社民党 京都府連合 野崎靖仁 副主席語録
社会民主党 中央規律委員 野崎靖仁、55歳。
日々の思いを綴ります。
 



秦の始皇帝の死後、天下は乱れました。

項羽と劉邦が覇を争った時代に登場した人物に、彭越がいます。

秦王朝の末期、各地で反乱が起きたときに、
盗賊だった彭越を百人余りの若者が訪れ、首領となるよう求めました。
彭越は、彼らに翌朝集まるように命じ、遅刻した一人を切り捨てました。
これで部下たちは、彭越の命令に服従するようになります。

挙兵した彭越は、各地を攻略しながら千人の兵を集めます。
また、反乱軍の敗残兵を配下に組み込み、一万の軍を率いて自立しました。

秦を滅ぼして覇権を握った項羽に対する反乱が起き、
彭越は反乱軍の一員として、項羽の部下の軍を破りました。

やがて三万の兵を率いる将軍となった彭越は、劉邦の命を受け、
魏の王族であった魏豹の宰相となり、
魏の土地を自由に攻略することを許されました。

彭越は項羽の楚軍に対するゲリラ活動を展開し、
梁(魏の別名)の地で楚軍の兵糧を運ぶ補給路を脅かします。

補給を絶たれた項羽は劉邦に敗れ、漢が中国を統一しました。
彭越は功臣として梁王に封ぜられ、一国の主となります。

しかし、彭越は謀反の疑いをかけられ、処刑されました。

反乱軍でのゲリラ戦では敵の補給路を叩き、功績のあった彭越も、
平時においては無能としか言いようのない振る舞いに徹し、
謀反の罪で粛清されてしまいました。

彭越の生年が不明のため、老人だったのかはわかりません。
遊撃戦を得意としていたことから、壮年の可能性もあります。

何の根拠もありませんが、彭越は「老パルチザン」だと考えています。

漁師であり盗賊でもあったことから、
海賊船の船長や「アリババと40人の盗賊」のように、
恰幅のいいヒゲ面のオヤジをイメージしています。

哀れな末路からも、「老残」という言葉が連想されます。
単に「燃え尽き症候群」なのかもしれませんけど。

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