まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

アイドリング・ストップ (その2)

2010-03-31 23:59:59 | ドライブ人生論
先日、私は駐車中のアイドリングはしないようにしているという話を書きました。
冬場に車内を暖めるため、夏場に車内を冷やしておくために、
エンジンをかけっぱなしにしておくというのは、
ただでさえ環境に負荷をかけているドライバーとしては慎みたいところです。

ところが、最近のトレンドは駐車中のアイドリング・ストップどころか、
停車中のアイドリング・ストップに移りつつあるようです。
停車中のアイドリング・ストップとは、
信号待ちなどの一時停止のあいだにもエンジンを止めようという取り組みです。
「最近の」 なんて言うと失礼かもしれません。
市内を走っているバスなんかはもうけっこう前から、
信号待ちのあいだに自動的にエンジンが止まるようになっています。
ゴルフをする人はご存じだと思いますが、
ゴルフ場のカートも停車のために完全にブレーキを踏み込むとエンジンが切れ、
発進するためにアクセルを踏み込むとエンジンがかかる、
という仕組みになっているものが多いようです。

バスやカートのように、
自動的にエンジンを止めたりかけたりするような装置が組み込まれているクルマが、
今後はどんどん増えていくことになるのでしょう。
それは大変喜ばしいことだと思いますし、ぜひそうなっていってほしいものだと思いますが、
問題はそうしたクルマが大部分を占めるようになるまでのあいだの過渡期をどうするかです。
自動的にアイドリングをストップするための装置が組み込まれていない現在の大多数のクルマで、
停車中のアイドリング・ストップをするには、
信号で止まるたびにいちいちエンジンを切り、発進直前にエンジンをかけるということを、
ドライバーが自らの意思で毎回やらなければなりません。
最近のアイドリング・ストップの運動はまさにこれをやろうと呼びかけているようですが、
私はこれはできないだろうと思うのです。

みんなができないだろうとか、やらないだろうと言っているのではなく、
私にはこれをやる勇気がない、という意味です。
クルマというのはイグニッション・キーを回すとエンジンがかかるようにできていますが、
(最近のクルマはキーレスになっていてボタンを押してエンジンをかけたりする場合もあるようですが…)
たまーにキーを回してもエンジンがかからないということが起こります。
焦って2回、3回とひねってみるとたいていは何とかかかってくれるのですが、
どれだけ頑張ってもウンともスンとも言ってくれないということもあるのです。
どこか駐車場に駐車しているときにエンジンがかからなくなったという場合は、
それはそれでツライものがありますが、JAFを呼ぶか、
クルマをあきらめて別の手段で行けばいいことですので、まだ何とか対処可能です。
ところが公道を走行中にエンジンがかからなくなってしまうと、
本当に悲惨なことになってしまいます。
私は今までに3回ほどそんな目に遭ったことがあります。

1回目は高速道路を運転中でした。
当時貧乏だったのでクルマのメインテナンスとかにお金をかけることができず、
クルマを譲り受けて以来、一度もオイル交換をできずにいました。
で、すでに徴候は見え始めていて、駐車中にエンジンをかけようとしたところ、
上述したような、一発でエンジンがかからないという事態が何回か発生し、
ちょっとヤバイかなあと思ってはいたのですが、しかたなく放置していて、
そのままみんなで高速に乗ってドライブに行くことになってしまったのです。
行きはよかったのですが、帰りにひとりで高速で帰ることになったそのまさに高速走行中に、
突然エンジンが止まってしまったのです。
焦って走りながらキーを回してもまったく反応がありません。
慣性の法則にしたがってクルマはまだ走り続けているので、
注意しながら左車線に移り、
さらに、駐車しても大丈夫なような十分なスペースと、
JAFに連絡するための電話を探しながら、
ハザードランプをつけて次第に減速していきました。
パワーステアリングのクルマのため、
エンジンが切れるとハンドルがめちゃくちゃ重くなるのですが、
そこを何とか操作しながら、無事に路側帯に駐車することができました。
JAFを呼んで自動車工場まで牽引してもらったのですが、
エンジンオイル不足のためエンジンが焼き切れてしまっていたのが原因でした。
けっきょくそのクルマはおシャカになってしまいました。
あの状況でケガひとつせず生還できたのでそれで十分ありがたいことだったと言えるでしょう。

2回目は東京の真ん中の大きな交差点でのことでした。
あいかわらず貧乏な私は、ガソリンを十分補給することができず、
毎回10リットルとか5リットルだけとかしか入れられませんでした。
クルマは常にガス欠の一歩手前で、
ガソリンのEmptyランプが点灯しっぱなしだったのですが、
いつも、あとちょっと、もうちょっと行けるだろう、次のガソリンスタンドまで、
と1人でチキンレース (最近ではギリギリマスターと言ったほうがわかりやすいかもしれません)
を楽しんで (?) いました。
で、その交差点で右折した先にガソリンスタンドが見えていましたので、
さすがにもうヤバイ、あそこのスタンドに入ろうと思って信号待ちをしていたら、
プスッとエンジンが止まってしまったのです。
慌ててエンジンをかけたら一度はかかりましたが、
信号が青に変わる前にまたプスッと止まってしまいました。
それっきりもうエンジンがかかってはくれません。
交差点の右折レーンの真ん中で立ち往生です。
信号が青に変わっても進もうとしない私のクルマに大ブーイングで、
後続車たちがクラクションを鳴らしまくります。
クルマから降りて腕で大きな×を作り、後続車の列に頭を下げたので、
エンジントラブルということはわかってもらえたようですが、
この大きな交差点のしかも右折レーンという真ん真ん中で、
このあとどうしたらいいんだろうと困っていたら、
ちょうどその交差点のところに交番があったらしく、
先ほどのクラクションの嵐を聞きつけたおまわりさんが2人、
他のクルマを制しながらやってきてくれました。
どうしました?と聞かれたので、ガス欠によるエンストですと恥じ入りながら答えると、
交番脇までいっしょにクルマを押してくれました。
そこに置かせてもらって、目当てのガソリンスタンドまで歩いていき、
ポリタンクに10リットルのガソリンを売ってもらって給油しました。
命の危険はなかったものの、
衆人環視の中でのエンストだったので記憶に残る羞恥プレイとなりました。

3回目は福島に来てからです。
もう貧困にあえいではいなかったので、ちゃんと整備にはお金をかけ、
ちょっとバッテリーの調子が悪かったので高価な新品のものに替え、
ガソリンも余裕をもって満タン給油していたのですが、それでも起こってしまいました。
当時はクルマ通勤で、信号待ちの嫌いな私は、
裏道のルートをいろいろと開拓していました。
そのなかでも最も辺鄙な道 (松川-水原線だったかな?) を、
夏の暑い盛りに通っていたのです。
エアコンをガンガンかけ、カーステレオを大音響で聞いて、
他に1台もクルマが走っていないような緑の中の道を、
気分よく走っていたのです。
ところがその走行中にまたもやエンジンが止まってしまったのです。
走りながらイグニッションキーを回してみますが、やはりウンともスンとも言いません。
他のクルマも歩行者もいませんから、安全に停まることはでき、
恥ずかしい思いもしなくてすみましたが、
私はまだケータイを持っていなかった頃だったので、
果たしてこの山の中でどうしたらいいものか途方に暮れてしまいます。
頭をフル回転させて考えたあげく、
さっき通り過ぎてきたところで工事をしていて、
そこのおじさんが携帯電話らしきものを持っていたような映像を思いだし、
そこまで歩いて戻ってみることにしました。
その前に地図を開いて確認し、
JAFの人に現在位地を何と伝えるか頭の中で整理しておきます。
で、そのおじさんに事情を説明し携帯電話を貸していただけるようお願いしてみると、
快く貸してくださいましたが、このへん電波が悪くてつながらないかもしれないよ、
と不吉なお告げを下されます。
案の定この山の中ではアンテナは1本も立っていません。
場所を変えると電波が入るかもしれないからという助言にしたがって、
何百メートルもあっち行ったりこっち行ったり向きを変えたりして、
何とかアンテナが1本だけ立つポイントを見つけてJAFに電話し、
何とか現在地も理解してもらって、1時間半くらい暑い中でジーッと待って、
やっとこさ救出してもらいました。
どうやらバッテリーよりもダイナモ (充電器) のほうがいかれていたのが、
今回のトラブルの原因だそうです。

エンジンがかからなくなるというのは、クルマの場合よくあるトラブルです。
私の場合はそれどころか、走行中にエンジンが止まってしまって、
そのままかからなくなるという経験を3回もしてしまったのです。
エンジンを止めることに人並み以上の恐怖感をもっていたとしてもしかたないことでしょう。
というわけで信号待ちのときに毎回エンジンを止めるというのは、
私にはちょっとムリな気がするのです。
申しわけありません、最近のアイドリング・ストップ運動に参加できなくて

コップを裏返そう

2010-03-30 22:16:42 | 性愛の倫理学
今回は 『ゴトー式口説きの赤本』(後藤芳徳、講談社、2004年) です。
既婚者の私には特に用のなさそうな本なんだけど、
ブックオフでたまたま手に取ったら、ツボにはまって買いました (当然100円!)。
怪しげなタイトルだけど、
とても真っ当なコミュニケーション論のテキストです。
もしも私がコミュニケーション論の授業を持たされたら、
この本を教科書に指定します (まあそんなことはありえませんが…)。

人間関係をコップに喩えたのが秀逸でした。
人はみなコミュニケーションのコップを持っている。
コミュニケーションとは相手のコップに水を注ぐことである。
しかし、最初そのコップはみんな裏返しになっている。
裏返ったままのコップにいくら水を注いでも水はたまらない。
コミュニケーションの第一歩は、
まず相手のコップをひっくり返して、
水を受け止めてもらえるようにすることである。

そうなんだよなあ。
教育とか授業に関してもこの理論は当てはまります。
まずは相手の興味関心を引き出すこと、
これができなければ学生さんは講義を聞いてくれません。
同様に異性に話しかけようとする場合も、
まずはこちらの言うことを聞いてもらえる雰囲気を作り出すこと、
これが大事です。
でも、ここのところをわかってない子が多いんだよなあ。
人間関係、特に男女関係にお悩みの方に、
ぜひご一読いただきたい本です。

私語の世界(その4)・私語にどう対処するか?

2010-03-29 16:34:59 | 教育のエチカ
 いよいよ、講義中の私語にどう対処したらいいかという本題に入っていきましょう。最も重要なのは個別に対処するということです。全体に対して注意したり、怒ったりしても意味がありません。私語をしているその本人たちに対して直接働きかけなければなりません。一番基本となるのは、すでにお話ししたように、私語がほんの少しでもあったら、絶対にそれを無視して講義を続行してしまわないということですが、その際に、私語している人たちのほうをジーッと見つめてあげるというのが効果的です。私語している子たちは、自分たちの私語が人に気づかれているということに気づいていません。特に、講義をしている教員に聞こえているとはまったく思っていません。ですので、講義を中断し教室が静かになれば、私語している子は異変に気づき何が起こったんだろうとこちらに注意を向けますし、そうしたら先生と目が合って自分たちがジーッと見つめられていたら、教室が急に静かになってしまったのは自分たちのせいであったということに気づけるのです。
 福島大学のM教室くらいであれば、ほぼすべての私語はこれで根絶することができます。L教室くらいの大きさになると、後ろのほうに座っていると自分たちが見つめられているということに気づかず、講義が再開された瞬間にまた私語を始めるということもありますので、もう一押しが必要になるかもしれません。ただしここで、私語をしてはいけないと決めたのに私語をするとは何事だといきりたつのではなく、落ち着いて大人の対応をしてあげることが大事です。そもそも、なぜ人は私語をしてしまうのでしょうか。それは人間が、ひとと情報を共有したがる動物だからだと思われます。特に、仲のいい相手とは頻繁に濃密に情報を分かち合いたくなるものです。このような情報の共有を、だれか第三者が話をしているときにもやってしまうと、それが私語となるわけです。私見によれば、私語には 「よい私語」 と 「悪い私語」 があります。よい私語とは、その第三者が話している内容に関連する事柄を話している場合です。悪い私語とは、話の内容とはまったく無関係なおしゃべりをしている場合です。人はわからないことがあったら誰かに聞きたくなりますし、今見聞きしているものに関連することを誰かと話してみたくなるものです。それによってよい私語が発生します。また、人は退屈すると有意義に時間を使いたくなるものです。これが悪い私語の原因です。
 私は、よい私語は大切にしたいと思っています。よい私語というのは、講義に対する興味・関心の表れですから、それを注意したり怒ったりしてしまうと、せっかくの学生のやる気を殺いでしまうことになります。そこで、誰かが私語をしているときは、それはきっと 「よい私語」 にちがいない、どうしたんだろう、何かわからないことがあったのだろうかと反省してみるようにしているのです。そして私語していた子たちに直接聞いてみるのです。「なに? どうした?」 こう聞いてみるとたいていの場合、私の板書の字が読めなかったか間違っていたかして 「あの字なあに?」 と困っていたとか、話の内容が難しすぎて理解できず隣の人に聞いていたということが判明します。福大生はまじめですので、私語があったとしてもたいていはこの手のよい私語であることが多いと思います。これは教員に対する学生からのフィードバックですので、怒るよりも活かすようにしたほうがいいと自分は考えています。
 万一それが悪い私語であったとしても、それはそれで学生からのフィードバックだと言えるでしょう。彼らは授業に興味をもてずに退屈しているということを伝えてきてくれているわけです。そんな彼らに対しても、とりあえず私語をやめさせるというだけであれば、「なに? どうした?」 と聞いてあげる方法は功を奏します。私語をしていた人たちに直接個別的に聞くわけですから、君たちは今何かしゃべっていましたね、それは講義に関係あることを話していたのですか、もしも関係ないのだとしたら君たちはみんなが講義を聞く権利を侵害していたことになりますね、というメッセージになるわけです。こう聞かれると、まず十中八九 「いえ、何でもありません」 と言って私語をやめます。ここで 「ではなぜ話していたんだ、私語はいけないと決めてあっただろう」 とダメ押しをして説教を始めるという手もあるかとは思いますが、私はそれはしないようにしています。他の学生が講義を聞く権利を保障するのがそもそもの目的ですが、ここで説教を始めてしまうと権利侵害が拡大してしまうからです。「なに? どうした?」 の一言で悪い私語も封じ込めることができれば、そのほうが他の学生たちに与える印象はよくなるでしょう。
 もしもそれでも私語をやめない学生がいたとしたら、近くまで行って私語をしていた学生をきちんと特定して氏名を聞きそれを書き留め、授業後に自分のところまで出頭するように伝え、説教は授業後に本人たちに対してのみ個別的に行うようにします。福島大学でここまでする必要に迫られたことはありませんが、たとえそのような状況に追い込まれたとしても、他の学生たちの権利保障が目的であるということを見失わないようにしたいと思います。また説教する際も、人間は私語する動物であるということを念頭に置いて、その学生を全否定してしまうのではなく、他の学生たちが講義をちゃんと聞けるような環境を作るのに協力してほしいというスタンスを保っていたいと思っています。根本は、私たちだって教員会議中に私語してるよね、なのです。
 私語する動物である人間に私語をさせないようにするための方策として、最後にもうひとつだけ付け加えておくなら、私語してもいい時間を与えてあげるようにするということが挙げられるでしょう。私語する動物が90分間も黙ったまま人の話を聞き続けるというのは至難の業です。ですから、時々は息抜きも必要です。私の場合は、よい私語の時間と悪い私語の時間を設けるようにしています。講義内容について近くの人と話し合ってもらうようにする時間、それがよい私語の時間です。これはそのつど適切な課題を与えて積極的に話し合ってもらうようにしています。それから、例えばプリントを配布しているあいだとかはザワついていても容認しています。これが悪い私語の時間で、この場合は自由におしゃべりできるような雰囲気を醸し出すようにしています。このように90分間の中でメリハリをつけ、講義に集中する時間と、ブレイクする時間を作ってあげると、私語する動物が私語をしないでも何とか我慢し続けられるようになるようです。
 私語する動物である人間に私語をさせないようにするためには、なぜ人が私語をしてしまうかをよく理解した上で、それを未然に防いだり、やめさせたりするための具体的な手立てを考案していく必要があるでしょう。私たちだって私語をしてしまうのです。そのことを忘れずに、寛大な気持ちでこの問題に取り組んでいきたいと思います。

以上、4回にわたって連載してきた 「私語の世界」 はこれにて完結です。
ちょっと分量が増えすぎてしまったので、FD関係の媒体に投稿する際は、
あちこち手を入れなければならないでしょう。
完成バージョンもそのうちアップすることにしたいと思います。

子どもの発見(その3)

2010-03-28 08:19:40 | 人間文化論
男の子というのはクルマが好きです。
しかし小さい頃は運転できませんから、クルマというのは謎に包まれた存在でもありました。
今日はそのクルマに関する発見です。
私は長い間、ある勘違いをしていたのですが、
その間違った知識も、たんに元からそう思い込んでいたというだけでなく、
あるときにそれを自分で発見しましたので、
私としては子どもの頃に2回、大発見をしたのだと言えるでしょう。

それは、ウィンカーに関する発見です。
私は団地育ちです。
団地の敷地内にはいくつか公園もありましたが、
どれもちまちました公園でしたし、
そこでは自分たちよりももっと小さい子たちが遊んでいましたから、
小学校入学前後、プラスチックのバットとゴムボールで遊ぶ野球とかを楽しむようになった頃は、
よく団地内の道路で遊んでいました。
道路もそんなに広くはありませんし、細長い形ですから、
野球場として使うには向いていなかったのではないかと今では思いますが、
子どもというのは工夫の天才ですから、
そんな環境の中でも適宜ルールを改変しつつ、野球を楽しんでいたのです。

道路で遊んでいるとクルマが通りますから、しばしば試合は中断されます。
そのあいだは早く通り過ぎてくれないかなあと思いながら、
クルマを観察して待つわけです。
そうやってクルマを見ながら、ちっちゃなまーちゃんは、
ある日大発見をしてしまったのです。
黄色いピコピコのランプ (ウィンカーのことです) が左側に点くと、
そのクルマは左に曲がり、右側に点くと右に曲がるっ!
これはものすごい発見だと思いました。
これを知っているとそのクルマがどちらに曲がるか予言することができます。
で、私は一緒に遊んでいた友だちにそのことを誇らしげに話したのですが、
「そんなの当たり前じゃん」 と一蹴されてしまいました。
どうやらみんなはそんなこととっくに気づいていたようです。
なんでちっちゃなまーちゃんは、みんなと同じ場所で同じ回数クルマを観察していながら、
そのことに気づかなかったのでしょうか。
というか1回か、せめて2回くらい見たらその関連性に気づこうよ。
何年ものあいだ、あのピコピコのことを何だと思っていたのでしょうか?

さて、遅ればせながらピコピコとクルマの進行方向の関連性にやっと気づいたまーちゃんですが、
彼はまだ勘違いをしていたのでした。
上述したとおり彼は、
「左のピコピコが点くとそのクルマは左に曲がり、右のピコピコが点くと右に曲がる」
というように定式化してその法則性を捉えていました。
本来ならその関係性は、
「左に曲がるクルマは左のウィンカーを点滅させ、右に曲がるクルマは右のウィンカーを点滅させる」
と定式化されなければなりません。
しかもこの場合の 「点滅させる」 の主語は実はクルマではなく、ドライバーのはずです。
ちっちゃなまーちゃんはそのあたりの因果関係まできちんと理解していませんでした。
まるで自然法則かなにかのように、
「左のピコピコが点くとそのクルマは左に曲がり、右のピコピコが点くと右に曲がる」
と思っていたのです。
だから、その法則を発見したあとに、
ピコピコが点かないまま左折したり右折したりするクルマもけっこういることに気づき、
ちっちゃなまーちゃんは混乱してしまったのでした。
「なんでピコピコが点かなかったのにあのクルマは曲がることができたんだろう?」

この疑問に対する答えを発見したのは、
小学校2年生の頃に市電が廃止され、バス通学になり、
(バスで20分ほどかけてあの関内駅まで行ったあと、国鉄根岸線に乗り換えていました)
バスの運転手さんが運転しているところを、バスの中から観察できるようになって、
その後何年か経ったあとのことでした。
クルマが大好きなまーちゃんは、一番前の席に陣取ってよく運転を見ていました。
バスの運転席は、ジェット機かロケットのコックピットのようで、
たくさんのレバーやボタンが溢れ、子どもにとって目眩く世界でした。
ハンドルとアクセルとブレーキぐらいはゴーカートにもついていたのでわかっていましたが、
運転手さんの左側に床から突き出ている長いレバー (ギヤ) や、
前進や停止とはタイミングがズレながら左足で踏んでいるペダル (クラッチ) などは、
けっきょく運転免許の教習所に行くまで何の装置か理解できないままでした。

ピコピコの謎が解明されるのにもけっこう時間がかかってしまいました。
バスの中でカッチッ、カッチッと音がしているときにピコピコが点いているらしいこと、
さらには、運転手さんがハンドルの右側についているレバーを操作すると
カッチッ、カッチッと音がして、ピコピコが点くということはわりと早く気がつきました。
ところが、私が通学に使っていたバス路線は鎌倉街道をまっすぐひた走るだけでしたので、
右折や左折がほとんどなかったのと、
バスの場合、バス停に停車するときとバス停から出発するときにウィンカーを使用しますから、
そのせいで、野球のときに見たあの右折時、左折時のピコピコと、
バスの運転手さんがやっている停止、発進時のピコピコとを、
ちっちゃなまーちゃんは関連づけて考えることができなかったのだろうと思います。
しかし、関内駅始発のバスや関内駅終点のバスに限っては、
関内駅近辺で何回か右折や左折をするので、
それを何年か見ているうちにやっとちっちゃなまーちゃんは次のことを発見したのです。

発見その3 「クルマのピコピコは、クルマの動きに合わせて自然に点くわけではない。
        運転手さんがハンドルの右側のレバーを操作するとピコピコが点く。
        運転手さんは右折するときや左折するとき、
        その他よくわからないけどいろいろな機会にピコピコを点ける。」

うーん、ちょっと時間がかかっちゃったけど今回もよく発見したね、ちっちゃなまーちゃん。
前の2つの発見に比べると、段階的に少しずつ解明されていったし、
けっきょく最後まで謎の部分も残ってしまったので (これはやはり自動車教習所に通うまで解明できず)、
おおという驚きは少なかったのですが、
因果関係に関する理解が進んだという意味では大きな発見だったと言えるでしょう。

アメリカ人はエライ?

2010-03-27 08:07:40 | お仕事のオキテ
私はネギがあまり好きではありません。
特に、ラーメンやソバの薬味として使われる、輪切りにされた生の長ネギが大嫌いです。
長ネギではなく万能ネギだと大丈夫ですので、あの緑色でちっちゃいやつなら、
ソバや鍋物の薬味として、自ら率先して使ったりしています。
また、同じ長ネギでも火が通っていればいいので、鍋に入れるネギとかはOKです。
さらにいうと、生の長ネギであっても、白髪ネギとかは大丈夫ですので、
長ネギの繊維の方向に沿って千切りにしてあると大丈夫なようです。
とにかく長ネギを生で、繊維を断ち切るように輪切りにされると、
臭いが鼻につくし、舌触りも良くないし、とにかく美味しくないと思うのです。
あれを必ずラーメンやそばの薬味として入れるという風習はいかがなものでしょうか。
たしか 『美味しんぼ』 の栗田さんも、ソバを食べるときにネギは入れないと言っていましたし、
とにかく何でも食べる大食漢というキャラで売っているあの石ちゃんも、
唯一ネギがきらいなのだそうです。

さて、昨日書きましたように、昼はソバという 「石原式基本食」 を実践している私は、毎日が薬味ネギとの戦いになるわけです。
石原先生は 「ネギをたっぷり」 を推奨していらっしゃいますが、
それはたぶん万能ネギのことを言っていらっしゃるのでしょう。
輪切りの長ネギをたっぷり入れたりした日には、
臭くて臭くて食べられたものじゃないでしょうし、
午後のゼミや会議で一緒になった人はみんな顔をそむけてしまうことでしょう。
ざるソバであれば、薬味は別盛りになっていますので、
それを使わなければいいだけのことですが、
(近くにあるだけでソバの香りを台無しにしているとも言えますが…)
大学の生協食堂では冬場はかけソバ系しか置いていませんので、
毎回 「ネギ抜きで」 とお願いしなければいけないわけです。

ところがネギ抜きを注文しても、まず5回に3回はネギが入って出てきてしまいます。
これは仕方ないでしょうね。
街中のちゃんとしたプロがやっているお店で、そんなもの出されたら、
「注文したものとちがいます」 と毅然として突っ返すところですが、
大学生協でソバを作っているのはほとんどみんなバイトのおばちゃんたちでしょうから、
手順通りに同じものを作るのが精一杯で、
客ひとりひとりのスペシャルな注文に正確に応えるということまで要求するのは酷というものでしょう。
私たちも、ルーティーンワークは慣れるにしたがって次第に無意識的にこなせるようになってきますから、
特別な注文が入って、ちょっと違うことをしなければいけなくなったときに、
わかっていたはずなのに、やっぱりいつも通りに動いてしまうということがあるはずです。
ふだん国産車を運転していた人が、
たまたま左ハンドルの外車を運転しなきゃいけなくなったとき、
頭の中では 「ウィンカーは左側、ウィンカーは左側」 と唱えているにもかかわらず、
いざ曲がるときにウィンカーを出そうとすると、
ウィンカーの代わりにワイパーを動かしてしまうというのと同じです。
ですので、生協食堂ではネギ入りソバが出てきても逆上したりすることはなく、
黙って受け取って、自分でネギを撤去するようにしています。

さて、そうやって考えると、アメリカ人ってある種すごいと言うことができるのではないでしょうか。
ずっと前にご紹介したことがありますが、アメリカで料理を注文するのは大変です。
同じものを頼んだとしても、焼き方や味付けやトッピングや付け合わせなど、
1人1人が事細かに自分の好みに合わせた注文をしなければなりません。
バイトやパートの人たちで切り盛りしているように見えるジャンクフード店ですらそうなのです。
そして、こちらがちゃんと意思を伝えることができたならば、
どんな店でも、きちんとその通りのものが作られてくるのです。
彼らはルーティーンワークとして流れ作業のように料理しているのではないのでしょう。
一品一品注意を払って意識的に作り上げていっているのだろうと思います。

まあ文化の違いなので、
個々の注文に応えるというところまで含めて自動化されているのかもしれませんが、
それにしてもそこまで自動化できているというのはすごいことではありませんか。
というわけで、お昼に 「石原式基本食」 のソバを食べるたびに、
デカイ身体で繊細な仕事を成し遂げているアメリカ人に思いを馳せる今日この頃でした。

朝だけ断食

2010-03-26 12:44:07 | がんばらないダイエット
またまたブックオフで、
『男を持続させる食べ物、生き方』(石原結實著、ベスト新書、2009年)
という本を買っちゃいました。
むろんタイトルに惹かれたから買ったわけですが、
そっち関係の本題に関しては、近々ご報告いたします。
ダイエット的にも興味深い内容が書かれていましたので、
今日はそちらの紹介をいたします。

石原さんの主張は、現代人は食べ過ぎているがために弱っている (いろんな意味で)、
というものです。
そこで彼が唱える健康法が、「朝だけ断食」 = 「石原式基本食」 なのです。
現代人はすでに十分に食べ過ぎてしまっているので、三食をきっちり食べる必要はなく、
ただし朝は、脳や身体の活動のためのエネルギーは補給しなくてはいけないので、
完全なる断食ではなく、
胃腸に負担をかけずに糖分と水分とビタミン、ミネラルを補給できるような朝食にする、
という方法だそうです。
「朝だけ断食」 の概要は次のようになります。

朝食:生姜紅茶 (紅茶にすり下ろした生姜とハチミツを入れる)
    または
    人参・リンゴジュース
昼食:そば (ざるそばかトロロそばかワカメそば、いずれも七味唐辛子とネギをたっぷり加える)
    または
    具沢山のうどんかスパゲッティ・ペペロンチーノ
夕食:アルコール類を含めてなんでも可

夜に何を食べても飲んでもよいというのが 「がんばらないダイエット」 に適っています。
生姜紅茶もさっそく飲んでみましたが、
まったくマズイものではなく、美味しくいただけました。
そのうちジューサーを買ったら (これについてはそのうち書きます)、
人参・リンゴジュースにも挑戦してみたいと思います。
そばも大好きですし、実はこの本を読む前から昼食はできるだけそばにするようにしていましたので、
ほとんど何もがんばらずに 「石原式基本食」 は実践できるじゃないですか。

この 「石原式基本食」 を実行した読者からは、
「6ヶ月で10㎏やせた」 「血圧が下がった」 「肝機能がよくなった」
「喘息が軽くなった」 「性力が強くなった」 といった声が寄せられているとのことです。
どれも少しずつ当てはまるところがあるので、
もしもこれが本当なら夢のような 「がんばらないダイエット」 ではありませんか。

折しもこの3月は、48年の人生の中で一番飲み会が多かった月でしたので、
再び70㎏ラインを超え、たいへんなことになってしまっています。
ぜひこの 「朝だけ断食」 で体重と健康の回復に努めたいと思います。
続報を御期待ください。
(と言いつつ、今日は朝からイクラ丼を食べてしまいました。
 今朝食べてしまわないとせっかく買ったイクラが腐ってしまいそうだったので…)

今こそ わかれめ

2010-03-25 10:30:00 | ダンス・ダンス・ダンス
今日は福島大学の卒業式です。
例年、3月25日と決まっているのですが、
こんなに大雪でこんなに冷え込んだのは、私の知る限り初めてではないでしょうか。
ダンス部では毎年紙吹雪で卒業生を送るのですが、
こんなに雪が積もっているなかで紙吹雪をまいてしまったら、
回収不能になるので (散らかしたゴミは当然のことながら自分たちで拾わなければならない)、
今年は紙吹雪中止になりました。
地球温暖化が進むなか暖冬傾向にある福島で、
ホワイト卒業式になるなんて得難い経験と言えるでしょう。
せっかくの晴れ着がたいへんなことになってしまっていましたが、
それも含めてずっと記憶に残り続けることと思います。

そして、このホワイト卒業式とともに、
大学4年間のことも記憶に刻んでください。
入学式のあの日と比べてどれほど成長したでしょうか。
何を学んできたのでしょうか。
どんな力を身につけたのでしょうか。
ただのモラトリアムの4年間ではなく、
これから先自分で生きていくための基盤をしっかりと固めるための4年間となったことを、
大学教員のひとりとして心から願っています。

ちなみに福島大学の卒業式では学生歌のほかに 「蛍の光」 が歌われたそうです。
この曲も調べてみると、2番以降の歌詞はけっこう国家主義的で、
政治状況の変化に応じて改変も重ねられているようです。
それに比べて福島大学の学生歌 「今日の世紀に」 は、
初めて聞いたときはサビの部分の歌詞の大仰さ↓にちょっと笑ってしまったものですが、

われらは人間 われらは学生
  愛と真理に強く生きよう

歌い込んでくるうちにしみじみいい歌だなあと思えるようになってきました。
特に2番の出だしのあたりは、
グローバル・エシックスのテーマソングとして認定してあげてもいいくらいです。

明日の平和を ねがう鐘の音に
  あらたなつとめと 希望とを聞き

卒業生の皆さん、これまで培ってきた力を活かし、
地域のため、日本のため、そして世界のために貢献するというつとめを、
立派に果たしていってください。
ご卒業おめでとうございます。

「仰げば尊し」 修正情報

2010-03-24 15:37:51 | 人間文化論
昨日 「仰げば尊し」 について書きましたが、またウソを書いてしまいました。
修正させていただきます。
このところこんなことばかりやっています。
この調子で間違えたことを書いてはそれを修正するということを繰り返していれば、
無限にブログを書き続けていくことはできるでしょうが、
読者は呆れてだれも読んでくれなくなってしまうでしょう。
いかん、いかん。

さて、3月に入ってずっと続いていた送別会のシリーズもやっと一段落したので、
昨日は5時過ぎに附属小学校での会議を終えたあと、そのまま直帰すればよかったんですが、
なぜかご近所の高校の先生を呼び出して、また飲みに行ってしまいました
飲み放題でビールとワインをしこたま飲み、
さらにスナックでカラオケというダメオヤジの王道を歩みました。
彼が尾崎豊の 「卒業」 を歌ったのに触発されて、昨日のブログのことを思い出し、
初めてカラオケで 「仰げば尊し」 を歌ってしまいました。
カラオケで初めてっていうことは、
高校の卒業式以来久しぶりに歌ったということではないでしょうか?
で、昨日のブログの中でこんなこと↓を書いたんですが、

 「仰げば尊し」 の歌詞は古い日本語で書かれていて、
 小中学生くらいだとそもそも意味がわからないし、
 したがって歌詞が覚えられないということもあるようです。

久しぶりに歌ってみて、この部分がウソっぱち情報だったということに気づきました。
誠に申しわけありません。
自分は 「仰げば尊し」 の歌詞を覚えていると思っていたんですが、
覚えていたのは1番だけでした。
2番以降はまったく覚えておりませんでしたし、
小中学校のときにちゃんと覚えていたのかどうかも怪しい感じです。
それになんといってもショックだったのは、
画面に映し出される歌詞を見ても、意味がわからないのです。
小中学生どころか、48歳のオッサンが歌詞の意味を理解できていなかったのです。
全国の小中学生の皆さん、バカにした物言いをしてしまい、
本当に申しわけありませんでした。

「わかれめ」 って何なんでしょうか?
「やよ」 って何なんでしょうか?
「まぞなき」 って何なんでしょうか?

最後の 「まぞなき」 はウィキペディアに漢字で書かれていたので、
それでやっと意味がわかりましたが、
カラオケでひらがなで映し出されたときには、
「マゾ (ヒスト)」 というよく知っている単語のことしか思い浮かびませんでした。
これは 「忘るる 間ぞなき」 ということだそうで、
「忘れるときはない」 という文に、
昔覚えた 「ぞ・なむ・や・か・こそ」 の係り結びが付加されているんですね。

漢字で書いてあるとわかるという意味では、
1番に出てくる 「思えばいととし」 の 「いととし」 って、
なんとなく 「愛しい」 という意味かと思い込んでいたんですが、
昨日のカラオケ画面でこれは 「いと疾し」 だったということを初めて知りました。
なるほど、「とても速く」 という意味だったんですか。
ずっと勘違いしていたなあ。

「わかれめ」 は 「別れ目」 ではないそうですし、
「やよ」 は 「ヤーヨ」(志村けん) ではないそうです。
うーん、難しい
わかった気になっているというのが一番恥ずかしいことですね。
「仰げば尊し」 を伝えていきたいのであれば、
きちんと自分なりに歌詞の意味ぐらいは調べてみる必要があるでしょうし、
いくらなんでもこれは日本語が難しすぎて子どもたちには無理と判断するなら、
新たに文化として伝え残していけるようなものを見つけ出すか、
作り出すかしなければいけないのでしょう。
フーム、文化の伝承は骨が折れるな。

仰げば尊し わが師の恩

2010-03-23 12:50:56 | 教育のエチカ
卒業式シーズンですね。
卒業式といえば私たちの頃は 「仰げば尊し」 や 「蛍の光」 が定番ソングでしたが、
最近は卒業式で歌われることがどんどん減っているのだそうです。
Jポップにお株を奪われていて、
ある記事によると、昨年の卒業式ソングベスト3は、
「道」(EXILE)、「3月9日」(レミオロメン)、「サクラ咲ケ」(嵐)
だったそうです。

福島県の高校で 「仰げば尊し」 の廃止を先導してきたある先生によると、
学校側が主催し企画も立てている卒業式において、
生徒に 「仰げば尊し 我が師の恩」 と歌わせることを強要するなんて、
教員の側の思い上がりも甚だしい、ということだそうです。
先ほどの記事によると、仰げば尊しに代わってJポップが歌われるようになったのには、
次のような事情もあるそうです。

「きっかけは、尾崎豊の『卒業』が当時の高校生に共感を得たことでしょう。
 ただし、この曲には教育上好ましくない表現が使われていたことから、
 実際に卒業式ソングとして使われることは少なかったようですが、
 03年に別れを題材とした森山直太朗の 『さくら(独唱)』 がヒットし、
 『これなら卒業式で歌ってもいいのでは』 という気運が急速に広まったようです。」
                         (音楽評論家・反畑誠一さん)

なるほど。
卒業とは 「支配からの卒業」 だと思っている人たちに、
髪も整え制服を正しく着こなして、「仰げば尊し 我が師の恩」 と歌わせようなんて、
そりゃあリアリティがなさすぎるというものかもしれません。
近年ではセクハラやら、もっと直接的に生徒を対象とした性犯罪とかもあるようで、
そんな目にあった人たちが 「仰げば尊し 我が師の恩」 と高らかに歌うことを強要されたら、
二次被害以外のなにものでもないでしょう。
すべての学校でそこまでひどいことが起こっているわけではないとしても、
「仰げば尊し」 の歌詞は古い日本語で書かれていて、
小中学生くらいだとそもそも意味がわからないし、
したがって歌詞が覚えられないということもあるようです。
「仰げば尊し」 が廃れていくのももっともだという気がします。

ところが今朝たまたま見た報道番組で、
(「とくダネ!」 だったか 「スーバーモーニング」 だったかもう思い出せないのですが、)
卒業式で 「仰げば尊し」 を復活させる取り組みをしている中学校のことが特集されていました。
きちんと歌詞の意味を教え、
卒業式で、たんに教員に対してばかりでなく、自分の親も含めて、
ここまでお世話になった大人の人たち (=師) に対してこの曲を歌ってあげることが、
どういう意味を持っているのかということを、
きちんと丁寧に生徒たちに説明して理解を求めた上で、合唱の練習をし、
卒業式で披露している学校です。
これは教育界におけるインフォームド・コンセントの取り組みとして評価されるべきでしょう。

最も理想的なことを言うならば、
生徒たちが自らの判断と選択により 「仰げば尊し」 を歌おうと決め、
自主的・自発的に歌うというのが本来あるべき姿だと思います。
たんなる別れを歌ったJポップではなく、
わが師の恩に感謝を捧げる 「仰げば尊し」 を先生たちに贈りたいと、
彼らが自然に思えるような、そういう学校生活が営まれてきて、
そういう関係性が育まれていたならば、
そのような理想的かつ感動的な卒業式が可能になるかもしれません。
けっきょく、日々の教育活動が重要なのであって、
節目の式典だけをなんとか取り繕おうとしても手遅れであるということなのでしょう。
うちの卒業式は明後日ですね。
卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
わが師の恩は仰がなくてもいいから、貸してあげていた本は返してね。

父の教え

2010-03-22 23:59:29 | 人間文化論
先日、ユニクロの折りたたみ傘の話をした際、次のように書きました。
「折りたたみ傘を上手にしまうためには、
 折り目通りにたためるかというのが重要なのですが (これについてはそのうち書きます)、
 昔のものに比べて最近のものは格段にたたみやすくなったと言えるでしょう。」
今日はこの待機テーマをやっつけることにしましょう。

自慢じゃないですが (と言うときって実は自慢しているんですけれども)、
私は折りたたみ傘をたたむのが上手です。
よく、知り合いや、たまたま電車の中で見かけた人とかが、
折りたたみ傘をいい加減にグルグルッと丸めてむりやり留めたりしているのを見ると、
奪い取ってたたみ直してあげたくなるくらいです。
折りたたみ傘をキレイにたたむにはどうしたらいいか?
それは、工場から出荷されたときに付いていたもともとの折り目を、
毎回きっちりと再現するように折りたたんでいけばいいのです。
その方法を私は父から伝授されました。

16年前に亡くなった私の父ですが、とても几帳面な人でした。
魚なんかもみごとに頭と骨だけ残してキレイに食べきっていました。
時間も正確で、予定通りピッタリに行動するような人で、
およそ私とは正反対の性格の人でした。
その父の血液型がB型だったので、
私は昔から血液型占いというのはまったく当てにならないとわかっていました。

その父が、何をやってもルーズでいい加減な私の行動の中でも、
とりわけ許し難いと思ってわざわざ伝授してくれたのが、
折りたたみ傘のたたみ方だったわけです。
まず自分がやってみせ、コツを説明し、
あとは何回か開いてはたたみ、開いてはたたみと練習させて、
習得させてくれたのです。
親から子へと伝えられる文化は数多くあると思うのですが、
折りたたみ傘のたたみ方を教えてくれる親ってそういないと思うので、
傘をたたむたびに父のことを思い出します。

それともうひとつ。
父は中学生の頃からずっと毎日2箱のタバコを欠かさずに吸っているというのが自慢の人でしたが、
(これについてはそのうち書きます)
タバコの煙で輪っかを作るのが上手で、
子どもの頃はいつもせがんで作ってもらっていました。
そして私がタバコを吸い始めたとき、その方法も教わったのです。
唇を丸くすぼめておき、舌先を下の歯の2、3㎝下にある溝みたいなところに引っかけ、
そこから下の歯に向かってトンとぶつけていくように動かしてあげる。
この動きを図に描いたり、タバコを吸わずにやってみせたり、やらせたり、
というようなことをしながら教わったような記憶があります。
言われたとおりにやって初めてタバコの煙で輪っかを作れたときは、
ちょっとうれしかったものでした。
最近はめったにタバコを吸わなくなり (これについてはそのうち書きます)、
輪っかを作ることもなくなりましたが、
たまにやってみるとやはり父のことを思い出します。

なんかもっといろいろ大事なことを学んだような気もするのですが、
意識的・自覚的に教えた・教わったと言えるのは、この2つです。
こういうちょっとした文化が各家庭でそれぞれ伝えられていっていることでしょう。
それを自分の代で絶やしてしまうのではなく、
さらに次世代へと引き継いでいくのが人間の務めではないでしょうか。
子どものいない私は、こうしてブログに書くことによって伝えていこうと思います。
以上の説明でよくわからなかった人には直接伝授いたしますので、
メールまたはコメント欄でお問い合わせください。

ミカン箱の子ども

2010-03-21 12:27:46 | 教育のエチカ
私のホームページとブログの師匠である中間玲子先生のブログに、
「ミカン箱の子ども」 という記事を見つけました。
中間先生は2008年度まで福大にいらした心理学者で、
昨年から兵庫教育大学に勤めていらっしゃいます。
私のチャラけたブログと違い、中間先生のブログには深イイ話が多いのですが、
とりわけ、この 「ミカン箱の子ども」 には考えさせられてしまいました。
とにかく、読んでみてください。

「ミカン箱の子ども」 を読む

一昨日うちの大学院生が、近藤卓氏の 「いのちの尊さを育む教育」 という論文
(『教育と医学』、慶應大学出版局、2009年、所収) をレポートしてくれました。
近藤氏はスクールカウンセラーとしての臨床経験から、
子どもたちが 「なぜ自分は生まれてきたのか」、
「生きていていいのか」 という悲痛な叫びを発していると言います。
そういう子たちは自尊感情 selfesteem が低いので、
よく、子どもをもっと褒めてあげましょう、という言い方がされますが、
それだけではうまくいかないだろうと近藤氏は述べています。

近藤氏によれば、自尊感情には2つの領域があるのだそうです。
「社会的自尊感情」 と 「基本的自尊感情」 です。
前者は、「他者より優れていると実感することによって高まる感情の領域で、
他者との比較による相対的な優劣によって成立する感情」 です。
これに対して後者の基本的自尊感情は、
「信頼できる他者と、体験と感情を共有することを繰り返し、
それにより、他者との比較ではなく、自分はこれでいいのだと、
絶対的で無条件に自分を受け入れられる感情」 だそうです。
褒めてあげることによって育まれるのは前者の社会的自尊感情だけです。
最近の子どもたちの中には、基本的自尊感情が育っていないのに、
社会的自尊感情だけを肥大化させて何とか自分を保っている 「頑張り屋のいい子」 が多いと、
近藤氏は分析しています。
そういう子たちはふだんは元気よく普通に振る舞っていますが、
失敗や挫折を経験するとポキッと折れてしまうことがあるので、
気をつけなければいけないのだそうです。

基本的自尊感情が育たなかったのはなぜなのか、
基本的自尊感情を育ててあげるにはどうしたらいいのか、ということを考えていたところに、
たまたま 「ミカン箱の子ども」 の話に出会ったわけです。
親の何気ない作り話に、それでも精一杯喜んでみせるA君は、
そのままでも 「頑張り屋のいい子」 に育ったことでしょう。
しかし、大人なら誰でもわかる当たり前の事実をちゃんと教えてもらえたことによって、
A君は基本的自尊感情を取り戻せたのではないかと思うのです。
子どもに対してどんな話をしてあげるのか、どんなことばをかけてあげるのか、
大人は慎重に吟味していく必要があると思います。

うーん、それにしてもええ話や。
師匠、私泣いてしまいました

NHKカルチャー 「哲学ってなんだろう?」

2010-03-20 13:56:34 | 哲学・倫理学ファック
NHK文化センターが開催しているNHKカルチャーで、

講座 「哲学ってなんだろう?」 をやることになりました。

新聞にも折り込みチラシが入っていたらしく、

何人かの方から 「広告見ましたよ」 と声をかけられました。

最初はロシヤ文学について語ってくれませんかという依頼だったので、

丁重にお断りして、経済経営学類の吉川先生をご紹介したのですが、

せっかくの御縁ですのでということで、私も講座をもつことになりました。

はたして私の話なんかをお金を払って聞きに来てくださる方がいらっしゃるのでしょうか?

大学での講義とちがって、どういう方々がいらっしゃるのか予想がつかず、

どんな話をすればいいのかまだ絞り切れていません。

いちおう、まったくの哲学初心者を想定して、

この 「哲学・倫理学ファック」 のカテゴリーで書いているような、

哲学に関する素朴な疑問についてお話ししていこうと考えているのですが、

カルチャーセンターに来るような方って実はけっこう詳しくて、

ものすごく専門的な話を聞きたがっていらっしゃるということもありえます。

これはもう出たとこ勝負しかないですね。

ちなみにペイは歩合制だそうです。

受講者が少ないと夕食代にもならないということも…

澤先生の講座なんてもう 「残席残りわずか」 とのことですが、

私の講座はまだまだ十分に余裕があるようです (というか申込者はいるのだろうか?)。

生 「まさおさま」 を見るチャンスです。

しかも倫理学ではなく哲学を語る 「まさおさま」 なんて、

看護学校にでも入らないかぎり、福島大学の公開授業でも目にすることはできません。

福大生のみんなも卒業生のみんなも、そしてブログ読者の皆さんも今すぐ申し込もうっ

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男は女より頭がいいか?

2010-03-19 16:28:33 | 性愛の倫理学
ジョン・ニコルソン著 『男は女より頭がいいか―なぜ男が社会を支配してきたのだろう』
(講談社、1995年) という本を、
ブックオフで100円で見つけて期待せずに買いましたが、とてもいい本でした。
性差は先天的に決定されているのか (自然的・生物学的性差=セックス)、
それともたまたま後天的に社会的慣習等によって作り上げられたにすぎないのか
(社会学的性差=ジェンダー) という、
偏見や先入観が入り込みやすい問題を、
ひとつひとつ科学的に分析していました。
「男は理性的で女は感情的」 だとか、
「男は数多くセックスをしたがり女は愛情を求める」 だとか、
よく聞く言い伝えの真偽のほどを検証しています。
結論を簡単に言うと、男と女の間には、
生物学的・遺伝的な違いがないわけではないけれど、
人間くらい高等な動物になってくるとそれによって決定される違いはほんのわずかで、
ほとんどは子どもの頃からどんなふうに育てられるか、
どんな情報をすり込まれるかによって生じる差異にすぎない、
ということだそうです。
つまり社会常識や教育のあり方が大事ということですね。
1995年刊ということで、もうけっこう内容的に古くなっているところもあり、
その後、男脳、女脳に関する研究が盛んになっていて、
『話を聞かない男、地図が読めない女』 といった本がたくさん出されていますが、
しかし、本書の浮き足立たない冷静な科学的スタンスは好感がもてます。
親になる人、教師になる人、必読!

バックアップ・プリーズ

2010-03-18 14:57:49 | お仕事のオキテ
このあいだうちのゼミ生と話していたら、
この1年間書きためてきたファイルをUSBメモリの中にしか残していなかった、
ということが判明しました。
オー・マイ・ゴッド
まさおさまのお膝元でこんなことが起きているとはっ
あれほどファイルのバックアップは大事だと教えてきたつもりだったのに、
よりによってUSBメモリ・オンリーだったなんて…。
まだパソコンのハードディスク・オンリーのほうが安全性は高いでしょう。

はっきり言ってUSBメモリなんてオモチャです。
いつ壊れてもおかしくありません。
パソコンによって読み込めない場合があるなんて日常茶飯事です。
現に私が昨年買ったUSBメモリのうちひとつはほんの数ヶ月で壊れ、
もうひとつは大学のパソコン以外では読み込めなくなってしまいました。
そもそもUSBメモリというのは、
パソコンからパソコンへデータを移動するときにのみ使うべきものなのですから、
大学のパソコンで書き込んだり読み込むことができても、
自宅のパソコンでアクセスできないのであれば存在価値はゼロです。
こんなふうにいつアクセスできなくなるかわからないようなUSBメモリに、
自分の全データを預けて平然としていられるなんて、
Suica に全財産預けてしまうみたいなもんです。
おおコワっ

データは必ずパソコンのハードディスクに保存し、
それとは別に他のパソコンや外付けのハードディスク、
またはUSBメモリなどにバックアップを取っておくようにしましょう。
こんな無防備な状態のままでいて、
ファイルが消失してしまってから泣きついてきたって、
機械のせいとは認めません。
データはきちんと自分の責任で保存・管理するようにしましょう。

ちなみに写真は、左の2つが使えなくなってしまったUSBメモリで、
一番右のちっちゃいやつが現在稼働中の唯一のUSBメモリです。
キャップを取るとこんな感じです。
(下はただのキャップで、上がUSBメモリの本体です)
パソコンに挿しても出っ張らないという謳い文句に誘われて買ったんですが、
USBジャックがあるだけで、本体なんてほとんどありゃしません。
これで8GBもデータ保存できるんです。
そりゃあオモチャですよね。
いつ壊れたって文句は言えないし、壊す前にたぶんなくすと思います。

締めのソバ

2010-03-17 17:37:32 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
季節ネタをひとつ書き忘れていました。
今朝の福島はまた少し冷え込んで、雪も少しチラついていたので、
タイムリミットが来る前にかろうじて思い出せました。

私の日本酒の師匠のお店 「麦のはな」 では、
ひとり3500円で飲み放題の宴会ができます。
価格破壊が進んだ今の日本ではもはや標準的な価格設定で、
この値段自体にもう驚きはないかもしれません。
(学生たちがよく行くような居酒屋チェーン店をできるだけ避けている私なんかは、
 最初この値段を聞いたときはけっこう驚いたものでしたが…)
ただし、この店の特長は、冬のあいだは宴会のコースに鍋がつくわけですが、
宴会の人数が増えて、鍋の数が増えるにつれて、
鍋の種類を増やしてくれるというところです。
普通は鍋が2つ、3つ出てきても中身は同じなわけですが、
「麦のはな」 ではあっちの鍋とこっちの鍋で違う物を作っているということになるのです。
(最大3種類の鍋を出してもらえます)

先日は6人で宴会だったのですが、
鍋は2つ出て、ひとつは塩チャンコ、もうひとつは常夜鍋でした。
このシステムを楽しむためには、6人くらいで行くのがちょうどよく、
この人数ならあっちの鍋もこっちの鍋も味わうことが可能です。
これが10人超えて鍋が3種類出てきたとしても、
わざわざ一番向こうの鍋からよそってもらうのは至難の業です。
6人で2つの鍋というのはベストバランスだったと言えるでしょう。
特に私は真ん中へんに陣取っていましたから、
どちらの鍋も自力で味わうことができました。

塩チャンコはご存知の通り、塩味の薄い黄色っぽい色の出汁に、
大量の野菜と肉団子などを入れて味わう鍋です。
常夜鍋というのは、私も最近耳にするようになりましたが、
豚肉と白菜とホウレン草を主体とする鍋のことのようです。
毎晩食べても飽きないという意味で常夜鍋と呼ばれるというのは聞いたことがあります。
ウィキペディアには 「豚しゃぶと呼ばれることもある」 と書いてありますが、
私のイメージでは、常夜鍋と豚しゃぶは別ものだと思うのですが、どうなんでしょう?
「麦のはな」 の常夜鍋は醤油ベースの出汁になっていました。

さて、鍋と言えば最後の締めはうどんかおじやですね。
ところが驚いたことに、最後に持ってこられたのはうどんとソバだったのです。
塩チャンコはうどんで、常夜鍋のほうはソバでお楽しみくださいとのことです。
鍋にソバを入れるというのは初めてです。
鍋で煮込んでしまうということを考えるとソバはちょっと…という気がしますが、
師匠のお薦めですので黙って従うことにします。
おそるおそる食べてみると、これがみごとにビンゴでした。
一度これを食べてしまうと、
この醤油味の出汁にはソバ以外ありえないだろうという気がしてきてしまいます。
だいたいそんなに大した量でもないし、
6人でつつくわけですから、あっという間になくなってしまい、
煮込まれてしまうほど長時間加熱されるわけでもありませんので、
ソバが伸びてしまうなんていう心配は杞憂だったわけです。
こってり塩味の出汁で味わううどんとともに、
2種類の鍋を最後まで堪能することができました。
締めのソバ。
またひとつ新しい文化を学んでしまいました。

ちなみに私たちはひとり500円ずつプラスして、
純米酒も大吟醸も店に置いてある日本酒すべて飲み放題というコースにしていました。
全国の名だたる銘酒を総ナメにしてすっかりベロベロになったのでした。
これでたったの4000円です。
デフレ・スパイラルおそるべしっ。
果たして師匠はこれで儲けが出たのでしょうか?
今度は飲み放題ではなくおじゃまして、
適正な価格を支払って借りを返さなければと思います。