昨日広島市議会での「原爆投下責任追及」の話題を書いた。
あれを書いてて、「このテーマは今の僕にとって一番重要な物じゃないのか? 今までいろんな角度で我が国の欠点と思わしきところを考えてきたけど、結局その結論は『いい加減な日本人』という点に行き着き、そうなった原因は先の大戦の事後処理のいい加減さ、戦争責任をこれからでもウヤムヤにしようとする力の存在 じゃないのか。 そしてこんな日本でいいのか?」 そう考えてる自分をはっきり認識するようになってます。
ならばひとつのカテゴリーを作って、そこに特集しようと考えました。 まず「カテゴリー名」で悩みました。「日本人の本質」「日本人の責任意識」「謝れない日本人」「先の大戦と日本人」「ごまかす日本人」等々いろいろ浮かんできました。で、これら全部が込めたつもりで「いい加減な日本人」としました。
新聞をサーっと拾っても、「いい加減」であふれてるじゃないですか。政治の世界は魑魅魍魎、無責任世界で極まってますよね。社会のTOPがいい加減なら、国全体がいい加減になりますよ。NET上で誹謗中傷もひどくて、問題になりつつありますが、これも「社会がいい加減」だからですよ。もっと責任と権限と義務というものが文化として根付けば減少するでしょうね。
ここからは自論ですが、こんな日本になった最大の原因は上にも書いた「先の大戦の事後処理のいい加減さ」だと結論してます。「先の大戦は間違いでした。ごめんなさい。」を宣言してるのやら、してないのやら。そんな「ごまかし」の上に復興日本を乗せてきたのです。白黒はっきりさせなきゃいけない事柄でも、最後は「まぁまぁその辺で決着としませんか」になる。これはもう「日本人の体質」なんだと思います。
こうなると議論しなくなり、白黒線引きできなくなります。全てが「いい加減」で進んで行きます。どうせいい加減な結論で終わるなら、関心も持たなくなります。これは為政者にとっては好都合でしょうから、現状の持続に頭使ってると思いますよ。
「国を憂う」と言うカテゴリーもあり、いろいろ書いてきた。中身によってはどっちに分類する? も多々あるだろうな。まっそんな細かいことは気にせず、書くこと、主張することを重視していこう。 過去の記事もカテゴリー変更するのもが出てくると思います。理解のほどを。
あれを書いてて、「このテーマは今の僕にとって一番重要な物じゃないのか? 今までいろんな角度で我が国の欠点と思わしきところを考えてきたけど、結局その結論は『いい加減な日本人』という点に行き着き、そうなった原因は先の大戦の事後処理のいい加減さ、戦争責任をこれからでもウヤムヤにしようとする力の存在 じゃないのか。 そしてこんな日本でいいのか?」 そう考えてる自分をはっきり認識するようになってます。
ならばひとつのカテゴリーを作って、そこに特集しようと考えました。 まず「カテゴリー名」で悩みました。「日本人の本質」「日本人の責任意識」「謝れない日本人」「先の大戦と日本人」「ごまかす日本人」等々いろいろ浮かんできました。で、これら全部が込めたつもりで「いい加減な日本人」としました。
新聞をサーっと拾っても、「いい加減」であふれてるじゃないですか。政治の世界は魑魅魍魎、無責任世界で極まってますよね。社会のTOPがいい加減なら、国全体がいい加減になりますよ。NET上で誹謗中傷もひどくて、問題になりつつありますが、これも「社会がいい加減」だからですよ。もっと責任と権限と義務というものが文化として根付けば減少するでしょうね。
ここからは自論ですが、こんな日本になった最大の原因は上にも書いた「先の大戦の事後処理のいい加減さ」だと結論してます。「先の大戦は間違いでした。ごめんなさい。」を宣言してるのやら、してないのやら。そんな「ごまかし」の上に復興日本を乗せてきたのです。白黒はっきりさせなきゃいけない事柄でも、最後は「まぁまぁその辺で決着としませんか」になる。これはもう「日本人の体質」なんだと思います。
こうなると議論しなくなり、白黒線引きできなくなります。全てが「いい加減」で進んで行きます。どうせいい加減な結論で終わるなら、関心も持たなくなります。これは為政者にとっては好都合でしょうから、現状の持続に頭使ってると思いますよ。
「国を憂う」と言うカテゴリーもあり、いろいろ書いてきた。中身によってはどっちに分類する? も多々あるだろうな。まっそんな細かいことは気にせず、書くこと、主張することを重視していこう。 過去の記事もカテゴリー変更するのもが出てくると思います。理解のほどを。