アスリートの社会的責任

2021年08月10日 11時13分23秒 | 東京2020
ともかくいろいろあった五輪が終わった。パンデミックが「歪みに歪んだ今の五輪」の実態をあぶりだした大会だった。
顕在化した問題点が無かったことにされ、なんの改善もなされなかったら「問題の先送り」であり、「1年延期して開催した東京五輪というのがあったね」の歴史を書くだけに終わる。
地球上の多くの人が見た、知った、感じた「歪な五輪」に何らかの改善方向を生み出すことが本当の歴史であり、2020東京五輪のレガシーだと僕は考える。さらにそれができるまたとない機会だとも考える。
そこで僕が最も期待し、注目してるのは「アスリートのこれからの行動」だ。
一アスリートである前に一人の社会人であることに立ち返った言動を期待するのだ。
異常な形、皆さんが期待する形ではなかったが、ともかく「競う場」は提供され、パフォーマンスはできた。
「できたから良かった」で済ませては「社会性」が無さ過ぎる。アスリートとして感動を与え、勇気を与えたんだとして済ませては一人よがりでかって過ぎる。
皆さんはこの「お祭り」の主体です。よって、今回顕在化したいろんな問題は全て皆さんの問題です。改善の方向を示し、肥大化し、商業主義に走ってるIOCを動かし、「アスリートファースト」な大会に変える力を一番持ってるのは皆さんです。
今改善の声を上げないと、後輩アスリートが皆さんが今回の持った悩みと同類の悩みで将来苦しむのではないですか。
世の中多様化してます。またコロナ、異常気象など生存環境の変化も多く発生するでしょう。五輪を取り巻く問題は増えこそすれ、減ることはないでしょう。
アスリートの皆さんは社会的責任を認識し、「五輪改善」の行動に立ち上がってほしいのです。

これに合わせて。メディアではこれから「五輪総括番組」が放送されるだろう。上の視点、参加したアスリートは今回の五輪開催で何を感じ、何を考え、何が問題と捉え、どう変えようと考えてるかに焦点を当てた報道もお願いしたいと考えてます。
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改めて 無観客でやる意味は

2021年07月09日 08時13分42秒 | 東京2020
五輪の無観客開催決定に「ほら見たことか!」 とたたみかけて非難するつもりはない。
しかし、「無観客だから感染拡大が防げて良かった」というものじゃないだろうと思うのです。もう一歩突っ込んで考えないと、「玉虫色のまま、ごまかされて」進むことになるんじゃないかということです。
今考えておくべきと思うのは「無観客のスタジアムで行われる競技」は「五輪の真の姿だろうか?」という視点です。ここにちゃんとした自分の結論を持ってないとただ単に「踊らされる国民」になっちゃいますよと言いたいのです。
大昔の五輪は当然観客なんていなかったわけで、集まってきたアスリートが競いあっただけだったろう。と考えれば、「無観客もあり」との結論もありだろう。ましてや将来を考えると地球上どこにいてもNETで見れるという環境になり、「無観客」が当たり前になるのかもしれない。
でも僕は「今は観客が有っての祭典だ」との結論を持ってる。あくまでも「21世紀前半の今は」との条件付きです。それはアスリート自身も観客の興奮、声援を感じながらパフォーマンスすることが自分の本質と捉えてるんじゃないだろか。その点では今回の代表になったアスリートの方たちに本心を聴いてみたいな。「あなたが最高のパフォーマンスが出来ると思う競技環境は?」。その答えはおそらく「客の声援があり、競技場全体が興奮してる」となるんじゃないでしょうか。
だとすると、今無観客で開く五輪は「アスリートが黙々と競う」だけの不思議な大会になるんでしょう。「平和の祭典」なんてどこにも感じられない大会にならざるをえないと思うのです。
改めて「五輪とは何で、今後どうしていけばいいのか」を考えてみるきっかけにすることが「一番のレガシー」なんじゃないでしょうか。
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誘致に参加した時から不純

2021年06月22日 10時57分36秒 | 東京2020
昨日は地球文化論的な面から「東京2020」の開催に反対した。今日はもっと近い所での「反対したくなる思い」を書く。
そして国民が何を言っても、中止・延期を希望する人が過半数を超えていても、「やる」らしいからもう何も言いたくない。言っても無駄だし、言っただけ空しくなるからね。
「東京2020」に対する意見はこれを最後にする。

今までも触れてきたし、今回も触れさるを得ないだろう不可解な現状について、昨日から改めて考え直してきた。それら現状には共通する本質があって、それがある限りどう言われても絶対賛同できない基を探したんです。見つけましたよ。 「東京2020はそのスタートから理念が無く、全てが不純だった」ということじゃないでしょうか。
解りやすく言えば「誘致することが目的」「開催する事が目的」で「お祭りとしての本質」に対する理念と敬意が全く無かったということです。だから「国をあげての成功させようムード」を作れずに来たし、作れるはずもなかった。
そこに降って湧いたパンデミックだ。それなりに順調な開催だったら表面化しなかったかもしれないいろんな矛盾が一機に顕在化してしまった。どう繕っても隠しきれない程に。そして増々国民の「五輪離れ」に繋がっていった。
また神がかるが、こんなやり方 神が許すはずがないと思う。おそらくどんどん困難な状況が発生してくると予測するがな。

誘致では怪しい金が動いたよね。当時の組織委員長はこの問題のもみ消し目的で辞任したよね。
安倍さんは「原発事故から回復した日本を世界にお見せするために」と言ったよね。今の菅さんは原発回復を言わないで「ウィルスに打ち勝った証として」と言い出したよね。これが目的だったの? それでいて、「開催する事のメリット」「開催しないことのデメリット」は全く語らないよね。語れないさ、本来最初に有ってしかるべき「開催の目的、理念」が無いんだから。
国民の安全を語るなら、まず安全施策の一貫性が必要でしょう。五輪を「特別扱い」するむきが出てきましたね。おそらく選手村、その周辺、会場周辺は治外法権な空間になりますよ。
巷の居酒屋さんが明日は倒産かもとおびえてる折に、五輪の中はお酒フリーなんて施策じゃ「国民の安全」が怒るよ。
さらに日本らしい「無責任体制」。菅、西村、田村、河野、丸川、小池、橋本と大勢船頭が語りますが、だれ一人「そうなったら私が責任とってこうします。」とは言わないですよね。「皆で渡れば怖くない」運営組織ですよ。 何か起きた時、緊急対応策の決定が遅れるでしょうね。自分の保身をまず考え、美しい譲り合いをやるんだろうから。

この辺でいいだろう。もう止めておこう。要するに「こんな開催」を認めてはいかんのです。「日本人は軽薄」との評価に繋がります。軽薄は今の地球上に溢れてるとも言えますが。
そして今僕が心配してるのは 「祭典が始まると、制御効かず『見る阿呆』になってるんじゃないか」ということです。ハイ、日本人です。
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地球レベルで考えてみよう

2021年06月21日 10時26分34秒 | 東京2020
五輪開会まで1か月になった。国内の開催関係者の中では「実施、有観客で」がどんどん強くなってきて、このままなだれ込んでいきそうなムードだ。是が非でも「やりたい」んですね。
世論調査では「再延期、中止」が60%ほど、開催するにしても「無観客」を支持する人が半数を超えているらしい。
僕は「中止すべき」と考えてます。ここでは「菅さんが」とか「バッハさんが」という小さい視野じゃなく、地球規模のパンデミック、祭典と「地球文化論」的に捉えて自分の「中止論」をまとめておこうと思います。

いい歳になって僕は「人間はもっと自然に対して謙虚であるべき」と考えるようになってます。「自然は愛すべきパートナー」と実感しだしたからでしょう。人間が生きるために、あるいはよりいい生活を手にするために自然を破壊し過ぎたと見てます。ここからはちょっと神がかるが、やり過ぎには必ずしっぺ返しが来るとまで考えてます。
しっぺ返しじゃないかと思う兆候は地球上どこにでも見られますよね。「北極の氷が解けて白熊の生息域が狭まってる」「街に熊が出没する」「毎年の豪雨災害」等々。今猛威のコロナも「人間がウィルスの世界に近づき過ぎたのだ」との見解があるが、そうなんだとガッテンしてる。ウィルスは哺乳類が生存を始める前から存在してたのだから、あっちがむしろ先住民。棲み分けが効いていたものを、人間側から近づいて行って、このありさまだ。
こんな何億年という壮大な時間の中で今西暦2020年に顕在化したのが今回のコロナなのだ。
一方、地球あげての祭典としての五輪は所詮人間のエゴだし、趣向だし、お祭りでしょう。しかも4年したらまたやるんじゃないですか。
パンデミックと五輪 どっちが大事、喫緊なんて天秤にかける話じゃないと思うのです。
こうなってしまった以上、最善を尽くして「神に鎮まって頂く」のが先なんじゃないのか。人間自らが防衛の鎧を身に付けることも含めて。それが地球上の一種としてまずやることと考える。
「コロナに打ち勝った証」という表現は謙虚さがなく、ただただ「傲慢」でしかない人間の性の表現です。2020は中止して、2024年パリで「神は鎮まった。良かった。」の祭典をやればいいじゃないですか。
「人間は自然の前には謙虚であるべし」を世界文化として復権させるためにも、今回の五輪は中止すべきなんです。

明日は小さい世界での問題点をまとめておくかな。何度か書いてきたけどな。集大成、これを最後にしよう。
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五輪 無観客でやる意味

2021年04月30日 15時16分42秒 | 東京2020
数日前に五輪五者会談(IOC、日本政府、東京都、組織委員会)があって、もう90日を切ったというこの時期に具体性の無い開催アウトラインが表明された。地球上で最大の「祭典」ですよ。こんな状態で開催できるの? と言いたい。今国民の何%が「やれる」と考えてるだろうか? 「やりたいな」が40%、「やれる」は10%以下だと推測するが。

「無観客で開催」という話も出てきてるようだ。この「無観客」 僕は五輪の意義に反する開催形式だと考え、そんな開催なら「やる意味が無い」と考え、「中止」を選択すべきと考える。
お祭りの場が準備され、そこに自らを鍛えてきたアスリートが集い、彼らのパフォーマンスに賞賛をおくる観客が集まってくる。アスリートと観客は一体となって「平和の祭り」を演出する。そんな祭りを見ることで「何が大事なのか」「今何がたりないのか」を考える場にしようというのが「五輪開催の意義」じゃないだろうか。
上の定義を模索しながら綴ったが、「将来は無観客、映像同時配信で五輪は開催できるだろうか?」と問いながら綴ってました。この問いに対する今現在の答えは「できるが、意味をなさない」です。やはり世界中から人が集まってきて、みんなが祭りの役者になってこその五輪なんだと思うんです。今無観客でプロ野球やってますが、何か大きな物が足りないと思いませんか。「熱」なんですよ。球場から本来あるべき「熱」「興奮」が湧いてこないと僕は感じてます。もうそれは祭りではありません。ただの儀式だから強い精神性は生まれません。人々に訴える力は無いのです。

昨日今日は五輪開催を支える「医療体制」がとれる、とれないで議論が表面化してきた。総論賛成でも各論に入ったら「ここもだめ、あれもだめ」となってくるだろうな。
ひょっとしたら、関係者皆が「誰かが『辞めよう』と言い出すだろう」と見合ってる状態なのかもな。 国のメンツが潰れるような形にはしないでくださいよ。
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