ご心配おかけした風邪はひどく悪化することもなくやりすごせそうですので、
昨日の続きを書いていくことにしましょう。
谷岡先生の言う 「やる気のない生徒にやる気を出させる」 とはどういうことでしょうか?
これについて谷岡先生自身が明言しているわけではありませんが、
『のだめカンタービレ』 のなかのあちこちでいろいろな登場人物が、
様々な表現で語ってくれていますので、引用してみましょう。
「もっと音楽に没頭しろと言ってます」 (by シュトレーゼマン)
「ハンパは私は許しません」 (by シュトレーゼマン)
「のだめちゃん、今のままではムリです。
もっと音楽と正面から向き合わないと」 (by シュトレーゼマン)
「なんでもっと上を目指さないんだ?」 (by 千秋真一)
「黒木君はプロとか、いわゆる上を目指してるんですか?」 (by 野田恵)
「バカなやつ、お前は絶対、演奏者向きなのに。
でも今のままじゃダメだ。
いくら才能があったって、本人がそうあることを望まなければ。
オレがあいつを引っ張りあげられたら…」 (by 千秋真一)
これで明らかでしょう。
この作品では、才能ある者に本気で音楽家 (プロの演奏者) の道を目指させることを、
「やる気を出させる」 と言い表しているのです。
その意味では幼稚園の先生を目指していたのだめは、まさに 「やる気のない生徒」 でした。
ただし、それは音大という非常に特殊な環境のなかにいるからこその評価です。
マジレスしてもしょうがありませんが、のだめがもしも福大の人間発達文化学類にいたならば、
教育実習に向けて自ら 「おなら体操」 というオリジナル曲を作曲し、
その振り付けまで考えるなんて 「やる気ある生徒」 以外のなにものでもないでしょう。
実際、のだめは本気で幼稚園の先生になりたいと思っていますので、
ハリセンになにかクラシックを弾いてみろと言われて 「メリーさんの羊」 を弾き、
ハリセンから 「ふざけるな、お遊びをしている暇は一秒たりともない」 と怒られると逆ギレし、
方言を丸出しにして、次のように叫んでいます。
「お遊びじゃなかぁ。のだめ、めっちゃ真剣にやっとっとよ。
メリーさんのなんが悪いんか。
のだめ、めっちゃちゃんと勉強しちょっとよ。」
そうなんです。
のだめはまったく 「やる気のない生徒」 なんかではなく、
幼稚園の先生になるという自分の夢を実現させるための 「やる気」 にあふれた、
とても勉強熱心な生徒なのです。
しかしそれは音大という特殊な環境の中での
「上を目指す」 という意味での 「やる気」 とは方向性がズれています。
つまり、本人がこれをやりたいという 「(主観的) やる気」 と、
経験ある人がその人を見てこの人にはこういう才能があると判断したことに対して、
本人がそれに挑戦してみるかどうかという 「(客観的) やる気」 がズレている場合があり、
本来一番向いていると思われる方向に導いてあげること、
それが 『のだめカンタービレ』 で言うところの 「やる気を出させる」 ということなのです。
これは意地悪な言い方をするならば、
「パターナリズム」 にほかなりません。
よけいなお世話というか、本人の選択の自由の侵害にもなりかねません。
実際にのだめは当初みんなからのパターナリズムに対して極端な拒否反応を示し続けていました。
それは当然と言えばあまりにも当然と言えるでしょう。
では、こうしたパターナリズムは決してやってはならないことなのでしょうか?
音大ほど特殊な大学でなくとも、福大なんかでも似たような思いを抱くことがあります。
やはりうちの学類は教員を目指して入学してくる学生が多いのですが、
この子は絶対に教員になったらいい先生になるだろうなあと思われる学生が、
わりと早い段階で、あるいは教育実習を終えた頃に、教職を諦めてしまうケースが多々発生します。
客観的に向いていると思われる学生は、教育に関する知識が豊富で能力も高いのですが、
それだけに自分に課するバーが高くなってしまいます。
それと今の自分とを比較して自分には向いていないと思ってしまうのです。
逆の子はそもそもバーを意識しません。
教師には何が必要かもわかっていませんので、自分の主観的やる気だけで突っ走れるのです。
これには端から見ていて歯がゆい思いを禁じ得ませんが、まあ仕方のないことですね。
まさに 「今のままじゃダメだ。いくら才能があったって、本人がそうあることを望まなければ」 です。
今までの経験でこのミスマッチを修正できたことはほとんどありませんでした。
その意味でも私は 「やる気のない生徒にやる気を出させるほどやる気のある教師じゃない」 のです。
しかし、もしもそれが可能だとしたならば、
本人の長い人生のためにも、正しい方向へ修正してあげることは大事だと思うのです。
それはたんなるパターナリズムではなく、まさに良い意味での高度な 「教育」 ではないでしょうか。
この 「教育」 に必要なのは2つです。
まずは、その人の隠れた真の才能を見抜く観察力。
そして、それを伸ばす方向へと後押しし本人に 「やる気」 を出させる技術。
さて、谷岡先生に話を戻しましょう。
前回引用したセリフの後半部分をもう一度見てみましょう。
「だから、ぼくの教師としてのポリシーから言えば、
野田君がいやがるなら江藤君には渡したくない。
でも最近何かが変わってきた気がするんだ、野田君。
本人は気づいてないかもしれないけど、何かが。
それ見てみたいんだよね、一個人として。」
最初の一文では、谷岡先生はパターナリスティックな教育を嫌っています。
しかし次の文で、彼はのだめの才能、最近の変化を見抜いています。
そして、教育者としてではなく 「一個人として」 という言い方ではありますが、
その正しい方向への成長を応援することを表明しています。
もちろん、一個人として見てみたいと言っているだけなら、
それは教育とは言えないでしょう。
しかし、本当に谷岡先生はただの 「やる気のない教師」 だったのでしょうか。
けっしてそんなことはありません。
先ほど私は、「本人に 『やる気』 を出させる技術」 という言い方をしました。
「本人に 『やる気』 を出させる熱意」(= 「やる気」) ではなく 「技術」 です。
谷岡先生はまさにその 「技術」 を持っていたように思うのです。
のだめは3年間ずーっと幼稚園の先生を目指して勉強していたのですが、
それが 「いわゆる上」 を目指すように変わっていったその出発点はどこだったでしょうか。
それはマンガ、ドラマのわりと始めのほうで、
谷岡先生のレッスンのなかで、のだめと千秋真一とで連弾するよう言われたところからでした。
しかも、谷岡先生は2人に連弾という課題を与えただけで、
自ら連弾の指導をするわけではなく、千秋にのだめの指導をするように命じます。
谷岡先生から直接いろいろ細かい技術的な指導を受けたとしても、
おそらくのだめは言うことを聞かなかっただろうと思いますが、
大好きな千秋先輩の言うことだから一生懸命ついていったのです。
もちろんこれですぐにのだめは上を目指すようになったわけではありませんが、
ストーリーのなかの要所要所で、のだめは外からイヤイヤ強制されるのではなく、
自らの自由意志で演奏技術の向上を目指すようになっていきます。
パターナリズムを強制されてしまうと人はそれに反発してしまうものですが、
自分の意志でその本来進むべき道を選択できるように上手に導かれるならば、
ゆっくりと時間をかけてではありますが、人は正しい道へと修正されることができるのです。
それこそが高度な教育の技術だと言えるでしょう。
谷岡先生はまさにそういう技術をもった優れた教員だったのです。
「野田君、最近何かが変わってきた気がするんだ」 というその最初のきっかけを作ったのは、
谷岡先生自身にほかならなかったのです。
しかも、その連弾は実はのだめのためというよりも千秋のためだったことが判明します。
ピアノ科のトップではあるものの煮詰まってしまい壁を越えることができずにいた千秋に、
後輩の指導をさせることによって一皮むけるよう谷岡先生は導いていたのです。
まあ、このへんは作り話ですから、実際の教育技術としてどこまで実践可能かわかりませんが、
教師が直接あれこれと指示したり教えたりするのではなく、
生徒に今必要なものを見抜き、本人が熱心に取り組めるような課題をそのつど適切に与えてあげる、
そういう教育の技術を谷岡先生は示してくれていたのではないでしょうか。
現代の教育界においては、ハリセン型の熱血教師よりも、
谷岡先生のようなファシリテーター型の教師のほうが求められているように思います。
つまり、本人の主観的やる気をうまく利用しながら、本人が気づいていない客観的才能を育み、
いつの間にか客観的やる気を引き出してしまうような理想の教師です。
したがって私に言わせると谷岡先生は、
「やる気のない生徒にやる気を出させるような高度な技術をもった教師」 ということになるのです。
谷岡先生のスゴさ、素晴らしさをご理解いただけたでしょうか?
4日間にわたりご清聴ありがとうございました。