読書な日々

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「遍歴騎士」

2006年11月10日 | 日々の雑感
ジャン=フィリップ・ラモー『遍歴騎士』

11月8日に東急Bunkamuraのオーチャードホールにラモーのオペラ『遍歴騎士』を観にいった。予想にたがわないできだった。が、その予想というのは、けっして素晴らしい出来だろうという予想ではない。

この20年くらいのあいだにフランスのバロック・オペラもたくさん上演されるようになり、リュリやラモーやシャルパンティエなどの有名な作品はあらかた上演されてしまい、今回のような初演当時のパリでさえもそれほど当たらなかった作品までが「発掘」されるようになったのだから、いかにバロック・オペラがブームのような勢いにあるのかが分かると思う。

そしてこの夜も――日本公演の最終日であったとはいえ――満席とはいかないが、そうとうの賑わいだった。いかにウィリアム・クリスティーが有名とはいえ、フランスのラモーなどというあまり知られていない――もちろん日本での話だが――作曲家の名もなき作品に、いったいどういうわけでこんなに観客が集まるのだろうか?案の定、公演後のエレベータの中で、「あんなんでいいの?」とか「わけわからないわね」とか「よくやるわね」などという声が聞こえた。その理由はあとで分かるでしょう。

このオペラは歌劇などというよりもダンスのためのオペラといった方がいいくらいに、ダンスのための曲がたくさんはさまれているし、歌手が歌っているあいだも、その影――内面をうつしだす影――のように踊らせている。そしてそれがバロックダンスではなく、コンテンポラリーダンスやラップダンスやヒップホップのダンスなのだから、恐れ入る。おまけにバックのスクリーンは三段の床が作られ、そこでも踊っているし、スクリーンには動物たちや地下鉄や宮殿の庭園などがうつしだされ、ダンサーとのハーモニーを作り出す仕掛けになっている。

それにしてもアメリカなんかではどうか知らないが、フランスではラップダンスのようなストリート系のダンスでさえも国立振付センターで取り上げられ、そこのディレクターが今回のダンスの振り付けを担当して、こうしたラップダンサーたちに踊らせている。もともとストリート系のダンスは、自分たちのもって生まれた身体以外にはなのも持たない黒人たちが、そのもって生まれたたぐい稀な身体能力にさらに磨きをかけて、既成のダンスの概念にとらわれないダンスを生み出していったものであり、まさに国家とか芸術とかという既成の枠組みや権力に対する対抗意識の権化のようなものだとおもうが、これらを国立の振付センターのなかに取り込み、オペラのダンスとして採用するというような、こういう芸術分野でのフランス人の懐の深さは感心する。そして彼らダンサーたちの身体能力の高さにも感服した。第三幕の妖精マントが悪魔たちを呼び出した場面で、仕掛け人形のような動きをするダンスは一番の見ものだったのではないだろうか。思わず拍手をしてしまった。

そしていうまでもなくクリスティー率いるレザール・フロリサンのオーケストラ。これを生で聴くのは初めてだが、これも素晴らしい出来だった。

結局、なにが問題なのか。作品そのものだ。このオペラは、スケベじじい(アンセルム)が後見人と称して若い娘アルジを囲い、いずれは自分の女にしてやろうと企んでいるところへ、かつてからアルジと愛し合っていた遍歴騎士のアティスがやってきて横取りしようとするので、スケベじじいが手下のオルカンを使ってアティスを追い返そうとするのを、妖精マントが協力して、このスケベじじいを懲らしめてしまうという話で、それ自体は面白そうな主題だから、モーツァルトあたりだったら『フィガロ』のようにきびきびしたじつに魅力的で面白いオペラにしただろうに、このオペラの場合には、詩人も才能がなかったのか、詩もつまらないし、それに輪をかけてラモーの音楽がつまらない。はやい話が、原作そのものがまったくつまらないのだから、それにどんな演出をしようとも面白いものになるわけがないのだ。そもそもこんなオペラを仰々しく取り上げる意味が私にはわからない。どうせ金をかけてやるのなら、ラモーの『イポリトとアリシ』をやってほしい。

このオペラの場合、ダンスの比重が大きいので、演出=ダンスの振付ということになるのだろうが、この演出はまったくもって意味がわからない。もちろんダンサーたちの身体能力の素晴らしさは上にも書いたのでこれは別としても、なんのためにあんな踊りをこのオペラでさせなければならないのか、私にはさっぱり分からなかった。スクリーン上にはときどき素っ裸の男女がうつしだされたりしていたのだが、まさか本当に舞台に素っ裸の男女を登場させるとは思ってもいなかった。男のアレなんか丸見えである。芸術だからってあんなことをさせていいのか、と思わず目が点になった。どういう必然性があって素っ裸の男女を登場させるのか、私にはさっぱり理解できない。

帰りのエレベータの中での女性の「あんなんでいいの?」とか「わけわからないわね」とか「よくやるわね」という感想が聞かれたと最初に書いたが、当然だろう。作品そのものがあまりのつまらないし、演出のやることがないから、裸の男女――もちろんその美しさに私は見とれてしまいましたが――でもだして、つまらなさから観客の気をそらすためとしか思えませんでしたね。

私は、最近、バロック時代のオペラ――もちろんモーツァルト以降は別ですよ――を上演して現代の観客を感動させることは不可能なのかもしれないと思い始めている。リュリの時代には国王お抱えで、それこそものすごい金をかけて仕掛けを作らせたり衣装を作らせたりしていたわけで、それに匹敵することをしたら、採算ベースに合わなくなるだろうし、だからといって現代的な演出をしても、その歌詞の内容とマッチしなくてちぐはぐな感じがするだろうし、そもそも現代の観客の意識がまったく当時とは違うから、同じ事をしてもべつに驚きもしないし、それこそ「驚異」を感じることもない。いっそCDで音楽だけ聴きながら、自分なりに舞台を勝手にイメージするほうがよほどいいのかもしれないと思う。残念だが、現在の演出の状況はそんなところなのかもしれない。

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