尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

桜田門、皇居外苑から乾通りー江戸城散歩②

2023年11月29日 22時40分25秒 | 東京関東散歩
 一週間前に江戸城本丸跡、つまり「皇居東御苑」を散歩したけど、江戸城散歩はそれで完結しない。いまお城めぐりをする歴史ファンには「日本100名城スタンプラリー」をしてる人が多い。ところが江戸城に関しては、一番お城っぽい皇居東御苑にスタンプが置かれてない。皇居外苑の和田倉濠噴水公園楠公レストハウスにあるのだ。(もう一つ北の丸公園にもあるらしい。)そんな周辺部でスタンプを押しても江戸城に行ったことにはならないと思うが。

 実は自分もスタンプ帳を持っているのだが江戸城を押してない。二重橋とか楠正成像なんかも行ってない。「皇居」と言われるとあまり関心もなかったし、地元の人はいつでも行ける場所には行かないものだ。(東京タワーも子どもの頃に行っただけ。)ということで「江戸城散歩②」をしてきた。せっかくだから12月3日までやってる「乾通り一般公開」も行ってみた。

 まずは霞ヶ関駅まで行って桜田門まで歩く。(有楽町線に桜田門という直近の駅があるが、自分の家からは一本で行けない。)ここは「桜田門外の変」が起きた場所である。関東大震災で被災して復元されたというが、基本は1663年に建造された門がもとになっている。国の重要文化財にも指定されていて、そこを自由に出入りできる。知らない人が結構いるけど、ここは一度は行っておくべきだろう。桜田門には二つあって、ここは「外桜田門」。通ると「櫓門」がある。
(外桜田門)(櫓門) 
 ところで門に行くまでにお濠を渡ることになる。そこで見られる石垣や内濠が素晴らしいのである。この水景の魅力は日本の城の中でもベスト級だろう。皇居一周マラソンをする人がいるが、「江戸城」としてきちんと評価する人が少ない。今は外濠は埋め立てられているが、元は数寄屋橋やお茶の水駅前の神田川なん外濠である。そのような広大な城だったのである。東京都心部を歩けば、それはすべて江戸城散歩だった。そして北に寛永寺、南に増上寺という将軍家の寺が配置されていた。
   (桜田門交差点)
 桜田門を抜けると、広場になる。ここが「皇居外苑」で、僕はちゃんと行ったことがない。取りあえずスタンプがあるところを目指すが、東京人なのによく知らずにウロウロしてしまった。まあ、それで良いのである。何故なら少し歩こうというのが主目的なので。広場に生える松が素晴らしい。
  
 楠正成像が先にあるはずが判らずにずっと歩いていたら、乾通りを目指す大量の人々が歩いている。それを避けながらずっと歩くと、東御苑の案内が出て来てしまった。アレレと思ったら、実は和田倉濠噴水公園は内濠通りの向かい側にあるのだった。
  (和田倉濠の説明)
 続いて二重橋を探す。昭和天皇のイメージが離れないが、ちゃんと見たことがない。見ても良く判らないけど。
 
 それで楠正成像楠公レストハウスはどこにあるんだ? 和田倉濠の無料休憩所にあったマップを見ると、これも内濠通りの外側、日比谷公園から日比谷濠を隔てて隣にあるじゃないか。この銅像は上野公園の西郷隆盛像靖国神社の大村益次郎像と並び、東京三大銅像なんだそうだ。住友グループのホームページにそう出ている。何で住友かというと、これは別子銅山開坑200周年を記念して、住友が宮内省に献納したのだという。(ホームページには宮内庁とあるけど、明治の話なんだから間違い。)東京美術学校の高村光雲を中心にして総力を挙げて作ったという。1896年に銅像が完成し、1900年の台座完成を待って竣工した。ところで、日本史上最大の「大忠臣」、楠正成を知る人も今ではどれだけいるだろうか?
   
 最後に「乾通り」。荷物検査とボディチェックがある。面倒くさいけど、一度は見る価値はあるだろう。何しろ江戸城の真ん中を突っ切れるのである。ゆっくり歩いて30分程度。混んでいるようで、中に入れば案外空いている。紅葉はそれほどなく、江戸城史跡を見る意味が大きい。入るのは坂下門。ここは坂下門外の変の起こったところで、一日で桜田門、坂下門を見られた。少し歩くと宮内庁の建物が古そうだ。そして先週見た富士見櫓を反対側から見ることが出来る。
(坂下門)(宮内庁)(富士見櫓)
 石垣や紅葉を見ながらゆっくり歩くと乾門に着く。案外あっという間。道行く人々は木々を背景にスマホで写真を撮るのに夢中で、石垣などに関心はないようだった。今回もレストハウスなどには皇室関係の土産ばかりで、江戸城関係の本がない。
  (乾門)
 自宅への行き帰りを含めて、1万6760歩。これはなかなか歩いた。お濠に関してはまだ半分以上見ていない。
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映画『花腐(くた)し』、荒井晴彦監督の新作はやはり素晴らしい

2023年11月28日 22時25分44秒 | 映画 (新作日本映画)
 『花腐し』(はなくたし)というのは、松浦寿輝(ひさき)の芥川賞受賞作である。(2000年上半期に、町田康『きれぎれ』とともに第123回芥川賞を受けた。)松浦寿輝は東大名誉教授のフランス文学者にして詩人・小説家という人である。僕もその受賞作しか読んでないけど、いやあ面白かったなあという記憶がある。そしてその記憶しかない。もう20年以上も前の作品が今度映画化された。日本一の名脚本家荒井晴彦の4作目の監督作品。相変わらず「過激」(?)な性描写も含みつつ、行き場のない疲れたような感覚に浸っている。しかし、それでいて腐食した日本を撃つ眼差しも確かだ。やはり傑作だと思う。

 冒頭で2012年と出る。原作は2000年に芥川賞を受けているんだから、震災直後に時間を移したのは映画の趣向である。ある男が葬儀に赴き参列を断られた。白黒映像である。次第に判ってくるが、ピンク映画の監督栩谷(くたに=綾野剛)と同棲していた女優桐岡祥子(きりおか・しょうこ=さとうほなみ)が、栩谷の親友の監督桑山と心中してしまった。「ピンク映画」(セックスシーン主眼の低予算映画でピンク映画専門館で上映していた)も斜陽の一途をたどっている。栩谷も5年映画を撮っていない。祥子との暮らしも行き詰まっていた。しかし、よりによって何故親友と心中したのか。
(栩谷と祥子の生活)
 上記画像はカラーだが、これも次第に判明するように、過去がカラー現在が白黒なのである。その逆は見たことがあるが、現在時点が色を失っているというのが作者の心情を象徴している。栩谷が祥子の家に転がり込んで始まった同棲だった。当然一人では家賃を払えず引き払うしかない。今も数ヶ月分を溜め込んでいる。家主に家賃を待ってくれと頼みに行き、代わりにアパートに居付く男の追い出しを頼まれてしまった。早く取り壊してマンションにしたいのに、一人何だかいつまでも動かない男がいるという。案外あんたみたいのが行く方が効果があるかもしれない。
(アパートを訪ねる)
 ある雨の日、栩谷は古びたアパートを訪ねる。何度も扉をたたいてやっと出て来た男が、伊関柄本佑)だった。彼は今まで追い出しに来たのと違うタイプの男に戸惑い、つい話を始めてしまう。栩谷が売れない映画監督なら、伊関は昔シナリオライターを目指した男だった。そこで業界の話、映画の話が始まり、やはり女の話に行き着く。伊関は20代の頃、女優を目指す女と付き合っていた過去がある。シナリオの話、映画や演劇の話、そして子どもが出来た時のこと。日々の生活の重みに負けていった日々。過去の映像がところどころでインサートされるので、観客には判る。二人が語っている女性は同一人物なのである。
(二人は語り合う)
 三人の主要人物がいるが、三人がそろうシーンは一つもない。祥子をはさんで、二人の男が右往左往するのである。その難役を見事にこなしたさとうほなみに驚いた。また先に『春画先生』で見たばかりの柄本佑は、どうにも正体がつかめないような男を再び演じて絶品。「花腐し」とは「卯の花くたし」のことで、「卯の花を腐らせるほどにしとしとと降り続く雨」だという。初夏の季語だというが、映画中の伊関は万葉集にある「春されば 卯の花腐(く)たし 我が越えし 妹(いも)が垣間は 荒れにけるかも」を引用している。「低木である卯の花の垣根を乗り越えながら通ったあの娘の家の垣根は今ではすっかり荒れてしまった」。
(伊関と祥子の生活)
 追憶と悔恨の心情が現在の二人とつながる。どこで道を間違えたのだろうか。今の腐った自分は、それでも生きていけるのか。折しも震災直後、日本は何故原発を廃止できないのか、ドイツは廃止したのに。あるいは沖縄の基地問題などもセリフで語られる。そのように現実批判をも取り込みながらも、基調は梅雨時のうっとうしい雨の中で語られる倦怠と悔悟である。これは「大人」の映画であり、全く若い人のための映画ではない。荒井晴彦監督は自分の出身(若松プロ)でもあるピンク映画界を舞台に使いながら、悔いても戻らぬ過去を見事に映像化している。撮影の川上皓市と新家子美穂も魅惑的な映像を映し出している。

 脚本は中野太と監督自身が書いている。荒井監督は『火口のふたり』(2019)以来の作品。『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)と荒井監督の作品を見てくると、共通点があるように思う。他の人が映画化しそうもない原作であること。また「過去」を自分の心の中でどう処理するべきかの物語である。こんな暗い映画を撮る人は他に思いつかない。若手の勢いもいいけれど、僕はこういう映画が好きなんだなと思った。
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神話的青春小説『越境』ーコーマック・マッカーシーを読む⑤

2023年11月27日 22時07分53秒 | 〃 (外国文学)
 この間コーマック・マッカーシーの『越境』(The Crossing、1994)という小説を読んでいた。日本では1995年に早川書房から黒原俊行訳で刊行され、2009年にハヤカワepi文庫に収録された。文庫本で666ページもある長大な長編で、全然読み進まないのに我ながら驚いた。入院前から読んでいて、退院後も昨日まで読んでいたから、ほとんど今月の半分を費やしたのである。前回読んだ『すべての美しい馬』、次作の『平原の町』と合わせて「国境三部作」( "Border Trilogy")と呼ばれる作品で、三部作の中で一番長い。この小説の中で、ニューメキシコ州に住む主人公ビリー・バーハムはアメリカ→メキシコ→アメリカ→メキシコ→アメリカ→メキシコ→アメリカと都合6回も国境を越える。まさに『越境』という題名通りの本である。

 この本はすごく読みにくくて、やたらに長いから多くの人が読む本じゃないだろう。だけど、この小説はコーマック・マッカーシー、あるいは小説というものを考えるヒントになるのである。僕が読みにくいと感じたのは、主人公の心理描写が全くなく主人公の行動が理解出来ないからだ。『すべての美しい馬』だって心理描写なんかないのだが、主人公の行動は理解出来る。普通の青春小説、冒険小説の文法で読み解ける。だけど『越境』の主人公の行動は判らない。

 メキシコからアメリカに来たとされる狼が牛を襲って被害を出す。主人公の少年、16歳のビリーは父と一緒に罠を仕掛けて狼を捕えようとする。しかし、牝狼は一向に罠に掛からない。ある日、父に断らずメキシコ人が食事した跡地に罠を掛け、スペイン語で警告を書いて置いた。しかし、父はメキシコ人が文字を読めるとは限らない、明日一緒に罠を見に行こうと言う。ところがビリーは朝早く一人で罠を見に行って、狼が掛かっているのを見つける。そういう場合どうすべきか父に言われたことを忘れたビリーは、自分の衝動に従って狼をメキシコの山に返そうと思う。そして、そのまま狼を連れて、黙って家出して一回目の越境を行う。

 この狼のエピソードは非常に優れていて、シートン動物記の『狼王ロボ』を越えて、世界文学史上最高の狼小説じゃないかと思う。メキシコに入ってからの様々の出来事は省略するが、非常に力強い。だけど、ビリーが何をしているのか、どうもよく判らない。狼をメキシコに返してもいいけど、お金も持たず両親や弟にも会わず、一年近くもフラッと出掛けてしまうって普通あり得ないだろう。まあ、それは僕が自分の日常感覚に従って判断するからで、ビリーは自らの「運命」に従って行動しているのだ。つまり神話の主人公。そう考えて、初めてビリーを「理解」することを放棄し、ただ宿命を生きるビリーを見つめれば良い。
(ハーマン・メルヴィル)
 「訳者あとがき」を読むとコーマック・マッカーシーがインタビューで「プルーストやヘンリー・ジェイムズの小説は理解できない、自分にとってあれは文学ではない」と語っているとあった。彼が評価するのはドストエフスキーハーマン・メルヴィルなんだという。特にメルヴィルの『白鯨』である。そう言われてみれば判る気もする。プルーストもヘンリー・ジェイムズも読んだことがないが、細かな心理描写による「意識の流れ」みたいな小説をマッカーシーは認めないのだろう。宿命に従って白鯨を追い求めるエイハブ船長をとことん描く『白鯨』こそ、『越境』の遙かな先祖である。

 僕は『白鯨』は大分前に読んでいるのだが、確かに凄い小説である。ただ船長は権限を持っているから鯨を追い求めてもいいけど、何物でもない16歳のビリーがメキシコでずっとさすらうのは納得出来ない。小説は狼のエピソードの後、帰国したビリーは牧場が襲われて父母が殺され馬を失ったことを知る。弟を探し出し、馬を取り戻すために一緒にメキシコに赴く。この設定など、神話の主人公としか思えない。不当な運命が神によって与えられ続ける主人公。そして馬は見つけたが、弟が失踪する。時代は1940年から44年の頃で、第二次世界大戦が始まっている。しかし、彼は軍隊にも入れない(不整脈ではねられる)。

 弟を探すために再び越境するのだが、この小説は「神話」だと理解するに至り、主人公の運命は予測出来るようになった。それでもメキシコで出会う不思議な人々のエピソードが興味深い。「神話」のような小説の常として、この小説も主人公の「地獄めぐり」エピソード集である。中編小説が束になっているような構成だが、それにしても長すぎるなあと思って読んだ。メキシコも現実のメキシコではなく、著者の見た幻のメキシコである。三部作の最後の一作が残っているが、先に他の本を読みたくなった。
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映画『宮本から君へ』訴訟、最高裁判決の画期的意義

2023年11月26日 20時50分32秒 | 社会(世の中の出来事)
 映画『宮本から君へ』訴訟で最高裁判決が出た。この問題は映画に出演していたピエール瀧が薬物使用で逮捕・起訴されたことから、日本芸術文化振興会(芸文振)が内定していた助成金1千万円の交付を取り消したことの是非が争われたものである。11月17日に最高裁第二小法廷は助成金交付取り消しを「違法」とし、助成金取り消しは「表現を萎縮させる恐れがある」とする画期的判断を示した。製作会社スターサンズの社長河村光庸は判決を待たず訴訟中に亡くなった(2022年6月11日)が、映画のチラシにある「負けてたまるか」を実践するかのような大きな意義を持つ判決が出されたことを喜びたい。

 この訴訟は製作会社スターサンズが取り消し決定の取り消しを求めて2019年12月20日に提訴したもので、一審東京地裁は2021年6月21日に芸文振の措置は違法として取り消しを命じた。しかし、二審東京高裁は2022年3月3日に決定は適法として訴えを棄却したため、原告側が最高裁に上告していた。原判決を取り消すために必要な弁論が開かれていたので、二審判決が破棄されることは想定していたが、これほど明確なメッセージが出て来るとは思わなかった。判決が出たのはちょうど退院した日で、この問題を書くのが遅くなったが、忘れないうちに記録しておきたい。
(故河村氏の写真を掲げる四宮隆史弁護団長)
 一審判決が出たときには、『映画「宮本から君へ」から君へー助成金不交付訴訟、勝訴から控訴審へ』を書いたが、二審逆転判決の時はガッカリして書く元気が出なかった。最高裁はどうせ二審判決を維持して終わってしまうだろうと思い込んでいたのである。それなのに最高裁第二小法廷が4人全員一致で原判決破棄、再逆転判決を出したことには正直驚いた。日本は文化予算が他の先進諸国に比べて非常に少なく、その中で特に演劇、バレエなどの舞台芸術、映画製作などでは芸文振助成金の持つ意味が非常に大きい。他にないのであって、新劇や独立プロ映画はこの制度で維持出来ているといっても良いぐらいだ。

 製作会社のスターサンズは『かぞくのくに』『新聞記者』のようなキネマ旬報ベストワンや日本アカデミー賞最優秀作品賞を送り出してきた。菅義偉首相(当時)を取り上げた『パンケーキを毒味する』など安倍・菅政権に「忖度なし」の製作を続けてきたため、助成金取り消しは「狙い撃ち」ではないかとまで言われた。製作当時は知らなかった俳優(それも脇役)の不祥事を理由にして助成金を取り消されたりしたら、自由な映画作りが難しくなるのは間違いない。

 芸文振は「公益性に反する」として助成金を取り消したが、最高裁判決は公益性を理由に取り消す場合には「公益性が害される具体的な危険性がある場合に限られる」と判断した。その上で、助成金を交付してもピエール瀧が利益を受ける立場ではないから、「助成金を出しても芸文振が『国が薬物犯罪に寛容である』との誤ったメッセージを発したと受け取られることは、出演者の知名度や役の重要性にかかわらず、想定しがたい」とした。常識的な判断だろう。
(映画のチラシ)
 映画『宮本から君へ』は傑作だった。異様な熱気を持って、不義に立ち向かう池松壮亮の姿が忘れられない。ピエール瀧は「敵役」側の方であり、この映画を見て薬物犯罪に寛容だと思う観客はいないだろう。むしろ「立ち向かう」ことの大切さを描くメッセージが、裁判を通じて完結した感じがする。誰かが難癖を付けそうな企画に勇気を持って取り組む人が今に日本では少なくなっている。故河村氏が遺したといっても良いこの判決は、芸術に関わる多くの人に勇気を与えるだろう。
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首相の「賃上げ」問題なしーポピュリズム的発想を排す

2023年11月25日 22時17分12秒 | 政治
 書こうかどうか迷ったけれど、自分の発想を示す意味でも書いておこうかと思う。首相を初めとする「特別職公務員」の「賃上げ」の問題である。このご時世で、首相や大臣が自分の給料を上げるとはけしからんと一部野党(立憲民主党、日本維新の会、日本共産党など)は反対した。しかし、首相らは増額分は国庫に返納するとして、国会では与党(自由民主党、公明党)に国民民主党なども賛成して可決された。返納するぐらいなら、最初から上げなければいいじゃないかと思う人も多いだろう。だが、この問題に関しては僕は与党の原案どおりで良いと思っていた。その理由を以下で説明しておきたい。

 僕は政府、あるいは自民党に反対するような記事を書くことが多い。だが、別にどこかの政党や団体に所属しているわけではなく、誰かに指示されているわけでもない。自分の頭で考えて、その結果政府・与党が進める政策に問題があると思ったら書くわけである。小さなブログといえども、世に警鐘を鳴らすことに多少の意義はあるだろう。今回は自分なりに考えて政府案で良いと思ったが、どうせ与党が多数なんだから書くまでもない。そして実際に政府案通りに決定したわけである。それでも今になって書くのは、問題を考える発想を書きたいからだ。 

 僕が思うに、世の中のものごとは「事務的に処理するべきこと」と「政治的に処理するべきこと」に分かれている。ここで言う「政治的」というのは、国会とか政府ばかりでなくもっと広く使っている。「利害調整のため配慮が必要な領域」ということだ。だから職場にも家庭にも当てはまる。実際我々は人間関係調整のため様々な「政治的配慮」を日常的に行っているはずである。しかし、日々のすべてを「配慮」で暮らすわけにもいかず、生活の大半は「事務的に処理する」日々を送っていると思う。

 さて、「公務員の給与」は、僕は「事務的に処理する領域」に属していると考えている。民間の給与は労使の交渉で決まるわけだから「政治的な領域」に属する。一方、公務員の給与は、大体の人は知っていると思うが、「人事院勧告」によって是正される。公務員は憲法で労働者に認められた「争議権」をはく奪されているので、その代わりの措置として「人事院」が民間の給与水準を調査し、毎年給与の改定を勧告している。上がるばかりではなく、かつて深刻なデフレで民間給与が冷え込んだときには、引き下げの勧告が出たこともある。人事院勧告は制度上、勧告どおりに事務的に処理するべき問題だろう。

 ところで、今回は一般職公務員ではなく、特別職公務員の話である。今書いた人事院勧告は一般職公務員の話で、特別職公務員には関わらないという。だが、これまでは特別職も一般職に準拠して同じように改定するのが慣習化してきたという。一般職公務員とは、国家公務員も地方公務員も普通に考える「お役所で働いている人」である。あるいは教育、警察、消防などの公務員も、特別職じゃないから一般職。大きな意味で、内閣総理大臣や都道府県知事などの指揮下にある。

 一方、公務員採用試験を経ずに、特別に政治的に任命された大臣や副大臣は特別職。公設秘書も特別職。それだけでなく、三権分立の仕組み上、首相の命令下にあるわけじゃやない国会や裁判所の職員も特別職である。そして、特別職の大半を占めるのが、防衛省職員である。つまり自衛隊員で、内閣総理大臣の指揮下にあるとはいえ通常の公務員とは違う特別な服務規律が求められるのだろう。特別職公務員(約30万)のうち、9割が防衛省職員で、1割ほどが裁判所職員だという。

 防衛省職員(自衛隊員)の給与はまた別の法律があるらしいが、要するにすべて人事院勧告に連動しているだろう。もちろん給与の改定というのは、単にお手盛りで増やしたり減らしたりするものじゃない。今じゃ地方公務員の給与などは公開されていることが多いが、基本給に関しては「給料表」に決められている。まず職務の内容に応じて「等級」があり、給与額は「号俸」で決まる。○等級○号俸を支給するという辞令をもらうはずだ。そのような精緻に構成された給料表を前提にすると、政治的配慮でさじ加減を加えると訳が判らなくなり、人事院勧告に沿って一律に増減すべきものだと判るだろう。

 今回は民間給与が物価高に伴い増えているだろうから、それに伴い一般職や特別職の公務員の給料も増やさないといけない。物価高の影響などは全職種に共通だから、どこを上げないなどという判断はおかしい。仮に首相の給与を据え置くとすると、「三権の長」は同額にする必要があるから、最高裁判所長官や国会議長の給与も据え置きにせざるを得ない。そうなると、国会や裁判所の職員だけを上げるというのも難しくなる。要するに、社会には上下の役職があり、上の給与が上がらない限り下の給与も上がらない。革命を起こしてすべてをひっくり返すというなら別だが、世の仕組みというのは上下が連動するものだろう。

 ところで、では財政難の中、政治家の給料を上げるというのはどうなのか。そう思う人は多いだろうが、それに対応するのは「政治的な配慮」の問題だ。だから、給料表改訂は事務的に進めて、その後に政治的に返納すると決めるという順序で問題ない。返納するぐらいなら最初から上げなければいいじゃないか論は、一般の耳に入りやすいけれど行政の常識に反していると思う。これはポピュリズム大衆迎合主義)的な発想で、僕はそれには反対なのである。

 なお、一応書いておくと、時々公務員の給料は恵まれているなどとデマを飛ばす人がいる。しかし、人事院の仕組み上、公務員給与は民間を上回ることが出来ない。特にバブル期を経験した自分たちの世代だと、民間との給与の余りにも大きな違いに絶句した時代がある。しかし、教師になったのはお金で得られないものがあるからだ。だから、給与額はやむを得ないと思って勤務していたが、その後どんどん公務員であることの意義を失わせるような政策が続いた。それでは教員も国家公務員もなり手が不足してきたのは当然だろう。
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映画『春画先生』(塩田明彦監督)を見る

2023年11月24日 20時34分50秒 | 映画 (新作日本映画)
 退院後に初めて見に行った映画が塩田明彦監督の『春画先生』だった。なかなか良く出来ていて面白かったが、これはどうなのかと思う設定もある。「映倫審査で区分【R15+】として指定を受け、商業映画として全国公開される作品としては、日本映画史上初、無修正での浮世絵春画描写が実現した」とうたう映画で、映画内に多くの「春画」が出て来る。この映画は、江戸時代までの日本人は性に対しておおらかな感性を持っていたが、明治政府の欧化政策により「春画」が弾圧されるようになったという史観で成立している。まあ大まかな認識としては、それで正しいんじゃないかと思う。

 神保町の古い喫茶店で働いている春野弓子北香那)は、ある日勤務中に地震が起きて立ち止まってしまう。その時客が見ていた春画の本に気付くと、興味があるなら一度訪ねてきなさいと名刺を渡された。その客が「春画先生」と呼ばれる芳賀一郎内野聖陽)で、あの人はちょっと危ない人と同僚から警告された。それでも、ある日家を訪ねてみるとお屋敷町にある古い建物で、どうしようかと迷いつつも意を決して呼び出しベルを押した。そこで見せられた春画に魅せられ、いつの間にか「内弟子」となって週二日働くことに。和服でなければならないなどの「謎ルール」に従って新しい日々が始まる。
(口を覆って秘蔵春画を見る)
 「春画マニア」は多いらしく、そのような集まりを通して「春画とは何か」を語りながら、同時に芳賀の人生も明らかになっていく。そしてどうなるんだろうという時に、編集者として「春画大全」を完成させたい辻村俊介柄本佑)が現れて映画世界をかき回す。この柄本佑が非常に印象的で、こういう俗っぽく騒がしい役柄が似合っているのではないか。そして、もう一人ここに重要な登場人物が現れる。それは伝説に包まれた先生の亡き妻である。写真でしか登場しない亡妻に今も深く囚われた先生は、新たに登場した内弟子・弓子の好意に気付きながらも応えることが出来ない。
(監督と主演メンバー)
 ところが金沢で開かれた春画鑑賞会で思わぬ人物が登場する。亡妻の双子の姉(にして、亡妻より先に先生の恋人だった)藤村一葉安達祐実)である。一人二役というか、片方は死んでいて写真しか出て来ないが、アメリカに行ってしまったはずが突如日本に舞い戻ったのである。そして映画の世界を暴力的なまでにかき回し、弓子の嫉妬心を煽る。この辺で物語は「春画」を越えて「変態コメディ」化して暴走を繰り返すが、やがて負けん気の強い弓子の意思が先生を圧倒するのである。春画の講釈とともに、二人の女性に引き回される「春画先生」を鮮やかに描いて映画は終着点に至る。
(北香那)
 この映画を成功させたのは弓子役の北香那だろう。2017年以来テレビや映画に出ているようだが、僕は知らなかった。この映画では全力投球でチャレンジしている。ふとした表情が魅力的だが、弓子は単に若いだけではなく「過去」があった。先生に対する気持ちが当初は理解しにくい。内野聖陽と北香那は実年齢で29歳差があり、年齢差を越えさせたものが春画というのはちょっと無理がある。だが、柄本佑や安達祐実の登場で暴走コメディとなっていくことで、観客も弓子の思いを応援するようになっていくのである。その意味で敵役としての安達祐実の鮮やかな存在感にも注目。あっと驚くシーンがいくつもある。
(安達祐実)
 塩田明彦監督(1961~)は黒沢清監督に就きながら自主的に作った長編映画『月光の囁き』と『どこまでもいこう』が1999年に公開されて注目された。思えば『月光の囁き』も「異常性欲」を扱った青春映画だった。その後『害虫』や『カナリア』など独自の映画を作ってきた。後者はオウム真理教を思わせるカルト宗教にいた若者を描いている。『黄泉がえり』『どろろ』などのヒット作もある。近年では小松菜奈、門脇麦主演の『さよならくちびる』(2019)が素晴らしかった。こうしてみると青春を描くことが多く、昨年の『麻紀のいる世界』も期待したが今ひとつだった。

 今回は監督自身が原作・脚本にもクレジットされている。むしろこういう作風の作品を作りたかったのかと思う。ただし、編集者辻村と弓子の最初の出会いなどには問題もあると思う。「先生」も「辻村」も策謀をめぐらし過ぎで、弓子がそれを受け入れてしまうほど先生や春画に入れ込んでいるのが判らないのである。それでもコメディとして完結していくので、ラストの着地点も笑って見過ごせるか。「春画」というものを毛嫌いしてない限り面白く見られると思う。
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江戸城散歩①ー皇居東御苑を歩く

2023年11月22日 22時22分36秒 | 東京関東散歩
 めっきり朝晩冷えるようになったが、今日の昼間は暖かいぐらいの一日。入院中に足が弱くなって、少し歩いただけで筋肉痛という困った状態である。そんな中もう少し歩いてみたいと江戸城を散歩してきた。(特別史跡)の「江戸城」は徳川将軍の居所だったところだが、薩長に乗っ取られて天皇家の居所になった。故に今は「皇居」と呼ばれているが、その東半分は「皇居東御苑」として公開されている。案外そのことを知らない人もいて、東京人に行ってない人が結構多い。僕は学校などの行事で三度ほど行ったが、個人で行ったことがない。そこで、今日の日に合わせて(?)夫婦で散歩してきた。
 
 最寄り駅は地下鉄大手町駅で、ここは5つの路線が集中している。その中で千代田線が一番近い。別に調べていったのではないが、たまたま家から一番近い路線を使ったら便利だった。「大手門」方面を目指しエスカレーターに乗ると、向こうの方にもう見える。お濠に掛かる橋を渡ると荷物検査があり、外国人観光客がいっぱい並んでいる。その向こうの大手門は空襲で焼けて再建されたもので、写真は省略。入ると三の丸尚蔵館がある。天皇家所蔵だった宝物を展示するところで、昔は無料だった。改築後の今月仮開館して、千円取るようになった。ネット予約が必要だし、内容に特に関心ないのでパス。
(同心番所)(百人番所)(大番所)
 大手門近くに三つの番所が残されている。もちろん再建だが、要するに警備員詰め所である。最初が同心番所、続いて百人番所、石垣を入ると大番所がある。当然ながら、本来はもっと多くの番所があったという。写真が撮りにくい(逆光のため)が、百人番所の向こうに大手町のビル群が臨めるのが面白い。この辺りから石垣が続いて来る。昔は石垣しか残ってない江戸城に何か物足りなさを感じたものだが、最近お城ファンが増えて本やテレビ番組が多くなった。そうすると、天守閣より石垣に目を向けてこそファンみたいな感じがしてきた。そういう目で見ると、さすが将軍の城である江戸城は日本ベスト級なのである。
   
 ちょっと大きさが判らないかもしれないが、とにかく一つの石が大きい。畳より大きい石がキレイに切り取られ整然と積み重ねられている。一体どうやったのだろうか? これらの石は「伊豆石」と呼ばれるもので、伊豆半島から切り出されて海上を運ばれてきた。火山性の岩石で、種類としては安山岩だろう。江戸時代初期に有名な大名たちが動員され建造されたもので、Wikipediaを見ると加藤清正、池田輝政、福島正則、細川忠興、黒田長政、藤堂高虎ら自らも名城を築いた大名たちが名を連ねている。
   (ツワブキの花)
 少し坂を登っていくと、広場に出る。本来は広場ではなく幕府中枢部の建物が集中していたところである。「松の大廊下跡」とか「大奥跡」の表示があるが、要するに説明板があるだけなので省略する。こんなところにあったのかと思うけど、今は何もなく芝生が広がっている。そして奥に天守台が見えている。一応そこが目的地ということになる。ここが良いのは、あちこちにベンチが置いてあって晴れていれば休憩しやすいことだ。今日は遠足で来ている小学生がいっぱいいた。
   
 天守台とは要するにかつて天守閣があった場所である。ここも石垣が素晴らしいが、それよりも坂を登ると江戸城の最高地点に立てるのである。天守閣は江戸初期に三度築かれ、1657年の明暦の大火で焼失した。そして、そのまま江戸市街復興を優先して再建されなかった。なくても治政上問題なしと判断したのである。最近江戸城天守再建論があるが、僕はなくて良いのではないかと思う。空襲で焼けた、あるいは少なくとも維新期に無くなった城は再建したいという議論が起きても不思議はない。でも江戸城の場合、360年以上無かったのだからそれで良いのではないか。なお、英文の説明を読んでいて、天守閣は英語で「Keep」だと知った。
  (大きなクスノキ)
 その後、どこに抜けるか(出入りできる門は3つある)と思ったが、西南角にある富士見櫓をいつも見逃すのでそっちへ向かってブラブラ歩いた。林間を歩くと竹林があり、中にシホウチクもある。四角い竹である。また石室も出てきた。これは冷やすのではなく、火事の際に大奥の備品を避難させるところだったという。非常に大きなクスノキも2本あった。
                 
 西南角にある富士見櫓は空襲で焼けなかったが、関東大震災時に損壊したため解体して復元したという。ここはお濠越しに外から見る方が美しいのではないかと思う。中には入れない。ビルが建ち並んで、今は富士山が見えないという。しかし、江戸時代には富士山方向に江戸市街を眺望出来たのだろう。
 
 グルッと回って広場に戻って、「展望台」があるので一応寄ってみる。展望台と言っても、今ではビル街の展望である。下には白鳥濠という孤立したお濠があって、上から見られる。展望台下にトイレと休憩所がある。土産も売ってるが、皇室関係ばかりで江戸城の歴史本がほとんどない。まあ、そういう場所だと思うしかないのかと思うが何とかならないか。
  
 1万歩近く歩いて、少し疲れてきた。北の丸公園まで歩こうかと思っていたが、大手門に戻って「将門の首塚」を見て帰ることにした。再開発中ですっかり明るくなっていてビックリ。案外家から近く、12時少し前に出て、3時半頃には帰って来た。駅までの往復を入れて、1万600歩ほど。②はいずれ周辺を歩いて書きたい。
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柿沢未途という人ー「みんなの党」余聞②

2023年11月21日 22時02分53秒 | 政治
 『「みんなの党」余聞』と名付けて、創設者渡辺喜美氏の叙勲問題を書いた翌日に入院してしまった。じゃあ、2回目は何だろうというと、勘のいい人は気付いていたかもしれないが、柿沢未途衆議院議員について書きたかったのである。時機を逸したかと思ったら、むしろ今こそ旬の時事問題になった感がある。2023年春の江東区長選をめぐって、柿沢議員が区議会議員を買収した疑惑が持たれている。法務副大臣を辞任したが、それに止まらない疑獄事件に発展する可能性が報道されている。

 「みんなの党」は2009年の衆議院選挙前に5人の国会議員で結成された。自民党所属の渡辺喜美山内康一広津素子、無所属の江田憲司の4人の衆議院議員、そして、民主党所属の浅尾慶一郎参議院議員である。浅尾も参院議員を辞職して衆議院選挙に立候補したが、2009年衆院選は民主党の「政権交代」熱気に圧倒され、5人の当選に止まった。広津議員は落選し、新人として唯一当選したのが柿沢未途(1971~)だったのである。この人は柿澤弘治元外相の子どもだが、2001年の都議会議員選挙で江東区から無所属で出馬して当選した。当選後に民主党に入党し、2005年の都議選でも再選されていた。

 ところが、柿沢未途は2008年2月に都議会議員を辞職するに至った。2008年2月9日に首都高で自損事故を起こしたが、その時酒気帯び運転だったのである。僕は詳しいことを覚えていなかったが、Wikipediaを見ると「知人と焼肉店で飲食後、首都高速道路で酒気帯び運転による自損事故を起こした。このとき飲酒の発覚を免れるために雪を食べたとされる」と出ている。こうして7年務めた都議会議員を辞めることになったが、自損事故とはいえ今どき議員が「酒気帯び」って許されないだろう。だから辞職したわけである。なお、この都議会議員時代に、練馬選出の都議だった野上雪絵と結婚している。
(夫婦で撮ったポスター)
 それから1年半後、「みんなの党」は柿沢未途を東京都第15区の衆議院議員候補として公認した。選挙に出るのは国民の権利だから自由である。しかし、酒気帯び運転で都議を辞職した人を公認するってどうなんだろうと思った。地元の人は1年前のことをまだ覚えていただろう。それも影響したのか、この時は東祥三(民主=約10万5千票)、木村勉(自民=約8万票)に遠く及ばぬ38,808票に終わった。しかし、重複立候補していた比例区で当選したのである。(2位の木村勉は比例でも当選出来なかった。)

 こうして柿沢未途は国会議員になった。なんだか酒気帯び自損事故でかえって得した感じである。都議をしていたら、民主党には東祥三がいる以上公認を得られない。無所属だったら比例で復活できない。そして2012年衆院選では、トップ当選したのである。民主党が分裂し、東氏が「日本未来の党」から出たことも大きかった。自民党の木村氏も高齢で引退し、新人候補の秋元司に代わっていた。だが、それだけではなく、この東京15区では「柿沢ブランド」が生きていたということだろう。

 柿沢未途の父親、柿澤弘治(1933~2009)の名前はもう若い人には忘れられていると思う。大蔵官僚から1977年に参院選東京選挙区に立候補して当選した。その時は「新自由クラブ」の公認だった。1976年に河野洋平らが結成した党だが、詳しい説明は省略する。その後、1980年には参院議員を辞職して衆院選(当時の東京6区=定数4人)に立候補して当選。83、86、90年、93年と当選した。この間、新自由クラブは自民党に復帰したので、83年以後は自民党である。(最後の3回はトップ当選。)そして、1994年には自民党を離党して「自由党」を結党して羽田内閣に加わり、党首の柿澤が外務大臣となった。
(柿沢弘治)
 まあ、羽田内閣は2ヶ月で崩壊したので、柿澤外相も2ヶ月だったけど。(ちなみに、今では忘れられた「自由党」には高市早苗が参加していた。)その後は新進党に参加せず自民党に戻り、1996年の第1回小選挙区選挙に東京15区から立候補して当選した。それなのに1999年の都知事選に出馬して再び離党した。石原慎太郎が当選した知事選だが、保守系が乱立し6位で落選した。2000年には無所属のまま、再び衆院選に当選。選挙に強いのである。「下町のケネディ」というキャッチコピーで知られていた。本来自由党結成も渡辺美智雄を首相に担ぐ試みの一環だったらしい。渡辺家と柿沢家の関係も父子二代のものなのである。
(「維新の党」時代のポスター)
 柿沢未途は、「みんなの党」で当選以後、「結いの党」「維新の党」「民進党」「希望の党」と移り歩くが細かな事情はもういいだろう。「維新の党」では当選したが、2017年の「希望の党」の時は小選挙区は秋元司が当選し、柿沢は比例当選だった。しかし、希望の党が民進党と合同して「国民民主党」になったときには、参加しなかった。そして、2019年12月に自民党の秋元司がIR汚職で逮捕、起訴されると、空いた自民党の椅子を狙い始めたわけである。

 このように親子ともども政界漂流の激しい政治人生を歩んできた。自民党に近いが、自民党とちょっと違うイメージが売りである。だからこそ、自民党内の本流からは警戒される。非自民系に身を寄せたこともあるが、結局自民党に所属するところなど親子共通だ。だからこそ、自民党区議に足場が少なく、買収と疑われかねないカネを渡して歩いた。河井元法相事件の後でそんなことをする人がいるとは驚きだ。だが、それだからこそ刑事事件として立件出来るかは微妙かもしれない。何にしても今回の出来事を柿沢未途が生き延びられるかは(政界ウォッチャー的には)非常に注目だ。
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素晴らしき『すべての美しい馬』ーコーマック・マッカーシーを読む④

2023年11月19日 21時42分20秒 | 〃 (外国文学)
 入院前に最後に読んだのが、コーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』(All the Pretty Horses)。これはとても素晴らしい青春冒険小説で、大変満足して読み終わった。こんな凄い本を読んでなかったのかと自分でも驚いた。1992年に刊行され、その年の全米図書賞全米批評家協会賞をダブル受賞した。日本では黒原俊行訳で1994年に翻訳され、2001年にハヤカワepi文庫に収録された。というか、同文庫創刊時の最初のラインナップ5冊の1冊だった。

 他の4冊はグレアム・グリーン『第三の男』、アゴタ・クリストフ『悪童日記』、カズオ・イシグロ『日の名残り』、ボリス・ヴィアン『心臓抜き』で、これらの本は全部その時に買って読んでいる。話題の『悪童日記』や『日の名残り』を単行本で読んでなかったので、文庫化を待ち望んでいた。一方、『すべての美しい馬』は題名も作者の名前も知らなかったのである。アメリカでもそれまではあまり知られず、この作品でブレイクしたそうである。買ったまま20年以上読まずに積まれていたが、読んでみるとこれが一番面白い。そう、『悪童日記』や『日の名残り』よりも面白いのである。読んでますか?
(映画)
 この作品は2000年に映画化されている。ビリー・ボブ・ソーントン監督、マット・デイモンペネロペ・クルス主演というので、これは見たいではないか。2001年に日本でも公開されたのだが、これは見なかった。そんな映画があったという記憶さえ持ってない。主人公はジョン・グレイディ・コールというテキサス南部に住む16歳の少年。牧場に生まれ、馬とともに生きてきた。ところが祖父が亡くなり、牧場が売られることになる。1949年のことである。父親は戦争で心の傷を負い牧場経営に関心がない。祖父の娘である母親は夫への愛情を失い、サンアントニオ(テキサス南部の大都市)で舞台女優をしている。テキサスはもはや牧場の時代ではなく、あちこちで石油成金の話題ばかり。赤字の牧場を建て直そうという大人はいなかった。
(親友とともに)
 こうして少年は居場所と生きがいを失うことになりそうである。だが、まだ高校生なんだからガマンして学校へ行くのが普通の生き方だろう。だが、ジョン・グレイディは違った。親友のロリンズと愛馬に乗って家出したのである。そして、途中で道連れになった年下の少年とともにリオ・グランデ川を渡りメキシコに密入国したのである。当時は今と違って国境越えに警戒が強くなかったようで、少年だけでメキシコに入れた。しかし、そこには過酷な自然が広がり人馬ともに苦労が絶えない。それを何とか乗り越えて(年下少年とは別行動となり)、ようやく平原に出て大牧場に行き着く。そして牧場の下働きとして雇われる。二人は馬の扱いに慣れていて、野生馬の調教をして次第に牧場でも居場所が出来ていく。
(ジョン・グレイディとアレハンドラ)
 あるとき、二人は白馬(アラブ種)に乗った美少女とすれ違う。それは牧場主の娘アレハンドロで、メキシコシティの学校に通っているが馬が好きでよく自家用機に乗って故郷に帰るのだ。映画ではこのアレハンドロをペネロペ・クルスがやっていた。当時26歳だが小説ではジョン・グレイディの一つ年上の17歳という設定。10代のペネロペ・クルスが白馬に乗って現れたら、ストレートの男なら恋に落ちずにいられないだろう。ということで、ここまでは「王国」を追放された「貴公子」が隣国に逃れて、そこで「美しき王女」と巡り会うという「青春ファンタジー小説」の王道的な展開なのである。

 そこまでも十分に面白いが、もちろん事態は突然暗転する。そこで見たメキシコの現実、暴力にさらされる少年たち、不条理にどう対応するか悩む青春。そして知る社会の暗部、メキシコ革命の記憶などが圧倒的な筆力で描かれる。ただひたすら圧倒される物語が一段落するかと思われたとき、ジョン・グレイディは自ら新しい戦線を開いてしまう。危機をどう乗り越えるか、少年には過酷な日々が連続する。その過酷な運命は今まで読んだ青春小説の中でも最も凄いと言える。アレハンドロとの至上の愛はどう決着するのか。読む側もドキドキしながら読むことになる。なんて素晴らしい青春冒険小説だろう。

 テキサスからメキシコへ荒々しい自然を描く「西部劇」でもあり、常に馬が出て来る「動物小説」でもある。もちろんベースに「冒険小説」「青春小説」があり、さらに「恋愛小説」「歴史小説」の趣もある。このようにジャンル小説のミックスみたいな小説で、今までのマッカーシー文学の中でも一番読みやすい。ある種エンタメ的に読むことも出来る。一体どう展開するのか気になってどんどん読み進んでしまう。そういう小説なんだけど、それでもこれは紛れもなく「純文学」である。

 ものすごく面白いけど、一度読んだら忘れてしまう小説とは違う。それは「居場所」を無くした少年の愛と暴力の遍歴を通じて、やはり「」を考えているのである。少年は自分の取った行動が果たして正しかったのか、常に悩み、「大人」に尋ねて回る。その対話を通して、自らの行動が果たしてやむを得ないことだったのか、それとも自ら「選択」したことだったのかが厳しく問われるのだ。そこが一番感銘深いところで、今まで読んだ多くの青春小説の中でもベスト級だと思う。こんな素晴らしい小説なのに、まだ読んでない人が多いんじゃないか。是非多くの人にお薦めしたい小説だった。
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「入院疲れ」から早期退院までー人生初、入院体験記②

2023年11月18日 22時14分05秒 | 自分の話&日記
 (前回からの続き)日曜朝に起きてみると、右手に力が入るではないですか。ただし、簡単な検査をすると、まだちょっと右が弱い。それは右手の手のひらを自分側に(甲を外に)して高く上げ、目をつぶって10秒間保つというものです。そうすると、右が次第に下がってくるわけです。自分では同じ高さを維持しているつもりでも。この簡易検査では月曜頃からほとんど左右の違いが無くなってきました。つまり、翌週にはほぼ軽快していたのです。

 ただ入院による「QOL」(生活の質)の低下が、この頃から影響してきました。何しろいろいろ繋がれて寝返りも打てない。トイレにも自由に行けない。ナースコールで看護師さんを呼んで、この時点では車いすに乗り込みます。尿の量も量っていて(便座に測れるカップをはめ込む)、なかなか落ち着きません。次第に自分で予測出来るようになり、この感じだと300CCだろう、今回は400まで頑張ったかなという予測がほぼ確実に出来るようになりました。

 日曜日は何も検査などがないので、起きてるときはテレビを見るか、スマホを見るか。日曜から大相撲が始まったので、今回は十両からずっと見てた感じです。本が読めない、新聞が読めないのは、自分にはつらいのですが、今回は頭を休めるためにもしばらくガマンするかと思いました。本は小説を読める感じじゃないけど、たまたま2016年に出た石川理夫(みちお)『本物の名湯ベスト100』(講談社現代新書)という本を最近「再発見」して枕元の一番上に置いてました。これを持ってきて貰おうかなと思ったけど、まあいいやと決めました。そうしたら火曜日に妻がこの本を差し入れてくれて、本当にビックリしました。
(最後の夕食)
 動けるのがトイレと食事だけだから、それが楽しみです。食事は最初はベッドの上で食べていて、火曜ぐらいからベッドを降りて机で食べました。(テレビを載せている台に引き出しがあって、そこを引き出して食事を食べる。)最初はお粥で、食べやすいけど水分が多い。おかずは魚と肉が交互という感じ。和風、洋風交互の味付けです。朝2回だけパンで、お粥が終わると普通のご飯でした。もちろん薄味ですが、家でもかなり薄味に慣れているので、何の問題もなし。ドレッシングやマヨネーズも付いてるけど、自分はほぼ使わない。(家でも同様。)全部完食しました。もちろんものすごく美味しいとは思わなかったけど、全然問題なし。
(最後の朝食)
 月曜からリハビリが始まって、同じ階を歩いたり、手の動き、頭の働きの確認など。動けるのもいいけど、他人にあって会話できるから嬉しいです。看護師さんだとどうしても忙しいから、トイレや食事の世話以外に案外話す機会がないものです。それでどんどん動けるようになって、問題はむしろ脳梗塞の影響じゃなく、ずっと寝ていることによる身体の硬化、よく起きる腰痛などに移ってきました。トイレに歩けるようになっても、へっぴり腰で遅くなる。これじゃ入院している意味がないです。

 何でいつまでHCUにいるんだろう?それは看護師さんも気に掛けてくれて、大部屋に移れるように調整しますと言ってたけど、最後まで移れなかった。急に寒くなってきて、多くの患者が来ているそうで大部屋も他の部屋もいっぱいだったようです。しかし、同じ階で2回移動しました。なんか救急で来た患者の問題もあって水曜日に移ったら、そこは呼吸器患者の部屋で深夜も非常に音が絶えない。そこで翌日もう一回移ったら、今度は一人部屋になって静かは静かですが、なんか離れ小島に流された感じ。でもいいのです、実は木曜日に翌日の退院が決まったので。

 リハビリで完全に問題なしだったのと、大部屋も空かないので、もういいのではないかという方向性になったようです。水曜日に、翌日午後に妻が来院できるか聞かれ、木曜午前に3回目のMRIを撮った。そして「明日退院」となりました。もう一つ要因があって、主治医の先生が僕の地元の病院に週1回来ているそうなのです。だから、今後はそちらでフォローするということでいいですか? はい、わかりました、お願いしますとなったわけです。歩いて20~30分ぐらいの場所、母親が亡くなった病院からさらに5分ぐらい歩いた場所のようです。「じゃあ、自分で自分宛に紹介状を書きます」と言って渡されました。
 (ラクナ梗塞)
 今回の病気は「ラクナ梗塞」というようです。左脳深部で起こった小さな梗塞です。僕のMRI画像を見ても、検索して出て来た画像にピッタリです。普通の細胞は再生していきますが、脳細胞は死滅したら再生しない。では、何で使えなかった右手が今自由に動かせるのか? この疑問を医者に聞いてみたところ、脳細胞は3割ぐらいしか使ってないと言われてる、使ってない脳細胞に新しい回路が通じたということでしょうと言われました。脳細胞は良く出来ているな、新たなバイパスを作っちゃうなんて。 

 「脳トレ」ではないけれど、僕もいろいろとやってました。記憶力に問題ないかどうか、「ヨーロッパの国を全部言えるかどうか」とか自分でテストしてました。社会科教員だったんで、知ってるのは当たり前。一般には全部は難しいと思いますが、10個とか20個とか目指すのもいいかと思います。自分はバルト三国とか全部思い出せたので安心しました。「か」で始まる字を一分間でいくついえるか言ってくださいとか正岡子規の俳句を書いた紙を正確に写し取るとか、いろいろやりました。子規の句には「法隆寺」とか「鶏頭」とか、今じゃ「打ってるけど、書いてない字」が多く、頭と手の連動感覚を見るには適しているんでしょう。

 病院は(学校などと同じく)多くの人によって運営されています。医者や看護師だけでなく、MRI検査をする放射線技師、リハビリ担当の理学療法士、あるいは清掃や日常用品の取り替えに来る業者など多くの人がいます。中でも身近に接するのが看護師理学療法士の方々でいろいろとお世話になりました。僕も出来るだけ迷惑を掛けないように努めたつもり。その人に言っても仕方ないのに文句を言う人にはなりたくないから。まあ、人間同士なので多少は相性があると思いますが、皆さん親切でありがたかったです。

 この病気は「無罪放免」じゃなく「執行猶予」だということは自覚しています。糖尿病や喫煙はないんだけど、高血圧がなかなか治まらない。塩分など控えるのも今まで以上に徹底していきたいと思います。ブログについても考えたけれど、余り頑張りすぎない範囲で同じように続けたいと思います。映画や本の感想に特化してもいいんだけど、時々は世界や日本の状況を語りたいのが自分であり、自分らしさを捨てても意味がないと思ったからです。ということで、今後とも折々に書いていきたいのでよろしくお願いします。書いてない間に、昔の記事が読まれてかえって順位が上がったのも不思議で、ありがとうございました。
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人生初、入院体験記①

2023年11月17日 22時14分16秒 | 自分の話&日記
 11月11日(土曜日)に「人生初の入院」をして、7日目の11月17日(金曜日)に退院しました。今日は「警報並みの大雨」という予報だったので、一番ひどいらしいお昼頃を避け午前10時過ぎに退院しました。その直前に夫婦そろって病院栄養士からの指導を受け、終わったらすぐタクシーで帰りました。(支払いなどは妻が先に済ませるよう指示されていました。)帰ってきて、一週間入れなかったお風呂に入り(清拭はしていたが、入院階にシャワーがなかったので)、溜まった新聞を読みました。

 案外早く退院出来て嬉しいです。現時点で後遺症などは全く見られません。雨が上がったら近所のドラッグぱぱすに行ったぐらいです。(15~17日がシニア1割引デーで、3ヶ月連続で利用すると医療品・化粧品の2割引券になる。)今日はホントは三遊亭好楽師匠の喜寿落語会のチケットを買ってました。文枝、鶴瓶、志の輔、小朝というスゴいゲストで、今日はそれを書くつもりでした。何も退院当日に書かなくてもと思いつつ、やはり忘れないうちに書いておくことにします。

 渡辺喜美氏の叙勲に関する記事を投稿したのが、今見てみると22時22分になっています。それをFacebookにリンクしようとしていて、突然字が書きにくくなりました。それでも何とか書いて投稿したのが、これも調べてみると22時34分。つまり10時半頃に発症したことになります。それでも何とか右手で打てたのです。ただ一番最初にパソコンを打ったときのように、一文字ずつ押さないといけなくなったわけだけど。ローマ字変換の打ち方を忘れたわけじゃなく、言語能力的にも問題ありませんでした。

 起ち上がってみると、右足もおかしい。本を読むのも諦めて、すぐに寝てしまいました。しかし、翌朝も同じ状態で自分でも「脳かな」と思ってしまいました。月曜にしようかと思いながら、妻が今行った方が良いと強く言うのでその気になって、近所の病院へ。状況を聞き取って、これは「脳梗塞の疑い」ですぐに大病院に行きなさいとして、電話で当たってから日本医科大学付属病院に紹介状を書いてくれました。タクシーを呼びましたと言われて、タクシーでそのまま病院へ。
(日本医科大学附属病院)
 文京区の根津神社の裏あたりで、しかし地名としては文京区千駄木でした。(スマホからの投稿記事は間違い。)そこにあるのも知らなかったけれど、内部は清潔で大きな病院でした。入院当時のことを詳しく書いていますが、要するに「土曜日の午前中には大病院に行っていた」ことが早く退院出来た最大の理由だと思っています。その後MRI検査を受け、「小さな脳梗塞」が確認されました。「小さな」というのは、本流じゃなく支流のさらに支流あたりの細い血管に詰まりが起こったということです。右手右足に指令を出すところだけがおかしくなったということでしょう。

 大部屋が空いてなく、その場合はかなり高い個室で良いかなどと聞かれつつ、実は最初にHCU(高度治療室)に入りました。これは今調べてみると「High Care Unit」のことで、あるサイトを見ると「脳の血管が剥離しかかっていて脳出血を起こすリスクがある場合や消化器系の急性期や手術後など、明確な生命の危機があるわけではないけれども、重症になるリスクの高い患者などの治療」を行うと出ています。自分の場合、生命に関わるとは最初から思ってないけど、場合によってはマヒが残るかもと思いました。医師としては「もっと重大な梗塞が起きる可能性もある」として血圧などの常時モニタリングが必要だと判断したのでしょう。

 そういうことで、点滴チューブ心電図オキシパルスメーターを装着し、さらに1時間おきに自動的に血圧を測定するよう設定されたカフ(血圧測定のため上腕に巻くバンド)を身に付けました。様々な検査もあり、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったですが、測定血圧が非常に高い(180ぐらいあった)ので、自分でも驚きました。その段階では例えば入院関係書類のサインもフラフラする感じ。でも妻が代行するのではなく、何とかゆっくりと自分で書きました。

 そして血液サラサラ薬などの投入を始め…、その日唯一の食事をやっと食べました。ただスマホが自由に使えて外部と連絡は取れました。(充電器を持って来てるわけないから、翌日に妻が差し入れ。充電も自由に出来た。)テレビも見られて、土曜日だから出川哲朗の充電バイク旅などを(もちろんイヤホンで)見て、寝ました。だが、なかなか寝られない。寝付くと1時間経ってまた血圧を測り始める。ちょっと動くと心電図を測るための電極がずれたり剥がれたりして、機械がピーピー鳴り出す。寝られません。でもいつの間にか寝入って朝になる。そうしたら明らかに握力が戻っていました。(長くなったから頑張らずに一端終わり。)
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ただいま入院中

2023年11月12日 19時17分03秒 | 自分の話&日記
 突然ですが、土曜日11日に入院しました。人生で初めて。金曜日に記事を投稿して、その後、Facebookにリンクの投稿を書いている途中で、急に右手の力が弱くなりました。右足も力が入らず、翌朝も変わらないため、近所のクリニックに行きました。そこから紹介で文京区根津の日本医科大病院に行って、そのまま入院。

 病状としては脳梗塞の軽いものになります。日曜になって、かなり改善しています。しかし、検査などいろいろあるので、しばらく入院になりそうです。そのため、ブログの更新は当面お休みします。

 面会は出来ないけれど、病室にスマホを持ち込めるので、それで書いています。テレビも見られます。右手でいま打てているので、そんなに心配しないでください。
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「渡辺喜美」に叙勲ってあり?ー「みんなの党」余聞①

2023年11月10日 22時22分28秒 | 政治
 2回ほど「みんなの党」関連の記事を書きたい。そんな大した話じゃないと思うけど、他の人が触れてないようなので。まず、11月3日の新聞を見て目を疑った。この日(文化の日)は秋の叙勲が発表される日である。人間に等級を付ける勲章制度には反対だが、そのことを書きたいわけじゃじゃない。どうせくれるわけじゃないし、反対運動をするなら他に優先的に無くすべきものはいろいろとある。だが日本国が授ける以上、説明責任というか、この人ならまあいいか的な納得感はいるんだろうと思う。

 受章者に特に関心はないが、今の新聞は活字が大きいから名前が飛び込んで来る。一番最初にあるのが「旭日大綬章」(きょくじつ・だいじゅしょう)で、14人が受章。その次は「瑞宝大綬章」(2人)、その次が「旭日重光章」である。どうやら政治家が貰うのは「旭日」というものらしい。そして「大綬章」を受ける政治家は皆大臣経験者である。一方、「重光章」を見ると、経歴が「副大臣」止まりである。大臣になったら、勲章のレベルが一段上がる。これが大臣になりたい理由なのか。

 さて、「旭日大綬章」受賞者を見てみる。経済界の人は知らないけど政治家には知ってる人もいる。片山虎之助鉢呂吉雄などである。片山氏は落選後に「日本維新の会」に移って、参院に復活した。病気だったはずだが、まだ存命である。鉢呂氏は民主党政権で経産相になったのに、失言のため数日で棒に振ってしまった。元文科相で「立ちあがれ日本」に移った右派の中山成彬氏も受賞者である。だから離党しようが、民主党政権だろうが、ちょっとでも大臣をやってれば旭日大綬章をくれるのである。

 だが、その中に西川公也渡辺喜美も含まれていて、大いに疑問を覚えたのである。西川公也元農水相はWikipediaを見るとずいぶん不祥事が多い人だ。栃木県職員だった若き日には、汚職の容疑で逮捕されたこともあった。その時は金額が少額で起訴猶予だったという。最近では吉川貴盛農水相がアキタフーズから賄賂を受けた「鶏卵汚職事件」で西川氏も名前が出た。落選して内閣参与だったときに、接待を受けてリゾートホテルに宿泊したという。現金も受け取っていて、2020年までの総額は1500万円を超えるとアキタフーズ元会長が供述しているという。しかし、立件されなければ勲章を貰えるのである。
(渡辺喜美氏に勲章)
 さて、前置きが長くなりすぎたが、今回渡辺喜美氏も旭日大綬章を受けた。ということは完全に政界引退である。渡辺美智雄元外相の長男で、第一次安倍内閣(改造)、福田康夫内閣で、行政改革担当相を務めた。西川氏が栃木2区で、渡辺氏は隣の栃木3区だった。しかし、2009年1月に自民党を離党し、8月に「みんなの党」を結成して衆院選に臨んだ。2009年衆院選は民主党に押されて当選5人だったが、翌2010年参院選では比例区で公明党を上回る得票を得て、7議席を獲得。選挙区の3議席と合わせて、一挙に10議席を得た。ここらが短い絶頂期で、その後内紛とスキャンダルに揺れ、2014年に解党することになった。
(みんなの党ポスター)
 解党に至るきっかけは、渡辺喜美氏にまつわる金銭スキャンダルだった。化粧品会社DHCの吉田嘉明会長から、2010年参院選、12年衆院選前に計8億円を借りたというのである。そのうち5億円が返金されていないという吉田手記が、「週刊新潮」に掲載された。国会議員は資産を報告する義務があるが、そこでは借入金は2億5千万となっていて違いがある。それ以上に問題なのは、これは選挙用の政治資金だったのではないかということだ。吉田会長もそう認識していて、選挙前に「あと5億円必要です」とメールしていたと明かしている。渡辺氏は借り入れは認めたうえで、「個人的な借り入れ」だとしている。
 
 だが政治家が選挙直前に「個人的に借金する」こと自体あり得ないだろう。だから政治資金規正法違反で告発されたのも当然だが、東京地検は嫌疑不十分で不起訴となった。検察審査会で審査され「不起訴不当」を議決したものの、再度不起訴となった。僕の見るところ、法的に立証出来なかっただけで限りなく疑わしいと思う。だが要するに立件されなければ、いずれ勲章が貰えるのである。そりゃまあ、起訴もされていない以上、それは「無実」と扱うべきだろう。だけど、何も勲章を贈らなくても良いし、本人だって辞退するべきものじゃないか。僕はそう思うけれど。
(旭日大綬章)
 ところで、DHCの吉田嘉明会長という人物は、様々な差別発言でよく知られた人物である。在日韓国・朝鮮人に対する粗雑な差別的発言はたびたび問題になってきた。そういう人から多額の借り入れを行うに至った事情はどんなものか。そして、それを週刊誌に暴露されたんだから、関係が悪化したんだろうけれど、それはどんな理由からだろうか。この問題は「一件落着」で、勲章貰って良かったねで済まない問題が残っているように思う。それにしても失言してもスキャンダルがあっても受勲出来るんだから、やがて麻生太郎や甘利明といった人物もきっとスゴい勲章を貰うんだろうな。そういう国なのである。
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李克強、パイパー・ローリー、ボビー・チャールトン他ー2023年10月の訃報③

2023年11月09日 20時27分35秒 | 追悼
 2023年10月の訃報、外国人編。まずは中国前首相の李克強が27日に死去、68歳。これには驚いた。今年の3月まで首相(国務院総理)を務めていたのだから。水泳中に心臓発作を起こしたと報道されている。昨年の党大会で党の役職から退任していたが、その時点では内規の68歳定年に達していなかった。そこで政治局常務委員に残留し全人代常務委員長などに就任するという観測もあった。完全に引退したのは習近平との権力争いに敗北したと思われているが、体調面の問題もあったのか。76年の周恩来、89年の胡耀邦と同じように、追悼から反指導部運動が起きることを当局は警戒したようだが、そこまでは起きなかった。1993年から98年に共青団第一書記を務めていたので、本来なら胡錦濤の後継候補ナンバー1のはずである。2007年に中央委員から二段飛びで政治局常務委員に昇格したが、同時に昇進した習近平に遅れを取り最高指導者にはなれなかった。
(李克強)(追悼する人々)
 アメリカの女優、パイパー・ローリーが14日死去、91歳。17歳で映画デビューし、ロナルド・レーガンやトニー・カーティスらの相手役で人気となった。しかし、本人は決まり切った役柄に嫌気がさしてニューヨークへ行ってアクターズ・スタジオで演技を学んだ。生涯で3回アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたが受賞は出来なかった。最初が『ハスラー』(1961)のポール・ニューマンの相手役、次いで『キャリー』(1976)、『愛は静けさの中に』(1986)である。またテレビ出演も多く、『ツイン・ピークス』でゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞した。こう見てくると脇役として存在感があった俳優だった。
(『ハスラー』のパイパー・ローリー)
 フィンランドの元大統領、マルッティ・アハティサーリが16日死去、86歳。2008年のノーベル平和賞受賞者である。外交官出身で国連事務次長などを経て、1994年から2000年まで大統領を務めた。(フィンランドは議院内閣制で、大統領は名誉職である。)大統領時代から国際紛争の調停に関わり、国連特使としてコソボ問題やインドネシアのアチェ和平合意などに尽力した。
(アハティサーリ)
 元イングランド代表のサッカー選手、ボビー・チャールトンが21日死去、86歳。イングランド史上最高のサッカー選手と言われる。66年の自国開催ワールドカップではイングランドに初の優勝をもたらし、同年のバロンドールに選ばれた。テクニックとパワーを兼ね備えた選手と言われている。54年に17歳でマンチェスター・ユナイテッドに入団、56年にレギュラーに定着した。しかし、1958年2月8日、欧州チャンピオンズカップの帰路、ミュンヘン空港で主力選手の多くを失う飛行機事故「ミュンヘンの悲劇」に見舞われた。ボビー・チャールトンはシートベルトをした座席ごと機外に放り出されたが、奇跡的にケガもなく助かった。その時の精神的ショックを乗り越え、2ヶ月後に代表戦でデビューし初得点を挙げた。生涯で49得点を挙げ歴代3位となっている。常に冷静沈着なプレー、私生活でも模範的な紳士として知られ、94年には「サー」の称号を得た。日本との関わりも深く、Jリーグ発足やワールドカップ招致に協力し、福島県の施設「Jヴィレッジ」を命名した人でもある。
(ボビー・チャールトン)
 アメリカの詩人、ルイーズ・グリュックが13日死去、80歳。2020年にノーベル文学賞受賞。1992年の『野生のアイリス』がピュリッツァー賞を受賞して評価された。日本では詩の翻訳は少なく、ノーベル賞受賞時にグリュックを知っていた人は少ないだろう。その後、翻訳も出ているが読んでいない。作風なども全然知らないので、何も書けない。
(ルイーズ・グリュック)
モーリス・ブルグ、6日没、83歳。オーボエ奏者、指揮者。67年からパリ交響楽団の初代首席オーボエ奏者を12年務め、その後ソロや室内楽で活躍した。来日公演も多く、日本人の弟子も多い。日本で開催されている国際オーボエコンクールでは審査員を務めた。
バート・ヤング、8日死去、83歳。アメリカの俳優。『ロッキー』で主人公の親友で、恋人エイドリアンの兄ポーリーを演じてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。他に『カリフォルニア・ドールズ』など。
カーラ・ブレイ、17日没、87歳。アメリカの女性ジャズピアニスト、作曲家。独学でジャズを学び多くの曲を作った。71年の『エスカレーター・オーヴァー・ザ・ヒル』はLP3枚組のジャズ・オペラの大作で実験的色合いが強く評判となった。
ズデニェク・マーツァル、25日没、87歳。チェコの指揮者。ソ連のチェコ侵攻を受けて亡命、世界約170の楽団を指揮し、2003年にチェコフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。06年には日本のテレビドラマ「のだめカンタービレ」で「有名な指揮者」役で出演した。
マシュー・ペリー、28日没、54歳。アメリカの俳優。テレビドラマ『フレンズ』で人気となった。
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中塚明、坂中英徳、中利夫、岩国哲人他-2023年10月の訃報②

2023年11月08日 22時47分27秒 | 追悼
 内外の訃報をまとめて書くつもりだったが、やはり2回に分けたい。芸能界以外で知名度がある訃報は少なかったけど、書くことに意味があると思う。最初に日朝関係史研究で知られた中塚明が29日死去、94歳。奈良女子大名誉教授。日本より韓国で訃報が大きく報道されて話題となった。岩波文庫の陸奥宗光蹇蹇録』(けんけんろく=日清戦争時代の外務大臣陸奥宗光の日記)の改訂を担当した人で、昔から名前は知っていた。だが大学を離れた後に、多くの一般向け著作を刊行したことこそ特筆される。
(中塚明)
 『歴史の偽造をただす 戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』(1997)を皮切りに、『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』(2002)、『司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』(2010)、『日本人の明治観をただす』(2019)などである。最初の本は日清戦争公刊戦史の草稿を発見し、日本軍の蛮行を隠すため戦史が偽造されたことを証明した本である。これらはいずれも「高文研」から出版された。もと「高校生文化研究会」で雑誌「考える高校生」を出していた出版社である。高文研のHPに「歴史家・中塚 明先生の足跡をしのんで」という梅田正己(高文研前代表)氏の追悼文が掲載されている。「文化の日」(旧明治節=明治天皇誕生日)に「明治」を加えようとする復古の動きがある今、必読の業績だろう。

 元法務官僚で入管行政を担当し、退官後「外国人政策研究所」(現・移民政策研究所)や「脱北帰国者支援機構」を立ち上げた坂中英徳が20日死去、78歳。最後は東京入国管理局長を務め、日本の入管行政に責任もあるが、1975年に「坂中論文」を書いた人である。募集に応じて書いた「今後の出入国管理行政のあり方について」で在日韓国・朝鮮人の法的地位の安定を唱え優秀賞を受けた。その後「坂中論文」は法制化され具現化されていった。晩年は「移民1000万人政策」を唱えて、移民なき「小さな日本」ではなく移民を受け入れた「大きな日本」を目指すべきと主張した。入手しやすい一般書を書いていないので、関心がある人以外に知名度が低いだろうが、毀誉褒貶あっても重要な人だと思う。
(坂中英徳)
 元中日ドラゴンズ外野手で、中日監督も務めた中利夫(なか・としお)が10日死去、87歳。1955年に前橋商業から中日に入団。60年に盗塁王、67年には3割4分3厘で首位打者。通算81三塁打はセリーグ記録になっている。高木守道との1,2番コンビで活躍した。72年に引退後は中日でコーチを務め、78年~80年に監督となった。しかし、成績は5位、3位、6位と低迷した。活躍したのが主に60年代なので、僕も名前を忘れていた。
 (中利夫)
 元出雲市長、民主党副代表などを務めた岩國哲人(いわくに・てつんど)が6日死去、87歳。日興證券パリ支店長、メリルリンチ社日本法人社長、同社アメリカ本社副社長などを経て、1989年に故郷の島根県出雲市長に当選した。「行政は最大のサービス産業」をモットーに、出雲ドーム建設、出雲駅伝誘致などで全国的に注目された。2期目の途中で、95年4月の都知事選に立候補して落選。96年に新進党から衆院選に当選、新進党解党後は太陽党を経て民主党に所属し、計4回当選した。09年選挙に立候補せず引退。豊かな国際、経済知識をもとに日本政界で活躍することを期待されたが、思ったほど活躍は出来なかった感がある。晩年は親族のいるシカゴに移住し、同地で死去した。そのこともあって忘れられた感がある。
(岩國哲人)
 厚生相を2度務めた元衆議院議員津島雄二が25日没、93歳。一高から東大へ入学、在学中に司法試験に合格した。しかし、卒業後は大蔵省に入省し、米留学を経て63~67年にフランス大使館書記官を務めた。その間にフランスにいた津島美知子と結婚、津島姓を名乗った。妻は作家太宰治の長女である。76年に太宰の故郷青森県から衆議院議員に当選し、11期連続当選した。94年に村山内閣に反対して離党したが、新進党に加わらず自民党に復党。2005年から09年まで平成研究会(旧竹下派)会長を務め、その間は「津島派」と呼ばれた。引退後は長男の津島淳が後継となった。
(津島雄二)
・他に政治家の訃報として、淵上貞雄(13日没、86歳。元社民党幹事長、副代表。参議院議員4回当選)、東順治(ひがし・じゅんじ、17日没、77歳。元公明党副代表。衆議院議員7回当選)、一井淳治(いちい・じゅんじ、31日没、87歳。社会党から岡山選挙区で参議院議員に2回当選)、山本公一(31日没、76歳、愛媛県から衆議院議員に9回当選。2014年に環境相)など。
北沢方邦(きたざわ・まさくに)、9月29日没、93歳。構造人類学者、信州大学名誉教授。レヴィ=ストロースの影響で構造主義を学び、講談社現代新書『構造主義』(1968)を著した。これは自分も読んだ記憶がある。その後文明批判を強め、日本やアメリカ先住民の神話を研究した。妻は「エコフェミ」で知られた青木やよひで、両者にホピ族に関する本が何冊かある。
興膳宏(こうぜん・ひろし)、16日死去、80歳。中国文学者、京都大学名誉教授。六朝文学が専門で、学士院会員、2019年に文化功労者。
大樋陶冶斎(おおひ・とうやさい)、17日没、95歳。金沢で続く大樋焼の10代目大樋長左衛門として活躍し、2004年に文化功労者、2011年に文化勲章。芸術院会員。
池央耿(いけ・ひろあき)、27日没、83歳。アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』、ホーガン『星を継ぐもの』などの他、ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』以後のプロヴァンスものを訳し、日本でもブームとなった。
泉昭二、29日没、91歳。漫画家。朝日小学生新聞に連載した4コマ漫画『ジャンケンポン』は、1969年9月30日から2023年3月31日まで続き、16,383回続いた。1万5千回到達時に最長の4コマ漫画としてギネス記録に認定された。
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