尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

神話と結びつく宗教的な「天皇制度」

2019年04月29日 22時47分27秒 | 政治
 天皇退位皇太子の即位が間近に迫って、特にテレビが「改元記念番組」みたいなものばかりになって閉口している。そういうことはもちろん予想していたわけだけど、「平成流」の「象徴天皇制」が完全に国民を覆い尽くしている。そこでは「新元号は新天皇になってから発表するべきだ」という超右派の主張も通らないし、天皇制は廃止するべきだという左派もすっかり少数勢力になってしまった。

 今までこの問題を書いてないが、実はあまり関心がないのである。「国政に関する権能を有しない」と憲法で規定された天皇が代わることに、どんな意味があるのか。日本国の最高機関は国会であり、国会の構成に影響する選挙情勢には関心があるのとそこが違う。ところで、天皇が天皇であるのはどうしてなのか。それは日本国憲法に天皇が象徴として規定されているからである。今回、退位が決まったのも、そのための特例法が国会で成立したからである。

 それなら、退位や即位の式典はなぜ国会で行わないのだろうか。式典は皇居内の宮殿で行われ、そこに「三権の長」である衆参両院議長、総理大臣、最高裁長官などが参集するのである。これではアベコベではないのか。諸外国を見てみると、例えばスペインで2014年に国王が交代して、現在のフェリペ6世が即位したときは、国会で即位宣誓式が行われた。そう、本来なら国会において、新天皇が憲法に基づいて国事行為を果たすという「宣誓」があるべきなのである。

 しかし、そういう問題意識そのものがほとんどないのが実情だろう。むしろ政府首脳を初め右派勢力からすれば、未だに戦前の「国家神道」こそが「天皇制」だと思っているだろう。その考え方からすれば、天皇が即位するということは「三種の神器」を受け渡すことである。(その後「大嘗祭」を行って「天皇霊」を身にまとう。)だから、退位・即位の儀式を国会で行うなどという発想が起こるはずもない。

 天皇・皇后が退位を目前にして、伊勢神宮を訪問したこと、そのときに「三種の神器」を伴ったこと、その訪問が大々的に報道されたことは、やはり天皇制は宗教であって、そのことを国民も「了解」していることを示していると思う。日本国憲法ははっきりと「政教分離」を定めているから、この訪問は完全に私的なものでなくてはならない。NHKがこのとき「天皇家の祖先であるアマテラスオオミカミ(天照大神)」と報じたと問題になっている。他の民放は「祖先とされる」と報じたというのだが、この訪問を大きく報じている以上どっちもどっちだろうと思う。
 (明らかに宗教行為である天皇の伊勢神宮訪問)
 ところで、そもそもなんで退位を伊勢神宮に、つまり天皇の「祖霊」に「報告」するんだろうか。他にも「神話上で初代天皇として創作された神武天皇陵」(学術上はもちろん認められない場所)にも「報告」するし、父親である「昭和天皇陵」にも「報告」する。これは何なんだろう。それが「天皇」と言うべきものなのか。親の墓参りをして子どもが今度結婚しますなどと「報告」する…。まあそういう「親孝行」な人がいてもいい。しかし、その人が市長かなんかで、公用車で勤務時間中に墓参してたらどうか。公私混同と非難されるだろう。天皇の伊勢神宮訪問はそういう性質のものではないだろうか。

 このように「天皇制度」が「政治制度」ではなく、実は宗教として機能していることが、なんだか天皇制を語りにくくしている原因である。イスラム教だって、キリスト教だって、あるいはユダヤ教だって、一部の逸脱者を批判は出来るが、宗教そのものを批判することは難しい。世界で多くの人が心から信仰しているものを外部から批判するのは難しい。同じように「天皇教」(とでも言うべきもの)も非難しにくいから、多くの「自称リベラル派」もどんどん「転向」して行っている。しかし、宗教組織というのは「ミウチ」には親和的だけれど、いったん「外部」とみなされると排除される。そこが怖い。
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北岳から塩見岳へ南アルプス縦走-日本の山④

2019年04月28日 23時04分08秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 10連休最初の日は出かけたいところがあったのだが、思わぬことに体調不良でダウンしてしまった。寒い日こそ「狙い目」だなんてエラそうなこと言って「クリムト展」に行ったのは間違いだったかもしれない。まあなんとか一日で回復したから良かったけど。さて毎月一回書いている「日本の山」シリーズ。実は富士山には登ってないので、自分が立った一番高いところは、日本第2位南アルプス赤石山脈)の最高峰、北岳になる。標高3193m。普通すぎる名前で、多くの人が知らない№2である。
 (北岳への道)
 その北岳から標高3位の間ノ岳(3190m)を経て標高16位の塩見岳(3,046.9m)と3千メートル級を連覇する大縦走をしたのは、もう30年も前のことになる。きちんとした登山トレーニングをしたこともない夏山登山だけのシロウトが、こんな無謀な計画をしてよかったんだろうか。まあ登山というのは、時間さえ掛ければ元気なら乗り切れるもんだ。でもずっと3千メートルというのは、相当きつい。かなりバテた記憶があるが、なんとかケガもせず帰ってこられたのは、やはり若かったということだろう。

 今思い出しても元気だったなあと思うのは、初日に夜叉神峠(やしゃじんとうげ)に登ってることだ。北岳に登るには、前日に広河原に泊まるのが普通だ。そこまで南アルプス林道が通ってバスがある。(一般車は入れない。)このスーパー林道は作るときに反対運動があって、僕も反対だった。しかし出来てしまってバスがあれば、まあ使うことになる。その途中に夜叉神峠登山口のバス停(1360m)があり、そこで降りて重い荷物を背負って夜叉神峠(1760m)を目指した。天候が悪い日だったのに、なんで登ったんだろう。晴れてれば絶景で有名な峠だが、何も見えずに引き返した。
 (晴れたときの夜叉神峠からの南アルプス)
 その日は広河原ロッジ(1530m)に泊まって、翌朝早く出発。ひたすら雪渓を登ってゆく。3時間ぐらいかかって白根御池小屋(2236m)につく。コースを完全に覚えてないんだけど、そこから北岳肩ノ小屋へ向かわず、迂回して北岳山荘を目指したような気がする。ここまで非常にきつかったけれど、素晴らしいお花畑が随所にある。そしてキタダケソウが満開。北岳には固有種が多いが、特に可憐なキタダケソウは有名だ。別にそんなに珍しいわけではなく、あちこちに咲いてたと思う。それよりすごいのは、ハイマツの中にライチョウを見たことだ。人生でただ一度。
  (キタダケソウと北岳のライチョウ)
 もうその日は泊まって、翌朝荷物を置いて北岳に登頂。絶景だった。北岳山荘は北岳の先にあるので、荷物を置いて逆戻りしたわけだ。戻って、長い尾根を歩いて間ノ岳(あいのだけ)へ。ここは奥穂高と並んで標高日本3位の山なんだけど、ダラダラ歩いているうちに着いてしまった感じだった。北岳農鳥岳(3026m)と並んで白根三山といわれるが、行かない農鳥岳がやたらに見事に見えた。間ノ岳から三峰岳を越えて、ひたすら下って熊ノ平小屋(2695m)で泊まる。かなりバテてたけど、この小屋でなんと自家製のバナナケーキを売ってた。美味しかったことを書いてて思い出した。
 (間ノ岳)
 熊ノ平小屋は南アルプスのど真ん中で、どっちへ向かうにも大変な場所にある。だからだろうが、朝食もすごく早くて、皆早立ちする。確か4時頃から朝食が出た気がする。日本アルプスは夏山なら小屋で食事が出ることが多いので便利だ。そしてひたすら歩き通して、塩見岳を登頂。その間に安倍荒倉岳北荒川岳北俣岳などのピークが地図を見るとあるけれど、全然記憶がない。それを言えば、塩見岳もあまり覚えてないが、美しい山容は印象に残ってる。その日は塩見小屋(2766m)に泊まった。
 (塩見岳)
 次の日は三伏峠(さんぷくとうげ、2607m)をひたすら下った。俗に日本三大峠といって、鉢ノ木峠(北アルプス)、雁坂峠(奥秩父)、三伏峠を指すという。日本で一番標高の高い峠だが、そこまでも長くそこからも長い。ここを逆から登るのは勘弁だなあと思いながら、ひたすら下ったことしか記憶がない。登山口からバスで駅に出て帰ったに決まってるが、その間の記憶も残ってない。山中三泊だから、それ以前にはない長い山行だった。若かったんだなあと改めて思う次第。
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「クリムト展 ウィーンと日本1900」を見る

2019年04月26日 23時15分12秒 | アート
 東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本1900」(4.23~7.10)を見に行った。最近暖かい日が続いていたけど、今日は寒くて雨まじりの一日。金曜日だから夜20時まで開いている。クリムト展は始まったばかりだが、10連休になれば混むに決まってる。直前の金曜日の寒い夕方は狙い目かと思ったら、案の定割と空いてた。混んでるのが嫌で、最近はずいぶん見たい展覧会を逃している。クリムトは今まで余り見てないので、見てみたいと思ってた。ちょうど今、国立新美術館でも「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」という展覧会もやっている。日本・オーストリア外交樹立150周年記念の記念行事なのである。秋には国立映画アーカイブで映画特集も予定されている。

 グスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862~1918)は、世紀末ウィーンを代表する芸術家である。「外交樹立150年」というけど、それは「オーストリア=ハンガリー帝国」の時代である。(ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国は、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組された。最近見た映画「サンセット」は、その時代のハンガリーを舞台にしていた。)第一次世界大戦でオーストリア帝国は崩壊するが、それは1918年のことだから、まさにクリムトは帝国崩壊の年に死んだことになる。
 (クリムト)
 今はなき帝国に生きたクリムトだが、その装飾的で官能的な画風、特に金箔を使った華麗な作品は人気が高い。チラシに使われている「ユディトⅠ」は代表作の一つだが、旧約聖書に出てくる女性ユディトが戦闘に勝って敵の司令官の首を切り落とす。その神話的モチーフをなんとも言えない官能的な顔の女性像として描き出す。右下に男の首を抱えている。うっかりすると女の顔に見とれて、首を見落としてしまいそうだ。そんなに大きな絵じゃなかったけど、忘れられないような絵だ。

 世紀末ウィーンハプスブルク家関連の展覧会は今まで何度も開かれているが、僕はあまり見てない。どうも少し苦手感がある。クリムトとかエゴン・シーレとか、昔から名前はよく聞いてるし、映画でも見た。なんか生き方に疑問もあるし、クリムトは生涯未婚だけど、子どもが14人いるとか言う。それも多くのモデルと子どもが出来るって、今ならセクハラ、パワハラ的な感じがするじゃないか。まあそういう俗世間に相容れない生き方が、保守的な美術界に反旗を翻して「ウィーン分離派」を形成することにもつながるんだろう。
 (ベートーヴェン・フリーズ)
 その「分離派会館」(セセッション館)にある壮大な壁画「ベートーヴェン・フリーズ」は移動不能だから本物ではないけど、正確な原寸大レプリカが展示されている。これは大きすぎて僕には全体像がよく判らない。クリムト研究をするわけじゃないから、初期の装飾の仕事、弟や仲間の仕事をじっくり見たわけじゃない。ざっと見た感じでは、装飾的な側面というのは、初期の仕事から続いている。ブルク劇場の天井画なども手がけている。そしてそこには「ジャポニズム」の影響も大きい。いやあ、この時代のジャポニズムはホントにいろんな影響があったんだなあ。
 (へレーネ・クリムトの肖像)
 もちろんクリムトには、いかにもクリムト的な絵ばかりじゃない絵もある。風景画もあるし、肖像画も多い。自画像はないというが、素朴な「へレーネ・クリムトの肖像」は弟の娘を描いている。こんな絵もいいなあと思う。小さな絵だけど、すごくいいと思った。
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英語は「実技教科」なんだろうか

2019年04月25日 23時00分28秒 |  〃 (教育問題一般)
 英語は大事だし、英会話も大切だと思うけど、これほど「4技能重視」って言われると、英語って実技教科なんだろうかと思ってしまう。大学入試では他教科の場合、知識の正確さや思考力を問われる。英語では何が問われているんだろうか。日常的に英語を使う環境にある人は日本では数少ない。だから「読む」「書く」だけでなく、「聞く」「話す」場合でも、記憶力や思考力を働かせないといけない。でも、それは体育や芸術なんかでも同様だろう。「話す」力を測るとなると、必ず発声をしないと評価できない。やっぱり実技教科性が英語にはあるということか。

 「実技教科」って言うのは、主に中学の教科で使う。つまり「音楽」「美術」「保健体育」「技術・家庭」のことである。(順番は学習指導要領の通り。)高校の入試ではこれらの教科は試験がない(ことが多い)。(東京都では大昔に9教科のテストをやった時代があったという話だが。)試験がある国語、社会、数学、理科、外国語は「主要5教科」なんて言われる。そうなると「実技教科」は手を抜いてしまいかねない。そこで調査書点では試験をしない教科に加点したりする。

 高校や大学の入試で、英語の試験は何のためにするんだろうか。高校でも大学でも英語は重要だから、学力を確かめるのは当然かもしれない。大学で何を学ぶにしても、確かに英語は必要だ。特に英語の先生になりたいとか、英米文学を研究したいなんて学生を選ぶなら、それは英語の学力測定も必須だろう。でも多くの学問分野では、専門的な研究者を目指す場合は別として、「英語が普通に出来る」レベルで十分なんじゃないだろうか。留学を考えるような段階になって、集中的に勉強する方が効果が上がるように思う。

 大学で学ぶには、そもそも「体力」が必要だし、あるいは「常識」がもっと必要だ。だけど「体力テスト」をやることは(体育系学部を除き)ないだろう。「常識テスト」こそ本当は一番必要な気もするけど、大学入試でやってる大学もないだろうと思う。それなら、どうして英語だけ「実技」を課すのか。そのために外部テストを受けるとか、全国学力テストでパソコンで全員のテストをするとか、社会的な負担感が大きすぎるんじゃないだろうか。

 ぼくはそもそも大学入試全廃論を唱えているんだから、英語のテストも要らないと思ってる。試験を経ない推薦入試のような仕組みをいっぱい作っている時代に、どうして「大学入試改革」にこれほど時間を掛けて議論をしているのか、僕には全然判らない。それでも受験生の英語力を知りたい高校や中学の成績だけでは信用できない、というのもホンネとしてあるだろう。そこで「基準として英検を使う」というあたりならいいんじゃないかと思う。

 「本大学を受験するには英検準2級以上合格を必要とする」といった感じである。レベルが高い大学は2級を要求し、あまり高いことをいうと集まらない大学では3級に下げるところもあるかもしれない。「英検」と言ったのは、2級までなら学校で一次試験を準会場として行うことが出来るから、比較的受けやすいと思うからだ。他にもいろいろあるし、インターネットで受験できる英語テストもあるのかもしれない。離島なんかの場合はそういうものがいいだろう。英検だって、2次試験は必ず本会場に行かないといけないから。それにしても、一点刻みで英語力を測って、それを他教科と合計して合否を決定することにどんな意味があるのか疑問だ。
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小学校英語教科化で始まる「学校の危機」

2019年04月24日 22時51分41秒 |  〃 (教育問題一般)
 英語教育に関してまとめて書いておきたいと思う。英語そのもの、あるいは言語教育表現教育についてきちんと考えるべきなんだけれど、まずは小学校での英語の教科化に関して。今までも小学校では「外国語活動」が5・6年生で行われていた。それが新学習指導要領では「外国語活動」は3・4年生で行うこととなり、5年生、6年生は教科「外国語」になる。教科「外国語」は週に2時間の配当になっている。初めての教科書検定も終わって、夏には採択する教科書が決まる。
 (初めての小学校英語教科書)
 文科省では、小学校では5・6年生で「教科担任制」を導入する意向を示している。そうなったら英語は恐らく大体「英語専科」の教員が担当するのではないか。小学校は小規模校が多いだろうから、一校だけでは英語教員の授業が少ないことも多いだろう。講師で対応するのか、複数校を受け持つ専任教員にするのか(そういう意向も文科省にはあるらしい)。それも重要だけど、それなら「63制」を再構築するべきという議論も出るだろう。小学校高学年を中学に移行するとか、全校を「小中一貫化」するという方向だ。少子化で教室確保は可能じゃないかと思うから、そんな議論も起こってくると思う。

 まあそれはともかく、小学校英語の「教科」化は大きな問題を引き起こすと思う。この問題を考えるときに、「早くから始めた方が良いに決まってる」「アメリカでは小学生も英語をしゃべってる」的な俗論が横行して、まともな議論になりにくい。大学受験英語の「4技能重視」「外部テスト導入」もあって、英語の早期教育は疑う余地なしの雰囲気になっているんじゃないか。しかし、小学校教員の大部分は、まさか英語を授業するとは思ってなかっただろう。いくら研修を積み、やる気で臨んでも、週に2時間の授業で、英語がどれだけ出来るようになるだろうか

 もちろん外部の塾などにも通い、あるいは外国生活の体験があり、英語が出来る小学生も増えるだろう。ニュースには都会にある落ち着いた小学校が取り上げられ、「良いことが始まった」的な報道がなされる。国や地方の官僚だけでなく、新聞やテレビの記者も有名大学卒の「出来る生徒」だった人が大部分だろう。「もっと英語を勉強していれば良かった」と思ってる人も多いから、小学校英語を批判するのは難しい。「勉強が出来た人」には、小学校英語を歓迎する人が多いんじゃないか。自分の時にも小学校から英語があれば、自分は勉強が好きだから一生懸命英語をやって、今になって英語で苦労しないですんだかもしれない…。そんな風に思いやすい。

 しかし、大きく見れば「出来る子が半分」「出来ない子が半分」である。今は大学全入とか言われるが、実際の大学進学率は5割強である。短大を入れれば、58%ぐらいになるが、4年制大学で言えば男子が53%ほど、女子が50%ほどになっている。(2018年度、過年度生を含む数値。)大学入試改革が大きく取り上げられているが、短大や専門学校への進学、あるいは就職時には「英語4技能テスト」なんてまさかやらないだろう。だから、高校生の半分には大学入試英語の議論は関係ない。

 小学校で英語を始めれば、小学校卒業段階で「英語が嫌いな子ども」が大量に生まれる。もちろん「英語が得意で大好きな子ども」も多くいるだろう。そっちの方が多いかもしれない。でも今までなら、中学になって英語が始まるから、頑張ろうという生徒がいた。中学になって、制服になり、部活動も本格化し、算数が数学に、図画工作が美術になり、そして英語も始まる。気を引き締めて頑張ろうという生徒がいた。しかし、今後はもう英語が嫌いだという生徒を抱えて中学英語がスタートする。そして中学からは、英語の授業は英語でやるという。本当にやれるのかと思うが、そういうことになっている。

 「英語が嫌いな生徒」の大部分は、それでも少しずつ頑張る気だろうし、判らなくてもおとなしくしているだろう。でも、何人かの生徒は「難しくなった英語」(あるいは数学)について行けなくなり、気持ちが学校から離れる。どうせ大学まで経済的にいけない(と自分の家を見て思う)生徒は、英語ばかり重視する学校教育に見切りをつける。今までだって同じようなことはあったわけだが、「小学校英語教科化」「英語4技能重視」はそういう生徒を増やすとしか思えない。

 いや、そうならないように小学校の教員も、中学校の教員も努力するんだというかもしれないが、言葉で言うのは簡単だが必ず「英語嫌い」が増えると僕は思う。「英語得意」も増えるかもしれない。そっちを見れば「大成功」になり、そういう研究授業が行われ論文が書かれる。報道されて、英語教育はうまくいってると思わされる。その反面で、いじめ事件や暴力事件が頻発し、不登校生徒が増える。学校の関心が「英語教科化」に向かって研修等も増え、児童への目配りもその分減ると思われる。僕は小学校英語がこれからの学校崩壊の弾きがねにならなければいいがと心配している。
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成果がなかった「野党共闘」ー衆院補選と統一地方選

2019年04月22日 23時15分57秒 |  〃  (選挙)
 2019年4月21日に、統一地方選の後半選挙衆議院の補欠選挙が行われた。衆議院補選では、大阪と沖縄でともに自民党候補が落選した。そこで新聞には「自民2敗」と書いたところもあるけど、それは情勢を読み誤っている。日本中さまざまだから、細かく見るといろいろな選挙結果があるが、概ね「変化なし」を日本国民は選んだというべきだと思う。沖縄と大阪は確かに国政与党が敗れているが、もともと自民の体力が弱いところだ。

 沖縄は野党共闘が勝利したには違いないが、もともと勝ち続けてきた共闘路線である。前回衆院選(2017年10月)と比べて投票率が10%以上低かったこともあり、前回の玉城デニー=95,517票が今回の屋良朝博=77,156票と大きく減らしている。対して自民票は比嘉奈津実=66,527票から今回の島尻安伊子=59,428票と減り方が少ない。前回の比嘉は比例で当選できなかったが、同一選挙区で二人候補者がいることになる。(比嘉は今度は参院選に出馬することになって、島尻と入れ替わりになる。)劣勢な沖縄で自民はそこそこ健闘したのだ。
 (沖縄3区入りした野党首脳)
大阪12区の結果は複雑なので後に回して、東京都の区長、市長選の結果について見てみたい。世田谷区では保坂展人区長が自民党推薦の女性候補を破って三選された。三鷹市では同じ保守系ながら元副市長が4回当選の女性現職を破った。いろいろなケースがあるわけだが、大体で言えば自公の支持する現職が圧勝した市区が多い。そして「野党共闘」で臨んだ選挙は壊滅的な敗北を喫した。

 中央区では自公推薦の70歳新人候補に対し、立憲民主、共産、自由、社民各党が推薦候補を擁立したが惨敗した。当選した山本泰人が約2万5千票野党共闘候補が9千票で、突然立ったジャーナリストの上杉隆の1万2千にも及ばなかった。大田区でも同様で、現職の松原区長の13万5千票に対し、4野党共闘候補は5万5千票ほど。前区議のもう一人の候補の5万6千票超に及ばなかった。板橋区でも同じで4野党教頭候補はダブルスコアの敗北。他にも「共産+自由」という組み合わせがいくつかあるが、どこも当選にはほど遠い。
 
 そのことは統一地方選前半の北海道知事選でも言える。今までの選挙では、現職が強いのは当然だが、新人同士の争いの場合なら「野党が共闘すれば勝てないにしても善戦はする」ものだった。今年の地方選挙では「善戦」にもならない。「野党はバラバラ」なのに対し、安倍内閣の支持率は今も高率を維持している。安倍内閣の政策に反発する層もかなりあるが、固定化されていて増えていかない。安倍首相がカムバックしてからすでに6年を経過している。かつての長期政権(佐藤栄作内閣など)では国民の中に「もう飽き飽き」感が充満していたものだ。

 6年経っても高支持率なのは不思議といえば不思議。何度か支持不支持が逆転しても、いつの間にか持ち直した。そしてまだまだ続きそうである。天皇代替わり・改元から東京五輪へと続く中で、世の中には現状維持を寿ぐムードが蔓延していくだろう。そういうなかで「野党共闘」は埋没している。何党がどうのというレベルを超えている。「冬の時代」が続く中で、いつの間にか「転向」する人も増えている。そんな時代に「正気)を保っていたいと思う。

 さて、大阪12区(大阪府東北部の寝屋川市、大東市、四條畷市)。維新藤田文武6万票で、自民党北川晋平4万7千票を振り切った。こうなると、さすが「維新」は大阪ダブル選以来の好調を維持していると思うだろう。ところが藤田は前回2017年衆院選にも出ていて、その時は6万4千票余りを獲得していたから、実は票を減らしている。前回の投票率は47.5%、今回は47%で投票者数もほぼ同じだから、維新が絶好調なら票を大きく伸ばしてもおかしくはない。2週間前の大阪府知事選では(投票率は大体同じ程度)、ここで維新の吉村候補が10万4千票を取っていた。

 それが維新候補が勝利したのは、特に公明票樽床伸二に流れたからだろう。この大阪12区は長年自民党の北川家(北川石松、北川知克)と民主党(新進党)の樽床が対決してきた。小選挙区実施以後、樽床4勝、北川4勝である。強い地盤を誇った樽床だが、民主党政権崩壊後は2回続けて大差で落選した。前回は「希望の党」から比例区の名簿1位で当選した。「希望」の小池都知事と「維新」が協力して「維新」擁立地区に「希望」は立てないということだろう。樽床がそれに反発して立憲民主か、少なくとも無所属で出れば当選できたのかもしれない。一度出馬を見送れば、地盤が荒らされる。今後の復活も難しいだろう。

 そして共産党は現職の宮本岳志を辞めさせて、無所属で擁立した。野党共闘を模索したが、結局自由党だけが推薦した。しかし、1万4千票ほどで惨敗である。これは非常に深刻で、「共産党票しか入らなかった」のではなく、2017年に22,858票を取っていたので共産票も大幅減なのである。それどころか、小選挙区制度になってから9回目の選挙で、最低の票である。宮本は大阪で参院議員、衆院議員に当選し、国会質問でも知名度がある。しかし調べてみると、岸和田市の出身で大阪12区との縁がない。それまでの候補を取り下げたこと対する反発はなかっただろうか。
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「英語教育実施状況調査」、さいたま市の結果をどう見るか

2019年04月21日 22時10分35秒 |  〃 (教育問題一般)
 2019年3月16日に、文部科学省から「平成30年度英語教育実施状況調査」が発表された。毎年この時期に発表されて「中高生の英語力、目標に達せず」と報道されるのが「風物詩」のような感じになっている。直後の18日に、全国学力テストが実施され、中学で初めて英語も実施された。パソコンを使って「話す力」のテストも実施したが、機器の不具合等で実施できなかった学校が502校にのぼった。

 別に英語力の状況調査を行うんだから、苦労して全国でテストする意味があるとは思えない。全国学力テストの結果報道も大体パターン化していて、「応用力に課題」と毎年言われている。得点が高い県もおおよそ固定していて、毎年やる意味がない。英語は初めてだから多少は違うかもしれないけど、同じ中学校なんだから英語だけ違う結果が出るとも思えない。

 近年はずっと英語、英語と学校も企業も言っている。得意な人にはいいかもしれないが、英語が苦手な人には憂鬱が増す。大学入試も激変するが、特に英語に関しては外部テストの導入などを巡って揺れている。もうすぐ実施時期が来てしまうが、一体どうなるんだろう。英語で「4つの力」(読む、書く、話す、聞く)を重視するのはいいけれど、一体公正に判断できるかどうか疑問な能力をどう測定するのか。そもそも英語が話せないと、大学生になってはいけないのだろうか。英語教育の本質論を抜きにして、入学試験の話ばかりしている。

 ところで、先の英語教育実施状況調査に関して、僕にはどうにもよく判らないことがある。この調査では中学3年生で「CEFR A1レベル(英検3級)相当以上を達成している中学生」を調べている。目標は5割だが、実際は42.2%である。毎年漸増しているが、目標に届かない。その中で、「さいたま市」だけが突出して75.6%を達成しているのである。前年度から比べると16.5%も増えている。常識で考えてみると、さいたま市の中学3年生は急に英検3級を持っている生徒が多くなったわけである。

 ところがよく見てみると、少し事情が違う。そもそも先に調査で水準を達成したというのはどういうことか。「英検3級」と明示されているんだから、検定合格かと思うと違っている。教師が「同等程度の力がある」と認定すれば、その生徒を含めていいのである。さいたま市の場合、「取得している生徒数」は35.3%で、同等の英語力を「有すると思われる」生徒数が40.1%なのである。

 他の県や市を見てみると、検定取得生徒数は福井県の53.6%を筆頭に、横浜市の47.6%東京都の35.8%となっている。さいたま市と近い東京とほぼ同様で、横浜はずっと取得生徒数が多い。しかし、横浜では「同等」生徒が8.3%となっている。これは僕の感覚では「同等認定」にふさわしい数値ではないかと思う。一方、さいたま市の「同等4割」は普通に考えて多過ぎないか。

 何でさいたま市の「同等学力」の生徒たちは英検を受検しないのか。経済的な問題なのか。他に部活等の予定があったのか。それにしても部活は夏前で終わって、秋以後の英検は受けられるはず。さいたま市の生徒だけが特に英検を受けられない事情は考えにくい。ちなみに英検3級を調べてみると、受検料4900円となっている。「同等学力証明書」なんてものはないだろう。認定した教員も、進路先への調査書には書いてくれないはず。将来の大学受験を考えれば、生徒の方だって、中学で英検3級に合格して高校に進学したいはずである。

 さいたま市の事例に関して、「小1から中3まで一貫したカリキュラムを設けた」「中学での授業時数を増やした」などが効果を上げたと市教委の担当者が述べている。(朝日新聞、4月17日)しかし、真の問題は「そのような対策を取ってきて、なぜ横浜市と検定合格者率が10ポイント以上も差があるのか」の方だろう。そっちを追求しなければ意味がない。それとも、「同等学力」をどう認定するのか、そのテクニックを公表してほしいと思う。検定合格者よりも、同等学力認定者の方が多いのはおかしいと思うのが、普通の感覚だ。

 僕が思うに、「同等学力」があるなら検定を受ければ合格するはずだが、実際は違うだろうと思う。二軍で活躍しても昇格するとダメな野球選手、稽古場では強いが本場所ではダメな相撲取りみたいなことがある。他流試合には弱いというタイプがいるのである。そして進路活動で使えるのは、検定合格という実績だけだろう。検定合格者数だけで見れば、全国で見てみると23.9%、同等学力生徒18.7%を含めて「4割以上」と発表しているが、実は文科省がこれだけ旗を振リ続けて、合格生徒は4分の1にも達しないのである。そっちの方が、日本の中高生の英語力の真実なのである。
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新国立劇場のチェーホフ「かもめ」

2019年04月20日 23時41分09秒 | 演劇
 新国立劇場でチェーホフの「かもめ」を上演している(29日まで)。「かもめ」はよく上演されるが、今回はちょっと珍しい試みをしている。すべてのキャストをオーディションで選んでいる。そしてイギリスのトム・ストッパードによる英語台本を小川絵梨子が翻訳したものを使っている。(演出は鈴木裕美。)ストッパード版を使うのも異例だが、なんと言っても全キャストをオーディションで選んだことが成果を上げたかどうか。それが上演の成否を握るが、残念ながら成功とは言いがたいと思う。

 小川、鈴木らは前から全キャストをオーディションで選んでみたいと思っていたという。昔は「劇団公演」で上演されたから、大体配役は予想できる。ときたま劇団内で抜擢があったとしても。演出で新しい解釈などは少ない代わりに、いつも一緒に稽古してるから仲間でやるから脇役や裏方の技術は安定している。今も劇団はたくさんあるが、大きな劇場のプロデュース公演では、集客力を考慮して初めから有名俳優を主演級にキャスティングすることが多いだろう。そうなるとキャストが固定し、新しい才能が出てきにくい。僕は今回の出演俳優を一人も知らないけれど、それが可能なのは「新国立劇場」だからだろう。(もともと料金も安いし、製作費回収の重圧も低いだろう。)

 オーディションのためには有名な戯曲がいいが、チェーホフは群像劇だから、シェークスピアよりいいんじゃないかと演出家側は考えたらしい。実際応募者が殺到して選考は大変だったようで、みんな熱演している。それはストッパード版の影響もあるかもしれない。トム・ストッパードは「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」や「ロックンロール」などで知られる劇作家だが、「恋に落ちたシェークスピア」でアカデミー賞脚本賞を受賞したことでも知られる。大体みんな元気なセリフ劇が多くて、なんだかストッパード的チェーホフの気がした。オーディションがその印象を増大していると思う。

 チェーホフも「かもめ」も有名だから、ここで劇の内容には触れない。でも少しは書かないと先へ進めないからちょっとだけ。19世紀末のロシア。ある湖畔の領地に、大女優のアルカージナが流行作家のトリゴーレンと一緒に滞在している。アルカージナの息子トレープノフは作家志望で、恋人のニーナ主演の劇を上演しようとしている。ところがすったもんだがいろいろあって、ニーナは女優を夢見てトリゴーレンと一緒にモスクワに行ってしまう。そして2年後…ということになる。

 人が皆ずれた人間関係を抱えて右往左往している。夢を追っては挫折して行く人々はチェーホフの有名な4大戯曲(書かれた順で「かもめ」「ワーニャ叔父さん」「三人姉妹」「桜の園」)に共通している。昔はこれは帝政ロシアの滅び行く階級を描く「悲劇」だとソ連や日本では解釈されることが多かった。しかしチェーホフ本人は「喜劇」と呼んでいて、近年は「喜劇」として演出することが多い。喜劇と言っても、悲劇も起こるのでカッコ付きである。人間関係のズレが「おかしみ」をもたらす。

 「かもめ」は、役柄に「大女優」や「人気作家」があるんだから、完全なオーディションじゃなくてもいいと思う。そうじゃないと、アルカージナが大女優に見えてこない。大女優は役として大女優というだけじゃなく、皆が知っているという知名度があった方が劇に入りやすい。ただでさえチェーホフを見るときに(あるいはドストエフスキーを読むときに)、誰が誰だか人名が判らなくなってしまう。トリゴーレンとトレープノフが(聞いてるだけでは)区別しにくい。だから知ってる役者がいないとチェーホフ劇は判りにくくなる。僕はそんなことを思ったのである。

 なおウィキペディアの「かもめ」の項目に、日本の主な上演のキャストが掲載されている。やはりアルカージナやトリゴーレンは有名な俳優が演じている。ニーナは若い女優だから、近年ではアルカージナが大竹しのぶ、ニーナが蒼井優といった感じ。これなら見ただけでイメージが湧く。世界初演のサンクトペテルブルクでは酷評されたが、1898年のモスクワ芸銃座公演で成功した。この時の配役は、アルカージナがオリガ・クニッペルで、大女優にしてチェーホフ夫人。トリゴーレンはスタニスラフスキー、トレープノフはメイエルホリドという超豪華な伝説的な舞台だった。

 オールキャストのオーディションそのものは否定しない。だけど選考が大変過ぎると本末転倒になる。群像劇のチェーホフよりも、やるんだったらシェークスピア、それも「ロミオとジュリエット」なんかでやったらどうか。ロミオやジュリエット役に選ばれたら大注目を受けるんじゃないか。あるいは「リア王」。老け役じゃなくて、現実の高齢者をオーディションで選ぶ。その方が面白いんじゃないか。
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「服従」ーウエルベックを読む⑤

2019年04月18日 22時22分36秒 | 〃 (外国文学)
 ミシェル・ウエルベックの本シリーズの最後は「服従」。2022年のフランス大統領選で、イスラム政党の党首が国民戦線(極右)のマリーヌ・ルペンを破って当選する。ジワジワと進むフランスのイスラム化。という内容的にも際どい本だが、よりにもよって刊行日が2015年1月7日。その日はシャルリー・エブド襲撃事件が起こった日なのである。「プラットフォーム」でイスラム批判を書いた後に同時多発テロが起きたが、今回はフランスで起きたイスラム原理主義のテロ当日に刊行とは…!。
 (「服従」=今は河出文庫)
 2015年中に翻訳も出され、2017年のフランス大統領選前には文庫にもなった。話題の本だけに読んでみた人もいるかもしれないが、はっきり言ってしまえば、この本だけ読んでもそんなに面白くないんじゃないか。面白さ、読みやすさを考えると、「素粒子」と「プラットフォーム」がウエルベック入門には相応しいだろう。そもそもこの本の刊行時には、2017年大統領選が終わってなかった。この本によると、保守派(旧シラク元大統領支持派)は分裂していて、社会党の現職オランドも不人気ながら2位に残るとされる。そしてマリーヌ・ルペンと決選投票になるが、人々はやむを得ずオランドに投票する。2期目のオランドは支持が低迷し、2022年には社会党も保守派も国民の信用を失っている。

 2015年時点の見通しとしては、ありそうな感じだったと思うけど、実際はエマニュエル・マクロンという30代のエリート大臣(中道派)が登場したわけである。そしてフランスに有力なイスラム政党など出現していない。フランス政治の「予言」として読むなら、少なくとも2022年大統領選に関しては全然当たらない。でも、現実的な政治過程としてこの本を読む人はいないだろう。「元々あり得ない話」を書いてるのであって、そのぐらいフランスの知識階級に対する絶望が強い。風刺を超えた悪意の書だ。

 主人公の「ぼく」はフランス文学の研究者で、特に19世紀末に活躍したユイスマンスの専門家である。ユイスマンスは象徴主義の代表と言われる「さかしま」(1884)で知られる。日本でも渋澤龍彦訳で文庫にもなっているから、そこそこ知られてはいるだろうが、まあフランス文学の中でもマイナーの方だ。日本でも軽視されている文学部だが、フランスでも同様らしい。「ぼく」は女子大生と何人か付き合ったりしながらも、生活も不安定で結婚は出来ない。最後に付き合っていた女子大生は実はユダヤ系だったので、極右かイスラムかという政治情勢を心配して一家でイスラエルに移住する。

 大学も予算獲得のため、サウジアラビアのオイルマネーを獲得して、女性教員を辞めさせるなどイスラム化が進んでいく。「ぼく」は一体どうすればいいんだろう。ユイスマンスはやがてカトリックに改宗したが、「ぼく」も以前に論文執筆のため訪れた修道院を再訪してみる。そして最後にイスラム化した大学に「服従」するのである。そうすれば大学が選定した複数の妻を持てるらしいし…。いくら何でも馬鹿にし過ぎだと思うが、ここまで来ればイスラム批判ではなく、イスラムを使ったフランス知識人批判ということだろう。彼らは「イスラム」に「服従」するだろうが、恐らくルペンが勝利して「極右化」が進行しても「服従」するに違いない。日本だって同じである。現状を見れば判ることだ。

 この小説を読んで僕が思い出したのは、南アフリカ(今はオーストラリア在住)のノーベル賞作家クッツェーの「恥辱」という小説だ。フランスと違い(?)、こっちでは女子大生と関係して失墜する大学教授の滑稽な姿を描くが、同時に選挙によって「アフリカ的価値観」が浸透する南アフリカの現状も冷徹に語られる。またフィリップ・ロスの小説「プロット・アゲンスト・アメリカ」も思い出す。これは1940年のアメリカ大統領選で、親ナチスのリンドバーグ(大西洋横断に成功した飛行家)が当選して、隠微な形で「反ユダヤ主義」が進行してゆくアメリカを描く。世界が破綻してゆく恐怖が生々しい。

 現実にはエジプトの大統領選挙の影響もあるかもしれない。ウエルベックは「ある島の可能性」の中で、イスラム世界の独裁政権がインターネットの普及で倒壊すると「予言」している。それは2011年の「アラブの春」で現実となったが、2012年に行われた大統領選第一回投票では、ムスリム同胞団のムルシとムバラク前政権で首相を務めたシャフィークが決選投票に進出した。世俗派中道系や左派系は相打ちになって決戦に進めなかった。結局ムルシが当選したものの、憲法のイスラム化などが反発を呼び、一年後の2013年7月に軍部によるクーデタで失脚した。このケースは「決選投票が究極の選択になる悪夢」を示す。「服従」のフランス大統領選も、そのような「究極の選択」を強いる民主主義システムへの懐疑を表している。
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「ある島の可能性」ーウエルベックを読む④

2019年04月17日 21時23分41秒 | 〃 (外国文学)
 ウエルベックの次の作品は「ある島の可能性」(2005)。2007年に角川書店から邦訳が刊行され、2016年に河出文庫に収録された。文庫本で500ページを超える最長作品で、しかもSF的な作りになっている。20世紀に生きていたフランスのコメディアン、映画監督の「人生記」と、2000年後における人類滅亡後の「ネオ・ヒューマン」による注釈が交互に並んでいる。慣れるまでは何じゃらほいというスタイルで、付いていくのが大変。やっと判ってきた頃には、長いから少し飽きてくる。と思ったときに、300頁頃に「驚くべき展開」が起こって目が覚める。終わってみればとんでもない作品だと判る。
 (「ある島の可能性」=河出文庫)
 「ある島の可能性」の「」というのは、「ランサローテ島」のことだろう。ランサローテ島はモロッコ沖にあるスペイン領カナリア諸島北東部の島で、荒涼たる火山活動の跡で有名だそうだ。ウエルベックには2000年に刊行された「ランサローテ島」という中編小説がある。これは本の半分が著者による写真集で、2014年に河出書房から翻訳が出ている。唯一文庫化されていない本だが、調べたら地元の図書館にあって早速読んでみた。すぐに読める本で、リゾート観光体験記という点で「プラットフォーム」に、ラエル教団に関係するという点で「ある島の可能性」につながっている。
 (「ランサローテ島」)
 ラエル教団というのは、フランス人のスポーツジャーナリスト、ヴォリオン(ラエルと名乗った)が異星人「エロヒム」と出会ってメッセージを伝えられたとする新興宗教である。エロヒムによれば、人類はエロヒムが作って地球に放たれた生命体だという。モーゼ、ブッダ、イエス、ムハンマドらは皆エロヒムのメッセンジャーで、ラエルは最後の預言者で弥勒菩薩だという。諸宗教入り混ざった「ラエリアン・ムーブメント」として、日本でも活動している。(ホームページがある。)ラエル教団は一時、エロヒムを迎える「大使館」をランサローテ島に作ろうとしていて、その頃ウエルベックが島を訪れたということらしい。

 宗教上の教義はさておき、ラエル教団は「不死」を追求して「クローン技術」を開発している。「クローン人間」が実現すれば、それを改良していって「事実上の不死」とみなす。子どもとしてクローン人間を作るのではなく、初めから大人になった体を作る。記憶などの脳内情報もいったん取り出して(パソコン乗り換えの時のように)、その後新クローン人間にインポートする。そんなことが出来れば、「不死」に近くなる。この小説では、ラエル教団に遺伝子情報を預けた人々のみが、「ネオ・ヒューマン」(クローン)として生き残ったことになっている。現行の人類は気候変動や核戦争などで滅亡し、一部生き残った人々は文明を忘れて野生で生きている。ネオ・ヒューマンは彼らを「野人」と呼んでいる。

 「ある島の可能性」は第一部が「ダニエル24の注釈」、第二部が「ダニエル25の注釈」と題されている。最初はなんだか判らないんだけど、やがてこれは「ダニエル1」(20世紀に生きて、ラエル教団に遺伝子情報を託した人物)の、24番目と25番目のクローンという設定なのである。ちなみに愛犬フォックスの遺伝子も登録してあったので、代々クローン・フォックスが送られてくる。一代が何十年か生きるから、24代ということはすでにネオ・ヒューマン時代もすでに2000年ほど経っている。改良を重ね、小さな固形食料で大丈夫になっている。初代は「人生記」を残すことになっていて、それを読んで注釈を書くのがネオ・ヒューマンの一生である。そんなバカなという設定だけど、切実な痛みが伝わる。

 この本の大部分は、「ダニエルの人生記」になっている。お笑い芸人として成功し、映画製作にも乗り出して評価される。そういう人は日本でも多いけど、このダニエルはフランスを代表するアーティストとして「有名人」になる。それなのに恋愛や家族に恵まれないのは、他のウエルベックの本と共通。成功して恋人と住むためにスペイン南部に家を買う。その時の隣人の息子夫婦がラエリアンで、ランサローテ島の集会に誘われる。ダニエルは教義は信じないが興味を持つようになり、やがて教団を揺るがす大事件の目撃者となる。結局ダニエルは現世で幸福を得られないまま、クローンとして続くのだ。

 ものすごく長いので、途中で飽きてくる感じもある。ダニエル(初代)の行動様式が判ってくると、まあ人間は同じことの繰り返しなんだなあと思う。なんて寂しい物語なんだろう。この小説でもセックスが重要な意味を果たしている。それはどう語るかは別にして、実際に多くの人間にとって学歴だの仕事より重大だということなんだろう。だけど、素晴らしい性的結びつきも永続しない。世の中に楽しい小説もたくさんあるが、そういう小説は「人生の断片」しか描いていない。どんな大恋愛も、やがて死を迎える。長いスパンで大長編を書けば、すべての物語は悲しい別れを迎えることになる。

 この「ある島の可能性」もよく出来た面白い小説だ。「プラットフォーム」のようなスキャンダラスな物語ではないが、もっと人類史的視点で大問題を提出している。虚無を抱えた登場人物たちは、結局「不死」という新たな虚無に向かい合う。こうやってヨーロッパ文明、人類文明は滅んでゆくのかと痛みを覚える。だけど、これしかないのだろうか。リゾート旅行もいいけど、日本人なら季節ごとに温泉に浸かる喜びだけでも、しばらく生きて行けそうな気もするんだけど。ウエルベックの主人公は、お金に不自由せずこの世で成功した人物が多い。そういう人を通さないと世界を語れない。でも「小さな喜び」を感じながら生きている市井の人々を描く「私小説」が恋しくなったりもする。
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「プラットフォーム」ーウエルベックを読む③

2019年04月16日 22時50分42秒 | 〃 (外国文学)
 ミシェル・ウエルベックの「プラットフォーム」(2001)は、書く小説すべてが問題作のウエルベックといえど、一番の超問題作だろう。この小説は2001年の8月下旬に刊行され、すぐ後にアメリカの同時多発テロが起こった。詳しく書けないが、小説内容が刺激的かつ「予見的」で、スキャンダルと言える騒ぎとなった。その問題はさておいても、作品内容が「売春観光」、特にタイ南部のリゾートにおけるセックス、さらに現代人の性とはどういうものかヨーロッパ人の文明はどこに行くといったテーマが縦横に語られる。刺激的でスキャンダラスで、こんなに面白い物語が現代にあるのかと思うぐらい面白いけど、ここまでセックス絡みだと人に勧めにくい。そんなレベルに達した問題作。
 (河出文庫)
 内容は確かに「問題作」で、ずいぶんいろんなことを考えさせられるけど、どうも僕には完全には認めがたい。主人公の「」は人生に熱くなれずに虚無的に生きている。「僕」は文化省で現代アートの展覧会の予算担当という、有意義と思える定職がある。「見た目」も問題ないし、お金も不自由しない。問題ないじゃないかと傍からは思うけど、ウエルベック本人がそうであるように家庭的には恵まれない。両親は別々に暮らし、その疎遠な父親は冒頭で殺害される。その事件はエピソード的には小さなものなんだけど、ある意味フランスが変わりつつあることの象徴でもある。人生の意味に悩む「僕」は父の死をきっかけに休暇を勧められ、タイのリゾート旅行に申し込む。

 そのタイ旅行がかなり長く語られる。旅番組はテレビでいつもやってて、他人が食べたり名所めぐりをしてるのを見るだけなんだけど、結構面白い。国内なら一人でぶらっと行けるけど、外国へ行くなら旅行会社の団体プランに参加することは日本でも多いだろう。そういう旅行を事細かに報告するというのは、文学上の発明だ。旅の解放感の中、名所を解説しながら、見ず知らずの同行者はどういう人かを観察する。主人公は誰かと親しくなるのかという「ミステリー」で読者を引っ張ってゆくことも出来る。「僕」は継続した女性関係が苦手で、気になる女性もいたけど声を掛けず、タイの娼婦を相手に性関係を結ぶ。セックスや現代文明への論評があけすけに語られてゆく。

 もうこの辺でアウトだという読者も出てくるだろうし、こっちもいささか飽きてくるが、第2章になると「怒濤の展開」が待っている。旅行中に気になっていたヴァレリーに最後の最後に連絡先を聞いてパリで再会する。そして結ばれるんだけど、実は彼女は「業界人」だった。つまり旅行業界内部の人で、このようなヴァカンス旅行の企画が仕事だった。完全な個人旅行ではあるが、社内割引で参加して「視察」も兼ねていた。そして業績を大きく伸ばして、上司とともに別会社から声が掛かっていた。不振のキューバ旅行の実情調査に二人で出かけたりもする。そこで「社会主義」の実情が観察される。

 あんまり書くと面白くないが、ここで「現代人におけるセックス事情」が興味深く語られてゆく。そして浮上するのが、「イスラム問題」だ。フランスだから地中海の向こう側はイスラム教地帯である。モロッコやチュニジアはフランス人に人気の観光地だし、エジプトも大観光地。だけどエジプトのリゾート施設が不人気だという。知人だというエジプト人を通してイスラム批判が語られる。「セックス観光」を仕掛けるのが仕事なんだから、公然たる歓楽を禁じ、体の露出もままならないイスラム地域は不自由である。この問題はラスト近くで悲劇につながるが、随所で示唆されているから驚くことはない。

 ここで語られるのは「物語」であって、著者の意見や実体験ではない。観光記という体裁の記述が多く、観光はとにかく動きがあるから一気に読める。その反面「著者の体験」視されやすい。この本で「僕」は相対化されていて、僕=ウエルベックではない。だけど「僕」や多くのヨーロッパ男性がアジア女性に抱く「幻想」が完全に相対化されているかどうか。

 「僕」や多くの日本人を含む「先進国」では、国際的な経済関係の現状から、東南アジアの国々に行けば「金持ち」として振るまえる。本国では満たされない欲望も金の力で実現できる。本人が本国で特に能力を発揮してなくても、親以前の世代の経済力で今の世代も恵まれている。だから異性愛の中高年男性だけでなく、女性や同性愛者であってもアジアのリゾート地で「おいしい体験」をする人はいるだろう。それを道徳的に批判するだけでは世の中は変わらない。だが金の力で「仕事」をしている「労働力」を買っても楽しいだろうか。セックスには言語はいらないと言うかもしれないが、継続的な関係を結ぶには言語的な共感抜きでは不可能ではないのか。

 セックス論議やイスラム教批判だけならまだしも、アジア幻想の「オリエンタリズム」臭には疑問を持ってしまう。ただし、そこを含めても「面白い物語」であって「問題作」を書いたという著者の才能は疑えない。至る所で「ホンネ」の議論を「僕」はやっている。だからこそ、ウエルベックの虚無の深さも感じることが出来る。何を書いてもいい小説というジャンルだが、こういう話が存在したのか。この本こそ女性が読んで批評するべき本だ。読めば反発する人が多いだろうが、考える材料になる。
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「麻雀放浪記2020」、キッチュの効用

2019年04月15日 23時02分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 すっかり売れっ子で公開が相次ぐ白石和彌監督の話題作、「麻雀放浪記2020」を見た。この映画の話題性は内容にもあるが、公開間近に出演しているピエール瀧が麻薬使用で逮捕されてしまったということも大きい。映画の主人公、斎藤工演じる「坊や哲」も映画内で逮捕され「謝罪の記者会見」をするシーンがある。現実と映画がピタリとはまりすぎて、笑うに笑えない。映画の最初にも、ホームページの最初にも、その問題に対するお断りが出るが、どっちも「ピエール瀧容疑者」と書かれている。今では「ピエール瀧被告」が正しいわけで、ホームページだけでも直した方がいいんじゃないか。 

 その問題はまあ大した問題じゃない。ピエール瀧は脇役だし、正直言えば全部カットしても大きな影響はないだろう。「東京ゴリンピック」なる催しの責任者の「」(もり)という役名には風刺もあるんだろうけど、あまり効いてない。むしろ僕が気になったのは、今回「作品には罪がない」などと言ってる人がいることだ。確かに集団製作の映画で、一人が問題を起こしたらお蔵入りというんじゃ、怖くて誰も出資できない。でも「罪がない映画」って何だろう。毒にも薬にもならないハリウッド製コメディ映画じゃあるまいし。見れば判るけど、これはかつて和田誠監督によって作られた「人間の毒」を見つめた前作とは風味が異なり、キッチュ(まがい物)を売り物にする映画だった。

 「麻雀放浪記」は阿佐田哲也色川武大)の大河小説である。それを映画化したのが和田誠監督の「麻雀放浪記」(1984、キネ旬4位)。今回は阿佐田哲也「原案」で登場人物の名前は共通するが、設定は全然違う。そもそも1945年の浅草にいた「坊や哲」が雷鳴の後になぜかタイムスリップして2020年の浅草にいた。まあヒトラーだって「帰ってきた」んだし、イタリア映画でもムッソリーニが「帰ってきた」らしい。(イタリア映画祭で上映され、その後公開予定。)日本でもタイムスリップして不思議じゃない。

 2020年、再びの敗戦によって東京ゴリンピックが中止となり、AI(人工知能)を世界に売りたい日本政府は麻雀五輪を企画する。よみがえった「坊や哲」はネット麻雀で人気を得ていたが、チンチロリンで賭博罪で逮捕。謝罪会見をさせられ五輪に出場せざるを得ない。「坊や哲」は「オックスのママ」と住んでいたが、そのママがなぜかAIとそっくりで、それをベッキーがやってる。このキャスティングで判るように、ピエール瀧の逮捕は予想外だったかもしれないけど、企画そのものが悪ふざけ的であり、スキャンダラスを売りにしている。映像の作り、セットや人物像も皆チープで、その企まれたキッチュさを楽しめる人向けの作品だろう。だから薄味なのは仕方ないと楽しむしかない。

 原作にはあるが、和田誠映画には出ていない「クソ丸」(竹中直人)と「ドサ子」(もも)が大きな役になっている。麻雀シーンも当然多いけど、もはや敗戦直後の焦燥感はなく、やっぱりゲームだという感じ。だからAIが出てきても、別に誰が勝ってもいいじゃんという気になる。人生を賭けて博打をやってるわけじゃない。そこの軽さが現代で、どうしてもゲーム的な映画になってしまう。そこがこの映画の評価の分かれ目で、それなりに面白いからいいとも言えれば、これじゃ物足りないとも言える。こういう軽みが現代なんだという自覚は作り手にあるとは思うが、僕は前作、あるいは色川武大(阿佐田哲也)に濃い「無頼」の感触が少ないのが物足りない。
 (和田誠「麻雀放浪記」)
 和田誠監督の映画のキャスティングを思い出せば(カッコ内が「2020」)では、「出目徳」が高品格(小松政夫)、「ドサ健」が鹿賀丈史(的場浩司)、「坊や哲」が真田広之(斎藤工)、「オックスクラブのママ」が加賀まりこ(ベッキー)、今回は出てこない「女衒の達」が加藤健一、その女まゆみ大竹しのぶ。これだけ見ても、役者が違うという思いを強くする。それにモノクロで綴られた虚無と無頼の匂いが素晴らしい。「賭博」に潜む深淵をのぞき見る映画だった。
 (和田誠(麻雀放浪記」)
 もともと「成長小説」(ビルドゥングスロマン)の要素が強かったが、今回はそういう面が少ないのも残念。白石監督も作りすぎではないか。和田誠監督というのは、もちろんあの和田誠である。イラストレーターの。84年は伊丹十三の「お葬式」がベストワンで、新人監督作品、異業種からの参入として話題になった。どっちの映画も麻雀を知らなくても楽しめる。僕は麻雀を知らないので、「麻雀放浪記」は読んでないんだけど、色川武大の小説、芸能や映画を巡るエッセイはすごく読んだ。
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「まく子」と「半世界」

2019年04月14日 20時56分09秒 | 映画 (新作日本映画)
 西加奈子原作、鶴岡慧子(1988~)監督の映画「まく子」を見た。僕がよく行く群馬県の四万温泉が舞台になっているから、ぜひ見ておきたかった。去年暮れに旅行したときもあちこちにチラシが置いてあった。そういう動機で見る人は少ないかもしれないが。ついでに、書いてなかった阪本順治監督の「半世界」も簡単に。何の関連があるのかというと、「まく子」には草彅剛、「半世界」には稲垣吾郎と元SMAPのメンバーが出ているという共通点がある。どっちも熱演している。

 「まく子」の紹介文を見ると、「ひなびた温泉街の旅館の息子サトシは、小学5年生。自分の体の変化に悩み、女好きの父親に反感を抱いていた。ある日、美しい少女コズエが転入してくる。言動がどこか不思議なコズエに最初は困惑していたサトシだったが、次第に彼女に魅せられていく。」 この父が草彅剛だけど、まあ脇役であって、ほとんど子ども世界の映画になっている。サトシ役は山崎光(2003~)、コズエ役は新音(2004~)。読み方が判らなかったけど、「にのん」と読むので驚いた。二人とも中学生で小学5年生の役をやってる。特に新音はきついかなとも思った。

 思春期の変容を地方の温泉街を舞台にていねいに描いている。そういう子ども映画としては冨樫森監督「ごめん」を思い出した。転校生の親が自分の宿の仲居さん。そんな近くに異性の同級生が引っ越してくるドキドキ感。そして父親は「女好き」で、子どもまでからかわれている。敬遠していたコズエが次第に気になってくるサトシ。そういう人生の小さなドキドキが、初めてだから初々しい。「まく子」の題名がよく判らないなと思ったら、いろいろと「撒く」ことから。山城の跡に行って、落ち葉をばらまくシーンが何度もある。そして、コズエは自分たち親子のある秘密を打ち明けるのだった。

 阪本順治監督に「団地」という映画があった。団地を舞台に不思議な物語が進行するけど、ラストのあっと驚く展開は僕には納得できなかった。今度の「まく子」のラストも似ていて、ファンタジー、あるいは比喩で語られるならいいけど、正直、何だろうこれはという展開にあぜん。まあ原作由来らしいから、やむを得ない。鶴岡慧子監督は立教大学の卒業制作作品がぴあフィルムフェスティバルで受賞し、スカラシップ作品として作られた「過ぐる日のやまねこ」が公開された。僕は見てないけど、どんどん出てくる若い監督の一人。主題歌の高橋優若気の至り」は、全曲がウェブ上にあるストーリーフィルムで聞ける。小学生じゃなくて、卒業前の高校生の設定だけど、なんだか切ない気持ちになる歌。

 阪本順治監督「半世界」は、三重県南部の小さな町で幼なじみ3人の人生を描いている。2018年の東京国際映画祭観客賞を受けたが、2019年2月公開後もあまり評判にならなかった。悪い映画じゃないと思うけど、今ひとつパンチがないとも言える。主人公が炭焼き職人の稲垣吾郎。その妻が池脇千鶴、友人が長谷川博己渋川清彦。三人のアンサンブルがすごくいい。故郷を出て自衛隊に入っていた長谷川が帰郷する。家に籠もっているが、何があったのか。一方、今どき炭屋では売れない悩みを抱える稲垣、池脇の夫婦。子どもはまた悩みを抱えている。そんな地方都市のリアルが丹念に描かれる。

 阪本順治が脚本も書いているが、ラストの展開などがこの映画でも納得は出来ない。この監督の作品には展開に微妙な違和感を感じる映画が多い。でも、まあ炭作りがじっくり描かれて、興味深い。大変な仕事なのに、今はなかなか売り込みが大変。映画の眼目は炭作りとともに三人の友情にある。そこでは、自衛隊のPKO活動でイラクに派遣されていた時期のことが語られる。セリフ上にあるだけだが、地方の小さな世界の話かと思ってると、そこから世界へ通じている。どこも「半世界」だということか。ところで、若い自衛隊員が便意を催した時に大声で「海ゆかば」を歌うというセリフがある。そんなことホントにあるのか。「大君の辺にこそ死なめ」と「皇軍」だった時代の歌を歌うのはまずいでしょ。 

 「半世界」は公開から時間が経ったが、今でも少し上映しているようだ。「まく子」も上映が終わりつつある。今年を代表する傑作とは言えないけど、日本の地方の様子を感じるためにも見ておいていい映画だ。まあ「半世界」は書きそびれていたわけだが。稲垣吾郎も良かったと思うけど、僕は妻役の池脇千鶴が素晴らしかったと思った。
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「闘争領域の拡大」ーウエルベックを読む②

2019年04月13日 22時31分28秒 | 〃 (外国文学)
 続いて話題の問題作「服従」を読んだけど、ちょっと順番を入れ替えて。ウエルベックを読んでみて、この作家は順番に読む方がいいと思ったから。最初の著書は「H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って」(1991)である。10代から愛読していたアメリカの怪奇・幻想小説の大家ラヴクラフトに関する本で、邦訳もある。その後2冊の詩集を出した後で、ウエルベックは最初の小説「闘争領域の拡大」(1994)を書いた。これも不思議な小説で、大体題名が小説というより社会学や哲学みたいだ。
(闘争領域の拡大=河出文庫)
 裏表紙に書いてある紹介を引用すると、「今一度思い出してほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだ時のことをー。「自由」の名の下、経済とセックスの領域で闘争が繰り広げられる現代社会。」という本である。つまり「闘争領域の拡大」というのは、「グローバル化」とか「新自由主義」とか「婚活」なんかのことを指している。昔だって、大学受験や仕事は「競争」だった。でも学校で真面目にやってれば、なんとかどこかの会社の正社員になれた。インターネットや携帯電話なんかなくって、人々の行動範囲は狭かったから、なんとなく皆いつの間にか職場結婚していた。

 今ではすべてが変わってしまい、「就活」が終わったら、次は「婚活」なんてしないと結婚できない。寿命も伸びて80とか90まで生きるから、結婚も30過ぎで十分という感じになってきた。そんな変化は経済先進国では共通だが、94年のフランスですでに書かれていたこの小説はずいぶん先読みだった。そうなると孤独な男、つまり現代社会で優位性の少ない男性、特に容姿の問題を抱える男はどうなるか。そういう問題は男女ともにいつの世もあると思うけど、普通はあまり語られない。そこをあけすけに観察しているのはこの本で、やっぱりすごく変な本なのだ。

 そこでウエルベックの実人生を探ってみたい。ウィキペディアに載ってるぐらいしか情報源がないけど、ご本人も「地図と領土」でやってるから構わないだろう。ウエルベックは彼の登場人物によくあるように、経済的には貧困ではないけど家庭に恵まれない少年時代だったようだ。生まれはインド洋にあるフランス領のレユニオン島である。なんでこの島がレユニオン島と言うかは、トリュフォー監督の映画「暗くなるまでこの恋を」の冒頭に出てくる。しかし両親が育児を放棄して、6歳の時からパリ近郊の祖母のもとで育てられた。この祖母の旧姓がウエルベック。

 ウエルベックは、国立パリ-グリニョン高等農業学校を出ている。職業教育校だけど、エリート育成を目的とした難易度の高い学校で、フランスで「グランゼコール」というタイプである。そして結婚して子どもも生まれたが離婚。精神的に不安定となり、精神病院に入院を繰り返した。ウエルベックの小説に、精神的に不安定な人物、あるいは病気の人物が多いのも、そういう実体験が影響しているのだろう。その後はコンピュータ技術者として働きながら、詩人として評価され始めた。「闘争領域の拡大」は特にこういう経歴がもとになっている。

 「闘争領域の拡大」は初の小説だから、まだ習作という感じが強い。短くて読みやすいけど、物語的な興趣が(後の大長編に比べて)薄い。主人公はコンピュータ・ソフト会社のシステム・エンジニアで、農業省が補助金システムをコンピュータ化するのに伴い、フランス各地に研修会講師として出張する。上記の経歴からすると、ある程度実際の体験も反映されているんだろう。この頃はまだインターネットや携帯電話は普及していなかった。しかし、事務作業にコンピュータ導入は進みつつあり、日本では事務の「電算化」と呼んでいた。組合では「電算化反対運動」があった。事務作業は軽減されるが、その分人員整理になる心配の他、「コンピュータ」というもの自体に違和感がまだ強かった。

 フランスでも似たような状況だったことが判るが、この小説はそういう問題は扱ってない。出張は二人で行われ、誰か同僚がいる。そして、旅先でいろいろあるわけだけど、ここまであけすけでいいのかなと思う展開。そして驚くというより、多分そうなるなという結末を迎える。まあ習作ではあるけれど、世界が全く違ってきていることを実感できる。と同時に、21世紀の小説では「老い」がかなり前面に出てくるのに対し、この小説ではまだまだ若いというか、老いは攻撃の対象でしかない。これだけ読んでも面白くないけど、とりあえずウエルベックの続きと言うことで。次は問題作「プラットフォーム」。
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「地図と領土」ーウエルベックを読む①

2019年04月12日 20時49分42秒 | 〃 (外国文学)
 パソコン入れ替え頃から、ずっとフランスの作家ミシェル・ウエルベック(1958.2.26~)を読んでいる。ミシェル・ウエルベックは、Michel Houellebecq と表記する。僕は長いこと「ウェルベック」だと思い込んでいた。ウェルベック( Welbeck )という名前も存在し、ダニー・ウェルベックというイングランドのサッカー選手が検索に出てくる。だけど、よく見てみれば「エ」の字が大きい。フランス語は H を読まないから、ウエルベックと発音するしかない。架空の名前ではなく、祖母の旧姓だという話。
(ミシェル・ウエルベック)
 ウエルベックは間違いなく世界でもっとも読まれている現役作家の一人である。でも絶対にノーベル文学賞は受賞できないだろう。今まで物議を醸しすぎる作品ばかり発表してきた。世界的に評判を呼んだ「素粒子」(1998)をちくま文庫で読んだだけだが、非常に面白かった。2010年に発表された「地図と領土」がゴンクール賞を受賞し、2013年に日本語訳(野崎歓訳)が出た。書評が面白そうだったので買ったけど、そのままになっていた。読み始めてから、ここしばらくウエルベックのとんでもない世界に浸っている。すべての人が読む本じゃないと思うけど、ぜひ記録しておきたい。
(地図と領土=今はちくま文庫)
 ウエルベックの作品は主人公の一人称で語られ、世界に関して考察する。じゃあ、論説やエッセイでいいじゃないかというと、確かにそういうものも書いている。でもウエルベックの出発点は詩人で、長々しい考察の果てに詩人的な世界観が現れてくる。非常に独特な世界で、大体名前も小説っぽくない。「素粒子」は実際に物理学の棚に並べられたらしいが、「地図と領土」も地理学かなんかの本かと思う。そして、この小説は今まで読んだ中で一番変な本、少なくともその一つだ。

 小説は何でも表現できる。人間は空を飛べないが、小説家が「彼は空を飛べる」と書けば、その小説内では空を飛べる。絵も空を飛ぶ人間を描けるから、そのような「不可能なこと」「人間世界の物理的法則に反する世界」を描く小説、あるいは絵画、アニメーション映画がたくさんある。でも、物理法則に反していても、登場人物が恋をしたり友情を育むといった「人間心理」は同じである。だから小説でもアニメでも我々は「魔女の宅急便」に共感できる。人間世界の物語だから。

 しかしウエルベックの世界は、そこを突き抜けている。「ある島の可能性」は実際に人類文明のその後を描いている。ウエルベックの世界では、現代ヨーロッパが行き着くところまで行き着いて、もう滅びるしかないような孤独な世界が広がっている。セックスは存在しているが、およそまともな意味での家庭生活を営んでいる主人公がいない。「地図と領土」の主人公、アーティストのジェド・マルタンも同様だ。一時は熱烈な恋人オルガが登場するが、結局うまくいかない。大体ジェド・マルタンは1976年に生まれて、2046年に70歳で没する。同時代を突き抜けて、近未来まで描かれるという不思議な小説。

 それ以上に変なのは、小説内にウエルベック自身が登場することだ。たまたま同姓同名なのではなく、あの「素粒子」の作者、あの「プラットフォーム」の世界的作家と自分で書いてるから、作者本人に違いない。マルタンは画家として個展を開くことになり、カタログにミシェル・ウエルベックに解説文を書いてもらおうと思いつく。孤独な人嫌いとして知られているウエルベックになんとか接触して、実際に会いに行く。自分を孤独な変人として描いていて、二人は芸術に関する会話を交わす。その結果、マルタンはウエルベックの肖像画まで描くに至る。その後、この小説はさらにとんでもない逸脱を続けてゆくが、そこは触れることが出来ない。とにかく、こんな小説あり得ないと思うだろう。

 この小説のテーマは「現代においてアートとは何か」である。一貫して「変わりゆく世界」(情報社会グローバル化などと言われる変化)に徹底して反対してきたウエルベックは、この小説でも風刺というか、皮肉というか、ほとんど悪意のように、現代アート論議が語られる。ジェド・マルタンは写真に興味を持っていて、「ミシュランの地図を写真に撮る」という趣向で大評判になる。展覧会でミシュランの広報担当のオルガと知り合う。その後写真をやめ、架空の肖像画を描き始める。それが「ビル・ゲイツとスティーヴ・ジョブズ、情報科学の将来を語り合う」といった絵で、これがマルタンの最高傑作と言われるようになるらしい。そして大成功を納めるも、また絵を放棄して孤独な人生を送るが…。

 この本には実在人物、特にフランスのテレビ界の人気者がいっぱい出てくる。注があっても完全にはよく判らない。でもそこが面白い。フランス語のウィキペディアからの引用も多い。主人公がそうやって調べてるんだから仕方ないけど、一時は盗作じゃないかともめたらしい。でも他の作品が民族、宗教、性などをめぐる大問題を引き起こしたのに比べるとたいしたことない。だからかどうか、候補4回目にして、フランスで最も有名なゴンクール賞を受賞した。とにかく変というか、風刺が行き着くところまで行き着いた自虐の果てのような小説なので、現代小説にあまり詳しくない人は困惑すると思う.でも、この小説は現代に書かれた最も優れた小説の一つだと間違いなく言える。
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