まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

職業選択の自由から高度産業化社会へ

2021-05-10 16:12:55 | キャリア形成論
前回、分業の説明をするときに、
狩りの得意な人は狩りだけを行い、
農耕の得意な人は農耕だけを行うようになった、と書きましたが、
現実には分業というのは個人単位の得意不得意で分かれていたわけではありません。
今の世の中では「職業選択の自由」がごく当たり前に認められていますが、
そんな自由は昔から認められていたわけではなく、
このほんの数百年の間に広がってきた本当に新しい文化にすぎないのです。

例えば江戸時代では士農工商が身分制度として確立していて、
農民の子は農民に、商人の子は商人になるように定められていました。
つまり、分業は身分と結びついた固定的な制度だったのです。
それは社会のあり方としてもある種、理に適ったシステムです。
農民の親が農業の知識を自分の子どもに伝えてあげれば、
子どもは最短で良い農民として育ちます。
文化を伝達するのには長い時間が必要なのですから、
生きていくのに必要な文化を親から直接教えてもらえれば、
無駄な時間を使わずにすみますし、
どの職業を選ぼうかなどと無駄に悩む必要もなくなります。
また、血統や素質という考え方からしても、
親の素質を子が受け継いでいるのであれば、
親と同じ職業に就いたほうがよりよく社会に貢献できることになるでしょう。
こうして分業化が進んだのちも、人類は長いあいだ、
身分と結びついた固定的な分業体制の下で生きてきました。

しかし実際のところ、教育の手間の問題は別として、
血統や素質(いわゆる遺伝)という側面は職業適性に関係あるでしょうか。
農家の子どもが植物栽培が好きだったり、得意だったりするとは限りませんし、
国王の子どもに生まれたからといって、政治の才能に恵まれているとは限りません。
兄弟姉妹が複数いれば、ひとりひとり素質や適性は異なっているはずです。
だとしたら、血筋とは関係なく、
個人単位でそれぞれにふさわしい職業に就いたほうが本人のためであり、
ひいては社会全体の生産性の向上に繋がるのではないでしょうか。
身分制社会が既得権益にしがみつく閉鎖的な社会であったことに対する批判もあいまって、
近代市民革命によって身分制からの解放が推し進められることになり、
しだいに職業選択の自由が認められるようになりました。

それは世界的に言ってもほんの数百年前の話ですし、
日本で言えば明治になってからのことですから、
まだ150年の歴史しかありません。
皆さんはどうですか?
生まれながらに職業が決められていた身分制の時代と、
職業選択の自由が認められた現代と、どちらの社会が好きですか?
江戸時代であれば、自分は何の職業に向いているんだろうと悩む必要はなかったし、
就職活動をして就職先を探すなんていう苦労も必要ありませんでした。
しかしその代わりに自分のやりたいことをやるという自由はなかったわけです。
どちらが幸福なのか、なかなか難しい問題です。

さて、職業選択の自由の社会になったことによって、
教育のあり方も変わってきます。
身分制社会であれば、家庭内で親から子へ、
家業に関わる知識や技術を伝達していればよかったわけですが、
子どもが何の職業に就くかわからないとなると、
職業に関する専門的知識を伝授しても意味がありません。
職業選択の自由が認められる社会においては、
何の職業に就いても必要となるような一般的、汎用的な知識や技術を、
すべての子どもに学習させておかなければなりません。
そうすると各家庭で親が子どもに伝えるのではなく、
子どもたちを一堂に集めて、
教育を得意とする専門家に任せたほうがよくなります。
それを行う場として学校が設置されることになりました。
かくして現在のような教育システムが構築されたのです。

産業革命以後、社会の変化は激しくなっていきます。
工業化が進んで第二次産業が中心となった時代には、
時間通りに規則正しく工場生産に従事できる人材が求められました。
そのためには基本的な「読み書きそろばん」の能力を身に付けて、
指示やマニュアルどおりの工程をこなせなければなりません。
学校の授業が時間割にしたがって進められていくのもその頃の名残です。
しかし、機械化やオートメーション化が進んでいくと、
単純な工場労働は減っていきます。
新しい製品を開発したり、販路を開拓したりといった、
創造的な仕事が求められるようになります。
そうした仕事に対応する能力は義務教育だけでは身に付きませんので、
先進国では多くの若者が高等教育を受けるのが普通になっていきます。

産業の中心は重工業からさらに第三次産業へとシフトしていきます。
そうなると社会の変化はますます速くなっていきます。
船や車など形ある物はどんなに進歩したとしても限りがありますが、
無形のサービスは無限に変わり続けることができるからです。
そして、計算機がパソコンに進化を遂げ、
電話機が携帯電話へ、そしてスマートフォンへと進化を遂げたとき、
人類はまったく新しい段階に突入しました。
高度産業化社会とか、知識基盤社会とか、情報化社会と呼ばれる社会です。
これからの社会の変化は、これまでとはケタ違いになっていくでしょう。
職業選択の自由はあいかわらずあるわけですが、
子どもの頃に憧れた職業が、
大人になったときにも存続しているかどうかわかりません。
逆に、聞いたこともないようなまったく新しい職業が現れて、
それが人気の職種になっているかもしれません。

そのような時代において求められるのは、
高等教育において得られる専門的知識だけではありません。
専門的知識もどんどん更新されていってしまうからです。
それよりも重要なのは変化に対応できる力です。
それは言い換えると「解のない問いを考え抜く力」と言っていいでしょう。
これからの時代において、どんな商品を開発すれば、
どんなサービスを提供すればうまくいくのか、
誰にも正解はわかりません。
正解がないからといって考えなくていいかというとそんなことはなく、
何とか自分なりに正解に近づいていかなくてはならないのです。

どの職業に就いたらいいのか、そのために何を学んでおいたらいいのか。
これにも正解はありません。
正解はありませんが、考えなくてはなりません。
親や先生や先輩の言ったとおりにしていれば何とかなる、
という時代はとっくの昔に終わりを告げました。
自分なりに情報を集めたうえで、自分なりに考え抜いて、
これからのキャリアを築いていってください。

分業から貨幣経済へ

2021-05-10 16:09:42 | キャリア形成論
農耕のおかげで食料を大量に生産し、保存・貯蓄できるようになった人類は、
みんながみんな日々の食料の確保に汲々とする必要がなくなります。
こうして分業と物々交換が始まります。
狩りが得意な人は狩りだけを行い、農耕が得意な人は農耕だけ行い、
大量に獲れた獲物や穀物の余剰分を物々交換することによって、
双方が豊かな食生活を送れます。
さらには狩りや農耕などの食料確保(いわゆる第一次産業)には関わらず、
弓矢や鍬や土器といった道具だけを生産して、
それを食料と交換して生きていく第二次産業従事者も現れてきます。

こうなってくると毎回毎回それぞれが獲れた物、作った物を持参してきて、
直接交換するというのが面倒になってきます。
せっかく持っていっても互いに欲しい物がうまくマッチするとは限りませんし。
そこで発明されたのが「おカネ」という文化です。
それぞれが生産した物そのものではなく、
その代わりの何か(石やら貝殻やら金属など)を交換の基準とし、
それとの引き替えによって交換を成立させるという画期的なシステム、
いわゆる「貨幣経済」というものが生み出されたのです。
(貨幣の起源については諸説ありますので詳しくはこちらこちらを参照。
 最近では物々交換社会もなかったという説が主流のようで、こちらこちら参照。)

それに伴い、食料生産(第一次産業)でもなく、道具の生産(第二次産業)でもない、
新しいタイプの仕事、第三次産業が生まれてきます。
その代表が、貨幣を介した交換を仲介する商業です。
実際に物を生産することなく、物を仲介するマージンで生計を立てる商業は、
多くの国で低い地位を与えられていました。
日本でも士農工商と四身分のうち最下位に置かれていました。
しかし、最高位にある「士(=侍)」も、本来の仕事は防衛であり、
江戸時代にあっては主たる役目は政治だったわけですが、
いずれも物の生産に携わるわけではない第三次産業です。
つまり、第三次産業というのは何らかのサービスを提供することによって生計を立てる仕事であり、
それが成り立つためには貨幣経済が成立していることが前提となります。

皆さんは「働く」というとおカネを稼ぐことと思っているのではないでしょうか。
しかし、アウストラロピテクス以来400万年の人類(ヒト属)の歴史のなかで、
人間がおカネを使うようになったのは、ほんの数千年前からのことにすぎません。
本来「働く」というのは、エサを捕る、食料を生産するということでした。
農耕という文化によって食料が安定的に供給できるようになり、
貨幣経済という文化によって、
お店におカネを持っていけばいつでも食料その他を手に入れられる、
という仕組みが作られたがゆえに、
皆さんは野山を駆けまわって狩りをしなくてすんでいるのです。
農耕も凄かったですが、おカネなんていうものを発明した人も凄いですよね。
今私が研究や教育という仕事に専念していられるのも、
ひとえにおカネを発明してくれた人のおかげです。
日々感謝しながら生きていきたいと思います。

狩りから農耕へ

2021-05-08 13:18:46 | キャリア形成論
図の一番左側の列を説明していきます。
森から出たサルははじめのうち狩りをすることによって食物を得ていたわけですが、
狩りというのは大変です。
常に狩りが成功するとは限りませんし、
それ以前に、いつも獲物が見つかるとは限りません。
獲物に出会えなかったり、狩りに失敗したりすると、
その間ずっと飢えていなくてはならないのです。
食料を確保できないかもしれないというのは、
生物にとって常に存亡の危機にさらされているということです。

この問題を根本的に解消したのが、
「農耕・牧畜」という新しい文化でした。
狩りとの類比でわかりやすいので牧畜を例にとって説明すると、
狩りというのは捕まえた獲物を全部食べてしまう文化です。
これを続けていると食料の安定供給はできません。
そこで狩りをして大量に獲物を捕らえたときに、
獲物を全部食べてしまわずに、オスとメスを残しておいて、
このつがいが逃げてしまわないように、
柵か何かの中で飼育し、自分たちの管理下で子どもを産ませます。
その子どもが大きく育ったら食べるのですが、
その時もまた全部食べてしまわずに、オスとメスを残しておくのです。
これを無限に繰り返すのが牧畜であり、
これによって人類は日々の食料確保の問題から解放されるのです。

同じことを動物ではなく植物で行うのが農耕になります。
採れた植物をすべて食べてしまうのが採集生活ですが、
全部食べてしまわずに種を少し残しておいて、
自分たちの管理下で栽培して収穫し、
そしてまた植えるということを繰り返すのです。
牧畜も画期的な文化でしたが、
農耕のほうはさらに飛躍的な発展を人類にもたらしました。
穀物は食べる時に加熱する必要がありますが、
加熱しなければかなり長い期間保存しておくことができるからです。
人間は農耕によって、今日や明日の分だけでなく、
何年も先までの食料を収穫し蓄えておくことができるようになりました。
もはや目先の食料の確保に日々追われる必要はなくなったのです。
これにより人類は食料確保以外のことに時間を割けるようになり、
人間の文化は一気に花開いていくことになります。

文化のことを英語で culture と言いますが、
culture は「耕す」という言葉、つまり「農耕」という言葉に由来します。
農耕は人類が生み出した文化のひとつですが、
人類の歴史を大きく変えた最も偉大な文化であり、
文化の中の文化、「The 文化」と言っても過言ではなく、
したがって農耕を意味する culture が、文化全般を意味する言葉にもなったのです。

農耕というのがどれほど凄い文化であったか理解いただけたでしょうか。
今後のブログ記事で説明いたしますが、皆さんが職業選択の自由で悩めるのも、
元はと言えば、人類が農耕という文化を生み出したおかげなのです。
もしもそれがなかったら、皆さんは今ごろ大学で学ぶどころか、
小中高で学ぶことすらなく、毎日ひたすらその日の食料を確保するために、
狩猟採集に走り回っていたことでしょう。
誰だかわからないけれど農耕という文化を発明してくれた祖先に、
日々感謝しながら大学生活を送ってください。

Q.自分を見つけるにはどうしたらいいんですか?

2020-06-16 15:24:36 | キャリア形成論
今年の看護学校の質問コーナーでは、代表質問でも聞かれましたし、

ワークシートにも何人かの方が同様の質問をくださっていました。

「Q.自分のことがあまり分かりません。
   先生は自分をみつめなおすとき、何を考えますか?」

「Q.看護学校に入ってから、自分についていろいろと模索してきました。
   今もしているのですがけっきょくいろいろ試しもしたがよく分かりません。
   自分を見つけるには?」

みんな自分を見つけられなくて困っているようですね。

そんな皆さんのために信頼のおける方法を紹介してあげましょう。

福島大学ではいろいろな授業で紹介しているし、

看護学校の先輩たちから質問されたときに教えてあげたこともあるのですが、

こんな本があります。



これは超オススメです。

私自身がこれを読んだことによって新しい自分 (才能) に目覚め、

その後の人生がさらに楽しく開けてきました。

この本に関してはこのブログのなかで何度か紹介していますので、

ぜひそちらを読んでみてください。

  「強みを活かして生きる」

  「34位までわかるストレングス・ファインダー」

  「Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか? (その2・回答修正)」

  「Q.人の気持ちをわかってあげるのが下手なんですがどうしたらいいでしょうか?」

  「Q-2.先生はどんな盲点の窓を指摘されたことがありますか?」

  「Q.初対面の人と無理なく自分らしく接するにはどうすればいいのですか?」

  「Q.考え方に人それぞれ癖というのはあるんですか?」

探してみたらけっこう見つかりました。

どれだけ推してるんでしょうか?

でも、これは自分でやってみて本当に目からウロコが落ちました。

自分の強みって自分にとっては当たり前の力ですから、

それが自分だけに備わっている特別な力だということに気づきにくいんですね。

そんなの誰でも持っていて当然だろうって勝手に思い込んでしまいがちなわけです。

それを 「ストレングス・ファインダー」 という自己分析ツールで客観的に判定してもらうと、

あ、なるほど、これって誰もが当たり前に持っている力ではなく、

自分に固有の強みだったんだとやっと気づくことができるわけです。

まさに 「盲点の窓」 ですね。

これは全学生にオススメです。

皆さんもぜひやってみてください。

強みを活かして生きる

2020-06-16 14:47:14 | キャリア形成論
自分の強みを活かして生きるというのは、
幸せに生きていくためにとても大事なことです。
私は、自分の強みの1つである 「着想」 を活かすことができているので、
大学教員という職に就けて本当にラッキーであった、という話を書きました。
今日は、この自分の強みをどうやって知ったかをご紹介いたします。

日本では2001年に発売されて爆発的に売れ、
2017年には新版が発売されて、さらに売り上げを伸ばしている、
『さあ、才能 (じぶん) に目覚めよう 新版』 という本があります。
この本はお薦めです。
「教養演習」という (現在の「スタートアップセミナー」)
私が担任している1年生の授業では、全員にこれを買ってもらっています。

この本の哲学が好きで、人間はとかく弱いところ、苦手なところを克服し、
劣っている部分を補っていこうとしがちだけれど、
そんなことはしなくていいから、自分の強みをどんどん伸ばしていこう、
というのがこの本の基本的主張です。
初版の著者はポジティブ心理学を提唱し、ギャラップという調査会社を創立した人で、
200万人ものインタビューに基づいて、人間の強みを34に分類し、
「ストレングス・ファインダー」 という、
自分の強みを特定するための心理テストを開発したのです。
この本には、34の強みがそれぞれどういうものか書いてあるのですが、
それだけではなく、本の末尾に付されたアクセスコードを使って、
インターネット上から 「ストレングス・ファインダー」 を受けることができるのです。

「ストレングス・ファインダー」 をやると、
自分の上位5つの強みがわかります。
私の強みは以下の5つでした。
1位 着想
2位 内省
3位 親密性
4位 ポジティブ
5位 戦略性
本を読んで34の強みの説明を見ながら、
きっと自分の5つはこれだろうなあと予想したものがあったのですが、
2位の 「内省」 くらいしか当たっていませんでした。
他の4つはとても意外だったんですが、
しかし、この結果を受けてよくよく自分の行動や選択などを振り返ってみると、
なるほどたしかに自分はこういう人間かもしれないと思えてきます。
特に、1位の 「着想」 はまさにこれが自分の核だったんだと、
ものすごく納得がいきました。
自分でも気づいていない、意識していない強みに気づいてみると、
これを活かさない手はないよなあと思いますし、
また実際に仕事の中ですでにけっこう活かしているということにも気づきます。
40歳を過ぎるまでこれに気づかずに生きてきたのはもったいなかったなあ、と思います。

というわけで 「ストレングス・ファインダー」 はお奨めです。
本を全部読まなくてもいいけど、
とにかく本を買って 「ストレングス・ファインダー」 をやってみてください。
(古本では 「ストレングス・ファインダー」 をできないので注意!)
学生もみんなやってよかったと言います。
自分のキャリアを考えていく上でも、とても参考になるでしょう。
キャリア・カウンセリングのほうでもいろいろな心理テストを学びましたが、
(Y-G性格検査、適職診断検査CPS-J、MBTI、など)
「ストレングス・ファインダー」 のほうが断然お奨めだと思います。
勝間和代さんは私と同じ 「着想」 が強みらしいですが、
彼女の推薦のことばはこう↓でした。

「ぜひ、隠れた能力を見つけて、わくわくしてください」

ホントにわくわくできますよ

文化を生みだし、文化を使って生きていく動物

2020-05-26 14:12:18 | キャリア形成論
さて、本能が壊れたままでは人類は生き残っていくことができません。
ではどうしたのでしょうか?
本能が壊れてしまった代わりに、
人間は本能の代替物として 「文化」 を自ら生み出しました。
ここで言う 「文化」 は文化人類学で言う文化なので、一番広い意味の文化です。
文化人類学では 「文化」 のことを 「非遺伝的適応能力」 と定義しています。
本能が遺伝によって親から子へと伝えられるのに比して、
文化は遺伝によって伝えられるものではありません。
文化はDNAとは関係なく、人間が環境に適応するために、
脳を使って自分たちで生み出した生きるための力なのです。
人間が産まれたときに遺伝によって受け継いでいたこの身体以外の、
産まれたあとに人類が自ら作り出したものはすべて文化です。
机や鉛筆や衣服など私たちの身の回りにある有形のモノ (=道具) はすべて文化ですし、
言語や貨幣や国家や学校などの無形の制度もすべて文化です。
人間は 「本能の壊れた動物」 であるがゆえに 「文化的動物」 となりました。
「文化的動物」 というのはちょっとわかりにくいのでもう少し詳しく言うと、
人間は 「文化を生みだし、文化を使って生きていく動物」 なのです。

文化には本能とは異なる2つの大きな特徴があります。
まず文化はセミの生殖能力などとは異なり、
遺伝によって親から子へと与えられていないので、
産まれたあとに後天的に習得 (親の側からすると伝達) しなければなりません。
これには膨大な時間がかかります。
靴の履き方、ボタンの留め方、箸の持ち方からはじまって、
電話の使い方からパソコンの使い方に至るまで、
すべて産まれたあとに習得した技術です。
産まれたときに最初からできたことなんて何一つなくて、
すべてひとつひとつ親や先生やいろいろな人から教わって身に付けたはずです。
今使っている言語のすべての単語も全部産まれたあとに覚えました。
皆さんがどれだけの単語を知っているか知りませんが、
すべてをリセットしてイチからまた覚え直すとなったら、
どけだけ時間がかかると思いますか。
それだけの時間をかけてひとつひとつ順番に覚えてきたのです。
セミはミンミン鳴くのに音楽学校に通って鳴き方を習ったりしませんし、
クモもクモの巣を作るのに建築科で学んだり工務店で修行したりしません。
遺伝によって自然とできてしまいます。
人間の場合はすべてが後天的学習ですから、
修得までにものすごく長い時間が必要になります。

文化のもうひとつの特徴は、自由で無限の可能性をもっているということです。
私たち人間は、クモみたいに巣を作る本能を遺伝によって賦与されていません。
だから放っておくと人間は誰も巣を作ることはできません。
大部分の人間は一生、自分で巣を作ることはしないし、作り方も知らないままでしょう。
しかし人間はその代わりに、「家」 という文化を作りました。
これは本能ではなく文化なので、遺伝によって決定されていません。
クモは自分の身体から出る糸を使って勝手にクモの巣を作ることができますが、
しかし、ああいう素材でああいう形でああいう色のクモの巣しか作れません。
人間は本能によって自然に自分の住処を作ることはできませんが、
しかし人間が文化として後天的に作り出した家は、
横穴式住居であったり、竪穴式住居であったり、高床式住居であったり、
果てはタワーマンションまで、
いろいろな形、色、大きさの家を作ることができます。
本能が壊れている代わりに、人間には自由という無限の可能性が開かれているのです。
言葉も道具も制度も倫理も、すべては文化です。
人間が自分で自由に生み出したものです。
だから、人間の言葉も衣服もすべてのものが、ものすごい多様性に富んでいるのです。
逆に言うと、自由で無限の可能性があるからこそ、
先ほど述べた習得と伝達に関してはよけいに時間がかかるということになります。

以上が、本能の代替物としての文化の特徴になります。
皆さんは18年以上かけて数多くの文化を学んできましたが、
さらに4年かけてより高度な文化を学ぼうとしています。
人間発達文化学類には7つのコースがあって、
それぞれでまったく異なる高度な文化が伝達されます。
しかも大学を卒業したら文化の習得は終わりではなく、
現代は生涯学習の時代と言われていて、
社会に出てからも一生涯、文化の習得は続いていきます。
したがって教育という仕事は学校の先生の専売特許ではなく、
社会のどんな職場においても教育という仕事は必要とされています。
人間が本能の壊れた動物である以上、
教育という仕事が人間の社会からなくなることは絶対にないのです。
皆さんにはこの人間発達文化学類で、高度な文化を学ぶと同時に、
その文化を伝える力 (広い意味での 「教育」 を担う力)
も身に付けていただきたいと思います。
人間は文化を習得・伝達することによって発達していきます。
そういう人間の発達を支援する力を育成するのが、
この人間発達文化学類なのです。
長ったらしい名前ですが、その名前には、
人間の根本特徴にも遡る深い意味が込められていたのです。
ぜひこの4年間で高度な文化とそれを伝達する力を身に付けてください。

本能の壊れた動物

2020-05-25 15:13:23 | キャリア形成論
「本能が壊れている」 というのは 「本能がない」 という意味ではありません。
本能はあるのですが、それが他の動物のように、
きちんと本来の自然目的と結びついていないのです。
例えば、生存にとって好ましくないものから離れよう、
排除しようとする生存本能を人間は持っています。
ものすごく熱いヤカンに触れてしまったりしたら反射的に 「アチッ」 と手を引っ込めます。
身体にとって有毒なものを摂取してしまったら嘔吐したり下痢したりすることによって、
体外に排出しようとします。
これは本能でやっていることです。
しかし人間は、人生のなかのイヤなことから逃れようとして自殺してしまうことがあります。
生きる上でイヤなことから逃れようとするのは生存本能がある証拠ですが、
それで自殺なんかしてしまったら生存という本来の目的が達成できません。
生存本能が壊れているというのは、本能があることはあるのだけれど、
それが生きるという本来の目的にしっかりと結びつけられていない、ということなのです。
そもそも生存本能が人類にきちんと本能としてそなわっていたら、
誰も自殺なんてしなかったでしょう。

もっとわかりやすいのは性本能です。
他の動物の場合、性本能は生殖 (つまり子どもをつくる) という自然目的と
ちゃんと結びついています。
人間にも性欲という形で性本能がそなわっていますが、
しかし、人間の性本能は壊れてしまっているので、
性欲が生殖のための行動へとまっすぐ向かっていきません。

他の動物はほとんどの場合、繁殖期と呼ばれる妊娠可能な時期にしか性行為を行いません。
メスの排卵日以外に性交しても妊娠する可能性は低いので、
子どもをつくることが目的であるならば、そんな時期に性交するのは無意味です。
ところが人間は、排卵日とかとはまったく関係なく、いつでも性交可能だし、
実際に妊娠の可能性がまったくないときにも性交してしまうのです。
動物から見ると、なんとムダなことをしているのだと見えることでしょう。
しかし人間の性本能は壊れていますから、
そもそも子どもをつくるためだけに性行為を行っているのではないのです。

それどころか人間は避妊をします。
皆さんが、自分で働いて一人前に稼いで生きていけるようになる前にセックスするときは、
必ず避妊をしなければなりませんが、
しかし、これも動物の目から見てみると、避妊をして性行為を行うというのは、
まったくわけがわからないということになるでしょう。
子どもができないように気をつけながら子どもをつくる行為をしているのですから。
それぐらいなら最初からやらなければいいのに、
でも人間は避妊をしてでも性行為をしたいというくらい、
性本能 (つまり性欲) がおかしくなってしまっているのです。

人間のなかには同性愛の人たちもいます。
同性どうしで性行為をしても当然のことながら子どもはできません。
人間の性本能が動物のように生殖目的に限定されているならば、
同性どうしで愛し合うということは生じてこなかったでしょう。
しかし、人間の場合は性本能が生殖目的に限定されていませんので、
同性愛という、他の動物にはない、人間独特の性文化を生み出しました。

同性愛で驚いていてはいけません。
人間は自分ひとりで性行為をすることができます。
オナニーというのは性交ではないかもしれませんが、れっきとした性行為です。
人間はそれをひとりでしてしまうのです。
どんなにがんばっても絶対に子どもはできません。
でもしてしまいます。
それくらい人間の性本能は生殖から切り離されてしまっているのです。

いかがでしょうか。
「本能が壊れている」 ということの意味がわかっていただけたでしょうか。
本能がないのではなく、あるのだけれど本来の自然目的ときちんと結びついていない、
というのが 「本能が壊れている」 ということの意味なのです。
しかし、本能が壊れてしまっていたら人類は生き残っていけません。
動物なのに動くことができず自分でエサを捕ることができない赤ちゃんは、
放っておかれたら全滅してしまいます。
よく母性本能という言い方をしますが、
母親は出産したらたいてい母乳が出るようになって、
それはたしかに本能的にそなわっている能力ではありますが、
しかし産んだ赤ちゃんに母乳をあげるという本能がそなわっているわけではありません。
赤ちゃんの泣き声を聞くと自然と母乳をあげたくなってしまう、
というわけではないのです。
だからたいていのお母さんは自分の赤ちゃんに母乳 (または粉ミルク) を与えますが、
中にはそういうことをまったくしないお母さんもいますし、
逆に乳母といって、自分の赤ちゃんじゃない子どもに母乳を与える女性もいるわけです。
親が子どもを育てるという本能も壊れているのだとしたら、
人間はどうやって生き延びていくのでしょうか。
それが次の話です。

人間早産仮説

2020-05-23 13:28:05 | キャリア形成論
「人間は本能の壊れた動物である」という私の大好きなネタがあるわけですが、
その元には「人間早産仮説(生理的早産説)」という理論があります。
あくまでも仮説であって真偽のほどは定かではないのですが、
この話けっこう好きで、講演やら授業やらあちこちで話しまくっています。
今回、新型コロナウィルスの影響ですべての授業を遠隔でやらなきゃいけなくなって、
ブログのどこかに書いてなかったかなあと思って探してみたんですが、
どこにも見当たらなかったのでここに書き下ろしておきます。

人間早産仮説の前にサルから人間への進化の話を書いておかなくてはなりません。
サルは森の中、樹の上で生活するのに適したように進化を遂げてきました。
森の中、樹の上はサルにとってパラダイスです。
木の実や木の芽など食料はいくらでもありますし、
天敵は樹の上までやってきません。
森の中、樹の上で生活している限り、サルはずっとサルのままでいたことでしょう。
しかし氷河期がやってきて、森がどんどん失われていくと、
サルは森から出て狩りをしなくてはいけなくなりました。
それはまさにサルにとって存続の危機でした。
サルは狩りに適した進化を遂げていなかったので、
遺伝により生まれ持って与えられた身体能力だけでは狩りがうまくできないのです。
普通はそうした場合絶滅してしまうわけですが、
彼らは身体能力を補うために道具を使い、集団行動するために言語を発達させました。
それによって絶滅の危機を逃れたわけで、
しかも道具や言語を用いることによって脳が異様に発達していきました。
こうして森から出たサルは脳の発達によって人間へと進化を遂げ(サルから枝分かれし)、
高度な知能を手に入れ、地球上で最も優れた動物として君臨することになります。
ここまでは何となく皆さん聞いたことがあるでしょう。
本当はここに二足歩行の話とかも絡んでいるし、
ニワトリが先か卵が先か(道具・言語の使用が先か脳の発達が先か)の問題もあって、
もうちょっと詳しい説明が必要なんですが、それは置いておきましょう。

ここまでは人間にとって万々歳のバラ色のお話に聞こえるかもしれませんが、
実は脳が発達するというのはいいことばかりでなくて、困った問題をもたらします。
脳は頭蓋骨によって守られています。
脳が大きくなるということは頭が大きくなるということです。
頭が大きくなって困るのは出産のときです。
他の身体の部分は柔らかいので何とかなるのですが、
頭は頭蓋骨があるのでそのままの大きさで産道を通らなければなりません。
頭が大きくなりすぎると出産のときに母親の産道が破裂してしまうのです。

実は人間の出産をめぐっては大きな謎がありました。
人間の赤ちゃんは他の動物の赤ちゃんに比べて、
産まれてきたときなんであんなに何もできないのだろうという謎です。
他の動物は、例えば魚やイカ等だったら産まれた瞬間に泳ぎ回りますし、
哺乳類だって産まれた瞬間に4本脚で立ち上がります。
それに対して人間の赤ちゃんは立ち上がるどころか這うことすらできません。
その状態が何ヶ月も続きますし、立ち上がって歩くには1年以上の時間が必要です。
オギャーオギャー泣くだけでまったく動くことのできない動物なんて、
他の動物のいい餌食です。
なぜ人間の赤ちゃんは動物としてあんなにも無能な状態で産まれてくるのでしょうか?

これを説明するために考え出されたのが「人間早産仮説」です。
頭(=脳)は大きく育ってもらいたいけれど、
大きくなりすぎて母親が1人めを出産すると同時に亡くなってしまっては困る。
それを回避するために人間は他の動物に比べて早く産まれてきているのではないか。
他の動物のように産まれた瞬間に動き回れるようになるためには、
本当はあと1年くらい母親のお腹の中で成長していなければならないのだが、
そんなにいたら確実に産道が破裂してしまう。
だから人間は赤ちゃんが完全に成長しきらないうちに産むようになり(=生理的早産)、
そのために人間の赤ちゃんはあんなにも無能のまま産まれてきているのではないか。
それが人間早産仮説です。

この人間早産仮説に基づいて20世紀の半ばくらいから唱えられるようになったのが、
「人間は本能の壊れた動物である」という理論です。
人間の赤ちゃんはみな早産で、
本能がきちんと出来上がる前に産まれてきてしまっているために、
人間はみな本能が壊れているのだ、というのです。
私は大学生のときにこの理論を知ったのですが、
初めて読んだときはものすごくショックを受けました。
私も当時は人間は地球上で最も高等な動物だと信じていましたから。
しかし、読めば読むほど、考えれば考えるほど、
たしかにその通りだなと納得せざるをえませんでした。
本能が壊れているというのは、本能がないということではありません。
本能はいちおうあるのだけれど、それがきちんと自然の目的と結びついていない、
というのが「本能が壊れている」ということの意味です。
それについては次のブログをお読みください。
とりあえず「森から出たサル」から「本能の壊れた動物」までのところは以上です。