尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

黒沢清監督「散歩する侵略者」

2018年01月30日 23時16分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 2017年9月に公開された黒沢清監督の「散歩する侵略者」を今頃見たんだけど、とても面白かった。黒沢清監督のことは何度か書いてるが、クリストファー・ノーランなんかと並んで相性が良くない監督だ。見ないつもりじゃなかったんだけど、「宇宙人もの」こともあってつい見逃した。今後あちこちの名画座で上映されるだろうが、是非見ておいて欲しい映画だと思う。

 劇団イキウメの主宰である前川知大の舞台を映画化したものだが、僕はその舞台も見てない。身近な人が宇宙人だったというような設定は、教員時代の経験から敬遠したくなってしまう。なぜか日本に宇宙人が地球侵略の「先遣隊」のようなものを送ってくる。(いや、地球のあちこちにも来たのかもしれないが。)3人の人間の身体に侵入し、人類を「研究」する。この設定は地球侵略が真顔で語られるとはいえ、むしろ「人類」とは何なんだろうという思いを見ているものにもたらす。

 そこが物語としての面白さで、非常によく出来た脚本だと思う。夫の加瀬(松田龍平)が宇宙人になってしまった妻(長澤まさみ)が、次第に夫が宇宙人であろうがなかろうがつながりを求めてしまう設定が興味深い。週刊誌記者の桜井(長谷川博巳)は若者に宇宙人と名乗られ、つい「ガイド」として一緒に行動してしまうようになる。この人間側の二人がうまく、訳が分からなくて信じていいんだかどうだか判らない状況に観客も同調して見ることになる。

 その結果、こちらも「人間ってなんだ」と考えてしまう。人間の持っている「概念」を奪ってしまえる力を持ち、概念を取られた人間はもう元に戻れない。そういう設定になっていて、宇宙人は人間を理解するためにどんどん「概念泥棒」を続ける。その結果、おかしな行動を取る人間が多発する。「仕事」という概念が判らず、イラストレーターの妻の仕事先の社長(光石研)から「仕事」概念を奪ってしまう。そうすると、彼はもう仕事が出来なくなり「奇行」を繰り返す。

 そんな中で、宇宙人が判らないのは「」という概念。教会に行って牧師に聞くと、パウロの手紙で説明されるが、理解できないから奪えない。長澤まさみは「愛が判らないと人類は理解できない」とか言うんだが。そんな宇宙人を国家権力が追い詰めていって、果たしてどうなるか。黒沢清は昨年の「クリーピー 偽りの隣人」「ダゲレオタイプの女」のどっちも出来が良かった。好きか嫌いかという問題はあるが、ここまで安定した力作を連発している映画監督は少ない。笹野高史や東出昌大(牧師役)、長澤まさみの妹役の前田敦子、最後に出てくる小泉今日子など、豪華なチョイ役も楽しい。
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松岡茉優が素晴らしい、映画「勝手にふるえてろ」

2018年01月17日 22時34分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 綿矢りさ原作を大九明子(おおく・あきこ)脚本、監督で映画化した「勝手にふるえてろ」は評判通りに面白かった。もともとミニシアター向け公開だったけど、面白いと評判を呼んでシネコンでも上映された。何しろ主演の松岡茉優が圧倒的に素晴らしく、面白いことこの上ない。松岡茉優のコメディエンヌとしての才能を十分に発揮させたスタッフの力と企画が素晴らしい。

 24歳、某会社の経理で働く雪国育ちの江藤良香(ヨシカ=松岡茉優)は中学2年生の時から「脳内交際」(つまり勝手な片思い)を一途に続けている。彼の名前が一宮だから、それが「」。ところが、ところが、人間関係に不器用で、「彼氏いない歴人生全部」のうら若きエトウヨシカを「発見」した男が同じ会社に表れた。「人生初告られ」に舞い上がりつつも、やっぱり私は「イチ」が好きと思い、その霧島クンは「」と命名してスマホに登録することにする。

 一人暮らしのアパートで、ネットを見ながら「絶滅した生物たち」を検索するヨシカ。絶滅になぜかひかれ、ついにはアンモナイトの化石を買ってしまう。しかし、現実に出現した「二」は現実にお誘いを掛けてくるのに対し、脳内に生息するだけの「一」はどこにいるのか? この深刻な疑問に直面して、ついには正月の帰省時に何としても「一」に会えるような「秘密工作」を開始するのだが、果たして「一」には会えるのか? 会ったとしても新展開はあるのか???

 喜劇というのは、主人公が常識離れした設定になってることが多い。チャップリンの映画でもやり過ぎ的設定が多いし、寅さんが何度も何度も美人に惚れては「反省」を重ねながら、また同じことを繰り返す設定も変である。だが、そういう日常を乗り越えているような主人公がいるからこそ、われわれの拠って立つ世界を相対化できる。この映画のヨシカも、最後の頃の行動はやり過ぎだし、見てて「イタイ」という域を飛び越えて、ちょっとあんたどうすんのよと思わず突っ込みたくなる。

 全体的に「脳内独り言」に周りの人も乗ってくるなど、ノリノリ的演出が面白い。オカリナを吹く謎の隣人、片桐はいりも例によっておかしい。中学時代に「視野見」(視野の端っこで見てないように見るヨシカ独特の見方」をしていた「一」とは、絶滅生物をめぐって話をすることができたけど…。一方、「二」もけっこう変なお誘いが多い。クリスマスのお誘いなんだったら、遊園地とか水族館、あるいはせめてヒットしている映画とかじゃあないですか、普通。普通じゃないとこ誘っちゃいけないことはないけど…。と「一」と「二」をめぐって揺れ動くヨシカだったが。
 (前が「一」で、後ろが「二」)
 松岡茉優は意外な感じだが、初の主演。「二」は渡辺大知、「一」は北村匠海。監督・脚本の大九明子(1968~)は初めて見たけど、「恋するマドリ」「東京無印女子物語」「モンスター」「でーれーガールズ」などを作ってきた人。とても元気がいい映画だけど、ヒロインに共感できるか、できないか。ちょっとやり過ぎなとこも多いと思ったけど、映画としてはよく作られている。スマホ(「ライン」)時代の恋愛模様を描いて必見の映画。だけど、こういう時代も大変だなあと思う。
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大林宣彦監督の映画「花筐」

2018年01月05日 23時38分07秒 | 映画 (新作日本映画)
 大林宣彦監督の新作「花筐/HANAGATAMI」を見た。寒い一日だったけど、今日を逃すと見れないかもしれないと思った。一日に3回しか上映がなくて、なんと168分もある。近年の「この世の花 長岡花火物語」や「野のなななのか」も同じぐらい長い映画だった。合わせて戦争三部作とも位置付けられる。大林監督は1938年1月9日生まれだから、もうすぐちょうど80歳である。「花筐」は劇場映画第一作の「HOUSE」より前に脚本が出来ていたという。ガンにより余命宣告されながらも、執念で作り上げたような大林映画の集大成である。この映画をどう見るか。

 そもそも「花筐」とは作家檀一雄の1937年の短編小説である。「夕張胡亭塾景観」という小説が芥川賞候補になって、「花筐」も評判を呼んだ。しかし、1937年の日中戦争勃発で召集され、1940年まで軍役を務めた。最近文庫で再刊されたので読んでみたが、これだけじゃ短くて映画にならない。他の短編をいくつか合わせてシナリオにしている。小説では架空の町になってるが、生前に作家本人から佐賀県の唐津と言われていた。今回唐津市民の全面的協力を得て映画になった。

 この映画をどう見るかはけっこう難しいと思う。「尾道三部作」のような青春映画で有名になった大林監督だが、最近の2作品は各地の人々の協力を得ながら、シネマエッセイとも言えるような自由奔放な映像だった。それも戦争で亡くなった人々への鎮魂を目的とするような映像だった。大林監督の映画をずっとロードショーで見ていたのは20世紀のこと。もう最近は「なごり雪」も「22才の別れ」も見なかった。直近の2作品も最初は見なかったけど、評判を呼んでから見たのである。

 今回の「花筐」もその続きと言えるけど、青春映画の趣も戻っている。華麗なる映像美も懐かしい。魔術的な特撮や編集を思いっきり堪能できる。その映像にひたすら浸っていればいいとも言えるが、去りゆく青春への惜別若くして亡くなる人々への愛別離苦の思いが胸を撃つ。宣伝では反戦映画のようにうたっているが、それよりも青春映画であり、青春を圧殺するものへの満身の抗議という意味で時代の悲劇に向き合っている。痛ましいほどに心の傷を見つめている。

 ある大学予備校で三人の少年が知り合う。語り手である榊山俊彦(窪塚俊介)、鵜飼(満島真之介)、病弱の吉良(長塚圭史)である。これに道化役の阿蘇(柄本時生)もいる。映画の最初の出会いなどは原作通り。榊山の近くに親戚がいて、そこには従妹の江馬美那(矢作穂香=やはぎほのか)と義姉の圭子(常盤貴子)が住んでいる。美那は肺病を病み、義姉の圭子は夫が戦死したばかり。美那の友人であるあきね(山崎紘奈)は鵜飼の恋人、千歳(門脇麦)は吉良の親戚だった。彼らは屋外でピクニックをしたり、江間の家でパーティを開いたりして交友を深める。

 と言っても伝わらないだろう。原作にもある複雑な関係が、映画だと実際の俳優が演じて判りやすいとも言えるが、青春の移ろいゆく愛情と友情のもつれでけっこう複雑。結核と戦争による死の影が全編を覆い、愛と性のめざめを彩る。1937年の原作だと戦争体制を描くには不十分だが、映画では日米戦争開始頃までを描くので、時代の危機も深まっている。(ちょっと時間的な処理が判りにくい。)この後も男は戦地で、女は結核や空襲で何人も死んでゆく運命にあるのだろうなと感じさせる。

 そんな死へ向かう戦時下の青春を特撮など映像技術を駆使して描きたいというのが、この映画だろう。映像美や特撮の華麗なるテクニックに魅せられるだけで済まない、この映画の怖さがそこにある。バッハの無伴奏チェロ組曲第一番が流れ続けるのも、運命的な感動をもたらしている。俊彦と鵜飼が裸で馬に乗って海辺をゆくシーン、鵜飼が年上の圭子(赤いドレスが素晴らしい)と踊るシーン。千歳が病身の美那のヌード写真を撮るシーンなど、ずっと忘れられないような鮮烈なシーンが随所にある。唐津おくんち祭りが描かれるシーンも印象的。

 だけど、この映画を見て、これは何だろうとも思う。人はすべて去りゆくが、だからこそ若い人の人生を狂わせる戦争というものへの恐怖。単に平和を訴えるというに止まらない、戦争の足音が近づいているという恐怖の思いを感じるのである。と同時に、この映画はかつて作った福永武彦原作の「廃市」のような滅びゆくものへの憧れのようなものも感じる。「滅びの美」といったようなもの。濃厚な滅びへの指向もまた、映画の中の人々に流れている。その双方があって、複雑な映像世界になっている。
 (大林宣彦監督)
 なお、「花筐」の「」とは「かご」のことで、つまり花籠。だけど、世阿弥の能の題名でもある。ウィキペディアを見ると、皇位を継ぐ皇子が越前から都へ行くときに、最愛の女性に花筐を贈る。女は愛するあまり都まで皇子を追ってきて、紅葉狩りの時に近づこうとするが狂女とされ花筐を打ち落とされるといったストーリイだという。映画では常盤貴子がこの舞いを踊るシーンがあるが、狂女のイメージが背後に隠されていたのかと思い至る。

 ところで東京では現在は有楽町スバル座でのみ上映されている。日本初のロードショー映画館で、僕は1970年に「イージーライダー」が大ヒットして半年ぐらいやっていた時から行っている。今どきロードショー映画館で、全自由席、ネット販売無しという珍しい劇場である。椅子はよくなってるけど、映画館そのものは昔通りなんじゃないか。それはいいんだけど、前の方左右にある避難誘導灯がついたままなのは何とかならないだろうか。天井の照明が少しついてるのは我慢できるけど、避難誘導灯は普通消すと思うけど。
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入江悠監督「ビジランテ」

2017年12月30日 21時11分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 年末になって映画の新作旧作を見て回っているが、入江悠監督の「ビジランテ」は迫力があって見どころも多い。日本の地方都市に根強い暴力と腐敗を背景に、三兄弟の相克をここまでやるかと暴き出す。血と暴力描写が嫌な人には向かないけど、入江監督の才気を存分に味わえる出来だ。

 入江悠(1979~)は映画ロケによく使う埼玉県深谷市に育ち、日大芸術学部卒業後に個人で映画を作って来た。2009年の「SR サイタマノラッパー」が面白いと評判になり各地で上映され、日本映画監督協会新人賞も受賞した。その後、「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」と作られたけど、僕のこのシリーズをごく最近になってようやく見た。こんな面白い映画をどうしてもっと早く見なかったのかと後悔したけど、題名で敬遠していた。(東京東部と埼玉県は圓丈の落語にあるようにビミョーな関係にあるので。)

 2015年の「ジョーカーゲーム」、2016年の「太陽」とだんだん話題の映画を手掛けるようになり、2017年には「22年目の告白 -私が殺人犯です-」を大ヒットさせた。このように今ではメジャーの商業映画でも成功しているんだけど、「ビジランテ」はどっちかというと監督の作品性を打ち出した映画である。好き嫌い、訳が判る判らないを見るものに問うけど、全編力強い緊張感があって忘れがたい。

 冒頭に真夜中の月明かりの下、幼い三兄弟が川を渡って逃げていく。追いかけるのは父親で、子どもたちは母の死後に父の暴力を逃れようとしている。しかし、父は追いつき、下の二人は連れ戻されるが、長男は振り切って逃げていく。そこで30年後になると、葬式の場面。その父が死んだらしい。父は有力者だったらしく、次男が市議会議員になっている。その市ではアウトレットモール計画が進行中で、そのためには父が持っていた土地が絶対に必要。市の有力者は次男に対し、あの土地はお前が必ず相続せよと命じる。というとこに、30年ぶりに長男が戻ってくる。

 その長男が大森南朋、次男の市議会議員が鈴木浩介、三男は桐谷健太で暴力団の下でデリヘル店長をしている。長男はなぜか遺産独り占めの公正証書を持っているが、多額の借金を背負っているらしく、得体が知れない。こうして肝心の土地が長男出現で入手できなくなり、市政の裏側で暴力装置が動き出す。そんな設定で、市の暗部にうごめく欲望が噴出する。

 題名の「ビジランテ」とは何だろうか。Vigilanteとは「自警団」のことで、作品中ではその町の伝統を受け継ぐ自警団組織が出てくる。今は市議会議員の次男が会長をしている。「最近は外国人犯罪が増えている」として自警団に入る若者もいる。モール予定地付近には中国人が集住していて、あつれきもあるようだ。自警団が巡回していて、中国人ともめ大きな衝突になっていく。

 こういう風に、排外意識と暴力、腐敗が交錯する地方都市の中で、三兄弟はどう生きていくか。粗暴なようで謎めいた長男、自分を殺して生きていく次男、下請けの汚れ仕事をしながらも心優しい三男。これが地方都市の実態だというわけではないだろう。韓国映画に「アシュラ」という傑作犯罪映画があったが、そこでも市長と暴力が結びついている。でも、まあ実態というよりも映画的な設定だろう。それでも「閉塞感」が伝わり、なんとなく「いやな予感」がする。

 そりゃまあ、面白く見てりゃいいとも言えるけど、最近こういう「暴力」を描く映画が多いような気がする。若い監督には日本社会がそう見えているのか。映画の出来としては、とてもよく出来ていると思う。入江監督は「物語る才能」があるんじゃないか。一度見始めると止められない面白さがある。それは前作「22年目の告白」にも言えるが、僕は「ビジランテ」の作家性にひかれるものがある。東京ではテアトル新宿で上映中。
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「彼女がその名を知らない鳥たち」とイヤミス映画

2017年12月15日 22時45分35秒 | 映画 (新作日本映画)
 昨日見た沼田まほかる原作の映画「彼女がその名を知らない鳥たち」がロングランされている。今年度の映画賞が早くも発表され始めたが、報知映画賞や横浜映画祭の主演女優賞はこの映画で蒼井優が獲得した。去年の「オーバーフェンス」もそうだったけど、蒼井優は「危ない女」を演じるときの方が輝いている。この映画も一体この女は何者なのかというサスペンスが素晴らしい。

 沼田まほかるは今年「ユリゴコロ」も映画化された。そっちは原作を読んでるので映画は見てない。「彼女がその名を知らない鳥たち」は読んでないので、筋書きは知らないで見た。後半で基本的構図は見えてくるけど、それでもラストは意表を突く。ストーリーよりも、主人公の「痛さ」を描く映画だから、最後まで目を離せない。冒頭から「クレーマー」めいた行為を続ける十和子蒼井優)が実に嫌な感じで出てくる。部屋は散らかり放題だし。そこに「同居人」の陣治阿部サダヲ)が出てきて、風采も上がらない感じなのに十和子に甲斐甲斐しく尽くしている。

 このカップルは一体どうなっているんだ? と映画は謎を出しておいて、現在と過去をパズルのように行き来しながら二人をめぐる人々を追っていく。十和子は壊れた時計にクレームを付けて、デパートの店員水島松坂桃李)と知り合う。十和子は水島に夢中になり帰りも遅くなるので、陣治は心配して探し回る。翌日、心配した姉が現れ、昔の交際相手黒崎(竹野内豊)とまた会っているんじゃないかと追及する。陣治と違って黒崎はいい男だったといつも思い出す十和子だったが、陣治はなぜか黒崎と会ってることは絶対にないという。

 この黒崎とは何者かという謎が出てくるとともに、水島の周りにも奇怪な出来事が相次ぐようになり…。一体何が起こっているのか。ホントはもっと書いてしまいたいけど、これ以上のストーリーはもちろん書けない。この映画はかなりよく出来ているけど、それは登場人物を細かく的確に描き分けた白石和彌監督の手腕だろう。「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」など犯罪映画に才能を見せてきたが、今回もシャープな映像で謎めいた女と男を印象的に見つめている。来年の「孤狼の血」も期待大。

 沼田まほかるは、ちょっと「イヤミス」とは違う作風だと思うが、この映画に関しては主人公の「十和子」が「嫌な女」「イタイ女」として造形されているから、「イヤミス」に近いだろう。その意味では後味もよろしくはない。人間の複雑な心理を描写していくと同時に、複数の人物をモザイク状に積み上げていく。その結果、社会のひずみを一心で背負うかのような、解決しようもない悩みに直面する人物が描かれる。最近はどうもそういう映画がかなり多いように思う。

 大森立嗣監督の「」は三浦しをん原作で、普通の意味のミステリーじゃないけど、25年の時を隔てた犯罪を描いている。井浦新と瑛太の関係性は後味が悪いとしか言いようがない。面白くはあるんだけど、ここで書く気にならなかった。同様に相当の力作だとは思うけど、三島有紀子監督「幼な子われらに生まれ」も見ていてつらくなる。僕は暗い映画は好きな方なんだけど、嫌な人間関係は正直見たくないなあと思う。「幼な子われらに生まれ」は別に悪い人が出てくるというんじゃなく、人間それぞれのすれ違いが見事に描かれていた。

 嫌な映画、嫌な小説が何故存在するのか。誰も読みたくないだろう。と思うと、世の中には相当ある。というか、ミステリーは大体殺人などの犯罪が出てくる。後味がいいわけがないはずで、人は嫌な話が好きなんだろうと思う。離婚騒動などをテレビが追い回すのもそのため。相撲協会の騒動も同様だろう。その奥には金銭欲、性欲、名誉欲、権力欲など「欲望」が潜んでいる。この「欲望」のギラギラに人は引き付けられる。そして日本には、イヤミスの帝王、松本清張がいた。

 松本清張(1909~1992)は没後四半世紀が経つが、今も読まれている。そのかなりが、今で言う「イヤミス」だ。何度も映画化、テレビドラマ化されたし、近年になってもドラマ化される。その魅力は日本の底辺に潜む「悪意」のすごさ、面白さだろう。僕が思うに、世界最凶のイヤミス映画は山田洋次監督の「霧の旗」だと思う。冤罪で獄中死した兄の仇を打とうと、ちゃんと弁護してくれなかった有力弁護士に妹の倍賞千恵子が付きまとう。実に怖い。弁護士も良くなかったかもしれないけど、弁護士だけでは冤罪は成立しない。熱心に弁護しても有罪になった冤罪事件の方がずっと多い。恨むなら、警察、検察、裁判官が先ではないか。その筋違いが怖いし、見るものを嫌にさせるわけである。
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感涙映画「八重子のハミング」

2017年12月02日 23時23分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 もう終わってしまったんだけど、東京に残された数少ない名画座ギンレイホールで、「人生フルーツ」と「八重子のハミング」を見た。飯田橋にあるギンレイホールと高田馬場にある早稲田松竹が、建物もそのままで新作・旧作映画を邦洋問わず上映してくれる「名画座」である。ギンレイは2週間続きの番組だから、来週でもいいやと思ううちに終わってしまう。何とか最終日に見に行ったわけ。

 ドキュメンタリー映画ながらヒットしている「人生フルーツ」を見に来た観客が多いようだった。それも悪くはないけど、僕はもう一本の劇映画「八重子のハミング」について書いておきたい。映画っていうのはいろんなジャンルがある。話題の原作の映画化もあれば、アイドルがはじける青春恋愛映画もある。監督が自己の美学を追求した芸術映画もあれば、社会派のドキュメントもある。そんな中に「良心的映画」とでもいうべきジャンルがあって、僕はあまり見ることはないなと思う。

 子どもが難病になる、老人に介護が必要になる。まあ、そういうことが人生にある。病気や福祉の知識はあった方がいいし、家族や友だちが一生懸命に面倒を見ている姿を見て、考えさせられることが多い。でも、大体は実話をもとにしているそういう映画って、展開が似ている。芸術的にはそんなに新味があるわけじゃないから、ベストテンなんかには入って来ない。でも、とにかく泣ける。皆で安心して見に行ける。劇場公開が終わっても、映画館のない町で公民館などで上映されていくような映画。

八重子のハミング」は山口県萩市で教育長を務めた陽信孝(みなみ・のぶたか)という人が若年性アルツハイマー病の妻を12年間介護した原作をもとにしている。映画では石崎誠吾と名を変えているが、中学校長だった石崎がガンになるところから始まる。最初は夫の方だったのである。随所に短歌がはさまるので、国語の先生だったのだろうか。妻の八重子も音楽の教員で、一緒に山の小さな学校に勤務したこともある。その時は「男先生」「女先生」と呼ばれて、子どもたちに親しまれた。  

 そんな八重子が、夫の看病をする中でおかしなそぶりを見せ始める。外部の見舞客には普通の対応をするけれど、ずっと見ている夫の目からは違和感が募るようになってくる。友人の医者、榎木に見てもらうと、どうも若年性アルツハイマー病ではないかという。そんな中、自分がまたガンになる。仕事もあるし非常に大変になるが、妻は夫の病気を治すために自分が病気になったと周囲に言われて、自分が頑張らないといけないと心を強く持って復帰する。

 そういう日々が多くのエピソードでつづられていく。冒頭から、実は講演会の場面で、その講演の合間に、回想的に昔の話が描かれている。彼は妻の生前から、病気や介護に関する講演活動を行っていた。時には妻を連れて行く。だんだん病は重くなるけど、映画で映像を見ることで病気の様子がよく判る、また家族はどのように接するべきかなど、なるほどと思うことが多い。それらのエピソードが巧みに描かれていくから、かなり涙腺刺激映画になっている。周りでもハンカチを手放せない女性観客が多いようだった。泣けるように作っているんだから、泣くのも当然だが。

 エピソードのいちいちは書かないけど、主人公が言うのは「怒りには限界があるが、やさしさには限界がない」ということだ。そうなんだ、なるほどと思う。また教師として二人で勤務した学校では、誠吾が「元気でいいけど、これでもう少し学力があれば」というと、八重子の方は「元気が一番」といって「教育はすぐに結果が出ない。10年後、20年後のこの子たちが楽しみ」という。

 いつも二人の子供たちと遊んでくれた早紀という少女は、ある日椿の公園にいた二人に会う。今は小さな会社の社長夫人だという彼女は、その後も顔を見せてくれ、いつかは女先生の介護をしたいと介護資格の講座に通っているという。これが「教育はすぐに結果が出ない」という長い目で見た信頼の教育の「成果」なのである。これはとっても感動的なエピソードで、今の学校で一番大切なことじゃないだろうか。学校が目先の成績を競うことになってはいけないのである。

 「ハミング」というのは、もともと音楽教師だった八重子は病が重くなっても音楽に反応するのである。「ふるさと」を一緒に体を動かしたり。谷村新司が好きで、「」や「いい日旅立ち」が特に好きだった。(ラストに「いい日旅立ち」が流れる。)トイレでもなかなか脱げないのに、なぜか「長州なのに会津磐梯山」と主人公がいぶかるけど、会津磐梯山は宝の山よと歌うとおとなしくなる。

 家族がみな協力的だし、主人公は神社の神官であるらしく、家もしっかりしている。早期退職しているとはいえ、当然退職金はかなりあっただろうし、共働きだったんだから年金も相当になるだろう。家族が難病になると、金の問題も出てくるし、誰が介護するかで家族もバラバラになりやすい。そういう負の問題がここには全然出てこない。八重子の病気が最大の葛藤で、ドラマに他の問題が出てこない。出来過ぎな感じなんだけど、それはこういう映画に求めるものではないのかもしれない。

 そんな八重子は何十年ぶりに映画主演の高橋洋子。「旅の重さ」や「サンダカン八番娼館 望郷」で思い出深い女優だが、若い人には初めてかもしれない。「北陸代理戦争」のトークショーで、この映画に久しぶりに出た話は聞いていた。夫の石崎誠吾は升毅(ます・たけし)。人生初主演を、丁寧な役作りで好演している。友人の医者榎木は、誰だろうと思ったら梅沢富美男。今じゃ「プレバト」で俳句名人の印象ばかり強くなって、つい誰だと思ってしまった。長女は文音(あやね)。

 監督は佐々部清で、「チルソクの夏」「半落ち」「夕凪の街 桜の国」「ツレがうつになりまして」など、日本の「良心的映画」の名匠。気負いなくストレートに作っていくので、技巧は感じないけど、素朴な感動がある。そういう映画が多い。山口県下関市の出身で、山口県を舞台にした映画が多い。萩を中心に、山口県各地でロケしていて、地方の落ち着いた美しい風景も心に沁みる。松下村塾など全国的な名所が一切出てこないところもいい。どっかでやってたら、カップルで見て欲しい映画。
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「ナラタージュ」、原作と映画

2017年11月04日 21時02分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「ナラタージュ」をそろそろ見ないと、上映スクリーンが少なくなってきた。行定勲監督、松本潤有村架純の主演で作られた恋愛映画。主演者の名前で見る人が多いんだろうけど、僕にとっては島本理生(しまもと・りお)の原作が好きだから見たい。だから客観的な評価は難しいので、雑多に感想を書くことにする。松本潤、有村架純というのは、これ以上ないぐらいのベスト・キャスティングという感じだけど、それでも原作のファンにはなんとなく違和感が残るかもしれない。

 映画の話を簡単に書いちゃうと、東京の話を富山に移している。あれ、海が見えるよ、電車もあるから江ノ電かななどと思うと、半分を過ぎると車のナンバーに「富山」と出てくる。えっ、日本海だったのか。ラストにうまく使われている電車は「万葉線」というんだそうで、これが効果抜群。運河沿いの建物なども生きている。学校が出てくる映画は、どこかでロケすることになる。学校そのものを大々的なセットで作るのは無理だから、どこかで借りることになって、地域の空気感が出てくる。
 (ラスト近くの万葉線シーン)
 その意味で、富山に移した映画作りは成功しているように思った。卒業間近の海辺の散歩など、ムードが出ている。冒頭で大学2年生になった工藤泉(有村架純)のケータイに葉山先生(松本潤)から電話がかかってくる。卒業以来の連絡で、一瞬心が止ってしまう。高校時代、居場所を失っていた自分に、演劇部という場所を与えてくれた先生。今年の演劇部は3人しかいないので、文化祭公演に卒業生の手助けが欲しいというのである。原作と違って、ここはシェイクスピアの「真夏の夜の夢」をやるという設定。これが意外にもセリフと状況がリンクして、効果を挙げている。

 僕は島本理生(1983~)の原作が2005年に出た時に、すぐに読んで参ったなあと思った。作者は2001年に「シルエット」で群像新人賞優秀作、2003年の「リトル・バイ・リトル」で芥川賞候補になったわけだが、その時点で都立新宿山吹高校に在学していた。新宿山吹高校というのは、日本で初めて作られた単位制高校である。僕は当時夜間定時制高校に勤務していたから、この島本理生という作家に関心を持って読んでいた。そのころ綿矢りさも高校生で作家デビューしていたが、東京を舞台にしている島本作品の方により近しいものを感じて、出るたびに読んでいたものだ。

 中でも「ナラタージュ」は初めての書下ろし長編小説で読みごたえがあった。だけど、出来栄えの問題以前に、高校の社会科教員で演劇部顧問という設定に参った。しかし、そういうのは「物語を推進する仕掛け」だから、まあ僕と似ているからと言って気にするほどでもない。でも、中に出てくる映画談義にはうなった。作者が繰り出してくる映画の題名が、ことごとくツボにはまるのだ。葉山先生の家には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のDVDがあったが、「先生、この映画嫌いだったんじゃないですか?」「それは妻のだよ」。深い事情あって別居している妻が先生にはあった。

 一方、ヴィクトル・エリセの映画もよく出てくる。小説では「ミツバチのささやき」が印象的に使われているし、映画では「エル・スール」の映像も出てくる。たまたま映画館で同時に見ていた。その映画館では「エル・スール」と「マルメロの陽光」をやっている。僕も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は好きじゃないけど、ヴィクトル・エリセは大好きだ。葉山先生は奥さんとではなく、泉との方がうまく行くんじゃないですか。コアなアート映画ファンにそう思わせる仕掛けが効いてる。

 だんだん判ってくるけど、二人はともに心に大きな欠損を抱えて生きている。工藤泉が葉山先生に惹かれたのは、居場所がなかったときに生きる意味を見つけられたから。一方、失意と混乱を抱えて別居して学校を代わった葉山にとっても、工藤泉の存在が教師としての存在確認になっていく。その意味で「相互依存」とも言えるような部分もある。映画の中で泉が成瀬巳喜男監督の「浮雲」を見る場面があるのが、監督の批評でもあるだろう。(ちなみに、エリセ特集をやってた映画館で、今度は「浮雲」「流れる」「女が階段を上る時」の成瀬監督三本立てをやってる設定。)

 この「腐れ縁」を描いた傑作映画を補助線に使うことで、監督は二人の関係を表しているのだと思う。お互いがお互いを必要としたのだから、これは「美少女がイケメン教師に憧れた」といった「禁断の恋」ものではない。だけど、それは同時に行き先がない道筋でもあった。教師と生徒だとか、妻との問題とか、そういう問題を離れて、少なくとも「物語」としては二人には幸福な結末は用意されないのではないだろうか。「先生に呼ばれた気がした」という名シーンが原作にも映画があるが、そのような一種スピリチャルな結びつきがこの二人にはあったのである。それはよく伝わってくる。

 「ナラタージュ」とは「映画などで、ある人物の語りや回想によって過去を再現する手法」である。映画でも、一番最初は映画配給会社に勤める泉が、懐中時計に触れて過去を追想することで始まる。回想された大学2年時から、さらに高校時代が再回想されている。この二重の時間の仕掛けによって、過去はそれぞれにとって改変されていくだろう。そのように回想された過去は誰にでもあると思うし、「本当の愛」があるとすれば、そういう場の中にしか存在しないのではないだろうか。

 その意味で大事なのは、高校時代の工藤泉の描き方だと思う。有村架純があまりにも魅力的に描かれてはダメなのである。実際はいかにも居場所を失ったといった虚ろなまなざしを、案外ブサイクな感じで演じている。こういう演出がうまいと思う。今回髪を切ってボブにしたと言ってるけど、今まではどんなだったっけと映像を探してみると以下のような感じ。最初が「ビリギャル」の金髪、次が「何者」の就活用写真、ついて「ひよっこ」が終わった時の写真。なるほど、いつもロングだ。
  
 行定勲(ゆきさだ・いさお)監督は、21世紀初頭の「GO」や「世界の中心で愛を叫ぶ」が有名だけど、僕はどっちもあまり好きではなかった。むしろほとんど評価されなかった「ロックンロールミシン」や「きょうのできごと」なんかが好きだった。久しぶりに本格的な長編映画を見た気がするけど、手腕は見事。来年公開の「リバーズ・エッジ」にも期待が高まる。脚本は堀泉杏。撮影は福本淳

 ところで、演劇部の活動を描いた映画としては、平田オリザ原作の「幕が上がる」がある。部活的リアル感では、そっちになる。というか、そもそも部活としてはおかしい。ほとんどの高校で、文化祭の出し物は演劇部の地区大会の演目でもある。だから、先輩が出演するなどありえない。(高校野球の予選に、選手が足りないからといって大学生の先輩を出せるわけがない。)大体、3人なら3人でもできる演目がないわけじゃないし、泉も3年で葉山先生がスカウトしてきた。照明や音響を誰がやってるのか知らないけど、要するに葉山先生も含めて「工藤泉に久しぶりに連絡するための仕掛け」と理解すればいいんだろう。大体、見てるときにはそんなことは考えないし。

 「社会科準備室」(高校から「社会科」がなくなってもう久しいのに、いまだに全国的に「社会科準備室」なんだよな)に、誰もいないのも不思議。理科の先生は、物理室、化学室、生物室なんて一人ずつ特別教室があったりするが、社会科系はまとめて一室だから、常にだれか他の先生がいる。面談もできやしない。そんなところに毎日行って、誰にも会わないのはおかしい。まあ、どうでもいいんだけど。それと葉山先生は担任ではないと言われている。だけど、成績は知ってるし、進路の相談に乗ってくれるという。物語の中の教師って、ほとんど校務分掌が出てこないけど、葉山は進路指導部プロパーだったのかなとそんなことも思った。
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「アウトレイジ 最終章」と北野武映画

2017年11月01日 22時48分35秒 | 映画 (新作日本映画)
 北野武監督の「アウトレイジ」シリーズ最終作の「アウトレイジ 最終章」が公開されている。作品的にはどうなのかなと思うところも多いけど、北野武監督の長年の活動に敬意を表して書いておきたい。「お笑いタレント」だと思っていた「ビートたけし」が、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」で俳優としてもすごいとビックリしたわけだが、ひょんなことから監督業にも乗り出し世界的な評価を受けるに至った。だけど、20世紀末の「キッズ・リターン」(1996)、「HANA-BI」(1998)が最高傑作で、21世紀になって作られた映画は作品的にも興行的にも今一つだった。

 まあ個人的には「DOLLS」や「アキレスと亀」などけっこう好きなんだけど、北野武監督がアートっぽく取ると興行的にこける。じゃあ「座頭市」(2003)や「龍三と七人の子分たち」(2015)なんかがいいかというと、僕にはやはり不満が大きい。そんな中で作られた「アウトレイジ」(2010)、「アウトレイジ ビヨンド」(2012)、「アウトレイジ 最終章」(2017)三部作は、多分この手の大型バイオレンス映画として、北野監督としてもだが、日本映画としても最後になるのかもしれない。

 〝Outrage”っていうのは、辞書を見ると「非道」「無法」あるいは「侮辱に対する激怒」って書いてある。もともと弱小暴力団の組長だった大友(ビートたけし)が使われるだけ使われて、最後には暴発していくという筋立ては共通している。「アウトレイジ」ほぼ関東最大の山王会の内部抗争を描いている。大友は死んだのかと思うラストシーンで終わるけど、「死んだはずだよ大友さん」だった。

 「アウトレイジ ビヨンド」になると、山王会に対して関西の花菱会が登場し、そこに警察の仕組んだ仕掛けで大友が登場する。この複雑な構図と殺害方法のバラエティで一番面白いと思う。やはり2014年のキネ旬ベストテン3位に選ばれただけのことはある。(まあ一作目も過小評価だったのではないかと思うが。)韓国系マフィアの大物、チャン・テソン(張大成)という人物が大友の後ろ盾として登場していた。「ビヨンド」のラストはえっと驚くものだったけど、その後はチャンの庇護のもとに入っていた。

 今回の「最終章」は済州島のリゾートで余生のように暮らしていた大友だけど、そこにトラブルが起こる。花菱会系列の花田ピエール瀧)が買春した女を傷つけてしまい、大友たちが出張ることになる。金で解決したはずが、花田はカネを払わず大友の部下を殺してしまう。日本に帰った花田は、相手が実は大物フィクサーのチャンにつながると知り大慌てで大金を持って東京へ向かう。それ以後、花菱会の内部抗争を描きながら、日本へむどった大友たちの復讐を描いていく。

 でも、まあやり過ぎと言いますか、もう最後だからか、ライフルを乱射するなどやり放題。「先の読めない」がウリだけど、もう前の2作を見てるから案外先が読める。花田という人物はシャブと振り込め詐欺で大儲けしてるとかで羽振りがいいけど、性欲を抑えられない人物でそれがアダになる。そこらへんも面白いと言えば面白いんだけど、やり過ぎ。花菱会の新会長は前会長の娘婿の元証券マンという設定はありえないでしょ。大友と手下の市川(大森南朋)だけが武器も豊富で無傷に復讐していく。

 だから前作に面白さは及ばないと思うんだけど、まあこの手のバイオレンスに拒否感がなければ楽しめる映画。北野武ももう70歳。それほど「体技」を披露できないのはやむを得ない。話がうまくできすぎなのは、エンタメ映画だからいいんだけど、達者な役者をそろえてる割りには演技合戦にならない感じだった。皆が期待しちゃうし、本人も大変だろうけど、僕は監督初期の「あの夏、いちばん静かな海」(1991)「ソナチネ」(1993)の頃の「静かで、変で、個人的な映画」に回帰して、好きなものを好きなように作って、まだまだ活躍して欲しいと思う。
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記録映画「まなぶ 通信制中学 60年の空白を超えて」

2017年10月28日 22時59分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 文化庁映画賞文化記録映画部門受賞作品の記念上映が行われた。大賞が「五島のトラさん」で、五島列島に生きた一人の男とその家族を22年も追いかけた記録。製麺業を営み、朝早くから7人の子どもたちを手伝わせて五島名産の手延べうどんを作っている。この子どもたちの育て方が強烈で、この子たちがどうなるか、目が離せない。優秀賞が「人生フルーツ」と「まなぶ」という映画。
 
 ここでは「まなぶ 通信制中学 60年の空白を超えて」について書いておきたい。サブタイトルを見れば判るように、これは「通信制中学」を取り上げてカメラで追い続けた記録である。東京では新宿のケイズ・シネマという映画館でモーニングショーで上映されたけど、僕は見過ごしていた。その時に映画のチラシを見るまで、僕は通信制中学というものがあることを知らなかった。

 中学や定時制高校の教員をしていた僕でさえ、一度もその存在を聞いたことがない。昔は80校もあったというけど、今は東京の神田一橋中学校と大阪の天王寺中学校しかないという。映画を見てると生徒数が少ない。監督によれば、教員も兼務でやってるんだという。夜間中学や定時制高校、通信制高校は、もちろん「専任教員」がいる。(授業時数が少ない教科は、非常勤講師だけど。)だから、教員にとっては「異動先」になるかもしれないから、存在を知っている。

 2010年に公開された「月あかりの下で」という夜間定時制高校(埼玉の浦和商業高校)の描いた映画があった。その映画を作った太田直子監督の最新作。2009年の映像から始まっているので、まだ前作製作中から取り始めていたわけだ。そして、途中で2011年の「3・11」直後の卒業式をはさみ、2016年に二人の卒業生が卒業していくところまでを扱っている。

 夜間中学を描いた森康行監督「こんばんは」という記録映画があった。あるいは山田洋次監督の劇映画「学校」でもいいし、僕も定時制高校の経験から言えることだけど、夜間中学の生徒には高齢生徒以外にも、10代の不登校経験者外国人生徒も多い。でも、この映画に出てくる通信制中学の生徒は何らかの事情でかつて中学に通えなかった経験を持つ高齢生徒ばかり。

 東京には夜間中学が8校ある。それで十分とは思わないけど、中学に行けなかった人には夜間中学という道があるということは知っている。でも、夜間中学というのは毎日行くべきものである。昼間と同じで、基本的には平日はずっと授業がある。でも、それでは行けない人がいる。例えば家で介護の必要な家族を抱えているような人。言われてみれば当たり前なんだけど、そこまではなかなか気づかない、気づけない。そうか、中学にも通信制が必要なんだと改めて気づかされた。

 高齢生徒ばかりである分、日本社会の貧困や差別がより伝わってくる。1947年の学制改革で、中学は義務教育となった。今年で70年という中学が各地にいっぱいあるだろう。だけど、その時に「義務」となりながらも、実際には行けなかった生徒がいっぱいいた。貧困のため、子守りなどの奉公に出されたといった女性が多い。今も80代以上の人にはそういう人がかなりいるのだ。

 あるいは、障害のために行けなかった人もいる。そういう人たちが何とか通信制中学という学び舎にたどり着いた。月に2回のスクーリング。それが楽しみで、実際の授業に通ってくる。そんな中で「まなび」に関する思いを交わしあう。勉強は役立つのか。勉強は面白いのか。何のために学ぶのか。学校での学びについての本質的な問題を、ここに通っている人たちが教えてくれる。

 それにしても、中学に行けなかったというそのことが、いかに戦後社会を生き抜くときにハンディとなって来たか。差別されてきたか。そんなことも考えさせられた。まったく存在も知らなかった学校が、大都会の一角で存在し続けている。テレビなどでも放送されて欲しいし、DVDなどで若い中学生にも見せたい。夜間中学についての映画(「こんばんは」や「学校」)はずいぶん授業でも取り上げたんだけど、通信制中学を知らなかったということに自分でもビックリである。
2017年11月19日(日)に、東京都中野区の「なかのZERO視聴覚ホール」で上映会がある。10時、12時、14時半の3回上映。前売800円、当日1000円。問い合わせ グループ現代)東京以外の上映情報は映画のホームページで。
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映画「あゝ、荒野」はすごい

2017年10月22日 18時34分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 寺山修司の長編小説を菅田将暉ヤン・イクチュン主演で撮った岸善幸監督作品「あゝ、荒野」。前後篇合わせると5時間もする長い映画だけど、ものすごい熱気と迫力に心打たれる映画だった。時代を60年代から21世紀に動かして、大震災から10年、東京五輪から1年という2021年に設定した。(後篇は翌年の2022年。)今以上に閉塞した「近未来」の社会で、もがく人々を描き出す。ネット配信中心の公開で、映画館の大画面で見られる機会は限られているようなので、要注意。
 
(淀川長治風に)
 「あゝ、荒野」如何でしたか? 凄かったですねえ。痛かったですねえ。でも、ホントはこの映画、怖い、怖い、怖い映画なんですねえ。2021年、日本にもテロが起こってるんですねえ。自殺する人も多いんですねえ。そんな時、新宿で知り合った恵まれない二人が、ボクサーを目指します。トレーニングを積んで、ついにプロボクサーになります。それで勝って、勝って、チャンピオンを目指すっていうのが、今までのボクシング映画。でも、この映画は違うんですねえ。(淀川風終わり)

 この映画のベースは、ボクシング映画。ちょっと細身の菅田将暉も半年に及ぶ肉体改造トレーニングで、どんどんボクサーみたいになっていく。韓国の映画監督、俳優のヤン・イクチュンも、内気で吃音の理髪師という難役を見事にこなしている。この二人のボクシングシーンは数あるボクシング映画の中でも出色の激しさだ。だが、ボクシングというスポーツを見ているというよりも、ほとんど生き方のぶつかり合いであるような設定が心に突き刺さる。

 ところは新宿。ラブホテルはそのまま介護施設になっている。そんな片隅にぼろい「海洋(オーシャン)拳闘クラブ」が時代に取り残されたように立っている。元ボクサーのユースケ・サンタマリアが選手を探していると、そこに沢村新次(菅田)と仁木健二(ヤン)が現れる。新次は父が自殺し、母に捨てられ、振り込め詐欺に関わり仲間うちの裏切りで捕まり、少年院を出てきたばかり。裏切って友人を障がい者にした裕二(山田裕貴)に復讐をしたいが、今はボクサーになった裕二にかなわない。健二は吃音と対人恐怖で人と交われないまま生きてきた。韓国人の母が死ぬと、日本人の父に連れて来られて日本に住むが、元自衛官の父の暴力に耐えかねていた。

 という「超訳あり人生」の二人が、プロボクサー「新宿新次」と「バリカン健二」となって、どのように生きていくか。後篇ではついに「宿敵」の裕二と新次戦が組まれる。しかし、新次が兄貴と慕うバリカンは、自分を見つめなおすために、あえて他のジムに移籍し、新宿新次との対戦を望むのだった。という壮絶なボクシング試合が後篇に出てくる。これはどうやって撮ったんだというほどの迫力で、5日間続けて撮影されたという。何台ものカメラでドキュメント風に撮影され、痛みが見るものに伝わる。

 そういうボクシング場面の中に、新次をめぐる人々が描かれる。また、「自殺防止委員会」を名乗る活動を続ける人々が描かれる。バリカン健二の父は、かつて自衛隊の海外派遣時に暴力をふるい多くの人々を自殺に追い込んだと非難されていた。その一人が新次の父だった。今は病気を持って、自殺を願っている。そういう人々を救おうとする「自殺防止委員会」の活動は、ついにある日の一大イベントに至る。その頃に日本では、「社会奉仕プログラム法」ができていて、多額の奨学金に苦しむ人が自衛隊や介護施設で働くと減額される仕組みが出来ていた。「経済的徴兵制」と呼ぶ反対運動が盛んに行われている。後篇ではついに政府が「社会奉仕」を志願から義務にしようとしている。

 新次が新宿で知り合った曽根良子木下あかりの大熱演)は、被災者である。10年前の大津波で家を失い、その後「仮設」で暮らしてきたが足の悪い母を置き去りにして新宿に出てきた。体を売ったりして最底辺で生き抜いてきて、新次と知り合った。新次は彼女を大切にしながらも、時にはボクシングのためにおざなりの対応を取る。たまにはどこかへ行きたいと訴え、バリカンを含め三人で海へ行くシーン。津波で唯一残った小さな赤い靴を投げ捨てるが、波に揺られて戻ってくる。

 この映画の迫力はどこから来るのだろうか。寺山修司の原作は読んでないけど、このような複雑な人間関係を描くのではなく、もっと詩的な小説でバリカンが主人公なんだという。それを21世紀に移したことで、「仲間殺し」の社会というテーマがくっきり立ち上がってきた。永山則夫の犯罪が「仲間殺し」だったように、この映画に出てくる人々はみな連帯するのではなく、仲間どうしで傷つけあって生きている。その息苦しさ、苦しさが見ているものにも伝染するかのごとき、つらい映画である。だけど、それでも肉体で何ごとかを表現しようとした新宿新次とバリカン健二の苦闘を通してしか、僕らの未来は見えてこない。そういう力強い肉体のメッセージを発しているのがこの映画だと思う。

 ラストの新次とバリカンの長い長い闘いは、まさに生きる苦しさが伝わってくる。映画内で彼らを見ている人々も、皆泣いている。実際に撮影していたスタッフも、泣いて見ていた。それほどの苦しい映画だし、見ているこちらも辛くて、怖くて、見続けるのが大変だ。まあ、ホントに打ち合っているわけではないわけだが、これが映像の表現力だろう。岸善幸監督(1964~)はテレビマンユニオンでドキュメンタリーを作っていた人で、劇映画は昨年の「二重生活」がデビュー作。原作に寄りかかっている感じで、僕は途中でどうもを思い始めたのでここでは書かなかった。(門脇麦はなかなか良かったけど。)今回は良かったと思う。まあ、ネット配信を考えたか、クローズアップの多い手法に少し違和感もあるけど、逆に心に訴える迫力が増しているかもしれない。
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阪本順治監督「エルネスト」

2017年10月12日 21時11分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 「エルネスト」という映画が公開された。近くのシネコンでは、公開2週目でもうほとんど上映がなくなっちゃうので、珍しくすぐに見に行った。他のヒットしている映画は後回し。なんだか寂しいほどの人数しかいなかったし、僕も傑作だとは言わないけれど、題材が興味深いので簡単に紹介。

 「エルネスト」と言えば、エルネスト・チェ・ゲバラだと思い浮かばない人には、この映画は関係ない。でも、正史ともいうべきソダーバーグの「チェ」2部作、あるいは若き日のゲバラを描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」などがあるのに、またゲバラの映画を何で日本で作ったのか。と思うと、この「エルネスト」という題には二重の意味があった。これはフレディ・マエムラ(前村)という日系ボリビア人の物語なのである。彼はキューバに医学の勉強に行き、ボリビアに革命戦士として帰った。

 このフレディをオダギリジョーがやっていて、キャストの中でただ一人の日本人という難役にスペイン語で奮闘している。フレディはボリビアで反体制とみなされ大学へ進学できない。そこでキューバの奨学金を得てハバナ大学へ行く。そこで様々な出会いを経ながらも、祖国ボリビアで軍事クーデタが起こると帰国してゲリラを目指す。大学にはゲバラフィデル・カストロ(どっちもそっくりさんが演じている)、学生の悩みを聞きながら気さくに応答している。

 冒頭に「日本・キューバ合作映画」と出る。キューバとの合作なんて「キューバの恋人」(1969、黒木和雄監督)以来だろう。そこでキューバロケも可能になり、魅力的なキューバの様子を見ることができる。だけど、ゲバラやカストロは今や「伝説的偉人」であり、キューバでは革命体制の建設者である。そのゲバラに従ってボリビアに帰ったフレディも、偉人化されるのは仕方ないのだろうか。まるで映像で顕彰するかのように、画面がクローズアップされていく。ちょっと参った。

 脚本・監督は阪本順治で、阪本監督は「どついたるねん」「」など傑作も作っているが、結構外すこともある。前作「団地」もオイオイという展開にあ然としたが、今回はあ然とする箇所もなくストレートに立派な人物なので、これも困った。ちょっと聞くと波瀾万丈な人生なんだけど、医学生としても優秀、ゲリラとしても強健でいうところなし。だがゲリラ活動を始めて間もなく捕まって殺される。案外淡々としているので、どうもこの映画も外したかな、否定的要素のどこにもない主人公ってどうなんだと思う。

 冒頭、1959年にキューバ代表団として来日したゲバラが出てくる。外務省へ電話があり、日本政府は止めて欲しかったのに、ゲバラは勝手に大阪から広島へ向かったという。ゲバラが広島を訪問したことがあるという話は知っていたけど、細かい事情は知らなかった。ゲバラなんて誰も知らなかった時代である。そして彼は何を見て何を感じたのか。この冒頭シーンは必見だと思う。最近の様々なニュースを思い浮かべて、胸に刺さるものがある。そしてゲバラはキューバ危機に際して世界に訴える。「核戦争に誰も勝者はいない」と。これこそ日本映画が世界に発するメッセージである。
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是枝裕和監督「三度目の殺人」

2017年09月21日 22時23分18秒 | 映画 (新作日本映画)
 是枝裕和(これえだ・ひろかず 1962~)監督・脚本の新作「三度目の殺人」。題名通り、殺人事件とその後の裁判を描き、それを通して「人間存在の不可思議」に目を凝らしている。今年屈指の力作だと思うが、なんかザラザラと残り続けるものもあり、大傑作と太鼓判を押せるかとためらう部分も…というような映画体験だ。拘置所での弁護士(福山雅治)と被告人(役所広司)の面会シーンが何回もあるが、すごい緊迫感。それだけでも見る価値がある。役所広司はやはり素晴らしい。
 
 冒頭で役所広司(あとで三角高司という名前と判る)が誰かの頭を殴りつけている。寅さんシリーズのように、冒頭シーンは夢だというお約束の映画もあるけど、普通のリアリズム映画がほとんどの是枝作品だから、三角高司の「犯人性」は疑えないはずである。続いて、弁護士の重盛福山雅治)が他の弁護士とともに三角の面会に行く。修習同期の摂津吉田鋼太郎)が担当していたが、三角の供述がコロコロ変わるので、対応が難しいということで、重盛に手助けを頼んだのである。重盛は若いイソ弁の川島満島真之介)を連れ、三人で面会に赴くわけである。

 というあたりから、画面にはずっと強い緊迫感が漂い続け、一瞬も気が抜けない。だんだん判ってくるけれど、三角は過去にも殺人事件を起こしていて、その時の裁判長が重盛の父親(橋爪功)だった。北海道の留萌(るもい)の事件で、被害者二人の放火殺人だというから、死刑でもおかしくない。というか、多くの場合は死刑だろう。その時死刑にしていたら、今回の事件はなかったと裁判記録を持って上京した父親は言う。無期懲役で仮釈放中の強盗殺人ならば、今回は死刑不可避だろう。

 ところで、被害者は誰かというと、被告を雇っていた食品会社の社長だという。三角はそこを解雇されたばかりだった。弁護士として検察に対抗するとすれば、「強盗殺人」を単なる「殺人」と「窃盗」にするしかないだろうと重盛は主張する。確かに社長の財布が狙いだったかには疑問もあった。刑事事件の弁護士は、検察主張のあらを探して少しでも被告人の刑を軽くするのが仕事。重盛はそう割り切っていて、三角にもそのような主張を法廷で通すのように求める。

 こうして話は法廷へ移るかと思うと、二転三転、何が「真実」なのかという展開になっていく。週刊誌は「社長の妻に頼まれた保険金殺人」と書き立てる。その証拠と言えなくもない「謎のメール」も残っていた。一方、現場の河川敷へ行くと、そこに若い女性がいる。被害者の家を訪ねると、その女性は被害者の娘、山中咲江広瀬すず)と判る。彼女の登場で、事件は全く新しい様相を見せるが…。

 法廷ドラマだから、これ以上はここでは書かない。是枝監督はどんな題材を作っても安定した技量を発揮する段階になっている。最高傑作「誰も知らない」(2004)以後で見ると、「歩いても歩いても」(2008)、「そして父になる」(2013)、「海街diary」(2015)などがある。デビュー作「幻の光」(1995)には見られたぎこちなさはどこにもない。となると、後は好き嫌いや映画内の世界観の評価になる。

 「空気人形」(2009)はファンであるぺ・ドゥナが出ている以外、どうにも面白くない。一方、「奇跡」(2011)は話は小さいけれど、気持ちいい出来栄え。前作「海よりもまだ深く」(2016)は実によく出来ているんだけど、阿部寛のだめ男ぶりがあそこまで徹底してると、どうにも見るのが辛くなってくる。福山雅治が出た「そして父になる」も映画の出来は確かに素晴らしいけど、じゃあ何なんだ的な気持ちも起きてしまって、僕はブログには書けなかった。傑作でもそういうことがある。

 今回は弁護士の仕事を割り切って考えている重盛が、次第に事件の奥深さにのめり込むところが見どころだ。裁判は「一種のゲーム」であるのは間違いない。原告、被告双方の「証拠」をどう評価するべきかをめぐる「ゲーム」である。だが、「証拠」と言っても裁判官が「証拠採用」して初めて「証拠」になるわけで、客観的なすべての事実が法廷に出てくるわけではない。多くの冤罪事件では、「検察官が手元に無罪の証拠を隠し持っていた」というケースさえある。

 それに「事実」をいくら積み上げても、それが「真実」になるかというとそこは判らない。「神の目」で見るようなことは人間にはできない。この映画では、ほぼすべてが重盛弁護士の行動を描写している。まあそれは福山雅治のスター性でもあるだろうけど。ところが、冒頭シーンや途中に出てくる「被害者家族の会話」のような、重盛が知るはずもないシーンがある。それなら、監督が「神」になって、すべてを観客に見せるタイプの映画かというと、それが違う。

 どうもそのあたりが、この映画に残るザラザラ感、どう評価するべきか迷うところなのかもしれない。当初は被告人・三角が何を考えているのか判らず、実に不気味である。そして、「判らない」という点に関しては、最後の最後までよく判らない。だけど、「不気味さ」は次第に薄れてくる気がする。被害者家族の事情、ひたすら重刑を求める検察官、事件処理を急ぐ裁判官などを見ていくとも、同じく「不気味」というしかない気もしてくる。人間存在そのものが不気味なのか?

 刑余者を雇用する「篤志家」と思われていた被害者の社長も、違う側面を持っていたようだ。だけど、殺していいのか。昔の事件も「動機」がよく判らなかったという。その事件で死刑だったら、その方が良かったのか。人間は変わり得るか。それともすべては運命なのか。三角は「刑務所内と違って、外は『見て見ぬふり』をしなくちゃいけないから辛い」と言う。この人は現世では生きがたい性を持っていたのだろう。この事件をめぐってどんどん深く考えるべきことが出てくる。そこが面白い。だけど、重いテーマではある。「重いから、面白い」。そして思う、この題名の意味は何だろう?
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映画「海辺の生と死」-島尾ミホ、戦争と愛の神話

2017年08月22日 22時47分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 島尾ミホと夫の島尾敏雄のいくつかの短編をもとにした映画「海辺の生と死」が公開されている。25日までなので何とか時間を作って見に行った。(新宿のテアトル新宿)文学的知識を前提にするところもあるけど、なんといっても主演トエ役の満島ひかりが圧倒的で、それだけでも見る価値あり。

 いま「文学的知識」と書いたのは、これは後に有名な作家となる島尾敏雄(1917~1986)の戦時中の実話だからである。彼は九州帝大の東洋史の学生だったが、召集されて鹿児島県奄美群島加計呂麻(かけろま)島に、「震洋」特攻隊長として配属された。全く無意味な兵器による死を目前にし、彼は島の有力者の娘で国民学校の教師をしていたミホと知り合い、激しい恋愛に陥る。

 以上のところが映画化された部分だけど、結局進撃命令が下る前に敗戦を迎え、敏雄は生き残った。奄美群島は米軍の占領下におかれ、その厳しい時代にミホは「密航」して本土に渡り、二人は結婚する。子どももできるが、新進作家として認められつつあった敏雄が「不倫」をしたことで、ミホは心を病んだ。その体験を敏雄は「死の棘」として作品化して作家として評価された。

 「死の棘」連作は1977年に完結し、戦後文学の代表作と言われる。小栗康平監督が1990年に映画化し、カンヌ映画祭グランプリを獲得した。だから「海辺の生と死」は映画「死の棘」の前日譚ということになるけど、この映画を見るときにはそこまで知らないでも見られるだろう。でも原作を読んでる人は、以上のような道筋を承知してみることになる。

 この映画は全編にわたって、戦時中であるという強い緊張感に満ちている。あまりカットを割ることなく、風景の中で展開されるドラマを静かに見ているシーンが多い。特にミホ(役名トエ=満島ひかり)と敏雄(役名朔中尉=永山絢斗)が二人で演じる場面が長く、見るものに深い印象を残す。(何やらこの二人には実際の交際もあるということだし。)朔中尉は軍人らしからぬ静かな読書家で、その優男ぶりをうまく演じている。本を借りに、島の有力者を訪れたことで二人は知りあう。

 僕は満島ひかり(1985.11.30~)という女優は、多くの人がそうだったように「愛のむきだし」で覚えた。その後、映画、テレビ、舞台で大活躍が続いているが、特に大ファンということでもないので、ルーツなどの情報は知らなかった。この映画のパンフを見ると、鹿児島生まれ、沖縄育ちだが、奄美にルーツがあるという。映画の中で島唄を歌っているが、なにやら自然な感じがすると思ったら、キャスト・スタッフの中で唯一の奄美関係者だった。南島の自然の中で、自然信仰的な文化を生きているミホを全身で演じている。若い時期の集大成で、代表作になるのではないか。

 撮影や音楽も印象的だが、素晴らしいのは風景そのもの。実際の話は加計呂麻島だが、もう当時の家は残ってなくて、奄美大島各地で撮った。現地で作ったセットもあるが、トエの家なども実際のものを使ってるという。加計呂麻島は奄美大島のすぐ南にある島だが、集落ごとに言葉も微妙に違うらしい。奄美大島でも南北でかなり違うと書いてある。そこで敏雄・ミホ夫妻の子どもである写真家島尾伸三氏が協力して伝授した独特なイントネーションを満島ひかりが自在に操っている。

 僕は「死の棘」が出た時に単行本で読んだが、その時に戦争文学「出発は遂に訪れず」「島の果て」なども読んだ。鮮烈な印象を受けたが、その時点では島尾ミホ(1919~2007)の本は読んでない。(「海辺の生と死」は1974年に出ている。現在は中公文庫。)だから、男の立場からこの物語を読んだわけだが、そうすると「いつ死ぬとも判らない戦時中の愛の神話」に見える。だが、「隊長が島の有力者の娘を愛人にした」とみなされる面もあるだろう。島の側からすれば、圧倒的な権力を持って現れた「軍人」が島の娘を奪っていった物語である。そういう「読み直し」がこの映画でもある。

 でも大平ミホは島に隠れ住む「箱入り娘」ではなく、もともと鹿児島で生まれ、実父の姉夫婦の養女になって加計呂麻島に住んだ。その後東京に出て、目黒の日出高等女学校を卒業し東京で勤めた。体調を崩して退職し、当時の婚約者のいた朝鮮に住み、やがて加計呂麻島に移った。養母が亡くなった後に1944年11月に国民学校の代用教員になり、12月になって島尾敏雄が駐屯してきた。ちょっとビックリするが、長年の教員でないばかりか、ずっと島にいたわけでもない。なんと東京の女学校卒業だったのである。このような経緯を知ると、軍人と一緒になって島を出るのも不思議ではない。

 この映画を見ると、島で自然と共に生きる人々、彼らを翻弄する戦争という悲劇に、二度と戦争はいけないという思いになる。と同時に、戦争が終われば日常が戻る。戦時に芽生えた緊張感の中の「愛の神話」は、そのままでは生き延びられない。その時、もう一つの「病む妻を抱えて生きる」という「神話」が作られる。昨年、島尾ミホを描いた大部のノンフィクション、梯久美子の「狂うひと」が出た。この映画にも梯氏が関わって、監修をしている。

 監督・脚本の越川道夫(1965~)は、どういう人だろうという感じだが、監督は「アレノ」(2016)に続く2作目。1997年に映画配給会社「スローラーナー」を設立、その後プロデューサーとして、「トニー滝谷」「海炭市叙景」「ゲゲゲの女房」「かぞくのくに」などの話題作を作ってきたという。独特の映像感覚と演出ぶりに注目。奄美の自然と唄が忘れられないが、人により好き好きもあると思う。そもそも原作の二人を知ってるかどうかにも影響されると思う。でもこういう映画は僕は好きだ。けっこう長いが、もう一回見たい映画。脇役としてはトエの父、津嘉山正種もいいけど、隊長とトエを結ぶ「イル・ポスティーノ」(郵便屋)の大坪を演じた井之脇海がとても良い。
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映画「彼女の人生は間違っていない」

2017年07月25日 23時01分08秒 | 映画 (新作日本映画)
 「彼女の人生は間違っていない」という映画が公開されている。映画監督の廣木隆一が初めて書いた小説を自分で映画化したもので、東日本大震災の大津波福島第一原発事故を背景にした物語である。これはやっぱり紹介しておきたいと思う。廣木監督の「問題作」と言ってよい映画。

 ちょっとウィキペディアから筋を引用しておくと、「仮設住宅で父と2人で暮らすみゆきは市役所に勤務しながら、週末は高速バスで渋谷に向かい、デリヘルのアルバイトをしている。父には東京の英会話教室に通っていると嘘をついている彼女は、月曜になるとまたいつもの市役所勤めの日常へと戻っていく。福島と渋谷、ふたつの都市を行き来する日々の繰り返しから何かを求め続けるみゆき、彼女を取り巻く未来の見えない日々を送る者たちが、もがきながらも光を探し続ける姿が描かれる。」

 ということで、津波で祖母と母を失い、原発事故でいわき市に避難している女性が、週末ごとに東京へ高速バスで来て「デリヘル嬢」をしている。父親は毎日のようにパチンコ屋に行き、娘からは「補償金をパチンコで無くすつもり?」と問い詰められる。そんな日常をていねいに描いていく。表面的に見れば「彼女の人生には間違いがいっぱい」にも見えるんだけど…。

 原発事故直近地域のようすが出てくる。一方、バスで東京駅に着いた彼女は地下鉄で渋谷へ出て、今や世界的名物のスクランブル交差点を渡って「デリヘル」事務所へ行く。その対照的なありように、もちろん知識としては知っているわけだけど、一種衝撃を受ける。再びやり直したいと連絡してくる地震当時の彼。仮設住宅の隣人のおかしな言動、デリヘル嬢の連絡管理をしている男、様々の登場人物が出てくるが、結局は主人公の「みゆき」とその父の存在感が圧倒的だ。

 「みゆき」は瀧内公美という人で、あまり意識してなかったけど僕も何本か見ている。大変な力演で、それはセックスシーンも多いんだから大変だろうと思うけど、むしろ家族の日常なんかがけっこう難しそうだ。でも現実感がある。一方、東京のシーンにリアリティがあるかどうかは、僕にはよく判らないけど、瀧内公美の演技には「間違っていない」感を感じる。

 父親は光石研で、最近はなんか「たよりにならないお父さん」役を一手に引き受けている感じだが、デビューの「博多っ子純情」の時は中学生だったんだから、お互いに年を取ったなあという気がしてしまう。「酒とパチンコの日々」の裏に潜んでいた感情がラスト近くで沸騰してきて、見る者を圧倒する。他にも高良健吾、柄本時生、蓮佛美沙子などが印象的な役どころを熱演している。

 廣木隆一監督(1954~)はピンク映画出身だけど、一般青春映画「800 TWO LAP RUNNERS」(1994)でブレークした。その後、最高傑作「ヴァイブレータ」(2003)の他「さよなら歌舞伎町」(2015)などがある。最近では「ストロボ・エッジ」「オオカミ少女と黒王子」「PとJK」などアイドル映画のような作品を安定して量産している。でもホントに作りたいのは今回の映画のようなもんだろう。セックスを見つめた映画に傑作が多いのも特徴かもしれない。

 最後にまた書くけど、ホントに「彼女の人生は間違いじゃない」のかどうかは僕にはよく判らない。この映画を見ていても判断はできない。ただ、どうにもならないことを抱えている人は「ネガティブ・ケイパビリティ」という気持ちでずっと見ているしかないなと思う。福島と東京、重い現実と不可思議な人間を見つめる映画。僕はそういうテーマ的な側面よりも、廣木監督のリズムは割合と僕に合っているから好きである。手持ちカメラを中心にした映像で、登場人物に寄り添うように動く映像を見ていると、人生はこういうものなのかもと思ってしまうのだった。
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「でんげい」でわかること-部活映画の構造②

2017年04月24日 22時51分18秒 | 映画 (新作日本映画)
 ドキュメンタリー映画「でんげい~私たちの青春~」という映画が新宿のケイズ・シネマでモーニングショーされている。(28日まで、朝10時20分のみ)これは大阪の建国高校という韓国系の学校の「伝統芸能部」が全国高等学校総合文化祭(高校総文)に出た時の記録である。非常に面白くて是非多くの人に見てもらいたい作品だけど、上映が少ない。今後の各地での上映に期待したい。

 どっちかというと、社会問題的な関心もあって見たんだけど、これはすぐれた「部活映画」になっていた。しかし、その話をする前に少しいくつかの説明をしておきたいと思う。まず、この映画だけど、これは韓国のMBCテレビのチョン・ソンホという人が作ったテレビドキュメンタリーだという。それが2016年の大阪アジアン映画祭で「いばらきの夏」の題で上映された。正式な公開を望む声が高まり、あらためて「でんげい」とタイトルを変えて公開されている。

 旧題名にある「いばらき」は、2014年の高校総文が開催された茨城県のことである。ちょっと総文祭の説明をすると、1977年から開催されている全国の高校文化部の祭典である。毎年夏に開かれ、今年は宮城県で行われる。運動部の全国高校総合体育大会(インターハイ)に対して、文化部のインターハイなどと呼ばれ、最近は知名度も上がってきた。

 細かくなるけれど、毎年行われている部門を紹介すると、演劇、合唱、吹奏楽、器楽・管弦楽、日本音楽、吟詠剣詩舞、郷土芸能、マーチングバンド・バトントワリング、美術・工芸、書道、写真、放送、囲碁、将棋、弁論、小倉百人一首競技かるた、新聞、文芸、自然科学の19部門ある。書き写していて、こういうことをやっている高校生がいて、全国大会もあるんだということに心が揺さぶられた。(なお、演劇、日本音楽、伝統芸能部門の優秀校は、8月末に東京の国立劇場で上演される。)

 ちょっと細かく書いてしまったけど、この総文祭には文化部独特の悩みもある。運動部の場合、例えば野球部だったら、甲子園を目指す地方大会が終われば、普通は3年生は引退していく。勝てばその夏の甲子園である。一方、文化部の場合、多くは秋に大会がある。夏休みがないと、大会に出すだけのものを作れない。全国を目指すような部は別にして、多くの高校では秋の文化祭に発表することが当面の目標だろう。ということで、地方大会で優秀校に選ばれても、全国総文祭は次の夏であり3年生は卒業している。大会出場を勝ち取った先輩がいなくなり、代わりに1年生が出ることもある。

 「でんげい」で出てくるのは、まさにその悩みである。誇りを持って伝統芸能部に入部したけど、それにしても夏に全国とは大変だ。そういう悩みをていねいに追っている。ところで、この「学校法人白頭学園建国高等学校」とは何だろうか。関東圏の人はほとんど知らないだろう。調べてビックリしたことに「韓国人学校」ではない。もとは確かに戦後に作られた民族学校なのである。日本にある「外国人学校」「インターナショナル・スクール」はほとんどが法的には「各種学校」である。(東京韓国学校もそうである。)でも「建国高校」は学校法人を設立し、正式に日本の私立高校となった。だから高校を卒業すると、日本の大学はもちろんだが、韓国の延世大や高麗大、梨花女子大などにも進学している。

 「日本の高校」なので、当然日本の検定教科書を使って学習するが、韓国語、韓国文化も学習する。幼稚園からあって、小学校では1年から英語を学習し、「トリリンガル」として英・韓・日の三か国語を使える人材を育てるという。ほう、そういう学校があったのかと思って、これもまたつい細かい説明をしてしまった。映像を見ると、親にも日本人や中国人もいる。基本は韓国系の学校なんだろうけど、単に民族教育を行うことを目標とする学校ではない。そういう中で「伝統芸能部」があるのである。

 全国大会に出る郷土芸能は、和太鼓や民謡、舞などがほとんどである。(和太鼓部門と伝承芸能部門がある。)当然そうなのだが、そこに韓国の伝統芸能が出る。それを他の学校も当然のように受け入れている。(最初はどうだったか知らないけど、今は毎年出てくる名門校なので、驚きはないだろう。)この映画でも、そういう活躍をしている在日同胞がいるんだと遠くから応援するようなスタンスで見ている。当日までには、苦しいこと、悩むことも多い。そういう青春ドラマを心を込めて撮影している

 部員が取り組んでいるのは、「地神パルギ」という厄払いの伝統芸能である。それと「サムルノリ」と呼ばれるようになったもの。今ではほとんど「伝統芸能」の一般名詞になりつつある感じだけど、元は70年代に結成された創作パフォーマンス集団である。伝統的な農楽をもとに、伝統楽器を4つ(ケンガリ、チン.チャング(長鼓)、プク)用いて、踊って声も出すから大変だ。それと白い細長いひものついた「サンモ」という帽子をかぶる。昔何度か見たものだが、このひもの動きが魅力的だった。首を回しているのではなく、膝でリズムを取るんだという。

 五月の連休には先輩もやってきて、柔道室に泊まり込んでが合宿が行われる。そこから夏の全国大会までのドラマは、一言でいうと「チア☆ダン」と同じと言える。技量の差、家族の支え、だんだんうまくなるが、指導者に厳しく叱られる、繰り返して練習する、最後には「突き抜けた」境地に達して何かをつかむ。基本的に「ダンス映画」であるという点で共通しているのである。

 ところで「伝統芸能」と言っても、「サムルノリ」に始まる現代音楽とも言える。ここで行われているのはある種の「作られた伝統」ではないかと思う。それは日本の伝統として行われる「和太鼓」も同じで、この部門は最初から創作も認められているという。和太鼓の勇壮な連打が「伝統」としてあった地区は少なく、鬼太鼓座などから影響されて高校でもやっていると思う。数十年前まで日本人の中で生きていた「伝統芸能」とは、小唄、長唄、義太夫、都都逸、浪花節なんかだと思うけど、さすがに今の高校生でやっているところはないだろう。それでいいんだと思うし、さまざまな「伝統」を認め合う多様性が日本の教育の中にあることがいいと思う。
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