まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

高齢育児の必需品

2019-03-30 08:26:37 | そして父になる
ブログを再開したついでですので、激しくアウト・オブ・シーズンですが、

今年の年賀状をアップしておくことにいたします。

これまで年賀状は、ブロガーとしての矜恃をもって作成してまいりました。

2014年2015年2016年2017年、参照)

しかし、子どもが生まれた家庭には定番の年賀状デフォがあるじゃないですか。

子どもの写真を貼り付けて 「○歳になりましたあ」 とか報告するやつ。

子どもの写真なんて蓄積がゴマンとありますから、

私も今後はもう年賀状のネタに悩むことなく、

18年間ぐらいは定番のパターンで手を抜いていけるぞぉと、

安心しかけたりもしていたんです。

しかし、実際に年賀状の作成時期になってみると、

「本当にそれでいいのか?」 と、

私の中のブロガーとしての良心が語りかけてくるのです。

家族親戚の子どもでもないかぎり、

「あなたの子どもの写真見せられても何の興味もないし」

っていつも幸せそうな家族の写真を見ながら思っていたじゃないか、

それを今度は自分が繰り返すのか?

そうささやいてくるのです。

年賀状のネタを考えなくてすむという手抜きへの誘惑と、

ブロガーとしての矜持がせめぎ合ってなかなか方針を決することができず、

このままじゃ年が明けちゃうよおというギリギリまで引き延ばしたあげく、

けっきょく良心の声に従って茨の道を歩むことにいたしました。

それがこちら、ファイル名は 「年賀状2019爆買い」 です。



子どもの写真を使わずに子育ての話をするという戦略です。

私の場合、年賀状を文字と写真でびっしり埋め尽くし、

1人ひとりへの一言を手書きせずにすますという基本方針で作成していますが、

それでもふだんのブログと違ってものすごく字数が限られますから、

文章は推敲に推敲を重ね、削りに削って何とかこんなふうに収めました。

締めの一言として引っ越し通知の決まり文句のパロディ、

「お近くにお越しの際はぜひこの極楽を御体験ください」

という案も考えていたんですが、どうやっても収まりきれなかったので断念しました。

それにしても、生まれた時は2400gとかなり小さく生まれてきてくれたので、

私のような高齢者でも特に苦労することなく世話ができていましたが、

細胞分裂の力というのは偉大なもので、あっという間にすくすくと育っていき、

すぐに抱っこするたびに、腰、肩、腕、肘のどこかに負担がかかるようになりました。

しかも、それまではミルクをあげればすぐに眠ってくれたのに、

重くなってきてから夜中になかなか寝付いてくれなくなって、

ずっと抱っこしていないと大泣き、腰が辛くて腰掛けようとしても大泣き、

やっと寝てくれそうかなと思ってベッドに下ろそうとすると大泣き、

という地獄の日々が始まりました。

その頃から2人とも頻繁に接骨院に通うようになり、

私は接骨院のみで何とかなっていましたが、

産後の体調がなかなか回復しなかった妻はさらに整形外科などにも通わなくてはなりませんでした。

年賀状の中にも書いたように、妻の育休中はそれで何とかしのいでいましたが、

育休が明けると代わり番こに通院するということが難しくなり、

どちらがいつ倒れてもおかしくないという状況まで追い込まれていました。

そんな頃に電子レンジだか洗濯機だかを買い替えるためにヤマダ電機に行き、

ヤマダ電機に行ったら必ず交代でマッサージチェアに試乗していたわけですが、

いろいろ試した中でも非常に高性能で満足いくやつがあり、

それが元々見ていた価格よりも大幅に値引きできるようになりましたよとささやかれ、

これはもう天のお告げだろうと覚悟して購入を決めてしまったのでした。

いや、ヤマダ電機で試乗する分にはどうということもありませんでしたが、

実際に購入しようとすると、本当にこれを我が家に置くことができるのか、

あらかじめ業者の人が我が家に視察に来てくれて、

このバカでかい物を納入できるのか、我が家の玄関やあちこちの扉の採寸をしてくれて、

「たぶんギリOKだと思います」 みたいな綱渡りの納入でした。

私の生涯の買い物歴の中でもマンションや自動車に次ぐくらい、

相当高価な買い物だったんではないでしょうか。

しかし、それだけの価値ある買い物でした。

たぶん今までに購入した物の中でこれほど重宝した物はありません。

これを購入して以降、身体の メンテナンスは自宅で行えるようになりました。

その後2人とも接骨院にも整形外科にもお世話になっていません。

たしかにバカ高い買い物なので若い夫婦にオススメできるようなものではありませんが、

家計に余裕のある高齢出産したご夫婦にはぜひともオススメしたい一品です。

これが自宅にあるのとないのとでは幸福度 (=苦痛の少なさ) が段違いに異なります。

初期投資的には高いかもしれませんが、想像よりも相当早く元は取れるはずです。

何よりも子育て期間中の体調に起因する夫婦のギクシャクが一掃されるというのは、

精神衛生的に計り知れない恩恵をもたらします。

嘘だと思う方は、お近くにお越しの際はぜひこの極楽を御体験ください。

早まった一般化の誤謬とその逆

2019-03-26 15:48:32 | そして父になる
論理学の初歩的・基本的知見として 「早まった一般化の誤謬」 というものがあります。
少ない例から一般的な結論を導き出してしまうこと、
もう少し詳しくいうと、自分の知り得たわずかな事例に共通する特徴や性質、行動等を、
十分な量のデータを集めないまま早急に、
それらが属するグループやカテゴリー全体に当てはめてしまう誤りのことです。
「類推の危険」 とも呼ばれています。
例えば、次のような推論。

「1、2、3、4、5、6はいずれも120の約数である。
 したがってすべての整数は120の約数である」。

これがどんなに愚かな論理であるかは素人でもわかりますね。
たしかに1から6までの整数はすべて120の約数かもしれませんが、
すぐ次の7を調べれば、すべての整数が120の約数とはいえないことは簡単に判明します。
このような 「早まった一般化」 という論理学的誤謬は、
哲学・倫理学を学んだり研究したりする者にとってのみ常識であるばかりでなく、
そもそも学問というものは一般化・普遍化するのが仕事でありますので、
学問を志す者はすべからく 「早まった一般化」 に陥らないよう心がけているものです。
(今の 「そもそも学問というものは・・・」 という物言いは、
 「早まった一般化」 に陥っている可能性の高い表現形式ですが、
 この文に限っては内容的にたぶん大丈夫なんじゃないかなと判断しました。)
しかしながら、こうした訓練を受けていない人々は 「早まった一般化」 にとらわれやすく、
それによってステレオタイプや偏見が形成され、差別の温床となっていきます。
例えば、実際に被災地で窃盗していた外国人 (ここではA国人としておきましょう) が捕まったとして、
その1つないし2つくらいのニュースから、
「A国人が大挙して火事場泥棒のために被災地に入り込んでるらしいよ」 とか、
「被災地で盗みをしているのはみんなA国人だよね」 という情報に置き換えてしまうのが、
「早まった一般化」 であり、こうして偏見は流布していきます。
逆に、秩序正しい避難所や被災地の光景だけを見て、
「日本人は大災害のときもけっして略奪など行わない礼節を重んじる民族だ」
などと結論づけてしまうのも 「早まった一般化」 であり、論理的には間違っています。
皆さんもふだんわりと気楽に 「男性は……」、「女性は……」 とか、
「福島県民は……」、「学校の先生は……」 などと 「早まった一般化」 を行ってしまっていませんか?

さて、子育てをしている際にも、この 「早まった一般化」 というのは首をもたげてきます。
今どきそれほど子だくさんの大家族という家庭もないでしょうから、
自分の赤ちゃんや子どもというのはせいぜい数人、
場合によっては1人だけしか知らないという場合が多いでしょう。
核家族だとすると甥っ子や姪っ子に接する機会も少ないでしょうし、
地域の子どもといっても、ママ友のお子さんもそんなに大勢いるわけではないでしょう。
その限られた数の情報をもとに 「赤ちゃんってこうだよね」、
「子どもってああだよね」 と結論づけてしまうと、
「早まった一般化」 の誤謬に陥ることになってしまうのです。

私が以前書いた 「新生児の子育て中は両親は寝不足になる」 という話は、
自分の子育て経験にのみ基づいての感想でしたが、
2時間おきの授乳のために父親も寝不足になる、というのは完全に 「早まった一般化」 で、
それは粉ミルクを与えている家庭だからこそ生じえた話であって、
母乳だけで育てている家庭では父親が授乳に関わらず、
したがって寝不足になったりもしないということもありえるのでした。
(このあたり 「生じえた」 とか 「ありえる」 という表現によって、
 慎重に 「早まった一般化」 を回避しています。)
基本、親は自分のとこの子どものことや子育ての仕方しか知りませんが、
それはあまりにも強烈な体験であるがゆえに、
つい一般化・普遍化して、子どもとはこういうもの、子育てとはこういうものと、
考えてしまう、考えたくなってしまうのではないでしょうか。
そのへんのメカニズムをきちんと理解した上で、
子育てにおける 「早まった一般化」 の危険性を回避しながら、
このブログを書いていきたいと思います。

ところで、子育てにおいては 「早まった一般化」 の逆のケースというものも
あるのではないかということに思い至りました。
そんな論理学用語はないのでテキトーに命名するなら、
「早まった特殊化」 とか 「早まった個別化」 とでも呼べばいいのでしょうか。
個別事例を一般化・普遍化してしまう 「早まった一般化」 とは反対に、
一般的現象、数多く見られる現象であるにもかかわらず、
そうであることを知らないために、
あたかも自分の子どもにのみ当てはまる特徴・性質・行動であるかのように思い込む、
という過ちのことです。
つまり、赤ちゃんなら誰でも (あるいはすべてとは言わずともけっこう多くの子が) することを、
うちの子だけ (あるいはごく少数の子だけ) ができることだと勘違いしてしまうことです。
これは推論ではないので誤謬という表現は当てはまらないかもしれませんが、
これも間違いであることにかわりはないでしょう。

新生児の頃というか、今でもけっこうそうなんですが、
うちの子は身体がめちゃくちゃ柔らかいんです。
よく自分の足を食っています。
私は身体が硬くて柔軟が苦手で、座って前屈してみても 「ヒ」 の字みたいにしかなりません。
立って前屈して床に手がつくなんて夢のまた夢です。
そんな私の子どもだというのに、うちの子は身体全体をいくらでも曲げられるのです。
それを見て私は驚喜して、「この子はスゴイ、身体柔らかい、天職は体操選手か中国雑技団だっ」
と叫んだら、妻から 「そんなの赤ちゃんなら誰でもできるよ」 と一笑に付されました。
誰でもできるようなことをこの子だけの特殊才能だと思い込む、
これが 「早まった特殊化」 です。

また、まだ立ち上がることも這うこともできなかった頃、
やっと寝返りが打てるようになってしばらくした頃です。
オムツを替えようとするとものすごい速さでクルッと回転し、
けっしてオムツを替えさせまいとしてきます。
何とか押さえつけてオムツを替えたいのですが、
急に身につけたスピードと、以前からの持ち前の身体の柔らかさを駆使して、
クルッと寝返りを打ち、私にフォールされないよう手からすり抜けていくのです。
「これはレスリング選手にするしかない。霊長類最強女子だっ!」
と興奮して言ったら、やはり妻からは 「誰でもそうだよ」 と冷笑されました。



そして昨日のブログ
初語が 「アンパン」 だったという話を書かせていただいたわけですが、
Facebook のほうに次のようなコメントを書き込んでくれた方がいらっしゃいました。

「初めての言葉が 『アンパン』 って子、意外にたくさんいます。
 もしかして、有史以来、アンパンマン出現以前にも、
 『アンパン』 てはじめて言った子がいたかもしれません。」

なんだよ。
「ママ」 や 「パパ」 ではなくて初語が 「アンパン」 だったなんていう子ども、
うちの子だけだろうと思って、勇んで9ヶ月ぶりにブログ記事を書いたのに、
なんてことはない、有史以来、アンパンマンが誕生する以前から、
「アンパン」 はオーソドックスな初語だったんだ。
ああ、恥ずかしい。
とんだ 「早まった特殊化」 でした。
子育てにおいては、「早まった一般化」 とともに、
「早まった特殊化」 にも気をつけなければいけない、というお話でした。

衝撃の初語

2019-03-25 14:15:45 | そして父になる
我が家では子育ての方針が夫婦で一致せず、

母は自分のことを 「ママ」 と呼ばせようと、

父は自分のことを 「お父さん」 または 「お父さま」 と呼ばせようと考えています。

この件に関しては互いの自由を尊重しようということになり、

どちらかに統一することはあきらめ、それぞれの方針で子どもに接しています。

というわけで生まれた直後くらいから2人とも、

子どもに向かって母親のことは 「ママ」、

父親のことは 「お父さん」 と呼ぶようにしながら育ててきました。

最初の頃はよかったのですが、

1歳を過ぎてそろそろ言葉を発するかもという時期にさしかかり、

私は自分のミスに気づきました。

初めての言葉としてどちらの名前を呼んでくれるかとなると、

「ママ」 と 「お父さん」 では圧倒的に 「ママ」 が有利なわけです。

いや、「ママ」 と 「パパ」 の闘いだったとしても、

破裂音の 「パ」 よりは 「マ」 のほうが言いやすかったことでしょう。

それをあろうことかさらにハードルを上げてしまう 「お父さん」 ですよ。

もう負け戦は必定です。

どうせ 「ママ」 って言われちゃうんだろうなと半ばあきらめながら、

でもその時期が近づいてくると未練たらしく、

1日のうちに何度も何度も 「お父さん、お父さん」 と連呼したり、

口をゆっくり動かして、「お」 とか 「と」 という音の出し方を教えたりしていました。

喃語 (なんご) というんでしょうか、

まだ日本語どころか言語とも人語とも判別のつかない

意味不明の言葉をしきりと話すようになっていたある日のこと、

その瞬間はやってきました。

それはもうくっきりはっきりと言語として、日本語として、

正確に発音してこう言い切りました。










「アンパン」










ちょっと前に買ってあげてお気に入りだったこのオモチャ↓を手に持って、



(空気でふくらませた風船のようなオモチャです)

そのこちら側の部分↓を私に見せつけながら、



はっきり4文字単語として 「アンパン」 と言い切ったのです。

初めての言葉は 「ママ」 でも 「お父さん」 でもなく 「アンパン」 でした。

破裂音の 「パ」 もはっきり発音できてる上に 「マン」 は抜き。

こんなことなら 「パパ」 と 「ママ」 の闘いにしておけば勝てたかもしれません。

しかも、この時点でアンパンマンのことがそれほど好きだったとは思えません。

このオモチャは気に入っていましたが、

アンパンマンのアニメを15分通して1話全部鑑賞できたことは1度もなく、

(すぐに飽きて絵本やオモチャを求めてどこかに行っていました)

「それいけ!アンパンマンくらぶ」 という番組の最初や途中に出てくる、

リサおねえさんのコーナーだけはじっと見ていられるという程度でした。

番組的に言うならば 「おかあさんといっしょ」

「いないいないばあっ!」 のほうがよほどお気に入りで毎日熟視していました。

その後の調べでは、さっきのオモチャのこっち側↓を見せても、



同じように 「アンパン」 と言いますので、

「アンパン」 というのがアンパンマンの名前であるとわかっているわけでもなさそうです。

だとするとよけいに謎は深まります。

なぜあなたの初語は 「アンパン」 だったのですか?

あなたにとってママやお父さんよりもアンパンマンは大事だったのですか?

それにつけても、自分の歳のせいでさすがに 「パパ」 はないだろうと思ってしまった、

自分の心の弱さと初語へ向けての戦略ミスがくれぐれも悔やまれます。