尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

消費税が導入されたころー消費税考④

2019年09月30日 21時50分02秒 | 政治
 消費税を考えるときには、30年前の日本政治を思い出す必要がある。1980年代である。自由党と民主党が合併して1955年に自由民主党が成立して以来、ずっと政権を維持していた。ところで、明治時代以来の首相経験者を数えてみて、100歳を超えた首相経験者は二人しかいない。最高齢は102歳まで生きた東久邇稔彦だが、中曽根康弘(1918.5.27~)が2019年9月現在、101歳で続いている。
(100歳を迎えた中曽根元首相)
 中曽根内閣は1982年から1987年まで続いた。「戦後政治の総決算」を掲げて、「国鉄民営化」を実行した。ロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」関係を結び、「日米同盟」推進、(「不沈空母」発言)、「憲法改正」を悲願とした。臨時教育審議会により競争的教育を進めるのも中曽根内閣。「プラザ合意」(1985年の先進国蔵相・中央銀行総裁会議で円高を容認した)もあって、バブル景気につながる。「悪い意味」で現在につながる政権で、戦後政治の転換点となった。もう少し戻って。

 1980年に大平正芳内閣に対する不信任案が自民党内の対立で可決された。大平首相は衆議院を解散し、史上初の「衆参同日選挙」が行われた。選挙戦中に大平首相が病死し、後継首相が決まらないまま「同情票」を得た自民党が大勝した。結局、総務会長だった大平派の鈴木善幸が後継に選ばれたが、政策的に行き詰まり2年で辞任した。当時は、ロッキード事件で起訴され離党中の田中角栄元首相が、自民党に大きな影響力を持っていた。旧田中派は推すべき候補がなく、やむなく傍流の中曽根を支持した。その経緯から「田中曽根内閣」と呼ばれた。

 なんで30年以上も前の政治を書いているのか。消費税導入は1989年の竹下内閣だけど、自民党政権の流れの中で導入されたからである。1983年にロッキード事件の第一審東京地裁判決が出て、田中角栄には懲役4年の実刑判決が下った。その後、解散・総選挙が行われたが、ロッキード事件判決を受けて自民党批判が強く、全議席511議席中、自民党の公認当選者は250名と過半数に届かない大敗だった。自民党は「新自由クラブ」(1976年に自民党を離党していたた河野洋平グループ)と連立内閣を組んで政権を維持した。初期の中曽根内閣は党内基盤が弱く弱体だったのだ。

 1964年から1972年まで8年間、佐藤栄作内閣が続いた。佐藤退陣後、田中角栄福田赳夫が政権を争い、三木武夫大平正芳も有力候補だった。これら4人は「三角大福」と呼ばれ、続く存在が中曽根康弘だった。これらの有力者が次々と総裁となった後、自民党には次代のリーダーが求められていた。それが「ニュー・リーダー」と呼ばれた竹下登安倍晋太郎宮沢喜一である。結局中曽根を継ぐことになる竹下だが、田中派のしがらみの中、なかなか自分の野心を表に出せなかった。

 しかし、ついに1985年2月7日、竹下登が独立して「創政会」を立ち上げた。派閥内クーデタともいえ、ショックを受けた田中角栄は2月27日に脳梗塞で倒れて入院、以後は政治活動が出来なくなってしまった。全く選挙運動をせずに、もう一回当選するが、それを最後に引退した。これで中曽根は党内的にフリーハンドを得たのである。そして「国鉄民営化」や「大型間接税導入」を進めるための強力な政治的基盤を作ろうとしたのである。そのためには「衆参同日選」を仕掛けるのがよい。しかし、一票の格差を軽減する公選法改正が必要で、一時は首相も同日選を諦めたと報道された。

 それが実はトリックで、中曽根首相は諦めていなかった。党内を含めて、もうないと皆が思い始めた後で、急に臨時国会を開き冒頭解散を仕掛けたのである。これを世に「死んだふり解散」と呼ぶ。中曽根自身が後に「死んだふりをして油断させた」という趣旨の発言をしている。そして「大型間接税は導入しない」「私がウソをつく顔をしていますか」と遊説して回った。ウソつく顔してるよと僕は思ったけれど、世の中にはだまされたい人が多いのか、衆参同日選で自民党は300議席を超える大勝利となった。そして、1987年になると、突然「売上税」を導入するとぶち上げたのである。
(売上税反対のデモ)
 その前に、当時の自民党総裁は任期2年で、2期までとなっていた。つまり4年しか首相ができない。本来なら中曽根内閣は1986年秋までだった。だが衆参同日選大勝利で、特別功労者として「1年の任期延長」を認められていた。最後の一年に、売上税を持ち出したわけだが、1987年春は統一地方選の年である。公約違反であり、大反対だとの声が、保守層の小売り業から噴出して、道府県会議員選挙で自民党が大苦戦した。その結果、中曽根首相は売上税導入を断念せざるを得なかった。

 1987年秋に中曽根自民党総裁の任期が終わる。その時点でも党内に強い影響力を持っていた中曽根は、後継に名を挙げた竹下、安倍、宮沢の3氏に「話し合い決着」を了承させる。そして中曽根が竹下を推薦し、一致して竹下登内閣が誕生した。当時の党内勢力は竹下派が多かったが、「間接税導入」と「天皇の代替わり」を任せられる政治家を選んだという意味もあったらしい。

 このように、「消費税」は事実上中曽根内閣で準備されていた。それは明白な「公約違反」としか思えなかったし、防衛費増強を進める中曽根内閣の路線に反発もした。政府が福祉目的に必要と言っても、他の予算を削ればいいと思う。このように中曽根内閣が「死んだふり解散」で得た大量の議席を「公約違反」の税導入に利用したと言うのが、僕も含めて当時のかなり多くの人が思っていたことである。1988年に竹下内閣が消費税導入を強行する。しかし、時同じくして「リクルート疑惑」が明るみに出た。リクルートコスモス社の未公開株が政財官界の有力者に渡っていたという問題である。

 これに秘書名義等で、自民党有力者がほとんど絡んでいた。中曽根前首相は疑惑を指摘されて一時離党した。竹下首相の秘書も名前が出た。竹下内閣の支持率は、消費税への反発も絡んで、史上最低の7%を記録した。他の首相候補だった安倍晋太郎、宮沢喜一の関係者にもリクルートコスモス社の株が渡っていた。こうして政治的混乱の中で消費税が導入されたのである。1989年の参議院選挙で自民党は歴史的大敗を喫した。このように、消費税は決め方がおかしいだけでなく、関わった政治家が腐敗していた。僕はそう認識していたわけである。
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軽減税率の引き下げが必要だ-消費税考③

2019年09月28日 22時28分03秒 | 政治
 軽減税率を導入するに当たって、キャッシュレスで支払うと「ポイント還元」が行われるという。下に載せるマークがある店が対象。ただし、5%還元と2%還元があり、やってない店もあるという。適用される店は経産省のホームページに載ってるという話だけど、見る気になれない。東京新聞一面トップ(9月26日)に、銀座の高級寿司店で使えてファミレスでは適用外の金持ち優遇だと出ていた。しかし、それは趣旨が違うのでやむを得ない。ファミレスは大企業で、寿司店は個人営業。これが逆に「ファミレスで還元されて、高級寿司店ではダメ」なら、「大企業優先で、中小が使えない制度」と非難されるだろう。
(キャッシュレス還元が可能なマーク)
 このポイント制度は複雑すぎるし、意味不明の愚策だと思う。もともと何万もする家電製品などは、大規模店でカードで買うことが多い。小さな買い物は、ポイント還元されても大した額にはならない。ちりも積もればとは言うけれど、ちょっとしたムダを控える方が良さそうだ。まだよく判らないスマホ決済を調べてやるのも面倒くさい。そもそもスマホやカードを持ってない高齢者などには無意味な制度だ。キャッシュレス経済を進めるというのなら(その是非はともかく)、消費税増税と絡めずにやればいい。

 そんな制度を作るための官民の手間ヒマを考えるなら、軽減税率を1%でも下げる方が全員に意味がある。10%に8%じゃ、軽減というほどの感じがしない。本当は5%にするべきだと思う。その財源がないというならば、高額の贅沢品の税率を15%程度に引き上げることを考えてもいいと思う。つまり、その場合は3段階の税率となる。面倒だといわれるかもしれないが、ベースは10%で、生活必需品は5%、金額的に高額な商品を15%という感じになる。そんなことをするぐらいなら、消費税そのものをなくす方がいいという考えは次回考えることにしたい。

 税率以上に大問題なのは、「軽減対象」である。スーパーでペットボトルに入ったミネラルウォーターを買うと軽減対象で8%。一方、家で水道水を飲むと10%なのである。逆なら判る。生活に必要な飲用水は軽減され、わざわざ買ってるミネラルウォーターは上がる、というなら理解可能なんだが。これはもともと「飲食品を軽減対象とする」としたことに問題がある。水道水は確かに飲用、料理用に使うけど、お風呂や洗濯にも使う。だから「飲食品」とは言えないと言われれば、それはその通りだ。でも風呂や洗濯は生活に絶対必要だ。生活に最も必要な「ライフライン」に消費税を掛けることがおかしい

 同じことは電気やガスにも言える。公共交通機関郵便なども、なんで引き上げる必要があるんだろう。生活になくてはならないシステムは、「軽減税率」ではなく、そもそも「無税」でもいいんじゃないか。節電、節水の意味で、「環境税」的に課税するとしても、5%が上限だと考える。

 もう一つが「宅配新聞」が軽減対象で、本は増税されること。飲食品以外で軽減されるのは、新聞だけ。どうして決まったのか。宅配の新聞が軽減対象でもいいと思うが、政府側には「マスコミの忖度報道期待」という下心がないはずがない。本は良書だけでなく悪書もあるとして軽減されなかったらしい。文庫本なら増税分も少ないけど、学術書は大変だ。何千円、あるいは資料集など数万円になるものもある。個人では研究者じゃない限りなかなか買えない。公共図書館、大学図書館が買うことになるが、その負担が大変だろう。人文、社会科学系の学問にとって、大きな危機である。学術書だけでも何とか出来ないものか。
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「軽減税率」をどう考えるかー消費税考②

2019年09月27日 22時59分20秒 | 政治
 2019年10月から、消費税に「軽減税率」が導入される。これをどのように考えればいいんだろうか。世の中には、「軽減税率」という仕組み自体を否定する人も多いようだ。面倒だ、判りにくいというのもあるが、そもそも軽減の適用・不適用の線引きが難しいから「おかしな制度」だと考えるらしい。じゃあ、どうすればいいのか。10%アップを止めればいいとか、消費税そのものを廃止せよと言うのかもしれない。だけど消費税を上げるという政権が参議院選挙で勝つという状況下、とりあえず「食品だけでも現行のまま」なのである。それならその方がいいと思うんだけど、違うんだろうか。

 僕は今回の「軽減税率」のあり方には不満が残る。特に10%と8%じゃ、軽減という言葉を使うほどの効果は無いと思う。だが、物によって税率が違うという制度そのものはあってもいいと思っている。世界を見ても、ヨーロッパ諸国を中心に、多くの国が軽減税率を採用している。他国がやってるから日本もやるべきだとは思わない。でも多くの国で実施されている制度は、日本でだって実施可能だろうと思っている。特にかつて「物品税」という制度があった日本なんだから。

 軽減税率が面倒だという言説が多いけど、本当だろうか。店内で食べる場合と持ち帰る場合で税率が違う。何でだろうなんて議論を今でもやってる。日本の「消費税」は、「売上税」じゃなくて「付加価値税」である。そのことを理解してないんだと思う。今この問題を書き出すと長くなるからやめておく。問題は我々は食べ物屋で何を買っているのかということだ。食べ物屋なんだから「食べ物」を買っているというかもしれない。じゃあ、食材を買って帰って家で調理するのと同じなのか。違うでしょう。食べ物屋で買っているのは、「その場所で食べ物を食べるというサービス」である。あるいは「時間と場所」と言ってもいい。食べ物じゃなくてサービスを買ってるんだから、食品を買うときと税率が違うわけだ。

 もちろん、店先にちょっと食べていけるスペースを設けた鯛焼き屋とかタコ焼き屋はどっちなのか。あるいはおまけが欲しくて買う食品はどうなんだ。しかし、そのようなレアケースを探し出してきて、判りにくい判りにくいとキャンペーンするような報道が多い。それを言えば、「小さなお店では二つの税率を分けて処理する手間が大変すぎる」とか言う人もいた。大真面目にそんな議論を国会でもやっていた。

 だけど、僕の経験ではレジでバーコードを読み取って、機械で処理するようなお店ばかりだ。東京ばかりでなく、旅行で各地に行っても同じ。道の駅で直売の野菜を買うなんて時も、作った人の名前が付いたバーコードが袋に貼ってある。スーパーだったら最近は自分でレジしているぐらいだ。レシートを貰わない買い物なんて、駅のキオスクで新聞やお菓子を買うときぐらいじゃないか。それだって最近は交通系ICカードで払うことも多い。

 もっとも日本中を探せば、まだまだ古い店もあるだろう。そうじゃなくてもレジのシステムを変える余裕がないという店もあるだろう。だけど、すごく小さくて利益もない店の場合、そもそも「課税売上高が1,000万円以下」という「免税事業者」の可能性が高い。そんな店ではそもそも消費税を取らないで欲しい。今の制度では、小さくて利益が少ない商店でも、内税で表示された消費税を取れるのである。そして、その消費税は納税しなくてもいい。そんなバカなという仕組みである。

 最後に世界の軽減税率の状況を見ておきたい。ヨーロッパ主要国を中心に見ておく。カッコ内の最初が標準税率、次が軽減税率である。イギリス(20-0)、フランス(20-5.5)、ドイツ(19-7)、イタリア(22-10)、オランダ(21-6)、ベルギー(21-6)、スウェーデン(25ー12)、カナダ(5-0)、オーストラリア(10-0)といった具合である。ここでは省略したが東欧諸国ではかなり税率が高くなっている。しかし、近隣アジア諸国を含めて、世界の多くの国で「軽減税率」を実施している。(「世界の消費税・軽減税率情報」の「世界の消費税率と軽減税率制度の比較」というサイトによる。)なお、アメリカは連邦規模の消費税はないが、ほぼ全ての州で売上税があるということである。
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物品税を忘れた日本人ー消費税考①

2019年09月26日 23時17分17秒 | 政治
 2019年10月1日から消費税が8%から10%に引き上げられる。ただし今回は「軽減税率」が導入され、食品などに適用される。政府は予想される消費落ち込みに対する景気刺激策として、キャッシュレス決済に限って、5%(または2%)のポイント還元などを打ち出しているが、これがなかなか判りにくい。消費税アップに関して、いろんな人がいろんなことを言ってる。僕は大分前に書いたことはあるが、今回は書いてない。他の人と違った考えを持っていて、書いても理解されにくいと思っているからだ。

 だがまあ、こういうことを考えている人もいると書き残しておくことにする。今回は特に「軽減税率」が導入されることで、判りにくいという声が多い。「線引きが大変」というのは間違いないが、どんな税であっても「線引き」が必要だ。例えば所得税の課税最低ラインをどこにするかなどで、いつも問題になる。また「物によって税率が違うのはおかしい」とか「そもそも税率10%は高すぎる」とか言う人もいる。だけど、僕は思うんだけど、消費税導入で廃止された「物品税」を覚えていないんだろうか。

 大真面目に「消費税を廃止せよ」と主張する人もいるけれど、それなら「物品税に戻す」のだろうか。日本は1989年4月から「物品税を廃止して消費税を導入した」わけだから、「消費税を廃止するなら、物品税に戻す」というのが筋になるはずだ。しかし、僕の知る限り消費税に反対している人で、物品税に触れている人はいないと思う。「消費税を廃止しても、物品税にも戻さない」というなら、ちゃんとそのように確認するべきだ。僕は現実に消費税が廃止できるとは思えないけれど、もし消費税を無くしたら物品税を新たに大々的な規模で導入するしかないだろうと思う。
(物品税の証書があるゴルフクラブ)
 消費税は導入に際して多くの問題があった。そのことは次回以後に書くけれど、そのため「政府が国民にウソをついて強引に導入した」というイメージがつきまとった。今も50代以上の人(導入の経緯を覚えている世代)には、消費税がなんとなくうさんくさく見えている人も多いんじゃないかと思う。そのため反対が少なくなるように、また徴税事務が簡単になるように、政府は物品税を1989年4月から廃止した。物品税というのは、もともと戦時特別税として導入され、戦後も継続された。もともと「贅沢品にかける税」だったので、戦争直後の苦労の多い時期には大方が納得できる税金だったのである。
(物品税の税別表)
 消費税導入前年の1988年に、様々な税金が全体の税収の中でどのくらいを占めていたかを調べてみた。法人税が34.4%(18兆7千億)、所得税(源泉徴収)が24.9%(13兆6千億)、所得税(申告)が9.5%(5兆1千億)で、当然だが個人所得税と法人所得税が多い。続いて酒税(4.2%)、物品税(3.9%、1兆9317億円)、相続税(3.5%)といった順番になっている。(物品税の資料がウェブ上で見つからないので、国会図書館の官庁資料室に開架で置かれている「国税庁五十年史」の資料編を見た。2000年に刊行された本で、大きな図書館なら蔵書にあるかと思う。)

 上に載せた税別表を見れば判るけれど、税率はバラバラだ。普通乗用車は23%、軽自動車は15.5%である。一番高いのは、ゴルフやビリヤードの用具、貴金属時計類などの30%。クーラーや大型冷蔵庫は20%、真珠、毛皮、レコードなどが15%、化粧品や炭酸飲料、コーヒー、ココアなどが5%である。このように税率は様々で、そこにはよく判らない面もあるが、大きな方向としては何となく理解できる。コカコーラやコーヒーが贅沢商品だった時代なのである。

 この税率が一挙に3%(消費税導入時の税率)に下がった。これは多分、バブル最盛期のブランドもの大流行などの直接的きっかけなんじゃないだろうか。すぐに破裂してしまうバブルだが、好景気の時代に贅沢品が2割、3割近く値下げされたんだから、富裕層は飛びついたんじゃないだろうか。せっかくの物品税がなくなって良かったのか。薄く広く負担する消費税は、実は3%の時期であっても、税収の5%前後を占めている。物品税より多いのである。だから、富裕層を優遇して物品税を廃止しても、消費税を導入する方が国家財政には寄与したわけだ。

 この物品税がすごくいい税だとは思わない。実は大きな欠陥があった。それは「物品」ごとに指定するというやり方である。高度成長期に続々と新製品が出てきた時代である。新製品は指定されるまでは無税である。だからブラウン管型のテレビは物品税が掛かり、新商品の液晶テレビが無税だったりしたらしい。有名な例では「童謡レコード」は「児童教育用」とされ無税だった。

 では皆川おさむの「クロネコのタンゴ」や子門真人の「およげ!たいやきくん」はどっちだろう。若い世代でも聞いたことがあるだろう。当時の大ヒット曲である。でもまあ「歌謡曲」じゃなくて「童謡」と言えるかな。ウィキペディアによれば、「たいやきくん」は無税になったが、「クロネコ」は東京国税局は童謡としたが、他は課税対象にしたと出ている。そう言えば、そんな話を当時聞いたことがあったような…。どんな税にも面倒なことがあるものだ。
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開聞岳、最も円錐形の百名山ー日本の山⑨

2019年09月24日 22時54分54秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 日本の山シリーズは再び西日本の山。今回は九州南端にある開聞岳(かいもんだけ)を取り上げたい。標高924mだから、深田久弥選日本百名山の中では2番目に低い。(一番低いのは筑波山の877m。)「百名山」という以上、最低でも1000メートルは欲しいところだけど、開聞岳に限っては例外にするしかない。海から直立したような山で、形状もほぼ完全な円錐形。よく「富士山型」の山というけど、富士山よりも富士山的な美しい外観を誇る山である。

 そういう独特な山だから、JRの開聞駅から歩いて登るとすると、標高差887mを登ることになる。車だと「かいもん山麓ふれあい公園」まで入れて、2合目に駐車場がある。そこから登っても標高差は優に700m以上になる。前回書いた西日本最高峰の石鎚山は、標高1982mあるが、1500mの国民宿舎から登ったので標高差は500mほどだ。標高の低い開聞岳の方がずっと大変だ。しかも登山ルートが独特。円錐形の山をループ状にぐるっと登ってゆく。だから見える風景ががどんどん変わってゆく。
(山頂からの展望)
 20世紀の終り頃、夏休みに車をフェリーに載せて九州に出かけた。その時はあまりに暑いのでゲンナリした記憶がある。標高の低い開聞岳は夏には向かない。登ったのはその時ではなく次の春休みである。日本史教員が鹿児島に行ってないのはなあと思って、また行ったのである。その機会に開聞岳に登ろうと思って、「国民宿舎かいもん荘」に泊った。川尻温泉が湧き、露天風呂から開聞岳が望める宿として有名だった。(残念ながら今は閉館してしまった。温泉自体は「レジャーセンターかいもん」で入れる。)その温泉は、鉄分が多く褐色の湯だったが、風呂から上がるとタオルが真っ茶色、お尻にも茶色の成分がこびりついていたので驚いた。
(開聞岳テレカ)
 翌日は車で2合目の駐車場まで行って、そこから登り始める。最初は直登みたいな感じだが、次第に登山道がループ状に回り込んでいき、東シナ海の展望が素晴らしくなる。時間的には約3時間ほどで登頂できるが、周囲の風景を楽しんでいるうちに登り切ってしまった感じだった。そういう形状の山だから、登山道は一本だけ。登った道を下りてゆくが、時間的には半分ぐらい。登って山頂でお昼を食べ、ゆったり下りてくる。山麓にハーブガーデンがあって、そこでハーブティーを飲んだ。気持ちよく晴れて、とても気持ちのいい登山だった。日本でも一番楽しい登山が出来る山じゃないか。
(海越しに見る開聞岳)
 その時は鹿児島市で維新の史跡も見たが、それ以上に指宿温泉に連泊した思い出が残っている。「指宿」(いぶすきは日本屈指の難読地名だろう。作家の山本一力が若い頃にJTBに勤めていて、客から「いぶすき」を取ってくれと言われて、探したけれど判らず「そこは扱ってませんね」と答えた失敗談を最近読んだ。僕も「ゆびじゅく」温泉と読んだ人を知ってる。ここは「砂蒸し温泉」が有名で、素晴らしい温泉だ。いろんな宿があるが「指宿いわさきホテル」に泊って、併設の美術館を楽しんだ。指宿が気に入って、白水館という大旅館にも別の機会に泊ったなと思い出した。
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「ソロモンの歌」-トニ・モリスンを読む②

2019年09月23日 22時40分01秒 | 〃 (外国文学)
 アメリカの黒人女性作家トニ・モリスンを読み始めちゃったので、続けないといけない。次は3冊目の長編小説「ソロモンの歌」(Song of Solomon、1977、1978年全米批評家協会賞受賞作)の番である。何しろ文庫本で630頁以上もあって、手強そうでなかなか手に取る気にならない。9月中にと思って読み始めたが、案の定全然進まない。一週間以上掛かってやっと終わった。終り頃になるとスピードに乗ったが、出だしが大変だった。風俗習慣が違うと、これほど理解しにくいものか。文章が難解なわけではなく、むしろ一番物語性が豊かで読みやすい。でも付いていくのが大変なのである。

 「ソロモンの歌」は間違いなく傑作で、トニ・モリスンの代表作の一つとされている。チャレンジしてみる価値は十分にある。判りにくいのは、アメリカ南部のコミュニティに属していない「黒人」のイメージをあまり持っていないからだ。(ここでは「黒人」という表記を使う。)主人公一家はミシガン州に住んでいる。ラスト近くで主人公「ミルクマン」がヴァージニア州を訪ねると、対応が家族的で温かいことにビックリする場面が印象的だ。題名の意味もラスト近くでやっと判る。

 「ミルクマン」はなぜそう呼ばれたか。父親と本人は絶対に使わない「あだ名」が付いた理由は最初の方に出てくる。彼の父の名前は「メイコン・デッド」。「デッド」(DEAD)というラストネームはおかしいが、祖父の時代に白人係官が名前を登録をしたとき「父の名前はなんだ」と聞かれて、「死んだ」と答えたら「デッド」が姓にされてしまったのだ。父に妹が生まれたときに、その母親(ミルクマンの祖母)は死んでしまう。妹も死産と思われたときに、胞衣にくるまれた妹を兄が助け出した。その時にへその緒が取れてしまい、妹は「へそなし」と差別される。字が読めなかった父親は聖書から当てずっぽうに選んで「パイロット」(イエスを処刑したときの総督だったピラト)と娘を名付けてしまう。

 ミルクマンの祖父は農場を広げていたが、白人に恨まれて銃撃されて死ぬ。幼くして父母を失った兄妹は苦難の人生を送り、離散して暮らすが、後にパイロットが探し出して同じ町に暮らしている。でも二人は憎み合い、交渉がない。メイコン・デッドは不動産で成功し、町一番の黒人医師の一人娘と結婚した。姉二人が生まれた後、父母は憎みあうが、パイロットの「薬草」を使って「ミルクマン」(メイコン・デッド2世)が生まれた。なんだかこんなことを書いていても、この小説の面白さは伝わらないだろう。「ミルクマン」の一家は、両親が憎み合い、兄妹も憎み合う。そこで生きる「ミルクマン」は孤独である。

 そんな「ミルクマン」の友だちになったのは年上の「ギター」だった。ギターはパイロットの家にまだ12歳の「ミルクマン」を連れて行き、そこから新しい人生が開けてゆく。パイロットには父のいない娘リーバがいて、リーバにも父のいない17歳の娘ヘイガーがいた。5歳年上のヘイガーと「ミルクマン」は惹かれ合う。こんな調子で書いてると終わらないから、飛ばすことにする。「ミルクマン」一族は幸せになれないまま、時間が経ってゆく。「ミルクマン」はもう従姉のヘイガーにうんざりしていて、別れようとする。その結果、ヘイガーは毎月一回「ミルクマン」を付け狙って殺しにやってくる。一方、親友だった「ギター」もおかしい。なんだか謎の政治的言動が多くなり、衝撃的な真実が明かされる。

 時は60年代、ケネディ政権の時代だ。皆が殺気立っている。「ミルクマン」と「ギター」は父にそそのかされて、パイロットの家にあるという金塊を盗みに行く。しかし金の代わりに謎の骨を奪ってしまう。金塊は果たしてどこに? そこでようやく長い第一部が終わって、第二部は「ミルクマン」が金塊があるとにらんだ父が昔隠れ住んだ洞窟を探し求める。「自分探し」&「宝探し」になり、話は冒険小説的面白さを増してゆく。そこに突然なぜか「ギター」が敵として現れる。一方、南部の田舎で立ち往生した「ミルクマン」は、「北部らしさ」を嫌われて孤立する。地元民に狩猟に誘われ、初めて自己省察によって目覚める場面は圧倒的だ。初めて「南部」に足を踏み入れた「北部の黒人」はこうなんだ。

 多分今までの文を読んでも、なんだかよく判らないと思う。僕もストーリーの大筋をざっと書いただけである。この小説は大きな構想の下に、説話的というか、神話的というか、壮大な小説になっている。そこが面白いんだけど、どうしてここまで家族がいさかい合うのかという疑問も持つ。「上昇」した黒人はなかなか幸せになれない。「ミルクマン」の二人の姉は、40代になっても独身だ。大学まで行かせて、かえって黒人男性のコミュニティに入れなくなったのだ。そんな状況が60年代初期にはあったということだ。黒人内部における「男性と女性」「大人と子ども」に止まらず、「南部と北部」「高学歴と低学歴」など誰も書けなかった難問に挑んでいる。 

 物語としてはすごく面白いけれど、どうも今ひとつ判りにくいと僕は感じた。しかし、このような憎み合い、破滅する家族というのは、日本文学にもけっこう描かれている。例えば中上健次の「枯木灘」などの一族、あるいは三浦哲郎の破滅に至る兄弟姉妹たちなどである。それらも何故だろうと思いつつ、言語的、文化的により理解が出来る感じがする。トニ・モリスンはなかなか難物だなあと改めて思った。
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荒井晴彦監督「火口のふたり」

2019年09月22日 22時38分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 日本を代表する脚本家である荒井晴彦(1947~)の3本目の監督作品「火口のふたり」が上映中だ。直木賞作家白石一文の原作を映画化したもので、ほとんどのシーンが主演の柄本佑瀧内公美のセックスシーンである。どんな映画なんだろうかと思いながらも、荒井監督の過去作品「身も心も」(1997)も「この国の空」(2015)も好きだったから、この映画も見ておきたいと思った。映画の出来はとても良いと思ったが、それ以上に現代を鋭く批評する精神に感銘を受けた。

 賢治(柄本佑)は東京でフリーターをしている。いとこの直子(瀧内公美)が結婚すると聞き久しぶりに秋田へ帰郷する。久しぶりに再会した二人を追いながら、次第に状況が判ってくる。二人はいとこで、昔から賢治が好きだった直子は、東京の大学に進学した賢治を追って上京した。その後、二人は濃密に付き合った日々があったが、賢治は直子と別れて結婚、そして離婚した。秋田へ帰った直子は賢治を忘れられないが、そろそろ子どもが欲しいと思って、紹介された40歳の防大卒エリート自衛官の求婚に応じたのだった。結婚式は10日後に迫っている。

 荷物の中から直子が取り出した1冊のアルバムには、ふたりの青春が映し出されていた。中でも富士山の火口を真上から撮ったポスターの前で、まるで裸の二人が飛び込むかのように撮った写真。これが「火口のふたり」の題名の理由。直子はあのとき、私たちは一回死んだと言う。そして「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」と言う。しかし、一度火が付いた賢治は一日じゃ諦められない。じゃあ、今任務で出張中の婚約者が帰るまでの5日間限定で、復活した二人の快楽の記憶。

 まあ確かに「濡れ場」(セックスシーン)が多いんだけれども、上の写真で判るように映像が美しい。構図も決まってるし、室内の美術も見事。「限定」された時空間で繰り広げられる熱い絡みは見応えたっぷり。このように濡れ場が多い映画として、「愛のコリーダ」なんかもあるが、あれは実際の事件の再現だ。他には中上健次原作の「赫い髪の女」や赤坂真理原作の「ヴァイブレータ」などが思い浮かぶ。どっちも荒井晴彦脚本なのが興味深い。自分で演出した「火口のふたり」は先の2作に負けていないと思う。荒井晴彦は「遠雷」「Wの悲劇」「大鹿村騒動記」など多くの脚本を書いてきた。キネマ旬報脚本賞を5回受賞するなど実績ある作家だが、この映画でも力量を発揮している。

 ところで、この映画はラスト近くに驚くような変転がある。それまでにも「イージスアショア反対」の看板が映り込んだり、賢治のセリフに「集団的自衛権」などという言葉が出る。それが直子の結婚相手の自衛官を相対化しているが、それだけでなくもっと本格的に「自衛官であること」が問われてくるのだ。そして「ポスト3・11」の物語であることがはっきりしてくる。もともと原作は2012年に発表されたものだという。主人公に大きな変化ががあった後で、風力発電塔が立ち並ぶ風景を前にしたラストシーンをどうとらえるべきか。終末的なムードの中でどう理解するべきかは今はまだ判断出来ない。

 悔い多き青春を送ってきた賢治を演じる柄本佑はまさに油が乗っている。魚のハーブ焼きを作って食べさせるシーンなんかに存在感を感じた。それ以上に難役に挑んだのが直子の瀧内公美。廣木隆一監督の「彼女の人生は間違いじゃない」のヒロインが印象深いが、あのときは福島出身だった。今度は秋田出身という設定で、やはり震災以後に生きる東北の女性を演じている。セックスシーン満載ではあるが、見た後では風景の方が心に残る映画。ラストの問題はあるが、僕は荒井晴彦の映画的感性をじっくりと味わうことが出来たので満足。
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ジャ・ジャンクー監督の新作「帰れない二人」

2019年09月21日 22時41分27秒 |  〃  (新作外国映画)
 中国社会の変動を描き続けているジャ・ジャンクー(賈樟柯、1970~)監督の新作「帰れない二人」が公開されている。2018年のカンヌ映画祭のコンペに出品されたが、無冠に終わった。しかし、アジア太平洋映画賞の女優賞をチャオ・タオが獲得するなど、いろんな映画祭で受賞している。2001年に始まり、2018年に及ぶ17年に及ぶ男女二人のもつれあいが描かれる。随所で印象的に歌が流され、ジャ・ジャンクー映画の中でも最もメロドラマ的な作りだ。僕の好きな「腐れ縁もの」で、過去の映画に出てくる山西省大同や三峡ダムに沈みゆく四川省奉節などの雄大な風景も素晴らしい。

 この映画に流れる空気は懐かしい。なんだか昔の日本映画を見てるみたい。2001年の大同は、炭鉱が斜陽になって寂れている。それも昔の日本映画っぽいムード。「渡世人」を任じるビンリャオ・ファンが素晴らしい)は裏社会に顔も利くヤクザらしい。チャオチャオ・タオ)はビンの恋人で、いつも一緒にいる。ディスコでチャオが「YMCA」を踊るシーンも心に残る。チャオ・タオは2000年の「プラットホーム」以来、ずっとジャ監督のミューズである。(私生活でもパートナー。)ビンもチャオも顔が日本人みたいで、ホント60年代、70年代の半グレ青春映画みたいなムードだと思った。

 大同を地図で見ると、山西省の北端で、北京から西へ300キロぐらいだ。雲崗の石窟で有名だが、炭鉱がもう先がなく、映画の中では会社は新疆に移って石油を掘るんだとか言われている。チャオの父は炭鉱で働いていたが、もう仕事はない。「人治」の中国では、有力者とのツテがあるビンも羽振りがいい。しかし、それは敵も多いということなんだろう。有力者が襲われ、ビンも狙われるようになる。ある日、車に乗っていて襲撃され、運転手とビンが危ないと見て、チャオは車内にあった拳銃を打って助ける。そのことで罪に問われて下獄するのである。運命は暗転した

 出所したのは2006年。ビンが出迎えに来て、二人はまた幸せになりましたでは映画にならないだろう。チャオには、ビンがどこにいるのかすら判らない。昔の運転手が四川省で出世していて、ビンもそこにいるらしい。長江をさかのぼる船旅で奉節を訪ねるが、ビンは全然会ってくれない。発電所で働いているらしいとバイク便に乗って会いに行くと、屈託を抱えたビンは他に愛人がいると語るのだった。帰りの汽車の中で知り合った男と、ついウルムチまで一緒に行こうかと考えるチャオ。

 数年後に、チャオは大同で雀荘の女将をしている。そこにビンが病気になって、車椅子姿で戻ってくる。再びビンの世話をするチャオだったが…。そして2018年を迎える。この二人の「腐れ縁」を通して、中国社会の変容を描いてゆく。ただし、前半は素晴らしいと思うけど、後半は作りが難しい。この展開でいいのか、僕にもよく判らない。古き共同体的な中国は消えていき、それとともに「渡世人」的な感覚、つまり義理人情的な感情も薄れる。代わって「グローバル経済」が立ち現れる。「情」にあふれた世の中は、三峡ダムの下に沈んでしまうのである。

 ジャ・ジャンクーはやはり「長江哀歌」が最高傑作だと思う。最初の頃の「プラットホーム」や「青の稲妻」もいいけど、よく判らない部分が多かった。近年の「罪の手ざわり」や「山河ノスタルジア」は大きな構想のもとで、大胆に中国の暗部も見つめた。今回の「帰れない二人」も、時空間処理の構想の大きさは相変わらず。でも見た感じはメロドラマだなあと思う。悪い意味じゃなく、すごく感情に訴えてくる。

 中華圏の映画ではテレサ・テンの歌をうまく使ったピーター・チャン監督の「ラブソング」を思い起こす。あれも何年にも渡る「腐れ縁」を描いていた。今年の映画ではポーランドの「COLD WAR」が最高で、こっちはカンヌで監督賞を得ている。やはり出来映えの評価はそうかなと思う。「帰れない二人」で効果的に使われ、心にしみるサリー・イップの「浅酔一生」は、ジョン・ウーの「狼/男たちの挽歌・最終章」に使われた曲だという。「腐れ縁」物は全体に後悔の思いがあふれている。もっと幸せに生きられたはずなのに、どこで間違ってしまったのか。恋愛に限らず、そういう思いを多くの人が抱いている。
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私立は「予定通り実施」を要望ー英語「民間試験」

2019年09月21日 16時26分23秒 |  〃 (教育行政)
 東京新聞(9月20日付朝刊)に、「共通テスト 英語検定「予定通りに」 私立中高連、文科相に要望」という記事が記載されていた。2153校の私立中高が参加する「日本私立中学高等学校連合会」というのがあるらしい。その団体が19日に英語の民会試験を大学入試に使う問題に関して、「課題を解決した上で予定通りに実施するよう求める」要望書を萩生田文科相に提出したというのである。
(記者会見する中高連の吉田晋(すすむ)会長)
 そうか、私立は予定通りを望んでるんだ。記事によると、その理由は「準備してきた子どもたちが、かえって混乱する」、「努力してきた高校生を迷子にしないでほしい。子どもを中心に考えるべきだ」ということらしい。これは全く理解できない。英語の4技能重視は、学習指導要領に書かれているから、学校も生徒も「努力」するのは当然だ。だが、検定結果をどのように大学が使うか、いつ、どのような民間試験があるのか、はっきりしていない段階で、何を「準備」し、どう「努力」すればいいのか

 僕が思うに、これからの大学入試は英会話力が決め手だぞと生徒を指導してきた、「自分たちの努力」を無にしてくれるなというのがホンネじゃないだろうか。これは邪推だろうか。そもそも大学入試の話なのに、なんで「中高連」なんだろうか。それは加盟私立学校が「中高一貫校」だからだろう。会長を務める吉田晋氏を調べてみると、富士見丘中学高等学校理事長・校長とある。富士見丘というのは、東京都渋谷区にある中高一貫校である。

 私立の中高一貫校なら、独自の英語重視カリキュラムを組んだり、教科書の先取り学習を進めているところが多いだろう。公立高の準備が万全でないうちに、「先行逃げ切り」に持ち込みたい。それがホンネかと思ってしまう。もともと、これからは英語ですよ、そのためには大学直結や中高一貫など私立の方が有利ですよと言うのが、親向けのウリだった。今になって梯子を外されては困るんだと思った。

 僕が思うに、生徒は英語だけでなく、すべての教科を「努力」しているはずだ。英語だって、話す力だけでなく、読む、書く、聞く力も当然学習している。英語だけでなく各種の検定に合格すれば、推薦などで有利になるのも同じである。「英語民間試験」を延期して困る生徒がいるのか。「準備してきた子どもたち」と言っても、再来年の入試が「高校2年の秋までの準備」で決まるのだろうか。そんなことがあったら、それはおかしいだろう。まだ高校2年生なんだし、どんな準備もこれから出来るはずだ

 ところで、このことを考えていて疑問に思ったんだけど、大学もある私立学校の場合、内部昇格の条件にも英語民間試験の結果が求められるんだろうか。附属校から来た学生が英語に全然ついて行けなくちゃ困るから、きっと何らかの条件は出来るのかもしれない。じゃあ、スポーツ推薦の生徒は? 英語は高校の必修科目なんだから、高校生が勉強するのは当然だ。だけど、そもそも大学で何を学ぶのか、そのために必要な能力は何か。それを大学が示すことが第一だと思う。

 僕はもともと大学入試自体を廃止してしまえばいいと思っている。そのことは前にも書いたけれど、考えてゆくと矛盾が大きくなりすぎ、いっそ入試をやめてしまえばと思いたくなる。世界にはそういう国だってあるんだから、出来ないことはないだろう。その場合は、すべてが「自己推薦」になる。学校の調査書には、英語検定の成績が書かれるから、英語を頑張らないといけないのは同じ。入学は簡単にするが、大学での単位認定を厳しくして、卒業は大変だという方が自然だ。

 ところで萩生田文科相を調べてみると、早稲田実業高校から明治大学商学部卒だった。柴山前文科相は私立武蔵中学、高校から東大。馳浩元文科相は星陵高校から専修大。下村博文、松野博一、林芳正氏は公立高校出身だが、安倍首相、麻生副首相はじめ安倍政権には私立高校、私立大学出身者が多い。もともと二世、三世議員が多く、そのような人々は幼い頃から私立学校しか経験しないことも多い。同じ地域に様々な子どもたちがいると知るのも大事だと思うけど。だからかどうか、私立重視のような教育行政が続いている。英語民間試験問題で、教育行政の方向性がはっきり判ることになる。
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延期しかない英語「民間試験」

2019年09月19日 22時51分09秒 |  〃 (教育行政)
 大学入試に英語の民間試験を使うという問題。今までも書いたことがあるが、とにかく制度が判りにくい。判りにくいだけでなく、どう考えても問題が多い。判る、判らない以前に、決まってないことが多い。それなのに、「新型英検」の予約が18日には始まるとか。もうそこら辺を解説する知識も情熱もない。そういう中で、延期を求める声も多くなっている。9月10日には、改造直前の柴山昌彦前文科相に対して、全国高校校長会導入の延期と制度の見直しを求める要望書を提出した。
(高校校長会が文科相に延期を要望)
 しかしながら、新たに就任した萩生田光一文科相は、かえって混乱すると延期を否定している。そもそも「加計学園問題」で関与を取り沙汰された萩生田氏をよりによって教育行政のトップにするのには、あぜんとした人が多いだろう。それが安倍時代の教育なのである。第一次安倍政権では、文科相は伊吹文明氏だった。しかし、政権復帰以後の約7年間では、下村博文馳浩松野博一林芳正柴山昌彦萩生田光一と、林氏が1年2ヶ月ほど務めたのを除き、残りの5人は全て細田派、つまり安倍氏が所属した派閥から文科相が出ている。教育行政はほとんど首相官邸の直轄地になっている。

 最近教育問題を書いていない。現場を離れて長くなってきて、実情が判らなくなってきた。と同時に、このような「安倍教育行政」が続くのを見て、もう何も変わらないだろうと言った諦め感が生じているのも確かだ。今回も現場の長である校長会が延期を要望してるんだから、文科省としても重視するだろうと傍からは思うかもしれない。法律的には学校で大きな権限を持つ校長だが、行政上の地位はそんなに高くない。現場なんか無視し続けてきた文科省だから、何を言われようと強引にやり通すつもりに違いない。同じ派閥が続いていて、以前の大臣が決めたことを覆すのはメンツをつぶすことになる。

 大学入試に使うという以上、大前提がいくつかある。まず①大学がテスト結果をどのように使うかがはっきりと決まっていること。これがまずはっきりとしない。日本トップレベルである東大や京大で、民間試験結果を必須としない。全部じゃなくても、おおよそが決まってないと高校で指導ができない。②どのような民間試験が、いつ、どこで、いくらで受検出来るかがはっきりとしていること。これもほとんど決まってない。一番受けると思われる英検は、すでに予約が始まったというが、その段階でもお金が掛かる。どうすればいいのか、誰かはっきりとした助言ができるのか。

 ①②が決まらないうちにスタートできないと思うが、さらに③離島、山間部など民間試験を受けにくい地区の生徒はどうすればいいのか。もちろん、大学受験の時は、都会のホテルに泊まって受験している。だからといって、民間試験のたびごとに同じようにするのか。それはお金がないと出来ない。公的な補助金のような制度が必要だと思うが、それも②がはっきりしないと決めようがない。

 ④もう一つ重大な問題がある。今予約が始まると書いたが、それは2021年の受験の話だ。つまり今の高校2年生の問題だ。高校2年生は今はまだ高校生活の半分である。部活や行事などに一生懸命取り組んでいればいいんじゃないか。それがもう大学へ行くかどうか、さらに具体的にどの大学へ、推薦制度を利用するかどうかなど、ある程度決めないといけない。これじゃ、高校時代というのは英語検定漬け、英語の授業は検定対策向け、進路指導も英語で決まるということになってしまう。
(英語民間試験の主な流れ)
 この問題を考えていくと、さらにいろいろと発展していく。そもそも大学入試って何なのか。英会話能力が大学生に必要なら、大学が試験すればいい。それが物理的に無理だというなら、やらなくてもいいのではないか。それを「民間試験」で行うというのなら、逆に他の教科も民間試験じゃダメなんだろうか。いっそのこと、大手予備校の模擬試験の結果を学力測定に使っちゃダメなの? 

 選挙権が引き下げられたが、参院選で10代の投票率は低かったとか。いろんな理由があるだろうが、そもそも憲法改正とか年金問題とか、10代で判断せよというのは大変だろう。もっと身近な教育問題を訴える党がなかった。僕はどこかの党が「大学テスト改革延期」を掲げないかと思っていたが、どこもなかった。教育問題を意識している政治家そのものが少ない。これじゃ、若い世代は政治に愛想を尽かすのも当然だ。校長会の要望を文科省が公然と無視する。その時に大人たちは何と言う。いや、当事者である高校生はどう考える? 香港で、フランスで、生徒がストやデモをして教師も支持する。それは日本では不可能なのか。それなら大人は代わりに何が出来る。一度しかない人生、浪人する場合もあるが、大学入試なんか人生に数回しかない。「実験」の対象にしてはいけない
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電気依存社会を考えるー台風15号と千葉県大停電②

2019年09月18日 23時01分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 一回目で「電気依存社会」と書いたけれど、その問題をもう少し考えてみたい。ニュースで「罹災証明書」を発行するためには「被害状況の写真」を撮っておいて欲しいと言っていた。でも今では「写真」というのは、デジカメスマホで撮るもんだろう。どっちも多少はバッテリーが残っているとしても、基本的には電気が通じていてこそ使える「電気機械」である。今じゃ、よほど写真が趣味の人以外は、フィルムカメラなんかもう使ってない。家が破損し停電も続いている人は困るんじゃないか。  
(停電が続く夜のようす)
 このように停電が長く続くと、思わぬ問題がいろいろと起こっている可能性がある。たまたま9月上旬で、就活や大学受験などに一番重大な時期ではなかったかもしれない。でも高校生の就職試験には影響が出ているはずだ。また東京五輪の二次抽選というのが確かあったなと調べてみると、11日発表で24日までに購入手続きだそうだ。一次抽選に全て外れた人向けだから、該当者は多くはないだろうが、千葉県でやる競技もあるんだから申し込んでた人もいるんじゃないか。まだ結果も見られてないかもしれない。(何らかの対応策が必要なんじゃないか。)

 消費増税に絡んで政府が音頭を取って「キャッシュレス社会」を進めている。諸外国ではかなり進んでいる国も多く、日本も大きな方向としては次第にキャッシュレス化が進むんだろうと思う。でも、「キャッシュレス」というのは、電気がなければ決済ができないということだ。2018年の北海道地震の時に、たまたま有楽町に行ったんだけど、交通会館にある「どさんこプラザ」(北海道のアンテナショップ)も閉店していた。決済システムが北海道と直結していて、北海道内の停電でネット接続が不可だからと書いてあった。前に一度行ったことがある「休暇村館山」のホームページを見たら、14日から開業再開したがカード決済不可と出ている。日本では完全にキャッシュレスに依存してしまうと危険だなと思う。

 だけど「電気依存社会」、まあ政府の言い方では「電子政府」は元には戻らない。昔は僕も「暗闇の思想」に共鳴していた。これは豊前火力発電所に反対した作家の松下竜一氏の言葉である。明るさ、便利さ、豊かさのみを追求する社会のあり方でいいのか。あえて「暗闇」(不便さ)を甘受することも大切じゃないだろうかというのである。それは70年代初期のことで、まだカラーテレビやクーラーも普及してなかった。「電気」と言えば「電灯」を思い浮かべる時代だった。電気機械としては、掃除機とか洗濯機白黒テレビなどが中心だった。掃除は「ほうきとちりとり」で出来るし、テレビもガマンすればいい。

 もう現代の状況はそんなレベルじゃない。パソコンで事務するんじゃなくて、そろばんと電卓で計算すればいいとは言えない。(ちなみに「電卓」を正式に言えば「電子卓上計算機」だと知らない人も今ではいるかもしれない。)もちろん時間が掛かるけれども、計算そのものは電卓でも出来る。だけど、計算結果のデータを紙の上だけに留めることはできない。日本だけ、ある会社だけ、世界のシステムから切断してしまうことは不可能だ。そもそも「パソコン」や「スマホ」は、「電機」じゃなくて「IT」だと思われている。冷蔵庫や電子レンジと違って、単なる便利器具じゃなく「情報技術」なのである。

 何で電気がそのような「汎用性」(はんようせい=さまざまな用途や場面で用いることができ、有用であること)があるのか。それは「貯蔵」できるからだ。水車は水が流れ続ける。蒸気機関車は石炭をくべ続ける。家庭にある多くの「電機」(電気機械)は、テレビや冷蔵庫のようにコンセントにつなぎっぱなしである。その段階では皆が「電気は便利な道具」だとしか思ってなかった。でも早くから「乾電池」があって、「懐中電灯」とか電池式の「トラジスタラジオ」なんかは身近なものだった。

 だからリクツの上では、電話だってテレビだって、あるいは掃除機だって、持ち運べるはずなのは判っていた。でもバッテリー技術が「持ち運べる」レベルじゃなかった。1980年代後半にはすでに「携帯電話」が存在した。修学旅行や遠足などの時に、旅行会社が「携帯電話を用意します」と言っていた。でもそれはものすごく大きくて重いもので、大きさは紙の広辞苑の半分ぐらい、重さは広辞苑と同じぐらいあった気がする。生徒は持ってないんだから、生徒は公衆電話から掛けるのである。主な使い道は、学校にいる管理職への報告だった。そんな時代から数年すると、グッと軽くなり、さらにメールや写真機能が加わり、多くの人が持つ物となった。ベースにあるものは「バッテリー技術の発展」だろう。
(倒れた送電塔)
 電気に限らないが、商品生産物は「生産」と「消費」の場所が違う。電気も遠くで作って、都会に運ぶ。それはおかしいと言う人もいるが、どんな工場だって離れた場所で作って、都会の店に運んでくる。経済合理性から、それはやむを得ないことだ。しかし、普通の多くの商品では「生産」と「流通」は別の会社が担っている。本だったら、出版社と印刷所と書店は全部別。生産と流通を同じ企業が行うのは、宅配新聞と電気、ガス、水道ぐらいだろう。(まあ小さな会社では、自分で作って自分で運んで自分で売るところもあるが。)このように「電気」は、「発電」と「送電」が必要である。そして「蓄電」も可能だ。

 原発事故によって、発電方法をめぐる議論は盛んになった。それも大切だけど、「送電」と「蓄電」の重要性を忘れてはいけない。バッテリー技術の方は放っておいてもどんどん進歩していきそうだ。だが「送電」の方はどうだろうか。非常に鮮度を必要とする生鮮食品(「関サバ」とか)を除けば、普通は流通過程で価値は減らない。でも電気の場合、「送電」の過程で電気がすごくに減ってしまう。「電気抵抗」があるからだが、もし「常温超伝導」が実現すれば、世界は大きく変わる。それは今は無理だが、というか原理的に完全には不可能じゃないかと思うが、相当程度進歩する可能性があるらしい。電柱の地中化も含め、節電や再生可能エネルギーも大事だけど、国を挙げて「送電革命」を目指すべきだ。
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災害救助隊が必要だー台風15号と千葉県大停電

2019年09月17日 23時15分37秒 | 社会(世の中の出来事)
 2019年9月8日(日)夜半から9月9日(月)未明にかけて、関東地方を台風15号が通過した。台風15号は5日に発生し、小笠原諸島付近から伊豆諸島近海でさらに発達、強力な台風となって9日5時前に千葉市付近に上陸した。上陸時の勢力は、中心気圧960hPa・最大風速40m/sだった。関東に上陸する台風としては記憶にないほど強力だ。(その前に三浦半島を通過したというが、これは上陸と言わないんだろう。)その後、水戸市付近で海上に出て北上、福島や宮城にも被害をもたらした。

 こんな経路をたどった台風は記憶にない。予報では日曜から雨だという話だったが、昼間はほとんど影響がなかった。深夜になって強風が出てきたが、朝には通り過ぎていた。自分の家でも雨樋が一本飛んだり、木が曲がっていたりしたが、あまり被害はなかった。翌日の電車が昼になっても混乱していたが、台風は寝ている間に行っちゃった感じだった。これは本当にちょっとした偶然だと思う。

 台風は「東側が強風」である。千葉市上陸だから、千葉県は西北部を除きほとんどの地域が強風地帯になった。東京では案外平気だったと思っていた時に、千葉県で暴風被害が起きていた。その後、伊豆諸島(特に北部の大島や新島)でも大きな被害が起きていたことが判ってきた。千葉県では大規模な停電が発生した。当初は数日で復旧できるという話だったが、深刻な被害が明らかになり、一週間経った17日になっても、山武市、南房総市、八街市、富津市等を中心に計6万軒以上が停電している。
(倒れた電柱)
 電柱が倒れ、直しに行くと倒木がたくさんで、まずそっちを何とかしないといけない。それは東電社員には出来ない。連絡しようと思っても、携帯電話が使えない。そんな様子をニュースで見たが、今じゃインターネット(スマホやパソコン)で情報を発信したり収集するのが当たり前になっている。電気が使えないという事態を想定しなくなってしまった。そのため、大変な地域ほど情報が届かないことになる。それは東日本大震災などでも見られたが、改めて「電気依存社会」に生きていることを痛感した。
(倒木の状況)
 台風による「暴風被害」は今までも時々見られた。1991年9月に九州から日本海を経て北海道へ通過した台風19号は、死者62名を出した。青森県でリンゴが大被害を受けた「リンゴ台風」と呼ばれたことで記憶されている。また1998年9月の台風7号は、奈良県の室生寺で倒木が国宝の五重塔を直撃し大被害を与えた。最近は集中豪雨による土砂災害洪水が多かった。しかし、少し長く見てみれば、暴風高潮などの台風被害も数多い。もちろん台風・集中豪雨以外に地震津波噴火竜巻豪雪干ばつなどの災害も何度も起こってきた。災害の多い国だと思う。

 東日本大震災の時に「日本に自衛隊がいてよかった」という本が出された。確かに自衛隊の災害出動で、自衛隊の認知、支持が上がったのは間違いない。しかし、とその時から思っているのだが、「自衛隊がない」=「災害救助隊がない」ではない。1950年のマッカーサー指令で「警察予備隊」が作られなかったら、「実力組織」が何もないということにはならない。災害の多い日本では、まず必要な「災害救助隊」を作ろうという声が出たはずだ。少なくとも、1959年の伊勢湾台風の大被害を経験した時点で、必ずや「災害救助隊」が作られていただろう。

 自衛隊は「災害救助」をする組織ではない。そのことは自衛隊法に明記されているので、自分で調べて欲しい。自衛隊の「任務」は第3条に書かれているが、そこに災害は規定されていない。じゃあ、なんで災害派遣されるのかというのは、自衛隊法の下の方まで見ていって「第83条」まで行かないと出てこない。今日のニュースで、自衛隊もブルーシートを屋根に張る作業に参加しているが、専門じゃないので貼り方の指導を受けている様子が報道されていた。確かに自衛隊(をどうとらえるかは別にして)ではブルーシートを張っていく作業は経験しないだろうなと思った。

 倒木を片付けて道路を通れるようにすること、屋根が飛ばされた家でブルーシートを張ること。そういう業者も民間にいるんだから、公の災害救助隊があるのがいいのか、難しい面もある。だが、これほど毎年何かしら大災害が起きる国では、「本務」として「災害救助」を専門に行う公的機関が必要ではないか。災害がないときは何をしていればいいか。僕は「空き家の解体」を公的に行う機関にしたらいいように思う。国家的に作るのを待ってられないから、都道府県が共同で始めてはどうか。

 最近は房総半島に旅行してないけど、今までに何度も行く機会があった。個人でもそうだし、仕事絡みでもずいぶん行ってる。何度も行った「道の駅 とみうら枇杷倶楽部」の屋根が飛ばされた映像にはビックリした。房総は海辺を思い浮かべる人が多いだろうが、案外山が深い。高校の時、鹿野山(かのうざん)に寮があり、ずいぶん遠いなと思った。その後ドライブするようになると、内房から外房が遠いのも驚き。今後また行く機会を作りたいと思う。
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タル・ベーラ渾身の傑作「サタンタンゴ」を見る

2019年09月16日 20時59分31秒 |  〃  (旧作外国映画)
 ハンガリーのタル・ベーラ(Tarr Béla、1955~)監督が1994年に作った、7時間18分にも及ぶ「サタンタンゴ」(Sátántangó)が公開された。前に一度日本でも上映されているが、あまりにも長いから敬遠した。今度は正式な劇場公開だから、やはり見ておこうと思い、タル監督(ハンガリー人だから、姓名の順で表記する)のティーチインがある日に予約を取った。長くて長くて、最後の方はお尻が痛くなるは、目はショボショボするは、内容以前に肉体的限界に挑むような映画体験だ。2時間40分ほどで1回目の休憩(15分)、さらに2時間ほど経って2回目の休憩(25分)が入った。

 タル・ベーラ監督に関しては「タル・ベーラの映画を見る」を2012年11月に書いている。その時点で見られた「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(2000)、「倫敦から来た男」(2007)、「ニーチェの馬」(2011)について書いている。ウィキペディアを見ても、「サタンタンゴを含めた4本しか載ってない。「サタンタンゴ」のパンフレットを見て、初めて短編やテレビ作品を含め8本をハンガリーで撮っていることを知った。それらは「社会派リアリズム」やジョン・カサヴェテスみたいな映画だという。

 「サタンタンゴ」以後の4作品には共通点がある。(そして「ニーチェの馬」で映画監督引退を表明しているから、この4作のみになる。)とにかく、一つのカットが長い。極端な長回しである。「サタンタンゴ」は7時間超に対して、150カットだという。「ヴェルクマイスター・ハーモニー」も、145分に37カットしかない。どの映画も画面が暗い。あえて太陽を避けるように撮影されている。「サタンタンゴ」は寒村の寂れきった村で、秋の長雨シーズンに雨が降りつのる。ここまで寒々しい映画も珍しい。冒頭から、ひたすらカメラは見つめ続ける。動かないわけじゃなくて、パンや移動で世界をグルッと見せてゆく。

 特に風が吹きゴミが吹きすさぶ道を男たちが遠ざかってゆくところを追い続けるシーン、遠ざかる人々を長く見つめるシーンなど、忘れがたい映像が多い。カメラの位置や動き方は、非常に独自である。酒場で飲んでる人々を描くときは、普通なら飲んでる姿を前から映す。全景を見せたければ、別のカメラで撮ってつなげるだろう。ところがこの映画では、飲んでる男の後ろから撮っている。画面の右半分が後ろ姿で黒くなってる。そこからカメラが右に移動する。そうれじゃあ男の背中が画面を覆ってしまうではないか。その通りで、画面は真っ暗になる。やがてカメラはさらに動き、今度は男の背中が左になる。画面が暗いんじゃなくて、真っ黒で何も見えないシーンが何度かある。そんな映画は他にない。
(タル・ベーラ監督)
 「サタンタンゴ」は表面的な筋書きがよく判らない。原作があると言うことで、原作者のクラスナホルカイ・ラースローとともに映画化している。名前を知らないけど、2015年に国際ブッカー賞を受賞してノーベル文学賞候補に名が上がる作家だという。原作と同じく、映画は12章に分かれる。タンゴは6歩進んで、6歩下がるというステップに合わせている。休憩を挟んで前半の6章が、その後に後半の6章がある。最初の方で「イリミアージュがやってくる」と何度も言うけど、イリミアージュとは何者か判らない。全然出て来ないから、来ると予告して来ない物語かと思ったら、後半にちゃんと出てきた。

 一体いつ頃の話かもよく判らない。パソコンもケータイもないのは、もともと1994年の映画だから当然だが、自動車も出てこない。馬車を使ってるから大昔なのか。後半に入って、テレビや自動車も現れるから、実は現代だったのか。物語の意味は、パンフで深谷志寿氏の文章を読むと氷解する。えっ、そういう話だったのかと思うが、ここではあえて書かない。ただ一言だけ、冒頭から寂れきった廃村が描かれるが、これは社会主義体制崩壊期の集団農場解体を意味しているという。そのことは外部の人には言われないと判らない。しかし、原作も映画も社会派的な展開をしない。タル・ベーラの映像感覚に従って、ひたすら崩壊する世界を見続けるしかない。

 途中で時間感覚があいまいになってくる。長いからということじゃなく、どうも時間軸がずれていたのかなと思う。最後になって、やはり円環状の構造になっていた。それが「タンゴ」だということなんだろう。停滞し蜘蛛の巣に飲み込まれそうな「世界」に、傷つけ合う人々。そこに出現する「救済の可能性」。冷たい雨が降り続き、夜明けが遠い世界に生きることの意味。「偽りの解放者」に依存する人々。いろんな解釈が可能だろうが、現実的意味ではなく、暗い映像を見つめる意思が問われるような映画だ。

 「サタンタンゴ」は、1994年のベルリン映画祭でカリガリ映画賞を受賞した。賞の名前に聞き覚えがあるなと思ったら、独創的な作品に与えられる賞で、日本人では原一男「ゆきゆきて、神軍」と園子温「愛のむきだし」が受賞している。そう言えば、破格の作品という共通点がある。マーティン・スコセッシが「真の映画体験」と呼び、ガス・ヴァン・サントが影響を受けたと語る。そんな映画作家の25年も前の映画だが、あまりの巨編にたじろぐことなく、人生で一回は見る価値がある。ただエンタメ作品3本立てと違って、やっぱり疲れたな。
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映画の中の独ソ戦

2019年09月14日 23時02分20秒 |  〃  (旧作外国映画)
 「独ソ戦」について本を読んだので、一回「独ソ戦を描いた映画」のスピンオフ。僕はおおよそ若い頃に見たソ連映画で独ソ戦の印象が作られた。それらは「大祖国戦争」のプロパガンダでありつつ、「大祖国戦争を戦った人々を描く」と言えば検閲が通りやすかったので才気ある映画が多い。1956年の「スターリン批判」後の「雪どけ」時代に作られた映画には世界的に評価された作品も多い。 

 その前に、独ソ戦映画史上最高の問題作、エレム・クリモフ監督の「炎628」(1985)に触れないといけない。ドイツ占領下のベラルーシで起きた残虐な戦争犯罪の数々を少年の目で描いた映画である。あまりにも強烈な描写が続き、ラストの少年の変容に衝撃を受けない人はいないだろう。単なる「通常の戦争犯罪」(戦犯裁判でのB級犯罪)ではなく、「世界観戦争」としてのナチスの「絶滅政策」が基にある。ナチス「第三の男」と言われたハイドリヒが創設した「特別行動部隊」(アインザッツグルッペン)による凶行だったという。この映画は戦争犯罪を直視した映画として必見だ。
(「炎628」)
 50年代に作られた映画の中で、僕が好きなのはグレゴリー・チュフライ監督の「誓いの休暇」(1959)。日本でも評価され、1960年のキネ旬ベストテン10位になっている。戦功をあげた若い兵隊が6日間の休暇を貰い、故郷の母親に会いに戻る。しかし、道中で頼まれ事を引き受けたりしているうちに時間がどんどん立ってゆく。軍用貨車に乗って少女と知り合って、心を通わせたりする。故郷が近づくと空襲で列車がストップ。ようやく故郷に帰ったら、すぐに帰らないといけない。それだけの映画なんだけど、若くて素朴で純粋な主人公は、もう二度と母には会えないのだ。そうなるんだろうと判っていながら、ラストでそれが示されると涙なしには見られない。何度か見てるけど、何度見ても感動する。
(「誓いの休暇」)
 同時期の映画としては、有名な俳優だったセルゲイ・ボンダルチュク監督の初監督作品「人間の運命」(1959、60年キネ旬7位)。ショーロホフの短編の映画化で、戦争で家族を失った孤独な老人と子どもが共に生きてゆく姿を見つめる。ミハイル・カラトーゾフ監督「戦争と貞操」(1957、カンヌ映画祭グランプリ)は戦争で別れ別れになった恋人たちの運命を描く。再公開時に「鶴は翔んでゆく」と題名が変更された。(結婚してわけではない恋人たちに「貞操」は大げさ。)僕は大昔に見たけど、再見してないのでよく覚えてない。タルコフスキー監督の長編第1作「僕の村は戦場だった」(1962、ヴェネツィア映画祭金獅子賞)は、12歳の少年が家族をドイツ軍に奪われ、軍に加わって偵察任務を繰り返す。題名も印象的で、過酷な戦場を詩的に描き若き才能の登場を知らしめた。
(「僕の村は戦場だった」)
 これらは当時も非常に高く評価された映画。ソ連軍や「銃後」の否定的な側面が出てこないわけではないが、それは背景事情である。主人公の運命は(悲劇的であっても)肯定的に描かれるから、公開されたのだろう。もう一つのタイプとして、公開禁止になったソ連映画がある。有名なのはアレクセイ・ゲルマンの「道中の点検」(1971)で、ソ連軍の官僚主義を批判して、ペレストロイカ最中の1986年まで公開できなかった。「誓いの休暇」のチュフライが作った「君たちのことは忘れない」(1978)も、母親が負傷した次男を軍に送らず匿い続けるという「脱走兵」もので、上映禁止になった。今は時々日本でも上映されているが、そんな映画もあるのである。また、ソ連政府、映画界が総力を挙げた国策映画としては、「ヨーロッパの解放」(1970)三部作がある。日本でも当時公開されたけど、僕は見る気がしなかった。「独ソ戦」片手に見直してみると面白いかもしれない。

 有名なスターリングラードの激戦については、ジャン=ジャック・アノー監督「スターリングラード」(2001)がすさまじかった。米独英アイルランドの合作映画である。またサム・ペキンパーの「戦争のはらわた」(1977)は、アメリカ映画でありながらドイツ軍の視点で独ソ戦を描く。例によってヴァイオレンス描写がすごく、皆英語を話すのも変だから僕には違和感があった。狭義の独ソ戦じゃないけど、独ソにはさまれたポーランドの悲劇を描く映画も多い。アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」(1957)や「カティンの森」(2007)などで、特にこの2作は必見だろう。その必見理由を解説し始めると長くなるから、やめておく。もっといろいろあるけど、有名な作品にしぼった。
(「カティンの森」)
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大木毅『独ソ戦』『「砂漠の狐」ロンメル』を読む

2019年09月13日 23時15分49秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の『独ソ戦』が売れてるらしい。そう言えば独ソ戦にしぼった新書って見たことがない。著者は大木毅(おおき・たけし、1961~)という人で、僕は知らなかった。紹介を見ると、春に刊行されて評判になった角川新書の『「砂漠の狐」ロンメル』の著者だった。両方読んでみたので、新書2冊の紹介。そして著者の大木毅氏に関して最後に。
(『独ソ戦』)
 独ソ戦、つまりナチス・ドイツソヴィエト連邦の戦争は、この本で詳しく描かれるように、「戦闘のみらず、ジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられた」「人類史上最大の惨戦」である。それがこの本の基本的な視点で、ソ連崩壊後の新資料などを使った新研究を生かしている。かつてはソ連の犠牲者は約2000万人とされていたが、ソ連崩壊後に上方修正され、約2700万人が犠牲になったという。

 第一節冒頭に、ゾルゲ事件で知られるリヒャルト・ゾルゲが在東京のドイツ大使オットーから得た、6月下旬にドイツがソ連に侵攻するという情報が出てくる。ソ連共産党書記長のスターリンが読んだ印があるという。実はゾルゲだけでなく、ドイツ侵攻が近いという幾つもの情報があった。しかし、スターリンはそれらの情報を一切信用しなかった。イギリスへの不信が強く、対英戦争が続くドイツが独ソ不可侵条約を捨て去るわけがないと信じたかった。それにスターリンの大粛清で、ソ連軍は将校の多数が失われガタガタになっていた。その実態は驚くべきレベル。

 ソ連軍の惨状から、開戦直後のドイツ軍は「快進撃」を続けた。しかし、作戦策定から実戦までを丹念に検討し、決してドイツ軍が圧勝していたわけではないことを示してゆく。作戦や戦闘のいちいちを紹介する必要はないだろう。僕もロシアやウクライナの地勢にそんなに詳しいわけではない。何となく大平原が続くように思っていても、実際はいくつもの大河が流れ、鉄道や道路も使いづらい。鉄道はドイツと違ってソ連は広軌だった。道は整備されてなくて、秋になって雪が降ると溶けて泥道となる。また首都モスクワを制圧するか、カフカスやバクーの油田確保を優先するかで争いがあった。

 独ソ戦には「三つの戦争」があると著者は指摘している。一つは純軍事的な通常戦争。そしてそれにとどまらない「収奪戦争」。西部戦線での戦争は、比較的にではあるが「通常戦争」的で、捕虜は一応保護し国際法を守る姿勢を示した。それに対し、戦線が広すぎて補給が間に合わないという理由もあって、ソ連や東欧では大々的な「収奪」が行われた。休暇で戻るドイツ兵は、食料を持ち帰る指令が出されていた。ウクライナだけで、1700万頭の牛、2000万頭の豚、2700万頭の羊、1億羽のニワトリが徴発されたとある。その数の多さが衝撃的だ。

 それに続き「絶滅戦争」という側面があった。「世界観戦争」でもあった。ナチスの考えでは、スラブ人は劣等民族であり、共産主義は絶滅すべき思想だった。そのためソ連軍の「政治委員」は基本的に捕虜とはしない方針がとられた。つまり、その場で虐殺するのである。しかし、その結果ソ連軍が降伏しないで徹底抗戦するようになり、軍事的には逆効果だった。それでもナチスの「世界観」に基づくものだから、変わりようがない。そして東部の占領地域から「絶滅収容所」が作られてゆく。

 一方、ソ連軍は「大祖国戦争」と呼んで、ナショナリズムに訴えて反撃に移る。だがソ連軍にも残虐行為が多かった。2万2千人に及ぶポーランド軍の将校がソ連軍に虐殺された「カティンの森事件」は有名だ。他にも捕虜の虐待、ドイツ軍に協力しかねないと考えられた少数民族の大移動など、ソ連の行為もひどい。それにしても、ヒトラースターリンも、リーダーとしての資質が完全に欠けている。こんな人物が独裁者だったのかと改めて衝撃を受ける。

 『独ソ戦』だけで長くなってしまったので、『「砂漠の狐」ロンメル』は簡単に。名前だけは有名だけど、細かいことは知らなかったロンメルの実像を生き生きと描き出している。ロンメルが有名になったのは、北アフリカ戦線である。同盟国のイタリアが支配していたリビアが、エジプトにいた英国軍の侵攻で危機に陥る。そこから地中海、バルカン半島、そしてイタリアへと連合軍が進攻する可能性を阻止するために、ドイツ軍が救援に行った。ロンメルの急襲戦術でリビアを奪還し、一時はエジプトをうかがい、ロンメルはスエズ運河まで進撃すると豪語した。

 ロンメルはそのことで世界に知られたが、僕はこの本で初めて詳しいことを知った。元々はドイツ南西部のヴュルテンベルク王国(中心都市はシュツットガルト)のプチブル出身で、軍内ではアウトサイダーだった。ドイツ軍ではプロイセン出身で、軍事教育を受けた軍人が出世できたのである。日本で言えば、長州閥に属さず東北地方出身だったというようなものだ。それが出世できたのは、第一次大戦で奮闘し勲章を貰ったから。その戦闘指導を見ると、精神主義で突進を命じる日本軍みたいだ。後にその経過を「歩兵は攻撃する」という本にまとめ、ベストセラーになりヒトラーの目にも止まる。

 アフリカ戦線の様子を見ると、兵とともに前線に出撃するロンメル流が、軍事指揮官としては不適切だった。補給無視で突出するロンメルが、ナチスの宣伝で英雄視されたのである。そして無理な命令を出し続けるヒトラーに最後は幻滅し、反ヒトラーになってゆく。『独ソ戦』には出てこないアフリカ戦線や西部戦線(フランス)の実情が判るので、この両書は合わせ鏡のようになっている。軍事用語や作戦の詳細がけっこう面倒だけど、近現代史に関心がある人には有益だ。
(大木毅氏)
 著者の大木毅氏は、立教大学で博士課程まで終えたあと、千葉大や防衛省防衛研究所などの講師と本に出ている。ウィキペディアを見ると、そもそも「大木毅」ではなく、「赤城毅」(あかぎ・つよし)なる頁に飛ぶ。赤城毅というのは、著者が戦記小説や冒険小説を書くときのペンネームらしい。ものすごくたくさんの著書がある。代表作に上がっているのは、『帝都探偵物語』『ノルマルク戦史』『紳士遊戯』などだという。一方でドイツ軍事史を中心に多くの著書や論文を持つ研究者でもある。今後はドイツを中心にして、軍事史に関する一般書をもっと期待したい。
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