尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

教員免許更新制のあれこれ-日々のあれこれ④

2015年03月31日 23時40分00秒 |  〃 (教員免許更新制)
 カテゴリーを「教員免許更新制」に変えて、「日々のあれこれ」の続き。教員免許更新制の細かい制度設計のおかしな問題は、前に何度も書いているので繰り返さない。そもそもブログの名前を「教員免許更新制反対日記」としているわけだけど、これもそろそろ変え時かもしれない。本来、定年前に辞めてもいいと思い続けたので、もう自分で「早く辞めた」という意識が薄れる年齢に入ってきてしまった。そして、はっきり言ってしまえば、安倍長期政権により「教員免許更新制」の撤廃、あるいは「改善」さえも実現不可能になってしまったという認識もある。

 本来、教員免許更新制は憲法違反であるという裁判をやってみたいと思っていた。韓国やタイのような憲法裁判所がない日本では、個々の法規や政令などに対する違憲訴訟は非常に厳しい。国権の最高機関である国会の裁量範囲であるという判断が下るのはほぼ確実だろう。だから、ほとんど敗訴するという前提でやるしかないわけである。つまり、「運動としてやる」ということになる。「もし、3・11がなかったら」と言っても仕方ないんだけど、辞める決断をしたときは「3・11」のちょうど前だった。2011年という年は、新たに裁判を起こすには非常に不利な状況だった。それに遺産で持ってた東電株が暴落して、裁判費用どころか、予定していた生活費のもくろみが崩れてしまった。後で思うと、大震災の週明けにすぐ売ってしまえば良かったんだけど、とてもそういう判断ができる状況ではなかったのである。こうなったら持ったまま株主総会に行こうかと思って、出かけて行った記録はこのブログに残してある。

 僕が思うに、どうせ教育行政は「現場教員なんか、上の言うとおりにやってればいいドレイだ」と思ってるんだろうから、教員免許更新制なるものを導入するのであるなら、従前の政策を貫徹して欲しかった。僕だって、すべてに逆らっては生きていけないから、多くの教員と同様にやむを得ずいろいろと妥協して、自分をだましながら働いてきたわけである。だから、校長から免許更新に行けという研修命令が下っていれば、仕方ないからと思って更新していたのではないか。ところが、この制度は「免許は私的な資格である」と称して、自分で大学等の講座を探して自費で申し込めという制度設計になっている。このように、今までの保守政治は「教員ドレイ化」を進めてきたが、21世紀になるとそれでは済まなくなったのである。公的なるものを解体しつくして、「私人」として改めて「忠誠」をつくさせるのである。第一次安倍政権に作られた教員免許更新制に、そのような「新自由主義」と「国家主義」の混成、言ってみれば「21世紀のファシズム」的な発想の芽生えが見て取れるのではないか。

 この問題を教育関係者以外の人に語ると、「教員組合の力で何とかならないのか」という人が、(市民運動圏の人の多くには)けっこういたのにビックリした。教員組合が何とかできると思っているのである。勤評闘争がどうとか、大昔の話を語る人もいる。教員組合の組織率は右派系組織を含めても3割台なんだから、今でもある程度組織率が高いところがあることを考えると、大都市の中学などでは組合活動家はほぼ「絶滅危惧種」なのではないだろうか。闘うどころか、組織維持も危うい。学校という職場は、多忙すぎるうえ、生徒や保護者のプライバシーに触れる可能性があるから、教師のほとんどは職場の実態を声をあげて外へ知らせない。それに、日本全体で労働環境が急激に悪化してきた中で、ただクビにならない、問題さえ起こさなければ定年までは勤められそうだという、たったそれだけのことで「恵まれている」と思われてしまう。保護者や生徒の中には、あからさまにそう言ってくる者までいる。「教員バッシング」が自分に向わないように、首をすくめて耐え忍んでいるのが教師の実態だろう。
 
 僕にとっては、管理職や主幹教諭には「免許更新の義務がない」ということが、今でも一番残る大きな問題点になっている。なんで自分が更新講習を受ける気にならなかったかと言えば、まあ民主党政権の対応に一定の期待をかけたこともあるが(政権公約に触れられていた)、一番大きいのは「免除規定」が許せなかったということだろう。裁判するとしたら、まずこの点を「14条」(法の下の平等)違反として挙げることになるだろうと思ってきた。「管理職や主幹にならないために」、どのくらい不毛なエネルギーを使って来たかを思い返せば、自分の人生の否定に見えてしまったのである。いや、学校事情もあれば、個人の思いをあるだろうから、中には管理職を目指す人もいていい。校長という職そのものを否定するわけではない。だけど、現在の東京を見れば、管理職に「思想・言論の自由」はない。思うような学校運営ができないのに管理職を目指す人が何故いるのか、僕にはよく判らない。その辺りになると、生き方の違いというしかないんだろうと思う。

 僕だって、先にも書いたように、自分の好きなようにだけは生きて来られない。本来は「主任制度」(主任教諭制度に非ず)に反対だったわけだが、校内の分掌主任あるいは学年主任は引き受けた。やらなくてもいい時までやろうとは思わないけど、自分がやった方が早い時は引き受けたのである。でも、それは単年度の仕事であり、手当が付くとはいえ、要するに「手当」である。管理職や主幹になると、手当ではなく「職階の違い」になってくる。これは僕の教育観、学校観からは、全く受け入れられない。だから、正直に言うと、長いこと教員をやってきて淋しい思いをして、もういいやと気になっていたのだと思う。何も管理職にならずとも、せめて主幹にはならずとも思いながら、毎年の異動が掲載された4月1日の東京新聞を見ることになるようになってもう長い。
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「教師」を辞めてからの日々-日々のあれこれ③

2015年03月29日 23時17分27秒 | 日記
 学校を辞めて4年ほどになるわけだが、そのことをどう思っているかを書いておきたい。ここで書くのは、教師という仕事の本質論ではなく、文科省や都教委の教育行政批判でもない。そういうことはこの後で、改めて別に書きたいと思うけど、今は「日々のあれこれ」を書いておきたい。僕は「政策に抗議して辞めた」というのとはちょっと違っている。「抗議」という意味を見つけることもできなくもないだろうが、何もしないと止めざるを得なくなっていたという感じである。それが「抗議」だと言えば、まあそうでもあるんだけど。「教員免許更新制」のことも別に書きたいと思う。

 さて、辞めた当初は、ホントは後悔してるんじゃないか、「学校」または「授業」、あるいは「生徒と接すること」がなくなって、淋しかったり退屈してるんじゃないかなどと言われることも多かった。心配してくれているのか、励ましてくれるつもりなのか、よく判らないが。まあ、そういう風に世の人は思うものだから、別に驚かなかったけど。文科省や都教委とは対立していても、学校が大好きで(あるいは経済的に辞められないのかもしれないが)、定年後もずっと嘱託で教え続ける人がかなり多い。僕なんか、あんなに教育行政を批判してて辞めたくならないのだろうかと他人事ながら思ったりする場合もある。

 僕の気持ちで言えば、「やっとひとりになれた」という安堵の思いがしたのである。ひとりと言っても家族はいるわけだが、仕事で毎日のように会う人がいない解放感は大きい。教員時代は冬がちょっと怖かった。静電気がひどいからである。カー用品で売ってる静電気防止具を複数買って、学校でも金属にさわる時は注意していたのだが、それでもうっかりさわってしまうことがある。自分は「静電気体質」かなんかだと思っていたのだが、辞めてみたら冬でもほとんど静電気が起こらないではないか。今思うと、自分なりに「内圧」がかかっていたのではないか。できるだけ「無理せず」「楽しんで」「平常心で」仕事しようと心掛けてきたつもりだし、職員会議なんかでもよく発言していたから、それほどの「内圧」が自分にもあったことを辞めるまで気づかなかった。

 別に教師という仕事が特に大変だと思っているわけでもない。僕が長い年月を務めあげられる数少ない仕事の一つなんだろう。他の仕事だって、やってればそこそこ何でもできるとは思うけど、僕の場合、生徒と接したり、授業をする(教科内容や一時間立って声を出し続ける)ことには、ほとんど大変さを感じない。では何が大変なのかというと、広い意味での「生活指導」や「行事」なのである。それは大変なばかりではない。充実感もあるんだけど、やはり大変は大変なのである。特に学級担任をしていると、ずっと主演俳優をしてるのと同じで、カメラにずっと撮られているような緊張がある。時々、塾や予備校の先生の方が教え方がうまいとか言う人がいるけど、それはとってもアンフェアな比較である。生徒全員を塾や予備校に行かせて、講義の後に全員で掃除するという仕組みに変えてみれば、学校の教員の仕事がよく判ってもらえるはずである。

 時々学校の夢を見る。自分が生徒だった時代の場合もあるし、教師の場合もある。夢は毎日見てるものらしいけど、僕の場合覚えている日はそんなに多くない。その中で時々学校の夢があるということで、頻度はそれほど多いわけでもないが。よくあるのは、自分で「猫町系」と名付けているもので、要するに萩原朔太郎の「猫町」のように知ってる場所から不思議な町に入りこむという話である。大体学校の校舎を歩いていて、終わりがなく延々と続いて行くのである。そういうのが多いけど、時たまもっとリアルな夢もある。この前見たのは掃除の夢で、生徒が誰も手伝わずに消えてしまい、自分の「指令」が無視されるという夢である。もちろん、実際にはそんなことは一度もないんだけど、そういう夢を見るのである。また、トイレが異様に汚くなっていて、生徒と一緒に掃除する夢も見た。まあ、これは寝ていてトイレが近かったのだと思うが。

 不思議に、えっ誰だっけという生徒が夢に出てくるのものである。良いなり悪いなり印象に残る生徒ではなく、名前もよく覚えていない生徒が出てくる。そりゃあ人間だからカワイイなという生徒だっていたわけだが、どうせ夢なんだからと思ってもそういう生徒は出てこない。僕の思うに、自分にとっての「顔の典型」のようなタイプがあり、生徒との関係性と切り離されて、顔だけインプットされていて、夢に出てくるのではないかと思う。だから、名前が出てこないのも道理である。そういうのは駅で行き交う時に、あれ誰か昔の生徒っぽいなと思う場合も同様で、時たまあるけどまず他人。誰だか判らないけど、顔だけなんだか記憶にある気がする。思えば、何人ぐらい生徒の名前を覚えたんだろうか。もうどんどん忘れていくばかりである。外国の映画俳優の名前なんかと同じ。どんどん欠落していく。

 僕の場合、基本的には本だけ読んでれば精神的には大丈夫なので、もう読み切れないほどの本はあるから、後は目が悪くならないことを祈るばかりである。90年代末に耳は悪くしてしまった。特に耳に負荷は掛けてないのにおかしいのだが、目は大丈夫なのである。映画の字幕や車の運転にはメガネを使うが、新聞や本なら今でも裸眼で読めるのある。今も裸眼でブログを書いてるのである。だから問題はお金がどうなるかだけで、退職して時間を持て余したり、鬱屈することはないと思う。それは自分でだいたい判っていたので、辞められる日を待ち望んで来た。でも、それは思ったより早く来てしまったのだが。そりゃまあ、今後は日々老いに向かうわけだから楽しいだけでは済まないだろう。でも映画や散歩してると時間がなくなり、今まで調べてきたことを本にまとめるなどという時間はなかなか取れないものだ。
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昔の映画を見るということ-日々のあれこれ②

2015年03月28日 00時54分36秒 | 日記
 元気な時は昔の映画を見に行くことが多い。今日(27日)も仕事帰りで疲れているなと思って、プロ野球の開幕戦とかサッカー日本代表のチュニジア戦を見ようかと思い、あるいは袴田事件再審決定1周年集会が日弁連であるのも知ってたんだけど、やっぱり映画を見に行ってしまった。最近通ってる神代辰巳特集やフィルムセンターの井筒和幸監督特集もあるんだけど、気分的に菅原文太追悼特集の「山口組外伝 九州進攻作戦」と「安藤組外伝 人斬り舎弟」を見たくなったのである。前者は山下耕作監督、後者は中島貞夫監督で、やはり実録ものは深作欣二がいいなあと改めて思う。どっちも初めてで、東映の実録映画は大量に作られて70年代半ばには食傷気味で見てない映画がたくさんある。後者は4月初めにシネマヴェーラ渋谷の安藤昇特集でも上映されるが、併映の「仁義の墓場」が傑作というか、もう突き抜けてる映画で、近年見直したのでしばらく見たくないなあと思ってこっちで見た。僕にも見たくない映画があるのである。その「仁義の墓場」がどんな凄い映画かはいくらでも語れるけど、陰惨すぎてもう若くない身には思い出すのも辛い。

 こういう話は関心がある人には意味があるけど、知らない人には意味が薄いので、情報伝達の観点から新作映画以外は一つ一つの映画は書かないでいいかなと思っている。今回書きたいのは、自分がどうして昔の映画を見る、特に見直しているのかである。まあ、映画は昔から好きだったけど、自分でも何でこんなに見てるんだろうと思う時がある。外的な理由としては、「東京に住んでいること」と「ヒマな時間が増えて見たい映画のレベルが深化したこと」だろう。僕の場合、映画館のスクリーンで見ることを映画鑑賞の条件にしているので、映画館がないと見ることができない。東京では、昔の映画を上映するような場所が比較的多いのである。毎日見ても尽きないぐらいのプログラムがある。首都圏そのものが一番人口が集中しているわけだが、その中の相当数が老齢層なわけで、若い時の一番の楽しみが映画だった世代である。需要がある。

 外的な理由の二つ目は、要するに「たくさんやってると、見なくてもいい映画まで見たくなる」ということである。もっとも、見てみないと、見なくてもいいかどうかの判断ができない。駄作をたくさん見ないと、傑作の価値がわからない。これはあらゆるジャンルに共通することだろう。そして、たくさん見るようになると、見たい映画のランクが下がってくるわけである。例えて言えば、ヒマがないサッカーファンが日本代表戦ぐらい、せめてテレビで見たいと思ってて、退職して余裕ができた。そうすると、J!の試合や外国の試合もケーブルテレビで見るようになり、ヨーロッパのリーグ戦の細かな情報やJ2からどこが昇格するかの予想の方が面白いとか言い出すようなものである。あるいはプロ野球で言えば、2軍の練習試合を見にいく方が面白くなってしまうようなものである。一種のコレクション趣味で、有名作品は大体見てるので、珍品の方に興味が移るわけである。僕にもそういう面はあると思う。東京では、どんな趣味であれ、毎日通っても絶えないほどのプログラムが用意されているから、時々乱気流に巻き込まれないように自分でセーブしないといけない。

 では「内的な理由」は何だろうか。「時間を置いて再評価すること」と「日本社会、あるいは世界への尽きない興味」ということだろう。映画は製作に多額のカネがかかる(昔の商業映画の場合)ので、時代を反映するところが大きい。その時代に受けるような作りをしている。それを時代を経て見直してみると、社会のコードが転換してしまって、今では通じないような表現も多い。当時のベストテンなども見直していかないといけない。日本映画の最盛期からは半生記以上経ってしまったので、この「再評価の試み」はものすごく大切であると思う。これは「映画史的関心」というものだろう。映画だけでなく、文学や演劇なんかでも同じで、昔すごく面白かったものが今ではつまらなく、逆に今になって見るとものすごく身近に感じると言ったものはいくらでもある。

 でも、やっぱり昔の映画、日本でもそうだし、ハリウッドのどうってことない娯楽作は面白いのである。面白さと技術的高さに驚くような思いをすることがたくさんある。フィルムだから、現像してみないとどう撮れているか判らない。ダメだったら撮り直すということも大作や巨匠作品にはないでもないが、多くは撮影や照明、色彩設計などの技術力で何とかなる画面を何シーンも取って置き、優れた編集力で1時間半程度にまとめるのである。今の映画は、一本立てで、デジタル撮影だから、長すぎる映画が多い。いらないシーンが多すぎる。よくディレクターズ・カットと銘打って、上映時間が長くなった映画をやるけど、逆にもっともっと削ったヴァージョンを作る監督はいないものか。このようにモノクロですごい映画を作り続けた時代とは何なんだろうか。古代中国の殷王朝の青銅器は、今では再現できないような高い技術だというけれど、そのような「もう再現できない優れた技術力」が昔の映画には封じ込められているのではないか。

 そういう映画を見て、高度成長期以前、あるいは高度成長期の映像を今見直すと、忘れてしまった「日本社会の豊かさと貧しさ」を再発見することができる。そう、技術力の高さと人間性、社会性の豊かな世界と同時に、いかに日本社会が貧しかったのかもよく判る。そういうことを知らずに、21世紀の日本を考えることはできないのではないか。例えば、「文楽」(人形浄瑠璃)を見る時に、今すぐに文楽を見て、その世界に入り込める人ばかりではないと思う。それは仕方ないだろうと思う。(歌舞伎と落語は、まあ理解はできると思う。ただし、話自体が現代人には、何だ、これは的な展開になることがけっこう多い。)でも、近松門左衛門原作の映画を何本か見れば、その意味するところが判るのではないか。そういう話は前にも書いたことがあるけど、例えば「近松物語」(溝口健二監督)や「曽根崎心中」(増村保造監督)を神保町シアターというところで、4月に上映する。この映画などは、およそ日本の歴史や文学、あるいは人権やフェミニズムに関心がある学生などはまず見るべきものだと思う。だけど、それを学生に語るべき大学や高校の教員も、見てない人が多いだろう。だから、「負けちゃう」んだと思うのである。負けちゃうというのは、当面「文楽」の補助金を削った橋下大阪市政のことを指しているけど、もちろんそれだけではない。大昔のものはそのままでは通じない。でも、半世紀前の文化ならはまだ通じる。今では、人権と平和を求めて闘った日本人の心は、戦後日本の映画を見ることを通してしか継承していけないのではないだろうか。

 今までのブログでは、上映された映画、あるいは近々上映される映画を紹介することが多かった。だから、特集上映がしばらくないフェリーニやヴィスコンティ、アントニオーニなどを書いていない。四方田犬彦が大著をものしたけど、まだ特集上映の企画がないブニュエルも。インド映画はたくさんやるようになったけど、サタジット・レイもしばらく見てない。小津は書いたけど、溝口はまとめて書いてない。僕が本当に好きな映画作家はまだまだ書く機会を待っているなと思う。そういう話もまたいずれ。それを言えば、映画より好きな本と温泉のこともあまり書いてないなあ。
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日々のあれこれ

2015年03月26日 23時11分40秒 | 日記
 3月は10日が「東京大空襲」70年、11日が「東日本大震災」から4年目、20日が地下鉄サリン事件20年で、26日が米軍の慶良間諸島上陸に始まる沖縄戦70年である。いろいろメモリアルの日々が続くけど、僕は今年は特に書いてない。ブログを書き始めたころは書いてたけど、マスコミではないんだから毎年毎年記念行事的に書かなくてもいいだろう。新しく考えたということも特にないからである。探すのも面倒だと思うけど、原発やオウムのことは前にまとめて書いている。自分なりに書きたいのは、教育問題や教師論なんだけど、今でいえば川崎の事件になるだろうけど、書き出すとまた長くなってしまうので当面書かないで、その代わりに自分のことを書いておきたいと思う。

 今年になってから、旅行演劇の記事を書いていない。どっちも僕にとって大事なものだけど、お金とヒマの問題を別にして、ちょっと予約を入れにくい個人的な理由があって、当面いつでも昼に行ける映画ばかり行っている。映画の話は次回に書くけど、映画がいいのは、昼に予約なしでも見られることと、座席がいいと言うことである。小劇場や寄席は正直言って、座席が辛い。映画館はシネコンだけでなく、名画座なんかでも結構いい。特に画面の見やすさだけなら、池袋の新文芸坐が東京でも一番いいかもしれない。映画館でも座席が辛いところはほとんど行かない。若い頃は、「カネとヒマ」を待ち望んでいたわけだが、実は「体力」の方が重要で、長いこと働いて少しはカネとヒマが作れるようになると、実はもう体力が無くなっている。世界を放浪するだのライフワークの研究をまとめるだの、若い頃に言っていたことにはなかなか取り組めないのである。

 退職前に自分で思っていたのと大きく違ったのは、集会にほとんど行ってないことである。勤めているときは、行きたいけど行けないと思っていた集会(やデモ)がいっぱいあった。若い頃は集会マニア的にあちこちの諸問題、あるいは講演会的なものに行っていたので、ヒマが出来たら是非行きたいと思っていたのである。このブログでも、冤罪・死刑・ハンセン病などの集会は時々書くし、今もできるだけ行きたいとは思っている。でも、もっと一般的なテーマの集会だと、大体演題に関する自分の立場はすでに決まっていることが多く、講演やシンポジウムなどを聞いていても、つい寝てしまう。大体の社会問題はある程度は知っているし、知識はネットで集められる時代だから、わざわざ来なくても良かったかなという気になることが多いのである。それに今は結構参加費が高い。ちょっとした集会で、800~1500円ぐらいするのが多い。夜だと食費もかかるし、交通費も高い。昔はどうしていっぱい出られたんだろうか。集会は施設利用料がずっと安かったんだろう。特に、区民、都民が登録施設を利用する場合、無料だったのではないか。今では受益者負担とか言って結構取るんだろう。それに食費も交通費もみな格段に安かった。こっちもまあ駅蕎麦ぐらいで頑張れたんだろう。

 2年前から週二日程度、僕が理事長をしてるNPOがやってる「地域生活支援センター」に出ている。まあ、精神障害者の福祉作業所である。法的な位置づけはいろいろ難しい問題があるようだけど、僕が書いても仕方ないから書かない。そういう仕事は、学校と同じくあまり詳しく語れない部分もあるが、人間関係も出来てきて、今しばらくは関わっていくのかなと思う。僕が今まで学校で接した生徒の中に、今思えば自閉症とか学習障害の生徒がいっぱいいたと思う。だけど当時は学校で研修は何もなかったのである。自分が定時制高校に異動してから、様々なタイプの生徒と接することになった。最後の学校の「チャレンジスクール」で初めて様々な研修に接して、なるほどと思えることが多かった。そういう流れの中で、やはり「精神障害という問題」に対する問題意識が継続している面がある。でも学校で接した生徒や保護者と同じく、理想のような流れで理解できる範疇にはないのだと思う。今の福祉行政は、教育行政と同じく、「競争と自己責任」にシフトし過ぎている。「社会復帰」とか「就労支援」などと言うのはいいけど、実際は無理だなと思うことが多い。そういう部分を見ていくことになるんだろう。

 そこで「理事長」をしていると言っても、まあ昔からのことで大したものではない。ずいぶん前から関わっているけど、無給だから、兼職には当たらない。要するに、学校が(東京の場合)「学校運営連絡協議会」などという地域や保護者代表を入れた外部評価の仕組みを整えなけれなならなくなったように、福祉施設も任意団体ではなく、運営の理事会を作り、さらに運営のNPOを整備せざるを得ないようになって行ったということである。僕は所長と1980年の日韓合同ワークキャンプ以来の友人だから、「理事長」なるものを引き受けてきたわけである。要するに、大学までの学校での知り合いよりも、FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)に参加したことの方が人生上の大きな出来事だったのかもしれない。自分が映画を見ていること、及び今「学校」をどう思っているか、を次回以後に書いておきたい。
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小伝馬町散歩

2015年03月25日 23時50分35秒 | 東京関東散歩
 人形町に続いて、その隣の小伝馬町(こでんまちょう)を。ここからはいろいろな方向に歩けるが、時間がなかったので駅周辺のみ。地下鉄日比谷線で、秋葉原の一つ隣の駅である。中央区の一番北のあたりで、日本橋小伝馬町、大伝馬町という地名がある。名前からして江戸時代っぽいけど、五街道の起点、日本橋に近いあたりに「伝馬」(でんま)、つまり馬による街道連絡網が組織されたわけである。日光街道に面していたのが大伝馬町(小伝馬町と人形町に間)で、小伝馬町はその裏にあった。たまたま地下鉄の駅名に小伝馬町が採用されたので、今の東京人には小伝馬町の方がなじみがある。それより、ここは「牢屋敷」があったところとして有名で、吉田松陰高野長英もここに収監されていたのである。そして長英はここから脱獄し、松陰はここで刑死した。そういう場所である。
     
 小伝馬町駅2番出口を出て少し歩くと左側に寺がある。その大安楽寺の外の壁に「江戸伝馬町処刑場跡」の碑がある。寺の中にも牢獄跡や井戸の碑がある。後で書くけど、「十思スクエア」を入ったところに牢屋敷の模型が置いてあった。寺の向かいが「十思公園」(じゅっし)で、ここが牢屋敷の跡地になるそうだ。案内板もある。公園の門は反対側にあった。まあ、いろいろな碑がある公園だったが、発掘した時に石垣が見つかったということで、それが案内板とともに展示されている。
   
 さて、何といっても、ここは吉田松陰の最期の地である。今は桜が咲きかかった春も間近なのどかな公園という感じだったけど、そういう歴史の暗い因縁がある場所なわけである。それはまあ、普通では感じ取れないけれど。東京には世田谷に吉田松陰を祀る松陰神社があって、そこに墓所もあるという。近くには松陰を捕えた大老井伊直弼の墓所もある。どちらもまだ見たことはない。東京には古い建物はないけれど、あんがい史跡はあるものだ。写真1枚目は松陰終焉の地碑、2枚目は辞世と石灯籠を合わせて。3枚目は「杵屋勝三郎歴代記念碑」というものである。もっとも字が読めない。
  
 さて、もう一つ、「石町時の鐘」がある。「石町」は「こくちょう」。そんなものが残っているとは知らなかったのでビックリ。何しろ江戸町内に時を知らせる鐘がこの場所にあり、鐘は当時のものなのである。時の鐘は8カ所にあったというが、ここが最古。江戸のことだから何度も火事になっているが、今ある鐘は1711年鋳造のものだとある。牢屋敷の処刑も、この鐘の知らせで行われた。明治になって廃止された後は、担当の松沢家が秘蔵していたが、1930年に鐘楼が作られたという。知らなかった。
  
 さて、十思公園の隣に、かつては十思小学校があった。1990年に閉校となったが、校舎が整備されて「十思スクエア」と命名され、保育園や老人福祉施設、地域の交流施設などが作られている。別館には銭湯の「十思湯」まである。この小学校は、東京都選定歴史的建造物になっていて、震災後に作られたいわゆる「復興小学校」のモダン建築の代表として見所が多い。何というか、いかにも懐かしい昔の小学校である。
  
 中はこんな感じで、校庭側は福祉施設の車がいっぱいだが、なんだか懐かしい小学校の小さな校庭である。牢屋敷は今は碑があるだけだが、モダン建築の校舎は思い出がよみがえる感じ。1928年の建造で、「関東大震災ののちに建築された復興小学校の一校。角地を利用した正面玄関は曲線で構成され、1階と3階にはアーチ型の意匠が用いられている」というのが指定理由。
  
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アラン・レネ「愛して飲んで歌って」

2015年03月25日 21時27分32秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランスのアラン・レネ監督(1922~2014)の遺作「愛して飲んで歌って」を岩波ホールで上映している。(4月3日まで。)昨年のベルリン映画祭に出品され、アルフレッド・バウアー賞、国際批評家連盟賞を受賞している。去年亡くなった時に「追悼・アラン・レネ」を書いた。監督についての話はそちらに譲るが、そこで近年のレネ映画は「昔の名前で出ています」だと書いている。それでも見に行ってしまったし、まあ遺作だから二度と新作を見られないんだからと思って書いておくことにした。

 この映画は面白いのか。やはり特に面白くもなかったなあと思う。ゴダールの「さらば愛の言葉よ」が3Dで、とにかく新しい映画表現を今でも求めていると思えるのに比べれば、アラン・レネという名前が前衛的な映画マニアに神話的に語られていた時代は遠い。チラシを見ても、アラン・レネ監督遺作とある上に『夜と霧』『二十四時間の情事』『去年マリエンバードで』と3作の名前が書いてある。今でもそれがウリなのである。この映画はイギリスの喜劇作家アラン・エイクボーンの劇を映画化したもので、「フランスのエスプリとイギリスのユーモアの見事な融合」とあるけど、確かに「エスプリ」という感じはする。エイクボーンという人は日本ではあまり上演されないが、鴻上尚史「名セリフ」(ちくま文庫)に出てきていた。そもそもユーモアの質が日本で通じにくい部分があるかもしれない。

 最初にイギリスの地図が出てきて、イングランド北部のヨークの話だとされる。でも登場人物はフランス語しか話さないので、要するにイングランド人の戯曲をフランスで上演しているのと同じである。ほとんど舞台の書き割りのようなセットで、最後に舞台でしたとなるのかと思ったら、それはなかった。でも明らかに現実の家ではなく、舞台装置みたいなところで演技している。(普通の映画の場合、家のセットは「現実の家」に見えるように作られているが、この映画ではドアがカーテンになっているんだから、どう見ても舞台上のセット。カメラの動きなども含め、演劇的なつくりの映画になっている。

 登場人物は3組の男女。最後に娘が出てくるけど、事実上3カップル、6人のみしか出てこない。しかし、最も重要なジョルジュという人物は出てこない。シロウト劇団があり、公演に向けて練習しているというのが表面上の設定。一方、ジョルジュが重病で余命が短いという話を、医師が妻にしてしまいあっという間に友人たちに広まる。劇の出演から一人下りたため、皆はジョルジュに頼むとOKし、結構うまいらしい。このジュルジュは小学校の教師らしいが、どうも女たちはみなジョルジュに惹かれているような…。という話で、ジョルジョは出てこないで、登場人物はみな彼の大きな影のもとにある。

 こういうのは演劇では面白いけど、映画のカメラはどこにでも行けるわけだから、最後にジュルジュを見せて欲しい感じもしてくる。ジュルジュが出てこないところが面白みであるけど、それは一種の「余裕」ある演出で、人生を達観するような視線で語られていく。そういう語りの構造が後期アラン・レネ映画の特徴で、昔のような切羽詰まった問いはない。その意味では、楽しんでみられるが、わざわざ見る意味がどこにあるのかと思う。そういう言い方は、思えばフェリーニや黒澤明の晩年の映画を見た時も感じたことだった。まあ、アラン・レネという名前に特段の思いを持つ人には見る意味があるかなという映画ではないかと思う。
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安倍政権の対応-IS問題⑩

2015年03月23日 23時56分09秒 |  〃  (国際問題)
 IS問題はこれで最後にしたい。安倍政権の対応についてはよく判らない面が多い。例の「特定秘密」とやらに指定され、しばらく明るみに出ない部分も多いとか。もう時間も経ってしまったし、自分でも書く時期を失した感もするのだが、僕には一つ確認しておきたいことがある。それは総選挙中の対応という問題である。僕は安倍首相のみならず、菅官房長官までもが遊説に飛び回っているのにビックリして、「官房長官、東京にいて下さい」という記事を書いた。(2014.12.4)それを書いていた時には、地震や火山噴火などを心配していたのだが、「世界のどこで大きなテロ事件が起き、日本人が巻き込まれないとも言えない」とも書いた。首相は自民党総裁でもあるから全国を応援して回るのも当然だが、官房長官は本来「留守を預かる」のが仕事ではないのか。

 ところで、政府がこの問題の発生をいつ認識したのか。後藤健二さんが拘束されたのは、2014年10月25日と思われる。約1か月後の11月下旬に、後藤さんの妻のもとに「拘束した」というメールが届いたが、そのメールは自動的に迷惑メールに分類されて読まれなかった。12月3日に新しいメールが届き、再び迷惑メールになったが、今回は開封された。そのメールに「前にも送った」とあることから、未開封の以前のメールもこの時読まれて、後藤健二さんが拘束されたと判断した妻は外務省に連絡したという。政府は直ちに情報の分析を始め、犯人グループとメールのやり取りを行った。後藤さん本人しか答えを知らない質問に回答があり、最終的に拘束を確認したのは12月19日と菅官房長官は国会で答弁している。(以上の日時は、2015年2月24日付朝日新聞「検証『イスラム国』人質事件」による。)

 総選挙は12月14日のことだが、こう見ると「最終確認」は総選挙後だとされているが、一番重大な「判断に至るやりとり」はまさに選挙終盤にかぶっていたということは明らかである。渡航以前に外務省は中止要請をしていたということだが、そうであれば行方不明の事実も当然把握していたはずである。やはり、総選挙中には官房長官が官邸で指揮できる態勢が必要だったのではないか。

 さて、その問題は別にして、どのような問題があるだろうか。「ヨルダンに対策本部を置いた問題」「エジプトでIS対策の2億ドル援助方針を明らかにした問題」が、事実経過の問題では大きいと思う。そもそも「身代金を払うかどうか」という問題もあるが、われわれが2015年1月20日にネット動画を通してこの問題を知った時点で、すでに「身代金は政府としては払わない」という判断を家族には伝えていたという。であるならば、それ以後の「交渉」は何だったのか。IS側が当初「2億ドルの身代金」を要求したのは、それを払うという判断を日本政府に求めるというよりも、払わない日本政府を非難するための「象徴的金額」であることは明らかである。だから、それ以前の「秘密交渉」段階の事情が重要なのだが、それがよく判らない。

 日本政府はシリア大使館を2012年3月21日に一時的に閉鎖して、ヨルダンに臨時事務所を置いていた。それはシリア内戦の激化によるものだが、アサド政権を支持しないという米国に追随する措置でもあっただろう。今回の事件はシリアに入国して起こったことだから、シリア大使館臨時事務所があるヨルダンに本部を置くというのは、一応理解できるようにも思える。事件公開以前に、すでにヨルダンで対応に当たる陣容を強化していたというが、その後の解放に向けた交渉はヨルダン(政府だけでなく、各界有力者)を通して行ったとされている。しかし、入国したのはトルコからであり、解放されるならトルコに出国してくる。トルコの人質が解放された事例もあり、トルコに本部を置くべきだったのではないかと当初より指摘する声がある。ただ、トルコは秘密裡に身代金を払ったと思われていて、トルコに本部を置くと「身代金交渉をする」という意味に理解されかねない。だからトルコを避けたという見方もあるらしい。しかし、トルコのルートを無視していたわけではない。トルコにも協力は求めていたので、むしろヨルダンを隠れ蓑にしてトルコでもっと重要なやり取りがあった可能性も皆無ではない。その場合は事情はしばらく表には出ないだろう。

 だけど、「身代金は政府としては払わない」となると、何か政府の打つ手はあるのだろうか。その方針自体の問題も考えなければならない。だが、身代金を払えば解放されたのかどうかの判断は難しい。僕は「身代金を絶対に払ってはいけない」とは考えてはいないのだが、では「秘密裏に払って解放を求めるべきだ」とも思わない。ケース・バイ・ケースで判断するしかないと思うのだが、今回の事例では判断する材料が少ない。だが、その問題の判断はさておき、「身代金は払わない」とするなら、より慎重に行動しなければ「イスラム国」に乗じられることになりかねない。安倍首相は「テロリストに屈しない」「テロリストに忖度(そんたく)しない」とよく言うが、「屈する」とか「忖度する」という話ではなく、「利用されないように細心の注意する」という問題である。

 安倍首相は2次政権発足以来外国訪問を繰り返しているわけだが、今年は1月16日~21日の中東訪問(エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスティナ)しか行っていない。国会開会中であること、ドイツのメルケル首相や仙台の国連防災会議など外国首脳の日本訪問が相次いだことなどもあるだろうが、2012年には3回、2013年には5回も、3月までの年度末に外国訪問を行っていることを考えると、今年は異例である。確かに総選挙のために新年度予算案作成、国会審議も遅れているのだが。どうも、今回の中東訪問の真意が判らない。1月17日は「阪神淡路大震災20年」の式典が行われたことを考え合わせると、あえてエジプトやイスラエルを訪問する意図が理解できないのである。まあ、正式な国交がある国を訪問して何が悪いのかと言われると、答えに困るのだが。

 だから、この問題の正解は永遠に判らないだろう。悪く考えると、「あえて挑発して問題を明るみに出す」ということになる。5月以降の「安保法制審議」に向けて国内世論を誘導するためである。この時期以後に問題が明るみに出ると、国会審議への影響が深刻で安保法制審議が間に合わない恐れがある。そこまでの世論操作を考えるのは僕もあまりしたくはないが、そうすると「よく考えつめないで、アメリカに向けた方針をぶち上げてしまった」ということか。そもそも、イスラム政権を軍部が打倒した後に軍人が大統領に就任したエジプトを訪れるというのはどうなんだろうか。「アラブの春」の「失敗例」のエジプトを訪問し、続いてイスラエルを訪れるという計画そのものがおかしいのではないか。本来はここでまだ行っていないチュニジアをこそ訪れ、新政権への協力を確認するべきだったのである。

 ヨルダンの女性死刑囚との「交換」という最終盤の「交渉」も、どのような事態が起きていたのか、まだ不明な点が多い。僕は「ヨルダン分断策」の意味合いを感じ、ISの方針に現実性をあまり感じなかったのだが、解放に向けて準備が進んでいたという報道もある。というか、そもそもIS側にきちんとした指導方針が存在するのかも判らない。ただはっきりしているのは、「どうしても取り戻したい囚人」ではなかっただろうということである。何だか重要人物のように報じていたマスコミもあるがそれは間違いだろう。そもそも「自爆テロに失敗した」テロリストであり、指導者でも何でもない。「自爆テロ」要員は、ヤクザ映画にある「鉄砲玉」でこそあれ、どうしても取り戻すべき仲間とは言えない。タテマエとしては人質交換の要員ではあるだろうけど。だから、僕は明るみに出た時点でIS側は宣伝工作を重視しているのであると思わざるを得ない。

 政権側の対応は、そのことが判っているのか、いないのかが不明である。当然判っていると思うのだが、首相の野党への答弁などを見れば、「テロリストの思いを忖度して、屈することがあってはならない」的なことばかり言っていた。安倍首相がテロリストに屈したということではなく、「首相がテロリストに利用されてしまった」という話である。問題の本質が理解できていない。敢えて突っ張る、敢えて誤解したふりをしているということもありうるが、自分でヤジを飛ばして後で訂正すると言った様子を見れば、単に「判らない」というだけのことかもしれない。
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過激主義を生み出すもの-IS問題⑨

2015年03月22日 00時52分34秒 |  〃  (国際問題)
 IS問題は、国際情勢の解説と安倍政権の対応をまとめて数回書いておくつもりだったが、長くなってしまった。前から「思想」の問題を書くと言って来たので、それを書いてしまいたい。イスラム教に限らず、「過激思想」というか「過激な解釈」がどのような「心の場所」に発生していくのかを考えてみたい。「過激」というのは、文字通り「激し過ぎる」という意味だけど、最初に書いておきたいが、「激し過ぎて困る」という含意が暗黙のうちにある。それは当たり前なんだけど、最近は「過ぎる」の意味を混乱させて使う人がいる。電車で寝てしまって、降りる駅を通り過ぎては困る。でも、あるカレーのチェーン店では「ハムカツカレー」のハムが「極厚すぎる」と書いてある。極厚すぎるんだったら、普通の意味では「厚すぎて噛めない、切れないので困る」から、もっと薄くするべきだ。サービスで厚くしているという意味にはならない。「美人すぎる市議」とか言うのも同様。これはまあ女性票を逃すほど美人という意味があるのかもしれないけど。でも、どっちかというと、過ぎたるから注目されるという意味がありそうだ。

 過激主義というものは、どんな社会でも生み出すものである。あるいは、どんな宗教でも、どんな結社でも。完全に平等な社会は存在しないし、完全に自由な社会も存在しない。(もし、完全平等、完全自由の社会があったら、恐るべき管理社会になるだろう。)日本が自分たちで「バブル」などと浮かれていた時代に、オウム真理教のような世界最悪の宗教テロが起こってしまった。キリスト教にも原理主義勢力があるし、ユダヤ教にも原理主義がある。神は絶対であるけれど、人間は神ではないから、神の言葉の解釈をめぐって争うのを避けられない。かつてマルクス主義をほとんど宗教的に受容していた人々は、マルクスやレーニンの文献の細かな解釈をめぐって争っていたものである。そういう争いではえてして「過激な解釈」が勝ったりしてしまう。マジメな議論を突き詰めていくと、より「正しいもの」を求めてしまいがちなのだと思う。

 ところで、世界史の中で、どうしてそのような過激主義が生み出されてくるのだろうか。近代史を考えてみると、今の日本人だったら、近代、現代の方が「発達した社会」だということは、ほとんど自明のことに思っているのではないだろうか。時代をさかのぼるに連れ、パソコンも携帯電話もなく、テレビも冷蔵庫もなく、自動車も電車もなく…と僕らの周りの便利なものが無くなってしまう。発達した工業社会を実現した日本では、世界はだんだん便利になってきたとしか思えないだろう。しかし、世界のかなりの人々はそのように思っていないのではないだろうか。都市部に住む人は世界のどこでも似たような生活様式で暮らしている。だが、辺境部で暮らす人々は、かつては自律的で独自の文化を持って生活していたものが、強大な武力を持つ中央政府や外国軍が攻めてきて、自分たちの独自のものを失い、多大な人命が失われたというケースが多い。そういう人々から見れば、「近代は悪い時代」である。

 日本だって同様で、ペリー来航により強制的な外圧で近代が始まる。天皇を中心とした中央集権国家が出来、急速な富国強兵に「成功」したと、今の日本人は普通はそう理解している。でも、急激な欧米化で「旧来の美風」が失われると憂慮した人々がたくさんいた。遠い欧米からどうして日本にやってくるのか。その工業力、軍事力は認めないわけにはいかないが、要するに武器や工業製品だけ利用できればいいのであって、生活習慣や思想、芸術などは昔ながらの日本のままでいいのだと、そう理解したい人が多くいたわけである。当時の言葉で「和魂洋才」という。でも、ただエリートが欧米文明を利用するだけではダメで、軍隊の兵士が武器を使いこなすためには、あるいは武器工場の工員が武器を作り出すためには、全国民に一定程度の教育をしなければならないし、男だけでなく女にも教育を施さなければ次世代育成ができない。その国民教育を担当する教師を育成するためには、欧米の思想、学芸にも接して行かないといけない。留学して欧米社会に深く触れれば、単に欧米の近代化を上澄みだけ利用するなどは不可能で、選挙や言論の自由といった政治制度改革、あるいは生活の洋風化まで行かないとダメだと主張する人が多くなる。

 しかし、そうなると「日本の美風」が失われると危機感を持ち、「危険思想」を取り締まれという主張も強くなる。では、それまでの日本がそんなに素晴らしかったのか。というと、こういうときの「美風」というのは男(夫や父親)が女や子どもを圧迫し、結婚相手なんかも父親が決めるといった「悪しき習慣」のことを指していることが多い。他の問題でもそうだけど、「今までの良き習慣が失われる」といった主張は、「旧来の悪しき習慣」から利益を得てきた人の既得権益を守ろうという動機に基づいている。特に、人間にとって最も身近な家族の問題では、「家父長制」を守りたいという主張は、世界のどこでも主張される問題である。こういう傾向の考え方は、日本伝統のものと言えば、まずは天皇制だから、日本は「天皇を中心とした家族国家」だと決めつけて、それを守らなければならない、しかし、欧米文化の流入、外国の危険思想により、今や日本本来の良きものは危機にある…と言うわけである。

 だから、そのためには「本来の良きもの」(天皇)をジャマしている、悪しきものを打倒しなければならないという「過激主義」が台頭してくる。これが戦前日本、特に1930年代の右翼思想のありようである。特に1936年の二・二六事件では多くの政府高官が陸軍内右翼の青年将校に殺されたが、昭和天皇自身は「朕の股肱の老臣」を殺した逆賊だと青年将校たちを認めなかった。しかし、1932年の五・一五事件の時は、犬養毅首相を暗殺した海軍将校たちに対して、「疲弊した農村を無視する腐敗した政党政治家」を打倒した「純粋な」青年将校に対し、減刑を求める運動が全国で起こっている。ここで判ることは、「右翼的過激主義」では政治的リアリズムを無視して、「勝手に敵とみなす」こと、また彼ら自身は「純粋でマジメ」であることだ。右であれ左であれ、純粋でマジメな大人が若い者に「われわれは今危機にある」「敵はわれらの中にいる」と働きかければ、マジメな青年ほど信じ込んでしまいやすい。

 日本で昔起こったことは、今書いているテーマのイスラム過激派にもほとんどそっくり当てはまる。伝統的な文明が「欧米化」により失われるという深い危機感、中でも「女性の地位の向上」により従来の家父長制が危機にあるというとらえ方が「イスラム過激派」に多い。要するに「イスラム過激派」というのは、日本史でいえば「右翼天皇主義者」だということである。軍人というのは戦争で外国軍と戦うのが仕事なのであって、いくら政治家が悪かったとしても自分たちで殺してしまってはいけないというのは、ちょっと常識があれば判りそうなもんである。実際、大多数の陸海軍将校は、思想的には保守的天皇主義者だっただろうけど、思想的な「過激主義」に行ったわけではない。同じように、いくら欧米社会に問題があると考えたとしても、宗教の名のもとに一般市民を殺したり、自爆テロを決行して「敵」だけでなく自分も死んでしまうだなんて、そういうのが宗教的に認められるわけもないだろうと、これもちょっと常識があれば判りそうなもんである。そして、実際にイスラム教徒の大多数は、「過激主義」には眉をひそめている。

 その常識がどうして働かないのか。そこに「マジメ純粋主義」の怖さがある。そして、扇動に利用されるような「思想」の恐ろしさも。イスラム過激派問題問題の本を読んでいると、いつも出てくる名前がある。エジプトのイスラム主義者の思想家、作家のサイード・クトゥブ(1906~1966)という人物である。ムスリム同胞団の理論的指導者で、ナセル大統領暗殺未遂に関わったとして国家転覆罪で死刑となった。今のイスラム過激派の思想に大きな影響を与えた人物と言われている。欧米を視察した経験があるが、病身で内向的だったため欧米社会にはなじめず、欧米を物質的で宗教的に退廃した享楽社会と見なして帰国したようである。獄中で重要な書物を書き、西欧社会を完全に否定し、イスラム国家樹立を目指した。特に重大なのは、このような考えをつきつめ、欧米的な自由主義を求めるものは、もはやイスラム教を逸脱したものと考え、「背教者と見なして構わない」としたことである。戦前の右翼が重臣を勝手に「君側の奸」(くんそくのかん=天皇の周りの悪者)と見なしたり、今のネット右翼が勝手に意味不明の「在日認定」とやらをしてしまうのと似ている。イスラム主義者の学者が勝手に「背教者認定」してしまえるのである。

 背教者を排除するのは、信仰あるものの義務である。だから、イスラエルと国交を結んだエジプトのサダト大統領は「背教者」であるとされ、サダトは「ジハード団」により暗殺された。サダトの政策の是非を議論することはできるだろうが、サダトがムスリムであるのは間違いないし、サダト暗殺が「ジハード」(聖戦)だというのは、いくら何でも暴論だろう。だけど、こうしてイスラム社会では「勝手に背教者認定」を恐れて、多くの人が自由主義的な主張を封じられることになっていった。批判精神の薄れた知的風土においては、扇動者の言動は影響力が強い。

 世界史的な「地域的な序列」が近代には存在し、イギリスが産業革命に成功して以来、近代化、工業力により世界はピラミッド化されている。そういう世界では、その良し悪しの判断は別にして、欧米は中東やアジア、アフリカに軍隊を送れるが、非欧米諸国は欧米を攻撃できない。日本はハワイの真珠湾を(一回だけ)攻撃したけど、ハワイは州ではなく、もともとハワイ王国だった島々をアメリカが強奪したような土地である。アメリカ本土を襲撃した国はどこにもない。にもかかわらず、アメリカは湾岸戦争で、イラクを攻撃する他国籍軍の中心となり、サウジアラビアに駐留した。メッカを擁する聖なる地に外国軍を呼び込むとはと、これがオサマ・ビン・ラディンが激しい反米活動に身を投ずるきっかけとなったということである。2011年9月11日のテロは、そういった「世界史的序列」を崩すような衝撃を与えたという事実は否定できない。マジメで祖国の腐敗と貧困に怒り、イスラム主義にひかれるような純粋なムスリム青年に、このテロが「圧倒的な魅力」を与えただろうことへの想像力はわれわれも持たなくてはいけないと思う。でも、ちょっと常識を働かせれば、これは宗教的にも間違いで、政治的にも不利なものだと理解できるはずだ。「過激主義」がどういうてん末をたどるかは、日本や世界各国の事例を見ればおおよそ推測できる。
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テロを非難し、チュニジアに連帯する-IS問題⑧

2015年03月19日 21時48分01秒 |  〃  (国際問題)
 昨日、「チュニジアはどうなるか」という記事を書いた。書いている途中で、首都チュニスでのテロ事件が報じられた。まさに心配が的中してしまったというべきで、「シンクロニシティ」とでも言うべき事態に自分で驚いている。第一報では、国会と美術館が襲われ死者8人かという情報だったが、現時点で日本人3名を含む23名が死亡と伝えられている。襲撃されたのはバルドー博物館というところで、「チュニジアのルーブル美術館」と言われるような場所だということである。隣の国会を襲撃するつもりだったという説もあるが、外国人観光客を襲撃目標としたのだと考えるのが自然ではないか。(犠牲者数は、死者二人が襲撃犯人だったことが判明し、21人とチュニジア政府が訂正した。3.21)

 「チュニジアとはどういう国か」は今さら僕が書かなくても、マスコミで多く報道されるだろう。チュニジアの目指す「自由と民主主義に基づく政教分離のイスラム教徒の国」は、「IS(イスラミック・ステート)」というテロ組織と対極にある。そのチュニジアを支える産業の柱が観光と言っていい。チュニジアの観光産業に打撃を与えるということは、チュニジアの現行体制に大きな打撃を与えることである。観光客が減れば、ますます経済が悪化し、政府への不満が高まる。結局、民主主義ではダメなんだというムードをチュニジア国民に与えることになる。「アラブの春の唯一の成功例」を失敗に追い込めれば、アラブ諸国の民衆にとっても「大きな教訓」になるだろう。結局、不満を解決してくれるのは、イスラム革命しかないのでは?ということになりかねない。それをねらって、外国人観光客が集まる場所が選ばれた可能性が高いのではないか。

 つまり、チュニジアの民主主義体制そのものが、イスラム過激派の標的になっているのだろうと思われる。そう考えると、チュニジアは危険なんだ、行かない方がいいな、行ってはいけないところだと言った反応をしてしまうなら、テロ実行者の「思う壷」ではないか。日本ではついそういう風に発想してしまう人も多いし、外務省の危険情報の程度を問題化したりする。でも、今時点でアラブ諸国や欧米のみならず、テロだけに限らず様々な危険が潜んでいるのは間違いないことであり、チュニジアの首都チュニスが特に危険性が非常に高いということではないだろう。では、チュニジアに今こそ行くべきなのかと言えば、それは「観光」なんだから人それぞれが判断すればいいとしか僕には言えない。日本からは遠くて、なんにせよそう行けるところではない。

 ただ、チュニジアのほとんどの国民は、チュニジアのイメージを損壊するテロ事件を非難し、犠牲者を追悼し、怒りと悲しみを噛みしめているだろうと思う。世界は今こそ、チュニジア国民に連帯を表明するべき時だと思う。フランスのテロ事件の時と同じく、世界の指導者はチュニスに集うべきである。この事件をきっかけに、チュニジアの自由が壊されるか、壊されなくてもテロに対する過剰な警備による強権国家になってしまわないように、チュニジアの民主主義を支える意思を世界は表明するべきだ

 とにかく、チュニジアの未来は世界の注目であり、希望であると僕は思っている。だからこそ、リビアやアルジェリアからも多くのテロリストが侵入し、これからもテロが起きる可能性があるのは否定できない。だから、今こそチュニジアを支援するべきである。東京にはチュニジア料理店もあるようだし、そういうところからでもチュニジアを知ろうとしていくことが大事ではないか。
 また、3.27にある日本ーチュニジアのサッカー公式試合は、大分で行われるので見に行くことはできないけど、その場では是非、犠牲者への追悼とチュニジアへの連帯の意思を表明する行動が望まれると思う。
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チュニジアはどうなるか-IS問題⑦

2015年03月18日 22時55分55秒 |  〃  (国際問題)
 アジア映画の記事をいっぱい書いてる間に、IS問題がまだ残っていた。映画は新作では「フォックスキャッチャー」や「女神は二度微笑む」(歌も踊りもないインド映画のミステリー)を見てるけど、書かないことにする。古い映画では神代辰巳監督を見直しているけど、新文芸坐の菅原文太特集とかち合って困った状態で、新作がなかなか見られない。教育問題に話を移したいんだけど、先にISを。

 今回は「チュニジア」をどう考えるかという問題である。チュニジアに問題があるのか?あると言えばあるんだけど、今のチュニジアそのものに問題があるというより、逆に「チュニジアはアラブの希望になるか」と問いを言い換えたほうがいいかもしれない。今チュニジアを検索すると、3月27日に予定されているサッカー日本代表とのキリン・チャレンジカップの記事がまず出てくる。ハリルホジッチ新監督の最初の試合である。チュニジアは2002年の日韓ワールドカップにも出場して日本と同組だった。調べるとワールドカップには4回出場。2006、2010にも出場したが、昨年は予選敗退だった。今年のアフリカ杯ではベスト8で、2004年には優勝している。まあ、それなりに強い国ではないかと思う。

 ではチュニジアはどこにあるか?ハリルホジッチが指揮したアルジェリアの隣にある国。アフリカ北岸で、イタリアの反対側。古代にはカルタゴ文明が栄えた地帯で、地中海の周りの文明地帯だった。その後、アラブ人がイスラム教とともにやってきてイスラム圏となった。この地に王朝が建てられた時代もあったようだが、16世紀になるとオスマン帝国の支配下に入った。その後、本国から事実上独立した王朝が成立し、近代化を目指し西欧化、富国強兵策が進められた。1861年には憲法が制定され立憲君主国となったとウィキペディアに出ている。1876年のオスマン帝国のミドハト憲法、1889年の大日本帝国憲法より早いことになるが、全く聞いたことがない。ただし、1864年に憲法が停止され、1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列強に認められ、フランスの植民地とされた。

 しかし、独立運動が粘り強く行われ、隣国アルジェリアに先立ち、1956年にチュニジア王国として独立した。翌1957年には王政を廃止し、フルギバを大統領とするチュニジア共和国が成立した。ブルギバはチュニジア独立の父とも言える人物で、社会主義的政策を進めた。一夫多妻を禁止し、離婚を合法化するなど近代化、世俗国家化を進めて、トルコのケマル・アタチュルクのような役割を果たした。一方、アラブの「大義」を支援し続け、PLOがベイルートにいられなくなるとチュニジアの首都チュニスに受け入れた。1987年になると長期政権、食糧不足に対する不満からゼネストが起こり、無血クーデタによりブルギバは追放され、ベンアリ首相が大統領に就任した。

 このベンアリが2011年の「ジャスミン革命」で追放されることになる大統領だから、独立から半世紀以上にわたって、2人しか大統領がいなかったのである。そのベンアリも長期政権化、家族の腐敗、貧困などで国民の不満が高まり、2010年末から反政府デモが続き、2011年1月に国外に脱出した。ここから「アラブの春」と言われたアラブ民主化運動の大きな流れが起こったわけだが、エジプトは軍事クーデタで民選大統領を追放し、軍中心のシーシ大統領体制となった。シリアは内戦が収まりがつかず、イエメン、リビアはとめどない国家崩壊状態にある。もともと選挙もないサウジアラビアの王政などは安泰で、モロッコやヨルダンなどの立憲君主国でも、イギリスや日本のような議院内閣制ではない国が多い。(首相を国会で指名するのではなく、国王が指名する旧憲法下の日本のような体制。)そんな中で、選挙で国民が国家の代表を選べる民主主義制度はほとんどチュニジアしか機能していない。宗教と国家の分離、女性の地位の保障という面でも、アラブではチュニジアが一番安定している。チュニジアはこの体制を維持できるのだろうか

 是非チュニジアの体制が安定して「アラブの希望」になって欲しいものだと思うのだが、心配な点も多い。それは「イスラム国」に馳せ参じているという外国人兵士1万5千人、これはちょっと前のマスコミにある数字で現在は増加してるのか減少してるのか判らないが、その中でチュニジア人が国家別では一番多く、3千人にも上ると言われているのである。当然チュニジアにも過激イスラム主義者はいるだろうけど、人口1千万ほどの国が一番というのもどうなんだろうか。これはチュニジアが比較的経済が安定し、自由もあるということを逆説的に表わしているのではないか。もっと貧しい国ではまず出稼ぎが優先するし、体制が比較的安定していて自国でのイスラム革命の可能性が低い。一方、国民の自由も比較的あるので外国へ出国しやすいのかもしれない。

 今、これを書いているさなか、チュニジアの首都チュニスで武装集団が議会や美術館を襲撃して8人死亡かというニュースが飛び込んできた。まさに書いている心配が的中してしまったことになるのか。「イスラム国」に赴いた若者たちは、やがてその「挫折体験」(になるだろう)を抱えて帰国するだろう。その中から無数のテロリストが生まれかねないのではないか。実際、これまで野党指導者の暗殺事件が起きているし、特に南部ではテロ活動の危険が指摘されている。日本国外務省はチュニジアに対する渡航情報(危険情報)の発出 を出しているのである。そこでは南部砂漠地帯やアルジェリアに隣接するカスリン県では「渡航の延期をお勧めします」となっている。首都チュニスも「十分注意してください」になっている。(具体的な危険情報は上記HPを参照。)

 そんなチュニジアの現在の政治状況を最後に書いておきたい。2011年10月に、革命後の制憲議会選挙が行われ、穏健派イスラム政党「ナハダ」が第一党になった。その後、野党の世俗政党との間で憲法をめぐって争いが続き、イスラム過激派による野党指導者暗殺も起こった。そんな中で2014年1月になって非常に民主的な憲法が平和的に制定されたのである。政教分離、信仰の自由、言論の自由、男女平等などが憲法で保障されているという話である。それを受け、10月に議会選挙が行われ、定数217の比例代表で、世俗派の「チュニジアの呼びかけ」が86議席、「ナハダ」が69党と勢力が逆転した。12月に行われた大統領選では、「ナハダ」は候補を立てず世俗派同士の戦いとなり、旧体制時代に首相などを務めた87歳のカイドセブシが当選した。新政権では、議会で過半数を持つ政党がないため、大統領の所属する「チュニジアの呼びかけ」と穏健派イスラムの「ナハダ」が連立を組むことになった。この政権が経済再生や社会の安定をもたらすことができるかどうか。それはアラブ諸国だけでなく、世界史的な重要性を持つのではないだろうか。サッカーを見ながらも、そんなチュニジア事情にも注目して欲しいものだと思う。「イスラム国」が増殖しているのは「アラブの春」への幻滅がある。チュニジアがうまくいくかどうか、要注目。
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人形町散歩②-玄冶店と甘酒横丁

2015年03月17日 22時54分43秒 | 東京関東散歩
 人形町界隈には古い地名がいろいろ残るが、「玄冶店」がこのあたりで、碑もあると知った。大体、読み方が判らない人がいるだろうが「げんやだな」である。一体、何のことだか判らないながら、春日八郎の大ヒット曲「お富さん」の歌詞で知った。小さい時のことで、歌詞の意味が不明である。耳で聞きとった歌詞は、「いきなくろべえ みこしのまーつに、あだな姿の洗い髪 死んだはずだよ おとみさん 生きていたとは おしゃかさまでも 知らぬほとけの おとみさん エーサオー げんやだな」で、何の意味だか不明であった。だけど、リズムがいいから、何となく口ずさんでしまう。もう少し漢字に直すと、
 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 
 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは
 お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん 
 エーサオー 玄治店(げんやだな)
  
 この碑は、人形町交差点の東北角(A4出口方面)の道路にある。字が道路側になってるので、ドラッグストアの前に車が停まってると見えない。(案内板は歩行者側に書いてある。)「玄冶店」というのは何だというと、江戸時代初期の幕府医官・岡本玄冶の拝領した屋敷跡の地名のことで、人形町3丁目あたりのこと。「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)なる歌舞伎の演目に「源氏店」と出てくる。「お富さん」の歌詞では、元の通りの字になっている。これでも、歌舞伎の筋を知らないと歌詞はよく判らないけど、確かに「死んだ筈だよ お富さん」というような話なのである。最近「お富さん」という中編歌謡映画を見る機会があったが、映画はどうってことないけど、春日八郎が出てきて、僕の世代ではよく知らないので面白かった。碑のあるところから裏へ入ると、今では人形町唯一の料亭という「玄冶店 濱田屋」がある。築地あたりにあるのと同じく、いかにも料亭っぽいつくり。大通りに戻り、少し行くと「うぶけや」という天明3年(1783年)創業という刃物屋がある。包丁、はさみの他、毛抜き、カミソリ、「諸流生花鋏各種」と何でも刃物がそろってるらしい。なにより店が古くて風情がある。
   
 大通りの向かい側、スターバックスの前の道に、「堺町・葺屋町(ふきやまち)芝居町跡」というパネルが建てられている。このあたりは、江戸三座と言われた中村座市村座があった。(もう一つは守田座で今の銀座にあった。)1841年に大火で焼失し、折からの天保の改革で同じ場所での再建が認められず、浅草の猿若町に移転を余儀なくされた。人形劇の結城座もここにあり、一帯に人形遣いが多く住んでいたから「人形町」という地名になったというのが定説らしい。芝居小屋は自由には作れない。この地域に作られたのというのは、幕府の政策によるもので、江戸時代当初の1650年前後の成立である。当時は実は「吉原」(遊郭)もここにあったという。日本橋の芳町とは、葦(よし)の生える湿地で、そういう新開地にフーゾク街ができる。それが「葦原」と呼ばれ、時代とともに吉原となる。しかし、1657年の明暦の大火で焼失し、幕府は日本橋での再建を認めず、浅草の裏に「新吉原」を移したという。この地域は江戸時代には遊郭地帯だったり、歌舞伎や人形の芝居小屋の集まる娯楽地帯だった歴史がある。
  
 さて、人形町には施設的な場所(博物館、記念館等)がないし、お休み所みたいな場所もない。人形町だからか、辻村寿三郎のジュサブロー館というのがあるけど、今は人形教室としてしか利用していないと出ている。ということで、後の有名な場所は「甘酒横丁」なのかなあと思って、戻って交差点を渡る。「玉ひで」のある通りの向かい側に「甘酒横丁」とある。横丁だから、狭い通りに飲食店が密集してるのかと思ったら、そうではなくて結構広い通り。入るとほうじ茶の香りがしてくる。ほうじ茶カフェとか出てる。少し行くと、「鳥忠」というお店。鶏肉や卵焼きで有名らしい。向かいの方に鯛焼きの「柳家」という店。店の中に客がズラッと並んでる。どうも入りにくい店が多いんだけど、少し行くと「亀井堂」が見えてきた。ここは前から知っている。人形焼が有名だというけど、深焼きとある煎餅がうまい。でも、店頭のポスターに首相の顔があって「再挑戦べい」なんて大々的に出てくる。買う気失せたな。
   
 甘酒横丁をずっと歩くと弁慶像があった。解説板があるけど、読めないぐらい黒くなってる。歌舞伎で有名な町だからということだと思うけど。その先に明治座があるが、そっちは別に隅田川沿いの「浜町散歩」をしたいと思う。戻る途中に「人形町志乃多寿司総本店」を見つける。いなりずし発祥の店だというけど、外見が寿司屋っぽくなくて行きには見逃した。最後に「水天宮」を。水天宮というのは安産祈願で有名なところだが、現在は建替え中で仮社殿に移ってる。それは明治座の隣あたりにあるようだけど、今回は行ってない。工事中の写真なんか意味ないんだけど、神社の建設工事というのも珍しいかなと思って。この地域には、人形町だけでなく、地下鉄駅が小伝馬町、水天宮前、浜町、東日本橋、馬喰横山などいっぱい集中している。地下を走ってる分には関係ないから、地上の地図が全然頭に浮かばないんだけど、今回歩いて少し判った。また近辺を歩いてみたい。けっこういろいろあるようだ。
  
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人形町散歩①

2015年03月17日 00時02分52秒 | 東京関東散歩
 冬は寒くて散歩シリーズもしばらく休んでいたけれど、一雨ごとに春も近づいてきた感じで、町歩きを再開したい。まず「日本橋人形町」を散歩。現在の23区体制になる前の、旧日本橋区の町名には「日本橋」が付けられている。東京メトロ日比谷線都営地下鉄浅草線が通っていて、日比谷線秋葉原駅から2つ目である。JR山手線では、神田駅の東方になる。東京の移動には地下鉄を使うことが多く、地上のようすがわからない。日比谷線は日常的に使うので、昔から数千回は通り過ぎていると思うけど、降りたことは数回しかない。僕に限らず、映画館・劇場・デパートなどがある駅以外は、たまたま通勤通学に使わない限り利用しないだろう。この町には、1970年まで人形町末廣という寄席があったというが、もちろん知らない。日本橋小学校の上にある日本橋社会教育会館で落語を聞いたことが何回かあり、その時に人形町駅を利用している。今は、けっこう古い情緒をウリにしているところもあるようだけど、地下鉄から上に出ると、「からくり時計」が二つある。ちょうど2時に火消しのからくりを見た。
   
 人形町は今ではチェーン店ばかりが目立つ感じだけど、少し歩くと古い感じも残っている。元々なんでここを散歩しようかと思ったかというと、永井荷風の「すみだ川」を読んだからである。幼なじみの女の子が芸者になることとなり、辛い別れがやってくる。「芳町」(よしちょう)に出るんだという。これがよく判らない。芸者のいるような町を花街(かがい)というが、昔から「東京六花街」というのがあるんだという。柳橋という場所は今では一つも料亭がないので、代わりに向島が入って、芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草・向島を言う。花街にはなじみがないけど、芳町以外の街の名前はどこも有名で知っている。芳町だけ知らないんだけど、調べると「日本橋芳町」という地名がかつてあり、今は人形町なのである。地下鉄を出てすぐ「大観音寺」という寺がある。その寺に入る路地が何だか古そうな情緒を感じられる道だった。防火用井戸まで現存して使われている。
   
 大観音寺はこんなお寺。
  
 その路地を通り抜けて、左へ曲がって、さらに曲がって大通りの人形町通りに向かうと、そこに「谷崎潤一郎生誕の地」という碑が出てくる。ビルの半地下みたいなとこにあるから、大きな車が停まってると気付きにくい。上に「にんぎょう町谷崎」というお店が出来ている。ここで生まれていたのか。漱石、荷風、龍之介など東京生まれの近代作家の中でも、下町ど真ん中である。震災以後、関西に移住し、近代東京のモダン青年のイメージが薄くなってしまっているかもしれない。生誕の地の字は松子夫人のもの。上に「細雪」というお菓子の広告がある。
   
 谷崎生誕地のビルから道を隔てて、「玉ひで」がある。「親子丼」発祥の店で、1760年創業だというから長い。11時30分から13時まで並ぶと、ランチで特製親子丼が1500円。昔たまたま昼に通った時、ズラッと並んでいて、ここが「玉ひで」かあと感心した。入ったことはない。食べずに死にそうな気がするけど、まあそんなに悔いはない。近くにも古そうな店があって、そういうところが面白い。
  
 写真ばかりで長くなるので、2回に分けようかと思うけど、大観音寺や「玉ひで」の一角にあるものを少し。大観音寺の隣の路地をもっと通り過ぎていくと、初めて見ると何だろうという大きな建物がある。それが「日本橋小学校」で、上に「日本橋図書館」「社会教育会館」があるのである。複合施設になっている。ここの一角に「西郷隆盛屋敷跡」という案内がある。こんなとこに住んでたのか。でも、まあ案内板一枚ではなにも情緒を感じるわけではない。ところが、向きを変えると、後ろに都心にこんな建物が残ってるのかというトンデモ物件があった。
    
 さて、一回目の最後に。小学校から少し行った角に、「鯨と海と人形町」というパネルがあり、鯨の彫刻が置かれている。なんで鯨かは写真を拡大して読んでください。人形町の由来とも関わる話なのだが、それは2回目に書きたい。
  
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レイス・チェリッキの映画-現代アジアの監督⑥

2015年03月14日 23時41分12秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターの現代アジア映画特集。最終週はトルコレイス・チェリッキ(1860~)という人である。全く知らない。映画祭等での受賞歴もないようだけど、トルコに関心があり、クルド人問題などに関する「問題作」が多いらしいので、これも見ようと思う。トルコ映画といえば、クルド系で獄中から監督したユルマズ・ギュネイ(1937~1984)を思い出すけど、わずか47歳で亡くなった劇的な人生(貧しい少数民族出身の人気俳優から、逮捕、獄中監督、脱獄、フランス亡命、カンヌ映画祭パルムドール受賞…)も、その後回顧上映も行われてこなかったので、忘れられているかもしれない。近年、トルコ映画はけっこう映画祭で注目されていて、特に2014年のカンヌ・パルムドール受賞のヌリ・ビルゲ・ジェイランの3時間16分(パルムドール史上最長という)にわたる「雪の轍(わだち)」もいよいよ公開される。また、セミフ・カプランオール「卵」「ミルク」「蜂蜜」のユスフ三部作も思い出に残る。

 まずトルコという国の問題を先に書いておく。トルコの重要性は近年非常に大きくなってきた。ヨーロッパ世界と「中近東」(イスラム教世界)の接点にあり、古くから東西交通の交点だった。トルコ周辺は第二次世界大戦後、ずっと世界の焦点で、例えば「イスラム国」国問題も、経済危機のギリシャもトルコの隣国で起こっている。ソ連崩壊以後、中央アジアのトルクメニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、カフカス地方のアゼルバイジャンなど多くのテュルク系(トルコ系)民族が独立国家を形成し、トルコとの協力関係も深まっている。ロシア内のタタール人、中国内のウィグル人もテュルク系。オスマン帝国崩壊後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクによるトルコ共和国建国により、イスラム教を国教としない世俗国家が成立した。しかし、近年のエルドアン大統領(2014年、首相から大統領に就任)により、イスラム化が少しづつ進行している感もあるし、最近の大統領の言動には、強権化、独裁化の兆しも見られる。でも、エルドアン時代に経済の成長が続いてきたのも確かで、政治的、経済的、文化的にものすごく重要である。ロシアへの対抗意識から、日露戦争の頃から親日的とされる。

 そんなトルコなんだけど、トルコ文化の紹介は少なく、ノーベル賞受賞作家オルハン・パムクの小説の翻訳とときたまのトルコ映画紹介ぐらいしか、なかなか触れる機会が少ない。(古代トルコ文明展などは結構あるけれど、現代文化という意味である。)その意味で、今回のレイス・チェリッキの上映は期待するところだったけど、映画そのものの評価としては一番、「普通の社会派」っぽい映画が多かった。もともとジャーナリストだったということで、その意味で「現実を伝えたい」という問題関心から映画製作を行ってきたんだと思う。デビュー作の「そこに光を」(1996)は、一番そういう感じがする作品で、まだ習作という感じも残る。クルド人が居住する東部辺境地帯の厳しい現実を描く作品だが、3000mを超える山々の雪に閉ざされた自然も印象的。「ゲリラ」と言われているけど、クルディスタン労働者党(PKK)による激しい内戦が続いていた時代の話である。バスが襲われ、政府に協力して「自警団」に入った住民が引き出され、銃殺される。軍は追撃隊を出すが、大雪崩にあってゲリラ2名と軍の隊長だけ生き残る。この両者の逃亡と追跡を描く映画だけど、最後に出てくる老人(村人が逃亡した中で1人村に残っていた)が軍とゲリラを非難する。監督は両者ともに批判するような作りになっていると思ったが、「ゲリラ」側も村人に対して「テロ組織」のような意識を持っている(ように描かれている。)当時の情勢として、非常に勇気ある作品だと思う。

 次の「グッバイ・トゥモロー」(1998)は、かつての軍政時代に共産主義運動で死刑になったデニズ・ゲズミスという青年活動家を描いている。実話に基づくというけど、この人名を検索しても映画のこと以外にはよく判らない。非常に緻密に描かれた「死刑執行までの社会派映画」で、当時のフィルムを交えたドキュメント的な映画。ドイツの「白バラ」、スペインの「サルバドールの朝」みたいな感触で、国と時代が違うけど、似たような出来事が起こったということだろう。「トルコ人民革命党」だったか、確かそんな名前だから、世界的な「極左組織」を扱った映画にも似ている。映画としてはデジャヴ感が強いんだけど、トルコで作られた勇気と重要性は頭では理解できる。

 「頑固者たちの物語」(2004)はガラッと変わって、民話的なファンタジーに近い傑作。舞台はまた東部辺境地域となるが、政治的な映画ではなく、そこの地域の伝説などをもとに「頑固者」の男たちを描く。大雪の中、ミニバスの運転手と馬ぞりの馭者がどっちが村に早く着くか競争になる。乗客は無理しないでくれというけど、「頑固者」はいうことを聞かない。そりは凍った湖上を通ろうとするが、追いつくためにバスも氷に乗り出そうとする。そんな中で、さまざまのエピソードが語られていく。結婚式の席上、賭けをしたまま決着がつかずそのことに我慢できない頑固者。村娘と結婚したい息子を金持ちの娘と結婚させたい有力者が、村娘にこたえられそうもないパズルを出す男。ところが、期限の40日も終わるころに、涙とともに解答が見つかる。そんなエピソードは本当にあったのかも、いつの時代のことかもわからないけど、淡々と語られる中で辺境に生きる「頑固者」が生き生きと描かれる。命を粗末にするほど頑固なのも困るし、恐らく家族に迷惑な家父長なんだろうけど、そう言う側面の批判はおさえて、民話的に語られている。

 4本目の「難民キャンプ」(2008)は、クルド人の大人しい青年が、放火の疑いで軍ににらまれ、国外に逃がすことしかないだろうとドイツに逃れて、そこの「難民キャンプ」(というより、収容所という感じの大きな建物で、日本と同じ)で暮らすようになり。そこには同じクルド人も多いし、アフリカからの人もいる。どうすればドイツの裁判所に認められるかなどを考え、突然「自分は同性愛で、本国では迫害される」などと主張を変えるものもいる。主人公は地主の息子で、ゲリラではないから、逆にクルド人難民の中でも孤立する。絵の好きな芸術家タイプの青年で、画家の先生から離れて村の娘とデートしてる時に、小麦畑が放火される。ガソリンを撒いているから、完全に放火。どうも地主の父が軍になびかず、ゲリラにも中立だったから、軍ににらまれ放火事件が起こされたらしい(と匂わせられているが真相は判らない)。そのため運動家でもなく、「経済難民」でもなく、外国で生きていく決心もないまま、ドイツに行ってしまったのである。この主人公のドイツでのアイデンティティの揺らぎが悲劇的に語られる。語り口は洗練されて、見応えがあった。「先進国」を目指す「難民」の事情が様々に描き分けられ、題材的に興味深い。典型的な社会派映画だと思う。4本通して、辺境部の自然環境の厳しさが印象的。そして、そこでの軍事的な緊張感の激しさ。ロシア、中国、インドなんかも、大都市は発展していても辺境部は軍事的緊張関係にあるというところは共通なのではないかと思うが、トルコの場合もイスタンブールでは判らない現実があるわけである。
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高倉健の「任侠映画」-高倉健の映画③

2015年03月13日 23時34分04秒 |  〃  (旧作日本映画)
 高倉健は60年代半ばから70年代初頭にかけて、多数の「任侠映画」に出演した。「やくざ映画」であるが、東映は「任侠映画」と呼んでいた。63年の「人生劇場 飛車角」以後、64年に始まる「日本侠客伝」シリーズ、65年に始まる「昭和残侠伝」シリーズが続々と作られた。65年に始まる「網走番外地」シリーズも「やくざ映画」には違いないが、現代を舞台にしていて、明治から昭和初期の時代設定が多い任侠映画とはちょっとムードが違う。また藤純子の「緋牡丹博徒」シリーズ、あるいは単発の任侠映画への出演も多かった。自分にとっては、同時代的に見た映画ではない。最後の頃のようすは見聞きしているが、中学生や高校生が見にいく映画ではなかった。大体洋画のロードショー以外は見なくて、日本映画は高校生が見に行く映画じゃなかったのである。(ATGのアート映画はまたちょっと別で、個人的には大島渚「儀式」や寺山修司「書を捨てよ町に出よう」などを見に行っていたけど。)

 その後、任侠映画に「名作」がたくさんあると言われるようになっていき、銀座並木座とか池袋・文芸地下などでたくさん上映されるようになった。僕が見たのはその時で、「明治侠客伝・三代目襲名」とか「博奕打ち 総長賭博」などの名作を見て感心した。だから、僕にとって「任侠映画」は高倉健というよりも、鶴田浩二藤純子の映画という印象があった。やくざ映画と言えば、賭場の縄張りや組長の跡目をめぐる組織内の争いを描く映画と想いやすい。確かにそう言う映画がいっぱいあるのだが、今回高倉健の任侠映画を何本か見て、高倉健が「やくざ」である映画が少ないのに改めて気づいた。「日本侠客伝」(64)では木場の職人をまとめる「木場政組」に所属している。「日本侠客伝 関東篇」(65)に至っては伝統的な職人でさえなく、初めは船員だが飲み過ぎて船に乗り遅れて、やむなく築地魚市場で働くというコミカルや役柄である。全体としては「職人」の世界を描くという感じが強い。

 「任侠映画」はあまり好きではない。大体それほど見ていない。東映の時代劇もそうなんだけど、同工異曲が多くてたくさん見ると飽きてしまう。それはプログラム・ピクチャーの宿命でもあるけれど、日活アクションやロマン・ポルノはロケが多くて、そこが今見ると面白い部分がある。娯楽映画は公開時期が先に決まっていて、スターの撮影期間は限られる、そんな環境で作られる。だから、同じセットを使いまわしたり、どこかで見たようなロケ場面が出てきたりする。それでも面白い映画は面白いんだけど、時代劇や任侠映画はセットの制約上、どうしてもラストの見せ場が似てきてしまうので、他の映画以上に「似てるな」度が高くなる。(特に「日本侠客伝」(脚本・笠原和夫)と「昭和残侠伝 血染めの唐獅子」(1967、脚本・鈴木則文、鳥居元宏)は、木場が浅草のトビ職人・鳶政に代わっただけで、全く同じ話になってる。笠原和夫も憮然としたらしいが。)

 「やくざ」はアウトロー集団ではあるが、伝統的な価値感の護持を掲げて活動するから、映画においても現実世界においても、保守的、さらには右翼的な存在だったりする。映画において強調される「親分子分関係」も「自立した個人」ではないから、若い時代には「否定されるべきもの」と思っていた。「義理人情」の世界を強調する任侠映画は、だから苦手で好きになれなかったわけである。でも、今回初めて見た「日本侠客伝 刃(ドス)」(71、小沢茂弘監督、笠原和夫脚本)では、高倉健はやくざではなく、郵便馬車の車夫である。九州から母の実家の金沢を訪ねてきて、車夫の仲間に入る。そこの社長は民権派の政治家で、渡辺文雄が率いる国権主義的な組織が選挙を卑劣な手段で妨害する。だから、ラストでは高倉健は自由民権運動のために、右翼組織に殴りこむという「左翼的ヒーロー」である。この映画は、いつも悪役の常連の山本麟一や汐路章が高倉健の仲間の車夫であるという点でも異色。なんだか他の任侠映画の逆を行くような映画だが、こういう映画もあるのである。

 高倉健の任侠映画の最高傑作は、「昭和残侠伝 死んで貰います」(70、マキノ雅弘監督)だろう。ここでは深川の名料亭の長男だけど、グレてやくざになり、いかさま賭博を見破ってケンカになり傷害で刑務所に入る。刑期を務める間に関東大震災があり、父と異母妹が死に、料亭は義理の母と義弟が継いでいる。実母が死んで義母に妹が生まれたという環境がぐれるきっかけだから、これは納得できるし感情移入できる。そのぐれてた時に、賭場でカネをなくして雨に降られていた時に、芸者の卵の藤純子に傘をさしかけられ人情に触れた思いを抱く。このちょっとした出会いをお互いに忘れられず、藤純子も売れっ子芸者になっても昔の出来事を忘れない。このエピソードも映画内でだけ許される奇跡の出会いで、任侠映画と言わず日本映画史に残る「男と女の出会い」の名シーンになっている。義理の母も盲目となり、出所した高倉健は料亭に名を隠して戻り、料亭を支える池部良と協力して実家を援けるようになるんだけど…。ここに料亭乗っ取りをたくらむ悪らつな親分と腐敗政治家が乗り出してきて、義弟をだまして権利書を取り上げてしまう。その間の相互の思いやりを巧みに描いて行く脚本が優れていて、泣かせてくれる。具体的には映画を見てもらいたいと思うんだけど、題名だけ見ると殺伐な映画の予感がするが、実際はしっとりした情感にあふれた名作である。

 この映画はもう何回か見ているけれど、よく出来ていて飽きない。そういう名作もあるのである。もちろん最後には出入りとなり、唐獅子牡丹のいれずみを背負って殴りこむんだけど、それもここまで相手が卑劣だと「テロ」に訴えるしかないと見ているものは納得する。ここではやくざの殴り込みではなくて、悪徳企業や政治家の癒着に苦しめられた「職人」階級の怒りの爆発なのである。高倉健の映画では、大体皆同じで、「職人」が悪徳政治家や公務員の腐敗に苦しめられ、最後に怒りを爆発させるという展開である。インドの娯楽映画だと、歌とダンスがあって陽気な殴り込みの印象だけど、日本の任侠映画はもっと暗くてねちっこかった。当時の若い観客の感性にはそれがあっていたのである。

 今見ると、職人世界の一種の「談合」で平和的にすみわけしてきた世界が、自由競争の名のもとに新興企業が進出してくる。そんな構造が任侠映画には大体共通している。しかし、その新興企業は自由な競争によって伸びてきたのではなく、政官との癒着により今までの利権を奪い取ろうとしているのである。これは今の現実世界も同じで、自由競争を強調する人が、実は政治力によって利権を獲得しようとしていることが多い。では、今までの職人世界を守っていればそれでいいのかと言えば、それはそうではないんだろう。でも、映画では許されるファンタジーにより、「職人たちの失われた世界」は一種の理想郷となる。最後には血の犠牲を強いられるんだけど。このような「職人世界」の親分子分関係にユートピアを見ようとする、一種の「反近代映画」が高倉健の任侠映画だと思う。60年代の高度成長期、地域共同体が解体される時代に、共同体から都市下層労働者に「転落」した青年層が任侠映画に熱狂したのは、そのような構造が共感を呼んだからだろう。今見ると、右翼というより、一種の反グローバリズムの抵抗映画に見えてくる。
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快男児のゆくえ-高倉健の映画②

2015年03月13日 00時04分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 2月に「高倉健の映画①」を書いた後で続きを書いてなかった。見たのは2月の後半なので時間が経ってしまったが、一種の日本社会論なので書いておきたい。内容的に、初期作品と任侠映画に分かれるので、記事も別にする。高倉健(1931~2014)という人は、映画が「娯楽の王様」だった時代に、スターシステムにより毎週のように映画が作られ続けていた時代の「スター候補」として出発した。東映の「ニューフェース」2期生で、1956年のデビュー作「電光空手打ち」ですでに主演している。50年代後半にかなりの数の映画に出ているが、見ているのは内田吐夢監督「森と湖のまつり」(1958)だけである。この映画は武田泰淳原作の「純文学」を「巨匠」が映画化した作品で、高倉健はアイヌ青年を演じている。今思うとここから高倉健は北海道に縁があったわけだが、高倉健映画としては異色である。当時の主演作品の名前だけ見てみると、現代アクションや会社を舞台にした青春映画が多い。

 今回見た初期作品は、「万年太郎と姐御社員」(小林恒夫監督、1961)、「悪魔の手毬唄」(渡辺邦男監督、1961)、「東京丸の内」(小西通雄監督、1962)、「恋と太陽とギャング」(石井輝男監督、1962)の4本。いずれも面白かった。面白かったと言っても、まあ「通好み」的な面白さかもしれないが、通常の娯楽映画が今見ても十分面白く見られるというのはすごいことだと思う。高倉健がエライのではなく、脚本や撮影、照明などの娯楽映画を作る手際がうまいのである。だから話は大したことはなくても、スラスラ見て映画に入りこめる。「悪魔の手毬唄」を最初に書いておくが、1977年の市川崑監督、石坂浩二主演版(ベストテン6位に選出)と比べてはいけない。僕にとって、名探偵・金田一耕助のイメージは、角川が仕掛けた横溝正史ブーム時代の石坂浩二である。でもまあ、いろんな金田一があってもいいじゃないか的に大らかな気持ちで見てみれば、高倉健の金田一も楽しめる。珍品ではあるし。渡辺邦男監督だから、多くを期待してはいけない。まあ、そこそこ見られるということである。

 「恋と太陽とギャング」は、新東宝で「黄線地帯」などを作っていた石井輝男の東映移籍4作目。まあ東映というかニュー東映というんだけど。後に「網走番外地」を作って高倉健をブレイクさせる石井監督の高倉健初作品。「花と嵐とギャング」に続く現代アクションで、これは見てないけど、続く「霧と影」「黄色い大地」の水上勉、松本清張の推理小説映画化は結構面白く、次がこの作品。ギャングシリーズになって、高倉健も他に何本か出ている。脇役が豪華で、丹波哲郎、清川虹子、三原葉子、江原真二郎、由利徹、三島雅夫、千葉真一ら当時の俳優としての格は様々だが、今見てこれだけ揃ってればそれだけで楽しい。コメディタッチの犯罪映画で、白黒の撮影が素晴らしい。十分に面白い映画だけど、高倉健は二枚目半というか三枚目というか、そういう役柄で、まだスターとしての役柄が固定していない「模索期」だったんだなと思う。

 「模索期」を脱するのは、1963年の「人生劇場・飛車角」の宮川役である。義理と女への愛に引き裂かれるヤクザ役で、そこから東映自体が時代劇から任侠路線に進むきっかけとなった。(時代劇はテレビの中で生き延びることになる。)これがまあ「定説」なんだけど、今回初期サラリーマン映画を見て、任侠映画も何本か見てみると、けっこう似たような「性格設定」(キャラクター)が共通しているように思われた。それは一言で言えば「快男児」という、今では一発変換できない死語である。「快男児」というのは、いわば漱石の「坊ちゃん」のような存在で、やんちゃな正義漢であり、傍から見ると多少変人性もあるのでコミカルに描けないこともない。でも、一本気な「漢気」(おとこぎ)を持ち、筋が通った生き方で皆を鼓舞して、不正を弾劾する。「好青年」という言葉もあるけど、既成の体制にとって「好青年」は怖くないけど、「快男児」は「敵」になりうる。東宝の若大将シリーズの加山雄三は、「快男児」性もあるけど「好青年」のイメージの方が強い。日活の渡り鳥シリーズの小林旭は、「快男児」だけどコミカル性が結構強く「好青年」っぽい部分もある。

 そう言う風に見てくると、高倉健の「万年太郎と姐御社員」と「侠骨一代」「日本侠客伝 刃(ドス)」なんかのキャラクターはほとんど同じで、「快男児」そのものである。組織の中で「抵抗」もできる役柄で、「狷介」(けんかい=頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと)な一面が強くある。そこは「野生の証明」や「南極物語」などの後期映画にも引き継がれていくキャラクターである。任侠映画のことは次回に回すが、「万年太郎」シリーズの万年太郎という主人公も、曲がったことが嫌いでケンカばかりして北海道に左遷されるところから始まるのである。そこでは伊藤雄之助と星輝美(全然知らない女優だが、魅力的な相手役をやってる)だけが正義派で、後は課長を中心にした「賄賂商法」が牛耳っている。そういう社風を一新するために万年太郎は立ち上がる…という、これまた北海道を舞台にした痛快娯楽編で、楽しく見られる。言っちゃなんだけど、この程度の映画に、伊藤雄之助はじめ月形龍之介、上田吉二郎、三島雅夫、花沢徳衛などの「豪華脇役陣」がそろってる。いつも悪役の三島雅夫が、ここではガンマニアの社長(クレードルという喜茂別町にある実在の高級缶詰会社)を嬉々として演じているのもおかしい。後の参議院副議長、山東昭子がアイヌ娘で出ているのもご愛嬌。
 
 「東京丸の内」は、佐久間良子が実にキレイで見とれてしまうようなサラリーマン青春映画。山男の高倉健は佐久間に好意を持ってるが、佐久間にはすでに良縁がある。でも、貧乏な家庭育ちの佐久間は、御曹司の彼の母に気に入られず、結局「家柄」のいい娘に乗り換えられてしまう。そこに社内の派閥争いが絡み、恋愛がタダの好き嫌いではなく、もっと「オトナ」の思惑で左右されてしまうことになると、高倉健と佐久間良子は自分たちは自分の愛情を貫いて生きると宣言して終わる。丸の内のオフィス街の映像(白黒だけど)も面白く、高倉健のスーツ姿もカッコいい。この映画の高倉健も「快男児」で、山男という設定からも「会社の奴隷」ではないというムードを出している。「万年太郎」とともに、源氏鶏太原作。今は忘れられている直木賞作家だけど、この手の企業小説、青春小説を山のように書いた人で、主人公は「快男児」っぽい役柄ばかりである。

 当時の映画に「快男児」がいっぱい出てくるのは、直接には当時の「大衆小説」(ほとんどが映画化される)に「快男児」ものが多かったからだと思う。社会的にも、まだ戦争の記憶が色濃く残り、男優は皆兵隊がすぐできると言われた時代で、男の中のケモノ的な部分を表出する(できる)俳優が多かった。三船敏郎なんかが典型。東映の場合も、時代劇を支えた中村(萬屋)錦之介の役柄はほとんどが痛快で、気風がよく、不正を嫌う快男児ばかりである。他の俳優も大体同じだけど、大友柳太郎など「快男児」がそのまま年取ってしまったような役柄を一生演じている。そういう東映の生み出してきたスターのイメージが、やはり高倉健の中にも残り続けているのだと思う。そして、それが東映を離れて「国民的スター」になっても基本的なイメージとして残り続ける。それは人が男優スターに求めるものは、単なる「好青年」ではなく、また複雑な役柄を演じ分ける演技派でもなく、負けを恐れず巨悪に立ち向かう「快男児」だからだろう。

 こういう「快男児」は、大衆文化の中から消えてしまった。今の男性スターは「好青年」ばかりである。または「演技派」。それは70年代半ばから、もうそうなってたと思う。黒木和雄の傑作「竜馬暗殺」で泥臭い竜馬を原田芳雄が演じたのが典型。まあ、あれはATG映画だけど、原田芳雄がスターになるという時代に、単なる快男児は描けない。若松孝二が佐々木譲の原作を映画化した「われに撃つ用意あり」(1990)の原田芳雄を見れば、もはや屈折や屈託を抱えることなく、ただ不正を憎む心だけで「快男児」になれる時代ではないことがよく判る。社内の専務一派をやっつければ社風を一新できると言った万年太郎時代の素朴な正義感では戦えない。76年のロッキード事件(全日空の新機種選定に田中角栄元首相が関わったたとして逮捕された)のころに「構造汚職」という言葉が有名になった。もはや政官財の癒着が構造化してしまったと認識されれば、快男児一人が何を変えられるというのだろうか。皆がそう思った時代に、快男児というスターは死滅して、テレビの中に好青年が生き残るんだと思う。
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