呉座勇一『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか』(新潮選書)を読む。
蒙古襲来から応仁の乱に至る日本の中世史を
「階級闘争史観」を意図的に離れて解説した本です。
「あとがき」で著者は
だから読者の皆さんには、「階級闘争史観」が染みついている通説を疑うと同時に、
通説に批判的な本書の主張をも疑ってほしい。(335頁)
と述べています。
「『戦後レジームからの脱却』をめざして」「『幕府を、取り戻す』」など、
時事的なフレーズを使いながら室町時代の説明をするのですが、
もしこのような物言いに違和感を覚えるとすれば、
同じような違和感が「階級闘争史観」にもあるのだという
著者の仕掛けなのでしょう。
評論家が学者の研究をネタに社会批評を行うならともかく、
学者が研究論文や学術書の中で社会批評を行うことへの違和感が。
「階級闘争史観」が、ストーリーとして筋道を立てて出来事を説明するように、
「倍返し」「今でしょ」などの陳腐ともいうべき流行語を駆使する呉座氏の説明も、
「わかりやすさ」を追求した説明としては面白く読むことができます。
呉座氏の意図としては、あえて「ツッコミどころ」を仕込んでおくことで、
「自分で考える力」を身に着けるきっかけにしてほしい、ということでしょう。
この本の記述を額面通りに受け取って、
日本中世史をネタに安倍内閣や世相を批判している本だ、と解釈すると、
著者のメッセージが伝わっていないことになります。
さて、この本の中で私が注目したのは「戦後レジーム」という言葉。
南北朝の内乱を一応安定させた足利義満は、
在京守護の領国である近畿・中国・四国・中部地方
(本郷和人教授のいう「日本A」)では
将軍=室町殿と在京守護との協調で支配し、
東北、関東、九州などの「遠国」(「日本B」)では、
在地勢力の半独立性を尊重しました。
これが義満の「戦後レジーム」です。
将軍家の一族である鎌倉公方との「東西冷戦」を前提に、
将軍と在京守護が緊張をはらみつつ協調するのが「室町の平和」でした。
それが崩れるのは、足利義教の時代。
義満の時代を生きた長老・畠山満家の死後、
歯止めを失った義教は、鎌倉公方と関東管領の対立をきっかけに、
関東遠征を行い、鎌倉公方足利持氏を自害に追い込んで、鎌倉府は滅亡しました。
また、大和の後南朝勢力を滅ぼした義教は、
さらなる将軍権力の強化を目指しましたが、嘉吉の変で暗殺されてしまいました。
義教の子供が将軍になりますが、各守護家の家督争いを裁断できず、
家督候補者が二派に分かれて対立することが一般化しました。
将軍・義政は幕府の威信を回復せんと地域紛争に介入しますが、
義教時代からの度重なる動員で疲弊した京都在住の武士たちは、
京都から離れて、幕府は空洞化します。
そして、畠山氏の家督争いから細川・山名の対立が武力衝突となり、
応仁の乱へと続きます。
応仁の乱後、守護たちは京都を離れて分国の支配に専念。
また、守護の有力家臣が分国を支配する下剋上の時代、
戦国時代が始まります。
この本をきっかけに、自分なりの室町時代の認識ができました。
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