まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

私のなかのジェンダー・バイアス

2014-06-30 18:48:02 | 性愛の倫理学
私は倫理学なんかを研究していますし、
そのなかでも特にカント倫理学を愛好していますから、
平等とか普遍化可能性という原理に心酔していて、
したがって男女の問題に関しても、男女平等当たり前でしょという立場に立っています。
しかし、これは哲学や倫理学に関心を抱くようになって、
理性的に考えるようになってから、男女は平等であるべきだと考えるようになっただけで、
もともとは親や友人たちやマスコミからの影響により、性差別的な考えももっていましたし、
男はこうあるべき女はこうあるべきみたいなジェンダー・バイアスに毒されたフツーの男子でした。
ですので、男女平等論者になった今も、私の深層部分にはジェンダー・バイアスが残っていて、
時折それらがふと頭をもたげてくることがあります。
最近気づいた自分のなかのジェンダー・バイアスを列挙してみることにしましょう。

・トートバッグって女性の持ち物。

・日傘をさすのは女性だけ。

・男はじゃらじゃらストラップ付けたり、家にぬいぐるみ持っていたりしない。

・女は格闘技なんか見ない。

・マンガやアニメやゲームにはまるオタクはみんな男。

・女性はきれいなもの、かわいいもの、甘いものが好き。

・女性はみんなお風呂に入るのが好き。

・女性はみんなアボカドが好き。

・男なら最初の乾杯はビールを飲むべき (飲めない人を除く)。

・お酒飲んで割り勘にするとき男性は5000円、女性は3000円とか均等割りにしない。

・道を歩くとき男が車道側を歩くべき。

・重い物を女性に持たせてはいけない。

うーん、けっこういろいろ出てくるもんですね。
最後のほうのいくつかは昔ながらのフェミニスト (女性を守ってあげる騎士道的な) の名残です。
女性は守ってあげるものという考え方自体が女性差別の温床なのかもしれませんが、
これはなかなか簡単に消し去れるものではありません。
ジェンダー研究会の飲み会でつい割り勘を別金額で計算してしまったり、
フェミニスト女性研究者に 「荷物お持ちしましょう」 と言って白い目で見られたりしたことがありました。
こういう自分のなかのジェンダー・バイアスとひとつひとつ向き合っていかないと、
男女平等な社会はいつまで経っても実現しないのかもしれません。

池井戸潤の金融小説

2014-06-29 23:42:04 | お仕事のオキテ
世間的には今さらなのかもしれませんが、
このところ遅ればせながら池井戸潤原作の金融小説を読んでいます。
ブックオフでたまたま見つけたから読んでみただけですが…。
まずはこの2冊。



このタイトルだけ見てわかる人はわかるんでしょうか?
そうです。
あの大ヒットドラマ 『半沢直樹』 の原作です。
残念ながら私あのドラマは見ていません。
あれだけ大騒ぎになって 「倍返し」 は流行語大賞にも選ばれていましたが、
私は完全に乗り遅れてしまって見損なってしまいました。
軽くA型的なところもある私、ドラマ見るなら第1回から全部録画して見たいタイプなんですが、
大部分を占めるB型気質のため、次クールの新番組をチェックして録画予約しておくことができず、
そのためけっきょく第1回を見逃し、そのまま全部見損なうというパターンが多いです。
ましてや朝の連ドラみたいに毎日あるなんていうやつはゼッタイにムリで、
したがって去年は 『あまちゃん』 も見逃してしまい、
てつカフェ2次会でのみんなの話題に付いていけないなんていう屈辱も数多く経験しました。
『あまちゃん』 の次に話題になっていた 『半沢直樹』 にも完全に取り残されたわけです。
途中1回だけザッピングしている最中に見てけっこう面白くてそのまま見たことはありましたが、
もはや話に付いていけないぐらい物語は進んでしまっていて、
今さらそこから録画予約する気にはなりませんでした。

そうやってすれ違ってしまってからだいぶ経ったのちに、
ドラマ 『半沢直樹』 の原作本があることを知りました。
古本屋ではないフツーの本屋さんで上掲の文庫本を見かけ、
その帯かPOPに 『半沢直樹』 の原作と書いてあったのを見たのだと思います。
ただ私、小説の類に関してはよっぽど好きでもないかぎり古本屋で買えばいいと思っていて、
(新刊書店には専門書で相当儲けさせてあげているはずですから…)
たまたまブックオフで見かけたら買えばいいやと思っていたのですが、
つい最近までずーっと買えずにいました。
これらの本がブックオフに流れていなかったからではありません。
『半沢直樹』 の原作本が何というタイトルだったかが思い出せなかったからです。

小説のタイトルは 『オレたちバブル入行組』 と 『オレたち花のバブル組』 ですよ。
これが 『半沢直樹』 の原作とはまったくわからないじゃないですか。
しかもどっちが1作目でどっちが2作目かもわかりませんよね?
こうやって2冊並べられないかぎり、そもそも2冊が別の本だということすらわかりません。
新刊書店なら2冊並べて陳列してくれるのかもしれませんが、
古本屋では2冊とも入荷しているとはかぎりません。
私の場合、たまたま1作目、2作目の順番で手に入れられたからよかったものの、
逆の順番で買って読んでしまうということだってありえました。
そして、1冊読み終わった時点でも、自分がどっちを持っていてすでに読み終わったのか、
タイトルだけではまったく思いだせず、中を開いてみないとわかりませんでした。

ていうくらいこの小説のタイトルはダメだと思うのです。
あのドラマも 『オレたちバブル入行組』 というタイトルだったら、
あれほどの視聴率は取れなかったことでしょう。
ホント、センスないよなあ。
それに比べて 『半沢直樹』 っていうドラマのタイトルはいいと思います。
小説のほうもドラマに合わせてタイトル変えちゃえばいいのに。
たまにそういうことってありますよね (『笑う警官』 とか)。
『半沢直樹 1』、『半沢直樹 2』、『半沢直樹 3』 とかってしてくれたら、
小説ももっと売れるんじゃないかと思うんですが…。
せめて、第2作の 『オレたち花のバブル組』 はやめて、
『ロスジェネの逆襲』 のように第1作とはかけ離れたタイトルにして、
副題で 『オレたちバブル入行組 2』 と小さく入れるみたいにしてほしかったと思います。

これだけタイトルに文句言うのは、小説自体はとても面白いからです。
せっかく小説は面白いのに、タイトルはその中身から外れちゃってるんだよなあ。
たしかにバブル入行組の話ではあり、
第2作のほうでは同期入行組が結束して事に当たる感じも醸し出していますが、
少なくとも第1作のほうは 「オレたち」 という仲間の連帯の話でもなければ、
「バブル入行組」 にのみ固有な問題を描いているわけでもないのです。
ホント 『半沢直樹』 で十分なわけです。
なんであんなタイトルにしちゃったかなあ?

そして、最近読んだのがこれです。



これもおわかりでしょうか?
ドラマ 『花咲舞が黙ってない』 の原作本になります。
今クールでは一番視聴率を稼いでいたようですね。
これは最初から録画して全部見ることかできました。
ドラマとしても小説としても 『半沢直樹』(『バブル組』) シリーズほどではないと思いますが、
そこそこ面白かったのではないでしょうか。
にしても、この原作のほうのタイトルのダメさ加減はあいかわらずです。
なんでこれが 『不祥事』 なんだろうなあ?
小説家も出版社の編集もセンスないったらありゃしません。
それに比べてTBSのセンスはさすがです。
『花咲舞が黙ってない』、うん、いいじゃないですか。
このドラマ (と小説) の本質を射抜いています。
小説の段階でこれくらいのセンスを発揮していただきたいものだと思います。
ほかにも 『下町ロケット』 などを読みましたが、
これはもうこれ以外のタイトルが思いつかないいいタイトルだったと思います。
タイトルの付け方が下手っぴいだなあと思うところが多々ありますが、
池井戸潤氏の金融小説、けっこう勧善懲悪的で倫理的な人にはお勧めだと思います。
このどす黒い世の中でたまにはスカッとしたいと思っている人、ぜひ読んでみてください。

突然死を招く悪習慣ランキング

2014-06-27 18:45:05 | 生老病死の倫理学
なんか最近こういう記事が気になるんですよね。

「突然死を招く悪習慣」ランキングが話題、1位の内容に納得いかない人も

50を越えていろいろと不安になってきているということでしょうか?

でもテレビでもついこのあいだこんなような特集をやっていて食い入るように見てしまったし。

この情報の出所は中国系のようで、その内容にどこまで普遍性があるのかわかりませんが、

悪習慣ランキングだけここに転載しておきましょう。


■突然死を招く悪習慣ランキング

1.繁華街で自転車に乗る

2.排便時に力む

3.お酒やコーヒーの大量摂取

4.鬱々した気持ちをためる

5.暴飲暴食

6.過剰な性の生活

7.座ったまま動かない

8.喫煙 (受動喫煙を含む)

9.極端に塩辛いものや甘いものの摂取


たしかに1位はビックリだし、納得がいきません。

街中で自転車に乗ってると突然死してしまうだなんて。

福島なんて多くの若者たちが自転車通学しているじゃないですか。

あれは中国のように、車が大渋滞していて排気ガスがもうもうと立ち込めているなかを、

大量の自転車が争うように走ったりする場合に限られるのではないでしょうか?

それとも、そういう条件に関わらずやはり繁華街で自転車に乗るのは危ないことなのでしょうか?

私は以前、健康のために (それとダイエットのために) 自転車通学しようかと考えたことがあります。

大学まで10km。

これを毎日、自転車で往復したら相当身体にいいんではないかと考えました。

ただそれに対しては2つほど躊躇するポイントもありました。

ひとつは伏拝のあの坂を登り切れるのか、という問題。

ま、私のようなサイクリング初心者にはムリでしょう。

そのため自転車を買うなら電動アシスト付きにする必要があるだろうなと思い、

ちょっといろいろ調べてみたこともありました。

けっこう買う気になっていたのですが、もうひとつ問題がありました。

それが排気ガスです。

自転車通学するとなると4号バイパスか旧4号を通るしかありません。

どちらも車の通行量がすごいので排気ガスは思いっきり吸うことになるでしょう。

特に伏拝の坂をゼーハー言いながら自転車こいでいると、

吸い込む排気ガスの量もものすごいことになるのではと予想されました。

そんなこんなで自転車通学に踏み切ろうかどうしようか悩んでいるうちに原発事故が起きてしまい、

排気ガスよりも放射線問題によって断念することになりました。

ひょっとすると原発事故がなかったら、今ごろ排ガスのため突然死してしまっていたかもしれません。

人生どうなるかわからないものですね。

おかげさまで突然死の第1要因は避けることができたわけですが、

あとは2位、3位、5位、7位が要注意ですね。

気をつけて生きていきたいと思います。

さーて、今日もこれから飲み会だっ

飲むぞぉ

理解不能な他者に寄り添うとは

2014-06-26 12:50:48 | 幸せの倫理学
先日 「異化による理解」 について書きましたが、

そうは言っても自分とまったく異なる他者を理解するのは難しいことです。

ましてや理解不能な他者に寄り添うなんてそうそうできることではありません。

ですが、最近ネットで話題になっているこの話は、

まさに理解不能な他者に寄り添うとはどういうことかを示してくれているような気がします。

理解不能な他者はこの人↓です。

フリーライターの工藤孝浩さん。

この方は東横インが好きなのだそうです。

(ああ、もうすでに理解不能。)

御自分のHPで 「なぜ僕は東横インが好きなのか」 について説明してくれていますが、

いくら読んでもまったく意味不明です。

1ミクロンも共感することができません。

ところが。

この方の伴侶となった方の、この意味不明の趣味に対する寄り添い方が尋常ではありません。

その人自身は彼の東横イン愛にまったく共鳴できていないんですが、

理解不能なまま丸ごと包み込み、深い愛を捧げています (愛とは時間である)。

その壮大な軌跡がこちら↓です。

「愛する人に東横インをプレゼントしよう」

よく作ったなあ、こんなもん。

理解不能な他者に寄り添うことの難しさと尊さを思い知らされます。

ちなみにこの記事はネット上で大ブレイクし、

その後、やっぱんつさんは東横インから感謝状をもらったそうです。

たぶん感謝状なんかもらってもちっとも嬉しくなかったんだろうなあ、やっぱんつさん自身は。


P.S.

やっぱんつさんのHPの他の記事も面白いです。

「サラ・ジェシカパーカーになりたい」

「無邪気になりたい大人の遠足-1」 「2」

Q.人の気持ちをわかってあげるのが下手なんですがどうしたらいいでしょうか?

2014-06-23 15:42:52 | お仕事のオキテ
相馬の看護学校の 「哲学」 の授業はとっくに終わってしまいましたが、
第1回目のときにいただいた質問には全部お答えできたわけではなく、
まだだいぶ未解答のまま残っています。
その後、福大での 「倫理学概説」 のほうが軌道に乗ってしまったので、
そちらでいただいた質問に答えたりしているうちに、
いよいよ看護学校でいただいた質問が後回しになってしまっていて申しわけありません。
答えにくい質問ばかり残ってしまっているのでなかなかすんなりお答えすることができませんが、
忘れてしまったわけではないので、いい答え方を思いつき次第、順次お答えしていきたいと思います。
今回の質問は正確には次のように質問でした。

「Q.私は人の気持ちとかをわかってあげるのがすごく下手な気がします。
   学校に入ってからは意識して人を観察するようになったのですが、
   相手がどうしてほしいか、何を言ってほしいかなどを想像できないです。
   看護師になるために、どのようなことを心がけていけばよいでしょうか?」

なかなか切実な問題ですね。
実は私も似たような問題を抱えています。
ストレングス・ファインダーで調べてみると、「共感性」 がけっこう低いです。
ただ私の場合は倫理学者になることができたので、共感性が低くてよかったと思っています。
もちろん倫理学者のなかにも共感性の高い人はいらっしゃいますが、
私の場合は相手の気持ちをわかってあげたり、
どうしてほしいか何を言ってほしいか想像してあげたりすることができないので、
その分、自分と相手は違う (かもしれない) ということを前提にして相手と接するべきであり、
以心伝心よりも言語コミュニケーションによって相手の気持ちを確認することを重視する、
ロゴス優位の倫理学を志すことになりました。
ストレングス・ファインダーの基本的考え方は、人間の強み弱みは変えることができないので、
強みはとことん伸ばし、その強みを活かせる仕事をすればいい、
それに対して弱みの部分に関してはさっさと見切りをつけて、
得意な人と組んでその人にやってもらえばいい、というふうに割り切ります。
倫理学者という仕事自体が共感性をあまり必要としない仕事であったことに加えて、
倫理学のなかでも共感性に依拠しないタイプの理論を選ぶことによって、
私は共感性が低くても何の問題もなく生きていくことができているわけです。

質問者の方は看護職を目指しているわけで、
一般的に言うと看護師というのは人の気持ちをわかってあげたり、
相手がどうしてほしいか、何を言ってほしいか想像できる人が向いていると考えられています。
たしかにそれはそうかもしれません。
しかし、看護師はみんながみんなそういう共感性の高い人ばかりである必要があるでしょうか?
患者さんにもいろんな人がいます。
何も言わなくてもすべてわかってくれて、
何でも先回りして世話してくれるような看護を喜ぶ人は多いでしょうが、
そういうことを鬱陶しいと感じる患者さんも中にはいるかもしれません。
ちょっとした表情や仕草でいろいろな感情を伝えることができる患者さんもいるでしょうが、
外見と真意がかけ離れている患者さんもけっこういることでしょう。
もしもそういう患者さんがいたときに、
共感性の高い看護師さんだと自分の予想を患者さんに押しつけてしまい、
パターナリズムに陥ってしまうかもしれません。
そういうときには共感能力が低くとも、
みんながみんな同じとは限らないのでひとつひとつきちんと言語で確認することが大事と考えて、
慎重に相手との距離を見定めようとする看護師さんもいたほうがいいでしょう。

職業によってある特定のタイプの人間が重宝がられるということはあるのですが、
しかしどんな職業でもみんながみんなステレオタイプ化してしまうといいことはありません。
いろんなタイプの人間がいてこそいろんなタイプのクライアントに対応することができるのです。
自分がどういうタイプの人間かわかっているというのは大事なことです。
人の気持ちをわかってあげるのが下手なのに、
自分は人の気持ちをわかってあげるのが得意だと勘違いしてる場合が一番厄介です。
自分がそれは苦手だとわかっているのであれば、
ムリにわかってあげようとするのではなく、それは得意な人にお任せして、
自分は自分に合った方法で相手と接するようにすればいいのではないでしょうか。
以前に一般論としてこんなことを書いたことがあります。

「まずは自分をしっかり見つめ、いいところダメなところを把握して、
 ダメなところ、改善のしようのないところはあっさり受け容れ、そこで戦うのは諦めて、
 自分の得意なところ有利なところを精一杯伸ばし、
 誰にもマネできない自分にしかできないニッチを自分の拠り所としたら、
 それによって自分に自信を持つことができるのではないでしょうか。」

それに倣って今回のご質問には次のようにお答えしておきたいと思います。

A.みんなと同じ看護師を目指すのではなく、自分の得手不得手を見定めて、
  自分にしかできない看護を提供できるようなニッチな看護師になってください。

福大附属中・学校公開 「きまりについて考える」 授業

2014-06-21 13:10:17 | グローバル・エシックス
来週の24日 (火)、25日 (水) に福島大学附属中学校の学校公開が行われます。
2日間にわたって全教科の授業を公開してそれぞれ検討会を行います。
全国各地から先生方や教員志望の学生たちが参観に訪れる、附属中学校の一大イベントです。
附属の先生方は毎年、この学校公開に向けて準備が大変です。
附属が他の公立学校よりも多忙である要因の大半がこの学校公開です。
先生方は皆さん、平常業務も睡眠時間も切り詰めて公開授業の準備に忙殺されます。
とはいえ、新しい教育方法の研究・開発というのは附属学校園の存在意義のひとつですので、
誰も文句1つ言わずにこのハードワークに耐えていらっしゃいます。

附属学校園の使命ということはそれを運営している大学側の使命でもあり、
とりわけ教員養成系学部であるわが人間発達文化学類もその使命を担っています。
以前は社会科教育学の専門家や政治学の専門家がいらっしゃいましたので、
私が附属の学校公開に関わるということはありませんでした。
ところが定員削減のためそうした専門家の先生たちの後任を補充できなかったり、
私が若干、教育のことに関心を持ちはじめたということが先生方のあいだで広まったりした結果、
7、8年前くらいから社会科公民分野の研究協力者として声をかけていただくようになりました。
授業案や事前授業の検討において助言したり、
当日の分科会 (授業検討会) で講評を述べたりという偉そうな役回りです。
私は倫理学者なので中学校社会科の授業のことなんてわかりませんと当初は逃げ腰でしたが、
倫理学者の立場から気になったことだけ言ってもらえればいいとのことで、
ここ数年はずっとこの大任を何とか務めさせていただいております。

さて、今年も3年生の公民分野の授業の研究協力者なんですが、
今年は珍しく昨年と同じ村上淳先生の授業を拝見することになりました。
附属は基本持ち上がりで一学年ずつ担当しているので、
これまでは3年生の担当の先生は毎年変わっていたのですが、
今年は人事等の関係でローテーションを変えざるをえなかったのだそうです。
村上先生が2年連続、3年生の公民分野で公開授業をできるということで、
去年の授業案をベースにしつつ、去年の反省や学びを踏まえて改善する授業に挑戦しています。

昨年の公開授業のときから、村上先生は 「きまりについて考える」 という単元で授業をしています。
それ以前の先生方は私に合わせてくださっているのか、人権の単元で授業づくりをしていました。
ところが、学校指導要領の改訂に伴い教科書も改められて、
人権を学習する前に、きまりについて考える単元が新たに設けられるようになりました。
これはけっこう画期的な変化で、いろいろ問題もはらんではいますが、
うまく教えることができれば社会科 (公民分野) のあり方を一新することができるのではないかと、
私は内心ひじょうに楽しみに思っているところです。
この単元では、人々が集まれば何かしら対立が生じるのだけれど、
そこからいかに合意を作り出すことができるかということを学んでいきます。
「倫理学概説」 の内容に引きつけて言うならば、
自由や各人の追い求める幸福は何らの制限も課さなければ相互に衝突してしまうので、
各人の自由や幸福が共存しあえるためにはどのようなルールが必要か、という問題に接続します。
つまり、対立する他者と共存するためにきまりが必要なのであるということを学び、
さらに、誰もが納得できるようなきまりをどう生み出したらいいかという、
創造的問題解決の方法まで考えていくような単元となっているのです。

この単元では合意に向かうために 「公正」 と 「効率」 という2つの観点から、
きまりの良し悪しを吟味していくことが目指されています。
これも倫理学的に言うならば、社会契約説 (人権思想) と功利主義との二者択一ではなく、
双方の原理と照らし合わせることによってより汎通性の高いきまりを志向していることになります。
教科書では学校や地域の自治会など身近な例を設定し、
対立を合意にもたらすことの意義と方法をより具体的に考えてもらえるように配慮されていました。
村上先生の授業では、マンションでのペット問題を設定して、
生徒たちにロールプレイングを行わせながらきまりについて学ばせていきます。
最近では、住民たちが抱える問題をこうした話し合いを通じて解決していく、
という手法が現実の政治・行政の世界でも定着しつつありますが、
そうしたことを中学校の頃から社会科のなかで学べるというのは素晴らしいことだと思います。
これはまさにシティズンシップ教育の萌芽と言っていいんではないでしょうか。
まだ公開前ですのでこれ以上ネタバレさせることはできませんが、
関心をもった方はぜひ附属の学校公開にご参加ください。
社会科の公開授業は2日目の6月25日 (水) です。
私の数少ないスーツ姿を見るチャンスでもあります。
「倫理学概説」 の受講生、教員志望の学生、公務員志望の学生は万障繰り合わせて参観し、
午後の分科会でもぜひ積極的に発言や質問をしていただきたいと思います。

福島大学附属中学校 「学校公開」
日時:6月24日 (火)
 国・数・音・体
    6月25日 (水) 社・理・美・家・英
         9:00~      受付
         9:30~ 9:45 全体会
        10:00~10:50 公開授業Ⅰ (社会科公民分野)
        11:00~12:00 公開授業Ⅱ (社会科地理分野)
        13:00~15:30 分科会

Q.先生の最も幸せを感じることって何ですか?

2014-06-20 23:43:23 | 幸せの倫理学
このブログのなかの 「幸せの倫理学」 というカテゴリーでは、
私にとっての幸せな事柄についていろいろと書き散らかしてきました。
そこから派生した 「飲んで幸せ・食べて幸せ」 のカテゴリーには飲食関連の幸せな話が満載です。
ですので、私が何に幸せを感じるかに関してはそれらを読んでいただければと思いますが、
そのなかで最も幸せを感じることは何なんでしょうか?
そもそも①自らの欲求・欲望をコントロールして②満足しやすい感受性を育てておく
というのが私の基本的な幸福観なわけですから、
日常のちょっとしたことにも幸せを感じることができるようになってしまっています。
したがって、ふだんから 「最も幸せ」 な状態を追い求めたりしないようにしていますし、
何が 「最も幸せ」 なのか意識することすらありません。
ですので、今回もこのような質問をもらってちょっととまどってしまいました。
虚を衝かれるとはこういうことです。
まあ、せっかく質問をいただいたのでちょっと考えてみることにしましょう。

私も幸福に関しては快楽主義の立場に立って解釈していますので、
身近なところで得られる快楽というのは幸福の重要な要素だと思います。
「幸せの倫理学」 よりも 「飲んで幸せ・食べて幸せ」 のカテゴリーのほうが、
あとから派生したにもかかわらず、記事数が多くなってしまっているということからも、
美味しいお酒を飲んだり、美味しい食べ物を食べることが、
私にとってとても大切であるということがわかるかと思います。
これには環境も大きく影響しているのではないでしょうか。
うちの母は、衣食住のうち着るものと住むところというのは形として残るけれど、
食べ物は食べたその日になくなってしまって後に残ることがない、
だからこそ食にお金をかけるというのは一番贅沢なことなんだ、とよく言っていました。
見栄っ張りな人は豪華な家に住み、綺麗な服を着たがるけれど、
人に見られることのない日々の食事にお金をかけようとしない、
そうではなく日々口にするものこそ身体を作るものなんだから大切にするべきだと教え込まれました。
たしかお酒を飲むことを教えてくれたのも (まだ小学校だったときに!) 母だったと思いますが、
その母の影響を受けたのか、飲食というのは私にとってとても大事なものです。

先日紹介した 『友だち幻想』 では幸福の要素として、
自己充実と他者との交流 (交流そのものの歓び、他者からの承認) が挙げられていました。
これらはいずれも精神的な快楽ですね。
まず自己充実 (=自己実現) に関して言うと私は、
文章を書いたり、人に何かを説明したりということによって大きな幸せを得られるタイプのようです。
ですから、このブログを書いているとき私は無上の幸せを感じています。
書くのに比べて話すのはそれほど得意ではありませんが、
講義をしているときもそれに近い快楽を感じるときがあります。
それに比べて論文を書いているときというのは、もちろん若干の幸福を感じるときもあるのですが、
幸福というよりは苦しさや義務感のほうが先に立つことのほうが普通です。
ただし、めったにあることではありませんが、ブログや講義と同様、論文に関しても、
書き終わった後に他者から評価してもらえることが本当にたまにあって、
そういう他者からの承認はこの上ない幸せと言えるでしょう。

しかし、精神的快楽に関して言うと、やはり他者との交流そのものの歓びというのが、
一番大きいのではないでしょうか。
愛する人、信頼する人々と共に過ごし語り合う時間というのは、
何ものにも代えがたい幸せをもたらしてくれます。
そのなかには自己充実と他者からの承認も同時に含まれているように思います。
みんなもそうじゃないですか?
愛する人と一緒に過ごす時間というのは何よりも一番幸せですよね。

ちょっと自己充実 (=自己実現) に話を戻しますが、私の強みの第1位は 「着想」 です。
アイディアを思いつくというのが私の一番の強みなのです。
そう考えると、ブログや講義や論文というのは私の強みを活かせるので幸せになれるのです。
(逆に言うと論文はアイディアだけでは書けないので幸福の純度が低いのかもしれません)
そして、アイディアを思いつくためには、いろいろな刺激が必要です。
そのためにふだんからたくさん本を読んでいるわけですし、いろいろな情報に接しているわけです。
しかし、そういうアイディアって活字情報ばかりでなく、
実際に面と向かって人と話しているときに浮かんでくることが多いです。
人と話していると、特に複数の人と話していると思いもよらぬほうに話が展開し、
そこにいる誰もが予想もしていなかったアイディアがひらめくなんてことがあります。
これは私にとっては本当に幸せなことで、そこでは交流そのものの歓びと、
自分の強みを活かすという自己充実とが同時に経験されているわけです。
このようにいろいろな幸福が同時に経験されると、
それらの幸福は増幅され最大化されるのではないでしょうか。

と、ここまで考えてきた上で御質問の 「Q.先生の最も幸せを感じることって何ですか?」 に戻ると、
今まで挙げたような幸福をすべて同時に叶えられるようなことがあれば、
それが私にとっての最も幸福なことであるように思えてきました。
そうした場がひとつだけ思い当たるのです。
というわけで今回の質問には次のようにお答えすることにいたしましょう。

A.てつがくカフェ@ふくしまの2次会 (=懇親会) にいるときが一番幸せです。

美味しい飲み物と食べ物、愛し信頼し承認しあえる人々との交流、
私の話を聞いてくれる人々、アイディアを刺激する知的な会話…。
もちろん、てつカフェ自体 (=1次会) も幸せな空間ではあるのですが、
やはり、ファシリテーターや書記係や世話人としていろいろ気を遣わなければなりませんし、
コーヒーはありますが、基本的には精神的快楽のみです。
それに比べて2次会は一切の気苦労から解き放たれて、
アルコールも入り、ただひたすら自分の幸せだけを追求していればいいのです。
なんて幸せな時間なのでしょう
以前に御紹介した 『幸福の習慣』 という本では、「ウェル・ビーイング (=幸福・人生の満足)」 とは、

①仕事に情熱を持って取り組んでいる (仕事の幸福)
②よい人間関係を築いている (人間関係の幸福)
③経済的に安定している (経済的な幸福)
④心身共に健康で活き活きしている (身体的な幸福)
⑤地域社会に貢献している (地域社会の幸福)

これら5つの要素が一体となっている状態だと書いてありました。
てつがくカフェをやっているときというのは、この中の①②⑤が満たされた状態です。
2次会になるとお酒と食べ物が加わって④身体的幸福も満たされることになります。
(あれだけ飲むと健康に悪いという話もありますが、あれだけ飲めるのは健康だからでしょう
経済的な幸福以外はすべて満たされているわけです。
どうやら、てつカフェ2次会は私が最も幸せでいられる場所だったようです。
なんとタイムリーなことに明日は第24回てつがくカフェ@ふくしまです。
最高に幸せな私の姿を見たい人は是非てつカフェ参加後、2次会にも出てみてください。

飲みつぶれて眠るまで飲んで♪

2014-06-19 19:53:31 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
今朝目覚めたら素っ裸で寝ていました。

なぜ?

昨日は純ちゃんと今後のてつカフェや、てつカフェのことを書く論文について相談するために、

久しぶりに 「RAGU」 で飲んだり食べたりしながら打ち合わせをしたのです。

スパークリングワイン1本と赤ワイン1本空けてたな。

そこで純ちゃんと別れたのでそのまままっすぐ帰ればいいのに、

そこからなぜだかあちこち徘徊してしまったようなんです。

どこ行ったっけなあ?

最終的に家まで帰ってこられたし、ベッドで寝ていたのでそれはよかったのですが…。

でも服や下着はすべて玄関に脱ぎ捨てられていました。

何やってんだかなあ。

ネットにはこんな画像集↓がありました。


“断酒” の2文字が脳裏をかすめる! 世にも恐ろしい酔っ払い画像集


まだここまでひどくはないと思いますが、

こうなるのも時間の問題かもしれません。

自らの欲求・欲望をコントロールできるようになることが大事ですね。

Q.研究室前のポスターって?

2014-06-18 18:04:26 | 幸せの倫理学
引き続き 「倫理学概説」 の授業でいただいた質問です。
ワークシートにはこんなふうに書かれていました。

「Q.先生の研究室の前に貼ってあるポスターにはどんな意味があるのかなと思いました。
   今日の幸福観を見て、功利主義的な考えなのかなと思いました。」

みんなもう思考が自由です。
幸福について考えてくださいとお願いしてるのに、研究室のポスターですか。
いいと思います。
たしかに私も 「自由に書いてください」 と指示していましたしね。
2行目に書いてあることは、1行目に連関して書いてあったのか、
それとも1行目とは独立して、自分の幸福観は功利主義的考えに近いなと思ったということなのか、
ちょっとどちらとも判別つきませんでした。
3行目からはまったく別の話題に飛んでいましたし。
ここでは1行目と関連させて、あのポスターには功利主義的な含意があるんですか、
という意味と解釈して話を進めていくことにします。
まずは私の研究室前のポスターをご覧いただきましょう。



これです。
このドアに貼ってあるやつです。
ポスターだけ写してみるとこうなります。



アンパンマンやらドラえもんやらウルトラマンなどが勢揃いしているド派手なポスターです。
右下の部分にはこんなふうに書かれています。

「Make-A-Wish of Japan
 難病のこどもたちの夢をかなえるために活動しています。
 メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパンは、1992年、
 難病のこどもたちの夢をかなえることを唯一の目的として生まれた非営利のボランティア団体です。
 しかし、その活動はもとより、その名前すら、未だ多くの方に知られているわけではありません。
 わたしたち人間にとって、夢は元気の素、
 とくに、難病とたたかっているこどもたちにとっては、生きる力そのものです。
 ぜひこの機会に、みなさまのお力をこどもたちのためにお貸しください。
 誰にでも、できることは必ずあります。」

一番下にはこんなメッセージが。

「ぼくたちは、夢をかなえるために生まれた。」

NPO 「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」 のポスターですね。
このポスター、いつから貼ってあるんだったかなあ?
もう相当前のものです。
妻がまだ外資系広告代理店に勤めていた頃、その代理店がこの運動に協賛し、
ポスター制作を含めた広告宣伝を引き受けることになって作られたものです。
たしか代理店もノーギャラだし、やなせたかしさんや円谷プロ等も無償でキャラクター提供して、
このポスターが作られたと聞いたような気がします。
私は妻からどこかに貼ってくれないと頼まれて、
ちょうどドアの目隠し用のポスターを探していたところだったので、
デザイン的にはあまり気に入っていませんでしたが、
「ぼくたちは、夢をかなえるために生まれた」 というメッセージに共感して貼ることにし、
そのまんま今日に至っているというわけです。

「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」 というくらいですから、
大本の 「メイク・ア・ウィッシュ」 という世界組織があって (出自はアメリカ)、
それはウィキペディアにも載っています。
ウィキペディアには、この組織の発端となったクリスという少年の話が紹介されていますが、
それを読んだだけで涙もろい私なんかはウルウルと来てしまいます。
その後も15万人以上の難病の子どもたちの夢をかなえてきているとのことです。

このポスターが研究室前に貼ってあることの意味は上述したことくらいで、
特に私が 「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」 の熱心なサポーターであるわけでも、
それに関連して何かボランティアや寄付をしているというわけでもありません。
これを見て気になった人がHPにアクセスしてみたり、
実際に何か自分にできることをしたりしてくれているとうれしいですが、
そういう話を耳にしたことがあるわけでもありません。
何かもっといいポスターが見つかったら即貼り替えてしまうかもしれませんが、
ずっと前からそう思ってけっきょくそれっきりですので、当分の間はきっとこのままでしょう。

「メイク・ア・ウィッシュ」 という組織が功利主義的な考えを持っていることはたしかでしょう。
しかも、難病を抱えている子どもたちに治療費等の支援をして病気を治してもらうというのではなく、
たとえ病気が治らなくても生きているうちに夢をかなえるお手伝いをするというのは、
なかなか思いつかないことですが、子どもたちの幸せを促進する直接的な活動のように思います。
私は自由主義的な人間ですのでとてもじゃないけど自分でこういう活動を起こすことができませんが、
こういう人たちが他人の幸福を促進するために活動してくれている世界というのは、
とてもいい世界だと思います。
原発被災で苦しんでいる人たちに政治家が 「最後は金目でしょ」 なんて吐き捨てる世界より、
はるかに美しく尊い世界だと思います。
子どもたちのヒーローは弱い者を守るために戦い、みんなに幸せを与えてくれますが、
世の大人たちは、子どもたちをはじめとして弱い者を守るために立ち上がり、
みんなが幸福になれるような社会を築いていくことができるのか、
今まさにその瀬戸際に立たされているように思います。
研究室に戻ってくるたびにそんなことを考えさせてくれるポスターなのでした。
(ウソです。今までそんなこと考えたこともありませんでした。
 質問をいただいてからそう思っただけです。)


P.S.
ちなみにポスターの上にかかっている飾り物にはこんな意味があります。

Q.倫理学において 「奇跡」 という概念は存在しますか?

2014-06-17 09:37:01 | 哲学・倫理学ファック
「倫理学概説」 で幸福の話をしたときにもらった質問ですが、
あの講義を聞いてなぜこの質問に結びついたのかちょっとよくわからないところがあります。
幸福の獲得方法について、幸福は、運などの偶然によってたまたま外からもたらされるのか、
個人や社会の主体的努力によって獲得するべきものなのか、という区別の話をしたので、
外的偶然性というところから奇跡の話に結びついたのでしょうか?

とりあえず、まずは 「奇跡」 って何かということを確定しておきましょう。
辞書を見ると次のように書かれていました。
デジタル大辞泉ではこう↓。

「1 常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。「―が起こる」「けががなかったのが―だ」
 2 キリスト教など、宗教で、神の超自然的な働きによって起こる不思議な現象。」

ニコニコ大百科ではこんな感じ↓。

「1.通常では起きないような事が起こること。(例:宝くじが当たるなんてまるで奇跡だ)
 2.神が起こす現象。(例:神が奇跡を与えた)」

たしかに日本語としては1の意味で耳にすることが多いような気がしますが、
本来は2の意味が 「奇跡」 のもともとの意味です。
したがってウィキペディアでは最初の説明は次のようになっています。

「奇跡 (奇蹟、きせき、英: miracle) は、神など超自然のものとされるできごと。
 人間の力や自然法則を超えたできごととされること。」

これが第一義的な意味での奇跡なのです。
したがって上記2つの1の意味のほうは派生的・比喩的な用い方であって、
ニコニコ大百科の例文はまさに 「まるで奇跡だ」 という表現がされているように、
宝くじが当たるという、確率はチョー低いがこの世でフツーに起こりうる出来事を、
超自然的な出来事である奇跡に喩えているだけだということがおわかりいただけるでしょう。
奇跡というのはあくまでも、超自然的存在者によって引き起こされる超自然的現象なのです。
カンのいい人は、自由の話をしたときに出てきた
「超越的自由」 のことを思い出してくれたかもしれません。
そうです。
奇跡は超越的自由を有している超自然的存在者によってのみ可能となる業 (わざ) なのです。

ここまで説明すれば、質問に対する答えもある程度想像ついたのではないでしょうか。
倫理学には奇跡という概念は存在しませんと簡単に言ってしまってもいいくらいなのですが、
厳密を期して次のようにお答えしておくことにいたしましょう。

A.近代以降の世俗化 (=脱宗教化) した倫理学においては、
  「奇跡」 という概念は登場してこなくなりました。

近代以前の宗教色の強かった倫理学 (キリスト教倫理学等) においては、
奇跡という概念が用いられることもありました。
いや、キリスト教の世界では現在においても奇跡という概念は生きています。
先日、ヨハネ・パウロ2世が聖人の仲間入りを果たしましたが、
聖人に列せられるためには奇跡を起こしたことが認定されなければならないのです。
このようにキリスト教の世界内部では、
法王クラスの人間は未だに奇跡を起こしている (と信じられている) わけですが、
その外部の人間からするならば、病気が治ったといってもそれを超自然的な業とみなしたりはせず、
自然法則に従って解明しうる何らかの説明方法があるはずだと考えるでしょう。
神や信仰といったものを排して、現世に生きるフツーの人間が何をなすべきかを問題とする、
近代以降の人間中心主義的な倫理学においては、奇跡概念の出る幕がなくなってしまいました。
人間の自由では奇跡なんて起こすことはできませんし、
神や聖人が起こしてくれる奇跡を倫理学理論のなかに取り込んでしまうと、
何らかの信仰や宗教を前提とすることになってしまうからです。
というわけで近代以降の倫理学においては奇跡概念は無用の長物となりました。
「あなたと出会えた奇跡♪」 なんて言ってもそれは全然、超自然的な出来事でも何でもなくて、
この地球上でフツーに自然法則に従って互いにテキトーに生活を送っていたところ、
一定の確率にもとづいてたまたま偶然出会ったというだけのことにすぎないわけです。
ただしまあその偶然の出来事を、
その他無数に起こりうるたくさんの出会いのうちの1つにすぎないとみなすのか、
神が与えてくれた奇跡とか絶対の必然とみなして大切にするのかは、
本人の受け止め方次第であり、それによって幸福の度合いも変わってくるでしょう。
倫理学者としてはあまり安易に 「奇跡」 という言葉は使わずに、
どうしても使いたいときには 「まるで奇跡のような」 というふうに、
比喩であることを明示するような形で表現することをオススメしたいと思います。

図書紹介・『高校倫理からの哲学』

2014-06-16 22:45:29 | 哲学・倫理学ファック
この週末は法政哲学会の第34回大会に参加してきました。
毎年、この大会時に学会誌 『法政哲学』 の最新号が配付されます。
法政哲学会はずっと学会誌のないまま運営されてきた、いわゆる学内学会でしたが、
10年前にそれまでの会報を学会誌形式に改め、今年ではや10号を迎えることになりました。
昨年の学会では私の大学院時代の先輩である白根裕里枝氏や鵜澤和彦氏が研究発表をしたので、
今年の 『法政哲学』 第10号にはお2人の論考や、法政大学文学部教授・中釜浩一氏の論文、
西研氏の招待講演の論考 (「共通了解のための現象学」) などが収められ、
ひじょうに充実した内容となっており、法政ラブの私としては大感激です。

さて、『法政哲学』 は学会誌になったとき、書評や図書紹介のコーナーを新設しました。
会員の活動を広く紹介していくためです。
第10号では岩波書店から刊行された 『高校倫理からの哲学』 を取り上げていただきました。
書評子はゼミの後輩である近堂秀氏です。
あらかじめ図書紹介を書いたなどということを知らされていなかったので、
最新号を手に取ってみてビックリしました。
近堂さん、本当にありがとうございました
御本人の許可を得て、こちらにも転載させていただきます。


【図書紹介】
『高校倫理からの哲学』 全4巻・別巻1
直江清隆/越智貢編 岩波書店 2012年
                                               近堂 秀

 「読者の手の届くところでものの見方や考え方を提示し、読者がそれぞれの目線から 「哲学する」 ことを学ぶ手引きが必要だ」。こうした思いから、高等学校で学ぶ 「倫理」 の教科書を出発点として、高校倫理のすべての分野から題材を選んで作られたのが、本シリーズである。
 本シリーズ全体のテーマは、「人間とは何か」 である。各巻は、「生きるとは」 「知るとは」 「正義とは」 「自由とは」 について考えを深めることができるように組み立てられており、各巻末の高校倫理学習課程対応表と各講はじめのキーワードによって 「倫理」 教科書との対応状況が確認できる。各講は、それぞれ本文、対話、コラムで構成されており、「倫理は普遍的か」 「尊厳と生命」 などのテーマについて日常的なものごとから出発して考えるようになっている。本文の末尾には課題が置かれており、その課題について登場人物が議論する対話が続く。分野の偏りをなくし、各巻の記述を補う目的で、課題探究も置かれている。哲学者などの先人の思想は、具体的な問題を考えるうえでの道筋を提供してくれるものとして、事例を扱うなかで読者に提示される。例えば 「正義とは」 と題された第3巻の第1講では、「すべての人にあてはまる倫理はあるのか ―倫理とその普遍性―」 というテーマについて小野原雅夫氏が考えている。小野原氏は、「名誉の殺人」 という風習の是非を 「問いの始まり」 として、普遍的倫理の探求とそれに対する懐疑について考えながら、グローバル・エシックスの試みが不可欠であることを訴える。
 また、「災害に向き合う」 をテーマとした別巻では、「神はなぜ悪を許すのか ―リスボン地震と弁神論・啓蒙思想―」 というタイトルのもと、福島清紀氏が天災をめぐる問題との格闘のありようを近代西欧の思想史に探っている。福島氏は、リスボン地震によりヴォルテールの人生観・世界観が変化したことを手がかりにして、天災に対する人間のあり方を探りながら、悪の起源とオプティミズムについて論じる。
 法政哲学会会員では他に、関口和男氏が課題探究とコラムを担当しており、会員の精力的な活動を知ることもできる。読者は、本シリーズを通じて、哲学とは何かを広く一般に向けて語る営みが哲学の本質に触れることを教えられるであろう。


近堂さんは実際に予備校などで高校生相手の倫理教育に携わっておられるので、
そのような方に本シリーズを取り上げていただいたのは誠に恐悦至極です。
しかし、こうやって後輩に宣伝してもらってる場合ではなく、
自分でももっとガンガン営業かけなきゃいけないよなあ。
やっぱり 「倫理学概説」 でムリヤリにでも教科書として売り込むべきだったなあ。
「倫理学概説」 を受講中の皆さん、上記の通りとてもいい本です。
ぜひ購入してこれを読むことによって自習時間の増加に努めてみてください。
せめて私が執筆している第3巻と別巻だけでも買ってください
とりわけ 「公民科教育法」 も受講していて高校公民科の教員免許を取ろうと思っている人には、
全巻揃えてじっくり読み込んでおいてもらいたいと思います。
何とははっきり約束できないけれども、買った人にはきっといいことがあると思うよ。

何のために勉強するのか?

2014-06-15 11:15:55 | 哲学・倫理学ファック
今度の土曜日は第24回てつがくカフェ@ふくしまです。
テーマは 「何のために勉強するのか?」。
世話人のうち2人が教育関係者であるわりには、
これまであまり教育関連の話題って取り上げてきませんでした。
第11回のときの 「教育を再生するとは?」 ぐらいでしょうか。
あとは第15回の 「躾と体罰はどう違うのか?」 も教育問題と言えば教育問題でしょう。
ただ、両回の報告文を読んでいただければわかると思いますが、
今回ほどストレートに教育を問うてはいませんでした。
今後、教育関係のテーマがいつ取り上げられるかわかりません。
この機会にぜひ教員志望の学生の皆さんも参加してみてください。

てつがくカフェではテーマ設定自体が議論の的になることが多くて、
参加者の皆さんからテーマの立て方が間違ってると世話人がお叱りを受けることがあるんですが、
今回もその可能性がなきにしもあらずです。
例えば私もよくこのテーマで講演講義をしていますが、
私の場合は 「人はなぜ学ぶのか?」 というふうに問いを立てます。
「学ぶ」 と 「勉強する」 ってだいぶニュアンスが違いますよね。
詳しくはこちらをご覧ください (「勉強とは?」 )。
純ちゃんも 「勉強」 というよりは 「人はなぜ学ぶのか?」 という問いに関連して、
過去に書いた文章をアップしてくれていました。
しかしながら、今回は小中高など学校での学びを中心に考えたかったので、
わざと 「勉強」 という語を使ってみたのですが、はたして皆さんの気に入ってもらえるかどうか…。

なぜ学校での学びに焦点を当てたかというと、
今回のテーマ設定は参加者の方からのご提案に発したものだったからです。
元はというとご提案いただいたテーマは、
「文系と理系を分けることは可能か? 意味はあるのか?」 というものでした。
いただいたメールを引用しておきましょう。

(以下、引用)
○○からテーマの提案です。
いわゆる 「文系」 と 「理系」 を分けることは可能なのか?
あるいはそうすることに意味があるのか? ということです。
実は以前から、息子たちが高校に入学すると1年生の秋ごろには文系か理系を選ばされることに疑問を持っていました。
そんな早くから将来進む道を二者択一で限定してしまうのはどうかと思うし、そうでなくとも理系の科目や文系の科目が互いに全く関係がないまま学問されることなんてあり得ないはずです。真の学問は、理系も文系も、そうすっきりと分けられるはずがないし、いろいろな面から捉えることでより魅力が増したり学びが深まるはずでありそれが真の学問ではないでしょうか。つまり、数学は単に数字の計算をしているだけでなく、その背景には哲学や倫理や文学や音楽や芸術があるからこそ数字が意味を持つようになるはずです。科学技術もそうですよね。なのに、最近はどうやら日本の経済成長のために政府は理系の学生を増やし日本の科学技術で競争させようとしているようです。聞くところによると高校などでも理系のクラスを増やしり、大学でも理系が人気のようですね。それは当然就職に有利だからという理由からのようです。また、最近話題の 「リケジョ」 も、小保方さんの件なども、とにかく日本の科学技術を世界に売ってもうけるために、政府が研究費や予算を新しい技術開発に以前よりも集中投入しようとしているようですね。しかし、経済成長や科学技術大国になってグローバルにもうけるために、「理系」 を増やし 「文系」 をないがしろにすることは結局 「理系」 分野の成長の限界を見ることになるのではないでしょうか。
私の末っ子が通う県立高校の音楽科は、このところ数年定員割れがつづいています。しかも男子はどの学年1~3人程度しかいません。今年の1年生は31人中男子は3人です。2年生は1人。定員割れしているのは、音楽は人気がないから。つまり音楽など勉強してもそれで食べてはいけないというのが理由の1つのようです。でも、女子ならば保育園の先生になるとか、就職できなくてもピアノ教室でアルバイ トをしてそのうち結婚すればいい、というオーソドックスな逃げ道があります。しかし、男子はそうも行かないので人数は圧倒的に少なくなります。男子で音楽科に行くのは少し 「変な人」 と見られることもあるようです。これも結局、「音楽=まともな職に就けない」 という図式があるがためにどんどん定員割れしているのが現実です。
美術も同じようなものかもしれませんね。
でも、音楽も美術も理系科目と全く関係がないわけがないですよね。音楽や美術があるからこそ医学や理学の学びが豊かになることもあるでしょう。昔の小説家や評論家には医者が多くいましたよね。ダビンチは芸術家であり哲学者でありながら立派な科学者や医者でもありました。
以上、思いつくことをだらだらと書いてし まいましたが、私が言いたいこと、なんとなくわかっていただけたでしょうか?
先に書いたように、昨今の理系ブームを考えると、テーマとしてはタイムリーでもあるのではないかと思うのですが、、、。要するにあの安倍バカが言うように 「経済成長」、つまりもうけのことばかり考えているととんでもないことになるという心配があるのです。小保方事件はちょっと象徴的かも。
(引用おわり)

このように学校システムに対する疑問がもともとの出発点でした。
文系と理系を分けることや、後半で述べられた主要5教科と技能4教科の関係性というのは、
私としてもたいへん関心あるテーマなのですが、
てつカフェのテーマとしてはもう少し手前のところから問い始めてみることにしました。
とはいえ、学校という制度に焦点を当てて学びや教育を考えたいというのが今回のねらいですので、
「何のために勉強するのか?」 というテーマになったわけです。
もちろん議論のなかで文系と理系の問題など細かい制度の問題にも触れられたらと思っています。

今回は初めての会場となります。
ちょっと街中から離れていますのでご注意ください。
また会場の都合により開催時間も30分早めております。
くれぐれもお間違えのないようお願い申し上げます

第24回てつがくカフェ@ふくしま
【テーマ】「何のために勉強するのか?」
【開催日時】 2014年6月21日(土)15:30~17:30

             ※いつもより30分早い開始です。
【場  所】 御倉邸 (地図)
             ※初めての会場です。
             ※駐車場が少ないのでご注意ください。
【参加費】 ドリンク代100円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

道徳的行為をしたことによって得られる幸福感

2014-06-14 11:19:37 | カント倫理学ってヘンですか?
前回、道徳主義と快楽主義 (=幸福主義) の対立について述べ、
道徳的によく生きるとはどういうことか説明しました。
道徳主義と快楽主義 (=幸福主義) の対立は根深く、相互に激しく批判し合っています。
快楽主義 (=幸福主義) の側から道徳主義に対してよく向けられる批判は次のようなものです。
道徳的によく生きると言っても、道徳的によいことをするのが幸せなのではないか、
道徳的によいことをしたことによって幸福感を得ているのではないか、
だとしたらけっきょくそれは幸福を求めていることになり、
道徳主義は幸福主義に還元できるのではないか、という批判です。
幸福の感じ方が人それぞれだとするならば、肉体的な快楽を幸せと感じる人もいれば、
読書や内面的成長など精神的な快楽を幸せと感じる人もいるし、
それと同様に、道徳的行為を行うことによって幸せを感じる人だって大勢いるでしょう。
みんなの幸せのために自己を犠牲にするという極端な場合ですら、
そのことに喜びを感じて進んで行うという人も中にはいるかもしれません。
そうやって考えるとけっきょくは道徳主義も快楽主義、幸福主義の一種ということになるはずだ、
と快楽主義 (幸福主義) の人々は主張するのです。
みんなのワークシートでも、道徳的によく生きることが幸福だっていうのはまったく理解できない、
と書いてくれた人が大半でしたが、
その一方で、周りの人を幸せにしてあげることに幸せを感じるとか、
ボランティアはされる方よりもする方が幸せを感じるのではないかと書いてくれた人もいました。
道徳的によく生きることと気持ちよく生きること、あなたの幸福観はどちらですかという質問に対し、
けっこう多くの人が道徳的によく生きるの方を選んでくれていました。

道徳的によい行為をする人もけっきょくは幸福を感じ求めているのではないかという批判に対して、
これに反論するための手立てが一次的幸福と二次的幸福の区別でした。
カントも道徳的行為を行うことによって幸福を感じることがありうると認めています。
それをカントは 「道徳的満足感」 と呼んでいます。
そのような幸福は二次的な幸福です。
道徳的行為をしたことによって二次的幸福が結果として得られることはありうる、
しかし、道徳的満足感を得ることをはじめから目的としてはならない、とカントは主張します。
つまり、結果として感じることはかまわないが、はじめからそれを求めてはならない、と言うのです。
行為を行う前にあらかじめ目的として立てられる幸福が一次的幸福です。
どのような種類の幸福であれ、一次的幸福を最初から目指してはいけません。
道徳的満足感を得ることを目的として道徳的行為を行うというのは、前回例に出したような、
あとで謝礼がもらえるかもとか有名になれるかもといった動機で人助けを行うのと同じく、
けっきょくは自愛の傾向性にもとづく行為にほかならず、
そもそもそれは道徳的行為ではないということになるのです。

このような区別を設けることによってカントは道徳主義を純粋に保つように努力しました。
けっきょくよい行いをすることに変わりはないのだから、
ここまで厳格に区別する必要がないという考え方もあるでしょう。
カントはよく 「リゴリズム (厳格主義)」 であると批判されます。
私もその通りだと思います。
しかし、私自身はカントのような純粋な道徳主義を貫くことはできませんが、
これくらい厳格な立場はあって然るべきだと思います。
道徳的なよい生き方のなかに (どんな種類であれ) 幸福を求めることを容認してしまうと、
道徳的なよさはすべてあっという間に崩壊してしまうような気がするのです。
結果として得られる幸福とはじめから目的として求める幸福ははっきりと区別しておく、
これは倫理学として大事な考え方ではないかと思います。

道徳的によく生きるとは?

2014-06-12 18:20:22 | カント倫理学ってヘンですか?
「倫理学概説」 では前回から幸福とは何かについて考え始めました。
その冒頭で、快楽主義と道徳主義 (=人格主義) の区別について話しました。
幸福論は基本、快楽主義の立場になりますから、
道徳主義のほうについてはあまり詳しく説明しませんでした。
そのためか、「道徳的によく生きる」 ってどういうことかイメージがつかめませんでした、
という感想ないし質問をいくつか頂戴しました。
倫理学の歴史のなかで道徳主義、人格主義を代表するのはイマヌエル・カントですので、
カント倫理学のさわりの部分をご紹介することによって質問にお答えすることにしましょう。

カントは完全に快楽主義の立場を否定します。
もちろん、カントも人間には快楽や自己利益や幸福への欲求があることを認めています。
いや、他の思想家よりもはるかにカントは、
人間の幸福への根深い欲求のことを理解していたと言えるでしょう。
そうしたものが人間のなかにあることを重々認めた上で、
カントはそうしたものを基盤として倫理学を構築してはならないと考えたのです。

そこでカントは自らの倫理学の中核に 「善意志」 を据えました。
何か行為の結果として得られる快楽や利益や幸福などをまったく度外視して、
ただひたすら善のために善を為す純粋な意志が善意志です。
善のために善を為すってちょっと何言ってんのかわからないかもしれません。
カントによれば、義務に対する尊敬の念にもとづいて義務を遵守すること、
道徳法則が命じていることであるがゆえに道徳法則に従うこと、
これが 「意志の自律」 であり、そうした意志が善意志であって、
道徳的によく生きるというのはそういうことです。
例えば、困っている他者を助けてあげることが義務であり道徳法則の命令であるとすると、
自分の利益や幸福を度外視してその義務を遂行しなくてはいけないわけですから、
場合によっては自らを犠牲にしてでも他者を救うという、
利他主義的な行為も必要となってくるかもしれません。

自己犠牲までいかなかったとしても、
カントは動機に不純なものが紛れ込んでくることを徹底的に排しました。
困っている他者を助けてあげるという義務を実行する際に、
ただひたすらあの人を助けてあげようということだけを動機としているのならいいのですが、
人間というのは弱い動物ですので、ほんのちらっと、助けてあげたら感謝されるかもとか、
何か見返りがあるかもとか、みんなから賞賛されるかもといった邪念が頭をかすめるかもしれません。
そうしたものがほんの少しでも混ざってしまうと、
いくら人助けをしたとしてもそれはもはや善意志と呼ぶことはできません。
道徳的によく生きたことにはならないのです。

さらに言えば、助ける相手が家族だったり友人だったりした場合に、
自分の快楽や利益なんてまったく関係なく、純粋な愛情や友情から助けてあげる、
なんていう場合もあるかもしれません。
自己犠牲という行為はそうしたケースで発動されやすいといえるでしょう。
しかし、カントはそうした行為にも道徳的価値はないと言います。
愛情や友情といった感情にもとづく行為は、
カントの言う、義務に対する尊敬の念にもとづく行為には認定されないのです。
ここまで来ると本当に 「ちょっと何言ってんのかわからない」(by サンドウィッチマン)
感じがしてくるかもしれません。
道徳主義や人格主義がすべてがすべてここまで厳格であるとは限りませんが、
カントの言う 「道徳的によく生きる」 というのはこれぐらい厳密なものなのです。
(カント倫理学については以下の記事も読んでみてください。
 「Q.心がキレイな人ってどんな人?」「カント倫理学の魅力と限界」

このように道徳主義の考え方は快楽主義や幸福主義とは完全に対立しています。
したがって倫理学の歴史のなかではこの両者は相容れることなく、
大きな二大潮流を作り続けてきました。
現代の語感で言うならば、カントのような 「道徳的によく生きる」 のことを、
「幸福」 と呼べないというのは理解していただけたでしょう。
「幸福」 の語源は 「よく生きること (オイダイモニア)」 であり、
ソクラテスが言っていたオイダイモニアもおそらく「道徳的によく生きること」 だったと思われますが、
その後の倫理学の歴史の中で 「道徳的によく生きること」 と 「幸福」 はまったくの別物となりました。
とりあえず、この基本的区別のことは頭に入れておいてください。
これを踏まえた上で補足としてお話しした、一次的幸福と二次的幸福という厄介な問題が出てきます。
これについても質問を頂戴しておりますので、また説明することにいたしましょう。

異化による理解

2014-06-10 14:04:02 | グローバル・エシックス
「異化による理解」 というのは大学時代の哲学の恩師、宮川透先生がよく使っていたタームです。
日本人は 「同化による理解」 を得意としていて、
互いの同質性に依拠して以心伝心で何も言わずともわかり合うという関係を築いていくが、
現実には細かいところでいろいろとニュアンスの違い等があるはずなのに、
それらを全部抑圧して何でもかんでもいっしょくた (一即多) にしてしまいがちである。
しかし、これからの時代に必要なのは 「異化による理解」 であって、
互いの相違点を確認し、ひとりひとりみんな違うということを容認した上で、
自分とは異質な他者と共存していく覚悟が必要である、ということをよく話してくださいました。
たぶんその思想は私の哲学魂の根幹に刻みつけられているような気がします。
「倫理学概説」 ではこの間ずっと自由の話をしてきましたが、
その最後にこの 「異化による理解」 の話もさせていただきました。
けっこうヒットした学生も多かったようで、ワークシートでこの点に触れてくれた人も多くいました。
いくつかご紹介しましょう。


●今日の授業で学びが深まったのは、「同化による理解」 と 「異化による理解」 についてです。「自由」 と聞くと、やはり自己 (自分自身) を中心に考えがちになるのですが、「自分と他者」 の関係性に目を向けることが大切だと思いました。

●今日の授業では、他者と共存するため、他者を同化しがち (日本人) であるというのは全く同感でした。意見の相違を発表するのに勇気がいるのが私の社会の現状です。自分の考えと異なる意見を自由に発表出来る必要性ありです。

●同化による理解は、「同じ物しか受け入れない」 という考えに極端化してしまいそうなので、確かに危険だと感じました。「同化による理解」 は危ないと感じましたが、同じ考えの人が居れば嬉しいし、安心してしまいます。完全な共感はできないまでも、理解しようと努力するのが 「異化による理解」 につながる大切な事なのかと思いました。

●今日の授業は自由の出発点に触れたわけであるが、この内容がいじめの問題にもつながることになるとは思ってもいなかった。日本は和の精神が強く同化しがちであるが、ここに争いの原因が発生してしまうので、「異化」 を用いて、差異の尊重、個性の尊重を重要視できる世の中になってほしいと考えた。

●相手が重要に思うことと自分が考えたことが違った時に考えを口に出すことができるのは、批判や懐疑の自由があるからこそではないかと思う。

●私たちが他者と共存するために、同化による理解をしてしまうことは多々あります。しかし、それでは自分自身の 「個」 を殺してしまうことだと思いました。自分が相手に合わせようと思ってもそれには限界があります。。それならば、はじめから相手と自分は違うけれども、それは違う人間だからあたりまえと差異を受け入れ、相手の 「個」 を受け入れつつ自分の 「個」 も持ち続けることが共存において重要なことなのだと思いました。

●今日は、同じ意見を持つ人でもそれぞれの違った視点を持っているという所にとても関心を持ちました。今までは異なった意見を述べる人が違った見方をしているんだと思ったのですが、今日のフレーリーゲームで、共感しつつもこういうのはどうですか、などそれもまた異質なものを認める行為の一つなのかなぁと思いました。

●日本の文化に可謬性がより浸透して、相手を批判する自由、批判に対する開かれた態度があたりまえのものになれば、生きづらさや窮屈さが解消された、生き生きと生きやすい世の中 (や社会) になるのではないかなぁ…と思う。

●今回まで 「自由」 に関する講義を受けてみて、「自由」 の印象がだいぶ変わったように思います。「自由=幸福」 ではないという気づき、また今回の内容にあった 「他者の承認」 というワードを聞いて、自分の側からしか考えられていなかった自由をより多面的に捉えられるようになったと思います。特に、自由というと束縛をうけないとか勝手が通るといった利己的なイメージもあったのですが、本来の自由を突きつめていくと他者の存在が不可欠であることに気づき、今までの自由は概念が発展した結果であり、本来的にはとても社会的な概念であるということを改めて認識できました。また、暴力的強制からの自由の話では、昨年の 「戦争と平和の倫理学」 ででてきたガンディーの非暴力を思い出しました。当時は何となく崇高な考え方というくらいにしか感じませんでしたが、自由という視点から見ても重要なものだと再認識することができました。

●今日の授業の前半で先生が述べたことは参考図書にあった 『友だち幻想』 と重なる部分があると考えた。他者の異質性を認めるということは、今回のテーマの自由のみに関わらず、日々、人と関わっていく中で大切なことなのではないかと考えた。異質なもの同士、争いが生まれることもあるだろうがその時は今日学んだように言葉、理性で解決したい。それが他者と共存し、自己の自由も手に入れることにつながるのではないだろうか。


去年の授業で話したガンディーの非暴力運動や、
参考文献として紹介した 『友だち幻想』 と関連して論じてくれた人もいました。
哲学魂の根幹に刻みつけられているということは、
けっきょく何の話をしていても最終的にはそこに帰っていくことになるわけで、
なんだか自分の 「三つ子の魂」 を突きつけられたようでちょっと気恥ずかしく感じました。
(けっきょく大学時代の先生のパクリかよ
まあでもしかたない。
私が学生に伝えたいのはそういうことなんだから…。