読書な日々

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『ドレミを選んだ日本人』

2016年02月19日 | 人文科学系
千葉優子『ドレミを選んだ日本人』(音楽之友社、2007年)

明治時代になってやって来た西洋文化を日本人がどんな風に消化吸収していったのか、とくに音楽に特化して研究した本である。

今となっては西洋音楽の和声体系が人間に普遍的なもので、歴史的にも文化人類学的にも共通のものだと思っている人が多いかもしれないが、近代西洋音楽は、まさに近代の西洋において作られた特殊な音楽体系であって、決して歴史的文化的に普遍的なものではない。

このことは当の近代西洋においてさえ、自分たちの音楽が古代ギリシャの音楽の体系と違うとか、大航海時代を経て知られるようになっていた世界各地の音楽のそれとも違うということが盛んに議論されていた。もちろんそこには西洋中心主義的な世界観が圧倒的で、古代ギリシャにしても、西洋以外にしても、未発達の遅れた音楽体系という認識だったにしても、そうなのである。

実際どれだけ違うのか、この本の冒頭あたり、とくに西洋音楽というものをまったく知らない日本人が、欧米に出掛けて行って、簡単な歌を歌うのにも苦労したとか、耳障りで聞くに堪えないなどという話を読むと、よく分かる。

かつて井上靖は小澤征爾との対談で、言葉はそれぞれの国固有のものだから、外国人は日本文学を鑑賞するは不可能だが、音楽は万国共通だから日本人でも外国で同じように活躍できると羨ましがったらしいが、それは日本が、この本で描かれているように、近代西洋の音楽体系を自分たちのものとして取り入れた結果であって、決して音楽が万国共通のものだからではない。

ましてや音楽についての感性などという、これも万国共通であり、時代を超えて共通だと思われているものでさえも、時代の制約を受けている。その例が、ここでも触れられている宮城道雄の『春の海』である。初演された大正時代には、革新的で、西洋的な(まさにフランス人ヴァイオリニストのルネ・シェネーと共演できたくらいに西洋的だった)曲であったが、今では最も日本的な曲として、ずーと昔からあった曲のように思っている人が多いだろう。

このようにそれぞれの国に固有の音楽体系が消滅して近代西洋の音楽体系だけが世界を席巻していくことが果たしていいことなのかどうか、私には断言はできない。いや、まだ雅楽を専門にする人や、三味線、箏を弾く人たちはたくさんいると言われるかもしれないが、彼らの音的感性は完全に平均律になっているのだ。もはや江戸時代、それ以上前の雅楽とはまったく違ったものになっているはずだ。

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