秦の始皇帝の死後、天下は乱れました。
項羽と劉邦が覇を争った時代に登場した人物に、彭越がいます。
秦王朝の末期、各地で反乱が起きたときに、
盗賊だった彭越を百人余りの若者が訪れ、首領となるよう求めました。
彭越は、彼らに翌朝集まるように命じ、遅刻した一人を切り捨てました。
これで部下たちは、彭越の命令に服従するようになります。
挙兵した彭越は、各地を攻略しながら千人の兵を集めます。
また、反乱軍の敗残兵を配下に組み込み、一万の軍を率いて自立しました。
秦を滅ぼして覇権を握った項羽に対する反乱が起き、
彭越は反乱軍の一員として、項羽の部下の軍を破りました。
やがて三万の兵を率いる将軍となった彭越は、劉邦の命を受け、
魏の王族であった魏豹の宰相となり、
魏の土地を自由に攻略することを許されました。
彭越は項羽の楚軍に対するゲリラ活動を展開し、
梁(魏の別名)の地で楚軍の兵糧を運ぶ補給路を脅かします。
補給を絶たれた項羽は劉邦に敗れ、漢が中国を統一しました。
彭越は功臣として梁王に封ぜられ、一国の主となります。
しかし、彭越は謀反の疑いをかけられ、処刑されました。
反乱軍でのゲリラ戦では敵の補給路を叩き、功績のあった彭越も、
平時においては無能としか言いようのない振る舞いに徹し、
謀反の罪で粛清されてしまいました。
彭越の生年が不明のため、老人だったのかはわかりません。
遊撃戦を得意としていたことから、壮年の可能性もあります。
何の根拠もありませんが、彭越は「老パルチザン」だと考えています。
漁師であり盗賊でもあったことから、
海賊船の船長や「アリババと40人の盗賊」のように、
恰幅のいいヒゲ面のオヤジをイメージしています。
哀れな末路からも、「老残」という言葉が連想されます。
単に「燃え尽き症候群」なのかもしれませんけど。
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