まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

父の日の父の自覚

2019-06-16 20:19:55 | そして父になる
子どもが保育園に通っていると、様々なアニバーサリーに、

たぶん本人ではなく、保育園の先生が作ってくださった、

いろいろな作品を頂くことができます。

一昨日の金曜日は私が保育園にお迎えに行ったのですが、

その帰りにこんな物を保育園の先生から渡されました。



父の日のメッセージカードのようなものです。

私はこれを受け取りながら、ああちょうどよかったと思いました。

6月16日の父の日には妻の実家に行って、

みんなでお義父さんの父の日を祝うつもりでおりましたので、

お義父さんへの手土産が増えたと思ったのです。

そのつもりで受け答えしていたら、保育園の先生との会話がスムーズに流れません。

それでしばらくしてから、ああこれは私へのプレゼントだったのだと気づきました。

おおそうかあ、自分が父の日に感謝される立場になっていたのかあ。

いやあ、ビックリしました。

父の日って、ずっと自分とは無関係だったので。

自分の父が存命のときもよく父の日のことをスコーンと忘れて怒られていましたし、

25年くらい前に父が亡くなってからはまったく他人事で、

配偶者のお父さんの父の日の集まりとかには参加させていただいていましたが、

それはもうただ皆さんにお膳立てされた飲み会に、

賑やかし要員として参加していただけだったので、

まさか自分が父の日の当事者になっているとは思っていませんでした。

そう言われてみれば、去年の父の日が自分が父となって初めての父の日だったはずですが、

当時はまだ子どもは保育園に通っていなかったので、

自分も含めて誰も父の日の対象者として私が該当するということに気づいていませんでした。

今年もあのような作品をいただいたわけですが、

別に子ども本人は私のことを 「おとうさん」 と呼んでくれたことはなく、

ましてや 「おとうさん、大好き」 とか 「おとうさん、ありがとう」 なんて言ってくれるどころか、

思ってみたことすらないでしょうから、

本当に保育園という存在がなければ、自分が父の日に、

ああいった物をもらえる対象であることに気づくことすらなかったでしょう。

これは父としての自覚が足りないということなのでしょうか?

まあそうなのかもしれませんが、別に感謝されたいとか、

感謝の念を示してもらいたいと思ってやってるわけではなく、

ただ親としての機能は自分にできる範囲内において果たしているだけですので、

これからもこのぐらいの感覚でやっていきたいと思います。

これから先、子どもが父の日のこととかを理解して、

幼稚園や小学校で無理やり作らされる父の日の記念品を卒業して、

自主的に何かできるような歳になったときに、

父の日のことをコロッと忘れてボーイフレンドと遊び回ったりしていたら、

私はショックを受けたりするようになるのでしょうか?

そんな時にはこのブログを読み返して、

自分も父の日や母の日をコロッと忘れて遊び回っているような人間だったよね、

ということを思い出し、「この親にしてこの子あり」 という真理を嚙みしめよう、

と自分に言い聞かせる今日この頃でした。