尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

わが生誕地と明大周辺-御茶ノ水散歩②

2013年06月30日 01時02分15秒 | 東京関東散歩
 御茶の水は、わが「生誕地」なのである。と言っても浜田病院なんだけど。御茶の水橋口を出てスクランブル交差点を渡り水道橋方面に歩き、駿台予備校の真ん前。浜田病院というのは東京でも有名な産婦人科らしい。昔は古い建物だったけど、今は巨大ビルの中になった。僕はその真ん前の駿台予備校の校舎に一年間通っていた。授業に出ないで近くのアテネ・フランセに映画を見に行った時もあるけど。写真のビルの4階までが病院。
 
 お茶の水あたりは本を買いに行くために来た町である。昔はネット書店もなく、あちこちに大書店があるわけでもなかった。神保町あたりか、新宿の紀伊国屋くらいしかなかったのである。本を探そうと思ったら、古書店街も集中している神保町近辺に来ることになるのは当然。今は神保町に地下鉄が3線も通っているけど、最初に地下鉄三田線が出来たのが1972年である。それもわが家からは使いにくいので、結局御茶ノ水から行くしかなかったのである。神保町近辺の本屋とカレー屋はまた別に書くとして、今回は駅から明治大学周辺を。お茶の水橋口から明大通りを行くと、まず目に入るのは楽器店の並び。小沢昭一は「ハーモニカブルース」で、「明治大学の周りの道具屋を探したんだ 明治はハーモニカバンドで有名だったんだ うまいところに目を付けたもんだ…」と歌っている。もちろん今はエレキギターがたくさん並んでいて、金管楽器やヴァイオリンもある。
  
 少し行くと明治大学である。ここには無料の明治大学博物館がある。アカデミーコモンの地下にあり、中に入ってエスカレーターで降りる。
   
 昔、刑事博物館に集められていた拷問用具やギロチンなんか(もちろん小さくしたレプリカである)がここにまとめられている。展示は商品、刑事、考古の3部門に分かれていて、有名な刑事部門には、日本の十手やヨーロッパの「鉄の処女」などがある。人権発達の裏の歴史を一度見ておく必要もあるだろう。興味本位だけではなく。写真も撮れそうなんだけど、まあ実際に見てもらう方がいいから、撮らなかった。考古部門では有名な岩宿遺跡の旧石器など、明大が発掘してきた貴重な遺物が展示されている。僕は中学生の時に「岩宿の発見」を読んで感激し、そこに出てくる明大の芹沢教授の名前を覚えた。一時は考古学者になりたかったものである。大学史の展示も常設されている。これは大事なことだと思う。ここは生徒と一緒に見学に来た場所。
  
 博物館のある地下1階に、2011年に「阿久悠記念館」ができた。明大出身で、作詞家、小説家として活躍した阿久悠は2007年に亡くなり遺品が寄贈された。レコードジャケットが外の壁に並んでいるが、「北の国から」「UFO」「また逢う日まで」「津軽海峡冬景色」「舟唄」などなど。他にもあれもこれも作っていたのである。「宇宙戦艦ヤマト」とか「ざんげの値打ちもない」とか「もしもピアノが弾けたなら」とかとか。
  
 このあたりは、明大と駿台予備校ばかりという感じだけど、ちょっと裏に入ったところに、明大の米澤嘉博記念図書館というマンガ図書館が出来た。「コミケ」で有名な米澤氏が2006年に亡くなり、マンガやサブカルチャ―関連の資料が明大に寄贈された。明大は国際マンガ図書館も建設予定で、世界に冠たる日本のマンガ研究は明大が中心になるのか。場所が少し難しいし、火水木が休館だけど、会員になればマンガを借り出せるという図書館である。

 明大の角を水道橋方向に曲がっていくと、マロニエの並木道が続いていて、その中に絵の材料を売ってる喫茶店「レモン」が生き残っている。ガロの「学生街の喫茶店」のモデルだと言われることもあるが、それは違うらしい。でもムードのあるお店であるのは間違いない。この辺はパリの一角みたいな感じがちょっとする。
  
 少し行くと文化学院。文化学院という学校も、大正自由教育の名残りをとどめる不思議な場所。
   
 明大から下って行くと、右手に山の上ホテルがある。よく作家が缶詰になって原稿を書いていたという場所だけど、僕は入ったことがない。食事や会合にも使えるんだろうけど、なんだか敷居が高い。ましてや泊ることなどなかろうかと思う。でもここは御茶ノ水周辺の有名な場所では落とせないところなんだろうと思う。聖橋を下った方には、龍名館という和風旅館もある。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ニコライ堂と湯島聖堂-御茶ノ水散歩①

2013年06月29日 00時55分28秒 | 東京関東散歩
 東京散歩シリーズ、御茶ノ水駅周辺の第1回。今まで東京駅や池袋西口を書いたけど、今回のお茶の水も僕にはとても印象深い街だ。今書き分けたように、駅名は「御茶ノ水」で、地名は「お茶の水」だという。元は湯島の高台と駿河台は同じで、江戸時代に神田川を通して江戸城外濠とするとともに、日本橋に引く上水とした。だから隣の駅が水道橋。御茶ノ水駅周辺は、深い峡谷風の景観になってるけど、これがあの「神田川」の一部なのである。ここら辺には、いろいろなものが集中している。大学や予備校、病院、書店、古書店、楽器店、スポーツ用品店、カレーショップ…東京でもとても個性的な街と言える。

 そんな中でも、御茶ノ水駅の真上を通る「聖橋」(ひじりはし)の由来となった、2つの聖堂はもっとも見所が多い場所だと思う。特にニコライ堂。僕と御茶ノ水の関わりは次回に書くが、小学生時代から御茶ノ水周辺に来てた。学生運動を弾圧した催涙弾の匂いに満ちていた、そんな時代にも、時代を超越したニコライ堂の雄姿に感激したものである。単に御茶ノ水だけでなく、東京を代表する宗教建築物だと思う。

 僕が御茶ノ水によく来たのは、東京メトロ千代田線が出来て、自分の家から行きやすかったからである。その新御茶ノ水駅からJR(国鉄)に出るエレベーターは、子供にとっては信じられないほど深く長いもので、最初は怖かった。その出口のところが最近少し変わった。聖橋際の日立本社跡に開発された「お茶の水ソラシティ」が4月に開業、地下鉄駅と直結した。エレベーターで昇って外へ出ると、ニコライ堂の偉容が目に入る。前庭にちょっと高くなっている部分があり、名前はないが「ニコライ堂展望台」という感じ。
 
 近づいて行くと、ビザンチン様式の美しい建物が様々に見えてくる。ここは公開していることは知ってたけど、時間が合わなくて今まで入ったことはなかった。1時から4時(10月~3月は3時半)に300円を払えば、見学できる。ただし、写真は撮れないので、ここに載せることはできない。案内とローソクをくれて、灯をともして静かに瞑想していれば、ここは東京でもとても心落ち着く空間だと言える。
  
 さっきから「ニコライ堂」と通称を書いているけど、本当の名前は「東京復活大聖堂」で、ニコライは幕末から明治時代に、日本に正教会を伝え、この聖堂を建てたロシアの司祭。重要文化財指定で、日本にある最も美しい宗教建築のひとつだろう。1891年に建造、関東大震災でドームが崩壊したが、6年の歳月をかけ復興したという。正教会に全世界を統括するローマ教皇にあたる人はいなくて、ここが「日本正教会」の本山となっている。だから教会に上にある聖画にも日本語が書かれている。
   
 とにかく写真映えするのでいっぱい撮ってしまったので、まあ載せておきたい。近くもいいけど、聖橋の向こう、湯島聖堂のあたりから駅越しに見るのもとてもいい。
   

 さて、もう一つの聖堂が、湯島聖堂史跡に指定されている。日本史の教科書に必ず出ている、徳川綱吉将軍が建てた日本の儒学の総本山と言える場所。ただし、関東大震災で焼失し、現在の建物は1935年に再建され、戦後に補修されたものである。それにしても、江戸時代以来の湯島聖堂が今も生きて活動し、儒学を講じているというのにはビックリである。漢文検定も行い、学力向上の鉛筆なんかも売っている。近くの神田明神などと協力して「イジメを考える」という講演も8月3日にある。ここは今も生きて活動しているのである。でも、僕はそのことは最近まで知らなかった。入ったこともなかった。駅からすぐそばだから、歴史ファンは必ず行くべき場所だ。
   
 聖橋の上から右下に見えてくる緑の場所がそれで、橋を渡ると階段がある。そこから入ると「入徳門」があり、これは震災で焼けずに創建当時(1704年)のものだそうだ。門をくぐり、正面に大成殿がある。一番大きい建物で、お寺の本堂という感じ。少し行くと、孔子像がある。
   
 そこから回って正面に出ると、聖堂を管理する斯文会の建物。購買もある。でもコンクリの建物で、全体として建造物の文化財としての美しさはニコライ堂に及ばないのが残念である。
  

 さて、両者を結ぶ「聖橋」。それ自体が震災復興で1927年に作られたアーチ型の美しい橋だ。駅からも見えるけど、あまり普段は意識しない。でも都市景観として、非常に素晴らしいものではないか。また鉄道ファンにはよく知られていると思うが、聖橋から見ると、地下鉄丸ノ内線、JR中央線、JR総武線の線路が3層になっている。なかなか三つが上下で電車がそろう瞬間に会うのは難しいと思うけど。でも、この景観はとても面白く、飽きない。情報を調べて行こうとも思わないけど、時々見たくなる東京風景である。2回目はお茶の水橋から明大付近。
     
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「無欲の人 熊谷守一物語」

2013年06月25日 23時40分38秒 | アート(演劇・落語等)
 劇団民藝の「無欲の人 熊谷守一物語」を見た。新宿の紀伊國屋サザンシアター。7月2日まで。

 熊谷守一(くまがい・もりかず)という画家については、池袋西口散歩を書いた時に取り上げた。池袋から地下鉄有楽町線で一駅、要町から少し住宅街のなかへ入ったところに熊谷守一美術館がある。ここは熊谷守一が晩年にずっと住んでいて、亡くなる前の30年は一歩も出なかったという場所にある。次女の画家・熊谷榧(かや)さんが館長を務め、今は豊島区立の施設になっている。

 戯曲を書いた相良敦子という人は、主にテレビで活躍してきた脚本家で、最近ではNHKの「ウェルかめ」「シングルマザーズ」などがある。初の戯曲だということだが、もともと池袋近くの出身で、美術館ができた時から知っていたらしい。しばらく離れていて、病気で仕事を休んでいた時に再訪し、新たな目で見られるようになったという。そこで取材を重ね、劇にしたわけである。

 劇の楽しみというのはいくつかあるが、作家の世界観の表現を味わったり、役者の演技のすごさを感じたりするということが大きい。でも、この劇は割と淡々とした評伝劇で、俳優も有名な人は出ていない。劇作家も役者も知名度が少ないが、モデルの画家は知られている。知らない人も多いだろうが、この劇の焦点はモデルとなった画家の生き方そのものにある。だから劇としては、奇をてらった展開とか設定はどこにもない。というか、画家として期待されながら一向に絵を描こうとしない若き日の熊谷自身が、相当珍しい人物像だということだろう。

 そんな熊谷を友人が支える。特に信時潔という作曲家が懸命に支えることになる。この人は、戦時中に学徒出陣のときなどに使われた「海ゆかば」の作曲家である。その他大きな業績を残した人らしいが、結局は「海ゆかば」の人として歴史に名前を残すことになった。音楽学校の教員だった信時はいつも収入がない熊谷を支えていた。戦後のことだが、熊谷の長男が信時の娘と結婚している。戦時中は信時がもてはやされるが、熊谷にも時局にあった絵の注文がくる。しかし、時勢に合わせることができない熊谷はそれを断ってしまう。

 40歳を超えて結婚した熊谷は、子どもを失う悲劇も経験する。その時の絵「ヤキバノカエリ」という絵がある。そして晩年は一歩も庭を出ず、虫を観察し虫の絵を描いた。絵は下手でいいと言い、人間よりも虫を愛し、時勢におもねらず、自分の人生を生きた人。子どもたちにも「モリ」と言わせて、文化勲章も断り、無欲の人として97年の生涯を生きた。エコロジーなどという言葉もない時代の人だが、自然の中で行き、決して偉くなろうとなどしなかった熊谷守一という人が、経済優先、グローバリズムが叫ばれる時代に何と新鮮なことか。だから、この劇は熊谷守一という画家を紹介していくだけのような劇なんだけど、とても面白い。モデルの面白さで見せる劇というものもあるわけである。
(熊谷守一美術館の壁)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「地獄門」という映画

2013年06月23日 00時51分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1953年に作られた衣笠貞之助監督の「地獄門」(大映)という映画。1954年のカンヌ映画祭グランプリ、1955年の米アカデミー賞で外国語映画賞、衣装デザイン賞(和田三造)を受賞した「名作」なんだけど、今ではあまり触れられることも少ないのではないか。大体、日本での評価はもともと低く、1953年のベストテンには入選していないどころか、誰ひとり投票すらしていない。この年は25作品に投票があり、その中には「東京物語」「雨月物語」「煙突の見える場所」「日本の悲劇」「ひめゆりの塔」など日本映画史に残る作品がずらりと並んでいる。(1位は今井正監督の「にごりえ」である。)それにしても、翌年カンヌに出したらグランプリになる映画が、一票も得ていないというのも面白い。

 この映画がグランプリに選ばれた理由は、まずはカラー映画の色彩にあったんだと思う。有名な画家和田三造(国立近代美術館に常設展示されている名作「南風」はどこかで見た人が多いだろう)が、衣装デザイン(京マチ子の衣装は実に素晴らしい)だけでなく色彩デザインも担当し、杉山公平のカラー撮影が美しい。平安時代末期の時代絵巻的な作品で、欧米の目にはエキゾチズム(異国趣味)と華やかなカラー映像が印象的だったに違いない。初めから永田雅一プロデュ―サーにより「海外に受ける企画」として作られたと言える。その思惑は見事に当たった。永田ひとりが推進した企画だったというが、「永田ラッパ」と呼ばれ、プロ野球や政治にも関わった有名人だった永田の感覚には確かに鋭いものがあった。

 で、この映画は昔見たんだけど、まあキレイはキレイにしても、年月の経過とともにカラーの褪色が進んでいたことは間違いない。が、2011年にデジタル・リマスター化され、何回か上映されたが、いつも見逃していた。22日にフィルムセンターの小劇場で上映されたので、今度は見ようと思い出かけたんだけど…。確かに素晴らしい衣装やセットを、甦ったカラーで堪能できる。でも、この話は何だろう、と思ったのである。昔はそれほど感じなかったんだけど、これほどひどいストーカー映画も珍しい

 原作は、菊地寛原作の「袈裟の良人」という作品だという。芥川にも「袈裟と盛遠」(けさともりとお)という作品があるが、少し筋が違うようだ。元々は「源平盛衰記」にある文覚(もんがく)上人の若き日のエピソードだというが、史実とはかなり違うようだ。もと北面の武士で俗名が遠藤盛遠は、19で出家。その後あちこちで事件を起こし、頼朝や後白河などと知り合い政界の裏で暗躍した人物である。平家物語でも何回も出てくるから、文覚の名に聞き覚えがある人も多いだろう。

 話は、平治の乱の際に、上西門院の身代わりとなって敵を引きつけた「袈裟」(京マチ子)を、警護に活躍した盛遠(長谷川一夫)が見そめる。袈裟には、夫渡辺渡(山形勲)がいたことを知るが、盛遠はあきらめずにひたすら思慕の念を募らせる。功を立て清盛に望みのほうびを聞かれると、袈裟を所望するほどだった。競馬で渡と競争になり勝ったが、祝宴の席で周りがはやすので真剣勝負を渡に挑んで不興をかう。だんだん狂気のようになり、袈裟の家に押しかけるが会ってくれない。袈裟は「叔母の家に行っている」と侍女に伝えさせるが、今度は叔母の家に押しかけ叔母を脅して袈裟を呼び寄せさせる。

 まあ、最後どうなるかは見てる人の大体の人が判ると思うんだけど、袈裟は受け入れたふりをして盛遠が夜来るのを待ち、夫を別の場所に寝させて自分が身代わりになって殺されるという筋である。そういう「歴史の中の悲劇」という風に作られ、初めに見た時(30年くらい前)は「昔の女には貞女がいた」物語としか思わなかったのである。武士がマッチョなのは話の前提で、盛遠がムチャをして迫っていっても違和感をあまり感じなかったわけである。それに話そのものも「歴史悲話」として語られていて、今さら個人の責任を追及しても仕方ない「運命の物語」だと受け止めたのである。

 でも、当時はこういう男をストーカーと呼ぶという言葉が発明されていなかった。今回見ると、典型的なストーカーで、本人が迷惑していると家族(親族)のもとに押し掛け、「女を呼べ」と無理強いしている。今起きている事件のかなりは、娘にもう付きまとわないでとかばう親や祖父母を、男が「お前らが妨害しているな」と疑念を募らせて襲うというケースである。本人だけでなく家族を巻き込むのが嫌な所である。袈裟にも、夫を殺して一緒になろうというので、悪質である。どうしても今の事件などを思い起こしてしまうので、この男は一体何なんだと思ってしまうのである。

 しかし、盛遠は日本映画界を代表する二枚目俳優の長谷川一夫である。夫の渡の方は、悪役を演じることが多かった山形勲である。時代劇やミステリー映画で、山形勲が出て来れば大体が、実は犯人だったとか、悪徳役人であるとか決まってる時が多い。この映画では善人役だが、どうもいつもと違う配役である。というか、長谷川一夫が主役なんだから、盛遠もそれほど悪い人物ではないと当時は思われていたのではないか。恋愛という運命に翻弄され、愛する者を自ら手に掛けてしまう悲劇のヒーロー。男の目で見ればそういう判断も出来なくはないけど、勝手に恋慕された側からすれば迷惑きわまりない。独身ならまだしも、夫持ちで本人には離縁の意思がないと判った点で、冷静さを取り戻さないと困る。などと画面はキレイに甦ったものの、こんなストーカー映画だったのかと思った次第。やはり「ストーカー」という言葉ができると、物事の認識が変わってくる。なお、英語題名が最初に出てきて「THE GATE TO HELL」だったかな。マカロニ・ウェスタンみたいな題になるのか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

民意を反映しない中選挙区制⑤

2013年06月22日 00時06分58秒 |  〃  (選挙)
 さて、この問題も最後。なんで日本で「中選挙区」という制度ができたのかという歴史である。日本の最初の選挙は、1890年、明治23年。それは制限選挙(25歳以上の男性で、かつ直接国税を15円以上納めているもの)だったけど、とにかく欧米以外で最初に行われた国政選挙だった。その時は、基本は小選挙区だけど、有権者の多い農村部で2人を選ぶ選挙区(2名連記)だった。有権者は裕福な地主が多い農村部の方が多かった時代である。軍人なども選挙権はなく、人口の1.1%しか投票できなかった。(また北海道と沖縄では選挙がなかった。)何で小選挙区が中心だったかと言っても、政党政治以前だから比例代表にはできない。政府に少し物申せる人民の代表を選ぶための仕組みだから、個人を選ぶという意識だろう。欧米にならって小選挙区を基本としたんだと思う。

 その後20世紀になると、大選挙区を基本に一部で小選挙区となる。それがしばらく続いて、原敬内閣の時代に完全な小選挙区となり2回行われた。ここまでが制限選挙。それが、1928年の第1回普通選挙の時から、いわゆる「中選挙区」になる。普通選挙(財産制限のない選挙)を求めた第2次護憲運動は、いわゆる「護憲3派」が主導した。憲政会(後の立憲民政党)、立憲政友会、革新倶楽部である。これらの各党が協力するために、小選挙区をやめてお互いが当選しやすい「中選挙区」を作ったと言われている。その後、政友会対民政党の、戦前の短い「二大政党制」時代があったわけである。だから、中選挙区というのは初めから妥協というか、政治家同士がお互いに落ちないように工夫した選挙だったのである。

 戦後になるとまた変わる。戦後第1回の1946年の選挙は、都道府県ごとの大選挙区だった。(東京、大阪など6都道府県は2つに分けた。)この時は2人、または3人に投票できる「連記投票」が採用されていて、初めて立候補できるようになった女性が39人も当選した理由である。一つの県で10人以上を、一人で2~3人に投票して選ぶという実に不思議な制度で、3人も名が書けるんだったら一人くらい女にするかというような人が多かったということだろう。それが新憲法が制定された1947年の総選挙からまた「中選挙区」に戻ってしまう。何で変えたのかよく判らないが、46年が不思議過ぎて、長年慣れた仕組みに戻したということではないか。それがしばらく続き、93年の「政治改革」で「小選挙区比例代表並立制」となり、1996年以来6回行われている。

 こういう風に、選挙制度もずいぶん変遷があるものなのだが、日本で一度も変わっていない点がある。それは「候補者名を有権者が書く」(自書式)という点である。世界的にはこっちの方が不思議で、日本では地方選挙の一部で「機械投票」が試行されたこともあるが定着しなかった。投票用紙や開票システムの改善が進んで、午後8時まで投票していても12時頃までには大勢が判明するようになったことも自書式が変わらない理由だろう。明治の初めから、有権者が字を書けるのは選挙の前提で、国内に多民族がいて公用語が通じないとか、字が読めない有権者が多いのでシンボルカラーでを選ぶとか、そういう必要はない。でも、同姓の候補は多いし(特に地方選挙の大選挙区の場合)、候補に○をするという生徒会選挙なんかでよくある方法も悪くないと思う。(愛媛県第3区は、09年に民主党白石洋一が当選し、自民党白石徹が落選した。12年には逆に白石徹が当選し、白石洋一が落選した。2回続けて白石対決である。○をした方が判りやすい。)ただし実際に○方式を採用すれば、最初に書いてある人に○をするとか、×を書いた人はどうするかとか、いろいろなケースも出てくるだろう。

 だから、候補の名前を有権者が書ける制度でないと選挙した気分にならないのではないか。衆参すべて政党名しか書けないという制度は、とても国民の支持がないと思う。もちろん完全な比例代表にすれば、一票の平等問題は解決するし、実質的な「首相公選制」になるはずである。でも、そのことのメリットがどれだけあるとしても、多分地元の先生の名前を書けなくなるというのでは国民の支持が得られないと思う。だから中選挙区制度へのノスタルジーがなくならない。しかし、そういうことを主張する人の多くの中には、意識するとぜざると、「党利党略」があるのではないか。かつて公明党が「定数3の中選挙区150を作る」という案を主張したことがある。これなら都市部で、自民、民主の次に3人目で公明が当選できる。他は自民か民主が2人当選するが、公明がキャスティングボードを握れる一方、共産党以下は当選できないという「スグレモノ」の発想である。もちろん公明党にとって。

 一見判りやすいように見えて、この制度は党利党略としか思えない。定数2の選挙区を200作れば定数削減になるし、同じ450議席でも、定数5の選挙区を90作ってもいいではないか。その場合は島根と鳥取など合県するところが出るだろうが。もちろん定数4の選挙区を100程度作ってもいいだろう。つまり選挙区の定数には理由がないのである。一票の平等を考え、つじつま合わせで数字をいじるだけである。今やっている都議選でも、東京の真ん中にある千代田区と中央区は定数が1人になっている。ずっと自民党の重鎮が当選を続けたが、前回両方とも民主党が当選した。(今回は千代田の民主議員は維新に移って他区で立候補している。)では都議選では基礎自治体ごとに選ぶのかと言えば、多摩地区なんかでは市が2つか3つ集まって一つの選挙区になってるところもある。多摩市と稲城市で構成する南多摩選挙区は、前回当選した民主と自民の議員が今回も出ている。もし、千代田区と中央区を合区して定数2の選挙区にすれば、前回も民主と自民が分け合っただろう。

 何が言いたいかというと、比例にするか、全部小選挙区にするかでないと、リクツが立たないのである。あるところでは定数が3人、あるところでは4人さらに5人、などという制度は、その地区の有権者にとって理由が判らない。党利党略を離れて、論理で考えてみれば誰でも判ることである。その上で個人の名前を書くという日本の歴史に根付いている制度を生かすにはどうすればいいのか。これはまたいずれ書きたいと思う。比例代表にすればいいという話でもない。ベターな改善はあっても、選挙にベストはない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

民意を反映しない中選挙区制④

2013年06月20日 23時05分03秒 |  〃  (選挙)
 前回までの話で、「中選挙区」制度は、有権者が当選者の決定に部分的にしか関与できないという原理的な問題があるということを書いた。それでも世の中には「中選挙区の方が良かった」という人がかなりいるようである。それは「中選挙区」という制度が、「疑似比例代表制度」とでも言うべき制度であり、また「人を選ぶ」という選挙制度だったからだと思う。

 定数が5人もあれば、大政党は2人以上を立てないと過半数を取れない。かつては自民党だけで5人全員を独占するような選挙区もあった。しかし、都市部では多党化が進行して、自民、社会の他に、公明、共産、民社というかつての主要な5政党が勢ぞろいして当選するような選挙区もあった。この結果は、「ほとんど比例代表制」である。しかし、地方では自民党の有力者が長く議席を当選し、社会党は複数立てても共倒れするので候補を絞らざるを得なかった。社会党、公明党、民社党で「非自民政権を目指す」などと言っていた時もあるが、この3党の全候補者がすべて当選したとしても、衆議院の過半数にはならなかった。選挙する前から、自民党政権の継続が約束されていた時代だったのである。そういう時代の選挙制度の方が良かったという人が僕には理解できない。

 しかし、この制度には「隠された意味」があった。それは社会党などの野党勢力が3分の1以上は当選できたということである。つまり、「絶対に過半数は取れない」が、「ほぼ確実に3分の1は取れる」という制度だったのである。日本全部で130程度の選挙区があったが、地方の選挙区でも役所や学校はあるわけだし、大工場なんかも少しはあるものである。そういう労働組合票が選挙区レベルでまとまれば、社会党の1人くらいは当選できることが多い。だから都市部で公明党や共産党が当選できるところも加えると、野党勢力が200程度は取れるわけである。(衆議院の総定数は一番多い時は512議席。)そのため「改憲を党是とする」自民党といえども、憲法改正を実現することの無理は判っていた。だから、憲法の条文はそのままに、解釈の方を変えていく「解釈改憲」を進めてきたわけである。そのことの是非は議論があると思うが、とにかく「中選挙区が明文改憲を阻止してきた」または「中選挙区が解釈改憲を促進してきた」という事実はあるわけである。

 もう一つ、中選挙区は同じ党の候補がぶつかるので「政党より候補者を選ぶ」という特性があった。これは国会が首相を指名するという制度の下では、考えてみればおかしなことである。が、見方を変えれば、有権者にとっても「選択メニューが多い方が面白い」という面があるのは間違いない。(例えば都議選の世田谷選挙区=定数8では、自民(3)、民主(2)、維新(2)、公明(2)、みんな、共産、社民に加え、地域政党の「生活者ネットワーク」の現職、「行革110番」の元職と14人もそろっている。1票しか投票できないのでは困ってしまうぐらいである。)

 かつての国政選挙では、有名な「群馬3区」(定数4人)があった。中選挙区になった1947年選挙で中曽根康弘が当選し、1952年に福田赳夫が当選した。この両者が自民党の有力議員に成長する中で、1963年に小渕恵三が当選した。社会党は一番勢力が強かった1950年代に2人当選した時代もあったが、後には山口鶴男しか当選できないようになった。驚くべきことに、1967年から1986年まで、8回もの衆議院選挙で、この4人のみが当選し続けた。福田(赳夫)と中曽根が首相になる中、小渕は「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲したが、その小渕も1998年に橋本龍太郎の後で首相を務めた。山口鶴男も土井たか子委員長時代に社会党書記長を務めた人物で、群馬3区は有力政治家を一番輩出した選挙区といえるだろう。ここまで有名人がそろうと、もう他の人が食い込めない。興味は順番争いだけとなる。トップ当選回数を比べれば、福田赳夫10回、中曽根5回、小渕1回、福田康夫1回、他1回である。 

 はっきり言って、選挙するまでもなく当選が約束されている政治家がいたのが「中選挙区」である。メンツにかけてトップ当選を目指すというのなら別だが、4人か5人の中に入ればいいんだったら大体当選できる。大臣を務めたような有力政治家には、なかなか「美味しい制度」だったのである。だから、まあ失言が少しあったって(時には汚職事件で逮捕起訴されたって)、自分の親の代から支持していたというような地盤を固めれば何とか最下位には滑り込める。小選挙区だと選挙区の全有権者を意識していないといけないが、中選挙区だと「自分を毎回支持してくれる固い支持者」だけを意識していればいい。その固い支持者が離れない限り、浮動票は逃げて行っても最下位当選が見えてくるわけである。

 2005年の「郵政解散」では「小泉チルドレン」なる自民党新人議員が誕生し、2009年には彼らはほとんど落選して民主党新人に代わり、2012年の総選挙でまたまた民主党議員が大勢落選し、自民党に替わった。これでは政治家としての経験が積めて行かない、政治家の幅が小さくなってしまう、昔の自民党にはもっと幅があったという人もいる、確かに昔の自民党には、極右というべき政治家からリベラルで知られる政治家までがいて、お互いに争いながら一党の中で切磋琢磨していたという面はある。でも、そういう政治家がいた理由が、「有力政治家は中選挙区ではほとんど落選しないので、有権者にこびるポピュリズムにならなかった」というのはどうだろう。毎回当選を約束され緊張感が足りなくなり、汚職やスキャンダルが絶えなかったという面も中選挙区にはあるはずだ。自民、民主、自民と3回続けて、比例区の下位の方で当選できると思っていなかったのに党の勢いが良くて当選できてしまった、というような議員が大量に出た。これは確かに問題だと思うけど、これは「小選挙区比例代表並立制」の問題というべきではないのか。

 選挙の歴史を振り返る余裕がなくなったので、この問題でもう一回書きたいが、日本では「候補者の名前を書く」という選挙が続いてきた。だから、日本の有権者は、多くの候補の中から候補者の名前を選ぶ選挙になれているし、議員その人を直接選ぶ権利があると思っている。党の名前とかシンボルカラーだけ選んで、誰が議員になれるかは政党におまかせ、という選挙には「NO!」というだろう。中選挙区の中のいい面を残し、中選挙区の弊害の面をなくし、同時に一票の格差をなくし、直接議員の名前を書く。こういう制度があれば一番いいのではないかと思うけど…。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

民意を反映しない中選挙区制③

2013年06月19日 23時07分11秒 |  〃  (選挙)
 「中選挙区」とカッコをつけていたが、はずすことにした。単にブログをパソコンで見るときに、数字だけ次の行になってしまうから。「中選挙区」の定義ははっきりしないので、本当はカッコがいると思う。かつての衆議院選挙は、基本的に3人、4人、5人を選んでいた。昔は参議院に「全国区」というのがあり、一挙に50人を選んでいた。全国を駆け回る必要があるので「残酷区」と呼ばれたりして、86年から「比例代表区」に変わった。それは確かにものすごい「大選挙区」だったから、それより少ない衆議院を「中選挙区」と呼ぶようになったのだと思う。でも都議選にある定数8は中選挙区か大選挙区か、誰にも答えようがないだろう。

 歴史的にどうして衆議院が「中選挙区」になったかは別に書くとして、原理的な話を先にすれば、「小選挙区」と「比例代表区」は、有権者の投票行動が議会の構成を直接決定する制度である。「比例代表」の場合、政党ごとの当選者数は有権者の投票割合通りに決まるわけだから、有権者の一票がそのまま生かされる。支持政党が少数の得票しかなくて誰も当選できなかったとしても、誰も恨むわけには行かない。だけど、当選者の顔ぶれは有権者の期待通りでない場合もある。(政党が事前に名簿を作り、その順番で当選が決まる場合など。)だから比例代表は、政党の当選割合を決めるにはいいけど、欠点もあるわけだ。

 一方、「小選挙区」の場合は、それぞれの選挙区で得票が一番だった人しか当選できない。その意味では確かに「死票」が多いわけだが、それを「死票」と呼ぶべきだろうか。どんな選挙制度にしても、少数政党の支持者はガッカリする結果になる。それでも比例、または「中選挙区」なら、第2党、第3党、第4党辺りまでは当選する可能性がある。小選挙区では一つの党しか当選しないわけだが、でもどの党が第1党になるかは、開票してみないと判らない。小党の支持者も選挙に行った結果として、得票がより少ない候補が落選するのであって、「死票」というより、「多数を生かすための票」とでも言うべきではないか。(もっとも今は「出口調査」などというものがあり、開票が始まった瞬間に当選確実が出たりするが。)それぞれの選挙区で一番の候補が当選するので、有権者はその候補の当選そのものには文句のつけようがない。だから、その結果として、有権者の一票が議会構成を決めるということも間違ない。(ただし、得票1位の候補が過半数に達しない場合は、1位と2位で決戦投票をすべきだという考えはある。フランスはそういう制度。)

 それに対して、「中選挙区」の場合だと、有権者の一票が決めるのは定数内で一人の候補が当選するかどうかしかない。3人区の場合、自分の支持した候補が当選したとしても、残りの2人には責任がない。定数3人の中で、有権者が決めるのは3分の1でしかない。僕が理論的な面で「中選挙区は民意を反映しない」と言ってるのは、この点なのである。

 映画でベストテン選びという行事があるが、評論家なんかが10本の映画を選び、1位に推す映画を10点、以下9点、8点…と数えて、10位の作品を1点として集計するというやり方が普通である。映画に完全に合理的な採点をすることはできないだろうが、このやり方で集計した結果が「参加した評論家が選んだ10本」を反映しているのは間違いない。一方、「思い出の映画3本」などという企画を雑誌が行う場合がある。それで上がってきた映画の数を単純に数えて、「思い出の映画ベストテン」などというなら数字的な信用性がない。(単なる「思い出企画」だから目くじらを立てるほどではないが。)もちろん今の場合、「思い出の映画ベスト3」ならいいのである。皆が3つまで選んでいるのなら、集計の信用性があるのは3位までである。評論家に一本の映画を選んでもらったら、「昨年のベスト映画」しか選べない。一本の映画を選んでもらい、その結果でベストテンを作ったら、間違いになってしまうではないか。

 この間違いが、つまり「中選挙区」なのである。3人を選ぶというのに、1人にしか投票できないだから、その結果は当然のこととして有権者の多数意思を反映していない。3人を選ぶんだったら、有権者は3票を投じる権利があるはずなのである。これが「理論的に見た場合の中選挙区制の最大の問題点」なのである。ただし、政治家一人一人が「政党ひとり」に所属しているものとみなすと、「中選挙区」でも「政党ひとり」を比例代表制で選んでいるのと同じ結果となる。事実、昔の有権者は自民党ではなく、「福田党」「中曽根党」「小渕党」などに投票しているような意識を持っていた。同じ党の候補どうしで、お互いに負けられないと競っていたのである。

 よく学校の生徒会選挙なんかで、会長は1人だから「小選挙区」だけど、副会長は2人なんて言うことがある。今はなかなか立候補が少ないから信任投票しかやらないことが多いかもしれないが、もし副会長に3人が立候補したらどうするか。3人の名前を印刷した投票用紙を配り、その中の2人に○をするようにという選挙をするのではないか。大人の団体の選挙、例えば労働組合の選挙なんかでも同じだろう。副委員長2人に、主流派から2人、反主流派から1人が立つ。有権者は2票入れられるから、結局主流派の候補者が執行部を独占してしまったりする。だから、「中選挙区」の方が「面白い選挙結果」が出ることはある。(前回見た参議院選の結果もそうだろう。与党が票割で失敗して、新党が当選するという「面白い結果」になっている。)しかし、それはそれとして「有権者の投票意思」を全議席に生かすためには、定数分の投票権がなければならないのである。なんで「中選挙区」という選挙制度ができたか、「中選挙区」の方が良かったという人は何をいいと言っているのかなどをもう一回。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

民意を反映しない中選挙区制②

2013年06月19日 00時41分17秒 |  〃  (選挙)
 「中選挙区」を考える話の続き。僕はこの話を主に国政の問題として書いている。原理的には地方自治体の選挙も同じだけど、じゃあ現在行われている都議会議員選挙には「中選挙区」があるから間違っているという主張はしない。何故かというと2つあって、一つは地方選挙では首長を住民が直接選ぶ「大統領型」になっているということがある。議会構成がどうなろうと、知事や市長は別に選ばれるんだから、強大な権力を持つ首長に対して、議会にはできるだけ多様な勢力がいる方がいいわけである。

 地方議会の選挙も比例代表制にすべきではないかというと、確かにリクツではそうなんだけど、特に町村議会なんかになれば「無所属議員」がとても多い。無所属議員にとっては、比例代表にする意味がない。都議選なんかは、各党が全力を挙げる「首都決戦」になっているが、それでも一人一党的な議員もいるものである。国政選挙が政党間の争いになるのは当然なので、選挙制度の話もそれを前提に書いているけど、もし全立候補者が無所属なんだったら、選挙制度をどうするかという議論は意味がなくなる。

 さて、では国会議員の一番大切な仕事は何だろうか。これをタテマエで答えると間違ってくる。リクツで言えば、国会は国権の最高機関で、三権分立の中の「立法」を担当するから、「法律をつくること」などという答えになる。でも現実には世界中で立法機関より行政機関の方が実質的権力を持っている。「サミット」なる主要国のリーダーが集まる場には、世界の行政のトップしか来ない。皆が知ってる世界のトップは、その国の行政機関の長の名前である。大体、日本人であっても、首相の名は知っていても、衆参両院議長、および最高裁長官の名前を言える人がどれだけ言えるだろうか。日本の行政機関の長、内閣総理大臣は国会が指名する。従って、国会議員選挙というものは、実質的に「首相選挙人」を選ぶ選挙である。国会議員選挙の方法が大切な理由はそこにある。国会議員の選び方は、国民が「どの党に投票したか」=「誰を総理大臣として支持するか」を正確に反映するものでなくてはならない

 では実際にどんな問題があるか。「中選挙区」がある一番最近の選挙である、2010年参院選を見てみる。この時は2009年衆院選で民主党が大勝したものの、普天間基地移設問題などで鳩山由紀夫首相が辞任し、菅直人内閣に替わった直後だった。菅首相の消費税発言などで民主党が敗北し、民主党が参議院の過半数を失い、「衆参のねじれ」が生じた。いろいろな問題もあったけど、地方の一人区(つまり小選挙区)で民主党が負けたことは確かである。だけど、千葉選挙区(定数3人)のような例はどう考えるべきだろうか。
 小西洋之(民主)  535,632 当選
 猪口邦子(自民)  513,772 当選
 水野賢一(みんな) 476,259 当選
 道あゆみ(民主)  463,648 落選
 椎名一保(自民)  395,746 落選
 小西候補の3万5千票を道候補の得票に加えれば、道候補は49万8千票となり、みんなの党水野候補を上回るではないか。自民党も2人立てたが合わせて90万票だから、完全に真っ二つになって2人とも45万票だったら共倒れしていた。千葉選挙区が3人でいいのかという問題もあるが、一応3人で比例代表で選べば、民主100万、自民90万、みんな47万なんだから、民主党が2人当選、自民党が1人当選というのが正しい民意というべきではないか。与党が1人、野党が2人、という結果は明らかに民主党の票が割れた失敗によるものである。(もっとも総野党を合計すれば、野党系2人当選も正しいと言えるが。)

 一方、東京選挙区(定数5人)を見てみる。
 蓮舫(民主)     1,710,734 当選
 竹谷とし子(公明)  806,862 当選
 中川雅治(自民)   711,171 当選
 小川敏夫(民主)   696,672 当選
 松田公太(みんな)  656,029 当選
 小池晃(共産)     552,187 落選
 東海由紀子(自民)  299,343 落選
 この場合の問題は、票割の失敗ではない。自民党は2人立てたが、合わせて100万だからまだ全然支持を回復していなかった。完全に真っ二つになっていたら共倒れしたのも千葉と同じ。問題は蓮舫に票が集中して、蓮舫票を二つに割っても85万以上だから、1位と2位である。つまり民主党は3人当選できる票を集めていたのである。蓮舫個人を支持したのだという人もだろうが、菅内閣の現職閣僚だったので蓮舫票は民主党内閣支持票と見なすしかない。(仮に蓮舫が比例で出ていたら、だいぶ民主党当選者を増やしたのではないか。)千葉も東京も、「みんなの党」が落ちて民主党が当選する方が正しいという話になったが、別に他意はない。単なる一例をあげただけ。こういう風に票が多すぎることによるゆがみも「中選挙区」では起こるという例である。これも東京選挙区を比例代表で選べば、民主が3人になったわけである。

 このような例は、昔の衆議院選挙ではいつも起こっていた。僕も含めて、皆そういうもんだと思っていたのである。選挙に強いとは、「票割がうまい」ということで、そういう選挙のプロがいる党が勝つのは当然だと思っていたわけである。自民党や社会党が共倒れしても、それは仕方ない、その候補者が悪いと思っていたのだけど、あらためて考えてみると、総理大臣を選ぶ時にこれでは困るのではないかと思うようになったのである。中選挙区ではこういうことが起こるという例を挙げた。これを理論的に考えうるとどうなるかという話を次会に。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

民意を反映しない中選挙区制①

2013年06月18日 00時56分01秒 |  〃  (選挙)
 国政選挙が近づくと、93年の「政治改革」は失敗だった、衆議院は前の「中選挙区制」に戻すべきだという議論が出てくる。中には「民意を反映しない小選挙区制度」をやめて、「民意を反映する中選挙区制」に戻すべきだという人がいる。これが実は大間違いで、小選挙区制は民意を反映するが、中選挙区制は民意を反映しない。もちろん比例代表制は「民意を一番正確に反映する」。だから比例代表制度一本にすべきだという議論なら判るが、中選挙区制に戻すというのでは、議論の筋道がおかしい。

 そのことが判っていない人が多いようなので、何回かかけて中選挙区制度の問題点を書いておきたい。なお、どういう選挙制度にしても、国民の支持率が高い党が1位となることは変わらない。当たり前である。どういう細工をしても、投票者が多い党が勝つという選挙の根本は変わらない。しかし、選挙制度によっては、第2党や第3党、あるいはそれ以下の少数党の議席は大きく変わってくる。そういう少数党は、いくら議会で頑張って演説しても、国会の投票ではすべて負ける。だから議会外の反対運動との連携を重視する必要がある。そして国民運動の盛り上がりを背景に、次回の選挙で多数をめざすわけだ。そういう少数政党もある程度は議会内にいた方がいいだろう。そうでないと、国会が活性化せず汚職やボス支配が横行しやすい。また少数党支持者は議会に期待できないので、議会政治そのものを破壊したくなってくる。

 さて、議論の筋道を最初に示しておくと、まず「民意を反映する」という意味の問題がある。だけど、それから書きだすとリクツっぽい話が多くなるので、たとえ話で議論していきたい。僕が言っている「民意の反映」とは、何よりも選挙の理論上の問題である。と同時に、国政選挙とは何かという問題も考えておかないといけない。現実に今も中選挙区がある参議院選挙で、どういう弊害が起こっているかも実例で示したい。またこの問題は何よりも「憲法改正」の問題と絡んで出てきている。そのことを無視して議論しても意味がない。「どうして中選挙区が民意を反映すると思われているか」という問題も、そのことと関わっている。そういう問題を順番に見て行きたい。一回で書くには長すぎるので、何回かかかると思う。

 さて、たとえ話。ある国で憲法改正を主張するA党(国民の支持率55%)憲法護持を主張するB党(国民の支持率45%)があるとする。この2党しかない。現実には同じ国といえども政党支持率の地域差があるわけだが、たとえだから「地域差は全くない」と仮定する。国会は定数100名の一院制。憲法改正は、国会が3分の2以上で発議し、国民投票の過半数で成立する。つまり今の日本と同じ仕組みとする。
 
 さて、小選挙区制だった場合、選挙ではA党がすべての選挙区で勝利し、100議席を獲得する。一方B党はゼロとなる比例代表制だった場合A党は55議席を獲得し、B党は45議席を獲得する。だからどっちの選挙制度でも、A党首が内閣を組織し、予算や法律はA党の主張が通るのである。しかし、憲法改正問題に関しては違ってくる。小選挙区だったら憲法改正を発議できるが、比例代表だったら発議できない。たとえの前提条件から、国民投票が行われれば憲法改正は成立するはずである。従って憲法改正がなるかどうかは、選挙制度にかかっている。

 この場合、小選挙区制ではB党の議席がゼロとなってしまうのは、あまりにヒドイではないかと思う人が多いだろう。何しろ国民の45%が支持しているのである。そのことを指して「民意を反映しない小選挙区制」というわけだろう。その場合、「45%の支持がある党は国会の45%の議席を占める権利がある」と思うんだったら、比例代表制にすべきだと主張する必要がある。いや、45%でなくてもいいけど、せめて35%程度が当選して欲しい、そうでないとおかしい、つまり「35議席あれば憲法改正は阻止できるから、まあいいや」というんだったら、現実的にはありうるだろうけれど、論理的には成り立たないわけである。

 このように「小選挙区は民意を反映しない」という意見は、各党の投票数と獲得議席数が離れすぎているのがおかしい、それが「民意を反映していない」という趣旨なんだと思う。しかし、各小選挙区ではどこでもA党の候補者が55%の得票をして当選したのであり、まさにその地域の国民の民意を反映してA党が議席を獲得するわけである。その結果、国会の全議席をA党が獲得するというのは確かに独占が過ぎると思うけれども、それぞれの選挙結果が民意を反映したものであるのは間違いない。つまり「民意の反映」の意味が違っている。選挙なんだから、多数票獲得者が当選するのは当たり前で、小選挙区制がいいかどうかは別にして、小選挙区当選者は誰にも文句を言われる筋がない、その選挙区の民意の結果の当選なのである。

 では「中選挙区制」だったらどうだろうか。かつての日本では3~5人を選んでいた。それが一票の格差の問題から、最終的には2人区、6人区も出来た。(なお、奄美地区だけ、米軍占領から日本復帰した後で、独自の1人区の奄美群島区となっていた。)だから、このたとえでは3~5を基本とし、3人区が10、4人区が10、5人区が6あるとする。合わせて100。さて、結果はどうなるだろうか。答えは「判らない」である。なぜなら、この制度では多数議席を取るために、両党とも各選挙区で複数の候補を立てるしかない。だから同じ党同士で票を奪い合うことになる。4人区では、支持率だけから考えると、両党とも2人が当選して分け合うはずである。しかし55%を3人で分けると、18.3%となる。B党が2人しか立てなかったら、自動的にA党から2人当選するはずで、最下位でもいいから当選できるかもしれないと考えて、地元の県議や市長などが新人として立候補するだろう。A党乱立を見てB党も3人目を立てるかもしれない。3人区、5人区も同じで、基本はA党の方が10%ほど支持が多いはずだが、それがどう割れるかで当選者がどうなるかはやってみないと判らない。つまり、中選挙区は票割の成功失敗という偶然により、選挙結果が左右される

 ただ、多分はっきり言えることがある。それはA党もB党も候補が乱立することにより、A党の当選者が7割にも8割にもなるとは考えられないということである。基本は55対45の割合を、3、4、5の定数に反映させた数が当選者のベースになるはずだ。つまり、中選挙区は偶然に支配されるけど、比例代表制に結果的には似てくる。都議選には8人区というすごい所があるけれど、これでは候補で選びようがなく、ある意味では党の支持率を反映する比例代表制に限りなく近いと言える。しかし、それなら比例代表制にしたらいいではないかと思うが、それではダメなんだろうか。(続いて、中選挙区制の実際の弊害、および中選挙区制が理論的に民意を反映しない理由などを。)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

清水宏監督の「みかへりの塔」

2013年06月15日 23時57分22秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターの清水宏監督特集で「みかへりの塔」を見る。30数年ぶり。1941年の松竹作品。泥沼の日中戦争が5年目に入り、年末にはついに対米英戦争になる年だが、驚くほど戦時色、軍事色がない。それは松竹の映画自体がそうだけど、清水宏もこの後は台湾や朝鮮で映画を作っている。この「みかヘリの塔」は、大阪府の修徳学院という児童福祉施設を描いた作品で、恵まれない子どもの姿をドキュメンタリー的に描くという清水宏の特徴を完成させた作品だと思う。1941年のキネ旬ベストテン第3位で、これは「風の中の子供」(1937)や「蜂の巣の子供達」の第4位を超え、清水作品の最高評価である。(なお、1位は「戸田家の兄妹」(小津安二郎)、2位は「馬」(山本嘉次郎)なので、この年のレベルは高かった。)

 映画の原作は、福祉施設の院長熊野隆治の手記を作家の豊島與志雄が読み物にしたもの。この施設は「非行」系の子供、盗癖やケンカなどで親が面倒を見られない子供などを預かり、勉強だけでなく、農作業や裁縫なども行い「教化」していくという施設である。子どもは10人程度の「家庭」で共同生活を送り、女性の「お母さん」が面倒をみる。男性職員は教育や作業を担当している。映画の冒頭で見学者を笠智衆の職員が案内して、施設の特徴を観客にも判るように説明していく。そこへある女子が入所することになり、三宅邦子がお母さんをしている「家庭」に預けられる。この女子は母親がいない裕福な家庭で育ち、親の財布からカネを盗んで外で遊んでいるような子ども。父親が面倒を見られないということで施設送りとなったが、今までは身の回りの面倒を女中がやっていたらしく、自分たちで料理したりする施設の方針になじめない。女学校にいたのに小学生と一緒に勉強できないと教室を抜け出し…。脱走を図ったりいろいろ起こるが…。

 ということで、戦時色はないけれど、「家族主義」的な枠組みはもちろんある。清水宏は戦後になって身体障害児施設をめぐる「しいのみ学園」や非行女性の更生施設を描く「何故彼女等はそうなったか」という映画を作っている。社会福祉の状況や考え方は、50年代ではほとんど戦前の状況と同じで、「みかへりの塔」と大きな違いは感じられない。70年代以降はまた違うが、この頃は「善導」が疑われず、「恵まれない子供を大変な思いをしながら教化させていく職員の苦労を描く」というのは同じである。それを今になって批判することもできるが、日中戦争のさなかに、これだけ子供が自然な演技をするドキュメンタリー的映画が作られたことは再評価されるべきだと思う。

 清水宏は作為を排したような演技をロケで撮る映画が多く、その特徴は子ども映画に向いていた。坪田譲治の映画化で評価され、戦後は実際に戦災孤児を自分で引き取り、自分で「蜂の巣の子供達」シリーズの映画を作った。戦前に作られた「有りがたうさん」「簪」なども再発見され、いわば「ヌーベルバーグ以前のヌーベルバーグ」とも言うべき、自由な作風が世界的に認められつつある。そういう清水の作品の中で、「みかへりの塔」は少し忘れられているのではないか。今回の上映で主要作品は3回上映があるが、「みかへりの塔」は2回しか上映がない。戦時中とはいえ、ベストテン3位という高評価を受けた割にはあまり顧みられない。もちろん時代的に施設の方針が古い、家族主義的で今では批判されるべきという考えもあるだろう。後半で自分たちで水路を引く様子が描かれるが、予算がないとはいえ子供たちに全部掘らせるというのもやり過ぎとも言える。でも映画的にはなかなか感動的で、清水作品の中でも傑作と言えるのではないかと思う。もう一回、7月18日木曜日の午後3時に上映があるが、多くの人が見られない時間帯なのが残念である。
コメント (3)
この記事をはてなブックマークに追加

「労働者」と「哲学」-「飛ぶボール」問題

2013年06月12日 21時34分41秒 | 日記
 プロ野球のボールが去年より飛びやすいボールになっていた問題。今年は飛ぶ、飛ぶと言われていたが、連盟はずっと変わらないと言っていた。それが実はやはりミズノに調整を指示して反発係数が強くなるようにしていたという。まあ、いろいろな経緯が今後どんどん明らかになると思うが、かなり重大な問題を感じた。球がどうだという問題は、それ自体はどっちでもいい問題だけど、だからこそそこに「日本という社会」が現われる。

 プロ野球選手会の嶋会長(楽天)の言葉が載っている。「ボールが飛ばなかったシーズンを基準に出来高契約をしている選手もいる。労働条件が変わってしまっている。」選手会というのは労働組合だけど、確かに労働条件が途中で違ってしまった、しかもそれが隠蔽されていたというのはおどろきだろう。ここにあるのは、「現場を無視する」=「実際に働いているものへの配慮をしない」ということである。日本中のほとんどの職場と同じように

 朝日新聞にスポーツライターの玉木正之氏の言葉が載っている。「(前略)隠してやるのは最低だ。日本のプロ野球を誰が、どんな方向に持っていきたいかという哲学が全く見えない。」ここでもう一つの日本の現実が現われる。すなわち、彼ら、つまり日本の「エライ人々」は、「哲学がない」のである。「哲学」なんて言われても、そんな難しいことは答えられないというのではないか。むしろ「哲学」なんて持って働いていたら出世しなかった。言われた通り考えずに働けばいいのだとやってきた結果、今の地位に付けた人たちばかりなのである。

 ミズノもおかしい。変えたんなら変えたと言えばいい。頼まれたら秘密にするのか。別に犯罪を秘匿するわけではなし、確かに少し変えましたと言えばいいではないか。まあ、これが日本という社会なのである。プロ野球のボールをどうするという小さな問題の中に、日本社会が露呈している。つまり「労働者への配慮」と「哲学」が日本のリーダーには欠けている。いや、まあもちろん知ってましたけどね。「働いているもの」は自分より下で、いちいち説明する必要はない。哲学なんて小難しいことを考えているようでは仕事ができない。加藤というコミッショナーは、プロ野球をやってる時間中に記者会見して、自分も昨日まで知らなかった、不祥事とは思ってないから辞める意思はないと述べた。村上春樹、じゃなかった上村春樹って人と同じですね。こういう人たちがいなくならないと、教育をいくらいじっても、誰もマジメに日本の将来を支えようとはしないだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

投票率で定数を変えたら?-選挙制度論議⑤

2013年06月11日 22時55分56秒 |  〃  (選挙)
 「一票の格差」を問題にする場合、何を基準にして不平等と言うのか?普通は「小選挙区の有権者数」が違うという問題だろう。最大は千葉県第4区で、野田前首相の選挙区。49万5212人。一方、最少は高知県第3区。20万3712人。片方は50万近くで1人。もう一方は20万で1人だから、これはどう見ても不公平だろう。ところで、他にも子どもなどを入れた全人口で比べるという考えもあるし、当日の投票率で比べるべきだという考え方もある。実際に選挙に行ってる人の数で比べるのが一番公平だというのである。

 都市部では政治に無関心な人も多いが、地方では投票率も高い。それなのに、都市部の議員定数を増やせば、実際に選挙に行った人の考えが反映されないのではないか、というのである。だから(小選挙区だったら仕方ないんだけど)、ブロック別(あるいは県別)の比例代表制度の場合は、当日の投票者数で当選者の定数を決めればいいという考えになる。つまり、今の日本では、衆議院の比例代表区は総数180人で、有権者数に基づき事前に各ブロックの定数が決まっている。それを当日の投票者により、選挙をした後で各ブロックへの配分数を決めるというのである。実際にドイツではそういう制度があるらしい。僕が読んだ中では、小林良彰「政権交代」(中公新書)が、独自の方法でそのやり方を提唱している。

 これはちょっと聞くともっともらしいが、データを調べてみると必ずしも正しくない。選挙区はすべてそれぞれの事情があるが、千葉県第4区は投票率が59%ほどだった。全国の投票率と大体同じである。野田首相(当時)に、自民党候補と「日本未来の党」(当時)から三宅雪子議員(当時)と共産党がたった。何しろ首相の選挙区であり、注目も高かった。結果は野田氏が16万3千票余りで圧勝している。一方、高知県第3区は、小選挙区に移行以来全6回すべてを自民党の山本有二元金融相が勝ち続けている。あまりに強いので、昨年は民主党も立てなかった。2009年はさすがに民主党がかなり善戦しているが。昨年は共産党以外の各党は立候補せず、これでは(結果が見えているので)投票率も上がらない。結局55%で、千葉4区より低い。だけど、有権者に選択肢が少ないという事情を考えるべきだろう。実際に比例代表区の方では投票率が59.4%で、全国並みである。小選挙区では8千票以上の無効票があったのである。

 2番目の選挙区を念のために見てみる。有権者数が2番目に多い選挙区は、神奈川県第10区で城島前財務相が落選したところ。自民の他、みんな、維新、共産が立ち、自民党の田中和穂が勝った。投票率は58.5%。少ない方の2番目は長崎県第3区で、自民谷川弥一が返り咲き、民主を離党した山田正彦元農水相が落選した。投票率は65.5%で、これはかなり高かったと言える。自民、未来、共産しかいないので、やはり地方の投票率が高いということになるだろう。長崎市だけの第1区は56%程度なのを見ても。

 しかし、こうして見てくると、小選挙区の「一票の格差」も確かに問題ではあるが、それ以上に「選択肢の少なさ」という問題が地方ではあるということだ。新しい政党ができるとき、民主党もそうだったわけだが、まず都市部で票を伸ばしていった。地方では自民党議員の強固な地盤があり、立候補すらできない場合も多かった。(ほぼすべてで立てる)共産党と(自民党と連立している)公明党は別として、他の党はまず人口の多い都市部で立候補することが多い。もともと「維新」は大阪、「みんな」は神奈川など都市部で強い。この問題を解決するためには比例代表制度一本に変えるというのも有力な案だろう。実際、「一票の格差」以上に皆が関心があるのは、自分の選挙区では自民、民主、共産以外にどの党が立つのかということではないか。比例代表区では大体すべての党がそろっているから、自分が一番支持したい政党に投票できる。

 では、その場合「投票後に定数を配分する」というやり方はどうだろう。僕はその考え方には、どうしても反対しなければいけないとも思わないが、どちらかというと反対である。選挙というのは、(今までに書いてきているように)「全国民の代表」を選ぶものである。ところで、選挙に行かない、行けない人も国民であり、当選して議員になった人はそういう人のことも考えていく必要がある。投票した人が多いと定数も増えるという制度では、「議員は投票した人の代表」になり、今以上に「支持基盤の方だけ見る」意識を強めてしまうのではないか。そんなこと言っても、選挙に行かない人が悪いというかもしれない。でも「選挙に行けない」という人がいる。大きく分けて、「未成年」と「病気や障害を持つ人」である。そこに「裁判で有罪が決定して選挙権を停止されている人」も加えてもいいだろう。特に、「未来の有権者」である子ども世代の声をもっと政治に反映させるためにも、本来は「子供も含めた全人口で、一票の格差を比べる」ということがいいんではないかと思う。

 ちょっと面倒な議論を書いた。選挙制度に関心がある人ではないと関心がないかと思う。そういう考えもあるということの紹介も含めて、いろいろ書いてきた。あと一回、いわゆる「中選挙区」の問題点をかいておきたい。今でも「中選挙区幻想」が強いので、是非書いておかなくてはいけない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

有権者登録制度はいるか-選挙制度論議④

2013年06月10日 00時20分11秒 |  〃  (選挙)
 東京都小平市で、都の道路計画の見直しを求める住民投票があったが(5月26日)、投票率が50%に届かなかったので不成立となった。東京初の住民投票だったわけだが、投票率は35.17%だった。なお、今年の4月7日に行われた市長選挙の投票率は37.28%。過去の選挙を調べると、国政選挙や党一地方選はもう少し高いようだが、前々回の市長選挙も39.30%だった。都市部で、地方自治体の選挙が盛り上がらないのはある意味で仕方ない。住民の「住民意識」が少ないんだから。

 原発や産廃処理場、あるいは市町村の合併などで地方の町で住民投票が行われたことが何度かある。中には成立要件に投票率50%があり不成立となった住民投票もあった。しかし、日本最初の住民投票条例を作って行われた住民投票である、新潟県巻町(現新潟市)の巻原発をめぐる住民投票(1996年8月)では、投票率は89%だった。(反対が61%。後に原発計画は断念。)ホントに住民皆が自分のふるさと意識があれば、このくらいは行くのである。そこでは「先祖代々住む町」であるのに対し、都市部では「たまたまマンションやアパートがあった」から住んでいる人も多い。どこの会社に入社できたかの方が大事で、丸の内の会社なら東京の東の方が近く、新宿の会社なら小田急、京王、西武新宿線なんかの沿線が近い。たまたま住んだだけで、そのうち一軒家を買うか、都心のマンションを買うか。国民意識はあるから国政選挙は行く、だけど市区長選は関心がない。それでも市長、区長の名前ぐらいはは知ってるかもしれないが、市区議会選になるとホントに誰も知らないので入れようがない。そういう人も結構いるだろう。

 この問題は結構根が深いように思う。住民意識が薄い人が投票を放棄しても責められない。同じように国政選挙だって、国民意識が薄いというか、社会に関心がない人も結構多い。そういう人にまで投票を義務付けて、無理やり投票させても仕方ないと思う。だけど投票率が半分にもいかない選挙でいいんだろうか。行かない人の分も、投票券を送るし投票用紙を用意する。早い話、投票したくない、投票してくれない人は、もう投票券を送らなくてもいいのではないか。これは「暴論」だし、いつ気が変わって投票するか判らない。だから無理なんだけど、今のように20歳を過ぎたら自動的に投票の案内が送られてくるというので良いのか。

 アメリカみたいに、まず有権者登録が必要だということになったら、今の日本で何人が登録するのだろうか?でも「マイ・ナンバー」制度も作るということだし、インターネットでも登録可ということにすれば、いずれはできないこともないだろう。そして登録の時に、特にチェックしなければ全部の選挙に行けるけど、都道府県選挙、市区町村選挙は行かなくてもいいと希望できるようにする。そうすれば、行く気がある人だけで選挙するわけだから、投票率の考え方も違ってくる。それで住民投票をやって、50%にいかないんだったら、これは確かに不成立でも仕方ない。

 僕は、住民意識の薄い人、まあ「新住民」と呼ばれたりすることもあると思うが、最近になって移ってきた住民を地方選挙から排除したいと言っているわけではない。今現に住んでいる場所にアイデンティティがない人でも、他の場所なら関心を持っているという人もいるだろう。福島県「浜通り」出身で生まれ故郷は原発事故で全員避難中、東京の大学に入り学生時代は大学の近くの児童施設でボランティア、就職して近くに通勤して残業が多く寝る時間以外のほとんどを新宿で過ごす(よって、ポスター掲示板を見たり選挙運動を聞いたりして、新宿区の方が身近な感じ)、新宿に通勤するために便利な場所にアパートを借りて住んでいる。こういう場合、自分の帰属意識は福島、大学町、新宿区、住んでいる町の順ではないだろうか。こういう人でも、結婚して子供が出来たり、親が老齢になって東京に出てきて同居したりすれば、つまり医療、福祉、教育などが自分の問題になったら、住んでいる町に住民意識が出てくるはずである。

 この人の場合、本当は福島の故郷がどうなってしまうかが一番気になっているとする。では「ふるさと納税制度」があるんだから、登録すれば「ふるさと投票」ができる制度があれば、登録する人がいるだろうか。インターネットで投票できる制度があれば、あるいは郵便投票でもいいけれど、そういう制度自体は可能だろう。在外日本人が投票できる制度(国政だけだが)がある以上、できないはずはない。「一票の価値」の問題も、この都市部の住民意識の問題を考えに入れると、新しい見方もできるのではないか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「選挙」と「株主総会」-選挙制度論議③

2013年06月09日 01時42分34秒 |  〃  (選挙)
 選挙の話を書いてて途中で終わってる。旅行なども入って、ひと月くらいたってしまい、都議選参院選が目の前になりつつある。都議選は情勢がよく判らないのであまり書く気はない。(地元以外の都議は知らないし、当選定数が選挙区によりバラバラ過ぎて予測不能。世田谷や大田は定数が8人もいて、自民は3人立てるし、各党がそろって立つ。どういう風に票が出るか、特に絶対投票率が下がるので、判らない。前回は54%、前々回は44%。今回は5割は行かないように思う。)

 このように「選挙区ごとで選ぶ議員定数が異なる」というのは、1993年まで行われていた「中選挙区」と間違って言われる「大選挙区制」では普通のことだった。当時はそれが当たり前だと思わせられていたのだが、本来はそれはおかしなことである。でもそれは国政選挙の場合であり、地方自治体ではやむを得ないのかなと思う。8人も当選して、国政政党の多くが立てる選挙区では、地方選挙というより国政政党の人気バロメーターを測る選挙になってしまう。東京都議選は、そういう「国政選挙を測る比例代表制」みたいな選挙なのである。この問題はまた次回以後に詳しく書くとして、今回は「選挙とは何か」を考えておきたい。

 「選挙の条件」と言えるものがあり、高校の教科書なんかには載ってるはずである。まず日本に関係ないものから書くと、日本の選挙は「義務選挙」ではない。世界には選挙に行くのが義務で、行かないと罰金という国もあるのである。いや、ビックリ。独裁国家かなんかの話ではない。オーストラリアやベルギーが有名で、罰金も厳重らしいけど、病気の場合などどうするのか。具体的な運用はよく判らない。また「直接投票」か「間接投票」かという問題もあるけど、日本では間接投票は「内閣総理大臣」などはそうだけど、議会の議員にはない。アメリカの大統領選は世界で最も有名な間接選挙だろう。日本では直接選挙が当たり前すぎて、間接選挙が憲法違反かどうかは判断する事例がない。例えば、参議院は100名を比例代表選挙で選び、その100名が各界の有力者を例えば100人選ぶという制度にしてもいいのではと僕は個人的には思ったりもする。

 日本の関係がある「選挙の条件」は、「普通選挙」「秘密選挙」「平等選挙」である。「秘密選挙」は当たり前すぎるだろう。学校で学級委員の選挙かなんかで、自分の名前も書かせたりしたら、それは選挙ではない。「だれがだれに投票するか」の調査になってしまう。「平等選挙」は、今問題になっている「一票の格差」に直接関係する問題である。だがそれだけではない。住民ごとに選挙するのは問題ないし、国政選挙は国民に投票権を限るのも問題ない。(一方、地方選挙で定住外国人に全く参政権を認めていないのは、主要国では日本だけで、これは問題。)だけど、女性議員を多くするべきだという考えのもと、比例代表区を初めから男性選挙区、女性選挙区に分けたりしたら、これは違憲の可能性が高いのではないだろうか。各政党が女性候補を多数立候補させるのは問題ないけれど。(あるいは「拘束名簿型比例代表制」で、ある党では性別を半々にしたりするのは問題ない。)
 
 さて、問題は「普通選挙」。「普通」とは何だろうというと、歴史的に「財産に関係なく、全員に参政権があること」である。投票権だけあっても、立候補権(被選挙権)がなくてはダメである。歴史的は日本も含め大体の国では、「財産のある男性」から選挙権が認められ、財産制限のない男性普通選挙が先に実現し、その後で女性選挙権が実現する。性別制限解禁の方があとになるのは、歴史的段階として「財産のある女性にも選挙権を認める」というルールを作っても意味がない社会だったからだろう。家父長制度のもと、女性の財産権そのものが制限されていた。夫が死んで妻が戸主となり多額の税金を払っているというような家族はほとんど考えられないということだろう。(夫が死んで残った家族が貧困に落ちたということは一杯あるだろうけど。また女性が賃金労働者や芸術家などで自活していたということも最初は少ない。)

 日本では、普通選挙の実現まで、長い長い要求運動があった。その結果、明治時代より何回か段階的に財産の額(直接国税の納税額)が引き下げられた。完全に無くなったのは、1924年の第2次護憲運動を受けた、1925年の加藤高明内閣による選挙法改正である。もっともこの時に、普通選挙で左翼運動が盛んになることを恐れて、治安維持法も出来ている。1928年に最初の普通選挙。ここでは無産政党(社会主義政党)が数名当選した。しかし、ほとんどは当時の2大政党、政友会と民政党の当選者である。投票率は80%程度。女性選挙権は取り残され、市川房枝を中心とした「婦選獲得同盟」が強力な運動をすすめ、満州事変以前には衆議院を通過したことまである。しかし実現したのは。敗戦後の1945年12月の選挙法改正。第1回は1946年4月で、女性の投票率は66%で男性より10%ほど低かった。この時は39人の女性議員が当選し、その時より女性が多いのは2005年と2009年の2回しかない。

 ところで、世の中では「財産のあるものの投票権の方が多い」という決め方も存在する。個人加盟の組織では、投票方法は違っても一人一票であるのが原則である。でも法人である株式会社の株主総会では、「一株一票性」であり、財産のあるものが多くの株を持ち、半数以上の株を持っていれば経営権を握れることになる。株を上場している会社だけでなく、もちろん未公開の会社でも同じ。だから、「AKB総選挙」と言ってるものは、実は選挙ではなく、株主総会である。一人一票ではないのだから。初めから「AKB株主総会」と命名して、ファン同士で株を売買できる仕組みを取り入れていたら、どうだったろうか。その方が面白いような気がするけど。

 大相撲の親方株なんかもある程度似ている。歴史的に形成されている一門ごとに、所属する親方が誰に入れるか決まっている。一応、財団法人として理事選挙を行い、立候補して親方が一人一票で投票する。仕組みは近代的なんだけど、実は前から結果は決まってる。時に反逆する動きが出ることもあるが、選挙ではなくて株主総会に近いというべきだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「在日外国人」と「百年の手紙」

2013年06月05日 23時32分43秒 | 〃 (さまざまな本)
 若い人に読んで欲しい2冊の本。どちらも岩波新書。田中宏「在日外国人 第3版」(820円)と(かけはし)久美子「百年の手紙ー日本人が遺したことば」(800円)。どちらも、このくらいは知っておいて欲しいなあという日本の過去を伝える本である。

 5月に出たばかりの「在日外国人」は、もともとこの分野の第一人者による判りやすい解説書として定評がある本で、多分最初の版も、第2版も読んだような気がする。著者は60年代末期、アジアからの留学生が抱える問題を知り奔走する中で、日本の過去の外国人政策を調べていく。特に在日朝鮮人に対する一貫して排他的な政策の数々、「帝国臣民」から一夜にして「外国人」とされ、戦争補償や年金から排除された経過が追及されていく。そして指紋押捺や就職差別に立ち上がる人々。やがて70年代後半にインドシナ難民が押し寄せる事態が起き、日本も難民条約に加盟する。そのことにより法令がかなり変わる。また女子差別撤廃条約にも加盟し、父だけでなく母が日本人の子も日本国籍を得られるようになる。その後、外国人労働者を表立って受け入れるのではなく、「日系人」のみ受け入れるという政策を取ったっためにブラジルやペルーから大量の日系外国人が流入する。というのが大体の20世紀の流れだが、その後の展開が加わっている。

 今や「外国人登録」というものがなくなり、2012年7月から外国人も住民基本台帳法が適用になった。2007年の統計から、日本で一番多い外国人(外国人登録者数)は中国人となっている。(台湾、香港も含まれる。)過去の経緯から、韓国・朝鮮人が一番多いと思っている人が今もいると思うけど、それは今では違っている。ちなみに中国が67万人、韓国・朝鮮が54万で、次にブラジル21万、フィリピン20万と続いている。リーマンショック以後、日系ブラジル人はかなり帰ったけど、それでもこれだけ多い。そんな新情勢を受けて解説を加えると同時に、高校授業料無償化から朝鮮学校が排除された問題、在日外国人への地方参政権問題なども解説されている。この程度は知ってから、いろいろな議論を始めて欲しいという外国人問題の入門書。知らない人にはきっとビックリする話がいっぱいあると思う。これが日本国家というものなのか。まあ、多分他の国も同じ、他の問題も同じ。「国家」を理解するための必須の本。また「隣人」が見えない人にこそ是非。

 「百年の手紙」は、まさにその名の通りの本だが、多くは見開き2頁に簡潔に叙述されているので、忙しい時も少しづつ読めるし、関心があるところから読んでもいい。著者の目配りはとても広く、知らなかった話が多い。人物自体は近代史、近代文学史の中では有名な人も多いが、手紙に表されている私生活のエピソードなどは知らないことが多かった。例えば、原敬や寺田寅彦など。しかし、一番の読みどころは、知られざる人物がつづる戦争中の手紙の数々である。深い悲しみが伝わってくる。このような手紙は是非若いうちに触れておいて欲しい。また「愛する者へ」と題した恋人や家族にあてた手紙の数々。これらを読むと、日本人に関するイメージも変わるのではないか。

 東京新聞に連載されていて折々に読んでいたが、2011年に書かれたので、最初に原発事故を受け、足尾鉱毒事件の田中正造による直訴文が置かれている。幸徳秋水、伊藤野枝、小林多喜二、宮本百合子と宮本顕治の手紙などが最初に出てくる。2006年に見つかった、獄中の菅野すが子(大逆事件で死刑)から朝日新聞の杉村楚人冠にあてた「針の手紙」(紙に針で穴をあけて書いた)も紹介されている。幸徳秋水は無実で弁護士を頼むという心の叫びである。日本近代史上、もっとも悲痛な手紙の一つだろう。(写真を是非見て欲しい。)続いて「かれらが見た日本」では、久保山愛吉、坂口新八郎、小原保、由比忠之進などの遺書が紹介される。知らない人も多いと思うけど、久保山はビキニ環礁でアメリカの水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の機関長(9月に死去)。坂口は68年の北海道美唄炭鉱のガス爆発事故犠牲者で僕も知らなかった。小原は吉展ちゃん誘拐殺人事件で死刑判決を受けた死刑囚。由比はエスペランティストでアメリカの北ベトナム爆撃を支持する佐藤首相に抗議して首相官邸前で焼身自殺した人。その最後がいじめ事件で自殺した大河内清輝君の遺書で、こうした様々な日本人の遺した言葉を伝えていく大切さを心から実感する。

 辺見じゅん「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」は読んだけど、そこに紹介された言葉は忘れていた。ソ連による不法なシベリア抑留で数万人がシベリアやモンゴルで亡くなったが、抑留9年目で死んだ山本幡男の遺書は、文書で持ち帰るのが禁止されていたので、仲間たちが分担して「記憶して持ち帰る」ことになった。そして帰国できた仲間たちが家族のもとへ伝えて今に残るのである。その話もすごいけれど、そういうことが可能になった山本という人の素晴らしさも感じる。まさに戦争は善き人の運命から奪っていくのだろうか。子どもあてた遺書にある言葉。「若者はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗(へんぱ)で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を歩んで呉れ。最後に勝つものは、同義であり、誠であり、まごころである。
 こういうことを今伝えていける人がどれだけいるだろうか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加