尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アメリカの戦争に巻き込まれてきた日本

2015年06月30日 23時43分01秒 | 政治
 安倍首相言うところでは、「60年安保闘争の時に反対派は安保条約があると、アメリカの戦争に巻き込まれると言ったけれど、現実には巻き込まれなかったじゃないですか。今回も反対する人は、この法案が成立するとアメリカの戦争に巻き込まれると言っているけれど、そんなことはありえない」ということである。いやあ、この人は歴史を反対側から見ているんだなあとつくづく思った。でも、どう考えても理解が不十分だとしか思えないので、今回はこの問題を。(7.1追記 「60年」と言えば「安保闘争」と反応するので、上記の記述に「安倍首相の言ったこと」を示すカッコ内に「安保闘争」という用語を使ってしまった。でも安倍首相が「安保闘争」なんて言うわけないですよね。まあ、残しておくけど。)

 第二次大戦後に起こりうると考えられた戦争は、大体三つあった。第一は「米ソの本格的核戦争=第三次世界大戦」である。これはキューバ危機など瀬戸際事態もあったけど、幸いにも実際の戦争は起こらなかった。今からすると想像できないかもしれないが、当時一番心配されていたのが、この米ソ核戦争だった。でも、起こらなかったんだから、巻き込まれようがない。米ソ核戦争が起きなかったのは、別に日米安保があったからではない。全然関係ない。もし本当に起きていたら、当然のことながら日本も巻き込まれていただろう。日本には米軍基地があるんだから。

 米ソの対立が本格戦争にならなかったのは、お互いに人類を破滅させられるほど大量の核兵器を持って、「恐怖の均衡」が成り立ったからだという人もいる。それもあるかもしれないが、結局大量に作った核兵器も限定戦争、地域紛争、対テロ戦争なんかでも使用できない。全人類を滅ぼすかもしれない兵器を先制使用すれば全世界で大非難が沸き起こる。攻められたら使うと言っても、自国領で使用すれば領土が汚染されてしまう。つまり、持っているけど事実上使えない兵器なのだ。世界中の反核世論が核兵器の使用が難しい状況を作り出してきたわけである。

 戦争の第二のタイプは「代理戦争」で、第三のタイプが「地域紛争」「民族紛争」のような戦争である。これは現実に起こった。国連に集団的自衛権行使として報告されたケースはいくつかあるが、ソ連によるハンガリー事件(1956)やチェコスロヴァキア事件(1968)もそうだけど、むろんこれには日本は巻き込まれてない。ソ連グループの「ワルシャワ条約機構」の軍事行動だから、当然である。一方、アメリカが大規模な軍事行動を起こした朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン戦争イラク戦争には、日本は全部巻き込まれてきた。それが中立国ではなく、アメリカと安全保障条約を結んでいるという意味なのである。以上のうち、朝鮮戦争、湾岸戦争は国連安保理決議がある武力行使なので、集団的自衛権の行使ではない。イラク戦争も、ブッシュ・ドクトリンに基づく「自衛権の行使」だった。

 そのような細かい違いはあるものの、日本は戦後にアメリカが関わった戦争はすべて何らかの形で支えてきた。アメリカがアメリカ大陸で行ったドミニカ出兵(1965)、ニカラグア内戦への介入(1981)、グレナダ侵攻(1983)なんかだけは、米州内のことは米国だけでいいということで、日本は直接の関係はない。でも、アジアで起こった戦争は日本にも応分の負担が求められてきた。ベトナム戦争では、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランドがベトナムに派兵した。日本は確かに自衛隊を送ったわけではない。憲法9条がある以上、それはできない。日本国内では反戦運動が盛んで、アメリカ批判が強かったが、当時の佐藤栄作首相は米国を支持し、当時の南ベトナムを(大反対デモを押し切って)訪問し、経済援助を与えた。日本(本土)および復帰前の沖縄の米軍基地は、戦争の最前線となった。当時の国内情勢からして、できる限りの対米援助を佐藤政権は行ったのである。

 その後の戦争でも同じで、その当時の法的な解釈で、政府は特例法を作って米艦に給油したり、自衛隊をイラクに派遣したりした。それも憲法違反ではないかという反対運動が起こり、裁判も起こされた。イラク派遣では名古屋高裁での違憲判決が確定している。ところで、それらの対米協力をどう評価するかは別にして、とにもかくにも直接の軍事行動に自衛隊が参加したことはない。日米安保があって、米国陣営にいるから、その時点で可能と思われる最大限の米軍支援を日本は求められてきた。しかし、憲法9条があるから、どう「柔軟な解釈」をしたとしても、直接的な軍事行動への参加はできなかったのである。これが歴史の正しい見方だろう。安倍首相が語るのとは違って、日本は安保条約の下でアメリカの戦争にいつも協力を求められてきた。しかし、憲法9条が歯止めになってきたのである。

 その歯止めをなくそうというのが今度の安保法制である。さらに、今回の解釈変更で済まず、憲法9条の改正そのものを考えているのは周知のことである。イラクで「非戦闘地域」で「人道支援」を行ったという枠組みを変えようというんだから、「戦闘地域」で「軍事的支援」をしたいのかと思われても仕方ないではないか。そんなことはない、そんなことはないとしきりに首相は答弁しているわけだけど。納得せよと言われても、歴史が反対に見えている人の言うことだからなあ。正直、できない相談ですよ。

*「朝鮮戦争」と「湾岸戦争」は、重要な一方の旗頭を米軍が務めたわけだから今は「アメリカの戦争」として一括りにした。しかし、その直接の原因は、金日成(及びスターリンと毛沢東)やサダム・フセインが作り出したものである。だから、「サダム・フセインの戦争に巻き込まれた」と言った方がいいのかもしれない。でも、アメリカが乗り出してきたことから、「対米関係としての戦争貢献策」という問題が生じたわけである。日本にとっては「アメリカ問題」に他ならない。なお、安保理決議があった以上、何もしないというわけにはいかないだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

昭和文学の名作映画を見る

2015年06月30日 00時49分05秒 |  〃  (旧作日本映画)
 最近も昔の映画をいろいろ見ている。新作映画も見たいんだけど、まあしばらく上映されているだろうと思うのに対し、古い映画の上映はピンポイントで行かないといけない。今日も2つ古い日本映画を見て、それから夜にアンスティチュ・フランセ東京(旧・日仏学院)で「冷たい水」という映画を見ようと思った。オリヴィエ・アサイヤス監督の旧作で、監督本人も来るという。しかし、そういう時はやはり満員になってしまって見られなかった。その前に4時から若尾文子映画祭で「お嬢さん」という映画を見ていたので、到着がギリギリになってしまったのである。

 今日はまず最近見た古い映画について書いておきたい。いわゆる「文芸映画」の話題に行く前に、土曜日に見た映画。神保町シアターで「暴れ豪右衛門」(稲垣浩監督、1966)という映画を見た。稲垣監督は「無法松の一生」や「宮本武蔵」シリーズで知られる。多くの時代劇を戦前から山のように作っていて、この作品の後の「風林火山」や「待ち伏せ」は今も時々上映されている。でも、この「暴れ豪右衛門」というのは知らなかった。今ではほとんど忘れられていると思う。今見ると、「七人の侍」なんかと同じく、その後の中世史研究の知見からすると疑問点も多いが、とにかく一向一揆支配下の加賀の国で、土豪(国人)勢力と越前の朝倉氏の争いを描く映画なのである。戦国大名の支配下に入らないとあくまでも抵抗する国人層を取り上げているのが貴重。まあ、主人公の豪右衛門(三船敏郎)が字が読めないのを誇りにしているなど、疑問も多い。しかし、オープンセットの規模がすごい。

 その後、フィルムセンターへ回って「嵐を呼ぶ楽団」(井上梅次監督、1960)。近年評価が高くなってきた音楽映画の傑作だが、見てなかった。音楽の河辺公一、助演の神戸一郎の追悼上映だけど、「ジャズ」が洋楽の王様だった時代のミュージカルの傑作。宝田明雪村いづみが主演し、高島忠夫、朝丘夢路が絡む。歌や演奏はもちろん自分でやってるんだと思う。水原弘のように早死にした人もいるが、柳沢真一を含め先の4人いずれも存命である。恋と友情、音楽と商業主義をめぐって、話は定番通りだが、それでいいと思わせるウェルメイドな音楽映画。テレビが録画ではなかった時代も興味深い。見ていて楽しい。井上梅次は日活の「嵐を呼ぶ男」で裕次郎をスターにしたが、とにかく何でも面白い。何でも面白いというレベルにおいて、マキノ雅弘に匹敵するのではないか。香港でも撮ったが、アジアのエンターテインメント映画全体に与えた影響が再評価されるべきだろう。

 さて、標題にした「昭和文学」だけど、そんな大雑把な言い方はもちろん普通の文学史にはない。昭和の時代に書かれたというだけでは、「蟹工船」から「なんとなく、クリスタル」まであるわけで意味不明である。でも、ここで言う「昭和」というのは、1950年頃から1970年頃までの日本映画がもっとも力があった時代を指す。その時代には多くの映画が作られ、相当数の「文学作品の映画化」が行われた。戦争と高度成長という近代日本の最も大きな出来事がこの時代の映画に反映されている。また明治、大正に出発した作家も、多くは昭和時代まで生きて傑作を残した。島崎藤村「夜明け前」、谷崎潤一郎「細雪」、永井荷風「濹東綺譚」、徳田秋声「縮図」なんかで、これらはみな映画化されすぐれた作品となっている。また川端康成、林芙美子、井伏鱒二、井上靖などの作品もたくさん作られてきた。林芙美子など、もし成瀬巳喜男による多くの映画化がなかったら、今もこれほど読まれているだろうか。

 新文芸坐で京マチコ山本富士子の特集があり、数本見た。山本富士子は大昔に見た時はものすごい美人だと思ったのだが、その後世の中も移り変わり、顔立ちが大柄で古風すぎる気もしていた。だけど、久しぶりに数本見ると、やはり美女。今回は見なかったが、3回ぐらい見ている「夜の河」が最高だと思うし、「湯島の白梅」「白鷺」等の鏡花原作、衣笠貞之助監督作品がいいと思う。今回は今まで見ていなかった「細雪」「濹東綺譚」を見て、その後ラピュタ阿佐ヶ谷で「如何なる星の下に」を見た。後の2作は、東宝で豊田四郎監督、八住利雄脚本という共通性がある。でも、どちらも原作を大きく変えている。豊田四郎は織田作之助原作の「夫婦善哉」が間違いなく最高傑作だが、この時代「雁」「猫と庄造と二人のをんな」「雪国」「暗夜行路」と日本文学全集みたいなラインナップを残している。

 「濹東綺譚」(1960)は原作中の劇中小説の主人公、種田先生を主人公にしてしまい、荷風散人は別個に作品取材をしている老作家として出てくる。この荷風を演じる歌舞伎役者の中村芝鶴があんまりそっくりなので笑ってしまう。種田先生が芥川比呂志の名演で、お雪が山本富士子。なるほどこういう風にしないと映画化できないかと工夫を評価しないわけではないが、これでは原作を壊しているではないかという不満は抑えがたい。伊藤熹朔の美術が素晴らしく、単なるノスタルジーに止まらない場末の風情を作り出していて、これは見応えがある。でも、要するにメロドラマにされてしまった感じがする。1992年にも新藤兼人が映画化し、ベストテン9位。豊田作品の方は31位だった。「濹東綺譚」は紛れもなく荷風の最高傑作で、短いから読書好きなら読んでいる人が多いと思うが、読んでない人は誤解していることが多い。老作家が場末の娼家に通う情痴小説みたいに思うと、非常時局下に「国内亡命」を試みる知的なメタ小説という枠組みに、過ぎ去ってゆく哀感漂う抒情を込めた傑作。読むべし。

 高見順原作の「如何なる星の下に」(1962)も、原作を大きく変えていて、原作が好きな僕には物足りない。浅草を舞台に「転向」知識人の苦悩を込めた原作を、映画では映画化時点の現在の銀座、佃島に変えてしまった。それはそれで、今見ると東京五輪直前の町の姿をこれほどとどめた映画はないような価値が出てきた。佃島の渡しなど、もう廃止(1964年8月27日)直前の姿が映像に残されている。山本富士子と池部良はいいんだけど、どうも風景を見る映画という感じ。ベストテン43位。

 谷崎潤一郎の「細雪」は3回映画化されていて、1983年の市川崑作品が一番だと普通は思われている。(ベストテン2位)最初の映画化、阿部豊作品(1950年)もベストテン9位に入っていて、それなりの評価を得た。一方、1959年の今度見た島耕二監督版はベストテンに入選しないどころか、一票も入っていない。一番評価されていないというか、見るチャンスもあまりない。だけど、案外の拾い物だった。フラフープなんかしてるから、物語は映画化時点での現在に設定されている。その結果、50年代末の阪神地域のロケが今になって価値が出てきたのである。それに4人姉妹がけっこういい。上から書くと、50年版が花井蘭子・轟夕起子・山根寿子・高峰秀子、59年版が轟夕起子・京マチ子・山本富士子・叶順子、83年版が岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子。まあ一長一短あるけれど、京、山本のコンビは大映を代表し、「夜の蝶」なんかの共演もあって息があっている。それに時間が145分、105分、140分と一番短く、長大な原作を描くには不足ではあるが、三女、四女の結婚話に絞って上流階級の没落と結婚の階級性というテーマがくっきりしているとも言える。案外の拾い物。

 室生犀星の原作「あにいもうと」は3回映画化されて、全部ベストテンに入っているという稀有な作品である。でも最近見てないので、細かいところはほとんど忘れてしまった。今回久しぶりに成瀬巳喜男監督版(1953)を見直した。ベストテン5位で、「にごりえ」「東京物語」「雨月物語」「煙突の見える場所」に次いでいるんだからスゴイ。その下に「日本の悲劇」「ひめゆりの塔」「雁」と続く。恐るべき年である。森雅之、京マチ子の兄妹で、戦前の木村荘十二版の丸山定夫、竹久久美子、76年の今井正版の草刈正雄、秋吉久美子と、どれがどうだか忘れていて今は比べることができないが、どれも名作には違いない。でも、僕は兄はともかく、妹の方は京マチ子が一番ではないかと思う。そのくらいの迫力で兄妹げんかをしている。「けんかえれじい」などとまた違った意味で、日本映画のケンカシーンに残り続けるだろう。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「百田暴言」および安倍首相と大西議員

2015年06月27日 23時55分01秒 | 政治
 安保法案関係をもう少し書きたいんだけど、ちょっと番外編。自民党の「若手議員」の勉強会「文化芸術懇談会」(さすがに「自由」で「民主」的な政党にふさわしいネーミング)に、作家の百田尚樹氏が講師で呼ばれ、「沖縄の2紙をつぶさないといけない」と述べた。また議員の中から、「マスコミを懲らしめるためには広告料収入をなくせばいい」という発言も出た。露骨な報道圧力である。安保法案への支持が広がらない現状を「マスコミの偏向報道」によると思い込んでいるんだろう。ずいぶんと議員の資質も劣化したもんだと思う。この問題を取り上げておきたい。

 東京新聞27日付朝刊に、共同通信が百田氏を電話取材した様子が出ている。「オフレコに近い発言で、冗談として言った」「なくなったらいいなとは思っているが、政治的な圧力でつぶせという趣旨ではない。そのようなことはあってはならない」と言っている。その後で、「例えば好きじゃない人物に『死んでほしい』などと軽口を言うことは一般にあるはずだ」とも述べたとある。いやあ、この人は軽口で「死んでほしい」という人なのか。そして、そうやって心にグサッと突き刺さる暴言を吐いておいて、後から冗談、冗談と言うのである。それを批判されると「冗談も通じない人なんだよなあ」と言う。

 いるよね、そういう人。パワハラ、セクハラ発言を連発しておいて、後から冗談に決まってるだろ。それも判らないのかと開き直る。「軽口で死んでほしいという人」なんて、一般にはそうはいない。若者には「死ね」が口癖というヤツもいるかもしれない。でも、そういう人間は大体、粗野な人間、無神経な人間で、周りからもそう思われている。今回の発言もそのたぐいで、大の大人が与党政治家の勉強会で言う言葉じゃない。だけど、今回の百田氏は謝罪どころか、発言の撤回もしていない。それどころか、自身のツイッターでは「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。確信犯なのである。

 この問題が国会で追及されても、安倍首相は他人事のようである。「私的な勉強会で自由な議論がある。一つ一つの意見をもって、処罰することがいいかということだ」とか言っている。これは全くおかしい。理由はいくつもあるが、まずこの日に予定されていた勉強会は当初はこれだけではなかったのである。党内の「リベラル系議員」がつくる「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」は、同じ25日に漫画家の小林よしのり氏を招いて5回目の勉強会を開く予定だった。しかし、「時期が悪い」と自民党執行部の意向で中止に追い込まれた。小林氏は改憲派の立場から憲法解釈の変更を進める安倍首相を批判している。だから、中止なんだろう。「私的な勉強会で自由な議論」が聞いて呆れる。一方は「時期が悪い」んだから、百田氏を招く方は「時期が悪くない」のである。そういう経緯を安倍首相がどこまで知っているのかは判らない。でも自民党執行部の最高責任者は安倍首相である。(ところで、小林よしのり氏を呼ぶのが、「リベラル系」と言われる時代になってしまったとは。)

 自民党は2014年末の総選挙以来、ずっと報道機関に圧力をかけ続けている。その前に2014年1月にNHK会長に籾井勝人氏を選んだところからと言うべきかもしれない。選挙報道では「公平を期せ」と各テレビ局に文書を送っていた。それ自体は当たり前というかもしれないが、「出演者の発言回数や時間、ゲスト出演者の選定、テーマ選び、街頭インタビューや資料映像の使い方」なんて具体的な項目を挙げている。ゲストや街頭インタビューまで挙げているんだから、これは露骨な圧力以外の何物でもない。そして、2015年になって、自民党がNHKやテレビ朝日を「事情聴取」で呼びつけている。「放送法違反」を言うが、一政党が報道機関を呼びつけることの方がずっと大きな「放送法違反」ではないか。こういう流れがずっとあって、その上で今回の発言である。

 もうはっきりしている。異論を許さない社会を作るのが安倍政権の考え方ではないのか。違うというなら、自民党の最高責任者として、自民党議員の発言を撤回させ、自らも謝罪するべきである。でも、そうはしない。去年の朝日新聞問題で、右派マスコミは「謝罪せよ」「辞任せよ」と大声をあげた。立場が違う勢力には強く当たるのに、自分の問題はスルーするのか。大体、今まで百田尚樹と言う人物がどれだけ物議をかもす発言を繰り返してきたことか。今、この人の話を党本部で聞いて「勉強」しようという発想そのものがずれている。ある意味、役割としての「暴言」である。ホントは自分で言いたいんだけど、やっぱり議員は言っちゃいけないかなという発言をしてもらって鬱憤を晴らすための「暴言要員」を頼んだのである。だから、面白くなってどんどん暴走したのである。

 ところで、「マスコミを懲らしめるためには広告収入なくせばいい」と言ったのは、大西英男衆議院議員だとのことである。大西議員は2014年6月に、上西小百合議員(日本維新の会=当時)の質問中に「まず自分が子どもを産まないとダメだぞ」とヤジを飛ばしたことで有名になった。この人はどういう人かと言うと、江戸川区の大部分を選挙区とする東京16区から、2012年、2014年と2回当選した衆議院議員である。その前は都議会議員、さらに前は江戸川区議会議員。1946年生まれで、今68歳である。1975年に区議会議員、1993年に都議会議員。それぞれ4期当選している。

 僕はこの大西さんを昔から知っている。僕が最初に採用された江戸川区の中学校の学区内に大西区議が住んでいたのである。学校の儀式にも、地元の区議としていつも出席していた。「新年賀詞交換会」とか昔っぽい会が多いところで、そういう会では挨拶するのを何度も聞いている。僕が異動する年のことだけど、PTA会長も卒業生の親だったから、替わりを見つけないといけない。上に書いた議員の任期をよく計算してくれると判るんだけど、都議会当選の前に数年の浪人時代がある。その時にちょうど、大西さんの次男が中学に入ってくるということになった。では会長を頼もうということで、PTA会長を大西英男氏が務めた時期があった。僕と入れ替わりなので、子どもの方も親の方も話したことはないけれど。この時の子どもと言うのが、大西洋平(1978年生まれ)という人で、2011年から江戸川区議会議員になっていたとは知らなかった。いや、時の流れは速い。

 大西英男氏は2007年に都議を辞職し、参議院選の比例区に立候補したが落選した。それでキャリアは終わりかと思ったら、民主党惨敗の選挙にあたり、めでたく当選したのが2012年で、66歳で初当選となった。この年ではおとなしくただマジメに議員を務めても、大臣の口など回ってこないだろう。そう思って、自分なりに好き勝手に発言しているのだろうか。昔聞いていた挨拶は別に当たり障りはないものだったと思うが。区議、都議、衆議院議員と、自民党の中で何十年も過ごして、世の中の弱い者を見下す意識が身に付いてしまったのか。昨年ヤジを飛ばした上西議員も、その後「維新の党」を除籍されてしまった。除籍を進めた橋下大阪市長も、今のところ政界引退とか。世の栄枯盛衰は激しい。盛者必衰のことわりを思えば、こういう出来事が続く安倍政権も盛りを過ぎたのか。この、自分に都合の悪いことには耳をふさぎ、自分に都合のいいことばかり聞きたがる体質。これこそが後に「安倍時代」の特質と回顧されるだろう。自民党内にも「言論の自由」があるらしいから、是非多くの議員もホンネトークで何でも言ってしまえばいいのに。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「日本の安全保障環境」なんて関係ない

2015年06月26日 23時04分50秒 | 政治
 今回の安保法制、「戦争法案」なんだか「平和安全法案」なんだか、そもそも一体何本の法律案が国会に提出されているのか、それすらよく判らないという人が多いだろう。いや、僕も全部は覚えてない。11本もの法案が国会にまとめて提出されているのだ。それは一番最後に書く。

 なんでこのような法律が今必要なんだろうか?それは「わが国を取り巻く安全保障環境が大きく変わった」とか、そういうことをまず言っていると思う。どこかで聞いたことがある人が多いのではないか。そこに関しては、新聞の投書などを見ても、「中国や北朝鮮なんかが心配」という声がけっこうある。だけど違憲だろうという人もあるし、だから安倍政権の考えも判らないではないという人もいる。われわれの周りでも、尖閣列島や北朝鮮の核開発はどうするんだという人が少なからずいる。

 あああ、関係ないじゃないか。まだダマされているのである。いくら安倍首相が「暗愚の宰相」だったとしても、この程度の問題を判ってないはずがない。僕は判っていて、その上でわざと国民をダマしているんだと判断している。「日本周辺」が大変なんだったら、すでに「周辺事態法」があり、米軍と協力するという枠組みがとっくの昔に出来ている。(僕はその法律を支持するものではないが。)ところが、わざわざその法律を変えてしまって、世界中のどこでも(地球の裏側までも)適用できるという法律を作るというんだから、「日本周辺の安全保障環境」なんて今回の安保法制に何の関係もないはずだ。

 そもそも、「集団的自衛権」とは自国に対する攻撃ではなく、他国への攻撃に対して集団で反撃するという仕組みである。自国が危険なんだというのなら、自衛力を増す(自衛隊増強)とか、他国との防衛協力を強化する(日米安保)というのが、論理的な帰結であるはずだ。(日本は個別的自衛権を有していて、自衛隊と日米安保で、国土の安全保障を図るという憲法解釈と政策を取る場合の話だが。)要するに、自衛隊増強や日米防衛協力は行きつくところまで行きついて、今後は自衛隊が米軍を援ける仕組みにまで至ったということだろう。今回の法案が必要だというのは、「わが国」ではなく「アメリカをめぐる安全保障環境」の方が変化したということなのである。

 そのことを明かしているのは、谷垣自民党幹事長の発言である。谷垣氏は前からそういうことを言っているようだが、国会の大幅延長直前の6月20日、山口県宇部市の講演で「日本周辺の安全保障環境は変わってきて、テロのようなものも起きるようになってきた。アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなってきており、それを補わなければならない」と言っている。日本周辺のどこでテロが起こっているんだろうか?イスラム過激派組織によるテロに日本人が巻き込まれるという事件は、前から相当起こってきた。そういう場合の「対テロ戦争」にも自衛隊を派遣するんだろうか?とにかく、「アメリカ様」の御威光も薄れてきたから、日本が頑張らなくっちゃ!というのが「事の真相」というわけである。

 日本が武力を行使する場合、三つの要件を付けるんだという。その「新三要件」は(それ自体を知りたい人は自分で検索してください)、どこの国で起きた場合に適用されるのか?再三再四、そういうことを問われて、結局政府は「地理的条件はない」、つまり日本周辺に限らず「地球の裏側」にも行けるような法制度になっていると認めている。だから「周辺事態」ではなく「重要影響事態」ということにするのである。中谷防衛相は国会の答弁で、「日本が国家承認していない北朝鮮を除くすべての国」が対象になると言っている。なんともはや、東アジアや中東どころか、リクツ上はウクライナとかナイジェリアとかどこでも行けるらしいのである。

 こういう法案だというのに、日本周辺が危険だとか何とかいうのは、全くのごまかしである。それなのに、どうして「日本の周辺が危険になった」とか言われると、そうだ安保法案が必要だとか思ってしまう人がいるんだろうか。それは右派政治家、右派マスコミ等により、長い時間をかけて「洗脳」が行われてきたからだろう。例えば、日本と中国の関係が非常に悪化したのは、野田内閣時の「尖閣国有化」が最大のきっかけだった。しかし、それは当時の石原都知事による「東京都が買う」発言がそもそものきっかけである。つまり、右派政治家(その後、国政に転じ、日本維新の会、次世代の党と「自民党より右」の政党を作った石原氏)の仕掛けが背後にあったわけである。しかし、少しするとそういうことも忘れてしまい、日中関係の悪化という印象だけがクローズアップされる。そういう国民への誘導がしばらく前から続けられてきた。その結果、本来は関係ないことを理由に「政府は国民の安全のためにいろいろやってくれている」というイメージを植え付けることに一定程度成功してしまったわけである。

国会に提出されている11法案だが、一つは新法の国際平和支援法案改正案は一括審議するとして以下の10本。武力攻撃事態法改正案、重要影響事態法案(今は周辺事態法)、国連平和維持活動(PKO)協力法改正案、自衛隊法改正案、船舶検査法改正案、米軍等行動円滑化法案(米軍以外にも適用できるようにする)、海上輸送規制法改正案、捕虜取り扱い法改正案、特定公共施設利用法改正案、国家安全保障会議(NSC)設置法改正案。なんと「戦争をしない」日本に、捕虜取り扱い法なんてのがあって良いのか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

戦後、日本人は戦争を放棄した

2015年06月25日 23時09分39秒 | 政治
 集団的自衛権の問題については、去年(2014年)の5月に何回か書いている。しかし、それは「集団的自衛権とはそもそも何なのか」などを自分なりに詳しく書いていて、どうも長くて読みにくい。今年はスルーしようかとも思ったんだけど、やはり心にかかっているので、他の記事を置いて数回書いておきたい。あんまり長くしないで、簡潔を心掛けたいと思う。

 まず、言っておくべきことは、どう考えても憲法違反だろうということである。法的な細かい議論を今する気はない。憲法制定の経緯とか、いわゆる「芦田修正」とか、「砂川判決」の解釈とか、「統治行為論」とか…。「自衛隊はそもそも違憲なのではないか」とか「自衛隊は専守防衛に徹するべきだ」とか…。日米安全保障条約の問題沖縄の基地問題…。そして、中国の海洋進出をどう考えるかとか、「北朝鮮」の核開発をどう考えるか…まあ、いろいろと考えるべき問題は山積しているのは間違いない。それらを全部きちんと知識を持って、自分の考えをはっきりさせないと何も言えないと言われたら、ほとんどの人は口をつぐむしかない。でも、まず憲法を読んでみよう。

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

 これを読めば、「日本人は戦争を放棄した」というしかないではないか。加藤陽子東大教授の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」にならって言えば、「戦争に負けて、それからは日本人は戦争を放棄した」と言うべきだろう。これは当時を知る人々、当時を知る人々から直接話を聞いた人々には、ほとんど常識だろう。憲法制定の経緯などどうでもいい。押し付けだろうが、GHQが書いていようが、「もう二度と戦争はこりごりだ」という日本国民の思いがこの条文を支持させた。ほとんどの国民はこれを受け入れた。何かと言えば政治に口をだし、勝手に戦争を進行した軍部は解体された。もう二度と日本は戦争をしないのである。これはいい。国内で310万人と言われるぼう大な犠牲者を出して、「二度と戦死者を出さない」という戦後の歴史が始まった。

 ホルムズ海峡に地雷がまかれた場合、それを自衛隊が掃海する。それはどう見たって「国際紛争を解決する手段」として武力を発動しているとしか言えないではないか。「集団的自衛権」と言うんだから、日本は直接には攻撃されていないのである。そういう場合に自衛隊が派遣されるというのは、永久に放棄されたはずの戦争そのものである。直接的な戦闘には関わらず、「後方支援」=「兵站」を担当するだけであっても、どう言い繕っても戦争である。

 戦争を放棄するって言っても、向こうから攻めてきたらどうするの?ハイハイ。そういうことを言う人はいつもいましたね。だから自衛隊が作られた。まあ最初は米軍の命令だけど。さて、自衛隊を合憲とするには、どうすればいいのか。それは(正しいかどうかは別にして)、「直接的に外国軍に侵略された場合に武力で反撃するのは、『国権の発動たる戦争』や『国際紛争』には当たらない」と解釈すること以外には考えつかない。(しかし、このように日本の「個別的自衛権」を認める解釈をした場合、なんで日米安全保障条約が必要なのかが判らないが。)でも、今回は攻められていないのに、自分で判断して出ていくんだから、憲法をクリアーすることはできない。

 だけど、憲法の細かい条文上の問題ではないだろう。靖国神社大好きの安倍首相やその一党は、靖国に参拝して何を祈る?その後戦死者が出てなくて、皆さんも寂しいでしょうとでも思うのか。皆様の犠牲をもって、日本は戦争をしない国になりましたと言わないのだろうか。「保守」というのは、「常識」と「国益」をもとに判断する人々だと思っている。つまり、安倍首相一派(という言い方はあまり好きではないが)は、「保守」ではないのだ。「常識」に立ち戻って、虚心に戦争の犠牲と戦後日本の歩みを振り返ってみようではないか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

6・24、国会前

2015年06月25日 00時06分32秒 | 政治
 本来は24日が国会の会期末である。超長期延長が与党によって議決されてしまったけれど。9月27日まで95日の延長というのは、常識外である。検索すればすぐ判るけど、当初は8月上旬まで、その後参議院が8月下旬までを検討していた。安倍首相の「執念」らしき、8月15日の「首相談話」がリアルタイムで国会で追及されないように、その前で閉めちゃうんだという話だった。それも姑息だが、安保法案成立のために時間があったほうがいいということになった。「2カ月ルール」(参議院で2カ月以上たっても議決されない時は、衆議院で3分の2以上で再議決すれば法律が成立する)を使えるようにするということである。それなのに、「野党が慎重審議を要求しているので、長い審議期間が取れるように延長した」とか、ふざけたことを言っている。いや、すごいね。

 でも、これは「国民の反対がここまで追い込んだ」のである。逆説的な意味ではあれ「効果」が上がってきているわけだ。もっとも、法案の成立は直ちに自衛隊が戦争に派遣されることを意味しない。そういう法制度を整備しておくということである。一方、「労働者派遣法の改悪」は、法の成立後ただちに、3年で「派遣切り」にあう派遣労働者が出てこないとは言えない。こっちの方が直ちに生活を変えてしまう可能性がある法案だ。そっちも反対ではあるけれど、国会前に何万の集まらないだろう。そのことに、ちょっと「忸怩(じくじ)たる」気分もある。

 が、まあ当初から呼びかけられてきた「総がかり行動」に出かけてきた。前夜は雨が降って、24日も大雨なら止めようかなといういい加減さなので、周りにちょっと呼びかけたけど、直前になってしまった。結局行けそうな人も行けなかったので、まあ時間通りでなくてもいいかなと思った。でも、3万人という主催者発表で、今までで一番多い。教育基本法改悪や特定秘密保護法の時よりも、明らかに多い。ここまで多いと、現場で人探しは無理。ケータイ電話も通話できない。(留守電も聞けない。要するに周りの音が大きいから。)一緒に行くなら、どこかの駅で待ち合わせるしかないだろう。(ところで、東京メトロもけっこうな臨時増収ではないだろうか。)

 ちょっと疲れてきたので、今日は女子サッカーのワールドカップを見て、それから床屋へ行く。そうすると時間はなくなって、他の映画に間に合わず、フィルムセンターに「人間魚雷回天」を見にいく。これは見てなかったので、初めて見たけど(日本だけでなく、戦争映画に見落としは多い。やっぱりあまり積極的に見たくもないんだなあ。)海軍の特攻兵器の話だから、悲劇的なことは判っている。一度出陣しながら、故障で帰還して上官に疎まれる学徒兵の役をやってる宇津井健の追悼上映である。まだ時間があると思って、神保町へ行って本を見て、共栄堂のカレーを食べて、それから永田町から国会へ。というように、サッカーを見たり、カレーを食べにいくのは、僕にとって国会に行くのとほとんど同レベルのことだと思う。(共栄堂のスマトラカレーは時々無性に食べたくなってしまう。)

 これほど大きな問題になっているのだから、できるだけ一度は見に行くべきだと思う。「参加」というほどの意識ではなくても。今後夜も暑くなってしまうだろうが、まだまだ大丈夫。今日は上弦の月も出ていた。でも、歩道の規制で大回りして皇居前に来たら、一周マラソンしている人が多いのでビックリした。8時過ぎに帰る時もたくさんいた。3枚目の写真で一番左の人がそれ。幟の写真の右上に月がちょっと見えている。
  
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

和菓子映画の「あん」とハンセン病

2015年06月24日 00時44分07秒 | 映画 (新作日本映画)
 ドリアン助川原作、河瀬直美脚本・監督、樹木希林永瀬正敏主演の「あん」を見た。原作は未読だが、ハンセン病問題を扱う社会的な物語だということは知っていた。河瀬直美が初めて原作をもとにした映画を作り、なかなか評判を呼んでいる。東京都東村山市でロケされ、ハンセン病療養所多磨全生園も出てくる。アドバイザーとしてクレジットされている森元美代治さんはカンヌ映画祭にも参加したという。そんな事前情報ばかりいっぱい聞いている。そんな映画をようやく見た。

 しかし、これは実はまずもって「どら焼き映画」である。もっと一般的に言えば「和菓子映画」。もっともどら焼きしか出てこない。だから、甘いものが苦手で、どら焼きが好きでない人には魅力がないのではないか。(「かき氷」がメインの映画に、かき氷に関心がない人が心惹かれないのと同じ。それは僕の事だけど、なんで「かき氷映画」があるのか判らない。二つもあるんだけど。)ところで、僕はどら焼きが大好き。お酒も嫌いではないが、どちらかといえば甘いものの方がいい。まあ麺類やカレーの方がもっと好きだが、和菓子の中ではどら焼きが好きなのである。

 流行ってない、業務用のあんを使ってる「どら春」の店主、千太郎(永瀬正敏)のところに、徳江(樹木希林)と名のる老女が現れ、いくらでもいいからアルバイトしたいと言い、断られると「あん」を持って再訪する。これを試食してみた千太郎は、絶品のあんに驚き、徳江と一緒に働くようになる。夜明け前から仕込みを始める。あずきを水に浸し、ゆっくり煮ていき、アクを取ったり砂糖を入れたりして、じっくりじっくり煮詰めていく。時にはあずきに話しかけ、頑張れと励ましながら、あんを作っていく。このシーンのドキュメント的な面白さは抜群で、非常に感動的である。そして、この絶品のあんは評判を取り、行列ができるほどの店になっていく。ところが…、ということで、ここで「心ない噂」というヤツになる。

 ところで、この映画にはよく判らないところがいくつもある。だけど、何となく見てしまって心動かさせれるのは、樹木希林の名演によるところが大きい。それに、訳ありの店長を演じる永瀬正敏もいい。それだけでなく、常連的な中学生グループがいて、中の一人はカナリヤをきっかけに徳江と深いかかわりを持っていく。そして、全生園の中に話が進み、そこのロケを見るとやはり心打たれるのである。だけど、判らないというのは、一つはどら焼き屋という存在。そんなものが世の中にあるのか?見てると、その場で皮を焼いて、温かい和スイーツ、つまり鯛焼きとか今川焼のように出している。これがどら焼きか?普通は鯛焼き屋をやるでしょう?「どら焼きはあんだ」と映画の中で言ってるけど、違うだろ。あんがうまいのは前提で、皮がふっくら、もちもち、適度に湿り、適度に歯ごたえがある…そんな皮が決め手だと思うが。映画を見てると、ホットケーキにあんをはさんでいるようで、違和感があるんだが。

 もう一つがハンセン病の扱い方。これは何年の物語か?「らい予防法廃止」という話は出てくるから、1996年以後である。だけど、国賠訴訟の話は出てこないから、2001年以前なのかもしれない。徳江が70代半ばと、療養所入所者としては(現在では)若すぎる設定なのも、もう少し前と考えるべきなのかもしれない。東村山の中学生は、日本で一番ハンセン病の知識がある中学生ではないかと思う。今だったら、もっと知っていそうだし。でも、病の説明も現状の説明も何もない。これでいいんだろうか?うわさが広がった(と思われ)、その結果客を失ったのを挽回できないまま、店は改装されてしまう。河瀬監督の映画は、いつも説明をしない、観客に任せるような作り方が多いが、今回は現状を最後にでも字幕で説明するべきではないか。「手が不自由になる病気」と観客が思ってしまう可能性を感じてしまう。

 河瀬直美は、前作の「2つ目の窓」が割合に良かったと思ったが、評価は思ったより得られなかった。僕は2作目の「火垂」がけっこう好きで、どうも河瀬監督の中でも評価されない映画の方が好きである。アニミズム的な独自の感性が、空回りしているように思えて好きになれない映画も多い。今回も樹木希林を通して、自然との交感を描いている。それが療養所で生涯をすごさざるを得なかった女性、という設定とうまく合っていてとてもうまく出来ている。樹木希林ももう自在に演じている。僕もハンセン病元患者の話はいっぱい聞いているが、集会に参加するような人の話が多い。多分、今回の徳江は地道に園内で菓子作りをしてきた人で、初めて社会で働く体験ができて、ほんとうにうれしそう。そういう人が出てくることはハンセン病関係の本や映画では珍しい。そういう意味で非常に面白いけど、ハンセン病の正確な知識や元患者の苦難の歴史はまた別に学んでほしいと強く思う。とりあえず「ハンセン病資料館」にはまず行きましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「四月は少しつめたくて」-「ほんとうの言葉」を求めて

2015年06月23日 00時37分44秒 | 本 (日本文学)
 谷口直子四月は少しつめたくて」(河出書房新社、1400円+税)という本を読んだ。最近は新刊のハードカバーをあまり買わないんだけど、書評で読んで関心を持った。題名もいいし、「詩と再生の物語」という帯のコピーにも心ひかれる。書き出しを読んでみると「四月は少し冷たくて、それから少し背伸びをしている。だからわたしは四月が好きだ」。これもとても素敵で、是非読もうと思った。

 この本は「詩を書けなくなった詩人」をめぐって、二つの物語が展開する小説である。一つはその詩人の担当に(社長が入院したおかげで)なってしまい、いつのまにか「手下」のようになる詩専門出版社の女性編集者。途中で年齢がばれるが、1973年生まれで、話の中は2013年時点だから39歳から40歳。実は「訳あり」で、ファッション誌の編集者をやめて、つらい時間を経てやっと小さな会社に入社したところ。もう一つは、その詩人が教えている詩の教室に通う女性たち。特に、娘がほとんど口を利かなくなってしまった母親の物語である。高校生だった娘は、同級生を「無視」したことが自殺未遂のきっかけと決めつけられ、それ以来口を閉ざしている。大学入試にも失敗し浪人中。娘の部屋でその詩人の詩集を見つけたことから、詩人の教室に通うようになる。

 この、書けない詩人、女性編集者、女子高生と母親…。悩みを抱え、言葉を失った状態にある人々が、果たして「ほんとうの言葉」を取り戻せるのだろうか?という問題を主筋にしながら、現代の風俗やファッション情報を巧みに織り込み、清冽な感動を呼ぶ小説になっている。作者はどんな人だろうと思うと、高橋直子名義でエッセイ「競馬の国のアリス」を書いた人。読んでないけど、そういう本の存在は知っている。2013年に「おしかくさま」で文藝賞を受賞。「断貧サロン」という小説に続き発表したのが、今回の本。1960年生まれとある。キャバクラとかラインとか、最近の話題もずいぶん出てくるので、正直もっと若いかと思ったけど。

 で、その大詩人、「教科書にも出てくる」とある藤堂孝雄という人。どんな詩を書いてるの?と聞かれて、詩に詳しくない編集者、桜子は「ゆうべはごめんね」としか答えられない。って、もちろん現存しない詩人をフィクションで作ったわけでしょう。「教科書にも出てる詩」を創作するのは、すご技だなあ。

 その詩が中で出てくる。(全部は引用しないので、是非本書で。)
 朝の祈り  藤堂孝雄
  ゆうべはごめんねときみが言った
  きみが恋人なら それは仲直りの始まり
  きみが妻なら 新しい戦いの前触れ
  きみが生徒なら 先生はほっとする
  きみが息子なら 父親はただうなずき
  きみが風なら 倒れた木はもう答えない
  きみが太陽なら 夏は続いて
  きみが雲なら 今日は晴れるだろう
    (中略)
  謝罪は権力を生む
  だからあやまってほしくないんだ
  朝は等しく祈りたいんだ
  言葉をすべて飲み込んで
  狂った世界のために ただ祈りたいんだ
  きみが権力を生まないように 僕が権力を生まないように
  無言でただ 祈りたいんだ

 もう一つ、「霧が晴れたら」という詩も出てくる。これも素晴らしいんだけど、ここでは紹介しない。今書きたいのは、「言葉のいのち」のようなことで、「朝の祈り」の中では、ごめんねで始まった詩が途中で「謝罪は権力を生む」を突然転調する。これはどういう意味だろう?人生には「どうしようもないこと」がある。大切な人の死は、そのもっとも重大なできごとだろう。もはや謝りようもない。だけど、生きている人間の間では、「謝罪」が双方の関係改善の前提であることが多い。小説の中で出てくる「自殺未遂」問題の場合、「真相はどうなのか」がはっきりすれば、「どちらか、あるいは双方が謝る」ことが世の中では求められるだろう。でも、それでも失われた時間は戻らない。いったん損なわれた心は戻らない。世界と一体化していた言葉は、単なる謝罪では元に戻らない。だけど、「そんなことは忘れて、前に進もう」「謝ったんだから、もういいじゃないか」と言われてしまう。

 というような事を思うんだけど、でも現実の世の中では「謝罪」は必要なんだろうと思う。「謝れ」「謝るな」「謝ってるじゃないか」「いつまで謝るの」といった言葉が、今の日本では政争に使われてしまう。謝罪も権力を生むが、無謝罪も権力を生む。その両者を含めて、詩の言葉の表現として「謝罪は権力を生む」というんだと僕は思う。そして、こういう「詩の言葉」が人の心の奥の方を照らし出すということがある。それが詩というものなんだと改めて実感する。

 「ほんとうではない言葉」(オーウェルの「1984年」における新語法(ニュースピーク)のようなもの)は、まさに今安倍政権のすすめる「平和安全法制」に当てはまる。中味もひどいが、この言葉の遣い方が耐えられないという人も多いと思う。「戦争法案」というと「レッテル貼り」なんだそうだが、「平和安全法制」はどうなんだという自省はしない。だけど、同時に「戦争法案反対」という時にも、そこからこぼれ落ちる言葉がたくさんあるということに自覚していないといけない。現代を生きる中で、この小説に出てくる人々ほど「痛切に言葉を失う」体験をしている人はすくないかもしれない。でも、現代人のほとんどは「言葉を失った状態」にある。「マジ」「ヤバい」「かわいい」「いい感じ」しか発しないとしたら、それは「失語」と同じである。

 ところで、この小説に重大な場面で「東京芸術劇場の二階にある喫茶室」が出てくる。前回の記事の演劇が上演されたところ。そこの近くの大学に関係者が通ってるらしいので、それは立教大学なんだろう。おやまあ、いろんな意味で近いところで起こっていたドラマなんだとビックリした。現代の言葉、風俗なんかもいっぱい出てきて、とっても読みやすい本だけど、書いてあることは重い。世界をほんとうに表わす言葉をわれわれは持っているんだろうか。深い内省と感動をもって読み終わった。政治的なことばっかり書いてるブログ、趣味の世界ばっかり書いてるブログ、料理や自分の写真なんかばっかり載せているブログ…。一度この本を読んでみたら…。こういう本、小説や詩というものが魂に不可欠だと判る本。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「蜜柑とユウウツ」を見る

2015年06月20日 23時03分58秒 | アート(演劇・落語等)
 「グループる・ばる」の「蜜柑とユウウツ-茨城のり子異聞ー」を見た。東京芸術劇場シアターイースト。19日。てがみ座主宰の長田育恵作の戯曲をマキノノゾミが演出。「グループる・ばる」というのは、女優三人のユニットグループで、茨木のり子さんに関する劇を作ろうという試みを見事に成功させたと思う。もっとも茨木のり子という詩人をあらかじめ知っている人向けかも知れないとは思う。
 
 舞台は故・茨木のり子家の一角に固定されている。そこに何人かの人が訪れてドラマが進行する。でも、何人かの人といっても、生きている人ばかりではなく、もう亡くなっている人や庭のミカンの樹の精まで出てくることにやがて気付かされる。冒頭で、茨木のり子の亡くなった後に残された遺稿集があるらしいと、出版社の社長と甥がやってきて家の中を探し回る。その「最後の詩集」はあるのか、それは何か。知ってる人には知ってる話だけど、そこをメインにして、茨木のり子の人生を振り返っていく。

 茨木のり子(1926~2006)という詩人は、父は医者で、夫も医者、実生活上は恵まれていた。といった私生活上の知識はほとんどないんだけど、僕は高校の頃から愛読してきた。何人もの人に現代詩文庫の茨木のり子詩集を贈ったことがある。あるいは卒業式を迎えると、きまって「汲むという詩を書いたり読んだりもしてきた。感受性豊かでユーモアもあるけど、一本筋が通り真っ直ぐ生きてきた人のように思える。だからこそ、評伝劇になるんだろうかと思う。だから、この劇では「のり子」と同じ読みもできる「紀子」(岡本麓)と「典子」(田岡美也子)という二人を登場させ、詩人ノリコ(松金よね子)を相対化させ、あなたは恵まれているとたびたび突っ込ませている。また谷川俊太郎と連れ立って現れる「岸田葉子」という女性(詩人で画家という設定)に木野花の客演を得て、茨木のり子という詩人の全体像を浮き彫りにしていく。この構成はなるほどよく考えたものだなと思う。

 そこで見えてきたものは何か。女として表現を続けること。愛と平和を問い続けること。戦争はいやだということ。あんなに苦労させられて、そのことを自分で考えもしなかった。二度とそんな生き方はしない。そして、早く失った夫を想う詩を死後に残して逝った。庭の蜜柑の樹に咲く花のように、清冽でステキな人生ではないか。多くの詩の引用(朗読)、60年安保の映像などを含めて、戦後という時代を生きた女性像を生き生きと描き出した。まるで茨木さんの詩を知らない人がどう思うかは判らない。でも茨木のり子という人への敬愛の念があふれた気持ちのいい舞台だった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「明治日本の産業革命遺産」への疑問④

2015年06月18日 21時34分42秒 |  〃 (歴史・地理)
 さて、「明治日本の産業革命遺産」問題も長くなった。問題をまとめた上で、最後に残された一番大きな疑問について書きたい。今回の「世界遺産」は、「1850年代~1910年」と時期を区切って、日本の「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に関する遺産を「稼働資産」を含めて構成したものである。

 これに対する僕の疑問は、
1850年代の「韮山反射炉」「鹿児島集成館」などは、「産業革命」と直接の関連がないのではないか。(広義の「近代化遺産」には間違いないが。)
「明治日本の産業革命」と言うならば、アジアで最初に近代的産業を達成した製糸、紡績産業を取り上げないのはおかしい。(日本の歩みに与えた影響が非常に大きく、また砲兵工廠などを除けば、本格的な近代的労働者は製糸、紡績の「女工」が圧倒的に多かった。)
「重工業の発展」を考えるならば、本格的に発展していく1910年以後を対象に含めないとおかしいのではないか。(それはまさに、日本の重工業が朝鮮半島、中国への侵略とともに発展していく過程であるから、近隣諸国の反発をそらすために、あらかじめ不自然な時期区分にしたのではないか。)

 例を挙げてみると、「軍艦島」とも呼ばれている「端島(はしま)炭鉱」の事例。確かに明治時代になって採掘が始まった。1890年に三菱が買い取って、以後本格的な採掘が始まる。しかし、この島の何が「世界遺産」と言えるのだろうか。「軍艦島」と呼ばれた独特の高層住宅の存在、そして1974年の閉山後に一種の「廃墟遺産」になっていることではないのだろうか。ところで、この独特な住宅などは、大正期以後に作られていったものだとされる。「明治日本」の遺産とは言えない。

 また「旧八幡製鉄所」関連の遺産の評価も疑問がある。確かにそれは「日本史」の上からは非常に重要な遺産である。でも、「世界遺産」とまで言えるのだろうか。日本がアジアで初めて近代化に成功したことは間違いない。ある時点では、それは「非西欧世界で唯一の」と言っても良かった。だが、21世紀の現在から見れば、それは「他の非欧米諸国に先駆けて」と言う位置づけになる。八幡製鉄所そのものは、技術的に何か新発明をしたというわけではなく、西欧諸国の技術を移転することに成功した場所である。とするならば、それ自体に大きな人類的価値があるのだろうか。日本が鉄鋼を自給できるようになったことは重要だが、そういう近代化は日本に何をもたらしたのだろうか。

 近代日本は絶えざる戦争の歴史だった。日本の産業革命は、果たして自国及び世界の人々を幸福にしたのだろうか。戦争を支える技術が発展しただけではないのか。いや、橋や駅やトンネル、港湾やダムなど、中には今も使われている建造物も多く作られ、日本人の生活を向上させたというかもしれない。だけど、それならそういう施設を「世界遺産」の候補にするべきではなかったか。横浜港や神戸港のさまざまな施設、東京駅、琵琶湖疏水、木曽川の読書発電所や大井ダム…候補はたくさんある。

 とともに、明治時代においては、炭鉱、鉱山の重要性が大きい。特に炭鉱は1970年頃まで、日本のエネルギーを担ってきた。今回の候補にある三池炭鉱の宮原鉱、万田鉱などは、明治末期の資産がそのまま残っているものが多く、その重要性からも「明治日本の産業革命遺産」にふさわしいと僕も認めるものである。だけど、なぜ筑豊炭鉱など他の炭鉱が入っていないのだろうか。さらに、足尾(栃木県)や小坂(秋田県)、生野(兵庫県)、別子(愛媛県)などの金属鉱山が入っていない。これは足尾鉱毒事件などの公害事件、戦時中の朝鮮人、中国人の強制労働問題を避けるためなのだろうか。それとも三菱、三井が重視され、住友、古河、日立などのより小さい財閥を軽視しているのか

 こうして見ると、今回の世界遺産は二つの方向で問題があるように思う。一つは「近代化にともなう負の側面」を無視していること。単に戦時中だけの問題ではない。産業革命の進展による「労働者問題」への目配りもない。重工業の発展が戦争と結びついていたこと。軍事産業が優先され、民生面の産業がおろそかになったこと。その結果、明治では足尾鉱毒事件などの公害問題を起こした。「明治の重工業の遺産」という中で、足尾関連が抜けているのは致命的な間違いだと思う。日本の近代化・産業革命を世界に紹介するなら、足尾と水俣を抜きにして、「明治の日本はすごかった」などと言ってはいけない。その悲惨な歴史を語り継ぐことこそ、「世界遺産」の価値がある。そして、その中に鉱山労働者の悲惨な労働も含まれる。もちろん、戦時中の朝鮮人、中国人労働者の悲惨な歴史も語り継いで行かないといけない。そのことを無視して、「時代が違う」と切り捨てるのは、歴史に対する不誠実である。

 もう一つは「民生面の遺産の無視」である。20世紀末になって、日本だけでなく、韓国、中国、インド、ブラジルなどの国々でも、重工業部門が発展した。しかし、多くのアジア・アフリカ地域では、やはり繊維産業などから発展する段階にある国の方が多い。そういう意味では、日本が非西欧社会で初めて工業化したという時、まず最初に発展し、海外進出もした紡績業を抜きに出来ない。戦前には大阪は「日本のマンチェスター」と呼ばれて、アジアの紡績業の中心だった。大坂はじめ、西日本には紡績業の遺跡もある程度残っているようで、それらは世界遺産にふさわしい。その時にも「負の側面」を無視できない。「女工哀史」と言われた悲惨な労働。これは今の世界で問題になっている女性、少年労働の問題を考える時に日本が世界に伝えるべきことだと思う。一方、民生産業としては、食品産業(日本酒や洋酒の醸造、しょう油等)、デパートやホテル(三越や日光金谷ホテル、箱根富士屋ホテルなど)なども忘れてはならない。特に最後に書いたデパートやホテルは、世界遺産的な価値がまだ認めらないかもしれないが、日本人が「近代化」を考える時に非常に重要だと思う。それらをまとめて言うと、ホントはいったん取り下げて再構成して申請し直す方がいいのではないかと僕は考えている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「明治日本の産業革命遺産」への疑問③

2015年06月17日 23時51分21秒 |  〃 (歴史・地理)
 「産業革命」とは、そもそも何だろうか?
 英語で言えますか?と僕は授業でよく言ったものだが、“Industrial Revolution”。もともと18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こったものだから、英語を知っておくのも重要である。そして、アメリカ独立やフランス革命などの「市民革命」とともに、人類史をそれ以前と以後に画するような重大な出来事である。内容を簡単に言えば、大量生産を可能にする工場制機械工業動力革命による工業、交通の大変革であり、そこから起こった社会的な変動全体を指すこともある。

 ということで、歴史の教科書にはおよそ二つの分野のことが書いてあることが多い。一つが紡績業における織機、紡績機の改良。ジョン・ケイによる「飛び杼(ひ)」の発明とかハーグリーヴスの「ジェニー紡績機」の発明とか。さらにアークライト、クロンプトンときて、1785年にカートライトによる蒸気機関による力織機の発明で一段落。紡績業の生産性が格段に上昇したわけだが、「飛び杼」とか言われてもなんのこっちゃ?本やパソコンで調べるとちょっと判った気にもなれるが、人に説明できるほどではない。紡績業自体を全然知らないし、糸紡ぎなんかしたこともない。生徒の多くは、そもそも「紡績」と言われても、それ自体が死語。原料の「綿花」も知らない。そっちの説明が先である。

 もう一つが動力の革命で、ジェームズ・ワットによる1785年の「蒸気機関の改良」である。(改良であって、発明ではない。)この「ワット」という人名は必ず覚えさせる人名である。火力発電や原子力発電さえ、基本的には「蒸気機関」なんだから。それを受けて、19世紀になって、フルトンの蒸気船の実用化、スティーヴンソンによる蒸気機関車の改良も起こる。その輸送力のアップは驚くべき社会変化をもたらす。このように、産業革命はどの国でも、軽工業(特にせんい工業)が先行して起こる。続いて、交通機関の革命が起き、重工業の発展が起きる。

 という「常識」の説明は前置き。今回の「明治日本の産業革命遺産」を見ると、この産業革命の常識からすると、非常に不思議な構成になっている。韮山反射炉、萩反射炉、鹿児島の集成館、佐賀の海軍所跡などは、いずれも幕末の対外的危機感を背景に、「開明的藩主」(あるいは「開明的幕臣」)が海防力を高める目的で作ったものである。大規模な工場ともいえず、動力革命が起きたとも言えない。アヘン戦争(清国敗北)、ペリー来航という衝撃を受けて、大砲を自国で鋳造するため、鉄を製錬する施設である。韮山反射炉は実際に大砲を鋳造したというから、それなりに立派なもんである。だけど、これらは江川英龍、島津斉彬、鍋島直正などのリーダーシップで作られた「上からの国防強化策」であって、現実にその後その地域は特に工業地帯として発展していない。「産業革命」という位置づけそのものに疑問があるのである。

 一方、明治維新以後、政府の殖産興業政策で工業が発展していった。当然、日本でも軽工業、特に製糸業、紡績工業の発展が大きかった。軽工業の産業革命は1890年代重工業の産業革命は1900年代以降に起こったというのが通説だろう。今回の登録は重工業に特化しているが、これにも疑問がある。明治時代の日本は日清、日露の大戦争を戦い、勝利し、植民地を獲得し、アジアでただ一国「後発帝国主義国」となった。そのことの評価はともかくとして、これが「世界史的事件」であることは間違いない。だけど、この段階では日本は戦艦を自分で作れる国ではない。「日本海大海戦」で東郷平八郎が乗っていた旗艦「三笠」は横須賀市に保存・公開されているが、イギリスで製造されたものである。まだ貧しかった日本がどうして、何隻もの戦艦を持てたのか。それは「絹を売って軍艦を買う」とまで言われた製糸業あってこそである。だから、「明治日本の産業革命」というなら、製糸業を抜きに語れない。そうしてみると、2014年にすでに登録された「富岡製糸場」こそ、本来は「産業革命遺産」だった。

 ワットやスティーヴンソンに並ぶような発明家は日本にはいなかった。欧米で発展した技術を、政府主導で(官営工場やお雇い外国人を通して)受け入れ、財閥に払下げて大財閥中心に工業化を進めたからである。その後、第一次世界大戦をきっかけに、日本の工業は大発展し、農業生産頼より工業生産額の方が上回るようになった。第二次世界大戦時に作られた「戦艦武蔵」は今回候補にある三菱重工業長崎造船所で作られた。あるいは「ゼロ戦」も三菱重工で作られた。そういう兵器を自国で作れるようになったのだから、まあすごいと言えばすごい。それは「世界遺産」に値するかといえば、世界史的価値はあるにはあるだろうと思う。だけど、「1850年から1910年」で切ってしまったら、おかしいのではないか。明治期は軽工業が中心で、日本の重工業の産業革命を考えるなら、少なくとも大正時代まで含めないと全体像は見えないと思われる。

 そもそも「産業革命遺産」は残りにくい。工場はどんどん機械が入れ替えられていく。歴史的価値があるからと言って、創業当初のまま保存しておくような会社はない。さらに戦災、震災があって、昔のままの工場はほとんど残っていない。残りやすいのは、企業経営者がたてた大規模な洋館とか、従業員慰安のために作った施設である。秋田県小坂町の劇場「康楽館」とか、長野県諏訪市の温泉施設「片倉館」とか。(どっちもすごいところなので必見です。)だから、構成が難しいが、日本の資本主義発展史を考えると、三菱、三井は含まれているが、渋沢栄一関連の資産がないのは問題ではないか。1901年に作られた官営八幡製鉄所は、その後北九州工業地帯(今は四大工業地帯という扱いはしないが)として発展していくから、これは重工業の産業革命に欠かせないだろう。だが、ここもなかなか厳しい道のりを経て、明治末から大正、昭和にかけて発展していった。明治期だけ取り上げて「世界遺産」というのは、どんなもんだろうか。

 こうしてみると、今回の「産業革命遺産」を政府は「1850年から1910年」として構成しているが、それは完全にフィクションとしか言えない。間違った歴史認識を日本人に与えてしまうのではないかと思うのである。そして、工業化、産業化は必ず「負の側面」を持つはずである。日本に限らず、どの国の工業化においても、負の側面を持っていた。近隣諸国から戦時下の事を突き付けられたから、という問題ではない。自国の歴史を振り返れば、富国強兵、殖産興業の裏で苦しんできた民衆ぬ姿が浮かび上がる。そして、そこも含んでこそ、「今、アジアで最初に近代化をなしとげた」ということの世界史的な意味が明らかになるのではないか。ということで、もう一回、「真の産業革命遺産はどうあるべきか」を書いておく。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「明治日本の産業革命遺産」への疑問②

2015年06月17日 00時02分21秒 |  〃 (歴史・地理)
 前回に引き続き、「明治日本の産業革命遺産」への疑問について。実はこの問題に関しては、僕は根本的な疑問を持っているのだが、それは次回に回して、今回は推薦に至る経緯に関しての疑問を書く。本来は今年は違う世界遺産が登録されるはずだったのである。それは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」である。だが、こちらは1年先送りにされ、来年度に登録が期待される段階にある。だから、まあ特に騒がれていないけど、もともとこの問題はどうも不思議な経過をたどってきたのである。

 「世界遺産」というけど、ユネスコ(UNESCO=国連教育科学文化機関)には登録されるだけであって、当然ながらユネスコが直接守ってくれるわけではない。だから、世界遺産条約に加盟する各国は、登録された資産をその国で保護していく責任がある。これを逆に言えば、当該国で保護する仕組みが出来ていないものは、世界遺産に登録されない。日本の文化財保護行政は長い歴史があるが、芸術的、学術的な価値が高いものは、国宝重要文化財に指定される。あるいは、史跡(特に優れたものは特別史跡)、名勝(特に優れたものは特別名勝)に指定される。さらに「伝統的建造物群保存地区」というものもある。われわれが「日本の世界文化遺産」という時にまず思い出すだろう、姫路城、法隆寺、奈良や京都の寺社、日光東照宮、宮島(厳島神社)、平泉の中尊寺、白川郷の合掌造り集落などは、みんなそういう指定を受けていた。

 一方、「原爆ドーム」に関しては、世界遺産に推薦しようという動きが出てきたときには、文化財保護の対象にはなっていなかった。「原爆ドーム」だからではなく、まだ昭和の戦跡に関しては、時間の経過が短すぎて歴史的な保護の対象とは考えていなかったのである。しかし、1995年に文化庁が文化財保護法の「史跡名勝天然記念物指定基準」を変えて、登録できるような仕組みを作って、史跡に指定したのである。その結果、国内法で保護されているという基準をクリアーして、世界遺産に推薦できるようになった。この推薦に至る道筋は、誰もが納得できるのではないか。

 このように文化財保護法に基づき国宝や史跡等を指定するわけだが、もちろん文部科学大臣や文化庁長官が勝手に決めることはない。「文化審議会」という組織で議論するのである。法制度は法制審議会、税制度は税制審議会、教育制度は中央教育審議会…などと同じ仕組みである。なお、文化審議会というのはちょっとなじみがないという人もいるかもしれない。2001年に国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会をまとめて作った組織である。だから20世紀中は文化財保護審査会が担当していた。その下に、「世界文化遺産・無形文化遺産部会」があり、ここで世界遺産に推薦するかどうかの議論を行う。今までの世界文化遺産は全部それで決まってきたし、今回も文化審議会では先ほど述べた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が推薦されていた。

 本来ならそれで決まりであるが、今回はそこに「明治日本の産業革命遺産」が割りこんできたのである。じゃあ、なんでこっちは文化審議会の対象にならないのかというと、文化財として保護されていない資産が含まれているのである。それは「稼働資産」である。「稼働資産」とは現に今も使われているという意味である。史跡、重要文化財等に指定されると、現状変更が厳しく制限されるので、工場などの場合は所有者の了解が得られない場合が多い。今回の遺産候補の中では、八幡製鉄所の旧本事務所、三池港、三菱長崎造船所第三ドックなど10カ所以上もの稼働資産が含まれている。これらは文化財保護法上の保護対象になっていないのである。だから、いくら議論しても通常なら世界遺産には日本国内から推薦されようはずがないのである。

 じゃあ、どうしたんだというと、内閣官房の「地域活性化統合事務局」内に「産業遺産の世界遺産登録推進室」を置き、「稼働資産を含む産業遺産に関する有識者会議」を作ってしまったのである。そうやって「松下村塾」などを優先したのかというと、安倍内閣の政策なのかと思うかもしれないが、それは違う。民主党内閣時代の規制緩和政策だったのである。2010年10月21日に「産業遺産の世界遺産登録に向けた文化財保護法中心主義の廃止」を決めたのは菅内閣のときだった。僕はその時点でどう考えていたのか覚えていないが、稼働資産を世界遺産に推薦するのはいいことだと思っていたのではないかと思う。「近代化遺産」を世界遺産に推すのは悪いこととは言えない。だけど、一体どうやって文化財を保護するのだろう。それは景観法や港湾法、公有水面埋立法などを適用するらしい。

 こうして、世界遺産に国内から推薦する候補として、文化審議会のキリスト教遺産、内閣官房の産業革命遺産の二つがバッティングしてしまった。当時、下村文科相などは文化審議会の推薦を優先するように発言していて、必ずしも安倍政権内が統一されていのかどうかわからないが、2013年9月に産業革命遺産を優先してユネスコに推薦することが安倍内閣で決定された。当時の新聞記事をあたっても、「なぜ産業革命遺産が優先されたか」はよく判らない。まあ、せっかくそういう仕組みを作った以上、こっちを先にという流れがあったのか。それとも首相の意向があったのか。今の段階では「詳(つまび)らかにしない」。 

 だけど、今になって思うと、この仕組みはやっぱり無理があるのではないだろうか。文化財保護法で保護されていないのはおかしいような気もする。今回の候補の中でも、松下村塾、グラバー邸、韮山反射炉、鹿児島の集成館などは史蹟や重要文化財に指定されている。それに対し、ネットで検索した新聞記事では、やはり稼働資産は公開・見学に無理があるようである。世界遺産と言えば、今までどこも観光客が殺到している。見たいというのは当然だろう。だけど、八幡製鉄所の旧本事務所などは、80mも離れたところからしか見学できず、ナント写真撮影も禁止なんだという。「旧本事務所エリアには機密性の高い工場がある」というのが、会社側の言い分らしいが、これでは世界遺産に登録される意味がないではないか。今になって、無理して推薦された部分があると思うようになったわけである。ただし、今回の世界遺産問題ではもっと根本的な問題がある。それは「日本の産業革命をどう考えるのか」という問題である。それは次回に。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「明治日本の産業革命遺産」への疑問①

2015年06月16日 00時45分56秒 |  〃 (歴史・地理)
 「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録がふさわしいと勧告されている。それに対し、韓国から反対の声があがっている。戦時中に多数の朝鮮人が強制連行され多くの犠牲が出た場所が含まれているというのである。中国も同調している。それに対し、日本政府は「ユネスコの諮問機関が認めた」「対象とする時期が違う」などと反論している。日本側には、また韓国が「難癖」を付けるのか、韓国がイザコザを引き起こすのかといった反発も強いように思われる。この問題をわれわれは一体どう考えればいいのだろうか。日本国民の歴史認識として、どう理解するべきかを考えてみたい。

 まず、この間の経緯に簡単に触れておきたい。ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)は、2015年5月4日、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録につき「登録がふさわしい旨」を勧告した。勧告は、登録を目指す23資産をすべて構成資産として認めているが、名称については「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に変更するよう求めている。というのも、もともと2009年に暫定リストに記載された時は、「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け-」だったのである。九州・山口だから、韮山反射炉や釜石の史跡は含まれていない。2013年に構成資産の見直しが行われ、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」となったのである。日本側の推薦に至る経緯は次回に検討するが、ここまででもずいぶん変っている。

 さて、このニュースが流れた時のことを書いておきたい。たまたまNHKのニュースを見ていたら、世界遺産への登録勧告という最新ニュースが流れた。その時に「松下村塾」の写真がまず流れたのである。数で言えば、長崎や福岡の方がずっと多いし、映像的にも軍艦島(端島炭鉱)や三池炭鉱なんかの方が面白いだろう。これは何だろうか?「花燃ゆ」の宣伝か?それとも政権への配慮か?これが今のNHKなんだろうかとつい思ってしまったのである。だけど、その後の推移を見ながら、さらに考えていくと、そもそも根本的な疑問が沸き起こってきたのである。イコモスの勧告では、名称を「製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業」とするように変更を求められている。これは「重工業」という視点に統一するということだろう。だけど、「松下村塾」が重工業の産業革命に一体どういう関係があるのだろうか?

 吉田松陰本人はもちろん、その弟子の筆頭格の久坂玄端、高杉晋作、吉田稔麿などはみな維新を迎えることなく死んでいる。伊藤博文や山縣有朋など明治の有力政治家が塾の末席にいたことは確かだが、伊藤や山縣が日本の産業革命のリーダーだったというには無理がある。吉田松陰の思想も、産業革命を主導するようなものではない。まあ、関係がなくもないと強弁することは、集団的自衛権は合憲だという学者もいるにはいるわけだから、できるのかもしれない。だけど、日本史の授業で吉田松陰に触れる時に、「明治日本の産業革命の先駆けとなった人」と教える教師は一人もいないだろう。

 僕もこのニュースを細かくチェックしてきたわけではないので、うっかり見過ごしていたのだが、そういう風に見てくると、今回のリストに載っている世界遺産候補には、「明治日本の産業革命」というには無理があるものが含まれている。「松下村塾」並みに無理があるのは、長崎のグラバー邸。また韮山反射炉などもあげられる。幕末期に国防上の課題から、大砲を鋳造するための工業施設を作った。そのことは日本史上に重要な出来事ではあるが、明治期の産業革命とつながるとは言えない。そうして見てくると、今回のリストのの半分以上は、「明治日本の産業革命遺産」というには無理がある

 では、明治の産業革命とは何かというのは長くなるので次回以後に回す。勘違いして欲しくないのだが、「松下村塾」に史跡としての意義がないなどと言っているのではない。僕が高校生徒の時、東海道新幹線が初めて新大阪から岡山まで延伸されたという年がある。その夏に僕は中国地方をぐるっと回る一人旅をした。広島の原爆ドームや倉敷や津和野などと並び、萩を訪れ松下村塾も訪れている。およそ歴史ファンというか、日本史を大学でも学びたいと思っている高校生なら、松下村塾や萩の史跡は一度は行きたいと皆思っているだろう。ただし、それは「明治日本の産業革命」とは関係ない。日本史上で最も重大な出来事とも言える「幕末・明治の政治変動」、まあ要するに「明治維新遺産」だからである。そして、日本が明治維新期を通して中央集権国家を実現し、富国強兵の道を歩んだということは、評価は様々あれども、紛れもなく世界史的重要性を持っている。

 ただし、われわれが「明治維新遺産」と思っているのは、薩長の史跡ばかりではない。薩摩藩、長州藩は確かに重要であり、さまざまの史跡もある。だが土佐の坂本龍馬関連で旅行する人も多いだろう。また敗者の側も忘れてはいけない。会津の若松城(鶴ヶ城)や白虎隊等の史跡、あるいは北海道の五稜郭…。実際に、たくさんの日本人がそれらの場所を訪れ、幕末・維新の歴史に思いをはせ、近代日本の礎となった人々、その多くは日本の近代化を見ることなく死んで行った人々を偲んでいる。それが「世界遺産」にふさわしいのかどうかは判らない。新撰組などと言っても、まあ世界史的意義はないのかもしれない。だけど、アジアで最初に近代化をなしとげたのは、幕末から明治初期のいくつもの戦争を経たからである。評価は別にして、われわれは「明治維新遺産」として考えるべきであり、「産業革命遺産」は(それはそれで重要だが)産業遺跡のみで構成すべきではないのだろうか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「どん底 部落差別自作自演事件」という本

2015年06月14日 22時48分16秒 | 〃 (さまざまな本)
 ノンフィクション作家高山文彦氏の「どん底 部落差別自作自演事件」(小学館文庫、750円+税)を読んだ。単行本になったとき(2012年)に書評で知って、読みたかった本。その時は買いそびれたが、今回文庫に入った。ものすごい内容の本だと思うから、紹介しておく。今まで、旧石器捏造事件を描いた「石の虚塔」や「ヘイトスピーチ」の本について書いたけど、それらも人間性への疑問を呼び起こす本ではあった。人間には驚くべき暗い側面もあるということは、もちろん知っているから、この程度で驚くわけではない。でも、やはり読んでいて、辛くなるような本に違いない。と同時に(こういう言葉はふさわしくないかもしれないが)、「面白くてやめられない」ような側面もある。それほど「驚くべき事件の記録」で、考え込んで立ち止まる時間もあるが、知っておくべき事柄のように思う。

 2003年12月から約5年間にわたって、福岡県南部の町で被差別部落出身の嘱託職員に44通もの「差別ハガキ」が送りつけられるという事件が起こった。本人は悪質な部落差別として、解放同盟とともに人権啓発運動に乗り出す。行政も動き、警察も本格的に捜査した結果、2009年に逮捕されたのは、なんと当の本人だった。これは本当か、冤罪ではないのかと当初は思った人もいたが、結局は間違いなく本人の書いたものだった。どうしてそんなことが起こったのか。本人を呼び、悪質な差別事件として糾弾も行われ、そこまでを渾身の取材で追及したのがこの本である。

 しかし、この本に書かれているのは、単に「差別ハガキ事件」だけではない。その前に同じ町であった部落出身の教師に対する差別ハガキ事件。結局それは解決することなく、本人が異動していってしまった。そういう「前史」があったのである。また、この地域の解放運動の歴史、事件を追及する側にたつ何人かの人物の生き方も大きく扱われている。つまり、「差別ハガキ事件」を中核にして、横(地域のさまざまな事情や人々)と縦(部落差別と解放運動の歴史、関係者の人生)が織りなす複合的な世界を描いている。そこには苦沁みながらも連帯を求めて闘ってきた姿も描かれるが、同時に「差別を直視できずに逃げてしまう」という人間の姿も出てくる。

 それはまあ当然で、逃げてはいけないなどと人を裁けるほどのことは言えない。だけど、そのことと「差別ハガキを送る」、それも自分に対してだけではなく、最後の頃には違う人物にも送ったりしている。自分ばかりに来ると疑われるということらしいが、考えがたいことである。しかも、だんだん凝ったつくりになったり、「愉快犯」的な側面も出てくる。支部の会計もしていた彼のところには、空き巣が入って多額のカネが奪われるという事件も起きている。それを「予告」するようなハガキもあるので、今となっては空き巣も本人の仕業で、遣い込みがばれないための行為ではないかとの疑念も浮かぶわけだが、あくまでも否定するので警察の捜査も終結している。だけど、何十万もの金を家に保管していたということ自体が、理解に苦しむ行為だろう。

 本を最後まで読んでも、この人物の内面は測りがたい部分が多く、どうしても理解できないところが多い。解放運動内部の人間であれ、自己保身のために「差別事件の自作自演」を作り上げるということは、まあ絶対にないわけではないだろうと思う。それでも、自分で作り上げておいて、差別ハガキ事件被害者として全国で講演して講演料をもらうという。断りようがない迷路に自分で入り込んでしまったのかもしれないが、ありえないことだと思う。しかも、いったん終了宣言までしながら、またもハガキを送ってしまう。そのことで警察が本格的に捜査を始めて、自分の仕業と判ってしまう。では、憑き物が落ちたように晴れ晴れするかというと、そうではない。反省していると言いつつ、自己を顧みることができないまま時間が経っていく。こういう人がいるのである。

 そういうこともあるんだということを知識で知るということも必要かと思う。だけど、ここまでする人は少ないだろう。注意しておかないと、「だから部落問題は厄介だ」などという感想を持つ人もいるかもしれない。この本をちゃんと最後まで読めば、そんな感想を持つ人はいないだろう。未だに結婚差別が無くならないという日本の現実。それが背景にあってこその「差別ハガキ事件」であり、本末転倒した読み方をしてはいけない。それにしても、石器を自分で埋めておいて、自分で掘り出す人物も不思議だが、この本で出てくる差別ハガキを自分に向けて書く人物というのも実に不思議な人物だった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アホウドリが飛んだ-阿奈井文彦さん追悼会

2015年06月14日 00時24分25秒 | 追悼
 3月7日に亡くなった阿奈井文彦さんの事は、当時ブログで「阿奈井文彦さんの思い出」を書いた。通夜や葬儀が東京であれば、僕も参列したのではないかと思うが、通夜は静岡県で、葬儀は故郷の大分県で行われたので出られなかった。そのことを残念に思う人はたくさんいたようで、このたび追悼会が行われた。僕はそれほど深いかかわりがあったとも言えず、今日も端っこにいたようなもんだから、書こうかどうしようかと思ったんだけど、自分の記憶力など全く当てにならない。書いておかないと、あれ、いつだっけということになるから、やはり書いておきたい。

 5月上旬に、カタログハウスの封筒に入った本橋成一さん(写真家、映画監督)名義の封書が届いた。何だろうと思ったら、これが阿奈井さん追悼会のお知らせだった。その前から、そういう企画をしたいという動きがあるのは聞いていた。どうしようかと思ったんだけど、6月13日(土)午後3時~6時頃 場所/カフェ「ポレポレ坐」という時間と場所の出席しやすさ。それに「アホウドリが飛んだ」という追悼会の名前に心惹かれて、やっぱり行こうかなと思った。もっとも、サンハウス所長の平野夫妻も行くといっていたので、一緒に出るという感覚でもあったけど。お知らせ通知はこれ。

 3時過ぎに会が始まり、吉岡忍さんがべ平連の脱走兵支援時代の思い出。続いて木村聖哉さんが同志社を単位が足りず退学して東京で屑家を始めた経緯、その後の東京での那須正尚さん(思想の科学社)を含めて三人で句会を作ってよくあっていた話などを披露した。当時の句をいくつか紹介して、なかなか句才もあったかに思われたが、メモしていなかったので思い出せない。確か「赤とんぼ 瞬時滝の音を消す」といったようなのがあったか。ビール片手に聞いているから、記憶が定かではないが。写真スライドや映像も流されたが、やっぱり顔を見ると懐かしい。弟さんや姪御さんから見た阿奈井さん像も新鮮なもので、また出版関係のさまざまな人から見た、原稿が遅かったり、モランボン料理学校に通って本を作った時のエピソードなど、さまざまな話が面白かった。

 でも、まあ僕が知ってるのはキャンパー関係。FIWC関西委員会の韓国キャンプに毎年のように参加していたことからのつながりである。阿奈井さんは確かにあちこちに韓国キャンプの思い出を書いていた。それで来た人も大勢いるんだという。(僕は「思想の科学」と「80年代」という、今はなき雑誌の広告で連絡先を知ったのである。その頃ハングルを学んだりしていたから、行く素地はあったのだけど。)韓国キャンプの中心で今も活躍する柳川義雄さん(四日市)、東日本大震災直後の唐桑キャンプでも再会した井木沢さん(栃木)、あるいは80年代初期に朝日の「天声人語」に紹介されるきっかけとなった芦崎治さん、韓国キャンプの写真をいっぱい撮ってた若手の写真家だった奥野安彦さん(写真家)…。そう言えば、司会を荒川さんが担当していた。FIWCは関東でまた違った流れがあるのだが、関西委員会の韓国キャンプに参加してないと阿奈井さんとの接点がない。だからFIWC関係でも関東系、あるいはその後のフィリピンキャンプ、中国キャンプからの人とは会えない。最後に、本橋さん写真、阿奈井さん文の「サーカスが来る日」がお土産に配られてオシマイ。事情があって、大量に残ったらしい。

 どうも疲れ気味で、その後はさっさと帰る。最近はそういう時が多い。今週は火曜日に「水の声を聞く」「祖谷物語」の長い二本立てを見て、木曜夜に「明治の柩」を見たから疲れてしまった。昨日は2本ブログを書くつもりだったが無理だった。だから今日の昼間、女子サッカーワールドカップを見てる合間に「明治の柩」を書いて、それが終わって東中野に出かけた。そんなことはどうでもいいんだけど、昔に比べれば無理がきかないなあと思う。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加