まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

死の受容と人の死

2021-01-11 22:35:50 | 生老病死の倫理学
先に(こちら)、人の死の構成要素として、
①回復不可能性 (=不可逆性)
②残存意識の消滅
の2つが不可欠だという話を書きました。
その2つに加えてさらに、「家族による死の受容」 という問題もあるのではないかという話を、
以前にちらっと書きましたが、
その後よく考えた結果、それは死の構成要素としては不要であるという結論に達しましたので、
ここではそれについて書いておきます。

そもそも 「死」 の受容なわけですから、
受容できるか否かの前に 「死」 が確定していなければならないはずです。
家族が死を受容できるかどうかによって死んだかどうかを決めるというのは、
論理学的にいって本末転倒(論点先取の誤謬)なわけです。

たしかに脳死の場合、まだ心臓は動いていますし、身体も温かいですから、
それが死だと言われてもそれを受け容れにくいということはあるでしょう。
しかし、脳死でなくて心臓死だったとしても、例えば突然の死だったりした場合には、
家族はその死を受容することは難しいでしょう。
家族が死を受容できないからといって、それが死ではないとは言えないはずです。
したがって、家族による死の受容という問題は、
人の死とは何かを決定するという場面には無関係であって、
別の文脈のもとで論じられるべき問題だと言うことができるでしょう。

ただし、家族による死の受容のためにも、
死の判定は確実であるべきだ、とは言えると思います。
もしも死の判定が不確実で、ひょっとすると回復するかもしれなかったり、
ひょっとするとまだ意識が残っているかもしれなかったりするならば、
それを死として受容するのは家族にとっては至難の業でしょう。
絶対に回復はしない、絶対に残存意識はない、
その2つを前提とした上で死を受容できるかできないかという話になるのであって、
回復するかもしれない、意識が残っているかもしれないという段階で、
それを死として受容しろというのはいくら何でもムリな注文です。

私は死の定義や死の判定方法を考える際には、
自分だったらと考えるべきではなく、
自分の家族(愛する人)だったらと考えて、
自分の家族の死の定義や判定方法として受け入れられるものであるかどうか、
ということを大切にするべきだと思っています。
それは、家族による死の受容という問題を死の定義に含めるということではなく、
自分に関する死の判断は、「そうなったら(大事な活動ができなくなったら、寝たきりになったら等々)
もう死んだも同然」という個人的価値観に左右される部分が大きいのに対して、
家族の死に関しては、回復の可能性はなくもう絶対に死んでいるのかどうかという、
より客観的な死の概念が必要となってくるからです。

ですので、死の定義と死の判定方法はとにかく厳密かつ確実であるべきだ、
というのが私の意見です。
そして、人工呼吸器や人工心肺装置が開発されてしまった現在においては、
心臓死はもはやその厳密かつ確実な死の定義や判定方法とはなりえない、
したがって心臓死よりも確実な死の定義・判定基準として、
全脳の器質死としての脳死を人の死とすべきであるというのが私の考えです。

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1 コメント

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Unknown (なおなお)
2021-03-07 23:18:45
脳死が人の死であるか脳幹死なのか全能死なのかどうかというのは置いておき、現状で脳死が心臓死より早く来る人は圧倒的に少数派です。
脳腫瘍などの脳自体の疾患や人工呼吸器に繋いでしまった人、もしくは事故でないと中々お目にかかる事はありません。
基本的に脳は酸素不足に弱い臓器なので、心停止後何もしなければ大抵の成人は、10分後程度には活動をやめているのではないかとは思いますが。圧倒的にそこからの蘇生率は低いので。
異を唱える気は全くないですが、すべからく人の死は脳死である事にしてしまうと死亡宣告の光景も受容も少し変わるかもしれません。死に関してはそんな感じで結構曖昧で難しい部分があります。

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