターの回転が良くない。来年は間の通路をもう一つ減らす。ゆっくり回れるようにして、土をこねない。稲は他の作物とは違う。とても重いものだ。何故だか知らないが、一つの作物とはいかない。格別のもの。これが日本人だからか。トマトをいくら力を入れても、稲とは別物。稲は奥が深い。この先の流れをイメージトレーニングを繰り返しているようなものになる。他の事が、留守に成ってしまう。
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