※↑図解はhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=208269より
ダウ平均が、2日連続で最高値を更新したとのことで新聞は経済の現状についてこぞって分析記事などを出している。
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150226-00000017-jijnb_st-nb
最近はBRICSは不振で、もっぱらアメリカの経済の先行き感が…みたいな話のようだが、好調になる理由などどこにも存在していない。
今回も新たなバブルが起こっているだけ、と考えるのが妥当であろう。
このエントリー↓でも分析したが、問題はもっともっと根が深いと見るべきである。
「国家(中央銀行)が水増ししたカネで復活した投機家たち」の幻想に翻弄される世界経済
各国の中央銀行がジャカジャカ紙幣を刷ってとりあえず穴埋めしただけで、その水増しした資金は再び金融界に舞い戻り、さらに大規模なバブルが起こっている。にも関わらず、大衆は失業にあえぎ、消費は増えず、デフレは進行している。金持ちが投機先に困っている一方で、一般大衆の生活は一向に良くなる気配を見せていない。
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のどもと過ぎれば熱さを忘れ…よろしく好調に浮かれているようだが、つい数年前に世界はリーマンショックで深刻な危機に見舞われていたのを忘れたのか。
そもそも、なんであれほど大規模な経済危機が起こったのか?
アメリカを中心とした大掛かりな世界的バブルがはじけたからである。
ではなぜ世界的なバブルが起こったのか?
実は、この問いに答えて、現状の経済システム自体を改変していかなくては、バカの一つ覚えよろしく、世界は再びさらに大きなバブルとその崩壊に飲み込まれるだけである。
なのに、政府は「アベノミクス」などと称して金融緩和の話。これでは、余計にあらたなバブルを生み出すだけであるということが、なんでわからないんだろうか。アベノミクスなどと称揚しているのはバカそのものである、と断言しておきたい。
というのは置いておいて、もう一歩突っ込んで分析してみたい。
高度経済成長がほぼ終わった'70年以降、飢えるほどの貧困は日本ではほぼ消滅した。
それまでの主要な活力源は、大雑把に言えば「貧困や飢えから逃れたい」というエネルギーだったと考えられる。
日々飢えている状態、もしくは飢えるかもしれない…と心配している状態では、今日・明日食べていく手段を何とか獲得しなくてはならない。そのために、権力者の用意した活動(仕事)をして、お金を稼いで、それをすぐさま飯なり生活必需品の購入に使って自転車操業することによりかろうじて生きていける状態である。
貧乏人には選択の余地などなく、そうせざるを得ないのでそうしているのだが、ケツに火がついている状態なので、これが生み出す活力は強力なものだ。貧乏人が大多数を占め、その彼らには“「金」も「モノ」もまだ十分は行き渡っていない”という状態、さらに“金を手に入れれば即座にモノに代えて生活をしていかなくてはいけない”という状態が、いわば「つくれば売れる」という時代の前提にあった。
これについては、このエントリーに書いたので参照されたし。
「豊かになったのに労働時間が減らないのはなんで?」(生産をめぐる時代状況の変化についての論考)
さて、高度経済成長が終わった'70年以降、メシも含めて生活必需品が大多数の人々に行き渡るようになり、潜在的には「つくれば売れる」時代は終焉した。
'70年代から'80年代前半は、潜在的な物的欠乏は衰弱していたのだが、それでも「貧困や飢えへの不安」が惰性で続いたというのと「相対優位の欠乏(ライバルより豊かになりたい、もっともっと豊かになりたい)」をメディアによって無理矢理喚起され続けていたために、大衆にはまだ「欲しいもの」がたくさんあった(そんな気にさせられていた)。だからまだ、設備投資をして新しいものを作れば、それなりに失敗する確率が少なく成長でき、金もうけができたわけだ。
ところが、'80年代になり、「つくれば売れる」時代の終焉がいよいよ表面化してきた。要するに、買わなくても「間に合っている」という気分…、そして「そんなにまでして必死で働いて金儲けしなくてもええやんか…もうしんどいわ」という時代の気分が、多くの大衆に浸透したのだ。
「金」というのは、ふつうは、ただ持っているだけでは物価の上昇と共に目減りしていく。
金をたくさん持っている人間は、それを「いずれ必要になるときまで、うまく運用して増やしておこう」と考えるものだ。
'80年代後半になると、次のような理由で、それまで「投資」によって甘い汁を吸っていた人にとっては、困った状況が生じてくることになる。
その一つは、「“金儲けしてやろう”という野心を持っている、金を借りてくれる貧乏人」の減少である。
投資する側の人間にとって、「豊富な金儲けのアイディアと、金儲けの野心・活力の二つを備えた人間」、そして、そういう野心家に素直に付き従っている「メシを食うために必死で働く労働者」というもののセットは、「投資」して儲けるための絶好のネタである。
しんどい仕事は他人にやらせて、「野心家」が「雇われ人」を遣った組織(=企業)が儲けを出した暁には、利子や配当を付けてがっぽり返してもらう。「金儲けしたい野心家」と「雇われ人(実質的には奴隷)」は、そのためのいいカモというわけだ。投資家は、「投資」という行為さえしていれば、自分は昼寝をしていてもらくらく金が儲かるわけである(投資先さえ誤らなければであるが…)。貧乏人にはせいぜい「おいらももしかしたらお金持ちになれるかも?」って夢を見ながら必死で働いてもらって、その上前を撥ねて生きていこう。こう考えている人間のモラルが無くなっていくのは至極当然のような気がする。
時代が豊かになってきて、「必死で金儲けのためのアイディア出す起業家」と「必死で働く労働者」、つまり金儲けで眼をギラギラさせている人の数が減少すれば、金持ちは「金を貸しているだけで昼寝していても金儲けできる“ネタ”」というのを失って、困ったことになる。
それに加えて、消費者の視点から見て「モノはもう間に合っている」という気分の人が増え、モノが売れなくなってきて、「設備投資をしても必ずしも金が儲かるとは限らない」という状況も生じてくる。そして、設備投資ができる余裕のある企業でさえ、設備投資に金をまわすのを控え、「余剰資金をどう運用しようかなぁ・・・」などと考えるような状況になってくる。
さらに、一般大衆における富裕層の増大も、この困った状況を後押しする。これら数が増えた一般の富裕層も、わざわざ自ら仕事をやって金を儲けるより、いやな仕事をやってくれる「活力のある貧乏人」に投資して自分は昼寝して金儲けできないもんだろうか、それが無理ならより儲かる可能性がある投資先はないのだろうか、と考え始めたのだ。FX投資やデイトレーダーをもてはやす風潮がそれを煽った。
バブルの前兆に「金あまり」という状態がある。
その「金あまり」とは、より儲かる投資先を求めて「楽して金儲けしたいと考える、増加した富裕層の資金」がダブついた状況、と捉えられる。
日本だけでなく、先進国全体のこのようなダブついた資金が、わけのわからない「金融商品」というあらたな投資先を得て、一挙に暴走し自滅したのが数年前の世界バブルの崩壊(リーマンショック)である。
「大量の貧乏人」というフロンティアを失った市場は、バブル化するしか道は無い。現在、大量の貧乏人を抱えていたBRICsがそこから抜け出し始めた。さらなる「大量の貧乏人」を求めて、一斉にアフリカを目指している。しかし、世界人口の半分を占めるこれらの国々の投資意欲(搾取意欲)を満たすほどアフリカは大きくないし、それ以前にもう先進国(旧宗主国)からさんざん絞りつくされており、国家自体持たないだろう。
ダブついた資金は再び彷徨い、バブルを引き起こすしかない。
各国の中央銀行は、ジャブジャブとカネを供給する政策を止める機会をうかがっている(「出口戦略」と称して)。マネーをジャブジャブ供給すれば新たなバブルを生み出すことは、さすがの政策サイドの連中も分かっている。しかし人工呼吸器を外した途端、また世界経済が危機に瀕する可能性は高い。…が、かと言って外さないわけにもいかない…というジレンマに世界経済は直面している。
このような経済システムは既に限界なのは明らかである。このシステム自体を問題視し改変する方向に頭を使わない限り、さらなる巨大バブルよって世界が再び大混乱に陥るのは火を見るよりも明らかである。
そうなる前に、新たな社会・経済の在りかた=新たな経済モデルを議論しておかなくてはエラいことになる。そのようなまともな議論が興ってくることを切望する。