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自給農は希望

2024-03-26 04:28:43 | 自給


 日本の農業の現状は、まさに老齢化である。農業者の半分が70歳以上になっている。産業としてはもはや消え去ろうとしている。政府は食糧自給率の向上を、国の安全保障政策だとしながらも、もう何十年も改善されないままである。農業に健全な未来は無い。

 農業が衰退する原因が、政府の推進する大規模経営や企業農業の優遇なのだから皮肉なことだ。農地が大規模経営企業に集約されて、より合理化された農業に変ることは間違いが無いが。そこには政府は莫大な補助金を投入されている。食糧自給率の向上という名目があるから、ある意味正当性がある。

 その結果、大規模経営の農業企業が補助金で競争力を高めていることになる。国際競争力の背景が補助金という現実。補助金を目的に作付けしている農作物はかなりある。大豆や小麦やサトウキビなどが、私もいくらか関わる事例になる。

 こうした補助金農政の結果、補助金を貰えない普通の農家であれば、その作物を作れなくなっている。これが農業衰退の皮肉な現実になっている。大企業農業と行っても、まだ半分に満たないわけだから、普通の農家が追い込まれながら、食糧自給率をになっている現実がある。

 補助金の無い小さい農業が競争力を失うことで、農地の集約化が図られていることになっている。小さい農家を淘汰しながら、農業全体は縮小化している。それが、政府が農家への直接払いをしない理由である。本音では小さい農家はなくなれば良いという方針が透かして見える。

 大規模化農業が可能な農地は日本の農地のせいぜい半分程度だろう。政府は2030年には農業者数は半減するとみている。それはそうだ。70歳超えた半分の農業者はやりたくても農業を出来なくなるだろう。もちろん80歳の現役農家も多いから、例外はある。

 2030年には農家数が半減した分、農業企業が農地の65%を占めると予測して居る。この予測は当たるだろう。農地自体の放棄が進み農地が減るからだ。農地自体が今より、2,3割減少して、企業が使える今は半分である農地が65%に成るという意味だろう。

 企業が使えない農地は放棄がさらに進む事も間違いが無い。日本の中山間地の農地は、条件不利な農地で、企業が経営として行うことは無いと考えた方が良い。企業的農業であれば、日本の農地よりも、海外の農地で、海外の労働力を使い経営した方が利益が出ると言うことになる。

 ただし、大規模農家で無ければ、十分に農産物が生産できる優良農地が、大規模化出来ないという理由で、競争力を失い、放棄されて行く。この優良農地を誰でも希望者が利用できるという時代が近づいている。農業が好きなものには、恵まれた時代が近づいている。

 日本国内で運営される企業農業はあくまで限定的と考えておいた方が良いはずだ。海外生産の日本企業の農産物は、やはり輸入品であろうから、食糧自給率が高まるとは言えない。それでも国内での企業農業は、政府の補助金で運営されているはずだ。

 農産物は企業が生産するものと、輸入するものとに二分されることだろう。輸入の中に日本企業の生産品も多くなることが予測される。お金があり、輸入できる間はまだ良いが、なかなか思うようには行かなくなるだろう。中国に輸入されてしまい、輸入できなくなるなどと言うことがなければ良いが。

 条件不利地域の農地はどうなるだろうか。自給農業を目指すものが利用することになると考えて良いだろう。日本は階層化社会が進む。低階層に位置づけられ、自給的に生きる人達が一定数現われることだろう。江戸時代の農民のような位置づけ。

 どの程度数が増えるかは分からないが、少なくとも自給的に暮らせる農地が放置されているのだから、生活が苦しい人の中には、そこで自給的に暮らそうという人が出てくるはずだ。放棄される家も人口減少の時代だから、いくらでも出てくるはずだ。

 人間の暮らしがそこまで、戻らざる得ない時代が必ず来る。しかし、その時代は人間らしい暮らしに戻れると言うことなのかもしれない。悪くだけ未来を想像する必要は無い。人口が6,7千万人まで減少すれば、食料は何とかなる。日本列島という豊かな国土がある。

 自給農業の暮らしは、競争などしないで自分が生きて行く方法がある。シャベル1本で神奈川県の山北の山中で、私に実現できた。自給農業の技術は確立した。みんなでやる自給農業であれば、一日1時間食料のために働けば、食糧自給は出来る。

 今石垣島で亜熱帯での自給農業技術を模索している。今回は時間が無いので、機械力総動員でやっている。3年目に入り、かなり先行きが見えてきた。亜熱帯の農地で、豊かな土壌を作り出す技術だ。循環して行く農地の利用法が見えてきている。

 「アカウクサ農法」と「ひこばえ農法」である。まだ農業技術としては完成はしていないが、方角はつかめた。後は実証実験農業を数年繰り返せば、たどり着けるはずだ。もう石垣島での一日1時間の自給農業の確立は、かなり現実的なものになってきた。

 自給農業ほど楽しいものはない。100坪の自給である。2セの田んぼであれば、手取り除草だってそれ程大変なことではない。完全に雑草を取り尽くしていれば、草はたいして増えないものだ。誰でも出来る、楽しい自給農業。みんなでやる共同自給。作りたい人が作り、必要な人が食べる世界。

 人間は自分のためだけよりも、人の為も加えた方が力が出てきて頑張れるものだ。日本の経済が停滞し、時代は混乱するとしても、一人一人が人間として自己を探求するの生き方を見付けられる場は作れるはずだ。そのためには一人でやる自給ではだめだ。一人で出来たらみんなでやる自給に進むこと。

 自給は一人でもやり抜くものだ。その覚悟の上で、みんなでやらなければ成らないものだと考えている。自給農業は一人よりみんなでやれば、助け合うことで、人間を磨くことになる。人間らしく成長しながら、生きる事になる。一緒に働くと言うことはそういうことだと思う。

 日本の農家は一人になってしまったことで、弱いものになったのだ。江戸時代の農家は一人では無かった。名主を中心に部落単位での協働で成り立っていた。助け合わなければ、生き抜けなかった時代だからこそ、江戸時代の自給生活は洗練されたものになった。

 知恵のあるものは知恵を出し。力のあるものは力を出し。弱いものは助けて貰い。ぎりぎりの暮らしを支え合った。確かに実運制度の厳しい社会ではあったが、あの自給世界で差過酷をしていた日本は成立していた。日本人は日本列島にで生活をしていた。


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