まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

看護学校 「死の教育」 を終えて

2010-11-30 18:59:53 | 教育のエチカ
白河に続いて、本日をもって郡山の看護学校の授業も終了いたしました。
7回おつきあいいただき、ありがとうございました。
こちらでは1日1コマずつ全7コマで開講しましたので、
他の看護学校と比べて半分しか授業がありません。
よそでは1日2コマずつ全14コマやっていますが、内容はほぼ同じで、
自分で考えてワークシートに書いたり、グループで話し合ったりという作業を、
時間をかけてゆっくりやっています。
郡山ではそうした時間を十分に取れないために、
ちょっとかけ足になってしまい、授業についてこられない人もいたかもしれません。
今日なんかとうとうグループで話し合う時間はまったくなしで、
ほぼ私の話を一方的に聞かされるだけでしたから、
本当につらい受け身の授業になってしまったかもしれませんね。
そうしたハンディキャップの中で皆さんは本当によくがんばってくれたと思います。

帰りの電車の中で皆さんの 「振り返りシート」 を読ませていただきました。
他の看護学校では毎回A4の紙、裏表にぎっしり書いてもらっているのですが、
郡山ではA4の紙に表に4回分、裏に3回分 (+1の余白) の枠を設けて、
授業の最後にちょっとだけその日印象に残ったこと等を書いてもらっていたので、
書いてもらった量は少ないですが、7回分全部をまとめて見比べることができました。
すると、最初の頃はこの小さな枠がスカスカに余ってしまうくらい、
あまり自分の考えを文字にすることができなかった人たちも、
回数を重ねるにつれ少しずつ自分の考えを文章化できるようになっていったことが見て取れました。
最初からたくさん書いてくれていた人たちは、今日はもうとうとう、
あの小さな枠に収まりきれずに、+1の余白のところまでフルに活用して、
自分の思考の軌跡を書き留めてくれていました。
ほんの短い間ではありましたが、それぞれの成長が感じられてとてもうれしかったです。
受け身の授業になってつまらなかったんじゃないかと心配していましたが、
多くの人が、今まで考えたことのない死について考えるのが楽しかった、
という感想を書いてくれていました。
例えばこんな感じ。

「小野原先生の授業は、”死”という重いテーマの中でも、
 なぜかとても楽しく、前向きに勉強する事ができたと思います。」

これは私の授業に対する最大の賛辞で、有り難く頂戴いたします。
今日の授業で、現代では 「死の教育 Death Education」 が求められており、
実はこの 「倫理学」 の授業も私なりの 「死の教育」 であったということをお伝えしました。
いつもとは言わないまでも、たまーに死について考えてみることは人間にとって大切であり、
看護師にとってはそうやって自分なりの死生観を確立していくことが必要だと私は思っていますが、
あんまり暗く深刻になって、イヤ~な気分になってしまうようでは、
これから先も考え続けていこうとは思えないでしょう。
この問題には答えはないので、いつまでもずーっと考え続けていくことが大事なのですが、
そのためには、死について考えたりみんなと話し合ってみることはけっこう楽しいことだ、
と思ってもらえることが必要だと私は考えていました。
患者さんに 「死んだらどうなるんでしょう?」 と聞かれたらどう答えるかとか、
それぞれ国家に分かれてもらって各国の 「人の死の基準」 を決めてもらったりというのは、
難しい問題を楽しみながら考え話し合いつつ、
少しずつ死という深刻な問題に慣れていってもらうための作戦だったのです。
その結果として、「死について考えることで自分自身成長することができるのだ」 とか、
「人の死と向き合って行く仕事を選んだからこそ死について考え、
 自分の命を大切に生きたいと思います」 なんていうことまで考えてもらえたのは、
本当に教師冥利に尽きると思います。

「倫理学」 の授業はこれで終わりますが、結論は何ひとつ出ていません。
これからもさらに深く深く考え続けて、みんなといっぱい話し合ってください。
そして、哲学者のような看護師になって、
ひとりひとりの患者さんの身体と魂のケアをしてあげてください。
皆さんの病院に私が搬送されたときにはなにとぞ手厚い看護の程よろしくお願い申し上げます。
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ガラガラガッシャーン

2010-11-29 19:43:08 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
夏にご招待したメンバーを再び招いてまたホームパーティをやりました。
私の定番メニューは前回あらかたご提供してしまいましたので、今回は何を出そうか相当迷いました。
買い物に行く前に、うちにある料理本を全部引っ張り出してきてあれこれ作戦を練ります。
冷蔵庫のなかに残っている材料も使ってしまいたいですし、
料理の手順も考えなければなりません。
とりあえず今回は以下のような作戦を立ててみました。

1.春菊のゴマ油和え
2.アボカドとオレンジのフルーツサラダ
3.スタッフド・オリーブのオリーブオイル漬け
4.小松菜とシーフードミックスの炒め物
5.豚肉のビール煮
6.洋風鍋 with ジャポネーゼソース
7.チーズ盛り合わせ
8.鮭とブロッコリーのグラタン

「1.春菊のゴマ油和え」 は最近の定番料理です。
生の春菊に熱く熱したゴマ油を回しかけ、ゴマと刻み海苔をかけて食べるという、
ネットで仕入れたレシピです。
これと、「2.アボカドとオレンジのフルーツサラダ」(2つの果物にシーザードレッシングをかけて和える)、
「3.スタッフド・オリーブのオリーブオイル漬け」(前回出したら好評でリクエストされた)を
あらかじめ作ってテーブルにセットしておくというのが当初の計画でした。
「5.豚肉のビール煮」 は昔から作っている得意料理ですが、
手間がかかるので最近はあまり作っていませんでした。
本当はもっと手軽な肉料理 (手羽中のグリルなど) にしたかったのですが、
本日のメインディッシュである 「6.洋風鍋 with ジャポネーゼソース」 にも鶏肉を使わざるをえないので、
ちょっと頑張ってしまいました。
締めのパスタを出すのは深夜になるだろうから、
あらかじめ仕込んでおけそうな 「8.鮭とブロッコリーのグラタン」 にしてみました。
これは料理本を見ながら今回初挑戦です。

前回は二日酔いで活動開始が遅れたのですが、今回はスキッと起きられましたし、
部屋も片づいているから掃除に時間を取られることもなく、
十分な余裕があるなと思って料理に時間をかけられそうだと楽観視していました。
ところが、メニューを決めるのにも手間取りましたし、買い物にも相当手間取って、
家に帰ってきたのは3時でした (宴会開始は5時)。
まずは 「5.豚肉のビール煮」 から取りかかります。
タマネギのみじん切りが必要なのですが、フードプロセッサーがあるのでそこは簡単です。
豚肉に焼き色をつけ、タマネギをアメ色になるまで炒めたら、
それらをビールの中に投入して煮込み開始です。
それと同時に 「6.洋風鍋」 のコンソメ味スープを大量に作り (これはお湯にキューブを溶かすだけ)、
「ジャポネーゼソース」 も作っておかなくてはなりません。
本来はバジルを使ってジェノベーゼソースを作りたいのですが、
バジルは売っていなかったので、大葉で代用するから 「ジャポネーゼソース」 です。
尊敬する平野レミ様のレシピなので、まず失敗することはありえません。

ここまでですでに4時を大きくまわっています。
次に 「8.鮭とブロッコリーのグラタン」 の仕込みに取りかかりました。
マカロニとブロッコリーをゆで、鮭に小麦粉をまぶして両面こんがり焼いておきます。
レシピで見るかぎりすぐにできそうに思っていたのですが、
これがけっこう手間のかかる仕事でした。
鮭の骨を抜いておくなどの仕事も、指でやっているとなかなかうまくいきませんし…。
そして、ホワイトソースも缶詰めを使うだけなのですが、
耐熱皿に全部仕込み終わったところでもう4時50分くらいになっていました。
まだあらかじめセットしておけるものが何もできていませんし、
メインディッシュの鍋のための野菜を切ったり、肉をお酒につけておくということもできていません。
大ピンチです。

とりあえず 「3.スタッフド・オリーブのオリーブオイル漬け」 は簡単なのでチャチャッと作りました。
とにかくサラダも1品は作っておかなければと思い、春菊の準備をします。
刻んで水を切って塩を振ったところで最初のお客さんが到着してしまいました。
楽勝のはずだったのに、けっきょく今回も、
お客さんが来る前に何一つ完成していないという結果になりました。
まあ、皆さんも理解してくださっているようで、
なにかお手伝いすることはありませんかと言ってくださいます。
春菊に刻み海苔をふりかける仕事はお任せして、やっと一品めが完成しました。
今回はちゃんと写メ撮っとかなきゃと指摘されて、撮影いたしました。



「2.アボカドとオレンジのフルーツサラダ」 は断念し、
いい感じに煮えてきた 「5.豚肉のビール煮」 を切り分けてやっと二品めです。



これはとても美味しく出来上がりました。
しかし、5人で食べるとなると1人ほんの数切れずつで、
あんなに時間と手間をかけたのにあっという間になくなってしまいました。
春菊もあれを2皿出したのですが、みるみるなくなっていきます。
冷蔵庫で冷やしていたオリーブを出し、フランスパンを焼いたり、
お客さんが持ってきてくださったストリングチーズとナッツの乾き物を出してもらったりしますが、
次に出せるものがもう何もありません。
大慌てで鍋の準備を始めました。
お客さんたちも使い終わったお皿を洗ったり、自主的に動いてくださって、
なんとか鍋になりましたが、このあたりから私は本格的にアップセット状態になってしまい、
写真を撮るのが疎かになってきました。
一通りさらってしまったあとにやっと写真を撮ることを思い出したので、写真はこんな感じです。



そして、これ以降はもう完全に写真のことは失念してしまいました。
とにかくメインディッシュを出せましたので、皆さんのお腹もちょっと落ち着いたようです。
この時点で7時すぎですが、まだまだ飲むつもりですので、
あとはゆるゆる行こうということになりました。
すると私もやっと落ち着いてきて、
先ほど断念した 「2.アボカドとオレンジのフルーツサラダ」 を作ってみる気になりました。
作ってみると、意外と簡単にできました。
こんなことなら鍋の前に作っておけばよかったです。
残り物メニューの 「4.小松菜とシーフードミックスの炒め物」 もあきらめていたのですが、
作ってみたら簡単に作ることができました。
どうもあたふたしすぎていたようです。
お腹が空いていると判断力が鈍ってしまうのですね。
パーティが始まってからこそ落ち着かなければいけませんね。
私のパーティの場合、自分が作りながら飲み食いし、皆さんとお話もしなればならないので、
なんかこう気が急いてしまうのでしょう。
なんとか落ち着きを取り戻して後半はゆっくり楽しむことができました。

で、ビールと赤ワイン3本と白ワイン1本とスパークリングワインを1本あけ、
(5人中1人はお酒を飲めない人なので黙々とウーロン茶)
完全にできあがってしまって11時過ぎくらいに、やっと締めのグラタンになりました。
オーブンで焼き、いい色がついてグツグツ煮立っているところを取り出します。
ところが、酔っぱらいすぎていたのでしょうか、
専用の金具のようなもので台ごと引っ張り出しているときにバランスを崩してしまいました。
落ちかかったところをなんとか一度は止めたのですが、
その際に思わずもう片方の手でグラタン皿をつかんでしまったため、
「アチーッ」 と叫び、熱さに耐えきれずつい両手を離してしまいました。
ガラガラガッシャーン
マーフィの法則通り、グラタン皿はみごとに下向きになって床に落ちてしまいました。
大惨事です。
あれだけ手間ヒマをかけたグラタンを全部床にぶちまけてしまいました。
あまりのことに呆然と立ちすくむ私をおいて、
4名の女性たちはものすごいチームワークでてきぱきと働いて、
悲惨な現場をすぐに片づけてくださいます。
しかも、床きれいだから大丈夫よと言って、
グラタンを元に戻して食べようとしてくださるのです。
いや、さすがにそれはやめとこうと主張したのですが、心優しいゲストの皆さんはけっきょく、
そのガラガラガッシャンの残骸を最後まで残さず平らげてくださったのでした。
みんなも酔っぱらっていたとはいえ、うーん、なんていい人たちなんだ
皆さん、本当にありがとうございました
ガラガラガッシャンも含めていい思い出となりました。
これに懲りずにまたビストロ陣場町にいらしてください。
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先生の教え (その2) ・ 手は洗わなくていい

2010-11-26 12:41:09 | 教育のエチカ
小学校5、6年生のときの担任のF先生の教えです。

この先生からはいろいろなことを学んだのですが、

「先生の教え (その1)」 からの流れでトイレネタでいきましょう。

ある日どういう文脈だか忘れましたが、

F先生が 「オシッコしたあと手を洗ったりする必要はない」 と言い出したのです。

みんなは 「エーッ、きたな~い」 と大ブーイングです。

それに対してF先生は、「君たちのチンコは汚いのか?

先生のは毎日お風呂でちゃんと洗ってるからキレイだぞ」 と反論します。

私たちは 「でもオシッコしたんだから汚いよ」 と主張しますが、

先生は 「オシッコが手についちゃったりしたら洗わなきゃいけないけど、

手でオチンチンをちゃんと持ってすればそんなことになったりはしないだろう。

チンコだけ触っているならチンコはキレイなんだから、手を洗う必要はないんだ」 と言い張り、

こんなたとえ話をしました。

「手で顔を触ったからといって手を洗ったりはしないだろう。

オチンチンは服の中にしまわれているから顔よりもキレイなはずなんだから、

オチンチンを触ったからといっていちいち手を洗う必要はないんだ。」

子どもの頃ってオチンチンは汚いというふうに思い込んでいるというか、

そう教育されていましたから、F先生のこのロジックに納得した子はいなかったと思いますが、

その後、私はときどきこの話を思い出して、手を洗うべきか洗わないべきか悩むことがあります。

小学校の先生というのは子どもたちに衛生面の指導もしなければならないはずですが、

F先生はなぜあんなことを主張していたのでしょうか?

当時ホームルームで 「○○君が~~していました」 とかチクるのが流行っていて、

誰かが手を洗わなかった子のことを弾劾したりしたのでしょうか。

あるいは先生自身が洗わずに出てきたのを見咎められたりしたのでしょうか。

とにかく、女子からの反応はすこぶる悪かったですが、

私としては子どもの常識に揺さぶりをかけられて、一生心に残る師の教えとなりました。

そうかあ、チンコはキレイなんだあ。

たしかにあんな形しているけどただの皮膚なんだから、キレイかもしれないよなあ。
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Q.先生はなぜ脳死の話が好きなんですか?

2010-11-25 22:31:07 | 生老病死の倫理学
私は脳死の話が好きです。
福島大学でも看護学校でもよく話しています。
なぜ私は脳死の話が好きなんでしょうか?
脳死・臓器移植の問題って、倫理学者ほどよく語ります。
しかも、倫理学者ほど立場的に頑な (かたくな) です。
まあ、どっちでもいいじゃんとはなりません。
一般的に言って、倫理学者で脳死・臓器移植に強硬に反対している人って多いです。
加藤先生も強硬に反対していました。
私自身はこの問題に最初に触れたのが、立花隆の 『脳死』 という本からだったためか、
そこまで強硬反対派ではありません。
どちらかといえば、厳格に脳死判定をしてくれるならば、
臓器移植に関しては個人の自由を認めてもいいのではないかという賛成の立場です。
でも、強硬反対派の人たちの考え方もわからないではありません。
まあそういう意味で、脳死・臓器移植の問題って倫理学のいろいろな論点や立場を、
ざっくりと受け入れているところがあるので、私にとって面白いのかもしれません。

例えば、なにをもって死とするかって自明なようで全然自明ではありません。
心停止、呼吸停止、瞳孔散大という現在の一般的な医学的死 (心臓死) だって、
よく考えたら、なぜそれが死と言えるのかはっきりとはわかりません。
例えば私は、回復不可能性と内部意識の不可逆的消滅をもって死と考えていますが、
一般的にはそこまで厳密に死を捉えている人は少ないでしょう。
そもそも死の問題ってそれくらい曖昧な問題だったはずなのですが、
20世紀の後半になって、脳死という概念が登場してきて以来、
いろんな意味で生と死の連続性が強調されるようになってきました。
そういう、脳死の人は生きているのか死んでいるのかみたいな、
現代という時代に固有の問題は、とりあえず私たちが考えていけばいいのでしょう。
ただしこれはなかなか意見が一致しうるような問題ではありません。
そういう問題というのは哲学・倫理学の例題としてはとても優れているように思います。

しかも、脳死・臓器移植の問題というのはみんなからとても遠くのようでいて、
けっこう身近な問題でもあります。
みなさん自身やみなさんのご家族がそういう過渡期にさしかかっているというのも事実です。
こんなふうに、単純に答えが決まっているわけではない問題を考えてみるのは、
とても大事なことだと思うのです。
特に今年臓器移植法が改定されたというのは画期的だったと思います。
というわけで、とても現代的で、答えが決まっているわけでなく、
賛成、反対それぞれの立場からものすごーくたくさんの意見が出されうる問題というのは、
扱っていてとてもエキサイティングだと思うのです。
こんな問題をもしもクールにサクッと解決できたら、それはもう天にも上る幸せだろうと思います。
というふうに考えているので、私は脳死問題が好きなのかもしれません。
皆さんもぜひたくさんこの問題について考えてみてほしいと思います。
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とは検索

2010-11-24 23:51:10 | お仕事のオキテ
このあいだ数学のK先生に教えていただきました。

K先生もつい最近なにかの講演会で知ったのだそうです。

インターネットでいろいろ調べ物をすることがありますね。

そういうときに普通にキーワードを打ち込んで検索すると、

膨大な検索結果が出てきてしまいます。

どう考えても全部確認してみることができるような量ではありませんし、

わりと最初のほうにも、どこの誰だかもわからないような、

一般人が書いたブログ記事がヒットしてしまうことがあります (私のブログとかも)。

それでは有効な情報収集ができません。

そのときの裏技です。

調べたいキーワードのあとに 「とは」 と付けるものすごーく絞れるそうなのです。

「場の空気」 について調べたいときには、ただ 「場の空気」 と入力するだけでなく、

「場の空気とは」 と入力して検索するのです。

たぶん知ってる人はちゃんと知っていて、とっくの昔にやっているのでしょうね。

でも、私は知らなかったので、私のゼミ生も知らないでしょうから、ここに記しておきます。

インターネットで検索するときは、調べたい単語に 「とは」 と付けてみましょう!
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立体駐車場3分間ダイエット運動

2010-11-23 22:49:24 | がんばらないダイエット
すでに何回かブログネタに取り上げていますが (その1その2その3)、
うちの駐車場は立体駐車場の最下層部です。
計測してみたところ、クルマを出すのに約90秒、しまうのにも90秒かかります。
その間ずっとボタンを押し続けていなくてはなりません。
エレベーターみたいに呼ぶためのボタンを一度押して、
あとはぼーっと待っていたり、なにか別の用事を足していられればいいのですが、
目を離したすきに子どもが落っこっちゃったりしたらいけませんので、
なにかあったときにボタンから手を離せばすぐに停止するような仕組みになっているのです。
まあ、そういう仕組みにせざるをえないだろうなあとは思いますが、
ずーっとボタンを押していなきゃいけないのはとっても面倒です。
そして、約1分半ただ地下駐車場を呼び出したり格納したりするのに、
ボケーッとボタンを押し続けているというのはけっこう退屈なことです。

で、前々からこの時間をなんとか活用できないだろうかと考えてはいました。
一番よくやるのは、片手でボタンを押しながら、
もう片方の手でケータイを操作するということです。
メールを見るのは楽々できますし、
それに返信を打ったりしていれば、3分ぐらいはすぐに過ぎてしまいます。
ただし私は友だちが少ないのか、メールのやりとりがそれほどあるわけではありません。
クルマの出し入れをしているときに、
ちょうどメールのやりとりをしなきゃいけないようなことがあるなんてとっても稀なことです。
そうするとあとはホントにただボーッとボタンを押し続けていなければならないのです。

さて最近、この3分間をなにかトレーニングに使えるのではないかと思いつきました。
春からずっとやっていた運動はついついサボりがちですし、
クルマを使う日というのは万歩計の歩数も減ってしまいますので、
この3分を少しでも運動に使えれば、運動不足を若干補うことができるでしょう。
問題はこの時間にどんな運動ができるかです。
指でずっとボタンを押し続けていなければなりませんので、
そんなに動き回る運動はできませんし、
立ったままの姿でできる運動でなければなりません。
試してみたところスクワットはムリでした。
つい上下している内に指がボタンから離れてしまうからです。

するとこのあいだ、風呂上がりに鏡を見て、だいぶお腹は引っ込んできたものの、
脇腹にはあいかわらず脂肪がついているなあと思ったときにひらめきました
側腹筋を鍛える運動ならボタンを押しながらでもできるのではないでしょうか?
春からやっていたトレーニングにも、側腹筋を鍛えるメニューは入っていませんでしたから、
これはいいチャンスかもしれません。
まあ側腹筋を鍛えれば脇腹の脂肪がなくなってくれるのかどうかはわかりませんが、
ふだん鍛えていない筋肉を鍛えて悪いわけがありません。
考えついたのはこういうトレーニングです。
片脚で立ち、もう片脚を真っ直ぐ伸ばしたまま真横に上げ下げするという運動です。
深夜の通販番組で 「レッグマジック」 とかいうのを売っているじゃないですか。
田丸麻紀さんが愛用しているやつ。
あんなふうに脚を横に広げる運動ですが、
機械を使って両脚を広げるわけにはいかないので、
片脚で立って、片脚を横に広げる (つまり横に上げる) わけです。
これを90秒を半分に分けて片脚45秒ずつ、
するとだいたい35回から40回くらい脚上げ運動をすることができます。
地下駐車場を呼び出すあいだに右脚と左脚、約40回ずつ、
呼び出したら必ず元に戻さなければなりませんので、戻すあいだにまた40回ずつ。
クルマを使用し終わって帰宅してくると、また40回×両脚×2セット。
けっこういい運動になります。
今までボーッと過ごしていた時間がハードなトレーニングの時間となりました。

当初は側腹筋を鍛えて脇腹の脂肪をなんとかしようと思っただけでしたが、
やってみると、まさに上述したように 「レッグマジック」 と似たような効能もあり、
脇腹だけでなく、脚の外もも、内もも、大臀筋などにも効いているような気がします。
上げている脚や側腹筋だけでなく、立っているほうの脚もけっこう疲れるのです。
特にMBTを履いてこれをやると効果抜群です。
グラグラするのをなんとかバランスを取らなきゃいけないため、
軸脚のほうもプルプルしてきます。
うーん、なかなかいいトレーニング方法を編み出したのではないでしょうか。
はたしてこれが本当に身体にいいのかどうかは専門家に聞いてみなければわかりませんが、
けっこう脇腹や脚には疲労が来ますから、きっと効いているのだと思いたいです。
立体駐車場の下段を借りている人という、
とっても限定された人にしかできないトレーニングですが、
自分の身体で効果が確かめられたら、大々的にマスコミに売り出したいと思います。
ただし、このあいだこのトレーニングをやっていたら、
同じマンションの女の人に見られてちょっと恥ずかしい思いをしました。
早くこれを広めて、私だけでなくマンション中のみんなが、
ボタンを押しながら横脚上げをしてくれるようになってほしいものだと思いました。
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初体験 「てつがくカフェ」・場の空気ってなに?

2010-11-22 19:03:09 | 哲学・倫理学ファック
昨日は仙台で開かれた 「てつがくカフェ@せんだい」 に行ってきました。
前々から 「哲学カフェ」 には興味があったのですが、今回が初参加です。
前日に仙台でダンスの試合があったのと、
ブログの弟子であるぢゅんちゃんがファシリテーターをやるというので、
いろいろなめぐり合わせがちょうどうまくはまった感じです。

今回のテーマは 「場の空気ってなに?」 です。
なかなかいいテーマです。
哲学なんて学んでいなくとも語り合ってみたくなるようなテーマです。
実際、参加者は40名と、過去5回に比べてはるかに多くの人が集まってしまったそうです。
というか、いくらなんでも集まりすぎで、
たった2時間しかないのに40名ではみんなが話すことはできないでしょう。
初めてファシリテーターをやるぢゅんちゃんは笑顔がひきつっています。
どんなことになるんだろうなあと、私はニヤニヤしながら見ていました。

それにしても、このテーマはとてもよくできていて、
「場の空気を読むことはよいことか悪いことか?」 についてはすでに、
ひとそれぞれ意見を持ってしまっていて、だれにも一家言あるはずですが、
いいか悪いかから一歩立ち戻って、
「場の空気とは何か?」 という定義のところで共通認識を作ろうよというのは、
まさに哲学カフェの真骨頂だろうと思います。
発言者の方々はともすれば、いいか悪いかとか、日本文化論に流れがちでしたが、
そのつどファシリテーターや発言者の誰かが自然と定義の話に引き戻してくれたので、
私の考えもとても深まっていきました。

私は当初、場の空気というのを、
「当たり前だとみんなが思っている、言語化されていない共通認識」 と捉えていました。
こう定義する場合、場の空気とは、非言語コミュニケーションによって読み取られる何ものかであり、
集団の中で形成されるものとも考えられています。
たしかに場の空気という場合、会議のようなある程度の人数で構成される 「場」 が、
前提されているようにも思えます。
しかし、出席者のある方がこんな例を出してくれました。
3人で話をしていて、そのうちの1人 (Aさん) が用があって帰らなければならず、
帰りたそうにしていて、1人 (Bさん) はそのことに気づき、
もう1人 (Cさん) はそのことに気づかずに話しまくっている。
このときBさんは空気が読める人で、Cさんは読めない人だというのです。
非言語コミュニケーションと捉えていることは私と同じですが、
この場合は、Aさん対Bさん、Aさん対Cさんの間で一対一で空気が形成されています。
全体に、場の空気を読むということに肯定的な人たちは、
このような一対一の関係の中で読み取られる空気のことを念頭に置いているようでした。
そうした人たちは場の空気のことを、相手への思いやりとか感情移入と表現していました。
(もちろんその思いやりや感情移入がまちがっているという可能性も指摘されていましたが…)

同じく肯定的な人たちの中には、場の空気を、先人の知恵とか、作法、マナーと捉えている人もいました。
これらは明文化されているかどうかは別として、言語化はされている知のように思えます。
これらを空気と呼んでいいのかどうか、反対意見も出されていました。
それとは異なるのですが、場の空気とは会話の流れであるという意見も出て、
なるほどなあと思いました。
このように捉える場合、たんなる非言語コミュニケーションではなくなってきます。
言語は介在しているのですが、直接言語化されてはいない何ものかになります。
よく昔、「行間を読む」 ということを言われたことがありますが、
それに近い感じだろうかと納得しました。

場の空気を読むことに否定的・批判的な人たちは、私同様、
一対一ではなく、一対多、個人対集団という場面での空気を考えているようでした。
集団意識とか、暗黙の了解とか、多数意見、最大公約数的なものの見方などなどです。
特になるほどと思ったのは、一対一の場合は感情移入は可能かもしれないけれど、
一対多で感情移入してしまうとややこしくなってしまう、という意見でした。
さっきのA、B、C、3人の例で言うと、帰りたがっているAさんに感情移入することはできるし、
喋りまくりたいCさんに感情移入することも可能だけれど、
じゃあAさんとCさんを含めた 「場」 (Bさんも含めてもいいかもしれない) に感情移入する、
とはどういうことになるのか。
けっきょく、場の空気を読むことを要求する立場というのは、
個人個人考え方が違うという前提に立っていないのではないかという意見が出て、
これは私もまったく同感でした。

議論はどこかに収束したわけではありませんでしたが、
私としてはいろいろな方向に思考が拡散しつつ深まっていくよい時間となりました。
昨日の議論を承けて今の段階では私は次のように考えています。
場の空気の定義に関して言うならば、
言語・非言語両コミュニケーションを通じて形成される、
最終的に言語によって確認されたわけではない、共通の認識。
これは一対一の場合にも一対多の場合にも成立します。
一対多の場合には、「共通の認識」 の前に 「多数意見と思われている」 を付加可能です。
こうした場の空気を読む力というのは高度なコミュニケーション能力であり、
これは日本人に限らず、どこの国の人であろうと、持っていないよりは、
持っていたほうがいろいろな意味で生きやすくなる力だろうと思います。
しかしながら、読めるからといって、それに同調しなければならないというわけではありません。
場の空気と自分の意見が違っているときには、それを主張してかまわないし、
主張したほうがいいのです。
ところが、自分が場の空気を読むだけでなく、
他人にも場の空気を読んでそれに同調することを強要するというのが、
日本独特の文化のような気がします。
特に最近の日本で横行している、
「空気を読め」、「KYは去れ」 という圧力は個人を圧殺する全体主義的な力ですので、
場の空気を読めない人がいた場合には、共通認識をきちんと言語化していく作業を続け、
最終的に共通認識に至れない人とも共存していく努力をするべきでしょう。

あれだけの大人数の哲学的対話をファシリテートしたぢゅんちゃん、お疲れさまでした。
初めてとは思えないさばきっぷりでしたよ。
でも、見ていて本当にたいへんそうだったから、
自分がやってみたいとは思えませんでした。
福島で哲学カフェやるときは専任でよろしくお願いしますっ
なお、この件に関しては、ぢゅんちゃんのブログと、
参加者のおひとり、渋川すずめさんのブログもご参照ください。
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競技ダンス新採点方式

2010-11-20 23:37:28 | ダンス・ダンス・ダンス
本日は、全東北学生競技ダンス連盟の秋大会でした。
4年生の引退試合になりますが、4年生の皆さん、4年間本当にお疲れさまでした。
今日の閉会式では突然のご指名だったので噛み噛みでしたが、
言いたかったことはここに書いたようなことです。

さて、JDSF (日本ダンススポーツ連盟) の役員も務めておられる、
全東北学生競技ダンス連盟副会長の神宮周二さんから、
競技ダンスの最新情報を仕入れることができました。
中国広州で行われたアジア大会では競技ダンスに新採点方式が取り入れられたそうです。
前回書いたように、競技ダンスの採点は基本的に複数のカップルが同時に踊っているのを、
相対評価する形で採点が行われています。
私はこの採点方式は競技ダンスの構成的ルールに関わる重要な要素と考えていますが、
ここには大きな問題も存しています。
というのは、競技ダンスはオリンピック種目への採用を目論んでいるのですが、
現在の採点方式は客観性に欠けるとして、
より客観的な採点方法の確立がIOC (国際オリンピック委員会) から求められているのです。
そして、日本のJDSFはその求めに応じて、新採点方式を開発し、
10月に行われた全日本選手権でこれを導入し、
広州アジア大会でもその新採点方式を使ってジャッジが行われたそうなのです。

新採点方式は 「PCS (プログラム・コンポーネント・スコア)」 と、
「TES (テクニカル・エレメント・スコア)」 の2つで採点するそうです。
これは決勝戦で、これまでの順位法スケーティングシステムの代わりに用いられます。
PCSは、2人の動きのバランスや音楽性、振り付けなど全体的な印象を、
TESは、ステップの正確さなどの技術面を点数化し、
0.5点刻みで10点満点で各審査員が採点し、その総合点で争うのだそうです。
しかもそのために決勝戦はソロダンスで、各カップルがいっぺんにではなく、
1カップルずつ順番に踊っていくのだそうなのです。
まさにフィギュアスケートと同じ方式です。

せっかくこの新方式を開発した皆さんには申しわけありませんが、
私はこれは競技ダンスに対する冒涜だと今の時点では思っています。
競技ダンスの根幹を脅かしているからです。
オリンピック種目に入れてもらいたいからといって、
譲歩していい線と譲ってはならない線があるはずです。
私たちは柔道が国際的な格闘競技として発展し、オリンピック種目にまでなった反面、
本来、柔道がもっていた柔道らしさを失ってしまい、
柔道とは異質のJUDOに変質を遂げてしまった姿を見てきているはずです。
剣道はその様子を見ていて、国際的スポーツとして世界中に広まって、
オリンピック種目として認めてもらおうなんていう道は断念したという話を聞いたことがあります。
それはものすごい見識だし、ものすごくリッパな判断だったと思います。
たしかにオリンピックの種目になれば、世界中から注目を浴びますし、
競技人口が爆発的に増えることは間違いないでしょう。
しかし、それによって失うものもあるのだとするならば、
利益と損失を天秤にかけて、冷静に判断することが必要となるでしょう。
例えば、広州アジア大会では、新しい決勝方式が悪用されて (?)、
金メダルが確実視されていた日本の選手がことごとく2位以下に敗退したそうです。
(全種目で中国勢が金メダル)
このように新採点方式になればそれで客観性が保障されるとも言い難く、
それよりも競技ダンスが社交ダンスであった本来の姿が失われてしまうのだとするならば、
国際化、オリンピック化の流れに抵抗するという選択肢もあるはずなのです。

今日の秋大会でもサンバとタンゴでソロダンスが行われました。
(ただし、ソロダンスが一通り終わったあとはみんなで一緒に踊りますが)
ひとつのカップルの踊りをじっくり見られるというのはたしかにいいことではありますが、
順番に1カップルずつ見ていって前に踊ったカップルと頭の中で比較するというのは、
それはそれでけっこう難しい業です。
もちろん新採点方式は前に踊ったカップルと相対評価することが目的ではなく、
カップルのひとつひとつの技術やアーティスティック・インプレッションを、
直接数値化しようとするものです。
しかし、はたして総合芸術であるダンスをそんなふうにして要素に分解し、
そのたんなる合計点で評価することが可能なのでしょうか?
それははなはだ疑問だと言わざるをえません。
とまあ、こういう保守的な意見を私ごときが展開しても、
オリンピック種目に入れてもらいたい、そのためならどんな犠牲も払いますという流れを、
食い止めることは難しいだろうと思います。
この件、今後も検討を続け、注意深くウォッチしていきたいと思います。
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冬のチキンレース2010敗戦報告

2010-11-19 16:51:05 | ドライブ人生論
報告するのを忘れていました。

今年の冬のチキンレースですが、早々に敗北してしまいました。

先週、新潟に行く前にオートバックスでタイヤ交換してしまったのです。

その前の週あたりから福島はぐっと冷え込んで、

吾妻山の雪化粧が日増しに濃くなっていっていましたので、

裏日本に行く途中はどうなっていることやらとひどく弱気になってしまったのです。

もちろんまだ雪はないだろうとも頭の半分では考えているのですが、

いったんビビってしまうともうどうしようもありませんね。

当日は冷え込みが若干ゆるんで、それでも福島を出発するときは10度を割り込んでいました。

新潟はこちらよりもどれくらい寒いんだろうと覚悟していったのですが、

着いたらなんと16度。

けっきょく週末のあいだコートをまったく着ずにすむくらい暖かく過ごせました。

うう、不覚…。

なんて小心者の私
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福大附属小学校公開授業研究会

2010-11-18 07:24:38 | 教育のエチカ
昨日は附属小学校の公開授業研究会でした。
6月にも2日間にわたって大々的に公開授業をやりましたが、
秋の公開は教科ごとに日をずらして、それぞれ1日ずつの分散開催です。
社会科担当の先生たち3名は、それぞれみごとな授業を展開して、
お集まりいただいた先生方から高い評価を頂戴しておりました。
3名のうち2名は今年附属に赴任されたばかり、
もう1名もまだ2年目というフレッシュな面々ですが、
今どきの小学校の先生にしては珍しく、3人とも社会科が大好きで、
子どもたちにも社会科を大好きになってもらいたいという熱い情熱をもって、
授業づくりに励んでいらっしゃいますし、
なによりも1人で全てを抱え込んで悩むのではなく、
互いに助け合ってそれぞれの授業を作りあうということをされていますので、
近年失われてしまった教師の同僚性を感じられて、とても逞しく思えました。

ところで、今回はものすごい久々の体験をしてしまいました。
昼食に学校給食をいただくことができたのです。
小学校でも中学校でも春の公開では豪勢な仕出し弁当が出されます。
秋の公開に来たのは初めてだったのですが、
秋は生徒たちが食べているのと同じ給食を出してもらえるのですね。
これです。



テーブルには 「きゅうしょく ひとくちメモ」 という紙が置かれていて、
今日のメニューの詳しい説明が書かれていました。
「しょっきのおきかた」 もちゃんと図で示されています。
これが食育というものなんですね。
メインディッシュは 〈名古屋のみそカツ〉 と 〈かぶのサラダゆずこしょうドレッシング〉 です。



〈かぶのサラダゆずこしょうドレッシング〉
「かぶは、春と秋の2回旬があります。今日はかぶのサラダを作りました。
 ドレッシングに、2年生の花壇になっていた巨大ゆず 「オニユズ」 を使わせてもらいました。
 1本の木に、大きなゆずがたくさん実っていました。
 朝とって使ったので、とても新鮮で、ゆずのいい香りがしました。味わって食べてください。」

〈名古屋のみそカツ〉
「名古屋の郷土料理
 豚カツに、八丁みそ、だし汁、砂糖を加えて作った独特のタレをかけたものです。
 福島では 「豚カツ」 というと、しょうゆ味、ソース味を思い浮かべます。福島とはひと味違う食文化を味わいましょう。」

みそカツは年に2回ほど出される、子どもたちの大好物だそうです。
サラダのほうは私が小学生の頃は絶対に食べられなかっただろうと思いますが (ひどい偏食でした)、
自分たちが面倒みているゆずが使われているんだよという情報は、
野菜嫌いの子どもたちに少しでも、じゃあ食べてみようかなと思わせる、
きっかけぐらいにはなるんじゃないかなと思います。
図書室で給食をいただいたのですが、
図書室にはこんなものが飾ってありました。



遠目に見て、子どもが作った図工の作品かと思っていたのですが、
近づいてよく見てみたら本物でした。
たしかに巨大です。
コーヒーカップと比べてこれくらい↓。



「すましじる」 についてはひとくちメモに何も書かれていませんでしたが、
こちらにもゆずが使われているようで、いい香りがしていました。
とても具だくさんで、「すましじる」 というよりは 「けんちん汁」 という感じです。



ごはんは食べている最中は気づきませんでしたが、
「しょっきのおきかた」 の図によれば、「むぎごはん」 だったようです。
とても健康的なメニューですね。
いずれも大人の味わいで、これらを美味しく食すことのできる小学生というのは、
末恐ろしいと思いました。
私も大人になってやっと野菜類を美味しいと思えるようになりましたが、
しかし申しわけないことに、かぶのサラダの中にちらっと見えているキュウリは、
(写真に写っているのはほんの一切れっぽく見えますが、
 実際にはけっこうな量が入っていました
全部撤去せざるをえませんでした。
子どもたちと一緒に食べるという趣向でなかったことを心から感謝しました。
でも、それを除けばどれもたいへん美味しく頂戴しました。
ごちそうさまでしたっ
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Q.どんな看護師がいたらうれしいですか?

2010-11-16 23:51:56 | お仕事のオキテ
今日で白河の看護学校の授業が終わりました。
全14コマを毎週2コマずつ、7週間かけてやってきました。
2ヶ月弱ですが、私の講義におつきあいくださりありがとうございました。
これからもたまに授業に関係するような話を書いていくつもりですので、
授業は終わってしまいましたが、ブログはぜひ見に来てください。
というか、第1回目のときにいただいた質問にまだ全部答え切れていませんので、
(もうみんなどんな質問を書いたか忘れてしまっているかもしれませんが…)
いやでも見に来ざるをえないでしょう。
そして、なにか気になる記事があったらコメントを書いていただけるとうれしいです。
根本先生もぜひコメントをお書き込みください、ペンネームでかまいませんので

さて、今回の質問は最初から、最終回の授業が終わってからお答えしようと思っていたものです。
正確には次のような質問でした。

「Q.先生が例えば入院したり、病院に来た場合、どんな看護師がいたらうれしいですか?」

「倫理学」 の授業では理想の看護師像などについても考えてもらったわけですが、
自分なりの理想像をはっきりさせるのと同時に、
患者になるかもしれない人たちにこういうことを聞いておくというのも大事なことですね。
福島大学の教員志望の皆さんもぜひ見習って、
子どもたちや、お子さんをお持ちの方々にこういう質問をしてみるようにしましょうね。

さて、まずは看護師に限らず、すべての職業の人に当てはまることですが、
私はどこに行こうと、笑顔で楽しそうに働いている人に担当してもらいたいと思います。
これは飲み屋の店員さんでも、コンビニのレジの人でも、すべてに当てはまります。
以前に 「天の呼び声」 という文を書きましたが、
それがその人にとっての天職かどうかは別として、
自分を担当してくれる人には明るく楽しく働いていてほしいもんだと思います。
もちろん人間ですから、そうそう毎日毎日楽しいというわけにはいかず、
ツライのをガマンしてイヤイヤ働いているという日があっても仕方ないと思いますが、
できればそういう人が自分の担当者にはなってほしくないなあと思います。
可能であれば、どんなにツライときでも笑顔で対応できるくらいのプロであってほしいですね。
特に看護師さんに会うのは、こちらが病気で元気をなくしているときと決まっていますので、
そういうときに超ブルーなつまらなさそうに働いている人には出会いたくないものです。

看護師に限っての注文ということで言うと、
授業でも言ったように、看護師には哲学者であってもらいたいと思います。
去年、看護教員の養成講座が終わったときに、
「教育者の教育」 というブログを書き、
その中で自分の理想の死に方について語ったことがあります。
私のように福島の看護学校で教員をやっていると、
なにかのときに福島の病院に搬送されると、
自分の教え子 (あるいは教え子の教え子) が担当してくれることもあるんじゃないかと思って、
それはけっこう楽しみですね。

「小野原先生、お久しぶりです。
 ○○看護学校でお世話になった□□です。
 今でもときどきブログを拝見させていただいてますよ。
 先生は、ウソをつき続けられるのはイヤだとおっしゃっていたので、
 全部ぶっちゃけちゃいますが、先生の今回の病気は△△で、ちょっと厳しい状況です。
 私たちが先生の最期の時間にお付き合いさせていただきますので、
 思い残すことなくやりたいことを全部やって、
 人生をフィニッシュさせるお手伝いをさせてください。」

なんて言われたら感激して泣いちゃうだろうなあ
ぼくが自分の死を受容できなくてみんなに当たり散らしていたりしたら、

「小野原先生、先生はキュブラー・ロスの死の受容の5段階を、
 知識としては知っていらっしゃるはずなのに、
 それでもやっぱりちゃんと否認や抑鬱などの段階を順番に踏まれていくのですね」

なんてたしなめてくれたりして。
そしてある程度、受容できるようになってきたら、
足繁くベッドサイドに来てくれて、
「先生、また法律変わっちゃいましたけど、脳死・臓器移植ってどう思います?」
とかいろいろ哲学・倫理学の話を持ちかけてくれたり、
たぶんその段階では私は、積極的に小中学校や看護学校や福島大学に出かけて、
自分の死を題材に生徒たちや学生たちにデス・エデュケーションをしたがると思うので、
有休を取って車椅子を押して学校に連れて行ってくれて、
ぼくが授業するのを手伝ってくれたりして。
うーん、妄想は広がりますね。
そんなふうに自分の教え子にケアしてもらいながら死んでいけたら、
それは私の理想の死に方ではないでしょうか。

どんな看護師がいたらうれしいですかという質問からは逸脱してしまったかもしれませんが、
最終的に次のようにお答えしておくことにいたしましょう。

A.自分が搬送された先の病院に、
  哲学者のような看護師へと見事に成長を遂げた自分の教え子がいてくれたら、
  これ以上うれしいことはありません。

白河近辺の病院に私がお世話になる確率はめちゃくちゃ低いと思いますので、
白河看護学校の皆さん、ぜひとも福島市内の病院も受けてみるようお願い申し上げます。
コメント (2)
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Q.人の人生は運命で決まっていると思いますか?

2010-11-15 19:14:11 | 哲学・倫理学ファック
これはとても哲学的 ・ 倫理学的な問いですね。
哲学 ・ 倫理学の歴史においては太古の昔から問われ続けている問題です。
自由論とか決定論と呼ばれています。
学問的レベルにおいては、未だに答えが出されていない問題ですが、
私としてはどうでもいい、と言うと言い過ぎですが、
まあそんなに悩むほどの問題ではないだろうと思っています。

いろいろな答え方が可能なのですが、
今日のところは次のようにお答えしてみることにしましょう。
例えば、私が誰かと出会って付き合い始めたとします。
その人と出会うことは運命によって決められていたのでしょうか?
そうかもしれません。
私が出会える人は相当限られています。
私と同じ時代に生まれていてくれないと出会えませんし、
同じ日本に、あるいは私が人生の中で訪れる場所の近辺にいてくれないと出会えません。
同じ学校や同じ職場に同じ時期にいたならば出会いの可能性は高まります。
自分と相手が同じ時期に同じ場所にいるというのは、
ある必然によって結ばれていたと言えるのかもしれません。

しかし、じゃあそういう人すべてと付き合うことになるかというと、
けっしてそんなことはありません。
その中でも、自分と趣味や考え方が合う人でないと、友人にすらならないでしょう。
同窓生、同期生、同僚であってもまったく付き合いのない人、
話したことすらない人というのはいくらでもいるはずです。
いや、ひょっとすると本当は趣味や考え方が合ったかもしれないのに、
たまたま同じクラスでなかったとか同じ部署ではなかったというだけで、
死ぬまで互いに名前も知らないままの同窓生や同僚がどこかにいたのかもしれません。
そう考えると出会いというのは完全なる偶然とも思えてきます。

そういう必然 or 偶然の出会いの中でも、実際に付き合うとなると、
そこには自分の取捨選択が絡んできます。
誘われたら絶対に付き合うことにしているという人でもないかぎり、
付き合うか付き合わないかについて、いちおうみんな自分なりに選択するのではないでしょうか。
だから、ひょっとすると今日も電車の中や学校の中で運命の出会いをしていたかもしれませんが、
その人と付き合うことを自分で決めない限り (もちろん相手にも選択権はあります)、
付き合い始めることはできないはずなのです。

こうして見てくると、誰かと出会って付き合い始めるということ1つを取ってみても、
すべては決められていたようにも思えますし、
すべてはたまたまにすぎないようにも思えますし、
自分が自由に選び取った結果のようにも思えてきます。
けっきょくのところ、どれが正解かはわかりません。
どれも正解ですし、どういう見方をしたいか次第だと言えるでしょう。
過去の出来事に関してはどの見方も成り立つのです。

では続いて、未来の出来事に関して考えてみましょう。
その、運命か偶然か自由選択かによって付き合い始めた人と、
これからも一生付き合い続けずっと幸せに暮らしていけるのかどうか、
もちろんそれも、運命によって決められているか、
偶然次第でどう転ぶかわからないのか、
あるいはそれは自分 (たち) の選択に委ねられているのか、
のどれかであり、どう考えることも可能でしょう。
しかし、過去の出来事の場合と未来の出来事の場合で決定的に違ってくるのは、
万が一、運命 (あるいは偶然) によってすでに決められているとしても、
今の時点でそれがどう決まっているかを知っている人はいない、
人間はそれを知ることはできない、ということです。
すでに起こってしまったことに関しては、もう結果がわかっているわけですから、
そうなることは決まっていた、と言うことは可能なのですが、
これから先に起こることに関しては、決まっていたとしてもそれは知り得ないのです。
たまに予知能力をもっていると主張する人が未来を予言するなんていうことがありますね。
私はまったくそんなものを信じていませんが、
たとえそういう人がいて何か予言してくれたとしても、私たち普通の人間にとっては、
実際にそれが起きてしまうまでは、本当に起こるかどうかはやはりわからないままなのです。

どう決まっているかがわからないのだとすると、
たとえ決まっていたとしても、そのことは私たちの人生にはまったく関係ありませんね。
私たち人間が死ぬということは決まっています。
だから私たちはそのことを覚悟して予期した上で生きていきます。
しかし、いつどこでどんなふうに死ぬかは、
決まっているかもしれないし決まっていないかもしれないし、
決まっていたとしてもそれを知ることはできませんから、
けっきょくそんなことを気にして生きていてもしようがないということになるのです。
誰と付き合うのか、いつ別れるのか、国家試験や採用試験に一発で受かるのか、
どんな上司と出会うのか、子どもがどんなふうに育つのか…、
それらはひょっとするとすでに決まっているのかもしれませんが、
どう決まっているかはわかりませんので、
それはけっきょく何も決まっていないのとまったく同じことなわけです。
どう決まっているかわからないのだとするならば、
私たちは自分が望む未来が実現してくれるよう、
その可能性を高めるための努力をするでしょう。
看護師になりたいのであればそのための努力をするでしょうし、
今付き合っている人とずっと付き合い続けたいのであれば、
そのための努力をするしかないでしょう。
逆に運命で決まっていたとしても、その努力をしないでよくなるわけではありません。
とすると、けっきょくは同じことなのです。
というわけでお答えは次のようになります。

A.決まっているか決まっていないかはわかりません。
  しかし、特に未来のことに関してはたとえ決まっていたとしても、
  今の時点でどう決まっているかを知ることはできないので、
  「運命で決まっている」 と考えることには生きていく上で何の意味もありません。
  それよりも、まだ何も決まっていなくて白紙なのだと考えたほうが、
  人生、前向きに生きていくことができるのではないでしょうか。
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日本海一人旅

2010-11-14 17:58:00 | 人間文化論
昨日は学会のあと4次会ぐらいまで飲んでしまいました。

もうベロベロです。

幸い今回の学会は土曜日1日だけですので、

今日はゆっくり寝ていられました。

まっすぐ帰ってもいいんですが、せっかくですので日本海マリンピアに来てみました。

誰に聞いたんだか忘れましたが、ここの水族館はサイコーだと聞いたことがあったのです。

ひとりで水族館に来たのなんて生まれて初めてかもしれません。

カップルや親子連れでにぎわっているなか、1人で自由にのんびり見て回りました。

子どもたちに混ざってイルカショーも見てしまいました。


〈フリスビーをナイスキャッチ〉


〈コラボレーション・ジャンプ〉


〈6mの大ジャンプ〉

水族館のちょっと先には日本海が広がっていました。



あいにくの天気ですが、海を見たのは久しぶりかもしれません。

特に日本海なんて何年ぶりでしょう。

すっかりお酒もぬけて、ゆったりと時間を過ごしました。

酒と食と海、たった2泊ですが、新潟を満喫することができました。
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新潟ひとり宴会

2010-11-13 07:21:02 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
本日、日本カント協会の学会が新潟大学で開かれるため、新潟にやってまいりました。
朝10時からの個人研究発表で司会をしなければならないので、前日に新潟入りしました。
たぶん当日の朝に出発しても間に合ったのかもしれませんが、
このあいだみたいなことがあるとマズイですので、いやが上にも慎重にならざるをえません。

せっかく前日に新潟にやってきたのですから、
夕食には新潟の郷土料理を頂くことにしました。
何年か前に日本倫理学会が新潟で開かれたことがあったので、
新潟の食に関してはある程度見当がついています。
新潟の人たちは飲んだあと、普通だったらラーメンで締めるところを、
「へぎそば」 で締めるのです。
へぎそばというのは新潟の郷土食で、つなぎに布海苔を使ったつるっとした喉ごしのおそばで、
それが、大きめの四角い木枠の器 (これを 「へぎ (片木)」 というらしい) に、
一口分ずつ丸めて盛りつけて供されます。
これが締めなので、新潟のおそば屋さんは12時過ぎまで営業しているのです。

このあいだのような失敗は繰り返せませんから、
新潟駅前の、呼び込みのお兄ちゃんがズラッと立ち並ぶ歓楽街で、
海の幸とへぎそばを同時に楽しめる店を物色して入店しました。
(居酒屋からそば屋へハシゴするのは危険と判断したわけです。)
選んだのは 「旬彩庵」 というお店です。
カウンターに1人陣取りましたが、お店の人と話ができるような造りにはなっていませんし、
幸い隣に日本酒好きの気さくなお客さんがやってくることもなかったので、
羽目を外すことなく、予定通りのペースで飲むことができました。
何はともあれまずは生ビールと刺身盛り合わせを頼みます。



佐渡島で獲れた新鮮な海の幸が豪勢に6種盛りで、なんと900円です。
ジジィの腹はもうこれだけで満腹になってしまいそうですが、
締めのへぎそばの他にせめてもう一品と思って、栃尾の油揚げを頼みました。



これも新潟ではどこのお店にも置いてある定番メニューです。
豆腐好き、油揚げ好きの私としては外すことはできません。
栃尾の油揚げはその大きさが特徴らしいですが、
今日は1人なのでハーフサイズです (380円)。
そして、生ビールはさっさと飲み干して新潟の地酒に移行します。
地酒とはいえ全国的に有名なお酒はたいてい新潟産なわけですから、
日本中どこででも飲めると言えば飲めるのですが、
今日は師匠もいないことですし、無難な路線で攻めることにしました。
最初は八海山、続いて越乃寒梅。
もちろん、恐怖の4合瓶も置いてありましたが、過ちは繰り返さず小徳利で頼みます。



越乃寒梅の徳利には 「越乃寒梅」 のラベルの名札がかけてあったのが笑いました。
たったこれだけ注文しただけでけっこうな時間楽しむことができました。
そしていよいよ、へぎそばを注文します。
「へぎ」 はけっこうデカいので、
へぎそばを頼むと最低でも2~3人前、普通は5~6人前になってしまうんですが、
メニューに 「天へぎそば (1人前)」 というのを見つけ、迷わずそれを注文しました。
へぎそばを1人前から注文できるんだあ、と (   ) 内にばかり目が行っていて、
一人前用の小っちゃいへぎが出てくるのかなあとばかり想像していたので、
持ってこられたときには一瞬ヘッ?と思ってしまいました。



そりゃそうですね。
「天」 と書いてあれば天ぷらのことですよね。
天ぷらをのせたザルがへぎの左側に乗っていますので、
だからそばの量が減って一人前のへぎそばが可能になるわけです。
「天へぎそば」 とちゃんと書いてあるのに天ぷら付きと気づかないなんて、
とんだ間抜けです。
シシトウ×2、ナス×1、エビ×2、カボチャ (大) ×1とこれまた大盛りです。
そばも普通よりはやはり多目ですので、これで1,480円はお買い得です。
これだけ大量の天ぷらまで付いているなら、締めではなくもっと早めに頼んで、
油揚げはやめておけばよかったかなあと若干後悔しましたが、
とても美味しくて、けっきょく全部ペロリと平らげてしまいました。

みんなに写メつきで実況したりしながら、1人で2時間以上楽しんでいたでしょうか。
それでも10時過ぎにはスキッと退散して、
余裕をもってホテルに帰ってくることができました。
このあいだの失態で下がり気味だった自己効力感をちょっと取り戻して、
幸せな新潟の夜となりました。
今日の学会も存分に楽しんできたいと思います。
たぶん懇親会には新潟の地酒が並ぶのでしょう。
楽しみです
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運動神経悪い芸人・学者

2010-11-12 12:09:52 | 教育のエチカ
昨日、「アメトーク」 で 「運動神経悪い芸人」 というのをやっていました。

久しぶりに腹を抱えて笑いました。

運動神経が悪いと自認している芸人さんたちに水泳やら野球やらやってもらうのですが、

これがもう神業的なボケの連発で、

しかし御本人たちはいたって素で大真面目に取り組んでいるようです。

思い出話もいろいろ語ってくれましたが、

物悲しくも爆笑のエピソードの数々です。

実は私も運動神経のない子どもだったので、身につまされる話でもあります。

小学校時代、私は6年間ずっと体育で2を取り続けました (5段階評価)。

1をつけることはない絶対評価の学校だったので、

2というのは最低を意味します。

4年生のある学期末、いつも体育2の私にこれから父母面談に向かおうという母が、

今回は体育はどうだったのと聞きました。

その学期はたまたま、水泳や跳び箱のように体力や運動神経がモロに出る種目ではなく、

球技ばかりだったので、いつもよりは何とかなっていたんではないだろうかと思い、

ちょっとはよかったかも、ひょっとしたら3くらい取れてるかも、

とちっちゃいまあちゃんは答えたのでした。

しかしながら、やはり体育は2。

母は担任の先生に、本人は今回はちょっとはがんばれたかもと言ってたんですけどねぇ、

と伝えたところ、

先生の答えは、小野原君ができるときは他のみんなはもっとできるんでしょうねえ、でした。

そして、体育の担当の先生 (うちの小学校は3年生以上は中学校のように教科ごとに担当)

からの評価のお言葉も伝えられました。


「何をやらせても何やってるかわからん」


うーん、強烈な評価ですね。

今から思うと、これが教育者が子どもに投げかける言葉とはとても思えません。

特にあの頃の体育の先生って、ただ子どもにやらせてるだけで、

上手くできるように何か指導してくれることなんてまったくありませんでしたので、

お前は教育者としていったい何をしてくれたんだ、何様のつもりだっ、

と今だったら文句の1つも言いたいところですが、

当時は、親子ともどもこの教師からの言葉をじっと受け入れるしかありませんでした。

しかし、アメトークで見た 「運動神経悪い芸人」 さんたちがスポーツをやっている姿はまさに、

「何をやらせても何やってるかわからん」 感じでしたので、

子どもの頃の私は客観的にはあんなふうに見えていたのでしょうね。

そしてもちろん、今も私がスポーツをやればああ見えるんでしょうね。

「運動神経悪い学者」 という特集のときにはぜひ出演させていただければと思います。
コメント (2)
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