尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

社会科「虐待」の黒歴史-歴史教育を考える②

2018年05月31日 22時50分01秒 |  〃 (教育問題一般)
 社会科は学校教育の中で「虐待」され続けてきた。そういう風に感じている社会科教員が多いと思う。虐待どころか、高校の学習指導要領ではとっくの昔に「社会科」はなくされてしまったんだから、「虐殺」というべきか。「社会科」が高校にはないということは、1989年(平成元年)告示の学習指導要領で決められ、1994年から実施された。もはや平成も終わろうかというのに、いまだに「主要5教科」などと言う人がいる。(都立高校の進学指導重点校の「数値目標」を見ると、そう書いてある高校がある。都教委もその書類を訂正せずに受け取っているから驚く。)

 高校では「社会科」は「地理歴史科」と「公民科」に分割された。社会科教員で賛成した人はいないだろう。分けられたことにより、それ以後の教員免許は「地理歴史」「公民」となり、片方しか持っていない人も増えている。島しょ部や夜間定時制など教員が少ない高校、あるいは勤務形態が特殊な三部制高校などでは、困ってしまうケースも出てきているだろう。(大学で両方取れるように履修すれば両方取得できる。)それはともかく、この高校社会科解体は、中曽根内閣の「戦後政治の総決算」路線の一環だった。戦前は「国史」として皇国史観を教え込む教科だったものが、戦後の教育改革で「民主主義を担う人材を育てる」社会科に改編された。

 そういう意味じゃ「社会科」は常に教育行政を支配する保守派に疎まれて来た。「戦争はいけない」「憲法を護れ」と教える教員が多かったのは確かだろうし。それをはっきりと示しているのが、義務教育段階である中学での授業時間数である。1958年告示の指導要領では、1年・2年・3年の標準時数が「4・5・4」=計13時間もあった。1969年告示の指導要領でも、「4・4・5」と学年の配当は違うけれど、やはり卒業までに週13時間も勉強していた。自分はその頃の中学である。

 1977年告示の指導要領では、「4・4・3」と計11時間と2時間も減っている。僕が中学教員になった時はそれで、教えきれないことが多くて困った。しかし、それがまだ減っていく。1989年の指導要領では「4・4・2~3」と変則的な制度となり、さらに1998年告示では「105・105・85」になる。判りやすくするために、年間総時数を今まで週当たりに変換して書いてきた。学校は年間35週なので、105とは、つまり週当たりの時間割に3コマ社会科があるという意味である。「85」では割り切れない。僕はその頃は高校に転じていたので、一体どうしたのかよく知らない。

 こんなに減らしてどうするんだと言うと、「選択教科」と「総合学習」に回ったのである。土曜が休みになり学習時間が減ったこともあるが、それだけでなく「個性を育てる」の名目のもとで、中学社会をどんどん減らしたのである。これだけ時数を減らせば、当然のごとく駆け足的、暗記重視的な授業になるしかなく、社会的な批判意識を養うような授業をする余裕がなくなる。若い世代は選挙に行かないとか、新聞も読まないなどと批判されることが多いが、こうしてみると「文科省の意図した政策」によって作り出されたものだいうことが判る。

 その後、2007年告示の指導要領で選択授業がなくなり、社会科も「3・3・4」とある程度増やされた。(しかし、一番増えたのは各学年3時間から各学年4時間になった英語である。)2017年告示の指導要領でも時数は変わらない。それはまあ増えたとは言えるけど、中学1年、2年で3時間ずつでは、地理、歴史も終わらないだろう。この時数削減は高校に影響してくる。昔と違って、中学の歴史的分野では世界史がほとんど出て来ない。それもあって、高校の社会科がなくなった時から、地理歴史では「世界史」が必修となった。(それ以前は社会科で現代社会のみ必修。)この結果、進学校での「世界史未履修問題」が後に起こることになる。

 国語は全教科のベースだと言われ、数学は思考力を養う教科だとされる。英語は国際化する社会の中で重点的に取り組まないといけないという。このように「3教科」は大学受験もあってとりわけ大事だとされる。じゃあ、理科はと言うと「理科教育振興法」があり、予算的にも恵まれている。文科省肝いりで、「スーパーサイエンスハイスクール」(SSH)という国策も展開されている。理科に実験が必須なのは判るけど、多くの高校には「物理室」「化学室」「生物室」「地学室」など特別教室が整備されている。社会科系にはうらやましい限りだ。国が地歴・公民に分けたんだから、国が特別予算を組んで「地理歴史室」「公民室」と2つ作れと言いたいぐらいだ。

 しかし、まあ設備的な面は諦めよう。問題は何のために勉強するかも判らず、「暗記科目」と思い込んでいる生徒に対して何を言うかである。現実社会を考えるための必須の学習だとしても、近代・現代の日本の暗部に切り込んでいく授業をすれば、ともすれば「問題」とされる。校務分掌や部活動に加えて、社会科教員は多くの学校で「旅行行事」担当になることも多い。自分はすべての勤務校で、自分の学年の旅行担当をした。旅行の企画は大好きだからそれはいいんだけど、「社会科」にはよくそういう仕事も回ってくる。

 新指導要領では、地理歴史科で「地理総合」「歴史総合」、公民科で「公共」という新しい2単位科目が設置される。歴史系では初めて日本史、世界史の枠を超えた新科目である。「公共」というのもどうなるのか、今はよく判らないことが多い。そういう問題を考えるのも大事だけど、僕は高校で社会科を復活させることが先決なんじゃないかと思う。「社会科」に込められた思いを再確認するところから出発する必要がある。「アクティブラーニング」の掛け声に合わせて、歴史や地理も「考える授業」にしようなどと意気込んでもなかなか難しい。
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福沢「ゆきち」を漢字で書けますか?-歴史教育を考える①

2018年05月30日 22時50分54秒 |  〃 (教育問題一般)
 時々「教育問題」を書かないといけない気分になる。教師論や教育行政の話も大事だけど、教育の中身も考えたい。「英語教育」とか「部活動」など中途半端になってるんだけど、そもそも専門である歴史教育の話を書いてない。まあ僕は「先端的な歴史教育の実践家」とは言えない。様々な史料をもとにして、「考える授業」や「討論する授業」もあるけど、そういう報告を見るたびに「生徒に恵まれてるんじゃないか」などと思っていた方である。

 だから僕が特に何か書かなくてもいいんじゃないかと思ってた。しかし、このたび日本エッセイスト・クラブ賞を受けた新井紀子「AI VS 教科書が読めない子どもたち」を読んで、子どもたちの読解力が不足していると驚いていたのに、こっちは逆にビックリした。そんなことは誰でも知ってることだと思ってたのである。学力が低い生徒には様々のパターンがある。本人がただ単に怠けているわけではない。家庭環境もあれば、発達障害も見られる。遊んでいて試験勉強をしない生徒もいるけど、勉強のやり方を教えてもらってない生徒もいっぱいいると思う。

 どちらかというと、僕はそのような生徒と接してきた。授業は「学習指導」であるが、むしろ「生活指導」でもあるような指導を続けてきた。そういう生徒には、テストに向けて頑張ることで「成果」に結び付くような授業じゃないといけない。そのためには、むしろ一定の「暗記授業」も大切だ。「考える授業」は基礎学力の不足している生徒には辛いだけである。そういう問題は次回以後にまた考えたいと思うが、いま文科省を中心に「アクティブラーニング」を推進しているけど、学力が高い生徒でないと食いついていくのが難しくなることは知っておかないといけない。

 リクツの問題は置いといて、僕が実際に教えていて驚いたのは「字の間違いの多さ」である。水俣病を「みずたま病」とか、ヒマラヤ山脈を「ひらやま山脈」とか。どっちも実例だが、なんだか強烈に覚えている。日本史だと、戦国時代を終わらせた「三英傑」、織田信長豊臣秀吉徳川家康は極めつけに重要な人物だろう。日本史の勉強というより、日本人なら誰でも知ってる常識である。でも、これがけっこう書けない。「識田」とか「豊富秀義」とか書いてくる。

 そういう生徒が各クラスに数人はいるので驚いてしまった。書かせなくてもいいという考え方もあるかもしれない。でもこれほどの有名人だと、やっぱりちゃんと漢字で書けないとまずいんじゃないか。今はスマホやパソコンでレポートも書くんだから、何も字にこだわる必要もない。あまり難しい字は僕もそう思って指導した。「奴隷貿易」「奴隷解放宣言」の「隷」の字は、まあ普通一般生活で書くこともないと思う。読める必要はあるが、書けなくてもいいだろう。でも人名は書けて欲しいと思うのである。常識ということもあるけど、それだけじゃない。

 そこでタイトルの話になる。福沢「ゆきち」の名前の方を漢字で書けるだろうか。そんなのは簡単だという人ばかりではない。僕の経験では、「遣唐使」とともに事前に何度注意しておいても必ず何人かは間違う日本史用語ワースト2である。遣唐使に先立つ「遣隋使」の方を書かせると、もちろんもっと多くの間違いがある。でも「」はすぐ亡びたし、まあいいか。とにかく「」と「」、世界遺産と派遣労働、絶対に読み書きできないといけない「現代用語の基礎知識」だ。

 ホント言うと、「福澤」であってほしいところだが、それはまあいい。この人は教科書に必ず出てくるし、一万円札の肖像でもある。幕末から明治半ばまで、さまざまなところで出てくる。昔は「学問ノススメ」だけだったけど、今は「脱亜論」が取り上げられることも多い。「福翁自伝」というものすごく面白い自伝(語り書きだが)もあって、これは歴史教師だけでなく多くの人に読んで欲しい本である。歴史教育に使えるエピソードが満載である。

 「福沢ゆきち」をもとに多くの「考える授業」、「アクティブラーニング」を構想することができる。だが、それほど重要な人物だから漢字で書けないといけないというのではない。そういうことじゃなくて、「ちゃんと字の違いに注意して、テスト勉強できる」という生活習慣がないと、例えば運転免許の筆記試験でも合格できないんじゃないか。世の中で書かなくてはいけない書類に見落としをしちゃうんじゃないか。注意深く覚えるという習慣、そっちが大事なのである。そのために事前に何度も注意し、気をつけるように言う。そして実際に書いてみるように指導する。でも何人かの生徒は「論吉」「輸吉」ときには「輪吉」とさえ間違うのである。で、もちろん正解は判りますよね。
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オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②

2018年05月29日 22時51分02秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 前回が途中で終わってしまったので続き。麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚は、刑事訴訟法が執行を禁じる「心神喪失」の状態にあるのか。麻原彰晃は一審途中から不可解な言動が多くなり、やがて弁護士や家族ともコミュニケーションが取れなくなった。一審の死刑判決後、控訴審では弁護団の問いかけに答えず、控訴趣意書が提出できなかった。弁護側は公判停止を求め、精神鑑定が行われた。裁判所が依頼した鑑定では訴訟能力が認められ、控訴棄却となった。それを最高裁も認め、2006年9月には死刑判決が確定した。その状態をどうとらえるか。

 一審で弟子たちの離反が相次ぎ、厳しい判決が予想された。その頃から不可解になったので、麻原は「詐病」だという考えがある。「詐病」(さびょう)とは「病気のふりをする」ことで、精神状態は正常だという判断になる。「都合が悪い現実から自己逃避して精神が崩壊する」というのは、まさに病気なのだから「詐病」とは言わない。当初は「詐病」的な部分がなかったとは言えないかもしれないが、ここまで長く「詐病」を続けることが人間には可能なのだろうか

 「詐病」そのものが可能なのかどうか僕には判らないが、今では「詐病」説はむしろ麻原彰晃の「偉大さ」を主張するものじゃないだろうか。食事はしているんだから病気じゃないなどと言う意見も見たことがあるが、重い精神疾患の患者は餓死してしまうのか。「摂食障害」じゃないんだから、そりゃあ食事は取るだろう。「詐病」説の人の多くは、「統合失調症」などの精神疾患は「こんな症状」があるはずだと自分なりのイメージを持ち、そうじゃないから詐病だいうことが多いように思う。病態には様々のヴァリエーションがあって当然で、あまり簡単に判断できないものだと思う。

 長い拘束があると「拘禁反応」が起きるのは間違いない。およそどんな人にも起こり得るだろうが、近年まざまざと見ることになったのが袴田事件の袴田巌さんである。無実を訴え続けていた袴田さんが、いつしか姉の面会にも応じなくなり、不可解な言動をするようになった。再審請求が認められ、確定前だけれど釈放が認められた。釈放後の様子は映像で伝えられているが、釈放されたあとになっても不可解な言動はすぐには無くならない。紛れもなく無実である(と考える)袴田さんでさえそうなんだから、麻原彰晃に異常な「拘禁反応」が起こっても不思議はないだろう。

 いや、もちろん精神医学の専門家でもなく、本人に面会したわけでもない僕には正確な判断はできない。もっと重い精神疾患(統合失調症など)であるかもしれず、また「詐病」なのかもしれないが、それにしても何らかの拘禁反応は生じていると推測するのが常識的な判断ではないだろうか。問題はそれが「心神喪失」とまで言えるかどうかである。その場合、刑事裁判なら罪の軽減をしなくてはならない「心神耗弱」状態に止まっているとしたならば、どう判断すべきか。

 刑事訴訟法にきちんと規定されている以上、「心神喪失」者の死刑を執行したら、それは「殺人」だろう。問われている罪の大きさから、麻原彰晃は単なる死刑囚の一人とは言えない。執行には一点の曇りがあってもいけない。それは死刑制度の存廃などの議論とは関係ない。むしろ死刑賛成者こそが論じるべき問題だろう。少なくとも法務省が誰の意見も聞かず、急いで執行してしまうようなことはあってはならない。麻原彰晃の精神状態をどう考えるか、多くの人が関わる議論が必要だ。多くの報道機関がこの問題をスルーしているのはおかしいのではないか。

 「第一」の論点で長くなってしまった。第二の論点はオウム真理教事件の特異な性格である。オウム真理教にはあまりにも多数の犯罪行為があり、多数の人が複数の事件に関わった。そのため「統一的なオウム真理教法廷」などはなく、個々バラバラに裁かれたが事実認定と量刑は同じ構造を持っている。教祖である麻原彰晃が自ら実行した事件はないわけだが、主要な事件、坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件などは麻原彰晃が主犯とされた。すべては教祖の命令によるものという認定になっている。だから、「主犯」が「心神喪失」で死刑執行ができないとしたら、命じられて従った実行犯だけを死刑にしていいのかという問題が起きる。

 地下鉄サリン事件を例にとると、サリン製造と散布は死刑、運転手は無期懲役である。一般的に言って、実行犯は重く、運転手だけなら軽い。銀行強盗なんかの映画では、そこから分け前をめぐって争いが起きるのが通例である。でも、この事件では運転手になるか、車内で散布するかの違いは本質的なものではない。運転手でも坂本弁護士、松本サリンの実行犯である新実智光は死刑だが、彼の車に乗っていた林郁夫は霞ヶ関駅で2人の死者が出たにもかかわらず自首が認められ無期懲役になっている。

 それは理解できるのだが、丸の内線荻窪発池袋行列車の実行犯横山真人の場合、唯一死者が出なかった。もしこの事件だけだったら、殺人未遂や傷害では死刑判決にはならない。死者が出るか出ないかは偶然であって、刑事責任に変わりがないとも考えられるが、それを言えば、散布役か運転手かも本人が決めたことではない。地下鉄サリン事件では、実行犯の広瀬健一横山真人豊田亨林泰男の4人が死刑判決だが、それぞれの車内での死者数には違いがある。しかし、総体として地下鉄サリン事件という一体の犯罪として裁いた。刑法上問題はないけれど、なんだか裁判官が事前に打ち合わせしたかとさえ思えるほど同じ判断をしている。

 この特異な事件と裁判結果を見ると、決まった以上は死刑を執行しなくてはいけないと考えるのもどうなんだろう。世界的に注目された事件だけに、世界でテロ実行犯に関する死刑論議が起きるだろう。だからと言って、この事件だけ新しい仕組みを作るのも確かにおかしい。じゃあどうするべきか。とりあえず「主犯」である麻原彰晃の精神状態に関する判断をどうするかを法務省が考えるべきだ。そして「恩赦」制度がある以上、可能性を考えるべきではないかと思う。無罪であるとは到底考えられないので、もし「終身禁錮」という刑があれば、比較的にはふさわしいかと思う。
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オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①

2018年05月28日 23時22分04秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 オウム真理教事件死刑囚の執行が近いという観測がなされている。2018年1月18日付で、最後まで続いた高橋克也被告の無期懲役判決が最高裁で確定した。これで1995年に摘発されたオウム真理教事件の裁判が、逃亡していた人も含めてすべて終わった。3月14日には、12人いる死刑囚のうち7人が東京拘置所から他の拘置所に移送された。(死刑囚は「懲役刑」ではないので、死刑確定後も刑務所ではなく拘置所で拘束され執行される。)死刑執行とは直接関係ないと法務省は言ってるようだけど、やはり執行の準備なんじゃないかと言われている。

 この問題は一度ちゃんと書いておきたいと思っていた。国会会期末も近づいてきたから、そろそろ書かないと。(年によって違うが、近年は国会終了後の6,7月頃に死刑執行が多い。)僕はそもそもが死刑廃止論者なので、原則的には世界各国のすべての死刑に反対なんだけど、ここで書くのは死刑廃止論の理由ではない。オウム真理教事件の特別な事情を考えたいのである。

 4つの理由と書いたけど、それらは別々のものではなく関係している。第一の理由は主犯とされる麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の現状が不明で、「心神喪失」の可能性があることである。第二の理由は、オウム真理教裁判の独特な事情である。第一と第二は書きだすと長くなるから後に回す。第三は「再審や恩赦の検討が不十分である」ということだ。

 死刑に関しては様々な考えがあっても、現に死刑という制度が厳然とあるのは間違いない。だから法に決まっている執行をしないわけにはいかないというような発想の人が時々いるけど、そんなことを言うなら死刑囚にも再審や恩赦という制度が厳然とある。そっちも尊重しないといけない。再審請求をしている死刑囚もいるんだから、その決着がつかないままでは執行できないはずじゃないのか。仮に本人に再審や恩赦の意向がなくても、今や再犯可能性がゼロというべき死刑囚に対して恩赦は十分考えていいのではないか。

 第四はオウム真理教事件が「大量破壊兵器」を使った「宗教テロ」だったことだ。21世紀を迎えると、毎日のように宗教テロや大量破壊兵器(核兵器や化学兵器)に関するニュースを見聞きしている。世界が最初に衝撃を受けたのが、1995年の地下鉄サリン事件だった。そういう事件は完全な解決が難しい。指導者(教祖)を死刑にすれば、かえって伝説的なカリスマとして語り伝えられないか。また、オウム死刑囚はある意味で世界的に非常に重要な存在かもしれない。なぜ易々と「マインド・コントロール」されたのか。なぜ「サリンの製造」というすごい技術が可能だったのか。人類史的には「生かしてその体験を全人類で検証する」ということがあっていいのではないか。

 さて第一に戻って、麻原彰晃はどうなっているのか。言うまでもなく、刑事訴訟法では「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」(479条)と規定している。刑法39条でも、犯行時に心神喪失者は罰しない、心神耗弱者は罪を軽減するとある。この規定に関して一番大きな問題は精神医学的に「心神喪失」「心神耗弱」の定義が難しいことだと思う。確かに昔は精神疾患は「難治」だった。ほとんど「不治の病」と思われていた。でも今では適切な薬物療法でかなり抑えられる。一方、人格障害など薬では治せないケースばかり重い刑事責任が科せられている。

 そういう大きな問題はこれ以上書く余裕がないけれど、近代の刑事裁判は「理性が身体性に優先する」という大原則がある。どんなに貧しくて腹が減っていても、コンビニで万引きしてはいけない。社会福祉制度を利用するなど、自分で対策を講じなくてはいけない。それを逆に考えると、自分を抑えられる理性が働かない人間には罪を問えない。同じことが死刑の執行にも規定されているわけで、本人が自分の行為が判らないようになってしまっては、「刑罰」を科す意味がないと考えるわけである。とにかくそういう規定が法にある以上、それはきちんと遵守されないといけない。では麻原彰晃は今どのような状態にあるのか。大分長くなってしまったので、ここでいったん切って2回に分けたいと思う。
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米朝会談「中止?」問題

2018年05月26日 22時56分23秒 |  〃  (国際問題)
 最近ずっと萩原延壽「遠い崖」を読みふけっている。2007年に朝日文庫に入った時に買ってあったけど、何しろ全14巻もある。いずれまとまったら書きたいと思うけど、テレビもパソコンも見ないでいたら25日の朝刊で「米朝会談中止」と大きく出ていた。まあビックリはしたけど、数日前から双方から延期や中止という声が聞こえていたから、トランプはそう来たかと思った。その後、再検討という話もあり、26日には再度の南北朝鮮首脳会談が緊急に開催されたと伝えられる。

 この事態をどう考えるかということだが、僕がまず思うのは「トランプ政権の異常性」である。それはまあ初めから判っているじゃないかと言われるだろうが、最近は「安倍のウソ、麻生の居直り」のように慣れてしまいつつある。もちろん、トランプ大統領は外国首脳との会談をキャンセルしてもいいだろう。でもアメリカが民主主義国家である以上、大統領は内外の記者に対して、キャンセルあるいはキャンセルのキャンセルの理由を(真実とは違うかもしれないが)語る必要がある。突然ツイッターで発信するなど、一体どこの独裁国家の話なんだろうか。

 ドナルド・トランプキム・ジョンウンを見ると、何となく体形が似ている。これは偶然じゃないだろう。周りに迷惑を掛けることをなんとも思わないで生きてきた、尊大虚栄心の強いおごり高ぶったタイプ。だから、お互いに相手の出方を読み間違うと破局にもなる。事前交渉であれこれ言って、朝鮮側の対応がトランプの「虎の尾を踏んでしまった」ということか。報道によれば、ペンス副大統領を非難したことがきっかけとも言うが、本当かどうか判らない。

 「非核化」のプロセスに関して隔たりが大きいとも言われるが、それは本来事前に想定できることである。そういうことは判っていて会談に臨むんだとばかり思っていたんだけど、そうじゃなかったのかもしれない。本当にトランプ政権には外交を理解している人がいないのかもしれない。そもそも米朝会談実施を発表した時に、アメリカの駐韓国大使はまだ決まってなかった。急遽オーストラリア大使予定者を駐韓大使に回すことにしたけど、それならオーストラリアはどうなるんだ。もう政権発足から一年以上経つというのに、重要国(韓国もオーストラリアもG20のメンバーである)の大使が決まってない。常識では考えられない。

 そういうトランプ政権だから、今度は一転やっぱりやるとなっても全然おかしくない。北朝鮮側も独裁だから、何がどうなっているのか判らない。トランプではなくペンスやボルトンを非難している限り、一定の配慮をしたつもりだったのかもしれない。朝鮮側から今会談を止めるというメリットはどこにもないと思う。会談がある前提で、あれこれ言っていたのだと思う。もうすでに拘束していたアメリカ国籍の3人も解放した。拘束していたこと自体がおかしいので解放は当然だけど、会談前に切札を切ったのに会談中止では、何が「ディール」(取引)だと内心怒っていることだろう。

 大きな方向としては、北朝鮮の非核化、経済開放、米朝和解は進んで行くのだと思う。今から、じゃあ核実験します、ミサイル実験しますは、アメリカはともかく中国が許さないだろう。世界的な危機はむしろ中東の方で、イラン核合意破棄、駐イスラエル大使館移転と常識に反する政策が続いた。イランとサウジアラビアの対立が抜き差しならない段階まで高まることもありうる。そんな危機を自らあおりまくっているアメリカが、朝鮮半島で戦争をするなど想定できない。(口では強いことを言ってるが。)非核化プロセスの検証方法と制裁解除のプログラムが鍵になるだろうが、いずれ会談はあるはずだ。今度の会談は「延期」の可能性が高いのかもしれないが。

 どうも「交際ゼロ日婚」はやはり難しいなという感じ。会場を予約し派手に招待状をばらまいたから、僕は成田離婚になるかもしれないけど一応挙式はすると思ってた。しかし、思えば合意2か月後に会談という日程が早すぎた。今度はやるなら決裂は許されない。ところで安倍首相の対応は「トランプ大統領の決断を支持する」だけ。菅官房長官も世界で一国だけだったとむしろ誇っている。また会談することになっても「トランプ大統領の決断を支持する」しか言えないんだろう。せっかくロシアにいたというのに、秋田犬の贈呈しかしないのか。プーチンと詰めて仲介して、帰りに中韓に緊急に寄るぐらいのことができないもんかと思うが、それは期待できないということなんだろう。
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美しきBL映画、「君の名前で僕を呼んで」

2018年05月24日 22時31分03秒 |  〃  (新作外国映画)
 2018年のアカデミー賞で脚色賞受賞、作品賞・主演男優賞・歌曲賞ノミネートの「君の名前で僕を呼んで」(Call Me By Your Name)がミニシアター系でヒットしている。とても美しい映画で、まさにこれが「BL」(ボーイズ・ラブ)映画だという感じだから、若い女性観客でいっぱいだ。最近はセクシャルマイノリティの映画が多いが、この映画はむしろ「ひと夏の思い出」映画の最高峰だろう。青春の出会いと別れ、喜びと悲しみを、イタリアの美しい風景の中で描いている。

 イタリアの監督がイタリアで撮った映画だけど、これはベースは英語で進行するアメリカ映画である。主人公の一家は、毎夏北イタリアの別荘で過ごす。父はユダヤ系の大学教授で、ギリシャ・ローマ時代専門の考古学者。母はヨーロッパ各国語を話せる翻訳家。そんな環境で育ったエリオ・パールマンは、17歳で読書や音楽に親しむ青年である。(ピアノとギターができ、バッハやエリック・サティを弾いている。)毎年、父は仕事のアシスタントとして院生を呼んでいるが、今年は24歳のオリヴァーがやってくる。最初は知性あふれるオリヴァーを敬遠気味だったエリオだが…。
 (左=エリオ、右はオリヴァー)
 結局は惹かれあう二人だけど、当初は女性とも交際している。オリヴァーは恐らく「偽装」で、自分は同性愛者と認識してると思う。(自分の家ではとても認められないと言っている。)エリオはまだセクシャリティに揺らぎがあり、マルシアという女の子とのセックスも体験している。バイセクシャルというより、近くにいたオリヴァーの磁力に引かれてしまった感じだろうか。1983年という設定で、まだアメリカでも同性愛に厳しかったと思うが、エリオの両親は驚くほど自由である。

 エリオはティモシー・シャラメ(1995~)で「インターステラー」でマシュー・マコノヒーの若い頃をやった人。オリヴァーはアーミー・ハマー(1986~)で、「ソーシャル・ネットワーク」や「コードネーム U.N.C.L.E.」のイリヤ・クリアキン役。この二人は実年齢より若い役だが違和感はない。建物や自然風景などが見事で、そこに二人を置くとよく似合うのである。自然の描き方が西欧的じゃない感じだと思って見ていたら、撮影がサヨムプー・ムックディプロームだった。タイのアピチャッポン・ウィーラセータクンの映画を撮っている人で、実に素晴らしい撮影で見応えがある。

 それよりすごいのは、アカデミー賞で脚色賞を得たジェイムズ・アイヴォリー。1928年生まれで、6月7日に90歳となる。アイヴォリーと言えば、あの人である。「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」「日の名残り」などで、80年代から90年代にかけて文学の香り高き名作を連発し、ミニシアターブームのけん引役の一人だった。E・M・フォースターの遺作「モーリス」という同性愛者を描いた映画もあった。驚くほど若々しい脚本で、ずいぶん名前を聞いてなかったけど、さすがという感じだ。

 当初はアイヴォリーも共同監督する予定だったというが、結局はイタリア人のルカ・グァダニーノ(1971~)が一人で監督した。二人監督は出資者が内紛を心配したんだそうだ。グァダニーノは「ミラノ、愛に生きる」や「胸騒ぎのシチリア」が日本でも公開されているが、どっちも見逃した。とても繊細で細やかな演出で、特にエリオの心情が切々と胸に迫る。アンドレ・アシマンという人の原作では1987年の設定だが、少し前に変えたという。それはエイズ時代の前にするためで、続編を計画中とのこと。監督は「恋人たちの距離」のような感じで作りたいと言ってるらしい。

 リチャード・リンクレイター監督が実際の時系列に沿って描いた三部作映画、「ビフォア・サンライズ」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」と続いた映画である。そういうクロニクルになったら興味深いと思うが、この映画はこれ一本で「ひと夏の思い出」映画として完結している。アメリカの「おもいでの夏」や日本の「旅の重さ」など若い時に見て一生忘れられない映画になった。ミシェル・ゴンドリーの「グッバイ、サマー」、ファティ・アキンの「50年後のボクたちは」、マイク・ミルズの「20センチュリー・ウーマン」など最近もずいぶんあるが、これらの映画は年齢が若い。同性愛を描いているけど、青春の痛みの映画として傑作だと思う。
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京大タテカン問題と「大学の自治」

2018年05月23日 22時45分21秒 | 社会(世の中の出来事)
 京都市の京都大学で、「立て看板」(タテカン)をめぐる規制問題が起こっている。この問題に関して、いろんな人がいろんなことを言ってるようだけど、そこに「大学の自治」という言葉が聞かれない。それはおかしいと思って、簡単に書いておきたい。

 「タテカン」って言っても何だという人もいるかもしれない。京大吉田キャンパスの壁に多くの看板が立てかけられていたという。画像がいろいろと出てくるので、引用しておく。(以下の写真。)東京の大学にももちろんいっぱいあって、ある時期までは新左翼党派の政治的主張が街頭に向かって貼りだされていたものだ。(「米帝と結託する日帝〇〇を殲滅せよ」というようなもの。〇〇は日本の首相名。米帝はアメリカ帝国主義、日帝は日本帝国主義の略である。念のため。)
 
 この問題の発端は、2017年10月に京都市が立て看板が条例に違反すると京大を指導したことにある。京都は世界有数の観光都市で、世界遺産の寺社が多数ある古都だから、景観保護には前から熱心だった。「京都市景観計画」を作成し、地域ごとに景観保護の施策を決めてある。古都に無粋な広告は似合わないから、それはもちろんあっていい。だけど、その条例は大学にも適用されるべきものなのか。いや、こういう風に正面から問いを立ててしまうと、そりゃあ大学といえども京都市の一角に存在する以上、同じルールだと言われるかもしれない。

 今回のケースも条例をそのまま適用したのではない。京都大学が2017年12月に立て看板規制のルールを作り、そのルールを5月1日から適用したということである。その際、最初は通告書を貼り、その後13日に京大がタテカンを撤去した。14日にはその撤去したタテカンが保管場所から運び出されて再設置され、18日に再撤去され…という経過をたどっている。だからタテマエ上は、京大の管理当局が作ったルールを学内に適用するという問題である。

 だけど経緯を見れば判るように、これは「表現の自由」「大学の自治」に関わる問題だ。大学は社会の中で学問・研究の中心で、もちろん憲法で学問の自由が認められている。「大学の自治」は歴史的にヨーロッパの大学で国家権力からの自由が認められてきた。日本では憲法で明文では認められていないが、尊重はされてきた。最近は私立大学も多額の補助金を得ているし、研究費などの扱いも変わり、大学側も文科省などに逆らえない雰囲気が強くなってると思う。もう「大学の自治」なんて言葉も皆が忘れているんじゃないだろうか。

 学問の自由には表現の自由が不可欠である。表現の自由の中でも「集会・結社の自由」がないと実質的な意味がない。研究室の中でどんな論文を書こうがそれが自由なのは当然だ。問題は学生が自ら企画した集会、映画会、演劇公演、コンサートなどである。そういうのが自由に行われるだけでなく、それを多くの学生に周知する手段がないといけない。SNSが今は発達したと言っても、関心がない情報は最初から入ってこない。学内でフラっと歩いていて情報を得る媒体という意味で、タテカンの力は大きい。

 今は政治的なタテカンより、宣伝的な内容が多いんじゃないかと思う。それでもタテカンには存在価値があるだろう。しかし、僕が言いたいのはタテカンに価値があるということではない。タテカンに価値があろうがなかろうが、景観上問題があろうがなかろうが、「大学は別」だと言えばいいということだ。京都市から「指導」があった時に、「大学の自治」をタテに拒否するべきだった。そんなことを言うと、大学は「治外法権」なのか。もちろんそうじゃないし、国法に定められた捜査令状などは拒めない。だけど、問題はタテカンである。大学は放っておけよっていうような社会じゃないと、世界を変えるような学問芸術は生まれてこないんじゃないか。
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文書問題、学校の場合

2018年05月22日 23時53分59秒 | 社会(世の中の出来事)
 森友文書改ざん問題に関して書いたが、そう言えばなんだか書き足りないような気がした。何かと思えば、「学校の文書」の問題を通して、この問題を考えたいと思っていたのだが、他のことを書いてるうちに忘れてしまっていた。僕が最初にこの問題を聞いたときに、これは他の役所でも似たようなことをやってるんじゃないかと感じた。なんでかというと、「文書の差し替え」は学校でも何回かは経験したと思うから。「パソコン作成」と「情報公開」の時代である。公開請求をされてから「チト、まずいな」と思って書き直して公開する。そんなことがなかったとは思えない。

 今は文書は仕事場にあるパソコン(インターネットとLANに接続されたもの)で作るだろう。昔はもちろん違った。テスト問題などは手書きだった。中には問題集をコピーして使いまわす教員もないではなかった。(今なら著作権に反するからありえない。)でも、まあほとんどの人は手書きで作って、それを印刷した。すぐに印刷できる理想科学工業の「リソグラフ」が80年代半ばに登場した。製版・印刷一体型だからすごく便利で、あっという間に全国に広がった。理想科学は1977年に「プリントゴッコ」という家庭用孔版印刷機を発売して大ヒットしていた。僕もそれを買って年賀状を作っていた。その会社がこんな便利なものを作ったのかと思った記憶がある。

 リソグラフができる前は、基本的には「ガリ版」だったと思う。ロウ紙をやすりに置いて鉄筆で文字や絵を書き、穴のあいたその紙を印刷機に張り付けてインクを乗せてローラーで押す。一枚一枚手で押して作るのである。1894年に堀井新治郎父子が発明した近代日本の大発明で、正式には謄写版といった。僕はこれを自分で持っていて、自分で文集を作ったことがある。ガリ版というのは、鉄筆で字を書くときにガリガリと音がするからで、僕はこのガリ切りが結構うまかった。板書(黒板に書く文字)はヘタだけどガリ切りは得意で、初任校が道徳教育推進校だったときに、発表会資料の正誤表のガリ切りを頼まれた覚えがある。
  (ガリ版のセットと印刷の様子)
 このガリ版印刷は近代史の史料のベースである。労働運動や学生運動のビラはガリ版で作られ、紙の劣化とともに読めなくなりつつある。また映画やテレビの台本をよく展覧会で見るのだが、70年代までのものは大体はガリ版で作られている。非常に大事なものだったけど、若い人は見たことも聞いたこともないんじゃないか。でも、これで印刷するのはすごく手間がかかる。教員が全部やるのは大変だから、大きな学校では印刷専門のアルバイトがいた。僕が出身高校に教育実習に行ったら、同級生がバイトしていて研究授業の指導案を刷ってくれたのを覚えている。

 70年代後半の大学では、ゼミの発表資料などは「ガリ版」や「青焼」で作っていた。今僕らが普通にコピー機と呼んでるものもあったと思うが、高くて利用が大変だった。だから、レジュメを作るときは「青焼」で作った。これはウィキペディアを見ると、「ジアゾ式複写法」と書いてあって、よく判らないんだけど化学反応で文字を浮き上がらせるものだった。時間はかかるし、濡れているので大変だった。しかも時間が経つと文字が消える。だから大事なものはガリ版でするが、非常に大事なものは特別に和文タイプライターで別に作る。官庁の決裁文書はそうやっていただろう。

 文書改ざん問題発覚後、「文書の訂正は、間違い部分を二重線で消して、文書の上に〇字削除(または加筆)と書くと教えられた」という人がいた。そういう文書は僕も知っている。官庁の文書は知らないけど、昔の法廷記録はそうなっていた。拘置所で拘禁されている人と文通すると、そんな手紙が時々あった。拘置所側の「検閲」があるから、当局側が消したんじゃないということを示すためだろうと思う。また80年代に学校が荒れた時代、事件が起こって教師全員が空き時間に警察で調書を作ることになったことがある。勝手にどんどん調書を書いていくから、署名前に訂正を求めたら、やはり訂正部分を消して紙の余白に「〇字削除」と書いていた。まあ、パソコンがない時代に全部書き直すのは大変すぎるから、そういうルールだったんだろう。

 80年代後半になると、「ワープロ」が出てくる。「ワードプロセッサー」の略である。パソコンの文書作成機能専用機である。すでにパソコンを使っている人も少数いたけれど、それは私物持ち込みで、半分趣味で成績処理をしてた。ワープロも学校に1台とか2台で、それも学校ごとに「Rupo」(東芝)、「書院」(シャープ)、「OASYS」(富士通)、「文豪」(NEC)など別々に買い込んでいた。互換性がなかったから、異動すると困ってしまった。学校にも少ないので、試験問題は家で作って学校で印刷するとか、私物ワープロを学校に持ち込むなどで対応していた。富士通のオアシスには「親指シフト」という特殊なキーボードがあって、僕はこれを覚えたんだけど、今でも一番速く打てるんじゃないかと思ってる。

 20世紀の間にはワープロで文書作成をすることが多かったが、21世紀になるとパソコンになった。というか、マイクロソフトの「Word」で文書を作る。インターネットで情報を得るのが当たり前になり、学校でも一人一台のパソコンが支給された。そうなると逆に私物パソコン、ワープロを持ち込むのは「問題行動」になってしまった。(ワープロは印刷機につながなくても印刷ができるので、テスト問題作成などでは便利なんだけど。)何にせよ、ワープロやパソコンでテストを作ると、印刷された問題集のような体裁になる。職員会議に出る文書も、ほぼ全部パソコン作成になった。

 そんな時代になるとともに、何でも記録を残せ文書を起案せよと言われるようになった。それまでは「やっただけ」だった各種委員会、例えば「修学旅行業者選定委員会」なんて教員にはどうでもいいような組織でも議事録を整備せよと言われる。後でやればいいと放っていると、監査があるから作りなおせとか言われる。何でも起案せよということで、「期末考査の実施について」とかいう文書を教務主任が起案したりする。(さすがにそんなのは東京ぐらいだと思うけど。)

 起案文書が多すぎるから、生徒の名前の間違いなんかがどうしても出てくる。後で気づけば、監査の前に文書を差し替えにする。そんなことはあることだと思う。パソコン作成になったから、文書は後で差し替えが効くようになった。起案段階まで行ってるんだから、もう文書の趣旨を変えることはありえない。単純ミスを見つけたから直しておいて、もう一回決裁権限者の印鑑を取り直す。そんなに珍しいことだろうか。日本中、どんな役所でもあることじゃないか。そしてほとんどが単純ミスの訂正だろうから、大きな問題はない。今後は大きな変更に際しては、「文書の書き換えに付いて」という別の文書を作って自己防衛するのがいいんじゃないかと思う。
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不起訴は当然、森友文書問題

2018年05月21日 23時42分55秒 | 社会(世の中の出来事)
 大阪地検は森友学園への国有地売却に関する文書改ざん問題で、佐川前国税庁長官らを不起訴にする方針と伝えられている。正式決定はまだだが、いくつかのマスコミがそのように報じている。報道してないところもあるが、恐らくはその通りだろうと思う。疑惑本体の国有地売却の背任容疑も不起訴の方向とされる。背任の方は証拠を見てないので当不当を判断できないけど、文書問題の方は不起訴が当然だと思う。

 この問題に関しては、3月に問題が発覚した時に「森友文書書き換え問題②」を書いた。その中で「本質の問題としては「偽造」に近いと思うのだが、それが違法行為かどうかははっきりと言えないと思う。(司法当局は立件しない方針と伝えられる。)」と書いた。当時から検察は立件が難しいと判断していると報道されていた。しかし、この検察の対応に納得できない人もいるかと思うので、少し僕の考えを書いておきたいと思う。

 刑法そのものの検討の前に、法や検察に関する基本的考えを書いておきたい。リベラル派は「リベラル」の定義からして、国家権力の刑罰権の発動には慎重なスタンスのはずである。だけど、「リベラル派」の中にも、反安倍の政局優先なのか、検察は強制捜査して起訴せよと思ってる人がいるんじゃないか。まあ、「リベラル」じゃなくて、実は「国家主義者」だったってていうだけかもしれないが。それでも、特定秘密保護法や「共謀罪」の時に「法律は一度できてしまえば、拡大解釈されてしまう危険性がある」と主張した人だったら、他の事例でも「法の拡大解釈はすべきでない」と主張するべきなんじゃないか。

 検察はけっして「正義の味方」ではない。多くの冤罪事件で、無実の証拠を隠して法廷に出してこない。そんなことは珍しいことじゃない。取り調べ中の録音録画を編集して、有罪の証拠として法廷に出すこともある。全部を公開すれば逆に無実の証拠になるかもしれないケースでも、「自ら進んで自白した」かのように「編集」されていたりする。取り調べ中の録音録画も「公文書」だろうから、それは「公文書変造」や「虚偽公文書作成」ではないのか。そう考えれば、検察が文書改ざん問題を起訴して刑事裁判をするなんて到底あり得ないのである。

 刑法の第17章が「文書偽造の罪」で、第155条で「公文書偽造」を規定し、その2で「公文書変造」、3で「虚偽公文書作成」を定めている。「公文書偽造」だけ引用すると、「行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、一年以上十年以下の懲役に処する。」

 森友文書改ざんは、まさに「公文書変造」にあたりそうに見える。一見するとそうなんだけど、実は先の条文の冒頭にある「行使の目的で」が問題なのである。一部には、情報公開や国会提出への対応で文書を改ざんしたのなら、それは「行使の目的」と解釈できるとの意見もある。でもそれは「拡大解釈」だろう。公文書偽造、変造、虚偽文書作成を罰するのは、その公文書がさらに他の実体的犯罪に利用されることを防ぐためである。例えば、偽のパスポートを作って(偽造)、犯罪者が国外逃亡を図る。学校教員がわいろを貰って成績を書き換えた調査書を発行して、上級学校の合格を有利にさせる(虚偽公文書作成)。

 そういった場合、公文書そのものより、偽の公文書を利用した「より重大な事態」の発生を防ぐのが大事なのである。今回の場合、国有地売却の「背景事情」を削ったに止まり、「虚偽公文書」とは言えない。ウソを書き加えたわけじゃないのだから。正規の決裁権限を持つ公務員が行っているのだから、「偽造」じゃないのもはっきりしている。それじゃあ、一度作った公文書を後から書き換えてもいいのか。政治的、行政的にいいかどうかは別の問題だが(僕は間違っていたと思うが)、刑法で禁じられているとは言えないと思う。

 公務員が公務に関して虚偽の文書を作っても構わないのか。それはもちろん、政治的あるいは道徳的には良くないに決まってる。公務員も人間だから、公的な仕事に関して刑法に触れる行為を犯す場合がある。わいろを貰って政策を曲げる場合も時々ある。その場合、決定文書に「わいろを貰ったため、この業者に決めた」と書く人はいないに決まってる。実はわいろを貰ってたと後で判ったら、その文書は「虚偽公文書」である。この場合、虚偽公文書作成罪に問うべきか。

 「わいろを貰ったから」とか「政治家の圧力があったから」とか「権力者に忖度したから」と、公文書に「真の理由」を書かないと犯罪になるのか。それでは憲法で認められた「黙秘権」の否定である。それが犯罪だとなったなら、どんな問題でも検察の見立てで起訴されかねない。だから、公文書の扱いはできるだけ刑法で罰しない方がいいんだと思う。

 森友文書問題は、そもそもこのように細かな背景事情を残したことが普通じゃない。「このままでは国会に出せない」と上司に思わせただろう、そういう文書をあえて作った職員の思いがどこにあったのか。文書にしておけば、歴史の中でいつかは誰かが気が付いてくれる人がいるだろうと思って作ったんだろう。それを改ざんした「政治的責任」は大きい。だけど、刑法では裁けないケースだと僕は判断するわけである。一般的に言って、国家の刑罰権は法により厳格に運用されるべきと思うから、それでいい。
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白石和彌監督「孤狼の血」

2018年05月19日 23時00分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 柚月裕子(ゆづき・ゆうこ)の直木賞候補作「孤狼の血」(2015)が映画化された。最近好調の白石和彌監督の確かな演出手腕を楽しめるノワール映画になっている。白石監督は「ロマンポルノリブートプロジェクト」で「牝猫たち」を撮ったけど、今度の映画は「東映実録映画リブートプロジェクト」という感じ。(リブートは「再起動」。)もともと原作が東映実録映画へのオマージュで、ストーリーは基本的に原作の通りだが、映画向きに順番が多少変更されている。

 柚月裕子は1968年生まれだから、70年代半ばの実録映画を生で見ている世代じゃない。小説では「昭和63年」、つまり1988年の広島県呉原市という設定になっている。呉原は明らかに呉で、それだけで「仁義なき戦い」である。横山秀夫の「64」もそうだが、昭和最末期に物語を設定すれば何となく「まだ何でもありだった」感が出せるということか。映画の中では「ポケベル」は持ってるけど、「ケータイ」はない。皆が携帯電話と持ってると、犯罪も恋愛も様相が大きく変わる。

 やっぱりちょっと時代設定は無理がある気がする。暴力描写はむしろ激しくなっているかもしれない。実録映画は確かに殴ったり殴られたり、殺したり殺されたりしたけど、こんなに血や死体は出て来なかったと思う。たくさんのホラー映画を通過した「今の時点で作られた実録映画」なんだと思う。だからこそ、今度は広島県や呉市もちゃんとロケに協力して、ロケ地マップも作って観光振興をしてる。暴対法以後の今じゃ映画を見て現実の呉だと思い込む人もいないということか。

 物語は役所広司演じる大上(おおがみ)巡査部長と彼に付く広島大卒の新人、日岡(松坂桃李)の絡みで進んでゆく。呉原は尾谷組と加古村組の間で再び抗争の火ぶたが切られようとしていた。折しもサラ金の社員が行方不明になり、暴力団担当の大上は加古村組が関与しているとにらみ、拷問・放火・収賄など不法な手段を駆使して取り調べを進めてゆく。しかし、大上には14年前の暴力団員殺害という噂もあり、警察内部にも反発が強い。日岡にも隠された動機があったが…。そのカラクリを早くからばらしてしまうのはどうかと思うが、描写はエネルギッシュで映像もシャープ。人物たちは生き生きと動き回り飽きさせない。

 とても面白いんだけど、話自体は原作に由来する弱点がある。東映実録映画の複雑な抗争の絡み合いが少なく、女性をめぐるドロドロも少ない。大上と日岡の関係、日岡の「成長物語」になってる。黒澤明の「野良犬」や「赤ひげ」で、それはそれで面白いけれど、社会性や政治性が捨象されている。だからなるほどそうなるだろう的な落ち着き方になる。まあ、イマドキ東映実録映画を作るならこうするしかないか。十分楽しめるけど、それで終わっていいのかという話である。

 白石和彌監督は、2013年の「凶悪」で注目され、2016年の「日本で一番悪い奴ら」「牝猫たち」、2017年の「彼女がその名を知らない鳥たち」「サニー/32」、2018年に「孤狼の血」、続いて若松プロ、門脇麦、井浦新による「止められるか、俺たちを」と近年立て続けに注目作を撮っている。かつての深作欣二並みではないか。「サニー/32」を見逃しているが、どれも広義のノワールもの。好き嫌いはあると思うけど、要注目の人である。名前で見て損はしない監督だ。
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葉室麟「天翔ける」と松平春嶽

2018年05月18日 23時47分44秒 | 本 (日本文学)
 2017年12月23日に惜しくも亡くなった時代小説作家、葉室麟の「天翔ける」(角川書店)を読んだ。発行日は12月26日付で、没後に出た本は他にもあるけど、遺作と言ってもいいだろう。この小説は幕末の賢候と言われた大名、越前福井藩松平慶永(号は春嶽)を描いている。小説という意味では、「天翔ける」はあまり面白くない。幕末史の解説みたいな話である。でも、この本は「明治150年」にあたって、多くの人に読まれて欲しい本だから簡単に紹介しておきたい。

 葉室麟には直木賞受賞の「蜩ノ記」(ひぐらしのき)のような素晴らしい作品がある。最近も直木賞候補作「秋月記」を読んだけどすごく面白かった。それらに比べると、フィクション度の低い「天翔ける」は、少し歴史に詳しい人なら知ってる話ばかりじゃないかという感じ。幕末を描く小説では、薩長の側から見た英雄史観が多い。薩摩藩の西郷隆盛大久保利通、あるいは長州藩の高杉晋作、薩長を結び付けたとされる土佐藩脱藩の坂本龍馬などがよく主人公として描かれる。

 一方、佐幕側の英雄として、新選組もよく出てくる。また、幕府を超えた発想ができた勝海舟などの開明的幕臣もかなり扱われる。立場の違いを別にして、確かに興味深い人生を送ったこれらの人々は、身分的には皆「下級武士」と言っていい。上層の大名レベルでは、「最後の将軍」徳川慶喜以外はあまり出てこない。もちろん、薩摩の藩主の父(国父)島津久光や会津藩主松平容保(かたもり)などは脇役として必ず出てくる。でも幕末を一番騒がせた長州藩の殿さまの名前と言われても、すぐには出てこないんじゃないか。(毛利敬親である。)

 幕末史に「四賢侯」と言われた人がいる。薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)、そして越前福井藩の松平春嶽である。歴史の教科書にもちょっとは出てくると思うけど、どんな人でどんな人生を送ったのか、詳しく知ってる人は少ないと思う。小説の主人公は「過激」というか「極端」な方が面白い。マジメで穏和な人は主人公になりにくい。以上の4人の中でも、豪快な酒豪で腹黒い山内容堂は土佐藩ものに悪役として出てくるけど、開明派の春嶽はあまり出てこない。そんな人を主人公にしたことが面白い。
 (松平春嶽)
 松平春嶽(1828~1890)は御三卿の一つ、田安家の8男に生まれた。10歳の時に福井藩主が後継ぎを残さず急死して、後継に立てられた。(越前松平氏は、家康の次男結城秀康から続く徳川一族の名門である。)まあ細かな出来事は省略するけど、13代将軍家定は病弱で後継ぎ誕生の可能性がなく次をどうするかがもめた。ペリー来航以来の「国難」時代に、血統よりも能力を重視するべきだと考え、島津斉彬や松平春嶽は後継に一橋慶喜(水戸藩主徳川斉昭の7男で、御三卿の一橋家を継いでいた)を推した。斉彬の家臣西郷隆盛や、越前藩の橋本左内などが裏で活躍したが、井伊直弼が大老となり14代将軍には紀州藩の徳川家茂が選ばれた。

 井伊直弼は一橋派の大弾圧に踏み切り、「安政の大獄」で春嶽は強制的に隠居させられ蟄居となった。また家臣の橋本左内が捕らえられ殺された。左内を失ったことが生涯の悔いになった。それがこの小説のキーポイントになっている。しかし、この小説で面白かったのは、結局は慶喜は「小才子」であり、「私」を捨てられない人物だったと描かれることだ。それに対し、若くして亡くなった14代将軍家茂の方が誠実この上ない人柄だった。井伊直弼も「私」を押し出す人物で、安政の大獄こそが幕末のテロリズム時代の幕を開けてしまった。直弼と慶喜、島津久光などは皆「天下」よりも「私」を優先させたとする。

 薩長による内戦路線、慶喜の幕府独裁路線に代わる「雄藩連合による開国路線」を春嶽はめざした。それが歴史的に可能だったかはともかく、「別の明治維新はありえたか」は「明治150年」の今こそ考えるべき問題で、今も意味がある。それは「天皇制絶対主義」以外の近代化がありえたのかということでもある。それにしても、なんと多くの有能の士が無念のうちに倒れていったか。その多くはテロによるものだ。150年前の日本はテロリズム社会だった。「そんな時代もあったね」と今の日本人は言えるけど、150年後のシリアやイラクでも同じように言えると思いたい。
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映画「マルクス・エンゲルス」と「私はあなたのニグロではない」

2018年05月16日 23時16分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 ラウル・ペック監督の映画「マルクス・エンゲルス」と「私はあなたのニグロではない」が相次いで公開された。ラウル・ペックって言われても、誰だろうと思うだろう。監督の知名度で客が呼べるような人じゃないから、19世紀ヨーロッパの伝記映画と20世紀アメリカの黒人問題のドキュメンタリーが同じ監督の作品だとほとんど宣伝していない。社会派映画好きでも気づいてないかもしれない。でも両方見ることで世界がよりクリアーに見えてくる。
  
 「マルクス・エンゲルス」(2017)は原題が「Le jeune Karl Marx」(「若きカール・マルクス」)である。(上映された映画にはフランス語で題が表記されている。)しかし、カール・マルクスと同じぐらいフリードリッヒ・エンゲルスも出てくるから、両者の名前を邦題にしたのは適切だ。映画は1843年から1848年の5年間を描いている。ライン新聞が廃刊になってマルクスがパリに移った時から、1848年に「共産党宣言」を執筆するまで。1844年にエンゲルスと再会し、二人で行動を共にしながら「世界は解釈するだけではなく、変革しなければならない」と考えるようになる。

 映画はマルクスの移動に伴って、ドイツ語、フランス語、英語で語られる。いつでも誰でも、皆が英語を話してるような映画じゃない。当時の状況を当時の世界に入って体験する映画だ。二人と同じぐらいマルクス夫人のイェニー(ジェニー)やエンゲルスの事実婚相手のメアリー・バーンズが印象的に描かれている。でもこの映画の作りは基本的には「バディ・ムーヴィー」だ。昔の「明日に向かって撃て!」や「スティング」みたいに、ちょっと違った二人が共に活躍する映画である。この映画も終生の仲間を見つけて、「闘い」に生きる人生を選び取るまでの物語である。

 それはいいんだけど、その「闘い」は社会主義思想を純化する闘いが中心である。当時の人物として、プルードン、バクーニン、クールベなどが出てくるが、プルードンの「貧困の哲学」を批判した「哲学の貧困」が評判になる様子は興味深い。二人の闘いによって、空想的社会主義や無政府主義から「脱皮」して、闘う共産主義の団体「共産主義者同盟」が誕生する。「万国のプロレタリアよ、団結せよ」。でも、この描き方はどうなんだろう。公式的というか、正統というか、今からみれば、むしろ「友愛」や「自由」をもっと大切にする運動もありえたのではないか。そういう問いかけは感じられず、20代の若者二人の成功譚で終わるのが残念な気がする。
 (ラウル・ペック監督)
 監督のラウル・ペック(1953~)は、カリブ海のハイチで生まれた。ハイチ(フランス語だから、アイティと書くべきだけど、日本での慣例に従う)は、コロン(コロンブス)がたどり着いたイスパニョーラ島の西部にある国で、ここだけフランス領になった。アフリカから黒人奴隷を連れてきて農園経営が行われたが、19世紀初頭に革命が起こり、世界初の黒人国家ができた。その革命を描いた作品として、ジロ・ポンテコルボ(「アルジェの戦い」の監督)の映画「ケマダの戦い」や乙骨淑子(おつこつ・よしこ)の児童文学「八月の太陽を」などがある。

 コンゴ、アメリカ、フランスで育ち、ベルリンの大学で学んだ。1996年から97年にはハイチで文化大臣を務め、2010年からパリの国立映画学校の学長になった。こういう経歴を見れば、英語、ドイツ語、フランス語が映画で自在に使われていたのも理解できる。今までに日本で一本だけ公開作品があり、それは2001年の「ルムンバの叫び」である。そういえば見たことがある。1960年のコンゴ独立で初代首相になったルムンバは、宗主国だったベルギーやアメリカが介入したコンゴ動乱で殺害された。このような経歴の監督だから、アメリカの黒人問題に関心が深いのも当然だろう。そして「闘う人々」をテーマにしているということも。

 「私はあなたのニグロではない」(2016)はアメリカ60年代を中心にした黒人問題のドキュメンタリー映画で、2017年のアカデミー賞長編記録映画賞にノミネートされた。題名は有名な黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの言葉からで、黒人俳優のサミュエル・L・ジャクソンがナレーターをしている。まさか本人の語ったテープがあるわけじゃないだろうと思ったけど、まるでボールドウィン本人が語り続けているかに感じられる。映画はメドガ-・エヴァンス(1963年に暗殺された黒人運動家)、マルコムXマーティン・ルーサー・キングという60年代に暗殺された黒人運動家への回想を中心に進行する。全編を深い内省のトーンが覆っている。

 ボールドウィンはハーレムに生まれ、同性愛者というもう一つのマイノリティでもあった。その人生はかつて「ハーレム135丁目 ジェイムズ・ボールドウィン抄」というドキュメント映画になった。その映画はとても面白かったので、僕は2回見に行った。声をあげると命に関わる場所で黒人は生きてきたんだということがよく判る。だから彼は文章を書くためにパリに行かなければならなかった。しかし、パリで見た新聞で南部の高校に黒人として初めて入学した少女の写真を見て、アメリカに帰るときだと決意した。そしてアメリカで見て考えた言葉を再構成して作られた力強い映画である。

 2018年はマルクス生誕200年だけど、キング牧師暗殺50年の年でもある。現代に生きている意味で考えるならば、「私はあなたのニグロではない」の方が重要なんじゃないだろうか。僕は見るならば是非両方見るべきだと思う。ところで、東京新聞のコラムに「レディ・プレイヤー1」が「おっさんホイホイ」の映画だと出ていた。そんな言葉があるんだ。「おっさん」を吸い寄せる懐古臭があるという意味である。「マルクス・エンゲルス」も相当強烈な「おっさん(じいさん?)ホイホイ」じゃないかと思う。最近は閑散としていた岩波ホールが、平日だというのに「ジーサンズ」で混んでいる。でも「バーサンズ」が連れだって来るのに対し、「ジーサンズ」は友だちがいないから、昔の「八月の鯨」の時のような長蛇の列ができるほどにはならない。まあ、ちょっとビックリした。

 ところで、「マルクス・エンゲルス」と「・」(ナカグロ)でつなげるのはどうなんだろうか。ドナルド・トランプのように、今の日本ではファーストネームとラストネームの区別のためにナカグロを使うのが普通だ。昔、マルクス・エンゲルスとかマルクス・レーニンという人物がいると思い込んでいる人がいるという笑い話があった。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとかサッカー選手の田中マルクス闘莉王という人もいるんだから、一人の人物と思いこむ若い人が出ないだろうか。もっとも、もうマルクスという人物自体を若い人は知らないのかもしれないが。(両作の共通点は、ボブ・ディラン。)
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居心地が悪い映画、「ザ・スクエア」

2018年05月15日 23時14分15秒 |  〃  (新作外国映画)
 2017年のカンヌ映画祭パルムドール受賞、スウェーデンのリューベン・オストルンド監督の「ザ・スクエア 思いやりの聖域」が上映されている。余りにも観客の居心地を悪くさせる映画だと思うけど、問題作には違いない。近年のパルムドール作品は「愛、アムール」「アデル、ブルーは熱い色」「雪の轍」「ディーパンの闘い」「私は、ダニエル・ブレイク」と傑作、力作が続いていた。しかし「ザ・スクエア」は風刺のきいたエピソードで構成された映画で、先に挙げた映画を見た後のような圧倒的な触感とはかなり違っている。

 主人公は現代美術館のチーフ・キュレーターのクリスティアン。キュレーターというのは美術館や博物館で専門知識をもって企画、運営をする人で、日本では「学芸員」だけどもっと大きな責任を持っている。今度「ザ・スクエア」という地面を四角く区切っただけの「作品」を展示することになっている。その四角形の中は「思いやりの聖域」で、すべての人が同じ権利を持つ平等の領域だということになっている。それが美術なのかと思うけど、まあ今では何でもアートになるということだ。

 しかし、冒頭で通勤途上のクリスティアンは「助けて」と叫ぶ女性を見殺しにできず、近くにいた男性とともに手助けする。しかし追っていた男は単に走ってただけと言って去ってしまう。何だったんだろうと思いつつ、とりあえず良かったと二人で喜ぶが…。気づいてみれば、いつの間にか財布とスマホを盗まれてるじゃないか。こんなように、善意で行動しようとした人間だけが損してしまって、助けを呼ぶ声を黙殺した人の方が賢いことになってしまう。これは監督の実体験だそうだが、ある種「現代の象徴」みたいな話だと思ってこの映画を作った。

 その後、スマホの位置情報である高層住宅にあるらしいと部下とともに、全戸に「脅迫状」をまきに行く。またインタビュ-で会った女性と偶然再会し、ついセックスまでするようになるが、その後…。一方、スクエア展示を成功させようと意気込むスタッフは広告代理店と組んで、「炎上」ねらいの動画をYouTubeに投稿して、予想を超えた大炎上になってしまう。有力者を集めたパーティでは、会場をジャングルに見立てて「猿男」が現れる。一体、これは何なんだ的なエピソードが連続するが、どれも映画の内外で「居心地の悪さ」をあえて突き付けてくる。
 (カンヌのオストルンド監督)
 リューベン・オストルンド(1974~)は、数年前に公開された「フレンチアルプスで起きたこと」を作った人である。その映画も大雪崩でつい自分だけ逃げようとして妻と気まずくなるという話だった。というか、見てないんだけど、予告編を何度も見て、銅も見る前から居心地悪そうだと敬遠した。他にも数作あるようだけど、日本で正式に公開されたのはそれだけ。こうなると、どうもこの人の特徴として、あえて観客が見たくないような設定をするらしい。オーストリアのウルリヒ・ザイドルなんかも似たような感じだ。 

 善が善として存在できず、偽善も偽悪も昔のようにストレートには存在できない。善と悪がはっきりしていた時代は大昔のことで、文化によって違ったり、階層や性差によって事態の解釈が違ってくる。そんな現代を丸ごと描こうという試みなんだろうが、どうもエピソードがうまくつながってない感じがする。どうも意図が空回りしている感じもあるが、ヨーロッパ映画賞で作品賞、監督賞を受けたほか、アメリカでもボストンやシカゴの映画批評家協会賞を受けている。海外の批評家には大受けする要素があるわけで、それは何だろうと確認する野も面白いと思う。
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ネポティズム化する世界-森友・加計問題もまた

2018年05月14日 23時31分21秒 |  〃  (安倍政権論)
 「ネポティズム」(népotisme)という言葉がある。普通「縁故主義」と訳している。権力者が自分の身内ばかりを優遇するような社会のことである。「身内」というのは族が代表だけど、地縁(出身地が同じ)、学縁(大学など出身校が同じ)なんかもある。権力者が所属している「共同体」に属している者が優遇されるということだ。そういうケースが世界で目立つようになってきた。

 アメリカのトランプ政権は政界のアウトサイダーをウリにしてきたこともあって、今まで共和党政権に関わっていた重要人物もほとんど入っていない。トランプと肌が合わない人はどんどん罷免し、家族と側近ばかりが残っている。ロシアのプーチン政権でも、大統領の家族は出てこないけど、「友人」の実業家などがよくスキャンダルに出てくる。中国の習近平政権も、「太子党」と言われて党幹部の子どもであることで出世してきた。このように世界中でネポティズム化している。
 
 「法治主義」の社会では、法に基づいたルールで世の中が動いていくはずだ。もちろん「コネ」のようなものがまったくない社会はないだろう。でも、多くの社会では、「中小企業」なら許されても「国家公務員」だったら許されないといった「許容範囲」がある。日本でもアメリカでも私立大学では出身者の子どもが優先的に入学できるルールがあることが多い。しかし、それは私立では許されても国立大学では認められない。

 日本の安倍政権で起こっている「森友学園」「加計学園」問題も、世界的に広がるネポティズム社会化の一つだと考えられる。「森友」の場合は、首相に近い(と自分たちで考える)特殊なイデオロギーを掲げていた。それを売り物にして首相夫人を名誉校長に担いだ。首相夫人が関わっていたからというだけでなく、首相に近いイデオロギー集団を恐れるという心理が国有地払下げに影響したと考えられる。「加計」の場合は、もっと直接的に首相に近い友人だけが情報にアクセスできるという構造が出来ていた。「選定プロセスには一点の曇りもない」というけど、試験で言えば確かに「採点は公正に行われた」かもしれない。でも事前に問題作成者が特定の受験生に問題を見せていた。そんな風に考えると判りやすい。採点者にいくら聞いても不正とは判らない。

 安倍政権は何回か強引な国会運営などで支持率が下がった。今回も各調査で不支持が大きく上回っている。しかし、どの調査でも3割程度の支持率がある。そこを割り込まない。このように森友文書改ざん問題、加計をめぐる柳瀬秘書の国会招致、財務次官のセクハラ問題と麻生大臣の対応(の不真面目さ)などが相次いでも、それでもかなりの人が安倍政権を支持している(らしい)。安倍政権ではなく、支持しているのは「自公政権」であって、他の人でもいいんだけど、他の有力候補がいないじゃないかということか。それとも経済や外交はそこそこうまくやってるんじゃないか(少なくとも民主党政権時代より)ということか。

 そういうこともあるんだろうけど、それ以上に「ネポティズム化」を問題にしない風潮が背景にある気がする。親の経済力によって教育格差が生じることを不公平と思わない人が増加しているらしいことが気になる。(朝日新聞4月5日付によれば、教育格差を「当然」「やむをえない」と超える保護者が6割を超えたという。「教育格差「当然」「やむをえない」6割超 保護者に調査」) これは一体何なんだろうか。「公平さ」の概念がこれほど変わってしまった時、だからこそ安倍政権やトランプ政権が出現したのではないか。

 歴史をたどってみると、「法治」の意識が人々に定着しない社会では、信用できるのは「ミウチ」だけだから、当然権力は世襲される。近代社会ではそれはまずいので、今ではいくつかの国を除いて選挙でリーダーを選んでいる。だけど、その人だけが勝つような仕組みで選挙が行われる。世界の半分ぐらいの国の選挙はそうである。日本はそうじゃないはずで、実際に立候補と選挙運動は自由にできるんだけど、安倍首相や麻生副首相の選挙区では圧倒的に強くて他の人が当選する余地はない。(小選挙区での得票率を見ると、安倍氏は2017年選挙で72.6%、2009年選挙で64.3%、麻生氏は2017年選挙で72.2%、2009年選挙で62.2%とほぼ同じ得票率を示している。)

 そういう社会に人々の不満が高まると、発展途上の国では比較的実力で出世できる「軍隊」に期待が集まる。多くの国で「軍政」の時代があって、独裁的な手段で経済が発展することも多い。軍隊にもネポティズムはあるが(日本では陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥だった)、軍隊そのものの存在目的からして「権力者の友人だけど無能なボス」はいらない。(日本でもある時期以後は、藩閥に属していても陸海軍の大学校の成績が優先された。)現代の世界を見ても、タイエジプトなど選挙がうまくいかないと軍事クーデタが起こる。

 そうしたことを考えると、最近の日本でも自衛官が野党国会議員に暴言を吐くなどの事件が起こっているのが気になる。昨年には、制服組トップの河野統合幕僚長が安倍首相が主張した憲法改正案に「非常にありがたいこと」と語る問題があった。現行憲法を守る必要がある国家公務員、それも「自衛官のトップ」である人が憲法改正を語る。それが何のお咎めもない。ネポティズム化と軍隊美化は根っこにおいては同じ土壌から出てきているような気がする。
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ハンガリー映画「心と体と」

2018年05月12日 21時54分54秒 |  〃  (新作外国映画)
 ハンガリー映画の「心と体と」という不思議な映画が公開されている。2017年のベルリン映画祭金熊賞、2018年の米国アカデミー賞外国語映画賞ノミネートという作品で、じゃあ凄い傑作かというと、むしろ不可思議な感触が残り続ける映画だった。1989年に「私の20世紀」という映画が評判を呼んだ女性監督、エニェディ・イルディコーの作品で、21世紀になって初の長編劇映画である。

 ブダペスト郊外の食肉処理場で、産休代替の食肉検査官がやってくる。大学出たての若い女性で、上司も気を遣うがコミュニケーションが苦手なタイプのようだ。それどころか、普通なら問題のない牛肉にどんどんBランクの判定を下すので、杓子定規ぶりに皆が困ってしまう。聞いてみると、脂肪が2ミリ多いと言う。そんな職場の様子が描かれるが、冒頭は冬の山で雌雄2頭の鹿が歩いているシーンである。時々そのシーンが出てくるが、これは一体なんなんだろうか。
 (夢のシーン)
 ある日、牛の交尾薬が盗まれた。人間に使えば媚薬になるらしい。警察が捜査するが、人的被害もないから警察も力を入れず、全職員のカウンセリングを勧めてくる。その精神科医がグラマーな女性で、また性的な質問ばかりをしてくる。そんなんで何か判るのかと思うが、それはともかくそこで不思議なことが判る。片腕が不自由な上司エンドレが見た夢を聞かれて、先ほどの鹿のシーンはその夢だったである。そして女性検査官のマーリアも夢を聞かれるが、同じ夢を見ているらしい。不思議なことに二人は全く同じ夢を共有していたらしいのである。
  (エンドレとマーリア)
 エンドレはかなりの年だけど、離婚して一人暮らしらしい。同じ夢を見てると判れば、お互いに意識してしまうわけだが、人付き合いの苦手なマーリアと、はるか年上で手も不自由な上司エンドレ。この二人に現実的な愛は可能か。映画は危うい人間関係を描いてゆくが、この女性マーリアは明らかにASD(自閉症スペクトラム障害)である。マーリアはエンドレに言われた言葉をすべて記憶しているし、食肉に関する法的規則を全部覚えている。これらはASDに多く見られるサヴァン症候群と考えられる。「レインマン」みたいに一部の分野に驚異的な記憶力を示す人々である。

 ASDは学習能力に問題はない場合が多く、マーリアも大学を出ている。でも日常の人間関係には相当の不自由さが見られる。食肉処理場で検査をするというのは、あまり人と関わらないで済むし、規則を適用していればいいわけだから自閉症傾向の人には向いている。そんな資格を身に付けたのは幸運だった。しかし、違う人がまったく同じ夢を見ることはありえないから、そういう超常現象を描くファンタジーになる。非常に美しい夢で心に残るけれど、その意味はよく判らない。なんか不思議な映画だけど、ASDという視点を入れると判ってくる感じがする。

 ハンガリーはポーランドやチェコほどじゃないけど、優れた映画を多く生んできた。最近もタル・べーラの「ニーチェの馬」(キネ旬1位)やアカデミー外国語映画賞の「サウルの息子」などが評価された。日本の歌謡曲を生かした変な映画「リサとキツネと恋する死者たち」というのもあった。老人版「俺たちに明日はない」と言われた「人生に乾杯!」という映画もある。ハンガリー事件を背景にしたメルボルン五輪のソ連との水球試合を描く「君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956」というマジメな映画もあったけど、どっちかというと不思議な感覚で作られた映画が多い。「心と体と」もそういう系譜かな。
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