まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

初体験 「てつがくカフェ」・場の空気ってなに?

2010-11-22 19:03:09 | 哲学・倫理学ファック
昨日は仙台で開かれた 「てつがくカフェ@せんだい」 に行ってきました。
前々から 「哲学カフェ」 には興味があったのですが、今回が初参加です。
前日に仙台でダンスの試合があったのと、
ブログの弟子であるぢゅんちゃんがファシリテーターをやるというので、
いろいろなめぐり合わせがちょうどうまくはまった感じです。

今回のテーマは 「場の空気ってなに?」 です。
なかなかいいテーマです。
哲学なんて学んでいなくとも語り合ってみたくなるようなテーマです。
実際、参加者は40名と、過去5回に比べてはるかに多くの人が集まってしまったそうです。
というか、いくらなんでも集まりすぎで、
たった2時間しかないのに40名ではみんなが話すことはできないでしょう。
初めてファシリテーターをやるぢゅんちゃんは笑顔がひきつっています。
どんなことになるんだろうなあと、私はニヤニヤしながら見ていました。

それにしても、このテーマはとてもよくできていて、
「場の空気を読むことはよいことか悪いことか?」 についてはすでに、
ひとそれぞれ意見を持ってしまっていて、だれにも一家言あるはずですが、
いいか悪いかから一歩立ち戻って、
「場の空気とは何か?」 という定義のところで共通認識を作ろうよというのは、
まさに哲学カフェの真骨頂だろうと思います。
発言者の方々はともすれば、いいか悪いかとか、日本文化論に流れがちでしたが、
そのつどファシリテーターや発言者の誰かが自然と定義の話に引き戻してくれたので、
私の考えもとても深まっていきました。

私は当初、場の空気というのを、
「当たり前だとみんなが思っている、言語化されていない共通認識」 と捉えていました。
こう定義する場合、場の空気とは、非言語コミュニケーションによって読み取られる何ものかであり、
集団の中で形成されるものとも考えられています。
たしかに場の空気という場合、会議のようなある程度の人数で構成される 「場」 が、
前提されているようにも思えます。
しかし、出席者のある方がこんな例を出してくれました。
3人で話をしていて、そのうちの1人 (Aさん) が用があって帰らなければならず、
帰りたそうにしていて、1人 (Bさん) はそのことに気づき、
もう1人 (Cさん) はそのことに気づかずに話しまくっている。
このときBさんは空気が読める人で、Cさんは読めない人だというのです。
非言語コミュニケーションと捉えていることは私と同じですが、
この場合は、Aさん対Bさん、Aさん対Cさんの間で一対一で空気が形成されています。
全体に、場の空気を読むということに肯定的な人たちは、
このような一対一の関係の中で読み取られる空気のことを念頭に置いているようでした。
そうした人たちは場の空気のことを、相手への思いやりとか感情移入と表現していました。
(もちろんその思いやりや感情移入がまちがっているという可能性も指摘されていましたが…)

同じく肯定的な人たちの中には、場の空気を、先人の知恵とか、作法、マナーと捉えている人もいました。
これらは明文化されているかどうかは別として、言語化はされている知のように思えます。
これらを空気と呼んでいいのかどうか、反対意見も出されていました。
それとは異なるのですが、場の空気とは会話の流れであるという意見も出て、
なるほどなあと思いました。
このように捉える場合、たんなる非言語コミュニケーションではなくなってきます。
言語は介在しているのですが、直接言語化されてはいない何ものかになります。
よく昔、「行間を読む」 ということを言われたことがありますが、
それに近い感じだろうかと納得しました。

場の空気を読むことに否定的・批判的な人たちは、私同様、
一対一ではなく、一対多、個人対集団という場面での空気を考えているようでした。
集団意識とか、暗黙の了解とか、多数意見、最大公約数的なものの見方などなどです。
特になるほどと思ったのは、一対一の場合は感情移入は可能かもしれないけれど、
一対多で感情移入してしまうとややこしくなってしまう、という意見でした。
さっきのA、B、C、3人の例で言うと、帰りたがっているAさんに感情移入することはできるし、
喋りまくりたいCさんに感情移入することも可能だけれど、
じゃあAさんとCさんを含めた 「場」 (Bさんも含めてもいいかもしれない) に感情移入する、
とはどういうことになるのか。
けっきょく、場の空気を読むことを要求する立場というのは、
個人個人考え方が違うという前提に立っていないのではないかという意見が出て、
これは私もまったく同感でした。

議論はどこかに収束したわけではありませんでしたが、
私としてはいろいろな方向に思考が拡散しつつ深まっていくよい時間となりました。
昨日の議論を承けて今の段階では私は次のように考えています。
場の空気の定義に関して言うならば、
言語・非言語両コミュニケーションを通じて形成される、
最終的に言語によって確認されたわけではない、共通の認識。
これは一対一の場合にも一対多の場合にも成立します。
一対多の場合には、「共通の認識」 の前に 「多数意見と思われている」 を付加可能です。
こうした場の空気を読む力というのは高度なコミュニケーション能力であり、
これは日本人に限らず、どこの国の人であろうと、持っていないよりは、
持っていたほうがいろいろな意味で生きやすくなる力だろうと思います。
しかしながら、読めるからといって、それに同調しなければならないというわけではありません。
場の空気と自分の意見が違っているときには、それを主張してかまわないし、
主張したほうがいいのです。
ところが、自分が場の空気を読むだけでなく、
他人にも場の空気を読んでそれに同調することを強要するというのが、
日本独特の文化のような気がします。
特に最近の日本で横行している、
「空気を読め」、「KYは去れ」 という圧力は個人を圧殺する全体主義的な力ですので、
場の空気を読めない人がいた場合には、共通認識をきちんと言語化していく作業を続け、
最終的に共通認識に至れない人とも共存していく努力をするべきでしょう。

あれだけの大人数の哲学的対話をファシリテートしたぢゅんちゃん、お疲れさまでした。
初めてとは思えないさばきっぷりでしたよ。
でも、見ていて本当にたいへんそうだったから、
自分がやってみたいとは思えませんでした。
福島で哲学カフェやるときは専任でよろしくお願いしますっ
なお、この件に関しては、ぢゅんちゃんのブログと、
参加者のおひとり、渋川すずめさんのブログもご参照ください。
コメント (2)
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