まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

文化を生みだし、文化を使って生きていく動物

2020-05-26 14:12:18 | キャリア形成論
さて、本能が壊れたままでは人類は生き残っていくことができません。
ではどうしたのでしょうか?
本能が壊れてしまった代わりに、
人間は本能の代替物として 「文化」 を自ら生み出しました。
ここで言う 「文化」 は文化人類学で言う文化なので、一番広い意味の文化です。
文化人類学では 「文化」 のことを 「非遺伝的適応能力」 と定義しています。
本能が遺伝によって親から子へと伝えられるのに比して、
文化は遺伝によって伝えられるものではありません。
文化はDNAとは関係なく、人間が環境に適応するために、
脳を使って自分たちで生み出した生きるための力なのです。
人間が産まれたときに遺伝によって受け継いでいたこの身体以外の、
産まれたあとに人類が自ら作り出したものはすべて文化です。
机や鉛筆や衣服など私たちの身の回りにある有形のモノ (=道具) はすべて文化ですし、
言語や貨幣や国家や学校などの無形の制度もすべて文化です。
人間は 「本能の壊れた動物」 であるがゆえに 「文化的動物」 となりました。
「文化的動物」 というのはちょっとわかりにくいのでもう少し詳しく言うと、
人間は 「文化を生みだし、文化を使って生きていく動物」 なのです。

文化には本能とは異なる2つの大きな特徴があります。
まず文化はセミの生殖能力などとは異なり、
遺伝によって親から子へと与えられていないので、
産まれたあとに後天的に習得 (親の側からすると伝達) しなければなりません。
これには膨大な時間がかかります。
靴の履き方、ボタンの留め方、箸の持ち方からはじまって、
電話の使い方からパソコンの使い方に至るまで、
すべて産まれたあとに習得した技術です。
産まれたときに最初からできたことなんて何一つなくて、
すべてひとつひとつ親や先生やいろいろな人から教わって身に付けたはずです。
今使っている言語のすべての単語も全部産まれたあとに覚えました。
皆さんがどれだけの単語を知っているか知りませんが、
すべてをリセットしてイチからまた覚え直すとなったら、
どけだけ時間がかかると思いますか。
それだけの時間をかけてひとつひとつ順番に覚えてきたのです。
セミはミンミン鳴くのに音楽学校に通って鳴き方を習ったりしませんし、
クモもクモの巣を作るのに建築科で学んだり工務店で修行したりしません。
遺伝によって自然とできてしまいます。
人間の場合はすべてが後天的学習ですから、
修得までにものすごく長い時間が必要になります。

文化のもうひとつの特徴は、自由で無限の可能性をもっているということです。
私たち人間は、クモみたいに巣を作る本能を遺伝によって賦与されていません。
だから放っておくと人間は誰も巣を作ることはできません。
大部分の人間は一生、自分で巣を作ることはしないし、作り方も知らないままでしょう。
しかし人間はその代わりに、「家」 という文化を作りました。
これは本能ではなく文化なので、遺伝によって決定されていません。
クモは自分の身体から出る糸を使って勝手にクモの巣を作ることができますが、
しかし、ああいう素材でああいう形でああいう色のクモの巣しか作れません。
人間は本能によって自然に自分の住処を作ることはできませんが、
しかし人間が文化として後天的に作り出した家は、
横穴式住居であったり、竪穴式住居であったり、高床式住居であったり、
果てはタワーマンションまで、
いろいろな形、色、大きさの家を作ることができます。
本能が壊れている代わりに、人間には自由という無限の可能性が開かれているのです。
言葉も道具も制度も倫理も、すべては文化です。
人間が自分で自由に生み出したものです。
だから、人間の言葉も衣服もすべてのものが、ものすごい多様性に富んでいるのです。
逆に言うと、自由で無限の可能性があるからこそ、
先ほど述べた習得と伝達に関してはよけいに時間がかかるということになります。

以上が、本能の代替物としての文化の特徴になります。
皆さんは18年以上かけて数多くの文化を学んできましたが、
さらに4年かけてより高度な文化を学ぼうとしています。
人間発達文化学類には7つのコースがあって、
それぞれでまったく異なる高度な文化が伝達されます。
しかも大学を卒業したら文化の習得は終わりではなく、
現代は生涯学習の時代と言われていて、
社会に出てからも一生涯、文化の習得は続いていきます。
したがって教育という仕事は学校の先生の専売特許ではなく、
社会のどんな職場においても教育という仕事は必要とされています。
人間が本能の壊れた動物である以上、
教育という仕事が人間の社会からなくなることは絶対にないのです。
皆さんにはこの人間発達文化学類で、高度な文化を学ぶと同時に、
その文化を伝える力 (広い意味での 「教育」 を担う力)
も身に付けていただきたいと思います。
人間は文化を習得・伝達することによって発達していきます。
そういう人間の発達を支援する力を育成するのが、
この人間発達文化学類なのです。
長ったらしい名前ですが、その名前には、
人間の根本特徴にも遡る深い意味が込められていたのです。
ぜひこの4年間で高度な文化とそれを伝達する力を身に付けてください。

本能の壊れた動物

2020-05-25 15:13:23 | キャリア形成論
「本能が壊れている」 というのは 「本能がない」 という意味ではありません。
本能はあるのですが、それが他の動物のように、
きちんと本来の自然目的と結びついていないのです。
例えば、生存にとって好ましくないものから離れよう、
排除しようとする生存本能を人間は持っています。
ものすごく熱いヤカンに触れてしまったりしたら反射的に 「アチッ」 と手を引っ込めます。
身体にとって有毒なものを摂取してしまったら嘔吐したり下痢したりすることによって、
体外に排出しようとします。
これは本能でやっていることです。
しかし人間は、人生のなかのイヤなことから逃れようとして自殺してしまうことがあります。
生きる上でイヤなことから逃れようとするのは生存本能がある証拠ですが、
それで自殺なんかしてしまったら生存という本来の目的が達成できません。
生存本能が壊れているというのは、本能があることはあるのだけれど、
それが生きるという本来の目的にしっかりと結びつけられていない、ということなのです。
そもそも生存本能が人類にきちんと本能としてそなわっていたら、
誰も自殺なんてしなかったでしょう。

もっとわかりやすいのは性本能です。
他の動物の場合、性本能は生殖 (つまり子どもをつくる) という自然目的と
ちゃんと結びついています。
人間にも性欲という形で性本能がそなわっていますが、
しかし、人間の性本能は壊れてしまっているので、
性欲が生殖のための行動へとまっすぐ向かっていきません。

他の動物はほとんどの場合、繁殖期と呼ばれる妊娠可能な時期にしか性行為を行いません。
メスの排卵日以外に性交しても妊娠する可能性は低いので、
子どもをつくることが目的であるならば、そんな時期に性交するのは無意味です。
ところが人間は、排卵日とかとはまったく関係なく、いつでも性交可能だし、
実際に妊娠の可能性がまったくないときにも性交してしまうのです。
動物から見ると、なんとムダなことをしているのだと見えることでしょう。
しかし人間の性本能は壊れていますから、
そもそも子どもをつくるためだけに性行為を行っているのではないのです。

それどころか人間は避妊をします。
皆さんが、自分で働いて一人前に稼いで生きていけるようになる前にセックスするときは、
必ず避妊をしなければなりませんが、
しかし、これも動物の目から見てみると、避妊をして性行為を行うというのは、
まったくわけがわからないということになるでしょう。
子どもができないように気をつけながら子どもをつくる行為をしているのですから。
それぐらいなら最初からやらなければいいのに、
でも人間は避妊をしてでも性行為をしたいというくらい、
性本能 (つまり性欲) がおかしくなってしまっているのです。

人間のなかには同性愛の人たちもいます。
同性どうしで性行為をしても当然のことながら子どもはできません。
人間の性本能が動物のように生殖目的に限定されているならば、
同性どうしで愛し合うということは生じてこなかったでしょう。
しかし、人間の場合は性本能が生殖目的に限定されていませんので、
同性愛という、他の動物にはない、人間独特の性文化を生み出しました。

同性愛で驚いていてはいけません。
人間は自分ひとりで性行為をすることができます。
オナニーというのは性交ではないかもしれませんが、れっきとした性行為です。
人間はそれをひとりでしてしまうのです。
どんなにがんばっても絶対に子どもはできません。
でもしてしまいます。
それくらい人間の性本能は生殖から切り離されてしまっているのです。

いかがでしょうか。
「本能が壊れている」 ということの意味がわかっていただけたでしょうか。
本能がないのではなく、あるのだけれど本来の自然目的ときちんと結びついていない、
というのが 「本能が壊れている」 ということの意味なのです。
しかし、本能が壊れてしまっていたら人類は生き残っていけません。
動物なのに動くことができず自分でエサを捕ることができない赤ちゃんは、
放っておかれたら全滅してしまいます。
よく母性本能という言い方をしますが、
母親は出産したらたいてい母乳が出るようになって、
それはたしかに本能的にそなわっている能力ではありますが、
しかし産んだ赤ちゃんに母乳をあげるという本能がそなわっているわけではありません。
赤ちゃんの泣き声を聞くと自然と母乳をあげたくなってしまう、
というわけではないのです。
だからたいていのお母さんは自分の赤ちゃんに母乳 (または粉ミルク) を与えますが、
中にはそういうことをまったくしないお母さんもいますし、
逆に乳母といって、自分の赤ちゃんじゃない子どもに母乳を与える女性もいるわけです。
親が子どもを育てるという本能も壊れているのだとしたら、
人間はどうやって生き延びていくのでしょうか。
それが次の話です。

人間早産仮説

2020-05-23 13:28:05 | キャリア形成論
「人間は本能の壊れた動物である」という私の大好きなネタがあるわけですが、
その元には「人間早産仮説(生理的早産説)」という理論があります。
あくまでも仮説であって真偽のほどは定かではないのですが、
この話けっこう好きで、講演やら授業やらあちこちで話しまくっています。
今回、新型コロナウィルスの影響ですべての授業を遠隔でやらなきゃいけなくなって、
ブログのどこかに書いてなかったかなあと思って探してみたんですが、
どこにも見当たらなかったのでここに書き下ろしておきます。

人間早産仮説の前にサルから人間への進化の話を書いておかなくてはなりません。
サルは森の中、樹の上で生活するのに適したように進化を遂げてきました。
森の中、樹の上はサルにとってパラダイスです。
木の実や木の芽など食料はいくらでもありますし、
天敵は樹の上までやってきません。
森の中、樹の上で生活している限り、サルはずっとサルのままでいたことでしょう。
しかし氷河期がやってきて、森がどんどん失われていくと、
サルは森から出て狩りをしなくてはいけなくなりました。
それはまさにサルにとって存続の危機でした。
サルは狩りに適した進化を遂げていなかったので、
遺伝により生まれ持って与えられた身体能力だけでは狩りがうまくできないのです。
普通はそうした場合絶滅してしまうわけですが、
彼らは身体能力を補うために道具を使い、集団行動するために言語を発達させました。
それによって絶滅の危機を逃れたわけで、
しかも道具や言語を用いることによって脳が異様に発達していきました。
こうして森から出たサルは脳の発達によって人間へと進化を遂げ(サルから枝分かれし)、
高度な知能を手に入れ、地球上で最も優れた動物として君臨することになります。
ここまでは何となく皆さん聞いたことがあるでしょう。
本当はここに二足歩行の話とかも絡んでいるし、
ニワトリが先か卵が先か(道具・言語の使用が先か脳の発達が先か)の問題もあって、
もうちょっと詳しい説明が必要なんですが、それは置いておきましょう。

ここまでは人間にとって万々歳のバラ色のお話に聞こえるかもしれませんが、
実は脳が発達するというのはいいことばかりでなくて、困った問題をもたらします。
脳は頭蓋骨によって守られています。
脳が大きくなるということは頭が大きくなるということです。
頭が大きくなって困るのは出産のときです。
他の身体の部分は柔らかいので何とかなるのですが、
頭は頭蓋骨があるのでそのままの大きさで産道を通らなければなりません。
頭が大きくなりすぎると出産のときに母親の産道が破裂してしまうのです。

実は人間の出産をめぐっては大きな謎がありました。
人間の赤ちゃんは他の動物の赤ちゃんに比べて、
産まれてきたときなんであんなに何もできないのだろうという謎です。
他の動物は、例えば魚やイカ等だったら産まれた瞬間に泳ぎ回りますし、
哺乳類だって産まれた瞬間に4本脚で立ち上がります。
それに対して人間の赤ちゃんは立ち上がるどころか這うことすらできません。
その状態が何ヶ月も続きますし、立ち上がって歩くには1年以上の時間が必要です。
オギャーオギャー泣くだけでまったく動くことのできない動物なんて、
他の動物のいい餌食です。
なぜ人間の赤ちゃんは動物としてあんなにも無能な状態で産まれてくるのでしょうか?

これを説明するために考え出されたのが「人間早産仮説」です。
頭(=脳)は大きく育ってもらいたいけれど、
大きくなりすぎて母親が1人めを出産すると同時に亡くなってしまっては困る。
それを回避するために人間は他の動物に比べて早く産まれてきているのではないか。
他の動物のように産まれた瞬間に動き回れるようになるためには、
本当はあと1年くらい母親のお腹の中で成長していなければならないのだが、
そんなにいたら確実に産道が破裂してしまう。
だから人間は赤ちゃんが完全に成長しきらないうちに産むようになり(=生理的早産)、
そのために人間の赤ちゃんはあんなにも無能のまま産まれてきているのではないか。
それが人間早産仮説です。

この人間早産仮説に基づいて20世紀の半ばくらいから唱えられるようになったのが、
「人間は本能の壊れた動物である」という理論です。
人間の赤ちゃんはみな早産で、
本能がきちんと出来上がる前に産まれてきてしまっているために、
人間はみな本能が壊れているのだ、というのです。
私は大学生のときにこの理論を知ったのですが、
初めて読んだときはものすごくショックを受けました。
私も当時は人間は地球上で最も高等な動物だと信じていましたから。
しかし、読めば読むほど、考えれば考えるほど、
たしかにその通りだなと納得せざるをえませんでした。
本能が壊れているというのは、本能がないということではありません。
本能はいちおうあるのだけれど、それがきちんと自然の目的と結びついていない、
というのが「本能が壊れている」ということの意味です。
それについては次のブログをお読みください。
とりあえず「森から出たサル」から「本能の壊れた動物」までのところは以上です。

告知しますかしませんか?

2020-05-21 16:21:55 | 看護学校「哲学」
第7回・第8回のときに私の父が死んだときのことを読んでもらいましたが、
その父は亡くなる3年くらい前に食道ガンにかかりました。
その診断を聞いたのはうちの母ひとりでした。
そのとき担当医に 「告知しますかしませんか?」 と聞かれ、
母は、父がその事実を受け止めきれないだろうと判断し、
その場で告知しないという決断を下したのでした。
私たち兄弟はそのことをあとから既決事項として伝えられました。
それぞれ思うところはあったようですが、
一番長くいっしょにいる母の決断だからということでそれを受け入れました。

その後父は、食道の摘出手術をしたあと、抗ガン剤による治療を受け、
入退院を繰り返したあと、けっきょく肺に転移して、3年ほどの闘病生活ののち亡くなりました。
その間ずっと、父は自分がガンであることを知らされないままでした。
抗ガン剤治療も行っているわけですから、髪の毛も抜けていきますし、
自分でもガンではないかと疑っていて、
何度も私たちに 「オレはガンじゃないのか」 と聞いてきましたが、
その度に私たちはうまく言い逃れて最期までガンであることを隠し続けました。

その経験から私が学んだのは次のことです。
そもそも最初に医師から 「告知しますかしませんか」 と聞かれたわけですが、
「告知する」 の反対語は 「告知しない」 ではないのではないかということでした。
「告知しない」 というとなにか、何もしなくていいように聞こえますが、
けっしてそんなことはありません。
本人は何らかの症状があって病院に行ったのですから、
その症状に対して何かしら原因を告げてあげなくてはなりませんし、
手術その他の治療についても、
何のためのどういう治療なのかを説明してあげなければなりません。
ガンであることを告知しないということは、
それらひとつひとつに関してウソをつかなければならないのです。
したがって、「告知する」 の反対語はたんに 「告知しない」 ではなく、
実態は 「ウソをつく」 であるということになるでしょう。

いや、それだけではまだ十分ではありません。
「ウソをつく」 というと一度かぎりウソをつけばいいように聞こえます。
しかし、ガンの闘病生活は何年もかかります。
その間、病状はどんどん変化し、また別の手術をしたりさまざまな治療をしなくてはなりません。
その度にまた新たにウソをつかなければならないのです。
それに入院していると、たくさんの方々がお見舞いに来てくれます。
それほど近しい人でなければ問題ないですが、
けっこう親しい人には事実を告げた上で、ウソに協力してもらわなければなりません。
もちろん医療関係者もどんどん担当者が変わっていきますから、
そのつど全員を巻き込んでウソに加担してもらう必要があります。
そのなかで少しでもミスがあって本人にウソがバレてしまったら、
本人の落ち込みと、まわりの者に対する不信感は計り知れないものになるでしょう。
だからウソをつくのであれば、絶対にバレないようにウソをつき続けなければならないのです。
つまり、「告知する」 の反対語はたんに 「ウソをつく」 でもなく、
「関係者全員で最期まで絶対にバレないようにウソをつき続けること」 だと言うべきでしょう。

だからただちに、告知しないのは悪いことだと言いたいわけではありません。
ただ、家族に選択を迫るときに、「告知しますかしませんか」 ではなく、
「告知しない」 ということが実際にはどういうことであるかを、
きちんと家族に説明してほしいと思うのです。
告知したときにそのあとどんな大変なことが待っているかはだいたい想像つきます。
しかし、告知しないというのがどれほど大変なことかは、
実際に体験してみないことにはよくわからないものです。
「告知しない」 とは、
「関係者全員で最期まで絶対にバレないようにウソをつき続けること」 であるということを、
ちゃんとわかったうえで、覚悟の上でそれを選択するということはありえるでしょう。
逆に言うと、「告知しない」 というのは相当の覚悟がないとやりきれない、
難しく厳しい選択肢なのです。
そういうことをわかっておいたうえで、
万一の場合にどうするか、家族で判断する必要があると思います。
できればみんなが元気なうちに
こういうことをお互いに話し合っておくほうがいいでしょう。

理想の死に方

2020-05-21 16:01:26 | 看護学校「哲学」
看護学校の第11回目・第12回めの授業では、

最初に自分の「理想の死に方」について考えてもらいました。

自分は最期どんなふうに死にたいのか、というのも死生観のひとつです。

しかも、人生の最期をどう迎えるかということですから、

これは人生全体の質に関わってくる問題です。

もちろんこれも人それぞれで、誰がどんな死に方を望もうとまったく自由です。

自分のと比べて相手のはおかしいなどと思う必要はありませんし、

ましてや相手に向かってそれを言う必要もないことです。

みんなはどんな死に方を望んでいたでしょうか?


さて、しかしながらこれはあくまでも理想であり希望であって、

その通りになるとは限りません。

いつ交通事故にあうかわからないですし、

事件に巻き込まれるなんていうこともあるかもしれません。

大きな災害だってまたやってくるかもしれないでしょう。

今回のように今まで存在しなかったような病気が突然大流行して、

それにかかって亡くなってしまうなんて誰が想像していたでしょうか。

そうなったときには理想もへったくれもなくて、

まったく自分ではコントロールできなくなってしまったりするのです。


それでは次のケースを考えてもらいましょう。

不治の病にかかっている場合に、それを告知してもらいたいか、

告知されたくないかという問題です。

最初の問いの答えで、告知されてあらかじめ死が近づいているのが

わかっているほうがいいと答えた人にとっては、

同じ答えを書くことになるかもしれませんが、

たぶんそういう人はそれほどいないだろうと思うので、

もしもそういう病にかかってしまっていた場合に、

告知されたいかされたくないか考えてみてください。

安楽死に関する重大な注意!

2020-05-21 15:40:41 | 看護学校「哲学」
看護学校第9回目・第10回目の授業では、

「死なせてあげるべきか?」という問題を考えてもらいました。

ひとつだけ補足しておきます。

安楽死というのは積極的安楽死であれ、消極的安楽死であれ、

相手のためを思ってやってあげることですが、

一度それをやってしまったら相手は死んでしまいますので、

絶対に取り返しがつきません。

ですので、実際にやる場合には、相手が本当の本当にそれを望んでいるのか、

他に何かいい別の治療手段や苦痛除去の手段はないのか等、

慎重に慎重を重ねて、多くの関係者でじっくり検討し、

病院の倫理委員会でも十分審議をしてもらった上で行うことです。

1人の医療者のその場の判断でやっていいようなこととはまったく違います。

しかし、看護師というのは患者さんやそのご家族の一番近くにいて、

ふだんからその悩みや苦しみや望みを聞く立場です。

その立場で、もうこの患者さんにはこうしてあげるしかないと感じたとしても、

お医者さんや病院の側が上記のようにいつまでもじっくり検討していて、

なかなか結論を出してくれないなんていうことがあったときに、

私がやってあげなきゃという気持ちになるかもしれません。

しかし、これだけは絶対に覚えておいてください。

看護師は絶対に安楽死を行ってはならない!

ということを。

安楽死を行う場合はチームや病院全体で判断し、

実際にそれを行うのは医師でなければなりません。

どんなことがあっても絶対にあなたは手を下してはいけないのです。

これだけは絶対に忘れずにいてください。

日本の臓器移植法

2020-05-07 05:02:37 | 看護学校「哲学」
日本の臓器移植法の骨子

①改正前臓器移植法 (1997年) の骨子
 イ.医師は死体(脳死した人の身体を含む)から移植のために臓器を摘出できる。
 ロ.脳死した者の身体とは、移植のために臓器が摘出される予定で、
   全脳の機能が不可逆的に停止したと判断された人の身体をいう。
 ハ.脳死で臓器を摘出する場合の脳死判定は、
   本人が生前に書面で脳死と判定されたら死者として扱われることに同意しており、
   家族が判定を拒まない場合に限って行える。
 ニ.脳死の判定はこれを的確に行うために必要な知識、経験を有する
   2人以上の医師の行う判断の一致による。
   (摘出医、移植医は除く。竹内基準による。)
 ホ.脳死で臓器摘出ができるのは、
   死者が生前に書面で臓器を提供する意思を表示しており、
   遺族が摘出を拒まない場合に限る。
 ヘ.心臓停止後に腎臓又は角膜を摘出する場合は従来どおり、
   本人の提供意思が不明でも、遺族の同意で摘出できる。     
 ト.脳死した者の身体への処置の費用は当分の間、保険給付の対象とする。
 チ.臓器提供は15歳以上の者のみ可能とする。

②改正後臓器移植法 (2010年) の骨子
 イ.脳死は一律に人の死。
 ロ.本人の書面による意思表示がない場合、家族の同意のみで脳死者から臓器提供できる。
    (15歳未満の者からも、家族の同意があれば臓器提供できる。)
 ハ.本人の書面による意思表示があれば、近親者への選択的臓器提供ができる。

脳死とは何か?

2020-05-07 04:40:37 | 看護学校「哲学」
脳死と植物状態の違いについては理解してもらえたと思います。
脳死については「少なくとも脳幹が機能していない」、
「自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要」と書いたわけですが、
残念ながらあれは脳死の定義ではありません。
あくまでも植物状態との違いは何かという説明でしかありませんでした。
もうお気づきの人もいると思いますが、
「少なくとも」というビミョーな言い回しを用いていました。
あの言葉には重要な意味が込められていたのです。
それはどういうことかというと、
現在までのところ世界で「脳死」に関して統一的な見解はなく、
いくつかの争点をめぐって意見が割れていて、
それにしたがって複数の定義が存在しているのです。

まずは、脳死をめぐる争点ですが、これには2つあります。

1.脳幹死 (脳幹さえ死ねば脳死)か、全脳死 (脳幹も大脳も含めて全脳の死が脳死)か?

2.機能死 (脳の機能の不可逆的停止)か、器質死 (脳の細胞レベルでの死)か?

1は脳の部位に関する争点です。
植物状態との違いを重視して、脳幹さえ死ねば脳死だと考えるのが「脳幹死」の立場であり、
「脳死」と言う以上は脳幹だけでなくすべての脳を含めるべきだというのが「全脳死」の立場です。
2は脳死判定基準にも関わって、何をもって「死」と呼ぶべきかという争点です。
脳の機能(=働き)が止まることを「死」と呼ぶというのが「機能死」の立場であり、
脳という臓器が細胞レベルで死んでしまうことを「死」とするというのが「器質死」の立場です。
前者(=機能死)の場合、ただたんに脳の機能が止まっただけでは、
一時的(=可逆的)停止にすぎないかもしれないので、
(病気や麻酔等により脳の機能が一時停止することはいくらでもある)
例の「不可逆的」という形容詞を付して「脳の機能の不可逆的停止」を脳の死としています。
後者(=器質死)に関しては、脳死になった患者さんの頭をあとで解剖してみると、
脳がサラサラに溶けてしまっているケースが見られるので、
それが機能死(=脳の機能の不可逆的停止)の原因にもなっているはずで、
そちらの根本原因のほうこそが「死」という名にふさわしいと考えています。

このように2つの争点をめぐってそれぞれ2つの立場があるので、
組み合わせると4つの定義が出てくる可能性があるわけですが、
現在、世界中に存在する定義はそのうち以下の3つとなります。

A.脳幹の機能死   ex.イギリス

B.全脳の機能死   ex.日本やアメリカをはじめとして多くの国々

C.全脳の器質死   ex.ロシア、スウェーデン等

このように脳死の定義は世界でひとつに定まっておらず、
国によってバラバラなのです。
定義が違うことによって脳死の判定基準(=判定方法)も変わってきます。
つまり、脳死の判定方法も世界で統一されていないのです。
3つのうち上のほうが判定が簡便にでき、
下になるにつれて検査項目が増えてきます。
同じ状態の患者さんが国によって「脳死」と判定されたり、
まだ「脳死」ではないと判定されたりするということが起こりうるわけです。
今回はどの定義が「脳死」としてふさわしいかも考えてもらいますが、
国家試験に向けては、世界にいろいろな定義や判定方法がある、
なんていうことは覚えなくてもいいので、
日本の定義と判定基準だけ覚えておけばOKです。

日本における脳死の定義は「B.全脳の機能死」を採用していて、
正確には、「脳幹を含む全脳の不可逆的な機能停止」と定義されています。
これをどうやって判定するかという判定基準としては、
1985年に策定された「厚生省基準(竹内基準)」が現在でも使われています。

 イ.深昏睡
 ロ.自発呼吸の停止
 ハ.瞳孔散大
 ニ.脳幹反射の消失 (対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射)
 ホ.平坦脳波
 ヘ.イ~ホの確認後6時間以上経過後に再検査

イは「従来の人の死」で言う「動かない、話さない」が徹底した状態で、
叩こうが階段から突き落とそうがまったく反応しない状態です。
(それで痛がったりしたら完全に生きているわけですが…)
ロとハは心臓死の三徴候のうちの2つですね。
ロの代わりに人工呼吸器につながれていて、
そのために心拍は維持されているわけです。
ニによって脳幹の機能が消失していることを確認しています。
「A.脳幹の機能死」の定義であれば、ここまでの検査でいいのですが、
日本は「B.全脳の機能の不可逆的停止」の定義を採用しているので、
脳幹だけではなく大脳の機能の停止も確認しなければならないので、
ホの検査を行います。
こうして全脳の機能の停止を確認したわけですが、
これで脳死判定は終わりではありません。
なぜならイからホまですべて満たしたとしても、
それはまだ「可逆的」(=一時的)停止にすぎないかもしれないからです。
実際にイからホまですべて満たしたとしてもそこから回復してくる患者さんはいます。
回復するのであれば「死」ではないので、
これが「不可逆的停止」であることを確認するにはどうすればいいのでしょうか。
時間をおいて再検査します。
イ~ホで終わりでなく、ヘがあるのはそのためです。
何時間後に再検査するかはこれも国によってまちまちですが、
日本では6時間以上経過後に再検査となっています。
(これは世界最短。だいたい12時間後や24時間後が一般的)

時間をおいての再検査によって「不可逆的」な機能停止であることを証明できるのか、
これが先に書いた争点2の重要なポイントにもなっています。
国によっておく時間が違っていることからもわかるように、
6時間後に再検査して機能が戻っていなかったとしても、
ひょっとすると8時間後には戻ってきているかもしれません。
24時間後に戻っていなくても24時間30分後に戻ってくるかもしれません。
どれだけ長い時間を設定したとしても、
その後に戻ってくるという可能性を排除しきれないので、
「機能死」の立場を採る限り「不可逆性」を証明することはできないのではないか、
それゆえ、不可逆的機能停止を判断するためにも、
その原因である脳の細胞レベルでの死を確認すべきだというのが「器質死」の立場です。
これを判定するために脳血流の停止や脳代謝の停止を判定基準に加え、
PETなどの機材を用いて脳細胞が活動しているかどうかを検査しています。

さて、このあと脳死は人の死かどうかを考えてもらうわけですが、
その前に脳死とは何かという定義のところで、
脳死には3種類の定義があるということになってしまいました。
A~Cどの定義を選ぶのかということも含めて、
脳死は人の死なのかどうか考えてみてください。
ヒントとしては、自分だったらと考えずに、
自分の家族の死の判定だったらどれを選ぶかという観点に立つといいと思います。
それから、やはり脳死は人の死ではなく、心臓死のみしか認められない、
という考え方も当然ありだと思いますが、
その場合には脳死臓器移植は完全にできなくなる、
(生きている人から臓器を摘出して死なせたら殺人罪に問われる)
ということも念頭に置いた上で考えてみてください。

脳死と植物状態の違い

2020-05-07 01:12:54 | 看護学校「哲学」
植物状態と脳死の違いを簡単にまとめると以下のようになります。

 植物状態‥‥脳幹は機能している
       ∴自発呼吸がある

 脳  死‥‥少なくとも脳幹が機能していない
       ∴自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要

ざっくり言うと、脳のなかの脳幹と呼ばれる部分が機能しているかいないか、
というのが大きなちがいです。
脳幹は、人間が無意識的にできることを司っている部位です。
呼吸とか、心拍とか、消化とか、ホルモン分泌とか、新陳代謝とか…。
つまり、人間が寝ているときにもできることをコントロールしているのが脳幹です。
植物状態の場合、動いたり話したりができず意識活動がないとはいえ、
脳幹がまだ機能していますので、上記のようなことはできるわけです。
植物状態というのは、要するに寝たきりの状態であり、
植物が動かないし話さないけれど呼吸はして生きているのと同様、
自分で呼吸をしているし心拍もあり、ちゃんと生きているわけです。
これに対して脳死は、この脳幹部分も働いていません。
したがって呼吸その他ができないわけで、だから人工呼吸器に繋がれているわけです。

脳死というのは人工呼吸器というものが開発されたことによって初めて生じました。
人工呼吸器が普及したのが1950年代ですから、
それ以前には人類20万年の歴史において脳死なんてまったく存在しなかったわけです。
それまでは自発呼吸の停止に至った人はいずれ間もなく心臓も停止して、
死亡(=心臓死)してしまうのが当たり前でした。
マウス・トゥ・マウスによる人工呼吸という方法が開発されて、
しばらくの間、酸素を供給してあげられるようになりましたし、
その間に治療を施すことによって回復するという人も増えてきましたが、
そんなにいつまでもマウス・トゥ・マウスは続けられず限界があります。
人工呼吸器はその問題を解消する素晴らしい発明だったのです。
これが開発され普及したことによって、
それまで救えなかった多くの患者さんを救うことができるようになりました。
その点は医学と医療技術の大勝利だったと言うことができるでしょう。

しかしながら人工呼吸器も万能ではないので、
すべての患者さんを助けられるわけではありません。
人工呼吸器を用いた治療を施してもあいかわらず助けることはできず、
失われていた命はありました。
それは仕方のないことです。
ただ、それとは別に新しい問題も生まれてきました。
回復するわけでもなく、といってすぐに死亡(=心停止)してしまうわけでもない、
中間状態の患者さんが新たに生み出されることになったのです。

最初に書いたとおり、脳幹は心拍も司っているので、
ふだんは、運動したり緊張したときに心拍を上げたり、
リラックスしているときに心拍を下げたりというコントロールも脳幹が行っています。
脳幹が機能しなくなれば、自発呼吸が失われると同時に、
そうした心拍のコントロールもできなくなってしまいます。
なので脳幹が機能しなくなれば心臓も停止してしまってもおかしくないはずなのですが、
しかしながら心臓には、いざというときのためにバックアップ機能が備わっており、
万一の場合に脳幹から指令が来なくなっても、自動で拍動できるようになっています。
この自動拍動は酸素をエネルギーとして動いているので、
呼吸が止まればいずれこの心拍も止まってしまうのですが、
酸素が供給されれば心拍は維持されます。
そのために、脳幹が機能しなくなって自発呼吸が失われ、
人工呼吸器につながれて、その間に様々な治療を試みたが回復させることはできず、
自発呼吸は戻ってこないまま、しかし心停止に至ってしまうわけでもなく、
人工呼吸器によって酸素が供給され続けているために、
心臓の自動機構によって心拍が維持されるという、
人類がこれまで経験したことがないような新しい中間状態が生み出されました。

こうした状態の患者さんのことを当初は、
「超過昏睡」、「不可逆的昏睡」などと呼んでいました。
「不可逆的」というのは「可逆的」の反対語で、
「可逆的」は逆戻りあり、つまり回復することがありうる一時的な、
という意味の言葉なので、
「不可逆的」は一時的ではなくもうけっして回復することがありえない、
という意味の形容詞になります。
この言葉は脳死のことを考える上でひじょうに重要になってきますので、
これもいっしょにぜひ覚えておいてください。
いずれにしても昏睡状態のなかのすごいやつみたいに命名されていたわけですが、
こういう患者さんの心臓を臓器移植に使いたいという必要性から、
1968年になって「脳死」という概念が生み出されることになりました。
「昏睡」だったら眠っているだけで生きているわけですが、
「脳死」と言い換えれば死者として扱うことが可能になるわけです。
「脳死」という言葉自体が価値判断を含んだ概念だったということがわかるでしょう。

話を戻しましょう。
植物状態と脳死の違いとして、
回復する可能性があるかないかということを挙げる人がよくいますが、
これは不正解です。
脳死の場合はもちろん 「死」 なんですから、
回復の可能性があっては絶対にいけないわけですが、
植物状態のほうも、定義上は 「回復の見込みがないこと」 という文言が含まれています。
ただし、そう書きたくなってしまう気持ちはわからなくもなくて、
よく植物状態の患者さんを取り上げたドキュメンタリー番組などで、
家族や看護師があきらめることなく、
普通の患者と同じように声がけしたりタッチングしたりし続けたことによって、
奇跡的に意識を取り戻したとか、意思の疎通が可能になったとか、
場合によっては歩けるくらいに回復したというような話が取り上げられますので、
植物状態は回復可能なものだと思い込んでしまったのでしょう。
しかし、それは稀なケースですので、植物状態がすべて回復可能だというわけではありませんし、
むしろ厳密な言い方をするならば、回復した人たちは回復してしまったわけですから、
定義上、植物状態ではなかったと言うべきなのだろうと思います。
(植物状態の定義については次回扱います。)
しかしながら、植物状態に関しては回復するかしないかは何とも言えませんので、
定義のなかに 「回復の見込みがない」 ということを含める必要もなければ、
「回復の可能性がある」 と言い切ることもできず、
したがって、脳死とのちがいとして回復可能性を挙げることはできないのです。

なので、脳死と植物状態の違いは脳幹が機能しているか否か、
自発呼吸があるか否かなのだということをよく覚えておいてください。
ただし、これはまだ脳死の定義ではありません。
脳死の定義についてはさらに難しい問題が含まれていて、
実はまだ脳死の定義は世界中でひとつに確定されていません。
これが次のお話になります。

価値判断と事実判断

2020-05-06 17:39:42 | 看護学校「哲学」
先に読んでもらったブログのなかで、脳死状態になったときに延命治療を停止するかどうか、
臓器提供をするかどうかは価値判断の問題であり、
それにどう答えようと正解・不正解があるわけではないと書きました。
それに対して、3問目の脳死とは何か、植物状態との違いは何かという問題は、
事実判断に関する問いであり、これには科学的・医学的な正解があります。
私の「哲学」の授業の中で、今回の問3の問いは唯一、
国家試験に出題される可能性がある問題なので、
知らなかった人はこの機会にちゃんと覚えるようにしてください。

さて、先に考えてもらった「脳死状態になったときに延命治療を停止するかどうか、
臓器提供をするかどうか」という問いはたしかに価値判断ではありますが、
この価値判断は本来、「脳死状態とはどういうものであるのか」という事実判断を踏まえて、
その答えをあらかじめきちんと知っておいた上で初めて考えられるはずの問題です。
脳死のことをきちんと知らずに、
脳死になったときにどうするかを決められるはずないからです。
しかし、皆さんは3番の答えに自信ありますか?
3番にちゃんと答えられた人は、その事実判断に基づいて、
1番や2番の価値判断を下したと言えるでしょう。
しかし、3番の答えを知らずにテキトーに予想で答えた人は、
1番や2番の価値判断を正しく下せていたのでしょうか?

福島大学の「倫理学」という授業では、
もう少しイジワルな質問をしています。
授業の最初に次のような質問をしてみます。
「あなたは脳死臓器移植をよいことだと思いますか、悪いことだと思いますか。
 その理由も書いてください。」
これをけっこう時間を取ってみんなに書いてもらった後で、続いて問2。
「ところで、脳死って何ですか? 植物状態とどう違うのか書いてください。」
とても意地悪です。
問1はよいか悪いかという価値判断を問うています。
福島大学の学生たちはみんなこれにけっこうスラスラと答えてくれます。
理由もたくさん書いてくれます。
ところがその価値判断を下す前にきちんと確定しておくべき 「脳死とは何か」 という、
事実に関わる問いに対しては、ほとんどみんな正しく答えることができません。
つまり、みんな脳死とは何かをよく知らないまま、
「脳死」という言葉の何となくのイメージだけに基づいて、
脳死臓器移植がよいか悪いかという価値判断を下してしまっているのです。

福島大学の「倫理学」の授業では、初期の頃に「倫理学的な考え方」について講義し、
倫理学的な判断というのは事実判断と価値判断の2つから成り立っていて、
一般的にはまず事実判断を確定させてから価値判断をするのが正しい順序であるが、
この順序が逆転してしまう場合もあるので気をつけなければいけない、
という話をしています。
そのことを具体例に即して体感してもらうために、こういう引っかけ問題を出しています。
授業の感想からは、この引っかけにみごとに引っかかってしまったことが、
相当印象に残った様子がうかがわれます。

「脳死臓器移植という重いテーマを用いて、倫理とはどういうものなのかということを考える授業であった。事実判断が不十分なままの価値判断がいかに滑稽であるか、授業内課題で思い知らされた。そして、脳死の概念の誕生による事実判断と価値判断の転換が非常によくわかった。」

「やっぱり脳死という大事で深いテーマだと一回聞いただけでは理解できないところもあったが、日本で臓器移植が他国より進んでいない理由を知ることができたのは大きい学びだと思う。事実判断が重要だと言っていたのが少し理解できた。軽く良いとか悪いとか決められないと思ったから、自分でも事実をもっと知らなければならない。」

「事実判断ができないと価値判断はできないはずなのに、『なんとなく』の価値判断をしてしまう恐ろしさを感じた。人を助けるための脳死臓器移植だが、手段が目的になって臓器移植のために脳死の人をつくるというのは犯罪でしかない。事実判断に必要な情報を持つことが求められると感じた。」

「今日の授業で取り上げられた『脳死』について、授業が進むほどに、私自身は脳死について無知だったと気づき、脳死というものについて正確な知識を身に付けたいと思った。正確な知識を身に付けることこそが、倫理学において、価値判断をする上で必要だと思うので、今後の倫理学の授業が進む上での意欲を駆り立ててくれた。」

「1、2番の課題を書いている時にすでに思っていたが、『脳死』という専門用語をあまり深く知らないのに、価値判断をしていることにとても疑問を感じた。そのようなことが、国会でも行われていたかもしれないと思うと、少し怖いなと思った。」

「事実判断が不十分であったことに気がついた。他の問題などについても、価値判断を下すことは授業課題などで訓練されていたが、事実判断があることが必要なのだと感じた。」

「倫理とは価値判断だけでなく事実判断も必要であるが、価値判断だけでも何かしらの考えが書けてしまうという話を聞いた時、自分の意見がまさにそれであって納得した。脳死臓器移植や植物状態について知らないことばかりなので、事実判断もできるようにしていきたい。」

「『脳死が良いことか悪いことか』という質問には答えることができるのに、『脳死とは何か』という質問には答えにつまって自分でもドキッとした。これからの講義で倫理的な脳死の問題について学んでいくのが楽しみです。」

「事実判断と価値判断の逆転、まんまと先生にだまされたなと思います。日頃気をつけようと心掛けているつもりではいましたが、自然な流れに、何の疑問も持たず書いてしまいました。そのくらい曖昧であり、逆転のリスクは高いのだと改めて感じました。最近の法改正についての報道の『脳死を人の死とする』という見出しや取り上げ方の意味がやっと分かりました。歴史も知らずに価値判断をしていたと思うと、改めておそろしいなと思います。」

「脳死だけでなく、何かの良し悪しを考える時、それがどういうものなのかもあまり考えず、なんとなくで答えを出していることに気づきました。自分の行為がひどく無責任なものに思えてきました。」

さて、看護学校の皆さんはどうだったでしょうか。
きちんと脳死とは何かをわかった上で、
脳死になったときにどうするかという価値判断を下せていたでしょうか。
問3の正解は次に読んでもらうブログのなかに書いてあるので、
各自答え合わせをしてみてください。

自分の場合と家族の場合のズレ

2020-05-06 03:55:20 | 看護学校「哲学」
1.自分もしくは自分の家族が脳死状態になったときに、延命治療(人工呼吸器その他)を停止してもよいと思いますか。その理由も書いてください。
2.自分もしくは自分の家族が脳死状態になったときに、臓器提供してもよいと思いますか。その理由も書いてください。

1番と2番の問いにいっぺんに答えてもらいました。
またそれぞれに関して、自分の場合と家族の場合とに分けて考えてもらいました。
どうだったでしょうか。
なかなか考えるのは難しかったし、
人によっては考えるのが辛いと感じた人もいたかもしれません。
特に自分がそうなった時のことはスラスラ考えられるけど、
家族がそうなったと考えるのは大変だったかもしれません。
家族の場合についてもスラスラと答えられた人というのは、
たぶん、以前に家族でこの問題について話し合ったことがあって、
家族がどうしてもらいたいかを聞いたことがあったのではないでしょうか。
そういう人はわりとスラスラ答えられます。
そうでない場合はそう簡単に答えは出せなかったろうと思います。

まず、この2つの問いはどちらも価値判断を問う問題であり、
しかも個人の自由に委ねられた価値判断なので、
イエス・ノーどちらを書いていたとしても何の問題もありません。
他の人の答えを見てみるといろいろな答え、いろいろな理由があったと思いますが、
どれが正解というわけではなく、いずれもすべてその人にとっては正解です。
なので、それぞれの答えに対して異を唱える必要はなく、
どんな考えであれ、その人はそう考えるのだなと受け入れればいい話です。

次に、自分の場合と家族の場合の答えを比べてみてください。
その両者が同じ答えだったか、それとも異なる答えだったか。
同じ答えであり、理由もほぼ同じであれば、それは首尾一貫した答えです。
自分も延命治療は停止してよいし、家族の場合も停止してよい、
あるいは、自分は臓器提供はしないし、家族も臓器提供はしない等、
イエス・ノーどちらでもいいのですが、自分であれ家族であれ答えが同じなら、
何の問題もありません。

心配なのは自分の場合と家族の場合で答えがズレている人です。
実は日本人の場合、答えが異なる人がけっこう多いのです。
もちろんそれもひとつの価値観なので、答えが異なっていてもいいのですが、
現実問題として自分の意思が尊重されなくなる可能性が高くなるので心配です。
日本人の典型的な答えはこうです。
自分が脳死状態になったときは延命治療は停止してよいし臓器も提供したい、
しかし家族の場合は延命治療は停止したくないし臓器も提供したくない。
こういうふうに答える人がひじょうに多いのです。
自分の場合は、そうまでして延命したいとは思わないし、
使ってもらえるものならばどんどん使ってもらいたい、
しかし、家族の場合は万に一つの可能性にかけて最後まで最善を尽くしたいし、
大事な家族の一部を知らない誰かのために提供するなんて考えたくない、
そういう考え方の日本人がけっこういるのです。

これは家族を大切にする日本人らしい価値観なのでそれはそれでいいのですが、
その家族が全員同じような価値観をもっていて、
みんなこう考えているとするとどうなるでしょうか。
もしも家族の誰かが脳死になってしまった場合、
本人はもう何の意思表示もできなくなっているので、
けっきょく延命治療や臓器提供に関して判断するのは残された家族になります。
すると家族は延命治療を続ける、臓器提供はしないと決めることになります。
この家族は全員、自分だったら延命治療は停止してほしい、臓器は提供したい、
と思っていたにもかかわらず、その希望は誰もかなえてもらえなくなるのです。

こういう弊害を回避するためには、事前に家族で話し合っておく必要があります。
全員が自分の場合、家族の場合でどうしたいか希望を伝え合い、
こちらの思いとみんなの思いがズレている場合に、
どちらを尊重することにするのかじっくり話し合ってみる、
こうして相互に相手の意思を知ることによって、
いざとなったときに自分の思いだけで決めてしまうのでなく、
本人の意思を尊重するという選択肢も生まれてくる可能性が出てくるのです。
そもそも家族が脳死状態に陥ったりしたら、残された者はパニックになり、
冷静に考えることができなくなってしまいます。
そういうときに本人がどうしてほしいと思っていたかを知っているかどうかは、
判断を下す上でひじょうに重要になってきます。
それを知らずに判断を下した場合、それが本当に本人のためになっていたのか、
残された家族は一生悩み続けることになるでしょう。
そうしたことにならないためにも、事前に家族で話し合っておく必要があるのです。
皆さんもぜひこの機会に、この問題について家族で話し合ってみてください。

従来の「人の死」と新しい死の概念

2020-05-06 01:31:20 | 看護学校「哲学」
看護学校「哲学」の第5回目・第6回目の授業では、
「死んだらどうなるのか?」を考えていただきました。
つまり、死んだ後のことから考え始めてもらったわけです。
第7回目・第8回目のテーマは、「人の死とは何か?」です。
今回は、どこからが死なのか、どうなったら死んだことになるのか、
ということを考えてもらいたいと思います。

これはひじょうに新しいテーマです。
前回の「死んだらどうなるのか?」というテーマについては、
人類はもうずっと長いあいだ考え続けてきました。
たぶん有史以前の時代(文字がなかった時代)からずっと考えています。
それに対して「人の死とは何か」なんて、あまりにも当たり前すぎて、
わざわざ悩んで考えるような問題ではありませんでした。
人が生きているか死んでいるかなんて素人にもはっきりわかることで、
ホモ・サピエンスが地球に誕生して以来20万年の間、
(ひょっとするとそれ以前の原人や旧人の頃からずっと)
何が死かについては人類は明確な答えをもっていたのです。
それが揺らいできて「人の死とは何か」が問われるようになったのは、
ほんの50年ほど前のことです。

従来の「人の死」は簡単に見分けることができました。
人は死ねば動かなくなります、話さなくなります。
そしてすぐに白くなり、冷たくなっていきます。
そのまま放っておくと腐敗していき、いずれ白骨だけが残ります。
これらは誰の目にも明らかです。
どの時点で死んだのかということに関しては、
専門家である医師のみが診断できることになっていて、
医師は死の三徴候をもって死の診断を下します。
 1.心停止
 2.呼吸停止
 3.対光反射の消失(瞳孔散大)
これらは専門家ではない人間にとっても常識となっており、
正式な診断は下せないものの、
生きているか死んでいるかを確かめるためには、
素人である私たちもこれらを確認しようとするでしょう。
これが従来の死の概念であり、
これをもって人の死とすることに誰も疑問を感じていませんでした。

しかし、今からほんの52年前の1968年に「脳死」という概念が誕生しました。
それ以前の20万年間まったく必要とされていなかった新しい概念が、
突如として現れてきたのです。
そして、「脳死」と区別するために、
従来の死の概念に対しても新しい名前が与えられることになりました。
「心臓死」という言葉です。
「脳死」の大きな特徴のひとつは、上記の死の三徴候のうち、
1番目が満たされておらず、心停止していません。
つまり、心臓がまだ動いているのです。
心臓が動いていて血流があるために白くもならず、冷たくもなりません。
従来の死とはまったくかけ離れた状態ですが、
これも「脳死」という名の新しい死であるということになり、
それとの違いを強調して、従来の死のことを「心臓死」と呼ぶようになったのです。
こうして「死」は「心臓死」と「脳死」の2種類に分けられることになりました。
ここから人類はそれまでまったく考える必要のなかった新しい問い、
人の死とは何か?
従来通り「心臓死」のみが人の死なのか?
それとも、新たに誕生してきた「脳死」も人の死として認めるべきなのか?
という問いに直面させられることになりました。
今回はこの問題について考えを深めてもらおうと思います。

「脳死」という概念が新たに生み出された背景には、
臓器移植の問題があります。
特に心臓移植を行うためには、動いている心臓を移植する必要があります。
つまり、「心臓死」の人の心臓は移植に利用することができませんが、
「脳死」の人の心臓であれば移植することができるのです。
他の臓器に関しても、「心臓死」の場合に比べて「脳死」のほうが、
血流があるので移植に適した状態が保たれています。
こうして「脳死」と「臓器移植」はセットで論じられるようになりました。
というわけで、まずは脳死臓器移植の問題から考えてもらうことにします。
第1段階としては、臓器移植と切り離して、
脳死を「死」として受け入れ、延命治療を停止してもいいかどうか。
第2段階としては、脳死を「死」として受け入れた上で、
さらに誰かの脳死臓器移植のために、自分ないしは家族の臓器を提供してもよいかどうか。
この2つについて考えてみてください。