私は倫理学なんかを研究していますし、
そのなかでも特にカント倫理学を愛好していますから、
平等とか普遍化可能性という原理に心酔していて、
したがって男女の問題に関しても、男女平等当たり前でしょという立場に立っています。
しかし、これは哲学や倫理学に関心を抱くようになって、
理性的に考えるようになってから、男女は平等であるべきだと考えるようになっただけで、
もともとは親や友人たちやマスコミからの影響により、性差別的な考えももっていましたし、
男はこうあるべき女はこうあるべきみたいなジェンダー・バイアスに毒されたフツーの男子でした。
ですので、男女平等論者になった今も、私の深層部分にはジェンダー・バイアスが残っていて、
時折それらがふと頭をもたげてくることがあります。
最近気づいた自分のなかのジェンダー・バイアスを列挙してみることにしましょう。
・トートバッグって女性の持ち物。
・日傘をさすのは女性だけ。
・男はじゃらじゃらストラップ付けたり、家にぬいぐるみ持っていたりしない。
・女は格闘技なんか見ない。
・マンガやアニメやゲームにはまるオタクはみんな男。
・女性はきれいなもの、かわいいもの、甘いものが好き。
・女性はみんなお風呂に入るのが好き。
・女性はみんなアボカドが好き。
・男なら最初の乾杯はビールを飲むべき (飲めない人を除く)。
・お酒飲んで割り勘にするとき男性は5000円、女性は3000円とか均等割りにしない。
・道を歩くとき男が車道側を歩くべき。
・重い物を女性に持たせてはいけない。
うーん、けっこういろいろ出てくるもんですね。
最後のほうのいくつかは昔ながらのフェミニスト (女性を守ってあげる騎士道的な) の名残です。
女性は守ってあげるものという考え方自体が女性差別の温床なのかもしれませんが、
これはなかなか簡単に消し去れるものではありません。
ジェンダー研究会の飲み会でつい割り勘を別金額で計算してしまったり、
フェミニスト女性研究者に 「荷物お持ちしましょう」 と言って白い目で見られたりしたことがありました。
こういう自分のなかのジェンダー・バイアスとひとつひとつ向き合っていかないと、
男女平等な社会はいつまで経っても実現しないのかもしれません。
そのなかでも特にカント倫理学を愛好していますから、
平等とか普遍化可能性という原理に心酔していて、
したがって男女の問題に関しても、男女平等当たり前でしょという立場に立っています。
しかし、これは哲学や倫理学に関心を抱くようになって、
理性的に考えるようになってから、男女は平等であるべきだと考えるようになっただけで、
もともとは親や友人たちやマスコミからの影響により、性差別的な考えももっていましたし、
男はこうあるべき女はこうあるべきみたいなジェンダー・バイアスに毒されたフツーの男子でした。
ですので、男女平等論者になった今も、私の深層部分にはジェンダー・バイアスが残っていて、
時折それらがふと頭をもたげてくることがあります。
最近気づいた自分のなかのジェンダー・バイアスを列挙してみることにしましょう。
・トートバッグって女性の持ち物。
・日傘をさすのは女性だけ。
・男はじゃらじゃらストラップ付けたり、家にぬいぐるみ持っていたりしない。
・女は格闘技なんか見ない。
・マンガやアニメやゲームにはまるオタクはみんな男。
・女性はきれいなもの、かわいいもの、甘いものが好き。
・女性はみんなお風呂に入るのが好き。
・女性はみんなアボカドが好き。
・男なら最初の乾杯はビールを飲むべき (飲めない人を除く)。
・お酒飲んで割り勘にするとき男性は5000円、女性は3000円とか均等割りにしない。
・道を歩くとき男が車道側を歩くべき。
・重い物を女性に持たせてはいけない。
うーん、けっこういろいろ出てくるもんですね。
最後のほうのいくつかは昔ながらのフェミニスト (女性を守ってあげる騎士道的な) の名残です。
女性は守ってあげるものという考え方自体が女性差別の温床なのかもしれませんが、
これはなかなか簡単に消し去れるものではありません。
ジェンダー研究会の飲み会でつい割り勘を別金額で計算してしまったり、
フェミニスト女性研究者に 「荷物お持ちしましょう」 と言って白い目で見られたりしたことがありました。
こういう自分のなかのジェンダー・バイアスとひとつひとつ向き合っていかないと、
男女平等な社会はいつまで経っても実現しないのかもしれません。