にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

『傲慢な援助』

2014年12月23日 | 雅無乱日記

この本は読んでおくべきかもしれない。

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【書籍名】 傲慢な援助
【販売価格】 3,570(税込)
【商品番号】 bk091016c
【備考】 ウィリアム・イースタリー著
     小浜裕久ほか訳
     出版 : 東洋経済新報社
     サイズ : 22cm / 449,23p
     ISBN : 978-4-492-44360-6
     発行年月 : 2009.9

<紹介文>
世界では今、30億人もの人々が1日2ドル以下で生活し、8億4000万人が日々の食べ物にも事欠いている。このような貧しい国の現実を知ると、先進国は援助を行わずにはいられない。

 しかし、莫大な援助があるにもかかわらず、貧困がなくならないのはなぜなのか。著者はまず、これまで経済成長に成功してきた国は、さほど援助を受け入れなかった国であることを、さまざまなデータから分析する。自助努力が不可欠な市場経済の発展のために、先進国は何ができるのか。これまでとは異なる援助の方法を模索する開発経済学書。
 
●著者紹介
〈ウィリアム・イースタリー〉1957年ウェスト・バージニア州生まれ。MITで経済学博士号取得。世界銀行調査局シニアアドバイザーを経て、ニューヨーク大学経済学部教授。著書に「エコノミスト南の貧困と闘う」がある。

国連・世界銀行が主導して行なってきた途上国への援助は、実は先進国のグローバル企業にカネを還流させ、それらグローバル企業が途上国で自由に収奪を続けられるようにインフラ・制度整備をするのが真の目的である。

世界銀行の「エセ環境保護」戦略と途上国破壊・収奪の全貌…

世銀・IMFは「援助」のためなどではなく、途上国から徹底して収奪し尽くすために存在する

「途上国を何とかしたい」という人々の善意を捻じ曲げ、己の利益に結びつける欺瞞は許しがたい。これは、マスコミではほとんど発信されない事だが、この欺瞞を暴いていかない限り、いくら人々が善意を持って活動しようとも途上国はどこまでいっても収奪され続けることになる。

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今回の選挙結果を見て、「民主主義」の恐ろしさをあらためて感じた。

2014年12月15日 | 雅無乱日記

某Y紙やテレビの予測通りの結果になった今回の選挙を見て、「民主主義」というものはほとほと恐ろしいものだとあらためて思った。

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 アメリカ発の民主主義の真実! “とまどえる群れ”と “合意のでっちあげ”より

・実際、リップマンはそうした組織的宣伝を進める委員会にもかかわっており、その効果を十分に認識していた。 「民主主義の革命的技法」を使えば「合意のでっちあげ」ができる、と彼は主張した。すなわち新しい宣伝技術を駆使すれば、人々が本来望んでいなかったことについても、同意を取り付けられるということだ。

・民主主義社会には2つの市民階級が存在する。

・第一の市民階級は、専門知識を持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。これらの人々は人口のごく一部でしかない。

・この特別階級から漏れた人々、すなわち人口の大部分を、リップマンは「とまどえる群れ」と称した。

・さて、これで民主主義社会には2つの「機能」があることになった。責任を持つ特別階級は、実行者としての機能を果たす。その一方のとまどえる群れも一機能を担っている。民主主義社会における彼らの役割は、リップマンの言葉を借りれば「観客」になることであって、行動に参加することではない。

・しかし彼らの役割をそれだけに限るわけにもいかない。何しろ、ここは民主主義社会なのだ。そこで時々彼らは、特別階級の誰かに支持を表明することが許される。これを選挙という。だが、いったん特別階級の誰かに支持を表明したら、あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。

・われわれ(特別階級)はとまどえる群れを飼いならさなければならない。とまどえる群れの激昂や横暴を許して、不都合なことを起こさせてはならない。これは3歳の幼児に一人で道路を渡らせないのとまったく同じ論理である。面倒を起こすに決まっているのだから。

・そこで、とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。

・どうしたら第一の階級につけるか?もちろんその方法は「真の」権力者に仕えることだ。

またリップマンの代表作と言われている『世論』(1922年)によれば、彼は、民主主義の基盤となる国民の世論が、マス・メディアの圧倒的な影響力の下にあることを指摘している。

上記引用中には3つの階級がでてくる。
1.「真の」権力者: 支配的な財閥
2.第一の市民階級(特別階級): 政治家、官僚やマスコミ、経営者
3.一般の人々(大衆)=とまどえる群れ

アメリカの民主主義の状況は、リップマンの理論・考え方がそのまま実現しているような観を呈している。財閥のための、特別階級(政治家、マスコミや経営者)の手による、大衆をコントロールするための民主主義、といえる。実際、ロックフェラーなどの財閥がCFRや各種シンクタンクなどの回転ドアを作って特別階級を作り、人材を政界、学会、マスコミ、経済界などや各分野に配分し、アメリカをコントロールしている。

このように見てくると、アメリカが宣教師のように“民主主義を世界に広める必要がある”といっている意味がよくわかる。要は彼らの支配体系(財閥→政治家・マスコミ→大衆)に組み込みやすいからなのだ。彼らは、20世紀の初頭にこの支配体系を開発し、それでアメリカをコントロールした。第2次大戦後、日本が民主化されたのも当然この体系に組み込むためだ。

(近年、日本においてもアメリカ→官邸→マスコミの指揮系統が完成したという。政治家や官僚・マスコミという特別階級を手足に使うことに手馴れた、アメリカの財閥勢力がいよいよ日本の直接支配に乗り出したということだろうが、その仕込みは戦後の占領期“日本の民主化”と称して行われていたのだ。) 

~今回の選挙結果を見ると、この支配機構に日本も完全に組み込まれているということが分かるなあ…

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集団のパフォーマンスを上げられる人材こそが「有能」

2014年12月05日 | 雅無乱日記

2010.04.17日経新聞の夕刊記事に、内田樹氏のインタビュー記事が載っていた。

 

 

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記事のタイトルは、『辺境人の勧め』


サブタイトルが“「雪かき」のような地味な仕事のモチベーションが高い組織は強い。”

「企業や組織でも『黙って俺についてこい』という強力で有能なリーダーが待望されています。そういう『宗主国』のようなリーダーが不可欠なのですが、集団のパフォーマンスを上げるためには、いろいろなタイプの人材を有機的に組み合わせないといけない。頭が切れてロジカル(論理的)な人ばかり集めると組織は破綻します。

  「総合力では劣っていても余人を持って代え難い得意技を持った人、身の程をわきまえて黙々と仕事に打ち込む  人、人を立て周囲を奮い立たせる人。組織のメインストリートではない終焉で『雪かき』のような地道な仕事をいとわない人たちがいる。そんなモチベーションの高い組織は強い。」

成果主義個人の能力と達成を評価するものです。しかし実際にはそんなものを取り出して計測するのは不可能なのです。個人的な能力は高い。だが、その人がいるせいで集団のパフォーマンスが下がるという人間は『仕事ができない』人間なのです。
「身の程を知る、分際をわきまえるという言い方は今や死に瀕している。これは集団の中において自分の果たすべき役割を認識することです」
「『身の程知らず』の人間は、自分を大きく見せようとするあまり、無意識に周りの人間の仕事を妨害し始めます。『能力のある人間』たちが相対的な競争では勝者になっても、集団そのものの力は次第に衰えてゆく。それが日本の現状なんです。」

実際に仕事をしていると、本当にそうだな、と思える事例がたくさん浮かんでくる。

仕事というのは1人(個人)でできるものではない。そもそも対象(客)の期待に応えなければ「仕事」したことにはならないし、その中でも多くの人たちとの役割分担がなくては仕事など成立しない。特に、貧困の消滅以降、集団(組織)で社会の期待に応えていくことが企業に求められる時代になってきている。

そんな時代に、相変わらず組織内部の個人同士を競わせるような評価システムを採っている企業は、日本ではことごとく活力を失っているのが現実だ。「成果主義」の給与システムを取り入れた日本企業がことごとく失敗して、その導入を見直す事態に陥っている。

逆に社員同士の結束を強め、社員の活力を上げることに成功した企業が、今、ぐんぐん伸びていっている。

確かに、社員同士の結束を強める上で、いくら能力があっても周りを無視して個人プレーばかりする人材は、邪魔にしかならない。

そういう人は、「オレは有能だ」と思っているのかも知れないが、実際には己は実は「無能なのだ」と自覚する必要があるのかもしれない。


共同体類グループの挑戦というブログにも、こんな表現があった。


「無能の自覚」「エリートは無能」など、「無能」という言葉に触れる機会が多い今日この頃です。

 なんとなく理解はできるのですが、「そうは言っても無能は言いすぎでは・・・」という感覚も少なからずありました。誰だって何かを遂行する能力はありますし、エリートなんかむしろ事務処理能力や世渡り能力に長けてます。

ただ、これは「できる、できない」の基準で有能と無能を区別していたから起こる勘違いでした。

今日社長が仰っていた無能と有能の違いとは、

『自分のことしか考えていないのが無能
みんなのことを考えて追求するのが有能』

確かに!!!

社会すなわち「みんな」の目線から見れば、例え何かを遂行する能力が高くても、それがみんなにとって役に立つものでなければ無能。むしろ、自我ばかり満たそうとするから周りにとっては有害。

改めて、みんなが有能だと認める存在がどういうものかよく分かりました。

 

まさに定義自体を塗り替えなくてはならない。

組織の中で身の程をわきまえ、無能の自覚とみんなへの感謝を持ちながら、地味な仕事でもがんばり続ける姿は、現実に周りを元気にし、組織を強くしてくれる。

「仕事というのは周りの活力を上げてナンボである」

今、企業には、旧い時代のいわゆる「有能な」人材や「宗主国」的なリーダーなどではなく、そんな周りの活力を上昇させる人材こそ求められているのではないだろうか。

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