徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「瀬戸」のはなし。(2)

2024-03-09 22:58:01 | 熊本
 昨日、大浜町の母の生家近くの通りを車窓から眺めながら、「そういえば、この通りも“瀬戸”と呼んでいたっけ」とふと思い出した。着いてから甥との会話の中で確かめると、「昔から瀬戸町と呼ばれている」と言う。
 「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあり、昨年10月には、わが家の近くの「瀬戸坂」の由来についてブログ記事にした。
 そもそも「瀬戸」とは何ぞやという話を繰り返すと
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
と辞書には説明されている。
 ということは大浜町は菊池川左岸の町だから、その辺りで菊池川の川幅が狭まっていたのだろう。現在の地図を見ると確かにわずかに狭まっているように見える。もともと大浜というのは菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つで、加藤清正の時代に始まり細川氏の時代にも受け継がれた干拓事業が、現在のような菊池川を形づくった。(下図参照)干拓を進める上で大浜の辺りで川幅が狭くならざるを得ない地形的な事情があったのかもしれない。
 大浜町は江戸時代から明治初期の頃まで菊池川流域で獲れた「高瀬米」の積出し港として栄えた。江戸前期までは高瀬まで上っていた五百石船も、菊池川の堆積などのため上れなくなり、江戸中期以降になると御倉の米を3キロ下流の大浜まで平田船で運び、大浜で五百石船に積み替えて大坂の堂島を目指したそうである。大浜には今でも往時の廻船問屋の名残りが残っている。下の民謡「肥後の俵積出し唄」に歌われている沖の帆前船に積む光景も、後期にはもっぱら大浜で見られる光景だったのである。

大浜町瀬戸の通り


「高瀬米」の積出し港として栄えていた大浜(大浜外嶋宮住吉神社奉納絵馬)


菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つに過ぎなかった大浜

「高瀬米」の積出し風景を唄った「肥後の俵積出し唄」