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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山田昭次「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後」を読む

2011年09月30日 18時48分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 何とか9月中にと思って一生懸命読んでいた山田昭次先生の最新の本。「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後-虐殺の国家責任と民衆責任」(創史社、2200円)。
(表紙と表紙裏=当時の新聞記事)
 山田昭次先生は僕の最も尊敬する歴史家の一人で、1995年に立教大学を退職され早すでに16年。80歳を超えても新たな研究に取り組み、日本国家と民衆へ向けて鋭い研究成果を発表している。昨年、朝鮮学校への授業料無償化問題で朝日新聞に投書が載っていたが、肩書が「無職」としてあった。一市民としての投書として感銘を受けた。

 さて、1923年に起きた関東大震災に際して、大規模な朝鮮人、中国人、「社会主義者」などの虐殺事件が起きた。その実態解明、責任追及の研究は、特に50周年、60周年、70周年、80周年という節目の年に行われた追悼と実態解明の集会記録として本にまとめられている。山田先生は80周年に際して、今までの研究を「関東大震災時の朝鮮人虐殺-その国家責任と民衆責任」として創史社より刊行した。(また集会でも講演を行い僕も聞いた。)今回の本はその旧著を絶版にして新たに書き加えた著作で、題名をよく見ると「その後」が表題に加えられた。

 この著作では、虐殺そのものの責任に加え、その後になって虐殺を隠ぺいし真相解明、追悼の動きを弾圧した日本国家、そして戦後になっても自らの虐殺への責任を直視できない日本民衆の姿を追求している。この本は歴史学論文集なので、誰もが必ず読んでおくべき本とは言わない。だが、歴史研究を志す人は是非目を通して欲しい。政治史、社会史、社会運動史、思想史、地方史などが総合化された成果になっている。研究が細分化され全体像を描くことが難しい状況の中で、問題意識を持った研究とはどういうものかと問いかけている著作だ。

 この本が解明したことをいくつか。震災に先立つ労働運動、社会主義運動を追い、23年のメーデーでは「植民地の解放」がスローガンとされたこと、それに対する権力の弾圧の実態などを通し、「朝鮮人と日本人社会主義者が暴動を起こしたという流言は官憲から発したと推定できる根拠はかなり確実になったと言えよう」。虐殺は軍隊、警察、民衆の「自警団」によって起こされた。そのきっかけとなる「暴動」の流言はどこで発生したか。それは「官憲から発したと推定できる」というのである。単に「民衆の中の朝鮮人差別」に帰する問題なのではなく、「日本国家の権力意思」による朝鮮人と社会主義運動に対する国家的弾圧だったということだ。

 また震災後、司法省による暴動のねつ造発表、朝鮮人による追悼の動きの弾圧などで真実を隠し続けてきた国家の責任が追及されている。そして戦後になっても、民衆自身の責任を問うことがなかなかできず、その結果として日本人による日本国家の責任追及が遅れた実情も指摘されている。

 一方、朝鮮人の生命を守った日本人は「社会主義者であれ、非社会主義者であれ、日常朝鮮人と交流し、朝鮮人に親近感をもっていた日本人だという、平凡に見えるが、極めて大切なことに気づいた」とある。その一例ととして、劇作家・小説家の秋田雨雀(うじゃく)をが取り上げている。秋田は今ほとんど取り上げられないが、震災以後の言論活動で虐殺の責任を追及していた。その背景には朝鮮人との交流があったのである。この点は非常に大切なことだと考る。人間を支えるのはイデオロギー以上に、人間関係の輪である。実際の生身の人間の声を聴きとれるかどうかがポイントになる。

 多くの朝鮮人が虐殺されたと言われる東京の荒川土手近くに、2009年に「ほうせんかの会」を中心に追悼の碑が作られた。荒川と呼んでいる川は、大正時代に多くの朝鮮人も加わって掘削された「放水路」である。下町一帯が火事になる中、千葉方面に逃げる人々は四ツ木橋に向かい、そこで朝鮮人虐殺事件が起きた。この碑文には民衆と国家の責任(誰が虐殺したか)が明記されている。(京成電鉄押上線八広駅下車、荒川土手方面歩いてすぐ。)
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若狭明美『六本木少女地獄』をめぐって②

2011年09月28日 01時34分53秒 | アート
 最近新聞やWEBサイトに記事が載って、このブログの『六本木少女地獄』記事に来る人もいるので、少し書いておこうかと。なんだかダラダラと書いているが、理由あってのことで、もうしばらくのんびりと書いて行くつもり。今回は、戯曲論そのものにはまだ行かず、論の前提をいくつか書いておきたい。

①「誤読」のすすめ
 出版された以上は、読者はテクストとしてどのように「誤読」して行ってもいいということだと僕は考えている。戯曲は上演を前提に書かれているけれど、他の人に上演して欲しくなければ三谷幸喜のように自分の戯曲は刊行しないというやり方もある。しかし、今目の前に本があるなら、それを自由に、好きに、読んで行って、解釈すればよい。(ただし、著作権違反になる勝手な上演はダメです。)もちろん上演を見ているかどうか、ましてや著者を知っているかどうかなどには、なんら特権的な意味はない。まず、このことを確認しておきたい。

②このブログやインタビュー等の史料価値について
 今後彼女の表現活動が展開されていっても、僕は「応援」以外のスタンスで書くことはないだろうと思う。「冷徹な批判者」になるには近すぎるからである。もちろん、このブログにも書いてないことはあるし、史料批判をしなければ「歴史記述」には使えない。そういう意味で、僕は本人が本の中に書いている解説、あるいは出版社サイトにあるインタビューもあまり本気で絶対視してはならないと考えている。一応、「伝記的事実」は基本的には信用して読みたいと思うけど、いろいろと意識的・無意識的なミスティフィケーション(意味わからない人は自分で調べてね)はありそうで、さらに出版社サイドのバイアスもかかっているのではないかと思っている。昔イチローが日本で最初に200本打って突然注目を浴びたとき、趣味を聞かれて盆栽と答えていたけど、まあそんな部分がたくさんあるのかもしれない。インタビューで言ってることの片言にこだわる必要はない。

③何故書いているか
 このことで随分長く書いているが、いろいろ理由がある。不登校・中退の若者にメッセージを伝えるというのが「公式見解」だけど、僕のブログへ誘導するとか「生徒自慢」みたいな部分もあるんだろう。ただ、そういうことより「六本木少女地獄」をきちんと論じてみたいという気持ちが大きい。(他の作品は書かなくてもいい。)何故だろうかと自分でも考えていて、論じたい欲求をを呼び起こす作品ではあったんだろうけど、それだけでは自分でも完全に納得できない部分が残る。

 ようやく最近自分なりに感づいたのは、僕の「最後の授業」からのつながり。教職最後の日に生徒・卒業生に何を語ったかは、ブログに書いてるけれど、「人は自分をきちんと認識することによって、変わることができるし、許しあうことができる」ということだった。そして「風の歌を聴け」の一部、「どんな惨めなことからも、人は何かを学べるし、だからこそ少しづつでも生き続けることができるのだということです」というところを朗読した。この問題意識は「六本木少女地獄」のテーマ性と微妙にリンクするのではないか、と考えているのである。「最後の授業」に出てくれた生徒・卒業生(若狭もいたけど)に対する、義務と言うか「最後の授業・追試編」みたいなものとして書いているのではないかと思うのである。

④「若狭明美」と「原くくる」について
 新聞には本名で出ているが、これは本人の選択で出版社サイドでどう思っているかはわからない。本人の考えを代弁することはできないが、僕がなぜ本名で書いているかを書いておく
 いろいろとあるが、一番大きいのは収録されている作品が、すべて中学・高校の演劇部のために書かれたものであるということだ。本人がペンネームで書いた原稿が受賞した綿矢りさとはそこが違う(「綿矢」はペンネーム)。上演時にペンネームを使ったことはあるが、出演時に名前を芸名にしたことはない。もともと公開されている名前なのである。それどころか中学生時代の作品の中には、若狭明美名で脚本集に収録され公刊されているものさえある。中学3年の時に書いたという作品で2010年暮れ刊行の本に入っている。(関心がある人は自分で探してください。)運動部で活躍して甲子園やインターハイに出た生徒は皆本名で活動し本名で報道されている。松井秀喜、松坂大輔、斎藤佑樹、田中将大…日本中が高校生の時に名前を知っていた。実力があれば、プレッシャーなんかものともせずにその後も活躍していくのである。それは文化部で活躍した生徒だって同じだろう。学校の部活で活躍したというんだから、その活躍は本名で報じるべきなんだと思う

 「原くくる」というのは「六本木少女地獄」を上演するときに考案されたペンネームで、他の名で発表された作品も含めてすべて「原くくる作品」としてしまうのは、作品個々の事情を考えると無理があるのではないか。また仮にそれはいいとしても、生身の「原くくる」という存在はいないのであって、現実に存在しているのは「若狭明美」である。(「原くくる」は上演台本のペンネームに過ぎないので。)そのうち違ったペンネームや芸名を考え出すかもしれないが、今のところ今後どうするかは誰にもわからない。(ただしペンネームを使うとしても「原くくる」ではないだろうと思っている。)作品の発表が本名であってもなくても本質的な問題ではないと思うが、このことはそんなに急いで考える必要はないだろうと思う。(なお、高校生ともなれば全国相手に進学・就職活動をする。名前は基礎的なデータであって、秘匿すべき個人情報というような性格のものではない。都立新宿山吹高校在籍中に芥川賞候補になった島本理生は本名。本人がどう名乗って表現活動をしていくかという問題。六本木高校には多数の芸能活動をしている生徒がいたが、大多数は本名だった。名前の一部を変えるような場合もあるが。)
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追悼・ワンガリ・マータイ

2011年09月27日 23時18分42秒 | 追悼
 ケニアの女性環境運動家でノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさん死去。71歳。日本でも「もったいない」運動で知られていた。関係の深かった毎日新聞から引用。

「ノーベル平和賞受賞者で、毎日新聞とともにMOTTAINAI(もったいない)キャンペーンを推進してきたケニアの元副環境相、ワンガリ・マータイさんが25日深夜(日本時間26日未明)、ケニア・ナイロビのナイロビ病院で卵巣がんのため死去した。71歳。マータイさんは昨年、卵巣にがんが見つかり、昨年8月にニューヨークで手術したが、今月になって再発した。

 1940年生まれ。ケニア中部ニエリ周辺の農村で生まれ育ち、生物学者を志した。渡米しカンザス州の大学で学士号、ピッツバーグ大で修士号(生物学)を取得。71年にはナイロビ大(ケニア)で東アフリカの女性として初の博士号(獣医学)を得た。

 「開発」の名のもとの環境破壊と開発の恩恵から阻害される市民の姿を目の当たりにしたことをきっかけに、環境保護活動に踏み出し、77年に農村地帯の女性に植樹を通じて社会参加を呼び掛ける「グリーンベルト運動」を創設。8万人以上が参加し4000万本以上を植える活動に発展し、アフリカ各国にも拡大した。運動は、環境保護活動と女性の地位向上、貧困撲滅、民主化促進などを結びつけて展開するものであるため、強権的なモイ前政権の弾圧対象となり、発電所建設を巡る森林伐採反対運動で逮捕・投獄された経験もある。

 モイ政権後の02年の選挙で国会議員に当選し、その後、副環境相に就任。環境保護と民主化への取り組みの功績が評価を受け、04年に環境分野で初で、アフリカ人女性としても初のノーベル平和賞受賞者となった。受賞翌年の05年に毎日新聞の招きで来日し、編集局長との対談で、「もったいない」という日本語に出会い、共感。「資源を有効利用する『もったいない』を世界に広めたい」と、毎日新聞などとMOTTAINAIキャンペーンを展開した。09年には国連平和大使に就任、旭日大綬章を受章した。」

 さすがに詳しいです。(朝日や読売のサイトと比べれば一目瞭然。)付け加えることがない。
 ケニアは独立後、ケニヤッタ、モイの長期政権が続き、91年から複数政党制が導入されたものの民族紛争と政争が続き、政治の世界でのマータイさんは必ずしも活躍できなかったと思います。

 ノーベル平和賞は有名政治家や国際機関に与えられてしまう年が多いけど、時に市民運動家、人権運動家に与えられる年があります。マータイさんは環境運動家として初、アフリカ女性として初の受賞で新しい歴史を作りました。前年の2003年受賞者であるイランの女性人権弁護士シーリーン・エバディ、1997年のアメリカの地雷反対運動家ジョディ・ウィリアムズ、1992年のグアテマラの先住民人権運動家リゴベルタ・メンチュウ、1991年のアウン・サン・スーチー、1979年のマザー・テレサなどが、女性の平和賞受賞者として思い浮かびます。もうすぐノーベル賞の発表の季節ですが、日本人は医学・生理学賞、物理学賞、文学賞などはあるかもしれないけど、平和賞だけは絶対ないですね。昨年の劉暁波氏のように(中国は反対してるけど)、政治家や国際機関ではなく、実際に平和と人権のために危険を顧みず活動している人に与えられるのがノーベル平和賞の役割ではないかと思います。ワンガリ・マータイの記憶のために書きました。
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「キネマの天地」と「普天間」を観る

2011年09月27日 01時02分47秒 | 演劇
坂手洋二の新作「普天間」(青年劇場)と井上ひさしの「キネマの天地」を相次いで観た感想。どちらも面白くて、ためになり、感動した。まず「普天間」から。坂手洋二は日本劇作家協会会長も務める現代の代表的な劇作家のひとりだけど、最近相次いで「社会派」的な作品を連発している。ただ「普天間」も初日が延期になったけど、どうも作品の出来には今一つ納得できない感じも最近はあった。しかし、まあ、今まさに「普天間」と来れば僕としては見ないではいられなかった

 この劇は、もちろんメッセージ性を抜きに成り立たない。もうほとんどが、沖縄国際大学へのヘリ墜落事故、沖縄戦や米兵による性暴力の話で構成されている。登場人物の間に葛藤が全くないわけではないけれど、人物どうしの葛藤のシチュエーションが物語を進行させるという劇ではない。一番大きな葛藤は登場人物とアメリカ及び日本政府、そして「ヤマトンチュー」(本土の国民)との間にある。元基地労働者がトラックを改造して「サンドイッチシャープ」(「シャープ」は「ショップ」(店)のこと)を開く。その移動店舗のトラック前が一種の「広場」となり、様々な人々が集い語る。それらの言葉の持つ「現実の重さ」が当然あるわけだが、誇り高く生きる沖縄の人々の強さ、明るさが言葉に込められていて、心を打つ。

 最後に語られる「他人に痛めつけられても 眠ることはできるが、他人を痛めつけては 眠ることができない」(チュニクルサッテン、ニンダリーシガ、チュクルチェ、ニンダラン)という感動的な言葉が心に残る。もちろんこの劇を見たからと言って、普天間基地問題がどうなるということはない。全国を公演して歩いても、「ではわが県で基地を受け入れましょう」というところは出てこない。演劇を見る人はそういう現実的な力を持ってないし、現実的な力を持っている人は演劇を必要としていない。しかし、演出の藤井ごうはこう書いている。「いつも思う、それでも、知る、識る、知り合う、向き合う、そこからしか始まらないと。」
 そして作者の坂手洋二の言葉。「そんなの芝居じゃねえ、と言われてもいっこうに構わない。いま私はこのことをこのやり方で描きたいのだという思いで、ここまで来た。先のことはわからない。とにかくこれまで演劇をやり続けてこなければ、こんなことはしなかっただろうし、このやり方でなければ、今この時に演劇をすることはできなかっただろうという気持ちは偽りでない。」

 「普天間」は演劇の持つ機能を生かしたすぐれた成果だと思うが、話に知識伝達的な側面が大きいことも否めず、もう一回見ましょうとお金を出すかというと正直ためらってしまう。それに対して「キネマの天地」はけっこう高いけど、もう一回是非見たいという気持ちがする。井上ひさしにもメッセージ性のある芝居はあるけれど、この劇は「演劇とは」「演技とは」そして「人生とは」「人間とは」を、役者のセリフと所作だけで語りつくしてしまう、まさに名人芸。1986年以来25年ぶりの上演らしいけど、自分も一番忙しい時期だったし、この芝居の存在は全く知らなかった。

 一年前に死んだ大女優、松井チエ子。その夫の映画監督が新作の準備と称して新進からベテランの4人の女優を舞台に招集する。しかし、監督の目的はその4人のうちの誰かが去年、妻を殺した犯人ではないか、その真相を万年下積み俳優の助けを借りて暴き出すことにあった…。というミステリ仕立てで話は進行するが、その中で演技や演劇の心得が名せりふで語られていく。俳優は7人、ほとんど舞台に出突っ張りで、それをやり通す俳優が素晴らしい。女優4人もすごいが、特に下積み役の木場勝巳が圧倒的な存在感で、今までの井上作品でも見てきたが、二度と忘れられない名演である。そして、この圧倒的な演技の場を成立させた栗山民也の演出の手腕。素晴らしい。

 ラストで下積み俳優が「一度も演じられなかった役たちよ」と「ハムレット、オセロ、リア王…」と読み上げるくだりは落涙必死。自分の人生でも「演じた役」「演じられなかった役」「演じたくなかった役」などがはっきりわかるようになってきたわけで、とても感動的な場面だと思う。まさに井上作品は汲めどもつきぬ泉だなあと改めて思ったけど、この魅力の質は「普天間」とはまた違う。井上作品でも現実に根ざした伝記的な作品の方が多いわけだが、この作品のようにミステリ的な部分も取り入れながら、中身的にはセリフと演技で演劇論を展開して勝負するという、ちょっと他で見たことのない作品。セリフが面白く、人間観察がすぐれ、演技が素晴らしければ、もう何回見ても飽きないのではないか。こういうやり方があったのかと改めて井上ひさしの逝去を悼む気持ちになった。あともう1年存命だったなら、震災と原発事故について何を語りどう行動したか、東北出身で岩手や宮城の話をいっぱい書いた井上ひさしのことを今も多くの人が思い出し、考えているだろう。
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国宝・正福寺地蔵堂を見に行く

2011年09月25日 00時35分55秒 | 東京関東散歩
 東京都東村山市にある国宝正福寺(しょうふくじ)の地蔵堂を見に行きました。ここは一年に3回、内部を公開します。8月8日、9月24日、11月3日と決まっていて、今回はその公開に合わせて見に行きました。東京にあるこの国宝建築物は東京の人でもほとんど知らないと思います。僕も前から気になっていたけど、なかなか行く機会がなく、今回が初めてです。駅からの案内板などはなく、事前に地図を調べて行かないとわかりません。

 大体国宝建築物というものは、京都、奈良に集中していて、東京には国立博物館蔵の美術品ならあるけど、震災、空襲を経験したので古い建築物はあまり残ってないわけです。(なお重要文化財は70件位あります。近代建築の東京駅や三井本館、日銀本店、ニコライ堂などは重文指定です。)東日本全体を見渡しても、国宝になってるのは、日光の東照宮と輪王寺、平泉の中尊寺金色堂、鎌倉の円覚寺舎利殿などの他、山形の羽黒山五重塔、松島の瑞巌寺、宮城県の大崎八幡宮、いわきの白水阿弥陀堂、それだけ。長野、山梨にはありますが、他の県にはありませんでした。最近、静岡の久能山東照宮と東京の赤坂迎賓館が指定されましたが。(迎賓館は近代建築物では現在ただ一つの国宝。)

 という超レアものなのに、都民であっても知らないでしょ?何故だ?しかし、国宝と言ってもマイナーなものがあるのは事実で仕方ないというか、日光、鎌倉、平泉クラスがそんなにあちこちにあるわけもないわけです。建築様式的または歴史的に価値ある神社やお寺が国宝に指定されても、ひっそりと住宅や田園の中にたたずんでいるというようなことは結構よくある風景です。ここも住宅地の近くにあり、見物客以外にも地元の方が参拝に訪れていました。

 正福寺は鎌倉時代創建の臨済宗の禅寺。地蔵堂は室町時代の1407年建立(こんりゅう)と判っていて、禅宗寺院様式の反り返った屋根が特徴です。しかし、そこが写真を撮るときは難しく、すぐにはみ出してしまうくらい飛び出している。晴れていてなかなか撮りづらかったですね。
 
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中学教科書問題のまとめ

2011年09月24日 01時10分00秒 |  〃 (教育問題一般)
 中学教科書問題、自分が名前を出して関わっている都教委の採択が7月に終わってしまい、なんだか時間がたってしまいました。9月になって、まとめの総括をしたいと思いながら、新聞報道にもある通り沖縄の八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町で構成)で決着が着いていないので、おくれてしまいました。ここの採択がどうなるかはまだ時間がかかりそうです。

 今回は、今までの扶桑社(産経新聞の子会社)を引き継いだ育鵬社(扶桑社の子会社)が2年前の10倍ほどに「躍進」し、自分たちでは大成功と言っています。区市町村立では、大田原に続き、横浜、東京都大田区、武蔵村山、藤沢、東大阪、益田、呉、尾道、岩国、今治、四国中央、愛媛県上島町で採択。また中高一貫校での採択が、東京、埼玉、神奈川、横浜、香川、愛媛で行われています。特別支援学校は東京と愛媛。私立は省略。「日本教育再生機構」のまとめによると、「公立・私立合わせて(概数)歴史 45490 公民49950。採択シェアは(1学年120万人として)歴史 3.79% 公民 4.16%」です。このうち、横浜だけで27000あるので、この「成功」は横浜全市で採択されたことにおおきく負っています。(ちなみに、この問題を8月以後書いてないのは、育鵬社の「成功」の宣伝をするみたいで嫌だったからです。)

 一方、自由社は、年表盗作問題の影響も大きかったでしょうが、公立では東京都の特別支援学校で公民が採択されただけだと思います。その責任を取って「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長は辞任しました。しかし、では「つくる会」ではこの「自由社惨敗、育鵬社『躍進』」をどう考えているのかというと、「つくる会」から分かれた「保守系」の教科書が伸びたことは自分たちの運動があったればこそで、二つの社があることが重要なんだと言っています。小さい字でコピーすれば、
「自由社と育鵬社の教科書は、保守系の教科書として、今回も市民運動の側からの激しい攻撃にさらされました。が、しかし、それでも全体として約5パーセントの採択を獲得しえたことは、保守系の教科書が2種あったことに大きく帰因したと考えられます。「つくる会」としては、保守系教科書の普及という観点に立ったとき、保守系の教科書が2種あるということは有利な条件であり、そのためにも「つくる会」は運動を続けていかなければならないと考えています。「つくる会」が教科書をつくることを止め、保守系の教科書が育鵬社の教科書だけになることは、保守系教科書の普及にとって大変な不利な状況の再来になります。」

 こんなに採択されず商業的にペイしないことはもう止めればいいのに、と思いますが。結局、思想的運動的理由で「保守系教科書の普及」が目的なわけです。これは「教科書の政治利用」そのものを自己認識していることを示しています。「市民運動の側からの厳しい攻撃」と言っても、いわば「売られたケンカ」であって、「つくる会」が先に教科書を政治利用しようと市販したり、政治家を動員したりしたわけです。

 この「2社ある」ことは確かに「保守系教科書に有利」でした。歴史と公民、合わせて4つも市販して、読むのも大変。(僕は自由社は買ってません。)きちんとした分析にも時間がかかるし、今回は自由社の年表問題も発覚して、とにかく一番ダメなのは自由社、という感じになってしまい、育鵬社への取り組みが弱くなった面は否めません。
 また、震災で検定結果発表も遅れ、その結果育鵬社、自由社の市販も5月になり、分析と批判も遅れたのに、都教委の採択はいつもと同じ7月下旬。震災報道で教科書関係の報道も少なく、原発事故への取り組みで市民運動側の取り組みも難しかったという事情もあると思います。

 と同時に、教育委員が中心となり現場の意向を無視して採択する仕組みが完成してしまい、教育基本法「改正」の趣旨を生かした教科書を、などと言う言い方が通ってしまう素地がありました。教育を教育現場の意向が通らないようにするという、ずっと進められてきた教育政策が効いてしまったということです。

 僕は、検定制度そのものを再検討すべき(というか廃止すべき)と思いますが、検定制度を前提にすれば一定程度学習指導要領に沿って似たものになるわけで、そうであるならば「現場の意向を尊重して選べばよい」と強く思っています。教育委員が小中のすべての教科書を選ぶというのは無理です。しかも、その教育委員の構成が、一部の自治体では明らかに偏っています。
 前に「外国勢力が支持する反対運動に反対」というような育鵬社に賛成するコメントがあったけど、なぜ「国内勢力」ならいいのかがわかりません。「外国勢力」なんてものはないのです。具体的にどの国の誰なのか、論点を明らかにして批判するべきです。教科書問題は確かに韓国などでも強い関心を持たれています。しかし、それは韓国の市民団体の運動です。

 また中高一貫校での採択が多いことが気になります。東京が先鞭を切ったとも言えますが、中高一貫は都府県立でその意味で知事の意向が反映しやすいことが大きいと思います。結局は地道に、地方政治を変えていくしかないと思うけど、「保守系の教科書」と自分たちで宣伝する教科書を税金で買って地区のすべての子供たちに手渡すということが、教育の政治利用であるということを再確認したいと思います
 これって、不快なことではありませんか?
 何しろ「大東亜戦争」と書いてあったり、国民主権の前に天皇について書いてあるんですよ。

 また、杉並区で今まで扶桑社だったのが帝国書院に変更になりましたが、代わって事前に育鵬社有利という情報がなかった大田区で採択されてしまいました。知人や生徒も多く、痛恨事

 なお、この問題では、今までに下記のように7回書いています。
中学教科書問題
中学教科書問題②-原発の記述
中学教科書問題③栃木県大田原市で育鵬社採択
中学教科書問題④教委の説明責任が大切
中学教科書問題⑤都教委の場合は
中学教科書問題⑥こういう意見もある…
東京都の教科書採択結果
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中村とうようコレクション展

2011年09月22日 21時07分20秒 | アート
 音楽評論家の中村とうよう氏が集めた民族楽器とレコードなどの中村とうようコレクション展が開催中です。場所は、中村氏が客員研究員を務めていた武蔵野美術大学の美術館。無料。ただし、期限が迫っていて、土曜日24日の5時まです。7月4日から開催されていましたが、8月に長い休館があったこともあり、なかなか行けませんでした。有名な「ムサビ」ってどこにあるんだ?場所は小平市、中央線国分寺駅からバスで20分くらい。僕の家からは遠くて、車で日光へ、あるいは飛行機で熊本へ行くのとほとんど変わりない時間がかかりました。行くと正門前にバスが着き、まっすぐ行くと美術館。しかし、それからがわからない。美術館の中に入らず、手前左の「展示館1」の扉を開けます。外にはなんの表示も出ていないという不思議なことになっています。


 この展示会に行こうかと思ったのは、中村とうようさんがこの展示館開催中の7月21日に「自死」されたということが大きいです。僕はあまり音楽関係は詳しくなく、中村さんの本も買ったことはありません。「ニュー・ミュージック・マガジン」(1969創刊。1980~「ミュージック・マガジン」と改称)は高校の頃何回か買ったことがありました。日本語ロック論争なんかをやってたころで、「はっぴいえんど」をこの雑誌で知りました。そのくらいの縁なんだけど、収集品をすべて大学に寄贈し、その展示会の開催中というところに何か心ひきつけられるものがありました。東京新聞の夕刊コラム「大波小波」で思い出したんだけど、去年2010年8月2日に今野雄二さん(音楽・映画評論家)が自死しています。今野さんの映画評は昔ずいぶん読みました。さらに思い出すと、2009年10月16日、加藤和彦さんが自死しました。北山修企画の「イムジン河コンサート」で歌を聴いたばかりだったので、これはショックでした。死はそれぞれのものであり、一概にあれこれ言うべきこととは思いませんが、そういう人生の終わらせ方の是非についてはあれこれ考えてしまいます。(なお、会場では全くそのことが示されていませんでした。)

 さて、展示は小さな会場でしたが、アジア、アフリカの民族楽器が並んでいます。太鼓、笛、琴などの基本楽器に加え、アフリカのコラ(弦楽器)や親指ピアノなどの珍しいものがあります。極めつけは、チベットの打楽器「ダマル」。「男女の子供の頭蓋骨をお椀の形に切り取り、背中合わせにくっつけて、二人の皮膚を張って太鼓に仕上げた恐ろしい代物だ。」おいおい、ほんとかよ。レコードも世界のポピュラー音楽がいろいろ展示されています。見ていて思うのはインドネシアの重要性。僕の大好きな麗君(テレサ・テン)も展示されていました。
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映画「一枚のハガキ」(新藤兼人)

2011年09月21日 22時02分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 1912年4月22日生まれ、現在99歳の映画監督新藤兼人(しんどう・かねと)の「最後の作品」である「一枚のハガキ」をやっと見た。すごい作品である。ただし年齢問題に関しては、世界には上には上があるもので、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラは1908年12月11日生まれ、2009年に製作された「ブロンド少女は過激に美しく」は日本でも公開された。100歳を超えて作った映画だからすごいもんである。

 ところで、この映画は是非みんなで見るべき映画、日本人必見の映画であると思う。「戦争」に関して最後に言い残すべきことがあるという思いを全開して作られた映画で、テーマ性も重要だが、演出も力がこもり、俳優たちの演技も素晴らしい。僕は事前に宣伝されていた「新藤兼人の最後にして最高傑作」という言葉を、いくらなんでもそこまではないだろうと思い込んでいた。実際、僕は最高とまでは思わないのだが、間違いなく傑作で、非常に心揺さぶられる映画だった。これは是非劇場で見てください。劇場情報はここ

 戦争末期、本来ならもう徴兵されない30過ぎの「老兵」も軍に召集される時代。松山啓太(豊川悦司)は海軍召集後、天理教本部の会館を予科練兵のために清掃していた仕事が終わった。100人の兵は「上官様」のクジにより次の任地が決まる。60人はフィリピンの陸戦隊にあたる。最後の宴で歌を歌った森川定造(六平直政)は2段ベッドで松山の上にいた。定造は最後に妻から来たハガキを見せ、自分はフィリピン組にあたったから死ぬだろう、この手紙に返事を書きたいが、書きたい思いは検閲されるから書けない、もし生き残ったら妻に伝えて欲しいと松山にハガキを託す。「今日はお祭りですがあなたがいらっしゃらないので何の風情もありません。友子」。この基本設定とハガキの文面は監督自身の実体験である。

 定造の妻森山友子(大竹しのぶ)は、女郎に売られるところを定造が田を売って救って妻に迎えたのである。貧農の家では義父(柄本明)、義母(倍賞美津子)と暮らしている。それからの友子の壮絶な体験は、映画で直接見て欲しいのでここには書かない。あまりにも深い悲しみを背負い生きている友子を戦後数年たって松山は訪ねる。彼は「くじ運」の良さで生き残ったが、彼の家庭も崩壊して悲しみ、苦しみを背負っている。日本を捨てブラジルに移住しようと思い、最後にハガキを届けることを戦後数年たって思い立つ。二人が出会ってどうなるか。今年に限らず、日本映画の心に残る名場面として語り継がれていくようなすごい場面が展開される。襟を正して見てください。(ユーモラスなケンカや天秤棒を背負う場面なども巧みに混ぜてあります。)

 深い悲しみを背負う友子が発する「これからは戦争を呪うて生きて行くんじゃ」とか訪ねてきた松山にいう「なんであんたは生きているの!?」などの言葉は、単なるセリフを超えて心に突き刺さる命の叫びとして忘れられない。大竹しのぶが素晴らしいなどと今さら書くまでもない大女優なんだけど、とにかく素晴らしいの一言。去年の「キャタピラー」の寺島しのぶも凄まじい名演だったけど、「一枚のハガキ」の大竹しのぶも恐るべき存在感で、演技という枠でとらえきれない日本女性の存在そのものの深い場所から発せられたような輝きを感じる。

 今までの新藤作品と同じく単なるリアリズムの社会派というより、省略と反復、ユーモアと逸脱で語られる作風で、シンプルな構造の中に「世界」を描く作品。どんなに悲惨な状況の中でも、おおらかなユーモアで性を描いてきた新藤作品の基調は、98歳で作った最後の作品でも変わらない。この映画は構造がシンプルな分、演出や技術面の工夫も理解しやすいので、それも見所。音楽は林光。新藤作品では長らく乙羽信子がヒロインで監督の世界を演じてきたが、乙羽の死後に大竹しのぶという女優がいて、新しい作品を作り続けることができたことを日本のために喜びたい。
 
 戦争を描いて国家悪を見つめる作品としては、深作欣二監督、結城昌司原作「軍旗はためく下に」という傑作がある。その作品の主人公左幸子の演技も鬼気迫るものがあった。本来庶民の女性の心の中には、日本国や昭和天皇に、夫や子供が殺された、この恨み、つらみはどうしてくれるという深い思いがあったものである。戦後20年くらいまでは、日本社会のなかにこうした気分が底流として流れていて、誰もが幾分かは共有する思いだった。戦争でうまい汁をすったり、うまいこと自分たちだけ生き延びたりした階層もある。戦争中は軍人が威張り散らし、その威を借る「小役人」(町内会の役員になった商店主とか)がのさばっていた。庶民は、召集された兵はもちろん、銃後でも空襲、引き揚げ、疎開等で一生忘れられない心身の傷を負った。何があっても戦争だけは二度としてはダメだ、絶対にダメだと周りのオトナはみんな言っていたと思う。時間が経つにつれ、戦争は悪くなかった、仕方なかったなどと言う人が出てくるようになった。世界の中で金持ちの国になり、昔の苦しさを忘れ、今度は勝つ側につくんだとばかりに米英のイラク戦争を支持した。そんな日本で、若い人々に「戦争の真実」を伝えていきたいと思うのが、この映画の製作動機だし、この映画の大竹しのぶを見れば、戦争で誰が苦しめられるのか、誰もが間違えることはないと思う。結局、そういう意味で僕はこの映画を普段はあまり映画を見ないような多くの人にも是非見て欲しいと思う。

 東京ではまだやっていると思うので、DVDを待つことなく是非劇場で見てください。
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藤本(菊池)事件・死刑執行後再審をめざして

2011年09月20日 23時34分53秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 今回熊本へ行ったのは、藤本(菊池)事件の再審をめざす集会に行くためです。この事件はハンセン病あるいは冤罪事件の歴史の中ではかなり知られています。しかし、一般的にはまだほとんど知られていないと思います。ハンセン病差別により無実の人が殺人犯とされ、療養所の中に作られた特別法廷で差別的な裁判(具体的な内容は例えばウィキペディア、あるいは国賠訴訟後に厚労省で行われた検証会議の報告を参照)を受け、死刑が確定しました。その後再審に向けた取組のさなかに、1962年9月14日突然死刑が執行されました。そんなひどいことが日本であったのかと思うかもしれないけど、あったんですよ。では、なぜ知らない人がいるんだろう?今回の「50回忌」、来年の「処刑50周年」を機に、再審への機運が高まっていますが、東京ではほとんど報道されていません。地元の熊本ではかなり報道されていましたが
 (なお、この事件は今まで「藤本事件」と呼ばれてきましたが、弁護団から「菊池事件」への呼称変更が呼びかけられています。しかし、そうすると「藤本事件」での検索にかからなくなってしまいます。当面は両方の呼称が必要と考え、表題をそうしました。


 僕は冤罪やハンセン病に関して長く関心を持ってきたので、むろん「藤本事件」も30数年前から知っていて、気にかかってきました。この世の中で何が「一番あってはならないこと」でしょうか。戦争や犯罪で何の責任もない幼児が殺されてしまうこと。しかしその場合でも「それが良いこと」とは誰も言いませんし、犯罪をすべて防ぐ方法はないでしょう。「無実の罪で死刑判決が下り死刑が執行されてしまうこと」はどうでしょう。僕はこれはこの世で一番あってはならないことだと思います。なぜならそれは国家から理由なく殺され、しかも「この世を良くするためにお前を抹殺する」とレッテルを貼られた上での死だからです。国家権力による権力犯罪の極致です。

 では、日本では「無実の死刑囚への執行」はあったのでしょうか。執行前に再審で無罪になり釈放されたのが4件(免田、財田川、松山、島田)、再審請求中の死刑囚が獄中で死亡した例が数件(帝銀、牟礼、波崎、三鷹、三崎など)。これに対し、無実なのに死刑が執行されてしまったと訴えがある事件は、藤本事件、福岡事件、飯塚事件でいずれも九州の事件。福岡事件の西武雄死刑囚は獄中で「叫びたし 寒満月の割れるほど」という句を作っています。他にも疑われている事件はあるようですが、この3事件は具体的に再審の動きがあるのです。(なお、飯塚事件の執行は2009年。)

 さて、集会が開かれたのは、ハンセン病療養所菊池恵楓園(きくち・けいふうえん)。熊本市から北へ1時間程度、もっと遠くかと思っていましたが、案外近い所にありました。園の会館で開かれた集会には約130人が参加、再審への可能性を考えました。自治会副会長の志村康さん(国賠訴訟を始めた人です)から、当時の面会での様子などが語られ、読み書きがよくできないまま有罪にされたという話がありました。続いて八尋光秀弁護士から再審への説明がありました

 この事件への取り組みは東京でも必要だと思います。なぜなら、事件と裁判、死刑執行は九州で起こりましたが、一番の問題である死刑執行は、東京で法務大臣が執行命令に署名したことによるものだからです。中垣國男法務大臣による執行命令は、1962年9月11日付でした。この「日本の9・11」から来年で半世紀。私たちはそれを忘れないという意志表明がなされるべきだと思っています。
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若狭明美、「六本木少女地獄」が新聞で紹介

2011年09月20日 00時01分00秒 | アート
 かねて紹介中の若狭明美(筆名原くくる)「六本木少女地獄」(星海社)が新聞に載りました。「若狭をプロデュース作戦」第1期の成果。一つは共同通信配信(14日)の「ひと紹介」欄(新聞により少しずつ名称が違う)の記事。通信社というのは地方紙を中心に記事を配信する会社で、掲載されるかどうか、またいつ掲載されるかは配信を受けた会社で違ってきます。現在判っているところでは、東奥日報(青森)、茨城新聞、福島民報、新潟日報、静岡新聞、岐阜新聞、京都新聞、神戸新聞、日本海新聞(鳥取)、山陰中央新報(島根)、宮崎日日新聞、東京新聞(19日)、産経新聞(25日)などに掲載されています。多くは15日付で掲載ですが、東京新聞は19日の紙面にカラー写真で載っていました。その後産経新聞にも掲載されています。
 もう一つは、16日付の朝日新聞東京版でかなり大きく掲載されました。しかし、都内版や地方紙中心なので見ていない方も多いと思うので、ここに紹介しておきます。
(朝日新聞2011.9.16)(東京新聞2011.9.19)

言葉
・「絶望的に見えても希望は必ずあると信じてる」
・「自分のいるところだけを世界だと思っている人に、違う見方を提示したいです」
「六本木高校」と出会う
・「約2カ月で高校を退学。しばらくは家を出られず、人と会うことができない状態が続いた」
・「目標を失い翌年春まで自宅で悩み続けた」
・「中学時代の恩師の勧めで六本木高校を受験し、また大好きな演劇を始めた」
・「再入学したのが「チャレンジスクール」と呼ばれる、六本木ヒルズの足元にある高校だった」
・「入学の日に同級生二人と友達になり一緒に演劇部へ」

 僕は、この「ドラマ」はもっと知られるべきだし、もしかして中学不登校や高校中退の、誰か今悩んでる人の目に留まるためにも新聞に載って欲しいなと思った。新聞を見ないかもしれないから記事そのものをブログで紹介する。若狭本人にもそうだけど、六本木高校で出会った多くの悩み多き若者たちに対しても、少し「恩返し」ができたのではないかと思っている。僕に多くのことを教えてくれた生徒がいる。あなたたちの同窓生に、自分の「挫折」体験を通し自分の世界を発信する人が現れましたよ、と伝えたい。

 なお、東京新聞の最後に「池谷孝司」さんの署名がある。共同通信の池谷さんは『死刑でいいです』というドキュメントで評判を呼んだ人。これは現実に母親を殺してしまい、後に再び殺人を犯し死刑でいいですと言った青年を追ったものである。「六本木少女地獄」はイマジネーションの世界における「親殺し」=「王殺し」=「神殺し」の物語とも解釈できるが、果たして現実の殺人者に対峙できるほどの想像力を構築できているか。このようなテーマをたてることも可能で、いろいろな読み方の一つとして提示しておきたい。

 ところで青森の東奥日報にも載ったということなので、寺山修司記念館の人も見てくれたかな。僕も一度行ったことがありますが、三沢の中でもなかなか遠い。下北半島の方です。

 なお、この「六本木少女地獄」に関しては、今までに次の記事がある。
原くくる『六本木少女地獄』、出版」(9.1)
若狭明美『六本木少女地獄』をめぐって①」(9.1)
六本木少女地獄について私が知っている二、三の事柄」(9.3)
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熊本行(観光編)

2011年09月19日 01時04分12秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 熊本は観光で行ったわけではないのですが、まあ、観光というか史跡や温泉も回ったので、そのまとめ。昔南九州を車で回った時に、人吉、阿蘇、黒川温泉に泊まったことがあるけど、市内は夏で暑くてあきらめたままになっていた。

 1日目。空港について市内に出るともう2時頃なので、まあお城かなと。熊本城天守閣は1960年に再建された。多くの城は維新直後に壊されたか、空襲で焼けたわけだが、ここは1877年の西南戦争で焼けたのである。もともとは加藤清正が1600年頃に天守閣を築いたもので、近江の石積み職人集団である穴太(あのう)衆を呼び寄せて壮大な石垣を築いた。日本3名城とも言われるらしいが、まあ現存でないのが残念だけど素晴らしい城。加藤清正をどう考えるかは難しいけれど、2代で滅ぼされ細川家が続くことになる。


 2日目
 車を借りて、その加藤清正の墓所である本妙寺へまず。本妙寺はハンセン病の歴史に出てくるところで、加藤清正がハンセン病だったという伝説もあり、本妙寺前には多くの患者たちがいたという。これを明治時代にイギリス人伝道師ハンナ・リデルが見てショックを受けて病院を開くことになる。そのハンセン病者たちは1940年に国家権力による強制収容を受けた。「本妙寺事件」として名高い。そこから山道を飛ばして、霊巌洞(れいがんどう)へ。ここは晩年になって細川家につとめた宮本武蔵がこもって「五輪書」を書いたという洞窟である。


 そこから少し行くと、漱石が「草枕」の舞台である小天(おあま)温泉。そこには「草枕交流館」、漱石が滞在した前田家などがある。小高い丘の上に草枕温泉「てんすい」もある。お湯がたっぷり出ている大風呂に加え、雲仙を見晴らせる露天風呂、「草枕」風呂(前田家の風呂の再現)などがあり、お湯も素晴らしいし、素晴らしい温泉。立ち寄り湯ベストテンに入るのではないか。宿泊も可能。一方、小天温泉の一軒宿が「那古井館」。ここも素晴らしい湯で、一度泊まってみたい旅館。ところで「てんすい」で知ったのだが、ここは笠智衆の生誕地で名誉町民だったという。また、交流館ではピアニストのグレン・グールドが「草枕」の影響を受けていて、そこから「草枕」を読む人が多いのだと聞いた。グレン・グールドは僕も大好き。
(左は今は使えない前田家の風呂。中は那古井館の風呂)

 「草枕」に出てくる女性那美のモデルは、前田槌(つち)という女性だということだが、実際のツチは宮崎滔天(とうてん)の妻だった。ということで、今度は少し足を延ばし、荒尾市の宮崎兄弟資料館へ。宮崎滔天は孫文の支援者で、素晴らしく面白い「三十三年之夢」という回想録がある。今年は辛亥革命100周年。中国人の若い館員もいて説明を受ける。滔天は兄弟も興味深いし、子供の龍介も語りたいがやめておく。滔天は一時浪曲師桃中軒雲右衛門に弟子入りして牛右衛門を名乗った。1976年に文学座が上演した宮本研の「夢・桃中軒牛右衛門の」を見て感激したものだ。これは僕が見た劇のベスト5に入る。宮崎兄弟のことは、「革命」というテーマが僕らの社会から消えてしまい忘れられている感じがする。しかし、社会改革と国際連帯の可能性を考えるとき、今でも血の出るような生々しいドラマを展開したのが宮崎滔天と言う存在だと思う。
(中国語の案内と孫文との面会の再現)

 さて、田原坂(たばるざか=西南戦争の激戦地)を見て、熊本へ戻り、急いで「リデル・ライト資料館」へ。先に書いた本妙寺で衝撃を受けたハンナ・リデルとその姪エッダ・ライトは、キリスト教に基づくハンセン病専門病院「回春病院」を開いた。日本のハンセン病史の中に大きく出てくるところ。現在は「リデルライト記念老人ホーム」となっており、リデル女史の心は受け継がれている。素晴らしくきれいな洋館の記念館が老人ホームの裏に立っている。


 3日目。2日目は車であちこち回ったが、3日目は市電で。市電のある町なのだ。この市電が宣伝の絵が描いてあったりして面白いのだが、うまく写真が取れなかった。漱石の家もあるけどザット見ただけ。水前寺公園が有名だから行ってみた。暑かったけど。近くに文学館もあり、徳永直とか中村汀女が熊本生まれだった。漱石は熊本に4年いて結婚もしているが、1年しかいなかった松山の方が「坊ちゃん」で知られてしまった。そこから市電と熊本電鉄を乗り継いでハンセン病療養所菊池恵楓園へ。その話は別に。しかし、上熊本駅から北熊本駅までの短期間を走る熊本電鉄の支線は、いまどき冷房もない、扇風機の電車でびっくりした。今は鉄道にそれほど関心はないのだが、これは有名なんでしょうか。
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大森直樹著「大震災でわかった学校の大問題」

2011年09月14日 23時01分35秒 |  〃 (教育問題一般)
 大森直樹著「大震災でわかった学校の大問題(小学館101新書)。震災後の学校について簡潔にまとめた新書。今後もっといろいろな事実がわかり、様々な事例が研究されるだろうけど、この本はその前に今緊急にすべての教師が読んでおく必要があると思う。大森さんは東京学芸大学教育実践研究支援センター准教授で、これは「直接知ってる人が書いた本の紹介」第2弾。

 この本は8月に出てるけど、すぐには読めなかった。宮城県石巻市立大川小学校のあまりにも大きな悲劇の犠牲者のことを思い、もし自分がその場にいたらどのような行動が取れていただろう、と考えなかった教師はいないだろう。ここではまだ行方不明の児童がいる。教師のほとんども犠牲になった。地震直後のことではない。数十分たっていた。ちょうど今日(9.14)の「クローズアップ現代」で取り上げていたが、この言葉を失う悲劇や、あるいは原発事故で学校ごと避難せざるを得なくなっている多くの児童・生徒、避難地域外で低線量被曝の不安にさらされている学校の子どもたち。

 そのような大きな問題が今も継続しているときに、重い課題を突き付けるこの本は買ったままなかなか読み進めなかった。大森さん自身も、大川小や福島を訪ねているが、やはり訪ねる前にはためらいもあったように書かれている。今、震災半年がたち、ようやくこの本を手に取った。

 まず書かれているのが東北3県を中心に、多くの学校で教師、生徒の自発的な奮闘により、避難所の運営、安否の確認などが進んで行った事例だ。大森さんの目は最近増えている「非正規教員」にも注がれている。避難所でも働いているような非正規教員は正規採用すべきだと訴えている。どの地域でも、学校は地域の中心として被災時は避難所になることが想定されているだろう。しかし、その避難所で教師はどのように活動すべきなのか。この本を読むと、「平時」ではない「緊急時」に果たしてきちんと行動できるような、柔軟な発想を持つ教師を行政は育成してきたか。そして、そのような子どもたちを教師は育ててきたか?強い疑問を押さえることができない。

 注目されているのが、9.14朝日新聞や昨日読んだ児玉龍彦「内部被曝の真実」にも出ていた釜石市の事例である。釜石では学校にいた3千人の子どもたちは無事だった。群馬大大学院の片田敏孝教授によれば、「想定は信じるな」「そのときの状況下で最善をつくせ」「みずから率先して逃げろ」の3つを強調してきたという。これは防災教育だけでなく、進路指導や生活指導にも生かせる教えだろう。

 要するに、自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の足で歩く教師。そのような教師によって「一人の人間もきりすてない学校づくり」を進めようというのが大森さんの考えだ。そうすると、今までの教育行政は全面的に見直さざるを得なくなる
 だから「教育現場に不要なこと」リストが掲げられている。(156~158頁)列挙して見れば、勤務評定、主任制、初任者研修、10年経験者研修、新勤務評定、副校長・主幹教諭・指導教諭制、教員免許更新制、教職実践演習、指導要録の指導に関する記録、学習指導要領の法的拘束力、観点別絶対評価、ティームティーチング、習熟度別指導、愛国心教育、教育サービス規定、学校選択制、教員の非正規化、株式会社参入、国立大学法人化、全国一斉学力テスト。

 ここまで行くと戦後教育すべての見直しになるが、とりあえず「教育現場に不急・不要」なことは止めるということだ。その最大のものが「教員免許更新制」だと明記されている。(152頁)「この制度は震災直後にまず凍結するべきだった。」それができていたら、僕はまだ学校現場にいたかもしれない。教員免許更新制度は次の手順で廃止できるという
①国の謝罪②暫定措置としての制度凍結③廃止法の制定④国と当事者の協議を通じて損害を補償。
 きちんと謝罪や損害補償が書かれていることに感動する。まさにこれこそ僕の求めているものだ。

 僕は震災の日に何をしていたか。今初めて書くけれど、学校近くでアルバイトをしていて帰れなくなっていた生徒を「救出」に行った。店の奥で疲れ切っていた生徒を学校に連れてきて食べさせて学校で休ませた。学校には100人ほどの生徒が帰れずに残っていた。学校にいた生徒だけ対応すればいいのかもしれないが、担任している生徒が近くで働いているのなら探しに行くのが当然だと思う。

 顧みて、大川小にいたとして自分なら何ができたかはわからないけれど、少なくとも大森さんのあげている施策を推進する側にはたたず、教師として自分の頭で考えることは続けてきたと思う。そう思って、震災・原発事故後の日本社会を考え続けていきたい。

 大森さん、一緒に教員免許更新制度を廃止しましょう!
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「血液型差別」をなくすために

2011年09月13日 00時25分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 「9.11」10周年、「3・11」半年の機会に何を書こうか、ずっと考えてきた。一日遅れたけど、今言うことは「血液型差別」を取り上げることだと思った。直接関係ないではないかと言われるかもしれないけど、「非科学的なエセ科学」が人々の思考をマヒさせ、人の心を傷つけ、人と人の連帯を引き裂いている。現実の日本社会の中に、そのようなことがあるのである。そしてそれに広く抗議することができない。「遊びにいちいちとげとげしくなるな」「もし怪我した時に必要な情報だから血液型を知ることは当然だ」と言われてしまう。しかし、世の中には「血液型性格学」とか「血液型相性判断」などを信じて、就職希望者の選抜や部署の配置に使う会社が実際にあるのである。

 だから「就活」で悩んでいる学生がいる。(8.22朝日新聞)会社の中でいじめられている人もいる。だから、まずそれらは「血液型差別」という社会的差別問題だとはっきり定義しなければいけない。「セクハラ」はそれまで職場で日常的に行われてきた言動を「性的いやがらせ」と定義して、初めて問題と意識した人がいる。世の中には相手が嫌がっているのに気づかない人がいる。社会的に命名して「社会問題」にしなければ、見えてこない問題がある。

 「差別」は増えているのだろうか。それとも減っているのだろうか。社会科の教科書に出てくるような歴史的な背景を持った様々な差別、差別、在日韓国・朝鮮人差別、女性差別や障がい者差別などは一見減ってきているような感じを受ける。法的な措置も進展はしてきたし(まだ人権侵害救済法や国際人権機関への個人通報制度がないが)、人権教育や人権啓発活動も全く効果がなかったというわけでもないだろう。

 しかし差別が減っているというなら、社会が明るく連帯の気風が満ちてきているはずであるが、そういう感じは受けない。人々はグローバリズムの下、労働市場の中で独りぼっちで耐えている。昔だったら、職場で悩んだら「組合」に駆け込むということができた。もちろん今だってあるところにあるけど、そもそも非正規労働者として働いていたりするから、誰も頼りにできない。住んでいるところは、全国どこでも同じような、都市郊外のコンビニやファミレスのあるような町で、そこにも文化や連帯はない。個人情報保護と言う前に、もともと一人ひとり家族で住んでいてもバラバラで、他人のことはわからない。だから、みんなバラバラで他人の個人情報が判らないから、生まれ育ちの情報に基づく差別はできない。それで一見差別が減っているような感じも受けるが、人の心が変わって減っているのではないから、「遊び」的なカラカイや、誰でもはっきり確認できる学歴や容姿に対する差別意識はむしろ増えているのではないか

 そう考えてみると、たった4パターンで人間を決めつけることができる「血液型」というものを有難がる人が多いのも当然だろう。「差別」というものは、もともと本人の本質以外の問題を取り上げて、あの人はああだこうだと決めつける行為である。血液型も本人には選びようがないという点で、性別や国籍となんら変わりはない。血液型には実に多くの分類方法がある。ABO式が人間の性格に関わるという科学的な根拠は全くない。そんなものを本気にしている人はおかしい。遊びでやってるというかもしれないが、「セクハラ」や「性的マイノリティ」に対するカラカイ的言動もいつも「単なる遊びではないか。その程度のことも言っちゃダメなのか」という人がいる。現にあなたの言葉で決めつけられると、傷つく人がいるんだよ

 テロ後の世界に広まる不信と憎悪の連鎖、原発事故で大規模な放射線被ばくが起こり気づいた真に科学的な知識と勇気の必要性。経済性より人権を尊重する社会への転換。
 そんな大規模な問題をすぐには解決できない。けれどごく身近なところで、血液型による人間の分類なんて非科学的で信じない、そんなことはやめようという声をあげることならできるかもしれない。それが科学的なものの見方を作り、人権を尊重する社会への一歩となるのではないか。

 この記事のカテゴリーを何にするか迷ったけど「教育」にした。理由を書く。
①就職にあたって面接で血液型を聞く企業を、学校側でも問題化するべきである。してはならない質問の例に血液型も入れるべきである。大学でも調査して公表するべきだ。
②保健、理科、社会などの科目で、またはホームルームなどで「血液型」による決めつけはおかしいという教育を行うべきである。
学校で生徒の血液型を聞くことをやめるべきである。ケガをして輸血することなどほとんどないし、仮にあってもちゃんと適合検査をしてから輸血するので全く必要ない。(本人の申し出のみで輸血するわけがない。)
④教師も、生徒の自己紹介とか卒業文集の一言なんていうものを書かせるときに、よく血液型なんていう欄を作ってしまいがちだが、それは止めるべきである。
*まあそんな意味をこめて「教育」への提言として書いた。

*追記.松本龍環境相、復興担当相(前)が「問題発言」で辞任したあとで「血液型」を理由とした。それが外国に大きく報道されたが、日本国内では大きな問題にはならなかった。民主党代表選で投票に参加しなかったのは、衆参両院議長と松本氏であるが、辞任後「躁病」ということで入院したと報道された後、どうしているのだろうか。松本氏は解放同盟の幹部で、有名な松本治一郎の孫(生涯を運動に捧げた治一郎は甥の英一を養子にした。英一は元参議院議員。龍氏はその子供。)昨年秋の生物多様性条約会議の議長などはなかなか見事にやっていたと思う。そういう松本氏が血液型を口にしてしまうという日本の状況を僕は大変憂慮しているので、ここに書いておく。
 また、福島では様々な「差別」が現に起こっている。放射線に対する無知無理解から心ない扱いを受ける人々がいる。「新しい差別」が起こってしまったのである。(このことについては「週刊金曜日」最新号を参照。)なお、血液型で職場で決めつけられるというのは、卒業生の声に基づいている。
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日光けっこう紀行(3・4日目)

2011年09月09日 22時11分19秒 | 旅行(日光)
 3日目、快晴。いつもはゆっくりだが、この日は急いで朝食を取る。8時半すぎに出発して、9時15分赤沼茶屋出発の「低公害バス」を目指す。戦場ヶ原の奥に行くには、車を置いて公共バスに乗り換えなければならない。このバスがまた紅葉の頃には臭車上が満員で車を停められない。(車が赤沼に停められず、20分くらい歩いて行く三本松に停めた時もある。土日に行く場合は注意が必要。)めざすは、まずは「西ノ湖」(さいのこ)である。バス停を降り、吊り橋を渡り、美しいカラマツ林を抜けて、しばらく歩くと湖が見えてくる。素晴らしい天気である。
  
 西ノ湖は「日本の自然100選」に選ばれたこともある「関東最高の秘湖」だと思う。「秘湖」というのは、大きな湖の奥の方によくある、誰も行かないような小さな秘密の湖。何だかヨーロッパの伝説に出てくるような、静かで美しい湖。北海道には「三大秘湖」というのがあって、形容矛盾みたいな感じもするが、行ってみるとどれも実にいいところである。ここもバスで近くまで行けるようになって、人が増えてきたけど、まだまだ静か。でも、鹿が多くて10年くらい前に鹿除けで樹がガードに覆われてしまった。10回以上行っている気がするが、今回はいつもの2倍以上の大きさ。写真では樹が水につかっているが、そんなことがあるはずがない。その先にベンチもあったはず。すごい水量である。
  
 そのあとは歩いて中禅寺湖の東側、千手ヶ浜を目指す。30分くらい。中禅寺湖は一部が観光化されて人が多いが、周りが大きく外れの方に行くと静かな自然を楽しめる。男体山が今日も美しい。
 
 そこはバスの終点で、次のバスに乗って小田代ヶ原(おだしろがはら)で降りる。ここは湿原だけど大雨が降ると水浸しになってしまう。「小田代湖」とでも呼びたいくらい。有名なハルニレの木があっていつもカメラマンがいっぱいである。ここからぐるっと歩いて、戦場ヶ原経由で1時間半くらいで最初の赤沼に戻る。戦場ヶ原は去年「ナイトハイク」というのに参加した。夜に懐中電灯もつけずに歩くという怖い試み。冬にスノーシューで行ったこともある。もう何度も来てるのだが、そのたびに爽快な気分になる。尾瀬は遠いけど、ここはバスもあるから老若男女がたくさん歩いてる。車で通る時も気持ちいい。癒しのハイキングコースである。
   
 そのあとは、光徳牧場へ寄ってアイスを食べて、4時頃戻る。4日目は何だか名残惜しいので湯の湖畔を回って、湯元温泉街を回る。小学生の団体がいっぱいである。温泉寺のわきから湿原を通って源泉を見ることができる。それぞれの宿が持ってる湯小屋が立ち並んでいる。湯元温泉は本格的硫黄泉で温泉街に入ると硫黄臭がすごい。湧出量も多くて、中禅寺湖のあたりのホテルに皆給湯してるが、どこも「掛け流し」なのである。名湯だと思うが最近あまり評価されてない。帰っても洗濯物に硫黄のにおいがするようなのが、今は多少敬遠されるのかもしれない。
 
 その後、日光市街に降り、霧降の滝にもしばらくぶりで行ってみる。ここも水量が多いが、遠くからしか見られないので写真は載せない。市街に戻り鈴木食堂で食べて、帰路に。まさに「奥日光を歩かずして、結構というなかれ」の旅でした。今回は、北関東道が完成したので足利方面に寄り道。知的障害児が山を開きぶどう畑を作り、ワイン醸造をしたということで有名な、「ココファーム・ワイナリー」に寄ってみる。「こころみ学園」も近くにある。山一面がぶどう畑。ハーフワインを買ってみるが、車だと試飲できない。そこから佐野の名水100選「出流原弁天の湧水」により、道の駅で買い物して帰る。
  
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日光けっこう紀行(1・2日目)

2011年09月08日 21時26分23秒 | 旅行(日光)
 日光が大好きで、よく行っている。足立区民だと小学校の移動教室でも行くし、家族旅行でも行った。結婚して、車も持って、改めて日光の魅力を感じて、ここ15年くらいは毎年1回は必ず行っている。奥日光の一番奥の湯元温泉まで行って泊ることが多く、今回もそう。尾瀬に行くプランに申し込んだんだけど、台風の雨で中止になってしまった。尾瀬に行って疲れてすぐ帰るのも何なので、翌日も泊ることにしていたので、奥日光3泊というのんびり旅行。奥日光は1400mあるので、夏でも絶対涼しい。(日光市内だと暑い時もある。しかし、奥日光はいろは坂を上らないとダメ。それが車に弱い人には大変なんだけど。)

 さて、1日目。まだ雨が残っている。車は順調に進み、お昼過ぎには日光市内へ。最近は「食堂すゞき」で食べることが多い。(日光金谷ホテルや明治の館、その他湯葉料理の名店もいっぱいだけど。)ここは、イタリアで修業したというシェフのイタリアンなんだけど、「伊中和」と銘打ってラーメンやとんかつも出すという不思議なお店で、そっちがまた美味しい。場所は日光駅と東照宮の中間あたり、御幸町交差点角にあって、湯葉パスタなどが紹介されて観光客も多いが、地元の人もたくさんくる。
  
 今回は「ローマ風クリームソースの生パスタ」にする。チーズクリームがたまらなく美味しい。パン、サラダ、デザート付。ここへ来たら、一度はティラミスを食べるべし。セットのデザートは左からティラミス、プリン、アイスクリーム。いつもせっかくだからとイタリアンを頼んでしまうので、今回は帰りも寄って、ラーメンを食べた。パスタセットの半額で大満足。

 雨だから外はダメなので、月曜にやってる「田母沢御用邸記念公園」に寄る。ここは前に行ってるが、2000年に整備されて新しくなった。何度も前を通っているけどもう一回寄る気はなかった。(駐車場も有料だし。)前の雑然とした時代の方がいいと思う。明治時代に、皇太子(大正天皇)のために造られ、今上天皇が戦時中に疎開していたことで知られている場所。何か皇室宣伝っぽさが一杯になってしまった。前は2階をもっと見られたように思うけどな。庭から見た姿と。
 
 で、雨だし、早く宿へ行って風呂入って、なでしこ豪州戦を見る。宿は最近「休暇村日光湯元」に固定化されてきた。中禅寺から湯元まで10軒くらい泊ってるけど、ロケーションも室内もきれいで、安くて、食事もおいしい。半分洋室ですぐ寝られて気兼ねなく過ごせる。今回は3泊プランですごく安くてびっくりした。写真を載せると、なんだか民業圧迫みたいなので建物は載せない。まあお風呂だけ。内湯と露天。

 最近10年ほど、毎夏行われる「奥日光森のコンサート」に通っていた。今年は行かなかったのだが、たまたま5日に、「ミニコンサート」があった。「森コン」を中心になって続けてる宮地ゆみさん(ピアノ)をまた聞けて良かった。今回はヴァイオリンの粂川吉見、正子夫妻と一緒にクラシックの小品を中心に。浴衣がけ、子どももいていいですよとホテルのロビーでやる気軽なクラシックのコンサート。避暑地の宿で毎年続いてる。素晴らしい。たまたま今年も聞けてうれしかった。
  
 2日目。まあ雨は上がってるけど、通れないハイキングコースもあるらしいし…。じゃあ、水量も多いだろうし、滝めぐりでもしようかな、と。まずは、湯元から少し降りて、湯滝へ。駐車場で「水量が3倍くらいある」と聞く。確かにすごい。小滝を回る40分程度のハイク。小滝というのは初めて見るけど、川の水量自体が多い。ところでそのコースの橋の上で赤とんぼ(アキアカネ)がいた。今の日光は赤とんぼがムチャクチャ多いけど、これはなんと!よく見ると、というか写真じゃわからないと思うけど、「蛾を食べているところ」である。胴体は食べきって、羽まで食べた。(写真は左が湯滝、中が小滝)
  
 続いて、華厳の滝へ。ところが驚くべし、ホントにすごいのはこっちだった。普通は毎秒2トンのところ、その日はなんと毎秒70トン。実に35倍。大音響。もう水煙というか、すさまじい水の落下であたり一面水しぶき。展望台でも濡れる、濡れる。
   
 お昼を食べた後は、「イタリア大使館別荘記念公園」へ。ここも何回も来てるけど、実に気持ちいいところ。昔、日光が外国大使館の避暑地だった時代があるという。イタリア大使館の別荘は今は無料公開され、人気スポットになっている。湖に面して椅子があるからついウトウトする。そういう時間を超越したような場所である。15分くらい駐車場から歩くが、それもよしで。内部と外観、桟橋風景。
  
 湖畔を歩くと、男体山が美しい。せっかくだから、半月山道路(中禅寺湖スカイライン)を行って、上から中禅寺湖と男体山を見る。(この湖と山は、日本有数の山岳景観だと思う。)日光は世界文化遺産と日本百名山(男体山と日光白根山)の両方がある日本唯一のところ。(自然遺産だったら屋久島もそうだけど。)男体も白根も登ってるけど、男体は直登でなかなか辛かった。上の方はずっと崩れてる。また動物もよくみられるところで、猿や鹿なんか珍しくない。見ない方が珍しい。スカイラインで見た鹿を。
  
コメント
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