国のTOP権力者が でも蚊帳の外

2021年09月29日 09時16分48秒 | 国を憂う
どうせ代り映えしない人が総理になる。期待は無く、むしろ「うんざり」感が大きい。書かなくてもいい話題だけど、「国の大イベント」だし、「うんざり」ならその「うんざり」から「うんざりにならないために」も夢想しちゃう。 で思いを書いておきます。

まず、今回の成り行きと想定。 権力者=キングメーカーであり続けたいと目論む2Aともう一人のAの3人が考えた筋書き通りに動いてるんじゃないでしょうか。1発では決まらず、2人の決選投票になって、「Ki」君が総理になる。こういうことでしょう。
こんな流れが国民から丸見えなのに、いかにも公平に、自然の流れであるかのように進められてるから「うんざり」なのだ。
これでは「院政」。 この10年の延長線でしかない。
ここで単純に考える「こうしたら」は「国会議員何歳定年制」です。増々変化が早くなる時代にあって、20年前の成功例が捨てられない老人では次を構想するなどできるはずがない。さらにほんとに次を考えなきゃいけない若い人達にその責を与えたらいいと思うのです。責を負って成長するんじゃないですか。爺さんがいつまでも権力をちらつかせてるんでは若い人はその世界を嫌いますよね。
僕が真剣に考え、提案したいのは「大統領制に変えよう」です。国の権力のTOPを決める話なのに、僕は蚊帳の外。僕に限らず、自民党員でない大半の国民は虚無感のようなものを感じてるのではないか。ましてや上に書いたような想定が実際だとすれば。日本では「議院内閣制」の賞味期限が切れてるんですよ。だから変えてみたらいい。相当に新鮮味があって、国民の感心も上がるはず。決して悪い方向じゃないでしょう。
さらに僕が考えるのは「大統領制」と「議院内閣制」を一定期間で交互に変えると憲法で規定しておいたらどうかということ。社会制度だから完璧はなく、どうやっても一長一短。国民のなかには慣れ、飽きが出て、形骸化するのは必然。だから「変える」んです。どうでしょう、こんな夢想。
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人を見定めること

2021年09月28日 15時30分13秒 | つれづれなるままに
今朝のニュース。コロナ禍で高3、中3の子供達(親まで)が内申書を気にしてる。特にONLINE授業が出席なのか欠席なのか、そんなレベルのことまでが心配の種になってるとのことだった。実際全国統一されてるわけじゃなく、自治体で多少の違いがあるらしいんです。そうなるとピリピリしてる当事者は気になりなすわね。
このニュースを聞いて、「変だよな」と感じ、「本来の姿を考え、やり方変えたらいいんじゃないか」と考えたんです。それが以下。
まず、見定められる立場になって。 僕は人生のところどころで自分以外の他者から評価され、見定められるのはいいことだと考えてる。それは本人にとって刺激だし、自分を客観的に見る大事な機会だと思うからだ。具体的に高校受験、大学受験、入社試験が代表格だろうが、そんなに悪いものじゃないよ。僕みたいに努力しなかった人間には苦痛だったけどね。それに向かって励んだ人の中には「さっこのオレをどう評価するか?」と前向きに捉えてた人もいたはず。
次は見定める側の立場になって。これも本来の姿に返って考えれば見定める側の主体で考えればいい事。「こんなオレでどうだ」と評価を求めてきた人をこちら側の価値基準に則って〇×を付ければいいことじゃないですかね。当然なぜ×なのかは説明できないとまずいとは思いますが。評価する側が確固たる基準を持っていれば、それは難しいことではないはずです。
補足ですが、選ぶ側の価値基準に「一定の学力」が入ることもいいと思います。不公平ではないし、使い方には一考が必要だが、むしろ公平じゃないですかね。
さて、こんなスッキリしてる話なのに現実には「歪み」があるんですよ。何か? 
上に書いた評価する人、評価される人以外にもう1人評価者(事前評価者)がいるんですよ。この人の存在、役割が歪みの大本だと思うのです。それは例えば中学の、高校の先生です。評価される側の人が最終評価者の前に出る前に最終評価者の価値基準を知らない、むしろ社会的公平にのみ心砕く評価者がいることです。そしてそこに公平たらん制度がまた複雑に介在してます。
そしてこのシステムを長く続けてきた中で最終評価者は己の基準が怪しくなって行き、ますます事前評価者にたよるようになってきた。自分が苦労しなくて済む というのもあっただろうな。 そして作られてきたのが現在の見定め方法なんじゃないでしょうか。
コロナ禍だろうが、大津波で高校生活がボロボロだったとしても、
「おれはこうだ。こんな努力してきた。このオレでどうだ。採用してみるか。」の気概と
「よーし、そんな君の人間力をうちの基準で評価してやろうじゃないか」という気概の
ぶつかり合い それが公平な社会的評価なんじゃないだろうか。

ついでにですが、今朝のニュースでこんなことも言ってました。
学校での出欠日数の定義には「出席」「欠席」「忌引きによる欠席」があるんだそうです。知ってました? 
ONLINE授業日を「忌引きによる・・・」としてる学校もあるとか。
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ひと季節の終了とオヤッ

2021年09月27日 10時02分06秒 | 大和の四季
      

西側のグリーンカーテン。 窓下右側にあったキュウリは先々週片づけました。根も死んでたし、地上部はすっかりかれてました。今残ってるゴーヤも紅葉なんかしちゃって、「オレだって秋風情だろ」と言いたそう。最後のゴーヤが大きくなってます。まだ小さいのがありますが、このままほっといて、食べられるようなら頂くかな。
キュウリもゴーヤも今年は素晴らしかった。たくさん美味しい野菜を提供してくれた。さらにしっかりこの西窓の光を遮ってくれた。来年も当然この品種にします。ラベルは確保しました。

                 

前の公園で昨日可愛いウリ系の実を見つけました。調べると「オキナワスズメウリ」というんだそうです。時間が経つと赤くなるらしい。実に可愛い。
去年まではこんなのなかったんです。普段気にしてない柵です。こんなウリの蔓が伸びてることも気付きませんでした。多分鳥がここに種を運んできたんでしょう。りっぱに成長して、こんな実をつけた。これからどう変色するか楽しみですね。 秋感じちゃうな。
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そういう意図だったのか

2021年09月25日 11時05分19秒 | オペラに挑戦
オペラ 来年に向けた活動が始まった話は先日書いた。 来年に向けたソリストのオーディション要領も聞こえてきた。それを知って「そうか、そういう目的、先生夫婦の将来への方向にそんな事も含まれてたか」が理解できたような。
「修道女アンジェリカ」をどうして選んだのかは「?」だったんです。だいたいWS(ワークショップ)参加の合唱団が舞台に出ない演目ですからね。オーディション募集要項を見ると、「女性13人募集。主役級3名は一般公募。他10名はソプラノは30歳まで、メゾソプラノなら35歳まで」と制限してるんです。
解りましたよ、この演目を選んだ理由が。 要するに若い女性ソリストを「育てよう」と目論んでるんですね。これから上手くなろうと燃えてる女性を育てるにはいい演目なのかも。
「オペラ好きなアマチュアに舞台に立つチャンスを設け、オペラ文化を広めよう」というのは一合唱団員としての僕にも簡単に理解できるが、そこまでしか視界に入らない。ところが師達ご夫婦はそこで満足してなかってことですよ。ヒロ先生は障害を受けたということもあり、歌うことは断念し、「演出家」の道を歩き出してるんだが、それで良しじゃなかったんですね。そうか「育てる」か。「ひとつの夢」かもしれない。自分が育てたソリストさんで舞台を作る、大きな夢だろうな。
僕がよく聞きに行く「さわかみ財団」というのも「日本にオペラ文化を」が第一義なんだけど、「育てる」ところから手掛けてる。あそこは「研修生」として抱え、イタリア留学まで支援してるけどね。
椿姫で一緒したヴィオレッタの田中さん、フローラの梨谷さん 2人とも「さわかみ」の研修生だったんです。梨谷さんは研修生1年目に聞いて、それ以来のファンやってますが。
椿姫でも女性合唱の中に音楽学校に通う女性が助っ人として6,7名いました。ああいう若い人を育てたいのか。声楽特にオペラを志した人のひとつの道なのかなと理解できる。
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どうして「まぶしく」なるのか

2021年09月24日 16時34分48秒 | 白内障手術
朝8時に伐採業者がきてくれて、僕の伐採要望を説明しておいた。希望は7本、家に害を及ぼしそうなのが2本、倒れたら電線を切りそうなのが1本、他4本は「混んでる」とか「見栄えが悪い」が理由。説明だけしておけば、僕がいなくても検討はできるし、見積もりも作れる。実施は11月だろうな。
これで今回の仕事は全部完了。そして神奈川に帰還した。
強い陽射し、暑い陽射しの中をドライブしてきたが、「まぶしさ」を感じた。医者から「まぶしく感じるでしょう」なんて知識もらってるからかもしれないが、やたらまぶしかったな。
そこでまた考えちゃったんですよ。なんで「まぶしく」なるんだろう? 水晶体が濁るのが白内障、だとすると網膜に届く光量が少なくなるんだからまぶしくなるのは反対じゃないかと妄想しちゃうんです。調べても「まぶしくなる理由」は読んだことがないな。
「こんな細い目だぜ、元々入る光量少ないだろう、何故まぶしくなるんだ」と叫びながら運転してきました。まぶしいというのはやはり不便です。サイボーグ眼になるとこの不便無くなると言われてる。どんな風になるのか。楽しみでもある。
さっ、白州も整理してきた。これで「手術月間」に突入ですよ。消極的に、受け身で静かに生活する一月です。大人しくしてるにかぎる。おかしくなるのはいやだからな。
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ちょっと感傷的な気分で

2021年09月23日 13時43分04秒 | 白内障手術
気が付いてみればこの好きな白州庭の景色を自前の(親が授けてくれた)目で見るのは最後なんだ。こんどこの景色を見る時は「サイボーグの眼」で見るわけだ。そう考えると感傷的になるし、変な妄想が始まる。たとえば「胃」を移植することと比較してどうなんだろうと考える。
眼は五感の一つ。五感は生物として自分の外側を認識する機能だ。その点で「胃」とはちょっと違うのかなと思える。胃だとか血管のバイパスだと意識することがないんじゃないかな。かってに体の中でその機能をはたしてる。五感は違う。意識下にあるんじゃないか。そんな物を人工物に換えるんだからおそろしい。
それでいて、昨夕薄暗くなった室内でPC画面のぞいてて、「見えないな、見ずらいな」と思う時があったんだが、「もうどれだけ悪くなってもいい。どうせ取り変えちゃうんだから」と用心するとか、加減するという気持ちが全くなくなってる。なんといい加減な態度なのか。
ともかく、目がまずサイボーグになる。次に歯が、さらに○○が と徐々にサイボーグ化していく。 現代だな。それでも生きていくんだな。
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ノンフィクションとフィクション

2021年09月22日 13時59分36秒 | つれづれなるままに
文芸書評を聞いててちょっと気になりだしたら、なんかやたら気になってしょうがないんだが。
文芸の世界で使われる「ノンフィクション、フィクション」というジャンル分け。
時々「フィクションはどっちだったっけ? 創作だったよな」と確認することがある。僕みたいに確認する人 他にも大勢いらっしゃるんじゃないかな。
なぜか? ノンフィクションの「ノン」は否定する「・・・じゃない」の意ですよね。こんな分類法を使うなら「ノン」じゃない側が「はっきりしてる」「確固たる」「優位な」とかそんな「強いもの」であって、「ノン」がつく方は「優位なもの以外の有象無象」みたいに把握しませんか? 感覚的にですよ。
文芸作品を「事実物」と「創作物」と訳して考えると、「事実物」の方がはっきりしてるし、僕には「強いもの」に感じられる。だから「ノン」を付けられるのは「創作物」の方が妥当で、「リアル」と「ノンリアル」って分類してくれた方が感覚的に掴みやすい感じなんです。「本物とそれ以外の創り物」みたいな。
でも、確立された区分用語だからそれに馴染めばいいんです。これ以上とやかくは言いませんが、それならそれでどうしてこうなったんだろうと考えちゃう。
多分こうなんですよ。文芸の芽生えからずーっと「文芸=創作物(小説)」だった。情報化社会が出現してきて「事実を知らせる」ことが重要になり、それまでの文芸と違うジャンルが生まれてきた。そこで区分しようとなって、それまで「主」だった「創作物」にまず「フィクション」の銘を付けた。必然的に「フィクション」じゃない物には「ノンフィクション」の名が付いた。
こうやって名が付いた経緯を推測してみると、若いころからそんなに「フィクション」に親しまなかった僕故のとまどい、混乱なのかも知れない と思うようになった。
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初秋の白州

2021年09月21日 07時55分50秒 | 白州の四季
秋の空気に満ちた快晴の朝。 間違いなく初秋でしょう。外気21℃、短パン、半袖では寒いです。半袖のアンダーシャツ、長袖の薄いシャツ、それに薄手のカーディガンまで着てます。

     稲刈りの終わった田んぼ と 八ヶ岳

  西側の山並。 左端が甲斐駒、その手前が黒戸山と黒戸尾根   

    
          左の家がマイハウス。上に被ってるクヌギを切りたいのです。
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変則だが白州に戻った

2021年09月20日 20時23分23秒 | つれづれなるままに
1週間の大和滞在で今日白州に戻って来た。10月は目の手術でほぼ1カ月白州に戻れないことからこんな動きになったわけ。
そこにきて、浄化槽のクリーニングだの、高木の伐採段取り等お願いしてた作業がここで重なったのもある。まっいいでしょう。
移動ドライブは初秋の雰囲気一杯でしたね。空気は乾燥しててすがすがしい、なのに陽射しはまだ肌を刺す感じが有る。道中の田んぼ(「白州米」の田んぼ)は4割ほどが刈り入れを終わってた。刈り入れ機があちこちの田んぼで稼働してました。家の横の田んぼも刈り入れが終わったような色合いがまだ緑のある木々の向こうに透けて見えてます。あした八つをバックに例の角度で写真を撮りましょう。
いつもの温泉はサウナが再開してました。山梨県が「まん防」対象になって中止してたサウナなんですが、先週の月曜日=まん防が解除になった日、前回滞在から神奈川に帰還した翌々日 に始まったそうです。当然自分の決まり通り入ろうとしたんですが、久しぶりのせいなのか、疲れてるのか、10分入ってられないのです。8分で退出。体力が落ちてるぞ。
さっ明日からいろいろ片付けて、1カ月不在の段取りを終わらせよう。でも草刈りはないし、画廊鑑賞も無いからのんびりはのんびりなんです。
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もう次だ

2021年09月19日 10時32分40秒 | オペラに挑戦
今年の公演が終わって2週間が過ぎた。 なのにもう来年のWS(ワークショップ)が始まった。理由はおもに2つだね。一つは「鉄は熱いうちに打て」でしょう。 椿姫を観た人、観なかった人、舞台に立った人 そんな感激が残ってるうちに次の計画に組み込み、熱の低下を避けること。もう一つは先生夫婦の稼ぎ維持ですね。
僕としては「歌うこと=生活のリズム」だから実施していただくことは大変ありがたいのです。
集まったのは大半がいつもの常連さん。これはしょうがないし、心強いことでもある。男性で2人、女性でも5,6人の新人さんがいらっしゃったのではないか。いいことです。もっと若い男性が欲しい というのが本根ですが。
来年は「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「修道女アンジェリカ」の2作の同時公演。前者は5,6年前に1度やってる。2度目の挑戦というのはこれが初めて。経験が重なるというほど経験してきたってこと? そんなわけ無いって! たまたま。 後者は初体験。この作品では合唱団は舞台に出ないのだそうです。最後の方で袖で簡単な讃美歌か何かを歌って終わりらしいです。まっこれも経験。
それで前者の「カヴァ」なんですが、今回はテノールで歌ってみようと思い立ちました。同じメロディーでは刺激が無いし、楽しみが少ないと思って。それで始まる前にヒロ先生に「今回テノールに挑戦したいが、どうでしょう?」と打診。「辞めたら」と言いたそうな苦悶の表情。前は「声質はテナだね。上の音がだしづらいんだったらバリトンでもいいよ」と言ってたのに。ぼくから「苦しかったら、僕からバリトンに戻る話しますから」で挑戦させてもらうことに。
初心者もいるというのに早速美しい合唱部分をパート別に教えて、最後は合唱まで。「ほらっこんな美しい合唱できるんですよ」を感じてほしかったんでしょう。でも、あのスピードだと「楽しい、美しい、嬉しい」と思えただろうか。ちょっと逆効果だったかもな。でも大半の参加者が一度経験してる曲なので合唱にはなってたような。
僕はというとテノール予習もちょっとしたのでそれらしくは歌えたのですが、高い「ミ ファ」あたりから出しづらさがありましたね。音があがってない、声が割れてるのは自分でも解ってた。まっそんなものでしょう。
終わった後で先生に「どうか?」と質問。「辞めとけ」じゃなく、「恥ずかしがっちゃ出ない。堂々と出せ。出るよ。」と指導され、さらに師の久しぶりの模範美声を聞かされた。及第というところか。一通り全曲テナで歌ってみて、決めればいいと思う。バリトンに戻るのはさほど苦じゃないはず。
うん、また新しい刺激が手に入った。
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