まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 解説 (第1稿)

2015-01-31 12:35:45 | 性愛の倫理学
第6回本deてつがくカフェはいよいよ来週です!
先日、「てつがくカフェ@ふくしま」 のブログのほうに今回の課題図書である、
『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 の解説をアップさせていただきましたが、
今日はその解説文の第1稿をこちらにアップしておこうと思います。
あちらに載せた解説は、宝島社の編集の方の手がちょこちょこ入り、
その後いろいろとやりとりして手直ししたりした結果、あの本にふさわしい形で落着したものでした。
やり手の編集者の方がいろいろと助言してくださり、
こちらの意向とあちらの思惑をすりあわせながら最終的にああいう形に出来上がった完成品は、
それはそれでたいへん魅力的ですし、
ひとつの作品としてよくぞこんなふうに仕上がったよなあと感心してしまうのですが、
誰の手も加えられず、ただ自分の書きたいがままに一気に書き上げた第1稿というのは、
それはそれで自分にとってはたいへん思い出深いものであります。
ちょうどこのブログでこんな記事を書いたこともありましたし、
はかどりネコさんのおかげで一気に書いた勢いのある文章は、私としては棄てがたいものがあります。
まあ、読み比べていただければほとんど変わりないじゃないかという印象を皆さんもたれるかもしれませんが、
書いた本人的には全然別物だという気がしてなりません。
まあ、あれとこれとのわずかな違いに気がつくほどの、
繊細なまさおさまファンはそれほどいないかと思いますが、
あえての第1稿をこちらに掲げておきます。
まさおさまファンを自称する方はぜひ読み比べてみて、
どこが違うかをコメント欄に書き込んでいただければと思います。
そうしたら、なぜそこを書き改めたのか書き改めさせられたのか、逐一ご説明させていただきます。


理解不能な他者に寄り添うとは
                       小野原雅夫(福島大学・倫理学教授)

 日本人というのは同質性に依拠した関係性を尊ぶ傾向があります。似たものどうし、同じ趣味や嗜好、同じ主義や思想を共有し合える者どうしこそ濃厚なよりよい人間関係を築くことができると信じている人が多いのです。それは当然のことかもしれません。たしかにその方が互いによく理解し合えるし、ツーカーで話も盛り上がることでしょう。いったんそのような関係が築き上げられたならば、そこでのコミュニケーションは「以心伝心」によって可能となります。つまり、いちいち言葉を口にしなくても互いの心と心で直接に気持ちを通じ合うことができるようになるのです。それは親密な人間関係の理想型と言えるでしょう。
 しかしながら、恋愛や結婚の経験がある人にはわかってもらえると思うのですが、はじめのうちはなんでこんなに何もかもピッタリ一緒なんだろうと思っていても、付き合っていくうちにだんだんと二人の違うところが浮かび上がってくるということがあります。大ヒット映画『アナと雪の女王』でも、アナ王女とハンス王子は出会ったその日に「考えてること、感じていること、そう、ほんとに似てるね~♪」(「扉を開けて」より)と盛り上がりますが、ほどなくその恋の真の目的は、アナにとっては幽閉生活からの解放、ハンスにとってはアレンデール国の乗っ取りにすぎなかったことが明らかになり、決別を余儀なくされました。長年同じ家庭に暮らしてきた家族どうしでも、もちろん何も言わずにわかり合える部分はひじょうに多いでしょうが、どうしても理解できない、理解してもらえないということも多々あるのではないでしょうか(エルサとアナのように)。
 このように同じ家族でも、愛し合っている恋人でも、長年連れ添った夫婦であっても、自分以外の人間はすべて「他者」であって、自分とはまったく異なるところをもつ別の存在者です。しかし残念ながら、「以心伝心」を尊ぶ日本では人間関係のそういった側面に光が当てられることがあまりありません。互いの違いを強調することは「他人行儀」だとして忌避されるのです。しかし、同質性にばかり依拠して築かれる人間関係は、アナとハンスの場合のようにひじょうに脆弱です。二人の間で少しでも異質なものが表面化してくるとそれによって瞬く間に崩壊してしまいます。どんなに似た者どうしに見えたとしても実は互いに他者であって、さまざまな面で異なる部分があるのだというところまで理解し合った上でないと、確固とした関係を築くことはできないでしょう。
 そうは言っても自分とまったく異なる他者を理解するのは難しいことです。ましてや理解不能な他者をまるごと受け容れて寄り添うなんてそうそうできることではありません。私は倫理学者として、また倫理学の教員として、他者理解の重要性や、他者を受け容れ他者と共存していくことの重要性を説き続けていますが、日本的な人間関係にどっぷり浸かっている学生たちにこのことを伝えるのは至難の業だと感じていました。ちょうどそんな頃、ネット上で「愛する人に東横インをプレゼントしよう」という記事に出会ったのでした。尋常ではないアクセス数を誇り、検索エンジンでおすすめのページとして紹介されていました。タイトルの意味わからなさに惹かれて覗いてみたページには、まさに私が探し求めていた、理解不能な他者に寄り添う実例を見出すことができました。理解不能な他者はフリーライターの工藤孝浩さんです。なんとこの方は東横インが好きだと言うではありませんか。もうすでに理解不能です。御本人が「なぜ僕は東横インが好きなのか」について説明してくれていますが、いくら読んでもまったく意味不明です。そもそも東横インって好き嫌いの対象になるようなものでしょうか。じゃらんnetで検索して、旅行日に空き部屋があって安い値段で泊まれれば泊まるし、そうでなければ別のホテルを探すしという、数あるビジネスホテルの一つにすぎないのではないでしょうか。ところがこの方は、東横インの室内誌は持ち帰ってくるし、東横イングッズは欲しがるし、果ては「いつかボクが巨万の富を手に入れたら、自分専用の東横インをつくるんだ」と公言するほど東横インを愛しているのです。この人が熱く語れば語るほど、ザーッと音を立てて自分が引いていくように感じるのは私だけではないでしょう。
 ところが、後にこの方の伴侶となったやっぱんつさんの、この意味不明の趣味に対する寄り添い方が尋常ではありません。やっぱんつさん自身は彼の東横イン愛にまったく共鳴できていないんですが、理解不能なまま丸ごと包み込み、深い愛を捧げています。ふつう人は、他者の意味不明の趣味を見せつけられたとき、驚き戸惑い、そして蔑んだり嘲笑したりするのではないでしょうか。バカにしたり諭したり懇願したりすることによって、自分と同じ真っ当な道に戻してあげようと思うのではないでしょうか。あるいは、よっぽど愛が深い場合にはむしろ自らを犠牲に献げて、自分を相手に同化させ、何とか相手に合わせて自分も相手と同じものが好きになれるように努力したりするということもあるかもしれません。しかし、やっぱんつさんはそういう同化の道をどちらも選びませんでした。やっぱんつさんは繰り返し、工藤さんの趣味を「異常だ」と言い、「わたし、東横イン興味ないし」と一線を引き続けています。しかし、だからといって彼やその趣味を軽蔑するのではなく、その代わりに彼女は、彼のその理解不能な東横イン愛を理解不能なまま、まるごと受容して尊重し、それに寄り添おうとしたのです。その壮大な愛と尊敬の軌跡がやっぱんつさんのブログに写真入りで綴られていて、私は圧倒されてしまいました。
 読後すぐにその感動を学生たちと共有すべく、私の学生向けブログ(「まさおさまの何でも倫理学」http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara)に「理解不能な他者に寄り添うとは」というタイトルで寄稿しました。その後、やっぱんつさんは東横インから表彰され、その顛末を続編「愛する人と東横イン本社にいった」としてまとめられました。それを読んだとき私は矢も楯もたまらず、僭越も承知の上で次のようなコメントを送ってしまいました。「自分のブログのなかでお二人の記事を紹介させていただいた者です。東横インからの感謝状授与、誠におめでとうございます! ひとつだけダメ出しさせていただくならば、感謝状授与式にはぜひとも『あの東横イン』も一緒に参列してもらいたかったです。〈誰も想像しなかった図〉の一番手前に今回の主役が写っていたらサイコーだったのに。」 実はこのコメントがやっぱんつさんの目に止まり、今回この本の「解説(あとがき?)」を書くという大役を仰せつかることになりました。私はやっぱんつさんとも工藤さんともまったく面識がありません。宝島社の編集の方とも何の付き合いもありません。それなのにある日突然、編集の方から研究室に電話がかかってきてこの一大プロジェクトに参加することになってしまいました。インターネットの力によってこんな仕事に一枚噛ませていただくことになるとは、まったく思っていませんでした。はっきり言って私は、東横インが好きだという工藤さんに共感することができないばかりでなく、その人のためにあんな本気の模型を作ってしまうやっぱんつさんのこともよく理解できていません。さらには、たったそれだけのエピソードをもとに一冊の本を作ってしまおうとする宝島社なんて完全に理解不能です(それくらいならなんで私のブログを単行本化してくれないんだっ!)。しかしながら、こうして理解できないままこの奇妙な企画に随伴させていただくことができました。理解不能な他者に寄り添う機会を与えてくださった皆さまに感謝申し上げます。やっぱんつさんと工藤さんが、あのアナとクリストフのように、互いに相容れない部分を持ちつつもそれを受け容れ敬い合って、末永く強固で素敵な関係を築いていかれますことを心からお祈り申し上げます。

カントの友情論 ・愛と尊敬のバランス

2015-01-30 12:35:16 | カント倫理学ってヘンですか?
看護学校の講義ではよく話している鉄板ネタなんですが、自分のブログを検索してみたところ、
どうやらまだここに書いたことはなかったらしいので、今さらながら書き留めておきたいと思います。
それはカントの友情論です。
友情というのは大事な倫理学的テーマのひとつですが、
カント自身は友情についてそれほど頻繁に語っているわけではありません。
ところが晩年の 『人倫の形而上学・徳論』 という、それこそカントの最後の著作に近い本のなかで、
しかもその結論部分で唐突に友情について語られているのです。
このカントの友情論は、「友情」 をそのまま 「恋愛」 や 「結婚」 に置き換えても通用する話なので、
結婚披露宴のスピーチで話したり、
男女問題で悩んでいる看護学生たちに話してあげたりしているわけです。

カントの友情論の核心部分はこうです。

「友情とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。」

「相互に等しい愛と尊敬」 というところがミソです。
そして、この愛と尊敬の話を説明するためにカントは自然界の力に譬えています。
愛は引力であり、尊敬は斥力 (せきりょく) である、とカントは言うのです。
愛が引力、引きつけ合う力だというのはわかりやすいでしょう。
斥力というのは、引力の反対で、遠ざけよう、離れていこうとする力です。
斥力の例としては遠心力のことを思い浮かべてもらえればいいでしょう。
カントは愛を引力に、尊敬を斥力に譬えたのです。

人間関係を自然界のもので譬えるというのは、洋の東西を問わずよく行われてきたことでした。
引力と斥力の比喩もよく用いられていました。
ただし、カント以前の哲学者たちはカントとは違ったふうに対応させていました。
愛が引力であるのは同じなのですが、斥力のほうは憎しみであると捉えられていたのです。
愛の力 (=引力) によって人々は引きつけ合い、
憎しみ (=斥力) によって離反していく、というふうに説明されていたのです。
この譬えはある種わかりやすいと言えるでしょう。
この場合、引力がプラスの力、斥力がマイナスの力と捉えられています。
しかしカントは斥力をたんなるマイナスの力、ただの悪いものとはみなさなかったのです。
むしろ人間関係を維持する上で重要な要素だと解釈したのでした。

カントのこの考え方の背景には当時明らかになりつつあった天体の運行理論があります。
例えば、太陽と地球の関係を考えてみましょう。
太陽と地球のあいだに引力しか働いていなかったらどうなるでしょうか。
互いに引きつけ合って衝突し、地球は太陽に呑み込まれてしまいます。
そうならずにすんでいるのは地球が太陽のまわりをグルグル回り遠心力が働いているからです。
しかし、引力がなくなって遠心力だけになってしまったらどうなるでしょうか。
今度は逆に地球は太陽系から放り出され、どんどん遠ざかっていってしまうことになります。
引力と遠心力 (=斥力) がちょうど釣り合っているからこそ、
地球は太陽と一定の距離を保ってそのまわりをずっと回り続けていられるのです。
このように引力と斥力はどちらが良い力、どちらが悪い力ということはなく、
両者のバランスが取れていることこそが何よりも重要なのです。

この知見をカントは人間関係にも当てはめました。
愛というのは引きつけ合う力、できるだけそばにいたい、一緒にいたいと思う力です。
しかも愛は、自分よりも小さいもの、弱いものに向けられがちです。
日本語で 「可愛い」 という言葉に 「愛」 という文字が使われているのが象徴的です。
愛らしいものはできるだけ自分の手元に置いて愛でてあげたいと思います。
それが引力としての愛です。
これは人間にとってとても大事な力ですし、特に一方が子どもの場合は不可欠なのですが、
しかし、これが行き過ぎるとパターナリズムに陥ってしまいます。
大人どうしの関係になると、一方的に弱い者扱いされ、庇護されっぱなしだと耐え難くなるでしょう。
また恋愛などでも、最初のうちはできるだけ一緒にいたいと思うでしょうが、
しばらく経ってくると自分ひとりの時間や他の友人たちと過ごす時間も大事になってくるでしょう。
いつまでも闇雲にただ2人だけで一緒にいるというのでは、その関係は長続きしないのです。

そこで重要になってくるのが相手に対する尊敬の感情です。
尊敬というのは斥力、つまり相手を遠ざけ、距離を置こうとする態度です。
そういう言い方をするとマイナスな感じに聞こえるかもしれませんが、
例えば 「敬遠」 という言葉があります。
この語もマイナスなイメージがあるかもしれませんが、
野球で言う 「敬遠」 とは、相手の打者の力を認め、
ここで勝負をするとひどい目にあってしまうかもしれないから、
(タイムリーヒットやホームランを打たれるかもしれない)
相手のことを敬って相手を遠ざけ、直接勝負することを避けて、
どうぞ一塁に行ってください、と故意にフォアボールを与えることです。
このように相手のことを尊敬していると、無闇に相手に近寄ってしまわず、
相手を尊重し自然と相手からほんの少し距離を取ることになるでしょう。
つまり、尊敬とは、相手を自分の思い通りになる人間として扱ったりせず、相手の人格を承認して敬い、
相手を尊重し、相手から進んで学ぼうとする態度であると言えるでしょう。

以前に私は、上下関係のあるなかで恋愛は生まれやすいという話を書きました。
その場合、片方が一方的に相手のことを尊敬し、他方は一方的に相手を愛らしく思っている、
という構図になります。
しかしながら、こういう関係は長続きしないということも書きました。
それはつまり、カントの言う 「相互に等しい愛と尊敬」 の関係になっていないからです。
片方が一方的に相手のことを尊敬し、他方は一方的に相手を愛らしく思うのではなく、
お互いがお互いを愛し慈しむと同時に、お互いに尊敬し合ってもいるという関係を築けてこそ、
2人の間は、太陽と地球のようにずっと一定の距離を保って長く安定的なものとなるのです。

カントはこのような関係を友情に限定して議論していましたが、
私はこれは人間関係全般に当てはまることだと思っています。
特に恋愛や結婚など男女関係にもみごとに適用可能でしょう。
このカントの友情論は看護学生たちにも好評で、彼氏との関係を考え直してみたいと思います、
といった感想をよくいただきます。
いかがだったでしょうか。
主語をいろいろと置き換えて、自分の身の回りの人間関係を問い直してみてください。

友情とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。

恋愛とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。

結婚とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。

橘高校でセンター試験監督

2015-01-29 23:49:53 | お仕事のオキテ
もう2週間ほど前の話になりますが、橘高校でセンター試験監督をしてきました。
福島大学では耐震工事をしており (というか本当はしていないんですが、それはまた別の話)、
試験室が足りないということで、今年と来年はセンター試験を福島大学だけでなく、
橘高校でも実施することになりました。
過去に福島東高校や相馬高校や原町高校でセンター試験の監督をしたことがありますが、
橘高校でセンター試験監督をするのは初めてです。
初めての会場ということでけっこう緊張しておりました。

事前に開催される説明会もこれまで以上に長時間にわたることになりました。
その中でも一番ビックリしたのは、上履きを持参するようにと言われたことでした。
大学の教室は外履きのまま入れます。
たしかに高校は外履きで上がることはできませんが、
これまであちこち行ってきた高校ではスリッパを履いて監督しました。
もちろんスリッパを持参したりはしませんから、
たぶん高校のものを着用させていただいていたのでしょう。
ところが今回は上履きを持参するように指示されたのです。

たぶん数年前からリスニングの試験が導入されたからでしょうね。
とにかく試験時間中の試験監督の足音に対していろいろとうるさく言われるようになりました。
私だって大学でやるときは、あまり足音のしないような靴を選んだりしていましたが、
この歳になって上履きですよ。
私は思わず質問してしまいました。
「私は高校を卒業して以来、上履きなんて履いたことなく、
高校時代に使っていた上履きもとっくに捨ててしまって今持っていないのですが、
大学入試センターないしは入試課から上履きは支給してもらえるのでしょうか?」
私としてはけっこう真面目に疑問に思っていたのですが、
入試係の人には笑っていなされ御自分でご用意くださいと言われてしまいました。
研究者の大事な時間をごっそりと奪っていくというのに、
その上、無用の支出まで強いるとはあこぎな制度です。
仕方ないのでエスパルで泣く泣く足音のしなさそうな靴を購入しました。



「グローバルワーク」 というお店ですが、この店の靴はサイズがS、M、Lなんですね。
そんな靴の作り方があるなんて知らなかったのでとても驚きました。
Sでも25cm~25.5cmくらいだそうです。
24.5cmしかない間抜けの小足の私には大きく、
いわゆる上履き的なスリッポンのやつはどれもスリッパと同じでパタパタ音がしてしまいます。
購入した紐付きの靴はMサイズだけどちょうどいい感じで、
足音のしない上履きとして使えそうでした。

そんな準備を整えつつ、緊張して当日を迎えました。
橘高校が会場となることが私にとって明らかに良い点は歩いて行けるということでした。
試験監督をする上でなにより大事なのは朝時間どおりに現地に着くということですが、
この時期は風にも雪にも弱いJRを使わなければならないのは心配ですし、
かといって雪の日にクルマを運転したくもありません。
そういう意味では多少時間かかっても歩いて行けるのは安心です。
土曜日は雪の予報でしたが幸い朝は晴れていたので何の問題もなく到着できました。

「何の問題もなく」 と申し上げましたが、試験監督が始まってからも、
今回ほどまったく何にも問題の起こらないセンター試験はかつてありませんでした。
まず、問題訂正が1科目もありませんでした。
例年、必ず何科目か問題訂正があり、試験が開始してから訂正文を板書したりしなきゃならず、
正確に板書できているかとか、後ろの人でもちゃんと見えるかとか、けっこう気を使うものなんですが、
今回はそういう問題訂正がまったくなく、試験監督だけに集中することができました。

そして私の担当した教室では、2日間誰ひとりとして試験時間中にトイレに行く人がいませんでした。
試験時間中のトイレ対応というのもけっこうめんどうくさく、
例年でしたらほぼ毎時間、誰かが手を挙げてトイレに連れて行ってあげていたのですが、
今回は誰も手を挙げる人がいませんでした。
数年前に地歴公民と理科で2科目受験というシステムが始まり、
60分の試験を受けたあと10分間の回収・配付時間をはさんで、
そのまま次の試験をもう60分間受けなければいけないことになりました。
前回、私が試験監督をしたときは、本来教室を離れてはいけないはずのこの中休みの時間に、
トイレに行きたがる受験生が続出してその対応に追われることになりました。
今回も2科目受験が一番最後に控えており相当びびっていたのですが、
まったく何事も起きませんでした。

さらに一番気を使うのが1日目の最後に控えているリスニングテストです。
機器の不具合やら騒音やらトラップの多い時間なのですが、
この時間もまったく何も起こりませんでした。
みんな機器の操作も滞りなくスムースに行っていましたし、
怪しい動きをする人もまったくいませんでした。
試験監督にとってはこの時間は本当にドキドキのひとときなのですが、
こちらの心配をよそにあっさりすんなり終了してくれました。

私の教室ばかりでなく、すべての試験室で2日間何の問題もなかったそうです。
なんでこんなに何事もなかったんでしょうか?
橘高校の会場には近辺の高校の受験生ばかりが集められていて、
みんな試験慣れしているというのがあるかもしれません。
また、この試験場の受験生に限らず、全体に高校生たちがリスニングテストや、
2科目受験のシステムに慣れてきて、十分その対策が取られているのかもしれません。
おかげさまで初めての会場ということで緊張していましたが、
終わってみればいい印象だけで橘高校でのセンター試験監督を完了することができました。
この調子で来年も何事もない2日間であってほしいと思います。
試験が終了した頃には街はこんな感じに雪化粧でした。



受験生たちはこのツルツルに凍った雪道で、
どれだけ滑ることができるか競って大はしゃぎしていました。
その様子を横目で見て、君たち受験生がそんなことしてていいのかと心の中でツッコミながら、
私たち試験監督は夜の街へと散っていったのでした。
試験監督の1日を終えてみて気づいたのですが、橘高校でやるもうひとつのメリットとして、
試験監督が終わってから街に飲みに繰り出すのが楽チンだということも挙げることができるでしょう。
いろんな意味で新鮮な経験をさせていただきました。
また来年もよろしくお願いいたします。

1歳児の歩き方

2015-01-25 23:09:27 | 幸せの倫理学
福島に帰って早々 「シネマ de てつがくカフェ」 があったりとか、

その後忙しくて休筆してしまっていたとかで、すっかりご報告するのを忘れていました。

新年2日の絶不調新年会の翌3日は木村方の新年会が開かれました。

こちらの新年会は一昨年の秋に生まれた義理の甥っ子が1歳と3ヶ月を迎え、

トコトコ歩き出すような状態になっていたので、子どもが主役の新年会となりました。

頂戴した年賀状にはこんな写真が使われていました。



今どきのベビー服にはこんなのがあるんですね。

スウェット地の羽織袴的な召し物です。

お正月気分満点です。

しかも、立つことを覚えたばかりの甥っ子がまるで見得を切っているかのような奇跡のショットです。

新年会にもこの恰好で来てくれました。



よだれかけをしなければならないのが玉に瑕ですが、お年玉の意味もわからないだろうに、

この恰好でポチ袋を両手に練り歩く姿は歌舞伎役者顔負けです。

さらにお年賀の品もしっかり抱えて、何やら気難しげに品定めをしていらっしゃいます。



さて、この方なんですが1歳3ヶ月とは思えないような威厳を備えていらっしゃるんです。

1歳の誕生日にはまだ立ち上がることもできなかったくせに、

ほんの3ヶ月のあいだに尋常ではない歩き方を覚えてしまいました。

こうです。



なんと後ろ手を組んで歩くんです。

もうどこへ行くにもこの調子です。



後ろ手組んだままどこまでもトコトコ歩いて行ってしまいます。



これって歩きにくくないんですか?

左右の足の動きに合わせて左右の腕を振って歩くというのが、

人類の自然な歩き方ではないんですか?

子どもというのはまずは自然な歩き方を身に付けるものじゃないんですか?



まったく子どもらしくないこの歩き姿に 「教授歩き」 という呼び名が付けられました。

この教授歩きを前から見てみるとこんな感じですが、



いかにも教授っぽい威厳に溢れているではありませんか。

センター試験中に机間巡視をしている教授の先生方の姿とピッタリ重なります。

いつの間にこんな歩き方覚えちゃったかなあ?

ぼくだって彼の前でこんな歩き方した覚えはないし…。

なんだか将来が楽しみな1歳児です。

なんちゃって正月ディスプレイ

2015-01-24 23:48:44 | 人間文化論
先月飾ったクリスマスディスプレイを年が明けてもずっと出しっ放しにしていたんですが、

この度やっと模様替えすることができました。

本来、お正月用のディスプレイというのはこんな感じに作り上げたいのですが、



三が日がとっくに過ぎたどころか、成人の日もセンター試験も過ぎてしまいましたので、

さすがにお正月飾りというわけにもいきません。

そこで今回は日本酒セットでなんちゃってお正月な雰囲気を醸し出してみることにしました。

ジャーン、これです。



日本酒は、特に自宅ではそんなに飲んでいるわけではないのですが、

こうやって並べてみるといろいろと持っているものです。

そして、今回のディスプレイの主役はこちらです。



これはたしか有田で買ってきたんだったと思いますが、

磁器でできた枡のセットです。

宴会用の一気飲み遊びのためのもののようです。

大中小3個の枡とサイコロがついています。

枡の裏側にはこんなふうに書かれています。



「壹升」、「五合」、「壹合」 と書かれています。

サイコロには 「壹升」、「五合」、「壹合」 のほかに 「唄」、「踊」 等の文字が並んでいます。

サイコロを振って出た目にしたがって歌を歌うか、踊りを踊るか、

指定の量のお酒を飲むという遊びができるセットのようです。

もちろんこれらの枡は小さいものですから本当に1升や5合や1合も入るわけではありません。

測ってみたところ「壹升」 のものは50cc、「五合」 は25cc、「壹合」 は10ccほどでした。

一気飲み遊びと言ってもこれなら心配ないでしょう。

いや、日本酒だったらやっぱりヤバイかな?

1度でいいからこれ使ってみたいと思っているのですが、

実際にこれを使って遊んだことはまだありません。

やはり一気飲みなんて今どきもう流行りませんよね。

こうしてたまのディスプレイでフィーチャーしてあげるくらいがちょうどいいのでしょう。

興味ある方はうちへいらしてみてください。

ビール限定でお試しいただきたいと思います。

さらば我が愛しの折りたたみ傘!

2015-01-23 22:43:23 | お仕事のオキテ
時事ネタはやめると言った早々なんなんですが、我が愛しの折りたたみ傘が壊れてしまいました

昨日の帰り道、大学から金谷川駅まではフツーにさして帰っていたんですが、

福島駅で傘をさそうとしたら、骨が1本ぽっきり折れてしまっていました。

こういう状態です。



外側から見るとこんな感じ。



壊れた部分を接写してみるとこうです。



繋がっているべきところがポッキリ折れてしまっています。

さすがにこれを溶接する技術は私にはありません。

My Favorite Things (その8) の記事を書いたのは震災前の2010年ですが、

この傘はそれよりもだいぶ前から使っていたような気がします。

ホントに長いことお世話になりました。

「降らずとも雨具の用意」 の私としては1日たりとも手放したことはなく、

携帯電話よりも常に確実に携帯しているグッズでした。

毎日雪か雨がいつ降ってきてもおかしくないようなこんな季節ですし、

折りたたみ傘を携帯してない生活なんて考えられません。

というわけで後継者を求めてただちにユニクロに行ってみました。

ところが同じ商品が置いていないのです

後継商品はなぜか巨大化してしまっていました。

全体に厚みも増していますし、持ち手の分、約3~4cmほど長くなってしまっています。

これでは私のバッグに入りません。

(横にすれば入るのでしょうが、私のバッグはスリムなので、傘は縦に入れたいのです。)

あんなにいい商品をなんでモデルチェンジしてしまうんでしょうか?

本当に許しがたい話です。

しかたないので、今度の週末に傘屋巡りでもしようかと考えていました。

そうしたら今日のことです。

たまたま夕食のため黒岩のヨークベニマルで買い物をしていました。

すべての買い物を終えて駐車場に向かおうとしていた途中で傘売り場が目に入ってきたのです。

そこになんだかスリムな折りたたみ傘が並んでいるのを私は見逃しませんでした。

で、いったん買った物をクルマに収め、

壊れた古い折りたたみ傘とバッグを持って傘売り場に戻りました。

いろいろと種類があるのですが、いずれも今回壊れたやつと比べて遜色ないコンパクトさ加減です。

というわけで、即断即決で買ってきてしまいました。

こちらです。



7&iホールディングズのプライベートブランド商品のようです。

でも2,500円もしました。

たしかユニクロのやつは1,000円くらいだったと思います。

比べてみるとこんな感じです。



長さは若干ユニクロのやつより長いものの、「スマートアンブレラ」 というだけあって細いです。

これなら楽勝で私のバッグに納まります。

重さもこちらのほうが若干軽いです。

持ち手がユニクロのやつより小さいので、実際にさしたときにどうなのか気になりますが、

撥水性もウリにしているようですし、毎日携行するには十分のような気がします。

全体に華奢な感じで、強風にあおられたらすぐに壊れてしまいそうな雰囲気が漂っており、

2,500円も出したのにすぐに壊れてしまったら目も当てられませんが、

それはこれからのお楽しみということにいたしましょう。

先代の折りたたみ傘と同じくらい長い付き合いになることを祈ります。

実際に使ってみてその使い心地をまたレポートしたいと思います。

ご無沙汰いたしましたm(_ _)m

2015-01-21 16:58:05 | お仕事のオキテ
2週間近くブログのアップをサボッておりました。

こんなに更新せずにいたのはいつ以来でしょうか?

このところいろいろと (仕事的にも精神的にも) 追い込まれており、

ブログを書く気になれませんでした。

今後もちょっと集中してやらなければいけない仕事があるので、

思うようにアップできないことが増えてくるかと思いますが、何とぞお許しください。

不思議なことにこんなに放置しているというのに、日々の閲覧数はそんなに変わらないんですよね。

前回、最後に更新したのが1月8日、その前日からの閲覧数・訪問者数を見てみるとこう↓です。

   日付      閲覧数   訪問者数
2015.01.07(水)   1595 PV    430 IP
2015.01.08(木)   2051 PV    491 IP
2015.01.09(金)   2264 PV    404 IP
2015.01.10(土)   1759 PV    367 IP
2015.01.11(日)   1512 PV    400 IP
2015.01.12(月)   1852 PV    458 IP
2015.01.13(火)   1639 PV    458 IP
2015.01.14(水)   1539 PV    429 IP
2015.01.15(木)   2377 PV    449 IP
2015.01.16(金)   1990 PV    366 IP
2015.01.17(土)   1540 PV    361 IP
2015.01.18(日)   1483 PV    422 IP
2015.01.19(月)   1655 PV    457 IP
2015.01.20(火)   1474 PV    420 IP

訪問者数はやはり1月8日が最多ですが、

とはいえその後それほど激しく落ち込んでいるわけではありません。

閲覧数にいたっては、1月8日よりも多い日が2日もあります。

翌日の1月9日に増えるというのは理解できます。

1月8日の記事を投稿したのは夜の10時半でしたから、

日が変わってから見たという方も多かったのでしょう。

でも、アップしなくなってから1週間後の1月15日の閲覧数が1月9日よりも多いのはなぜでしょう?

まあけっきょく、これだけ書き溜めた分があると、

それほど頻繁に新しい記事を提供しなくてもいいということなんでしょうか。

一時期、毎日更新なんてことをしてましたが、

あの頃もこの空白の2週間の閲覧数にはるかに及びませんでした。

その後ものすごい勢いでSNSが発達し、私もスマホ・デビューしていろいろやるようになりました。

日々の報告みたいなことは Facebook みたいなところで速報的にお伝えしていますので、

ブログにそうした速報性は求められなくなったのかもしれません。

とすると今後大事になってくるのは、更新の頻度よりも、記事の内容なのかもしれません。

じっくりと読みごたえのある記事を書くことが重要なのでしょう。

そう思うとよりいっそうブログを書ける気がしなくなってきます。

どうもこのところ、Facebook に上げた速報記事を取りまとめてブログ記事を書く、

みたいなことが多くなっていたように思います。

というか、そうでないともう書けないというか…。

以前のようにじっくり考えて自分なりの考えをまとめて書くという余裕がなくなってきました。

というわけで、今後は寡筆になっていくかもしれませんが、

皆さまに忘れられない程度に更新していこうと思っておりますので、

今後とも 「まさおさまの何でも倫理学」 を何とぞよろしくお願い申し上げます

シネマ de てつカフェ年賀状2015!

2015-01-08 22:34:34 | 哲学・倫理学ファック
今年の年賀状をアップしようと思っていたのですが、

一太郎で作った年賀状ファイルを画像ファイル (jpg ファイル) に転換するやり方がわからず、

今までアップできずにいました。

去年はちゃんとアップしていたんですが、自分でやったはずなのにやり方が思い出せず、

一太郎で pdf ファイルとして保存してからペイントに取り込もうとしても pdf は取り込めず、

モニター画面を PrtSc してペイントに取り込みトリミングしても完成度が低くて困っていました。

けっきょくヤホーで調べてネット上のコンバーターソフトを使って何とか転換しました。

でも去年のやり方とは違うと思うんですよね。

去年はどうやったんだろう?

それはともかく今年の年賀状はコレです。



今年の年賀状は笑えるポイントがまったくなく、ミョーに真面目な年賀状になってしまいました。

2014年を漢字1字で表すと 「映」 だという話を元日に書きましたが、

この年賀状はまさにそのままの内容となりました。

昨年の振り返りも 「シネマ de てつがくカフェ」 の話ばっかりです。

そして、今年の抱負に関する部分でも1月 (明日!)3月のてつカフェの告知ばかりです。

いつの間にすっかりてつカフェの人になってしまったんでしょうか?

糖質制限ダイエットをやめてしまった今、私に残されているのはてつカフェだけなんでしょうか?

とにかく明日は 『悪童日記』 でてつがくカフェです。

昨日やっと映画を見ることができましたが、

私たちが魅了された小説世界をみごとに映像化していました。

様々な観点から論じることのできる映画だと思います。

はたしてどんな対話が繰り広げられるかたいへん楽しみです。

ぜひ皆さんご参加ください。

そして、年賀状では 「(交渉中)」 と書いていた3月の 「てつがくカフェ@ふくしま特別編5」 ですが、

3月7日 (土) に 『小さき声のカノン ―選択する人々―』 で、

鎌仲ひとみ監督をお迎えして開催できることが決定しましたっ

素晴らしい!

「てつがくカフェ@ふくしま」 は今年もあげあげで頑張っていきます。

今年もご声援のほどよろしくお願い申し上げます

教員志望者必見! 『悪童日記』でてつカフェ

2015-01-06 15:32:10 | 哲学・倫理学ファック
まだ年明けで仕事が始まったばかりというのに、

今度の金曜日、1月9日は 『悪童日記』 de てつがくカフェですっ



この原作の小説と知り合ったのはもうずいぶん前のことです。

ぢゅんちゃんが東白川農商高校鮫川分校に勤めていた2008年、

出前授業に私を呼んでくれて、その仕事を終えたあと、

その夜はぢゅんちゃんちに泊めてもらい、すずめさんと3人で会食させていただきました。

その日に初めてすずめさんとお会いしたんだったかどうかは記憶が曖昧ですが、

お2人の書棚を見せていただきながら (私たちのような商売の者って人の蔵書を観察するのが好き)、

図書館司書をしているというすずめさんにオススメの本を尋ねたところ、

間髪入れずにご紹介いただいたのがアゴタ・クリストフの 『悪童日記』 だったのです。



すぐに読んでみてものすごい衝撃を受けました。

戦時下、祖母のもとに疎開してきた双子の兄弟が主人公なのですが、

学校にも通わせてもらえないし、それどころか満足に食料も衣料も与えられないなかで、

2人は自分たちで互いを鍛え合い、生きる術を身につけながら何とかサバイブしていくのです。

彼らは時として軽く倫理の一線を越えてしまいます。

そういう意味では、学校の先生になるような倫理的な人には理解できないかもしれませんが、

倫理とは何か、教育とは何か、学校とは何かを根本的に問い直す倫理学的な人にはサイコーです。

読んでしばらくしてからこんなブログ記事を書いたことがあります。

「『悪童日記』 または学校ってなによ?」

久しぶりに読み返してみましたが、どれだけこの本気に入ってんのかが伝わってきますね。

その小説が今ごろになって映画化されたのです。

原作が出版されてから30年近く経っているそうです。

これってもう、ぢゅんちゃんと私が 「てつがくカフェ@ふくしま」 を始め、

「フォーラム福島」 さんと連携して 「シネマ de てつがくカフェ」 を開催するようになるのを、

わざわざ待ってくれていたとしか言いようのないタイミングではありませんかっ

この映画で 「シネマ de てつがくカフェ」 を開けることが本当にうれしくてしかたありません。

1月9日 (金) の 18:00から映画上映、20:00から21:30までてつカフェと、

またまた変則的な開催になってしまいますが、ゼッタイに面白いです。

教育に関心のある方には特に参加していただきたいと思います。

たくさんの皆さんのご来場をお待ち申し上げております!


P.S.

前売り券ご希望の方は小野原までご連絡ください!

まさかの絶不調新年会

2015-01-04 19:11:14 | 生老病死の倫理学
元日の夜は義父も義母も不在で2人だけになったので、「善知鳥」 のお節の残り物や、

その他もろもろの残り物をざらーっと並べて夕食をすませました。



我が家ではこういう残り物料理を細々といろいろ並べる食卓を 「乞食の宴会」 と呼んでいますが、

これってうち限定のジャーゴンなんだろうなあ。

ネットで調べると 『聖書』 に由来する別の言葉遣いがヒットしました。

それはさておき、この乞食の宴会がいけなかったのでしょうか?

あるいは年末から (いや年末になるずっと前から) 続いている暴飲暴食の日々が悪かったのか、

1月2日は朝から胃だかお腹だかの調子がずっと優れませんでした。

激しく痛むわけではないけれどずっと軽い鈍痛がある感じ。

朝の用を足せば治まるかと軽く見ていましたが、何度トイレに行ってもまったく回復する気配はなく、

けっきょく不調を抱えたまま新年会に突入することになってしまいました。

2日は小野原方の新年会です。



市ヶ谷のうちにこんなふうにみんなが集まってくるわけですよ。

昼2時にスタートして延々飲み続け食べ続け、8時か9時にやっと解散という厳しい戦いです。

いつもだったらベロベロに酔っ払って途中で寝てしまうか、

たとえ寝なかったとしても確実に記憶は失って、最後のほうはグダグダになるのが常です。

ところがこの日はこれだけ酒好きの私が本当に全然進まないのでした。

ビールは乾杯のときにちょっと口を付けただけでしたし、

あとはワインを泡、白、赤とほんの数杯ずつ飲んだだけでした。

それでも少しは飲むことができたのですが、食べるほうは全然ダメでした。

小野原家の新年会は、以前は焼き肉とかしゃぶしゃぶなど肉料理がメインで、

その他、母が作ってきた諸々のお正月料理 (やお正月とは関係ない料理) が並ぶ感じでしたが、

いつからか母も疲れてしまったのか、買ってきたお弁当がメインとなり、

それにサラダやお刺身などをほんの少し追加するというスタイルに変わりました。

うちのお気に入りは 「なだ万」 のお弁当です。

以前はデパ地下まで買い出しに行ったりしていましたが、

市ヶ谷で新年会をやるようになってからは配達してもらえることに気がついて、

準備がとてもラクになりました。

で、今年は 「匠の膳」 というやつを注文してみました。



これはお節料理ではなくお弁当ですので一人前です。

手の込んだ様々なおかずはどれもとてもよくできているのですが、

写真でわかるでしょうか、左下の昆布ご飯がほんの少し食べられています。

そうです、この一口だけ食べて私はギブアップしてしまったのです。

ああ、美味しそうなのにもったいない

夜が更けてきても腹具合といい食欲といいいっこうに回復せず、

けっきょくこのお弁当にありつくことはできませんでした。

みんなからは顔色が悪いだの肌つやが悪いだのと口先だけで心配されながら、

1ミクロンも酔うことなく、始まりから終わりまですべてを記憶したまま新年会は終わりました。

こんな新年会、というか家族の集まりはほとんど初めてと言っていいでしょう。

これまではお酒を飲んだり料理を食べるのに障害を感じたことはなかったのですが、

今後は美味しく飲み食べ続けるためには少しは身体を労ってあげなければいけないのでしょう。

それにしても自分は酔えずに、ひたすら酔っ払いたちを観察していなければならない飲み会って、

本当に苦痛でした。

こんな思いを2度としなくてすむように摂生していきたいと思います。

「善知鳥」 のお節と元日散歩

2015-01-03 13:02:09 | 人間文化論
今年の元日はマスオさん状態で迎えました。
のんびり起き出してお義父さんに続いて朝っぱらから初湯に浸かり、
遅めの朝食というか早めの昼食というか、由緒正しい元日のブランチをいただきます。
お義母さんが作ってくれるお節料理も美味しいのですが、
今年は近所の和食屋さん 「善知鳥」 のお節料理を仕入れてきました。
Facebook には、

「『善知鳥』 って読めないだろうなあ。これで 『うとう』 と読みます。青森の地名らしい。
 倫理学的にちょっとカッコいい。善知鳥な1年でありたい。」

とか知ったかぶって偉そうに書き込んでしまいましたが、それに対して、

「『善知鳥』 は世阿弥作と目される物狂い能の傑作とされていますね」 とか、

「棟方志功の版画に善知鳥版画巻というのがありましたね。
 善知鳥は北国に生息する海鳥でその肉は美味だったとか。伝説もあるらしいですよ」

等々のコメントを頂戴してしまい、
どうやら善知鳥は誰もが知ってる常識だったらしく恥ずかしい思いをしてしまいました。
その 「善知鳥」 のお節料理ですがこんな感じです。
まずは2段のお重がちゃんと新年仕様に飾られています。



開けてみるとこういうラインナップ。



比較対照すべき物を並べておかなかったので大きさがわかりにくいかもしれませんが、
これは一人前ではありません。
一家団欒用のお節料理です。
ちゃんとお品書きがついていて、壱の重、弐の重の中身が明記されています。



ひとつひとつアップにしてみましょう。
こちらが壱の重。



壱の重のお品書きのなかに 「黒豆」 と書かれていましたが、
黒豆はお重とは別に瓶詰めされていました。
そして、こちらが弐の重。



これらとは別に竹の子と比内地鶏の炊き込みご飯が付いていて (お茶碗2杯分くらい)、
さらに青森の地酒 「縄文明水」 の300ml瓶も付いていました。
ひとつひとつがどれもむちゃくちゃ美味いです。
これにお義母さん作のお雑煮がプラスされ、



由緒正しい元日のブランチの完成です。
昼前からスパークリングワインも開けて、優雅なひとときを過ごしました。

天気は全国的に大荒れと聞いていましたが、東京は雪が降るでもなくそこそこ晴れていましたので、
午後になってからツレと2人で散歩に出かけました。
ところが外に出てみると相当寒いです。
風もけっこう強いし。
そこいらをのんびりとぶらぶらするつもりでしたが、
とてもじゃないけど寒くてやっていられません。
どこかに避難してあったかいコーヒーでも飲もうということになりました。
とはいえ元日です。
喫茶店がやっているか心配です。
特にアテはありませんでしたが、靖国神社のほうに行けば人出は多いはずですし、
参拝客を目当てに営業している喫茶店もあるだろうと踏んでそちらに足を伸ばしました。
靖国神社のところまで来るとこんな呼び込み文句が。



そんなこと言われても残念ながらうちは初詣の習慣はありませんし、
とりわけ福島県民 (いわゆる賊軍側) である私は靖国神社の思想と相容れません。
というわけで一歩も足を踏み入れることなく素通りさせていただきます。
まあ、これが別の神社であったとしても寒くて寒くて初詣する気にはなれなかったでしょう。
さてある程度読みは当たり、近辺の飲食店は元日だというのに営業していますが、
ラーメン屋やら餃子屋やらステーキ屋など、「善知鳥」 のお節で満足している私たちには、
まったくお呼びでないお店ばかりで、喫茶店はお休みのところばかりでした。
あきらめて泣き帰ろうかと思い始めたときにこんなお店がやっているのを見つけました。



チェーンの喫茶店ですが、どうもこのお店デジャブな感じがします。
なんだっけと思い出そうとしているとツレはすぐに 「あ、仙台のあの店だ」 と思い出しました。
そうです。
ツレがギックリ腰を患って、それでも何となく大丈夫そうで仙台で買い物して回ったあと、
喫茶店で一息ついてからまったく身動きが取れなくなってしまった、
あの日あのときのメモリアルなお店がこのチェーン店だったのです。
だいぶ調子がいいもののまだ全快したわけではないので験を担ぎこの店は回避することにしました。
まあ1軒やっていたなら他にもやってるところはあるだろうと期待をかけたのです。
するとちょっと先にチェーン店ではない良さげな店を見つけました。



店の外に木馬が並べられている、雰囲気のある喫茶店です。
すぐに入ってまずは暖を取り、カフェオレやらココアやらを注文しました。
ここまで歩いてきて冷え切っていましたので、身体の芯から暖まることができました。
お店で相当のんぴりとぬくもりをためこみましたが、再び店を出たらすぐにその熱は奪われ、
とても歩いて帰る気力はなく、たった1メーターの距離ですがタクシーで泣き帰りました。
ここ数年、東京の三が日は晴天に恵まれとても暖かいことが多かったのですが、
今年は本当に寒い元日となりました。
東京以外はどんなことになっていたんでしょうか?
福島が大雪に見舞われていないことを祈っています。

初笑い・ツボの本

2015-01-02 18:55:28 | 性愛の倫理学
年末年始帰省してきていて、家族があとからあとから話題を提供してくださいます。
本日の話題提供者はお義父さんです。
お義父さんはたいへん新しい物好きで、何かというと新製品を買ってきてくださいます。
昨年の後半に買ってきてくれた我が家的な大ヒット商品がこちらでした。



オムロンの 「エレパルス」 という低周波治療器です。
その昔私が腹筋を鍛えるために使っていた 「スレンダートーンフィギュラ」 と同じ仕組みで、
低周波を筋肉を鍛えるためではなく、筋肉のコリをほぐすために利用しようという簡易マシーンです。
肩こりに悩まされているツレがこれをいたく気に入り、
毎日のように愛用しているばかりか、旅先にも常に持参して、
昔だったら宿屋にチェックインしたら真っ先にマッサージを予約していたところが、
今ではもうこれをあちこちに貼り替えて何時間でも1人でピコピコやっているようになりました。
これのおかげで私も肩もみの労役から解放されましたし、経済的出費も激減しましたし、
お義父さんサマサマと呼ぶべきたいへん素晴らしい贈り物となりました。

で、この年明け、お義父さんはこのマシーンの効能をさらに高めるべく、
1冊のマニュアル本を買ってきてくださったのです。
こちらです。



『爽快ツボ刺激法』 という本です。
医学博士の中谷義雄氏が書かれた 「素人にできる東洋医学の入門書」 だそうです。
新し物好きのお義父さんには珍しく古書のようです。



この写真ちょっと不鮮明ですが 「まえがき」 のところには昭和50年という日付が見えました。
その頃はまだツボという概念自体が広まっていなかったようで、
左側のページの目次を見ると、「第1章 ツボとは」 何かから始まって、
ツボ療法がなぜ効くのか、ツボ療法の特徴と効果は何かなど、
ひじょうに初歩的なことから説明されているまさにツボの 「入門書」 であることがわかります。
そして、第5章からはひとつひとつの病気について、
どこのツボを刺激していけばいいかが具体的に示されることになります。



うつ病や不眠症など頭の病気から始まり、目の病気、耳の病気、鼻の病気と、
しだいに下のほうに下がっていき、全身の病気に対してそれぞれツボがレクチャーされていきます。
この本の特徴は何と言ってもひじょうに具体的であるということで、
この第5章が最終章であり、全体の85%以上を占めているのですが、
そのほとんどのページに白黒の写真が掲載されていて、
それぞれの病気に効くツボが図示されているわけです。
その第5章の最初のページがこれですっ



モデル女性、全裸です。
下着姿ですらありません。
なんと、ぼかし入りですよ。
衝撃的です。
以降、ほぼ毎ページこんな調子です。
もちろん同じ写真が何度か使われていたりもしますが、
(というかツボを示すためだけなら前と後ろの2枚を使い回せばいい気もしますが)
いろいろとポーズを変えた写真が使われています。



ぼかし入りだったり、手で隠したりと趣向が凝らされています。
さらに何のためかこんなポーズを取っている写真もありました。



横に寝そべらせる意味がまったくわかりません。
モデル女性は2~3人いるようです。
男性モデルの写真は1枚も出てきません。
きわめつけはこちらのカット。



①が肩のこりに効くツボなのだそうですが、この全身ショットは必要だったのでしょうか?
左腕のアップ写真だけで十分だったように思うのですが…。
ていうか肩こりのツボだとするならば、右腕の同じ部分にも同じツボがあるのではないでしょうか?
たいていツボって左右対称に存在していますよね。
ホントは左右に同じツボがあるのだけれど、
右腕をある部分を隠すために使用しているこんな写真をセレクトしてしまったから、
右腕のツボを図示することができなくなってしまったのではないでしょうか?
そういえば先ほどの寝そべっている写真だって、右脚にも同じツボがなかったのか気になります。
うーん、謎だ。
何なんだろう、この本。
表紙には 「発売から5年、すでに60万人以上の人々に読まれているロングセラー」
というキャッチコピーが記されていました。
初版が昭和50年ということを考えると、ひょっとすると別の用途で用いられていたのではないかとか、
そのことを見越して出版されていたのではなかろうかなんてことまで勘繰りたくなります。
いやあ、お義父さん、新年早々笑かしていただきました。
美味しいブログねたを提供していただき誠にありがとうございますっ

謹賀新年2015!

2015-01-01 21:04:39 | 人間文化論
あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願い申し上げます

昨年2014年は年末に総選挙があり惨憺たる結果となってしまいました。

そのちょっと前には福島県知事選挙もありまったく盛り上がらないまま終了しました。

1年を振り返って2014年を漢字1字で表すと何?なんていうベタな振りをされて、

はじめのうちは 「憂」 とか 「絶」 とか、あるいは 「独」 とか 「茶」 といった、

全体的政治状況を表す物悲しい漢字しか思い浮かばなかったのですが、

私の1年は別にあの総選挙の結果 (あるいはそこに至るプロセス) に尽きるわけではありませんし、

他にもいろいろあったはずだと思ってもう一度じっくり振り返ってみました。

そして思いついたのは 「映」 の1文字でした。

映画の 「映」 です。

2014年は 「シネマ de てつがくカフェ」 に始まり、「シネマ de てつがくカフェ」 に終わった1年でした。

福島市の文化発信拠点である 「フォーラム福島」 さんとタッグを組んで、

1月の 『ハンナ・アーレント』 に始まり、4月の 『ある精肉店のはなし』

11月の 『DANCHI NO YUME』 と3本の映画で 「シネマ de てつがくカフェ」 を行わせていただき、

いずれもこれまでで最多の参加者数を記録することができました。

他にも3月の 「特別編4」 では牧野英二著 『「持続可能性の哲学」への道』 を取り上げてシンポを、

8月には森一郎著 『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性―』 を取り上げて

「哲学書 de てつがくカフェ」 を開催し、ひじょうに高度な議論を交わすことができました。

また、その牧野氏や森氏らと共に高千穗大学での連続講演 「危機の時代と哲学の未来」 に招かれ、

「民主主義の危機と哲学的対話の試み」 と題して、

「てつがくカフェ@ふくしま」 の取り組みについて報告してきました。

そんなこんなでこの1年は何かにつけ 「てつがくカフェ@ふくしま」 中心の1年でしたが、

それらをひっくるめて1字で表すと 「映」 かなと振り返ってみたわけです。

今こうして書きながらもう一度考えてみると、てつがくカフェの 「カフェ」 と、

茶色の朝の 「茶色」 を重ね合わせて 「茶」 でもよかったのかなとも思いますが、まあよしとしましょう。

さて、今年2015年はどんな1年になるのでしょうか?

あいかわらず 「てつがくカフェ@ふくしま」 のほうは絶好調です。

1月9日にはフォーラム福島で 『悪童日記』 で 「シネマ de てつがくカフェ」 を、



2月7日にはTUKTUKで 『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 で 「本 de てつがくカフェ」 を、



3月の7日か8日あたりにはやはりフォーラム福島において、

鎌仲ひとみ監督最新作 『小さき声のカノン』 で 「てつがくカフェ@ふくしま特別編5」 を開催予定です。



こんなに先まで予定が決まってるなんて世話人の皆さんはなんてがんばってるんでしょうか。

この1年も 「てつがくカフェ@ふくしま」 中心の1年になるのかもしれません。

このまま疾走を続ける所存です。

応援のほどよろしくお願い申し上げます